p.0135 果斷ハ、又決斷トモ稱ス、事ニ臨ミテ惑ハズ、直チニ之ヲ處決スルヲ謂フナリ、我邦果斷ヲ以テ稱セラルヽモノ、古來其人ニ乏シカラズ、今其著キモノヲ採テ此篇ヲ爲ル、
p.0135 決斷(ケツダン)
p.0135 およそ政道といふことは、所々にしるしはべれど、正直慈悲を本として、決斷のちからあるべきなり、これ天照大神のあきらかなる御をしへなり、決斷といふにとりて、あまたの道あり、一には、その人をえらびて官に任ず、その人ある時は、君は垂拱してまします、されば本朝にも異朝にも、これを治世の本とす、二つには、國郡をわたくしにせず、わかつところかならずその理のまゝにす、三つには、功あるをばかならず賞し、罪あるをばかならず罰す、これ善をすすめ、惡をこらす道なり、これに一つもたがふを、亂政とはいへり、
p.0135 神淳名川耳天皇、神日本磐余彦天皇〈○神武〉第三子也、〈○中略〉至二四十八歲一、神日本磐余彦天皇崩、時神渟名川耳尊、孝性純深、悲慕無レ已、特留二心於哀葬之事一焉、其庶兄手硏耳命行年已長、久歷二朝機一、故亦委レ事而親之、然其王立操厝懷、本乖二仁義一、途以二諒闇之際一、威福自由、苞二藏禍心一、圖レ害二二弟一、于レ時也、太歲己卯十一月、神淳名川耳尊、與二兄神八井耳命一、陰知二其志一而善防之、至二於山陵事畢一、乃使下弓部稚彦造レ弓、倭鍛部天津眞浦造二眞麝鏃一矢部作上レ箭、及二弓矢旣成一、神渟名川耳尊欲三以射二殺手硏耳命一、會下有二手硏耳尊於片丘大窖中一獨臥中于大牀上、時神淳名川耳尊謂二神八井命一曰、今適其時也、夫言貴レ密、事宜レ愼、故我之陰謀本無二預者一、今日之事唯吾與レ爾自行之耳、吾當先開二窖戸一、爾其射之、因相隨進入、神淳名川耳尊突二開其戸一、神八井耳尊則手脚戰慄、不レ能レ放レ矢、時神停名川耳尊掣二取其兄所レ持弓矢一、而射二手硏耳尊一一發中レ胷、再發中レ背遂殺之、
p.0135 白髮天皇〈○淸寧〉二年十一月、播磨國司山部連先祖伊與來目部小楯、於二赤石郡一親辨二新嘗供物一、〈一云巡二行郡縣一收二斂田租一也〉適會下縮見屯倉首縱二賞新室一以レ夜繼上レ晝、爾乃天皇謂二兄億計王一〈○仁賢〉曰、避二亂於斯一、 年踰二數紀一、顯レ名著レ貴方屬二今宵一、億計王憫然歎曰、其自、導揚見レ害、孰二與全レ身免一レ厄也歟、天皇曰、吾是去來穗別天皇〈○履中〉之孫、而困二事於人一飼二牧牛馬一、豈若二顯レ名被一レ害也歟、遂與二億計王一相抱涕泣不レ能二自禁一、〈○中略〉夜深酒酣次第儛訖、〈○中略〉天皇次起自整二衣帶一爲二室壽一曰、〈○中略〉小楯謂之曰、可レ怜、願復聞之、天皇遂作二殊舞一、〈○註略〉誥之曰、倭者彼彼茅原、淺茅原弟日僕是也、小楯由レ是深奇異焉、更使レ唱之、天皇話之曰、石上振之神榲〈○註略〉伐レ本截レ末、〈○註略〉於二市邊宮一治二天下一、天万國万押磐尊御裔僕是也、小楯大驚、離レ席悵然再拜、承事供給、率レ屬欽伏、〈○下略〉
p.0136 天長元年二月戊子、彈正大弼從四位下橘朝臣長谷麻呂卒、〈○中略〉、少小遊學、頗讀二史漢一、温柔作レ性、不レ逆二物情一、臨レ事斷決、不レ違二法令一、 續日本後紀九仁明承和七年七月庚辰、右大臣從二位皇太子傳藤原朝臣三守薨、〈○中略〉立性温恭、兼明二決斷一、〈○下略〉
p.0136 後三條院ハ、春宮ニテ廿五年マデオハシマシテ、心シヅカニ、御學問アリテ、和漢ノ才智ヲキハメサセ給フノミニアラズ、天下ノ政ヲヨク〳〵キヽヲカセ給ヒテ、御卽位ノ後ナマ〴〵ノ善政ヲオコナハレケルナカニ、諸國ノ重任ノ功ト云事、長ク停止セラレケ理時、興福寺ノ南圓堂ヲツクレリケルニ、國ノ重任ヲ關臼大二條殿〈○藤原敎通〉マゲテ申サセタマヒゲルニ、事カタクシテ、タビ〳〵 ニナリケレバ、、主上逆鱗ニヲヨビテ、仰セラレテ云ク、關白攝政ノオモクオソロシキ事ハ、帝ノ外祖ナドナルコソアレ、我ハナニトオモハムゾトテ、御ヒゲヲイカラカシテ、事ノ外ニ御ムヅカリアリケレバ、〈○下略〉
p.0136 義經落二 越一事幷畠山荷レ馬附馬因緣事同〈○元曆元年二月〉七日ノ曉、九郎義經ハ鷲尾ヲ先陣トシテ、一谷ノ後 越ヘゾ向ケル、〈○中略〉辰半ニ 越一谷ノ上ニ鉢伏礒ノ途ト云フ所ニ打登、〈○中略〉時旣ニ能成タリ、追手ノ力ヲ合セントテ見下セバ、 實ニ上七八段ハ小石交ノ白砂也、馬ノ足トヾマルベキ樣ナジ、歩ニテモ馬ニテモ、落スベキ所ニ非ズ、〈○中略〉軍將宣ケルハ、一ハ馬ノ落樣モ見、一ハ源平ノ占形ナルベシトテ、葦毛馬ニ白覆輪白ケレバ、白旗ニ准ヘテ源氏トシ、鹿毛馬ニ黃覆輪赤ケレバ、赤旗ニナゾラへテ、平氏トテ追下ス、〈○中略〉源氏ノ馬ハ這起ツヽ、身振シテ峯ノ方ヲ守、二聲嘶、篠原ハミテ立タリ、平家馬ハ身ヲ打損ジ、臥テ再起ザリケリ、城中ニハ之ヲ見ラ、敵ノヨスレバコソ鞍置馬ハ下ラメトテ、騷迷ケル處ニ、御曹司ハ源氏ノ占形コソ目出ケレ、平家ノ軍左樣アルベシ、人ダニ心得テ落スナラバ、誤更ニアルマジ、落セ〳〵ト宣ヘドモ、我ダニ恐テ落ネバ、人ハ怖テエオトサズ、白旗五十流計梢ニ打立テ宣ヒ、ケルハ、守テ時ヲ、移ベキニ非、礒ヲ落スニハ、手綱アマタアリ、馬ニ乘ニハ一ツ心、ニツ手綱、三ニ鞭、四ニ鎧ト云テ、四ノ義アレ共、所詮心ヲ持テ乘物ゾ、若殿原ハ見モ習乘モ習へ、義經ガ馬ノ立樣ヲ本ニセヨトテ、眞逆ニ引向、ツヾケ〳〵ト下知シツヽ、馬ノ尻足引敷セテ、流レ落ニ下タリ、〈○下略〉
p.0137 このたびの出家さはりなくとげさせ給へと、三寶に新請し申て、やどへかへりたるほどに、としごろたへがたく、いとおしかりし四歲なる女子、ゑんにいでむかひて、ててのきたるがうれしきとて、そでにとりつきたるを、たぐひなく、いとをして、目もくれ、なみだもこぼれけれども、是こそは、煩惱のきづなをきるとおもひて、ゑんよりしもへ、けを己したりければ、なきかなしみけれど、耳にもぎ、入いれずして、うちにいりて、こよひばかりの、かりのやどりぞかしと、なみだにむせびてぞ、あはれにおぼへける、女はかねてより、をとこの家出せんずることをさとつて、このむすめのなきかなしむをみても、おどろくけしきのなかりけるこそ、哀なりけれ、
p.0137 文治五年六且卅日戊午、大庭平太景能者、爲二武家古老一、兵、法渥二故實之間、故以被レ召二出之一、被レ仰二合奧州征伐事一曰、此事窺二天聽一之處、于レ今無二勅許 憖召二聚御家人一、爲レ之如何可二計申一者、景能不レ及思案一、申云、軍中聞二將軍之令一、不レ聞二天子之詔一云去、已被レ經二奏聞一之上者、强、不レ可下令レ待二其左右一給上、隨而泰衡者、受二 繼累代御家人遺跡一者也、雖レ不レ被レ下二綸旨一、加二治罰一給、有二何事一哉、就レ中群參軍士、費二數日一之條、還而入之煩也、早可下令二發向一給上者、申歌頗御感、
p.0138 應永十七年庚寅、淸叟毎應二西宮夫人之請一説レ戒、拉レ師與往、路過二神泉苑一、小蛇出俟、叟下授二安陀衣一、爲唱二戒法一、則作二馴伏狀一、率以爲レ常、一日師竊袖啣二石塊一、俟二蜿蜒一便打殺、叟大美レ師曰、俊哉此擧、衲子手段、擧措脱空、政若二斯爲一、宜二政若一レ斯、
p.0138 本多作左衞門人煮釜碎去之事
東照宮濱松御城に御座の時、御討入御歸陣の節、阿部川原に、人を煮釜あり是を御覽有て、此釜濱松可レ遣由、奉行に被二仰付一けるゆへに、彼人承り、濱松へ持せ送喝道にて、本多作左衞門是を見て、子細を問に、しか〴〵の由、被二仰付一ける由答ければ、則人足に申付て打碎捨にけり、扨奉行承ける人に申けるは、濱松へ參り、可レ申は、天下をも望可レ有人の、人を釜にて殺すべき罪を犯すやうに、仕置をするにて候哉、作左衞門が申て、釜をば打碎かせたりと、具に可二申上一、一言も殘したらば、後惡かるべしと、下知しける程に、奉行しける人、有の儘に申上ければ、東照宮殊に御赤面、頓て作左衞門を召、御誤り被レ遊たり、
p.0138 東照宮、柳生又右衞門は、石田が士大將島左近と、同國のよしみにて懇なりと聞召れ、左近方へ行て物語して、彼はいかにいふらん聞て來れと仰有しかば、柳生左近に逢て、世間の物がたりし、いかに成るべき事ならむといひければ、左近聞て、今松永、明智二人の智謀決斷ある人なければ、何事か有るべきと、打笑ひけり、此子細は、或時石田密謀に及びけるに、左近豐臣家の爲を存せんに、斯あらで止べきや、されども爰に存る旨めり、大事を企るには、我志す處を無二無三に決斷して、少しも猶豫有るべからず、しかるに去年より度々仕課すべき圓を、空しくはづし給ふ事多し、旣に時を失ひぬ、能々世のありさまを見るに、石田の家を惡む人々、大かた德川殿に 心を寄たり、當家の存亡計るべからず、一日の過るも殘多し、只理を非にまげて、唯今まで疎遠の諸大將達へもへりくだり、遺恨なく計ひて、交り親しみしばらく時を待べきも、一つの計策にてこそといひければ、三成されば縱分一時に能志を遂るとも、後の安かるべき樣を計るなりといひけるに、左近いや〳〵事能く一時に勝を得るならば、後に何の危き事か候べき、内府に親しき人々を積るに、其兵二万に過べからず、味方素より心を合する大國の人は、又近國の兵を集るとも忽馳寄て、五六万には及ぶべし、景勝卿再拜を取て下知し、關東を攻破らんに、何程の事か候べきとて、又存る旨をいひ出しけるに、客の來て三成座を立ければ、樫原彦右衞門居殘りて、左近に向かひ、いかにも仰さる事也、松永彈正、明智光秀は、無双の惡逆者なれど、事を決斷するに、誰か相並ぶべき、此詮議の破り、相手に賴むべきものをといひけるとかや、其によりてかく柳生には答へけるとなり、
p.0139 大坂にて、三浦與右衞門は、弓大將なりける、味方敗軍の時、下知して、味方を射させける故、味方備たて返す、しかれども、とかくいふものおほかりける、味方百人射させ、一万の備かためさせけるは、大なる功なりとて、御感殊下さる、
p.0139 直孝忠勝信綱重宗愼勤之事
奧州〈○伊達政宗〉笑ひ顏にて、されば候、大神君百万石可レ給モの御制詞、今に事切申さゞる故、此儀を申たる事、餘儀もあらずと申たり、掃部頭〈○井伊直政〉是を聞て、御誓約と宣ふ御眞翰、御所持にやと語りければ、中々慥成御神盟の一紙こそ候へ、御目に可レ懸とて取出す、掃部頭手水嗽し、是を拜見し、可レ違もなき御直判にて、是ほどの證據ゆめ〳〵うけたまはらず、但此御神文掃部頭にたまわるべし、申請つとて押戴寸々に引裂給ひけり、昔は百万石はさて置、貳百万石も參らせ度こそ、東照宮思召けめ、只今御覽ぜば、何國にて加恩の地候哉なまじいに此書付、貴宅に取傳られて、上〈江〉も御 代々の御願ひ事絶ず、此事申募らるゝほど、無レ詮事にて候、公私ニ付、無益の事引出しては、何の用そや、且は家の爲を思はさるべし掃部頭が申請て、かく仕る次第、御神文の慥成事、早々達二上聞一可レ申也、相構て此事思召とゞめられよと、思ひ切たる仕形顔色、さし向ひに手を可レ究掃部頭がかようの事なれば、陸奧守をはじめ、暫く物をもいわず、家司以下、次に詰たる者共も、掃部頭が威にのまれけるが、伊達家の面目に備ふる御神文引さかれながら、とかふ申者なし、陸奧守も一應は存よか申されけれ共、掃部頭が道理に屈伏して、此上は家の事、賴むよしをぞ申されけるとかや、
p.0140 忠良〈○本多〉御道の警衞うけたまはり、家人等數多引具して、兩國橋のこなたの大路を固めしに、この時、御船にて、淺草川を南に下らせ給ひ、御船も近よらむほど、火におはれし雜人等、老たる若き、にげ迷ひて、橋を渡らんと、つどひ來りけるに、徒士かたくとゞめて、通さゞリしを、忠良見かねて、〈○中略〉たゞわがはらからひに任せられよ、忠良其罪かうぶるべし上いひければ、徒士もさらばとて、橋を通しける、