p.1171 德ハ、メグミト云ヒ、ウツクシビト云ヒ、又イキホヒトモ云フ、卽チ善美正大ノ稱ニシテ、專ラ人ニ惠ヲ施シ、又ハ人ノ其恩ニ感ズル等ノ事ヲ謂ヘリ、
陰德ハ、陰ニ德行ヲ爲スヲ謂ヒ、公益ハ公共ノ爲ニ利益ヲ計ルヲ謂フ、井ヲ穿チ、道ヲ修シ、橋梁ヲ架シ、渡船ヲ儲クルガ如キ、卽チ是ナリ、
p.1171 德〈多勅反 メクム和トク〉
p.1171 德化 德望 德澤
p.1171 德義(トクギ)〈朱子云、躬行有レ得、謂二之德一、〉 德行(トクカウ)
p.1171 己未年三月丁卯、下レ令曰、〈○中略〉上則答二乾靈授レ國之德(ウツクシヒ)一下則弘二皇孫養レ正之心一、〈○下略〉
p.1172 六年、百姓流離、或有二背叛一、其勢難二以レ德治(ウツクシヒヲ)一之、 十二年三月丁亥、詔、朕初承二天位一獲レ保二宗廟一、明有レ所レ蔽、德不(イキホヒモ)レ能レ綏、是以陰陽謬錯、寒暑失レ序、〈○下略〉
p.1172 夫心ニ疑ナキハ智也、心ニヨク分別シテ、後悔ナキハ仁也、心剛ニシテツヨキハ勇也、此智ト仁ト勇トハ聖人ノ三德也、故ニ論語ニ、孔子ノ、智者ハ不レ惑、仁者ハ不レ憂、勇者ハ不レ懼トイヘルハ是也、
p.1172 三種の神寶をさづけまします、〈○中略〉又大神御手に寶鏡をもちたまひ、皇孫にさづけてほぎて、吾兒視二此寶鏡一當レ猶レ視レ我、可三與同レ床共レ殿以爲二齋鐃一、とのたまふ、八坂瓊の曲玉、天の 雲の劒を加へて三種とす、〈○中略〉この三種につきたる神勅は、まさしく國を手持ますべき道なるべし、鏡は一物をたくはへず、私のこゝうなくして万象を照すに、是非善惡のすがたあらはれずといふことなし、そのすがたにしたがひて、感應するを德とす、これ正直の本源なり、玉は柔和善順を德とす、慈悲の本源なり、劒は剛利決斷を德とす、智惠の本源なり、この三德を翕受ずしては、天下のをさまらんこと、まことにかたかるべし、神勅あきらかにして、詞つゝまやかにむねひろし、あまつさへ神器にあらはしたまへり、いとかたじけなきことにや、
p.1172 亦曰、伊弉諾尊功旣至矣、德亦大矣、於レ是登レ天報命、仍留二宅於日之少宮一矣、
p.1172 養老四年八月三日、右大臣藤朝臣不比等薨、春秋六十三、贈二太政大臣一、諡號二淡海公一、延曆僧錄云、淡海公事レ父能盡二其孝一、事レ君能盡二其忠一、忠孝居レ懷、家國何爽、勤レ王奉レ佛、眞俗無レ違、恤レ寡哀レ孤、事亦同レ古、治レ國一年、風不レ鳴レ條、雨不レ破レ塊、治レ國二年、耕者讓レ畔、行者讓レ路、治レ國三年、路不レ拾レ遺、治レ國四年、謳歌滿レ路、治レ國五年、變二戎衣一而爲二禮衣一、治レ國六年廻二賊臣一而爲二孝子一、遂得二君王下顧黔黎戴仰一、〈已上出二延曆僧錄一〉
p.1172 弘仁三年十月辛卯、右大臣從二位藤原朝臣内麻呂薨、〈○中略〉奕世相家少有二令望一、德量温雅、士庶悦服、大同初拜二大納言一、兼二近衞大將一、其年轉二右大臣一、近衞大將如レ故、任兼二相將一、經二事三主一、皆 被二信重一、上有レ所レ問、不二希レ指苟合一、如或不レ從、不二敢犯一レ顏、凡典二樞機一十有餘年、靡レ有二愆失一、昔日庶人他戸爲二皇太子一時、桀跖之性好、害二名流一、有二一惡馬一馭必踶囓、太子令二内麻呂乘一、快レ見二傷損一、惡馬低レ頭不レ動、被レ鞭廻旋、時人以爲二非常之器一、
p.1173 承和三年四月丙戌、散位從四位下甘南備眞人高直卒、〈○中略〉天長三年、除二常陸守一、遭二訪採使一、緣二前司犯一、被レ停二釐務一、吏民感二其德化一、競遺二資用一、嵯峨太上天皇復垂二眷憐一、使下以二莊家物一任中其所用上、 文德實錄三仁壽元年二月丁卯、正三位藤原朝臣貞子出家爲レ尼、貞子者先皇〈○仁明〉之女御、風姿魁麗、言必典禮、宮掖之内、仰二其德行一、先皇重レ之、寵數殊絶、雖レ有二内愛一、必加二外敬一、 九月乙未、散位從四位下藤原朝臣岳守卒、岳守者從四位下三成之長子也、天性寬和、士無二賢不肖一、傾レ心引接、〈○中略〉嘉祥元年出爲二近江守一、人民老少倶皆仰慕、
p.1173 齊衡元年十月庚申、正五位下備前守藤原朝臣大津卒、〈○中略〉天長三年叙二從五位下一爲二備後守一、頗有二聲譽一、民庶歌レ恩、〈○恩原作レ思、據二一本一改、〉
p.1173 天安元年十二月戊子、散位從四位上淸原眞人有雄卒、〈○中略〉有雄頗有二風操一、尤習二政理一、〈○中略〉十一年〈○天長〉爲二攝津守一、政有二聲譽一、黎庶悦服、國内安靜、倉廩盈溢、〈○中略〉仁壽四年叙二従四位上一卒百姓老少哀慕罔レ極、
p.1173 公在二備前一、德化仁政、一如下在二備中一時上、凡厥僚下、若有二姧賊一者、曾無レ所レ發二明其咎一、卽竊於二間處一相語云、君久疲二學官一、初得二此官一、必當下立二其廉節一、勉取中榮譽上、豈可レ思二滯一州小吏一乎、然而上資二父母之供養一、下給二妻子之飢寒一、撓レ性屈レ心、受二此濁穢一、斯皆貧窶之憂、覊累二善人一、僕有二薄俸一、冀隨二君所用一、以レ資給之、勿レ犯官物一而已、卽芬二賜其俸一、不レ限二多少一、於レ是恥挌之化、如二風靡一レ草、吏民畏愛、號曰二父母一、〈○中略〉十七年〈○貞觀〉秋、解歸レ京、兩備之民、悲號遮レ路、里老村媼、頭戴二白髮二者、各捧二酒肴一、拜二伏道邊一、公謂、老人之心、不レ可二違失一、爲レ之留連數日、相次競到、不レ可二遏止一、〈○下略〉
p.1174 元慶三年三月廿三日癸丑、淳和太皇太后崩、有二遺令一不レ任二緣御葬之諸司一、天皇輟レ朝五日、太后諱正子、嵯峨太上天皇之長女、與二仁明天皇一同産也、母太皇太后橘氏、后美二姿顏一、貞婉有二禮度一、存二母儀之德一、中表則レ之、太上天皇太皇太后甚鍾二愛之一、淳和天皇備レ禮娉レ之納二於掖庭一、寵敬兼レ人、天長四年二月爲二皇后一、八年亢旱爲レ災、帝深憂レ之、走二幣群神一、祈請百端、后勸レ帝錄二囚徒一、廢二作役一、未レ及レ終レ朝、澍雨晦合、帝逾加レ愛焉、
p.1174 仁和二年十月廿九日甲戌、正二位藤朝臣多美子薨、〈○中略〉性安祥、容色妍華、以二婦德一見レ稱、〈○中略〉七年、〈○元慶〉至二正二位一、德行甚高、爲二中表一所二依懷一焉、天皇重レ之增寵、異二於他姫一、天皇入道之日、出家爲レ尼、潔齋勤修、晏駕之後、收二拾生前賜御筆手書一作レ紙、以書二寫法華經一、設二大齋會一、恭敬供養、奉レ酬二太上天皇不次恩德一也、卽日受二大乘戒一、聞而聽者莫レ不二感歎一熱發奄薨、
p.1174 御堂〈○藤原道長〉令レ煩二邪氣一給之時、小野宮右府〈○藤原實資〉爲レ奉レ防令レ參給、邪氣聞二前聲一、託レ人云、賢人之前聲コソ聞ユレ、此人ニハ居アハジト思物ヲトテ、示二退散之由云々、心地卽平愈、
p.1174 文安四年正月八日、凡當院〈○相國寺〉主年始々出時、力者八人、而輿雖二大路廣衢一、而亦后四力各成レ列而行レ之、則殆乎塞二路半邊一、行路之間、老者弱者、荷者行歩遲疑、則諸力肘而脅レ之、嚇而畏レ之、予〈○臥雲〉住二等持相國一之時、深誡レ之、又未三嘗輿過二六力一也、
p.1174 島津修理大夫義久朝臣、老後龍伯〈三位法印〉といふ、弟の兵庫頭義弘、〈薩摩宰相惟新入道〉ある時まをされけるは、近年兵亂しづまり事なく候故、いつとなく若ものども、ゆるむ心出來て、作法に背く事どもの候、嚴に正し候はゞ、よく候半とありしに、龍伯の云く、尤の事なり、我もさ思へう、但目付のなきを如何せん、誰かしからんと有し、義弘思ひより候はず、只君の御目きゝ然るべしと答へられし時、さる事なり、向後われ目付とならんと思へり、御身は副役と心得られよ、但其心得如何にと思はるゝぞ、家中のものに、恐れられんと思ひては、却て害の出來ぬるもの也、主より禮義 厚く、自然辱さに感じて、恥るやうにありたきものにこそと有しかば、義弘詞なく、汗衣をひたして、出られしとかや、
p.1175 藤樹爲レ人温厚、帥レ人以レ躬、人無二賢愚一、皆服二其德一、莫レ不レ興二起于善一、雖二旅舍茗肆一、有二客所レ遺物一、則必置二之閣上一、以俟二遺者之復來一、歷年之後、塵埃坌滿、竟不二收用一、嘗之二京師一、行路轎中説二心學一、轎夫感動流涕、其德之薰レ人類レ此也、故一時稱曰二近江聖人一、
p.1175 熊澤伯繼、字了介、〈○中略〉號二蕃山一、又號二息遊軒一、〈○中略〉
蕃山初負レ笈上レ京、求二良師一未レ得二其人一、共投レ宿者一人語曰、往日余爲レ主遠行、時懷二金二百兩一、卽主之所レ使レ齎也、途跨二驛馬一出レ金繫レ鞍、日暮忘レ收レ之而宿、困頓就レ枕、半夜始覺、乃覺レ遺レ金、則茫然猶疑爲二夢寐一、旣而神乃定、痛心疾首、千思萬慮、求レ之無レ術、一決二死雉經一、戚然自嘆、不三爲レ天所二弔恤一、逢二此悲凉一、時聞二剝啄聲甚急一、問レ之則稱馬夫某、因亟出、渠卽出レ金曰、小子歸レ家將レ洗レ馬、及レ解レ鞍得レ之、是君之所レ遺、故來還呈、封完如レ故、吾驚喜不レ知レ所レ措、腰纏別有二十六兩一、卽解以謝レ之、馬夫不レ受曰、君之物付レ君、奚謝之有、然爲冒レ夜來、此顧賃得二二百文一足矣、吾曰、孽自作、微三汝發二義心一、吾無二得レ生之地一、所レ謂生レ死而肉レ骨也、不腆黃物非二敢本一レ報、聊以表二寸心一、馬夫愈辭、乃減二八兩一、亦不レ受、稍々減纔至二方金二一、馬夫執益確曰、君毋レ溷レ我、予有レ所レ守也、吾歎問曰、淡二於欲一者、今之世不二多見一、至二其以レ義爲レ利如一レ汝、則絶不レ可レ得、所レ謂所レ守者何事也、曰、賤役餬レ口、豈不レ思レ利乎、而有二中江與右衞門者一、敎二授里中一、嘗聞二其言一曰、誠正以修二其身一、事レ君致レ忠、事レ親盡レ孝、毋二以レ貧濫一、毋二以レ賤枉一、今若以レ所レ賜利レ之、則欺二此心一也、言畢去、噫澆世安得レ有二此人一乎、蕃山傾聞者良久曰、馬夫一郷鄙人耳、素不レ識三道之爲二何物一、則趨レ利若レ鶩、何義之思、而其廉潔不レ愧二古之君子一者、必敎育所レ致也、所レ謂中江氏者、其德與レ學可二想見一也、方二今之世一、捨二此人一而誰適從、是日卽束裝往謁、〈○下略〉
p.1175 盤溪禪師、播磨にて結制の時、僧徒數百人來り集り居たりしに、其中賊僧ありて、誰も銀子を失ひし、何がしも衣服を盜まれしなど、毎日紛失ものありて、人々疑ひあひて難義に及びし が、後には賊をなせる僧、大抵にしれければ、衆僧一統に禪師に申して、賊僧を追放せんとねがひけるに、禪師聞き屆けて、其まゝに捨て置れしかば、數日の後、衆僧又此事を禪師に訴ふ、禪師猶その儘にさしおかれし、かくのごときの事、三四度に及びて、猶そのまゝに成りければ、衆僧大に腹を立て、もし賊僧を追ひ拂ふ事ならずんば、衆僧一人も殘らず、退散すべしといひしに、禪師笑ひて、退散したくば勝手たるべし、悟道善行の僧は敎ふるに及ばず、此結制も左やうなる惡心の者を敎へさとさんためなれば、惡僧なればとて、みだりに追放すべからずといはれしにぞ、衆僧大きに感服しぬ、かの賊僧もこれを傳へ聞きて、深く感悟し座中に出でゝ賊をせし事どもをみづからざんげして、前非をあらため、德行堅固の僧となりきとそ、
p.1176 伊藤維楨、字原佐、號二仁齋一、〈○中略〉
嘗夜二行郊外一、劫賊四五人當レ路立、各按レ劒曰、吾徒不レ醉不レ樂、今無二酒資一、客若欠二腰纏一、則自脱二衣裳一供レ之、仁齋神色不二少動一曰、今日適無一櫜錢一、敝緼袍脱以遺レ之耳、且問汝輩常以レ何爲レ業邪、曰昏夜横行、掠奪以自給、是其業也、仁齋曰、以二若所一レ爲爲レ業、吾何拒焉、輙脱レ服以授レ之將レ去、於レ是賊止二仁齋一曰、吾儕草竊爲二衣食一數年、未三嘗見二擧止如レ客者一、抑客何爲者、曰儒者也、曰儒者爲二何事一、曰以二人道一敎レ人者也、所レ謂人道者、孝二於親一弟二於弟一、不レ可二一日無一者、是也、人而無レ道、禽獸焉耳、言未レ畢、賊皆頓首涕泣曰、噫、君與レ吾鈞是人也、而事業之逈異如レ是、吾甚恥、願君宥二吾儕罪一、今而後飮レ灰洗レ胃、謹奉二敎于門下一、遂皆改心自勵云、
○
p.1176 陰德
p.1176 陰德陽報(イントクヤウハウ)〈列女傳、有二陰德一者陽報レ之、又見二淮南子、五雜組一、〉
p.1176 天皇〈○欽明〉幼時夢有レ人云、天皇寵二愛秦大津父者一、及二壯大一必有二天下一、寐驚遣レ使普求、得レ自二山背國紀伊郡深草里一、姓字果如二所夢一、於レ是所喜遍レ身、歎二未曾夢一、乃吿之曰、汝有二何事一、答云、無也、但臣向二 伊勢一商價來還、山逢二二狼相鬪汚血一、乃下レ馬洗二漱口手一、祈請曰、汝是貴神而樂二麁行一、儻逢二獵士一見レ禽尤速、乃抑二止相鬪一、拭二洗血毛一、遂遣放之、倶令レ全レ命、天皇曰、必此報也、乃令二近侍一優寵日新、大致二饒富一、及レ至二踐祚一、拜二大藏省一、
p.1177 伊賀國郡司之許、賤流浪法師一人出來被レ仕ケリ、苅レ草飼レ馬經二兩三年一之間、郡司不慮蒙二國勘薐レ追二却國中一、緣者境界集訪、悲歎無二比類一、相傳之所領取從者モ有二其數一、忽打弃テ赴二人國一、事實不レ可レ疎、妻子眷屬悲哀涕泣、爰此草苅法師、雖レ問二事之子細一、而依レ不二人數一、無二返答之人一、枉懇切成二不審一之間、或下女一人、憖語二事之子細一、諸聞了、法師云、雖レ不レ及二己等之敵一、唯今不レ可レ及二御出立一歟、不レ叶マデモ先有二御上京一、何ケ度モ被レ陳二申子細一、其後不レ叶時コン候ハメ、國司御邊ニハオロ〳〵事之緣侍リ、可二申試一云々、郡司此事憑トハシナケレド、依レ無二心之置所一、相二具法師一、忽上洛、其時此國ハ大納言ト申ケル人ノ給ニテゾアリケル、件邊近ク成テ、法師云、人ヲ尋ト思、此スガタニテハアヤシカリヌベシ、袈裟衣一可レ被二借出一哉、卽借テ著セタリケレバ、大納言御許歩行之間、侍所ニ居並タル輩、暫ハアヤシゲニ思テ、能見知之後皆下二跪庭上一、郡司ハ門外ニ留テ、淺猿ト見居、亭主聞二此由一、滴瀝請入對面、先年來ハ何所ニ、何樣ニテ御座有ケルゾヤ、公ヨリ始奉テ、無二不レ奉レ惜之人一ナド被レ示之間、如レ此事ハ今閑ニ可レ令レ申、先有二可レ申事一、所二參入一也、伊賀國年來相憑侍ッル郡司某依二國勘一被レ追二國内一之間、悲歎之至、極不便也、又非二强罪科一者、竓法師ニ恩免候乎云々、亞相云、凡不レ及二左右一、左樣ニテ御座候ケレバ、謬可二思知一之者ニコソ侍ナレトテ、ヤガテ被レ免之上、添二給國恩一之由、成二廳宣一被レ奉了、先是ヲ令レ見テ、悦バセ候ハントテ、白地氣ニテ被二立出一テ、相二具郡司ヲ一、近邊小屋脱二袈裟衣等一タヽミテ其上ニ廳宣ヲ置テ、キト出體ニテ、暗レ跡云々、郡司心中疎哉、大納言モ委被二尋聞一ケリ、是モ玄賓僧都ノシワザニナン侍リケル、此大納言トハ、殊師檀ニテ被レ坐ケリ、
p.1177 攝州金龍寺沙門千觀傳
釋千觀姓橘氏、相州刺吏敏貞之子、〈○中略〉或時出二淀河邊一、自作二馬夫一、惠二往來人一、其深二於道義一爲レ如レ斯也、
p.1178 理滿持經者顯二經驗一語第九
今昔、理滿ト云法花ノ持者有ケリ、〈○中略〉棲ヲ不レ定ズシテ、所々ニ流浪シテ、佛道ヲ修行スル程ニ、渡リニ船ヲ渡ス事コソ无レ限キ功德ナレト思ヒ得テ、大江ニ行居テ、船ヲ儲テ、渡子トシテ、諸ノ往還ノ人ヲ渡ス態ヲシケリ、亦或ル時ニ、京ニ有テ、悲田ニ行テ、万ノ病ヒ煩惱ム人ヲ哀テ、願フ物ヲ求メ尋テ與フ、
p.1178 治承四年七月廿三日癸酉、有二佐伯昌助者一、是筑前國住吉社神官也、〈○中略〉而彼昌助弟住吉小大夫昌長、初參二武衞一、又永江藏人大中臣賴隆同初參、是太神宮祠官後胤也、〈○中略〉此兩人奉二爲源家一、兼日顯二陰德一之上、各募二神職一之間、爲レ被レ仰二御所禱事一、令レ聽二門下祗候一給云云、
p.1178 養和の比かとよ、久しく成てたしかにも覺えず、二年が間、飢渴して淺ましき事侍き、〈○中略〉仁和寺に慈尊院の大藏卿隆曉法印といふ人、かくしつゝ數しらず、しぬる事をかなしみて、聖をあまたかたらひつゝ、その首のみゆるごとに、額に阿字を書て緣を結ばしむるわざをなむせられける、その人數をしらむとて、四五兩月がほどかぞへたりければ、京の中一條より南、九條より北、京極よりは西、朱雀よりは東、道の邊にある頭、すべて四萬二千三百餘りなむ有ける、
p.1178 寬正二年二月自二正月一至二是丹一、城中死者八萬二千人也、余曰以レ何知レ此乎、曰、城北有二一僧一、以二小片木一造二八萬四千率堵一、一々置二之於尸骸上一、今餘二二千一云、大概以レ此記焉也、
p.1178 勢州關の商家に、吉右衞門といふものあり、〈○中略〉篤實の性、人のそねむを愍み、他の人をたのめて異見をなし、己れに敵するものをよくするを以て、終にはあしき輩も隨へり、陽報を待の心、少しもなくして、人しらず隱德を施し、家業のいとまある時は、往還に出て路を造り、溝あるところへ、橋をかけ、只後事のためのみに、志を盡すこと、あげてかぞふるにいとまあらず、
p.1179 奇特者權内
若松の城下一の町にて、權内といへるは、細物とて、絹、つむぎ、麻布、木綿の類、商ふ者なり、家ゆたかなれど、常に儉素を專らとし、若き頃より先祖の祭に禮をつくし、家の業怠らず、あまたもたる子をはじめとして、下づかへの男女にいたるまで、こま〴〵と敎へみちびき、親族に睦しく、はやくより貧しき者、たよりなき者を賑はせる事數ありき、ちまたに遊びゐるおさな子の、時ならず薄著したるあれば、家をたづねて、をのが子の料を遣し、今なん飢に及ぶなどきけば、相しれるもしらざるも、必米、鹽、味噌やうの物、人づてをもとめて贈りぬ、醫の道をも心がけしり、をのづから人もしりて、藥をこふものあれば、念ごろにあはせとゝのへて、功ある事多かりき、又貧しきものゝ重くやみて、人參ならでは治すべきともみえざるは、其價の貴きにをそれん事をおもひ、いつも其人にはいはで、そと己が貯へたるを加へてぞあたへける、あきなひの道にも、みだりなる利を得んと思ふ事は、塵ばかりもあらず、人あまたつどひて物語するにも、善をすゝめ惡をこらし、愼にならん事をそのべける、もとより人の道まねび得たる程の力もあらねど、天性よき事を好みて、陰德數々多かりき、
p.1179 米屋與右衞門
攝津國今つの里米屋與右衞門といへるは、儒學に長じて節儉をつとめ、富豪なれども僕に交りて、自造酒の事をなし、世渡におこたらざれば、ます〳〵富り、富るに隨ひては、ます〳〵陰德を行ふ、ある時親族の僕、主人の金百兩をつかひ捨て、行へなくなりしを、さま〴〵尋求て、深く諫めて後、其百金をあたへ、ふたゝび主の家へ歸らしむ、又此里の内に路甚狹き所あり、されば火災あらん時に、人の難あるべきをおそれて、其所を買て廣くす、又板橋は水災のとき危しとて、石橋に造かへぬ、此類擧るにいとまなし、尤常に貧人を惠を所作とす、されば此人死せるとき、遠近の男女 集り、こゑをあげて泣悲しみけるさま、釋迦佛の入滅もおもひしられけると見し人語りき、
p.1180 室町宗甫
宗甫は京師室町四條街に何がしといへる豪商なりしが、男子二人倶に無賴なるがゆゑに勘當す、然りし後、世中うるせくおぼえて、他の子を嗣として家をゆづるとも、此二人のわろもの來りまつはらば、心よからじとて、其家をはじめある所の調度ども皆賣たてしに、貳萬金になりぬ、おのれはかごかなる所にこもりて世の交もせず、彼金はまどしき、人に施す料とす、さればかうかうなる人、いと悲しきさまなるを、錢すこしあたへ給へなどいふ人あれば、いなわれもまどしと口にはいひて、ひそかに金五兩つゝみて其家に投入、あるじ此人ならんと推して謝に來れば、いなわれにはあらずといふ、不意に人に與ふる金は、必五片に定む、もし又貧にして家を賣人ありと聞ば、價高く買、損ジたる所をつくろひて、うつり住かと見れば、やがて價賤賣はなつ、常に陰德を行ふこと此類にて、二萬金殘なくなりぬ、
p.1180 四年三月己未、道照和尚物化、〈○中略〉於レ後周二遊天下一、路傍穿レ井、諸津濟處、儲レ船造レ橋、乃山背國宇治橋、和尚之所二創造一者也、
p.1180 天平勝寶元年二月丁酉、大僧正行基和尚遷化、和尚藥師寺僧、俗姓高志氏、〈○中略〉又親卒二弟子等一、於二諸要害處一、造レ橋築レ陂、聞見所レ及、咸來加レ功(○○○○)、不日而成、百姓至レ今蒙二其利一焉、
p.1180 延曆三年十月戊子、越後、國言、蒲原郡人三宅連笠雄麻呂、蓄二稻十萬束一積而能施、寒者與レ衣、飢者與レ食、兼以修二造道橋一、濟二利艱險一、積レ行經レ年、誠令二擧用一、授二從八位上一、
p.1180 承和八年三月癸酉、右京人孝子衣縫造金繼女、居二住河内國志紀郡一、〈○中略〉至二冬節一則母子買二雜材一、惠賀河構二借橋一、總十五ケ年、〈○中略〉勅叙二三階一、終レ身免二戸内租一、旌二表門閭一、令二衆庶知一、
p.1180 釋最仙、嘗任二常州講師一、戒行備足、四衆歸崇、性抱二利濟一、修二寺院一、掃二堂宇一、夷二嶮途(○○○)一、架二絶梁(○○○)一、走 レ急救レ危、切二於己一、逢二早澇一、不レ待二延請一、祈求修法、屢有二感應一、問レ疾餉レ餓、存活之者多、俗號二悲增大士一、〈○中略〉釋光勝不レ言二姓氏一、爲二沙彌一時、自稱二空也一、人又不レ諱言二空也一、少好二佚遊一、天下殆遍、所レ過道塗多爲二利濟一、荷レ鋤鏟レ嶮、拾レ石鋪レ濕、架二破橋一、修二廢寺一、無レ水之地多穿レ井、井必甘冷、以三其常唱二彌陀號一、俗名二彌陀井一、往往而在焉、
p.1181 寬喜四年〈○貞永元年〉七月十二日、今日勸進聖人往阿彌陀佛、就二申請一爲レ無二舟船著岸煩一、可レ築二和賀江島一之由云云、武州〈○北條泰時〉殊御歡喜令二合力一給、諸人又助成云云、 八月九日、和貿江島終二其功一、
p.1181 ほむの川原〈○三河〉にうち出たれば、〈○中略〉茂れるさゝ原の中に、あまたふみわけたる道ありて、行末もまよひぬべきに、古武藏の前司、〈○北條泰時〉道のたよりの輩に仰て、植をかれたる柳も、いまだ陰とたのむまではなけれども、かつ〴〵まづ道のしるべとなれるもあはれなり、〈○下略〉
p.1181 野中止、字良繼、小字傳右衞門、號二兼山一、〈○中略〉
嘗來二江戸一、及二歸期一也、致二書郷人一曰、土佐無二物不一レ有、自二江戸一齎歸、惟有二蛤蜊一艘一耳、海路幸無レ恙、以二歸日饋レ之、衆以爲レ嘗二異味一、計レ日待レ歸、旣至、則命投二其所レ漕於城下海中一、不レ餘二一箇一、衆怪問、兼山笑曰、此不三獨饋二諸卿一、使二卿子孫亦飫一レ之也、自レ此後、果多生二蛤蜊一、遂爲二名産一、衆始服二其遠慮一、
p.1181 奇特者名廻次郎右衞門
名廻次郎右衞門は伊都郡東富貴村にて、高七十石もてる百姓なり、正德四年より享保三年にいたるまて、村の中困窮し、山中の事なれば田畑も猪鹿に踏あらされしを、次郎右衞門力をくはへて、さま〴〵にふせぎしが、猶もさゝへかねて、此地を領せる高野山の年預坊のもとに、しば〳〵かよひて、一村のために年の貢をゆるべん事をこひしかば、次の年よりして、田宅より出る定をもゆるしけり、富貴村に池なくして人々なやみけれど、あながちにいひ出るものもなかりしを、次郎右衞門が志にめでゝ、同十年正月、次郎右衞門を年預坊によびて、勸たに池ほる事をゆるし、 人夫を用うる數をとひしに、五六千人も用うべしといふにまかせて、日あらずして池四をほりしかば、長く村々のたすけとなれり、すべて正德より享保にいたるまで、道々の橋のそこねしをも、次郎右衞門が力をそへてかけかへけり、〈○中略〉同十二年四月、洪水して東西の富貴村堤崩れしに、次郎右衞門は力を盡して修理し、筒香村と兩富貴村の作毛なければ、その年の貢物をかはりておさめ、寺社の破れたるをつくろひ、近き村の困窮をめぐみ、正德享保の頃、餓死の人多くありしをあはれみて、高野山のうち龍光院に位牌をたてゝ、跡を弔ひけり、寬延二年十一月、年預坊より次郎右衞門に命じて、山林の支配をなさしめしに、年預坊にこひて、己一人つかさどる事なく、村のうちのものとともに支配し、山林もたぬ民十七人に、己が銀を出して求めあたへ、又金二十兩を出して、奧院にかよふ道をつくり、其外の善行かぞへ盡しがたし、一村のもの次郎右衞門を深く信ずるのあまりに、吹郎右衞門が苗字を以て、氏神の稱號となし、名廻明神と稱しけり、寬延三年、年預坊より銀そこばくあたへて褒美せしが、寶曆八年八十餘歲にて病て死す、
p.1182 靑木敦書、字厚甫、小字文藏、號二昆陽一、〈○中略〉
嘗嘆曰、凡有レ罪非二死刑一者、遠放二之島嶼一、要在レ使三其終二天年一耳然諸島少二五穀一、常以二海産木實一給レ食、是以往往不レ能レ免二餓死一、豈不二亦痛一哉、卽雖二種藝之地一、遇二歲歉一則民不レ能レ無二菜色一、意者百穀之外、可二以當一レ穀者、莫レ如二蕃薯一也、乃陳レ官、求二種子于薩摩一、試種二之官藥苑中一、則極蕃衍、於レ是以二國字一著二蕃薯考一卷一、而演二其培植之法一、官鏤レ版倂二種子一行二下諸島及諸州一、未二數年一無二處不一レ種、至レ今上下便レ之、雖二歲不一レ登、民不二遄餓一者、實昆陽之惠及二無窮一矣、題二其墓門之碑一、曰二甘藷先生之墓一、有レ以哉、
p.1182 孝行者小右衞門
小右衞門は河沼郡野澤原町村の百姓なり、〈○中略〉同じ領のうち、驛路の橋など破る丶時は、人にもしらせず、己が材木を出していとなみ渡し、晝夜となぐ道をつくり、人馬の煩ひなからしむ、上を 重んじ公納をかゝず、人夫にさゝれてその催をまたず、此よし領主に聞えて、延享三年、褒美の米をあたへき、〈○中略〉越後の驛路輕井澤よ少繩澤の間は、五町程も至りての難所ありて、雲崩もあり、秋の長雨ふる頃は、人馬ともに行なやみしを、六年前より、新たなる道を開きしに、或は役夫を雇ひてこれを築かしめ、又は石切に命じて岩山を切わらしむ、凡人夫を用うる事、千人にあまり、賃錢もまた二十貫文ばかりなるを、小右衞門一人の力を以てこれを辨じ、これより四年前の七月までに、營作こと〴〵くになりぬ、又繩澤のうち白坂甲石村の下なる新道をも、みづから開しとそ、年頃險岨の道を平かにし、公納をかく事なく、村のうちの爭論うち〳〵にてあつかひすまし、領主の裁判をわづらはさず、年々にいやましの善行身につもりしかば、明和元年、かさねて褒美して、米そこばくをぞあたへける、
p.1183 一里塚始幷五左衞門井戸の事
或君の曰く、余が、家を繼ぎて、領分のうち在々を巡見の時、金方村とかやいふ處の片隱に、うつくしき水湧き出づる井あり、余こゝに立ちよりて、その水を掬し見るに、其淸き事いふ許なし、時に傍に六十餘の老婆うづくまりありけるを召して、此水は至りて淸淨水なり、里には此水を遣ふにやと尋ねたりければ、老婆の曰く、凡此あたりの民家二百軒許、皆此水を遣ひ候、それにつき物語の候、此村元來水あしき所にて、一向に用ひられず、我父ふかく是を歎き、壯年の時より大願心をはつし、藥師如來へ立願して、かなたこなたに井戸を堀りたる事、八十ケ所に及ぶといへども、更によき水を求め得ず、最早勢力も勞れ、老年に及びて、漸く此所の井を堀りあて、終に其翌日果て申し候、其故に此井をば、五左衞門井戸と唱へて、今に親の名を唱へ來り候、是も最早四十年許にて候が、夫よりして、一村うちより、此姥に扶持を呉れ候ひて、此井の主になり、いと安樂に暮し申し候も、父のかげにて候、今日は殿樣御通と承り候ゆゑ、井戸守の事に候へば、此所に罷り出で 候と申たり、〈○下略〉