p.1322 技巧ハ、技術ニ精巧ナルヲ謂フ、古來巧思ニ富ミ、國家有用ノ事物ヲ發明セシモノ尠カラズ、而シテ技巧ノ事タル、其範圍極メテ廣ク、悉ク載スルニ堪ヘズ、今ハ只其一端ヲ示スノミ、
p.1322 工〈音功タクミ〉
p.1322 巧〈通、正、〉タクミニス
p.1322 たくむ 巧をよめり、手組の義なるべし、靈異記には指攅もよめり、
p.1322 得二雷之喜一令レ生レ子强力子緣第三〈○中略〉
指攅〈タクミテ〉
p.1322 意見十二箇條 善相公〈淸行〉
一請レ停下以二贖勞人一補中任諸國檢非違使及弩師上事〈○中略〉臣伏見二本朝戎器强弩一爲レ神、其爲レ用也、短二於逐擊一、長於守禦一、古語相傳云、此器神功皇后奇巧妙思、別所二製作一也、故大唐雖レ有二弩名一、曾不レ如二此器之勁利一也、〈○中略〉
延喜十四年四月廿八日從四位上行式部大輔臣三善朝臣淸行上二封事一
p.1322 十年四月辛卯、置二漏刻於新臺一、始打二候時動二鐘鼓一、始用二漏刻一、此漏刻者、天皇爲二皇太子一時始親所二製造一也云云、
p.1323 天平十六年十月辛卯、律師道慈法師卒、〈天平元年爲二律師一〉法師俗姓額田氏、添下郡人也、性聰悟爲レ衆所レ推、〈○中略〉遷二造大安寺於平城一、勅二法師一勾二當其事一、法師尤妙二工巧一、構作形製皆稟二其規模一、所在匠手莫レ不二歎服一焉、卒時年七十有餘、
p.1323 弘仁二年三月廿五日己未、阿牟公人足授二外從五位下一、人足者大安寺僧泰仙也、以二工術一聞、令レ造二漏刻一、積レ年乃成、帝嘉二其巧思一、還俗叙位、雖二機巧、可一レ奇而隻辰易レ差不レ爲レ用、
p.1323 承和二年九月乙卯、外從五位下島木史眞機功之思、頗超二群匠一、欲レ修二邊近兵一、自製二新弩一、縱令四面可レ射、廻轉易レ發、是日大臣以下執政、於二朱雀門一召二集諸衞府一、以二新弩一試射之、向レ南發、聞二抗發之聲一、不レ現二矢去之影迹一、其矢所レ止不レ得二的知一、
p.1323 百濟川成飛驒工挑語第五
今昔、百濟ノ川成ト云フ繪師有ケリ、世ニ並无キ者ニテ有ケル、瀧殿ノ石モ此川成ガ立タル也ケリ、同キ御堂ノ壁ノ繪モ、此ノ川成ガ書タル也、而ル間川成從者ノ童ヲ逃シケリ、東西ヲ求ケルニ不二求得一リケレバ、或高家ノ下部ヲ雇テ語ヒテ云ク、己レガ年來仕ツル從者ノ童旣ニ逃ニケリ、此尋テ捕ヘテ得サセヨト、下部ノ云ク、安事ニハ有レドモ、童ノ顏ヲ知タラバコソ搦メヽド、顏ヲ不レ知シテハ、何デカ搦メムト、用成現ニ然ル事也ト云テ、疊紙ヲ取出テ、童ノ顔ノ限ヲ書テ、下部ニ渡シテ、此ニ似タラム童ヲ可レ捕キ也、東西ノ市ハ人集ル所也、其邊ニ行テ可レ伺キ也ト云ヘバ、下部其顏ノ形ヲ取テ、卽チ市ニ行ヌ、人極テ多カリト云ヘドモ、此ニ似タル童无シ、暫ク居テ若ヤト思フ程ニ、此似タル童出來ヌ、其形ヲ取出テ競ブルニ露違タル所无シ、此也ケリト搦テ、川成ガ許ニ將行ヌ、川成此ヲ得テ見ルニ、其童極ク喜ビケリ、其比此ヲ聞ク人、極キ事ニナム云ケル、而ルニ其比飛驒ノ工ト云フ工有ケリ、都遷ノ時ノ工也、世ニ並無キ者也、武樂院ハ其工ノ起タレバ微妙ナルベシ、而ル間此工、彼ノ川成トナム、各其態ヲ挑ニケル、飛驒ノ工、川成ニ云ク、我ガ家ニ一間四面ノ 堂ヲナム起タル、御シテ見給へ、亦壁ニ繪ナド書テ得サセ給ヘトナム思フト、互ニ挑乍ラ、中吉クテナム戯レケレバ、此ク云事也トテ、川成飛驒ノ工ガ家ニ行ヌ、行テ見レバ、實ニ可レ咲氣ナル小サキ堂有リ、四面ニ戸皆開タリ、飛驒ノ工彼ノ堂ニ入テ、其内見給ヘト云ヘバ、川成延ニ上テ南ノ戸ヨリ入ラムト爲ルニ、其戸ハタト閉ヅ、驚テ廻テ西ノ戸ヨリ入ル、亦其ノ戸ハタト閉ヌ、亦南ノ戸ハ開ヌ、然レバ北ノ戸ヨリ入ルエハ、其戸ハ閉テ西ノ戸ハ開ヌ、亦東ノ戸ヨリ入ルニ、其戸ハ閉テ北ノ戸ハ開ヌ、如レ此廻々ル數度入ラムト爲ルニ閉開ツ入ル事ヲ不レ得、侘テ延ヨリ下ヌ、其時ニ飛驒ノ工咲フ事无二限リ一、川成妬ト思テ返ヌ、其後日來ヲ經テ、川成飛驒ノ工ガ許ニ云遣ル樣、我ガ家ニ御坐セ、見セ可レ奉物ナム有ルト、飛驒ノ工定メテ我ヲ謀ラムズルナメリト思テ、不二行カ一ヲ、度々懃ニ呼べバ、工川成ガ家ニ行キ、此來レル由ヲ云入レタルニ、此方ニ入給ヘト令レ云ム、云ニ隨テ廊ノ有ル遣戸ヲ引開タレバ、内ニ大キナル人ノ黑ミ脹臰タル臥セリ、臰キ事鼻ニ入樣也、不二思懸一ニ此ル物ヲ見タレバ、音ヲ放テ愕テ去返ル、川成内ニ居テ、此音ヲ聞テ咲フ事无二限リ一、飛驒ノ工怖シト思テ土ニ立テルニ、川成其遣戸ヨリ顏ヲ差出テ、耶己レ此ク有ケルハ只來レト云ケレバ、恐々ツ寄テ見レバ、障紙ノ有ルニ、早ウ其死人ノ形ヲ書タル也ケリ、堂ニ被レ謀タルガ妬キニ依テ、此クシタル也ケリ、二人ノ者ノ態此ナム有ケル、其比ノ物語ニハ、萬ノ所ニ此ヲ語テナム、皆人譽ケルトナム、語リ傳ヘタルトヤ、
p.1324 貞觀三年三月十二日丙戌、授二從八位下齋部宿禰文山從五位下一、文山修二理東大寺大佛一、巧思不レ恒、功夫早成、仍以賞焉、
p.1324 高陽親王造二人形一立二田中一語第二
今昔、高陽親王ト申ス人御ケリ、此ハ天皇ノ御子也、極タル物ノ上手ノ細工ニナム有ケル、京極寺ト云フ寺有リ、其寺ハ此親王ノ起給ヘル寺也、其寺ノ前ノ河原ニ有ル田ハ此寺ノ領也、而ル ニ天下早魃シケル年、萬ノ所ノ田皆燒失ヌト喤シルニ、增テ此ノ田ハ賀茂川ノ水ヲ人レテ作ル田ナレバ、其河ノ水絶ニケレバ、庭ノ樣ニ成テ苗モ皆赤ミヌベシ、而ルニ高陽親王此ヲ構給ケル樣、長ケ四尺許ナル童ノ、左右ノ手ニ器ヲ捧テ立テル形ヲ造テ、此田ノ中ニ立テ、人其童ノ持タル器ニ水ヲ入ルレバ、盛受テハ卽チ顏ニ流懸々々スレバ、此ヲ興ジテ聞繼ツヽ、京中ノ人市ヲ成シテ集テ、水ヲ器ニ入レテ見興ジ、哩ル事无レ限シ、如レ此爲ル聞ニ、其水自然ラ干田ニ水多ク滿ヌ、其時ニ童ヲ取隱シツ、亦水乾キヌレバ重ヲ取出シテ、田ノ中ニ立テツ、然レバ亦前ノ如ク人集テ、水ヲ入ル、程ニ田ニ水滿ヌ、如レ此シテ其田露不レ燒シテナム止ニケル、此極キ構へ也、此モ御子ノ極タル物ノ上手、風流ノ至ル所也トゾ、人讀ケルトナム、語リ傳ヘタルトヤ、
p.1325 仁和二年七月四日辛巳、僧由蓮卒、〈○中略〉性聰明多渉丙典一、兼好二老莊一、尤有二巧思一、所作究レ妙焉、
p.1325 千劒破城軍事
宗徒ノ大將達評定有テ、御方ノ向ヒ陣ト、敵ノ城〈○千劒破城〉トノ際ニ、高ク切立タル堀ニ橋ヲ渡シテ、城へ打入ラントゾ巧マレケル、爲レ之京都ヨリ番匠ヲ五百餘人召下シ、五六八九寸ノ材木ヲ集テ、廣サ一丈五尺、長サニ十丈餘ニ、梯ヲゾ作ラセケル、梯旣ニ作リ出シケレバ、大繩ヲ二三千筋付テ、車ヲ以テ卷立テ、城ノ切岸ノ上ヘゾ、倒シ懸タリケル、魯般ガ雲梯モ、角ヤト覺テ巧也、
p.1325 大坂ノ多陣ニ、〈○中略〉源君〈○德川家康〉守隆〈○九鬼〉ニ命ジテ、新橋ノ隅矢倉ヨリ所レ發ノ佛狼機ヲ捍シム、守隆、盲船ヲ造リテ水底ヲ濳行シ、終ニ佛狼機ヲ以テ隅矢倉ヲ打破リ、此ヨリ盲船ノ法世ニ傳ルハ、九鬼家ノ始テ所レ製也、
p.1325 火浣布
寶曆年中、平賀鳩溪〈源内〉火浣布を創製し、火浣布考を著し、和漢の古書を引、本朝未曾有の奇工に誇 れり、沒してのち、其術つたはらず、好事家の憾事とす、〈○中略〉我驛中に、稻荷屋喜右衞門といふもの、石綿を紡績する事に、千思万慮を費し、竟に自その術を得て、火浣布を織いだせり、又其頃我が近村大澤村の醫師黑田玄鶴も、同じく火浣布を織る術を得たり、各々秘してその術を人に僅へざるに、おなじ時、おなじ村づゞきにて、おなじ火浣布の奇工を得たるも一奇事なり、是文政四五年の間の事なりき、〈○中略〉源内死して奇術絶たりしに、件の兩人いでゝ、火浣布の機術再世にいでしに、鳴呼可レ惜、此兩人も術をつたへずして沒したれば、火浣布ふたゝび世に絶たり、かの源内は、江戸の饒地に火浣布を織しゆゑ、其聞え高く、この兩人は、越後の僻境に火浣布をおりしゆゑ、其名低し、ゆゑにこゝにしるして、好事家の一話に供す、
p.1326 一機巧 備前岡山の表具師幸吉といふもの、一鳩をとらへて其の身の輕重羽翼の長短を計り、我が身のおもさをかけくらべて、自羽翼を製し、機を設けて、胸前にて操り、搏ちて飛行す、地より直に ることあたはず、屋上よりはうちていつ、ある夜郊外をかけり廻りて、一所野宴するを下し視て、もししれる人にやと近よりて見んとするに、地に近づけば風力よわくなりて、思はず落ちたりければ、その男女驚きさけびて、遁れはしりけるあとに、酒肴さはに殘りたるを、幸吉あくまで飮みくひして、また飛びさらんとするに、地よりはたち りがたきゆゑ、羽翼ををさめて歩して歸りける、後に此の事あらはれ、市尹の廳によび出だされ、人のせぬ事をするは、なぐさみといへども、一罪なりとて、兩翼をとりあげ、その住める巷を追放せられて、他の巷につうしかへられける、一時の笑柄のみなりしかど、珍らしき事なればしるす、寬政の前のことなり、
p.1326 予〈○佐藤信淵〉が阿州ニテ工夫シタル自走火船ハ、諳厄利亞舶ヲ燒打スルニハ、極テ酷烈ナル者ナリ、所レ謂予ガ自走火船ハ、火藥ヲ以テ船ヲ走ラシムルヲ以テ、風波ノ逆順ニ拘ハラ ズ、直行スルコト矢ノ如ク、須臾ニ五十町ノ外ニ至ル、且數船ヲ連進スルノ法有リテ、衆ノ火船自ラ賊船ヲ圍繞シテ燒打シ、其火ヲ發スルニ及ラハ、数十ノ火矢ト烽烙ヲ震發シ、紅焰天ヲ焦シテ、黑烟地ヲ覆フ、絶テ人カヲ勞スルコト無クシテ、意外ナル大功ヲ成ス、此業ヲモ年々一兩度ヅヽ操練シテ置クベシ、防海第一ノ火術ナリ、海國ハ鯨船、地引舟等ノ、用ニ任ザル古舟ト雖ドモ、此ヲ乾燥テ貯置ベシ、自走火船ヲ製スルニ必用ノ物タリ、五艘一連、七艘一連ハ費多キヲ以テ、二艘力三艘ヲ一連トシテ操練スベシ、此物少シモ人力ヲ用ルコト無クシテ勁敵ヲ破ル、信ニ前人未知ラザル所ノ火攻方ナリ、