p.1211 禮ハ、イヤト云ヒ、又ウヤマフトモ云フ、卽チ恭敬ノ義ナリ、此篇ニハ其行迹ニ顯ハレタル最モ著キモノヽミヲ收載ス、而シテ起居動作ヨリ、冠、婚葬、祭等ニ至ル、謂ユル禮式ニ關スル事ハ、別ニ其部アレバ、多ク省略ニ從ヘリ、
謙讓ハ、ユヅルト云ヒ、又ヘリクダルト云フ、卽チ人ヲ推敬シテ、自ラ退讓スルヲ謂フナリ、
p.1211 礼〈レイ亦作レ禮〉
p.1211 禮、礼、〈竝正、多行二上字一、〉
p.1211 也、〈見二禮記祭義一、周易字卦傳、 足所レ依也、引二伸之一凡所レ依皆曰レ 、此假借之法屨 也、禮 也、 同而義不レ同、〉所二㠯事レ神致一レ福也、从レ示从レ豐、〈禮有二五經一、莫レ重二於祭一、故禮字从レ示、豐者行レ禮之器、〉豐亦聲、〈靈啓切、十五部、〉
p.1211 禮體也、得二事體一也、
p.1211 元年六月、有司以レ禮(イヤ/コトハリ)收葬、
p.1211 四年〈○宣化〉十月、山田皇后怖謝曰、〈○中略〉今皇子〈○欽明〉者敬レ老慈レ少、禮二下(イヤマヒタマヒ)賢者一、
p.1211 五十一年八月、初日本武尊、〈○中略〉所レ獻二神宮一蝦夷等晝夜喧譁、出入無レ禮(ウヤナシ)、
p.1211 うや 日本紀に禮をよめり、ゐやの轉ぜるなり、無禮をうやなしとよめり、
p.1211 恭イヤ〳〵シ 敬〈イヤマフウヤマフ〉
p.1212 敬は都々斯美と訓べし、〈○中略〉また此字を韋夜麻比とも訓來れり、韋夜は禮にて麻比は辭なり、
p.1212 禮は上の人をうやまひ、下となる人をも、それ〴〵にあひしらひをするなり、
p.1212 禮
孔子曰、禮先王所下以承二天之道一、以治中人之情上ト云テ、禮ト云モノハ、先代ノ帝王ノサダメヲカレタ事也、承二天之道一トハ、天ハ尊、地ハ卑シ、天ハタカク、地ハヒクシ、上下差別アルゴトク、人ニモ又君ハタツトク、臣ハイヤシキゾ、ソノ上下ノ次第ヲ分テ、禮義法度ト云フコトハ、定メテ人ノコヽロヲヲサメラレタゾ、程子曰、禮ハ只是一箇序ト云タゾ、禮ハ序ノ一字ゾト云コヽロゾ、序ト云ハ次第ト云フコヽロゾ、禮ト云モノハ、尊卑有レ序、長幼有レ序ゾ、〈○中略〉禮ハ敬フユヘデアルゾト云コヽロゾ、禮ハ敬ナリト云テ、禮ト云字ハ敬ト云字ノ心ゾ、故ニ曲禮毋レ不レ敬ト云ゾ、朱文公ハ禮之本在二于敬一ト云タホドニ、敬ヲ禮ト云、ソ、ゲニモ君ヲ君トシ、父ヲ父ト、スルハ敬デアルゾ、〈○下略〉
p.1212 禮トハ、天理之節文、人事之儀則トテ、天道ニアリテハ、日月星辰、春夏秋冬ノタガイニカハリ、タガイニアキラカナルゴトク、人ノ道ニトリテ、衣冠裝束ニイタリテ、手ヲカヾメ、足ヲヒザマヅキ、物ヲイヒ、腰ヲカヾムル矣第アルヲナスナリ、心ニハ上ヲカロシメズ、下ヲアナドラズ、萬事ヲ人ニユヅリテ、ツヽシミヲゴル心ナキヲ申スナリ、ヨク禮ヲ行ナハヾ、邪淫戒イカヾアランヤ、
p.1212 禮
禮者民之所二由生一也、所二以制一レ中也、卽レ事之治也、知レ禮行レ禮者聖人也、無レ罐則手足無レ所レ措、耳目無レ所レ加、進退揖讓無レ所レ制、居處、閨門、朝廷、文事、武備、宮室、器用、以レ禮則安也、禮非二矯レ情飾一レ外、有二自然之節一、不レ得レ已之道也、聖人之敎、唯在二禮樂一、
p.1212 禮 禮は心につゝしみありて、人をうやまふを本とし、萬事を行ふに則にしたがひて、正しく理あるを文とす、則とは作法なり、孝經に禮敬而已矣、言ふ意は禮は敬を專とす、而已とは此の外にはなしと云ふ詞なり、朱子曰、禮の本は在二于敬一レ人、人をうやまふは心のつゝしみよりおこる、人をうやまふも、其の人をあはれむ心より出づる故、朱子も禮は仁のあらはれたるなりといへり、禮記曰、禮は理也周子曰、理曰レ禮、理はすぢめなり、すぢめとは、萬事を行ふに、各正しき則ありて、其の則にちがはざるは卽理なり、禮にしたがへば、萬事正しくしてをさまる、理にしたがはざれば、萬事邪にしてみだれて行はれず、朱子曰、禮は天理の節文、人事の儀則なり、天理は自然に定まりてかくのごとくなるべき道理なり、節文は過不及なき、よきほどなるを云ふ、節は過ぎざるなり、文は不レ及なきなり、うやまひ過すは節にあらず、うやまひたらざるは文にあらず、かざり過るは節にあらず、いやしくしてふつゝかなるは文にあらず、是皆理にたがひて禮にあらず、萬事の節文皆かくのごとし、人事の儀則とは人の行ふわざの、行儀にあらはれたる作法なり、視聽言動の四の身のわざも、萬事の制行も、よきほどなる自然の法あり、是人事の儀則なり、中庸には親レ親之殺、尊レ賢之等、禮所レ生也といへり、言ふ意は、親類をしたしむは仁なり、其の内に父子兄弟諸父從兄弟などの品あり、其の親疎尊卑の次第同じからざる、是親レ之之殺也、賢を尊ぶは義なり、人に大賢あり、小賢あり、才能ある人あり、舊識恩德ある人あり、其の内に大小高下の品あり、是尊レ賢之等也、親類の品に應じてしたしみ、大賢小賢の品によりてうやまふは、是卽禮の生ずる所なり、しかれば禮は仁義を行ふに、各其の品にしたがひて、程よきをいへり、
p.1213 禮〈三則〉
禮者道之名也、先王所制作一四敎六藝、是居二其一一、所レ謂經禮三百、威儀三千、是其物也、六藝、書數爲二庶人在レ官者、府史胥徒專務一、御亦士所レ職、射雖レ通二乎諸侯一、其所レ謂射、以二禮樂一行レ之、非レ若二民射主レ皮者比一焉、唯禮 樂乃藝之大者、君子所レ務也、而樂掌二於伶官一、君子以養レ德耳、至二於禮一則君子以レ此爲二顓業一、是以孔子少以レ知レ禮見レ稱、之レ周問二禮於老聃一、之レ郯、之レ杞、之レ宋唯禮之求、子夏所レ記、曾子所レ問、七十子皆斷二斷於禮一、見二檀弓諸篇一、三代君子之務レ禮、可二以見一已、蓋先王知二言語之不一レ足二以敎一レ人也、故作二禮樂一以敎レ之、知二政刑之不一レ足二以安一レ民也、故作二禮樂一以化レ之、禮之爲レ體也、蟠二於天地一、極二乎細微一、物爲二之則一、曲爲二之制一、而道莫レ不レ在焉、君子學レ之、小人由レ之、學之方習以熟レ之、默而識レ之、至二於默而識一レ之、則莫レ有レ所レ不レ知焉、豈言語所二能及一哉、由レ之則化、至二於化一、則不レ識不レ知順二帝之則一、豈有二不善一哉、是豈政刑所二能及一哉、夫人言則喩、不レ言則不レ喩、禮樂不レ言、何以勝二於言語之敎一レ之也、化故也、習以熟レ之、雖レ未レ喩乎、其心志身身體、旣潛與レ之化、終不レ喩乎、且言而喩、人以爲其義止レ是矣、不三復思二其餘一也、是其害、在レ使二人不上レ思已、禮樂不レ言、不レ思、不レ喩、其或雖レ思不レ喩也、亦未レ如二之何一矣、則旁學二他禮一、學之博、彼是之所二切劘一、自然有二以喩一焉、學之旣博、故其所レ喩、莫レ有レ所レ遣已、且言之所レ喩、雖二詳説一レ之、亦唯一端耳、〈○下略〉
p.1214 五常の事
一禮といふは、我より目上なる人をば、あがめゐやまひ、目下なる人をもいやしめず、あなどらず、我をへりくだりて、人にほこらず、おごる事なきを禮といふなり、
p.1214 一書曰、〈○中略〉有二豐玉姫侍者一、〈○中略〉見二天孫一〈○火折尊〉卽入吿二其王一曰、吾謂二我王獨能絶麗一、今有二一客一彌復遠勝、海神聞レ之曰、試以察レ之、乃設二三床一請入、於レ是天孫於二邊床一則拭二其兩足一、於二中床一則據二其兩手一、於二内床一則寬二坐於眞床覆衾之上一、海神見レ之、乃知二是天神之孫一、益加二崇敬一云云、
p.1214 三年、中臣鎌子連爲レ人忠正有二匡濟心一、乃憤下蘇我臣入鹿失二君臣長幼之序一、挾中闚二 社稷一之權上、歷試接二王宗之中一、而求下可レ立二功名一哲主上、便附二心於中大兄(○○○)一、〈○天智〉疏然未レ獲レ展二其幽抱一、偶預下中大兄於二法興寺槻樹之下一打毱之侶上、而候二皮鞋隨レ毱脱落一、取二置掌中一前跪恭奉(ツヽシムデ)、中大兄對跪敬執(イヤマヒ)、自レ玆相善、倶述レ所レ懷、旣無レ所レ匿、
p.1215 慶雲元年七月甲申朔、正四位下粟田朝臣眞人自二唐國一至、初至レ唐時、〈○中略〉唐人謂二我使一曰、亟聞、海東有二大倭國一、謂二之君子國一、人民豐藥、禮義敦行、今看二使人一、儀容大淨、豈不レ信乎、語畢而去、
p.1215 天長十年三月乙巳、天皇御二紫宸殿一、皇太子〈○恒貞〉始朝覲、拜舞昇レ殿、東宮采女羞レ饌、未レ及レ下レ箸、勅賜二御衣一、受レ之拜舞、早退、以二當日須一レ拜二謁兩太上天皇一也、于レ時皇太子春秋九齡矣、而其容儀禮數、如二老成人一、
p.1215 承和七年七月庚辰、右大臣從二位皇太子傅藤原朝臣三守薨、〈○中略〉立性温恭、兼明二決斷一、招二引詩人一、接レ杯促レ席、參朝之次、有二一兩學徒一遇二諸塗一、必下レ馬而過之、以レ此當時著稱、
p.1215 齊衡三年七月癸卯、權中納言兼左衞門督從二位藤原朝臣長良薨、長良贈太政大臣正一位冬嗣之長子也、志行高潔、寬仁有レ度、弘仁十三年爲二内舍人一、仁明天皇在二儲宮一時、晨昏侍坐、花時月夜戯席射場、天皇毎許以二交敵之恩一、長良逾修二冠帶一、不二敢和狎一、
p.1215 このおとゞ〈○藤原實賴〉はたゞひらのおとゞの一男におはします、〈○中略〉おのゝみやの南おもてには、御もとゞりはなちていでさせ給事なかりき、そのゆへは、いなりのすぎのあらはにみゆれば、明神御らんずらんに、いかでかなめげにてはいでんとの給はせて、いみじくつつしませ給に、をのづからおぼしわすれぬるおりは、御袖をかづかせ給てぞ、おどろきさはがせ給へる、
p.1215 貞信公〈○藤原忠平〉なつめをあひしてまいりけり、式部卿親王の家によきなつめの木ありけり、其木をおろし枝にせられて、手づから身づから、花山院の北對のにしの妻戸の庭前にうへ給ひけり、是によりて其木左右なき名木にていまだ有、花山院太政大臣〈○藤原師實曾孫忠雅〉の三位の中將の時、法性寺殿〈○師實曾孫忠通〉攝政にて、六條坊門烏丸の御亭より、土御門内裏へまいらせ給ふには、近衞東洞院は便路なれば、もつとも此大路をこそとをらせ給べきに、いかにもよけさせ 給ひけり、をのづから此大路をすぎさせ給とては、東洞院にしの四足をばすぎて、その棟門のまへにては、御車のすだれをおろされ、前驅以下を馬ゟおろされけり、人あやしみて其子細を尋申ければ、ときの攝政、三位の中將をうやまふにあらず、亭に貞信公のまさしく手づからうへ給へる名木あり、かれに禮を致也、此事京極大殿〈○師實〉つぶさにしめし給旨、分明也とそ仰られける、
p.1216 文治五年九月七日甲子、宇佐美平次實政、生二虜泰衡郎從由利八郎一、相具參二上陣岡一、而天野右馬允則景、生虜之由相二論之一、二品〈○源賴朝〉仰二行政一、先被レ注二置兩人馬幷甲毛等一之後、可レ尋二間實否於囚人一之旨被レ仰二景時一、〈○中略〉景時頗赦レ面、參二御前一申云、此男惡口之外無二別言語一之間、無レ所レ欲二糺明一者、仰云、依レ現二無禮一、囚人咎レ之歟、尤道理也、早重忠〈○畠山〉可レ召二間之一者、仍重忠手自取二敷皮一、持二來于由利之前一令レ坐レ之、正レ禮而誘云、携二弓馬一者、爲二怨敵一被レ囚者、漢家本朝通規也、不レ可三必稱二耻辱一之、就レ中故左典厩〈○源義朝〉永曆有二横死一、二品又爲二囚人一、令レ向二六波羅一給、結句配二流豆州一、然而佳運遂不レ空、拉二天下一給、貴客雖レ令レ蒙二生虜之號一、始終不レ可レ貽二沈淪之恨一歟、奧六郡内、貴客備二武將譽一之由、兼以留二其名一之間、勇士等爲レ立二勳功一、搦二獲客一之旨、互及二相論一歟、仍云レ甲云二馬毛付一畢、彼等浮沈可レ究二于此事一者也、爲下著二何色之甲一者上被二生虜一給哉、分明可レ被レ申レ之者、由利云、客者畠山殿歟、殊存二禮法一、不レ似二前男奇恠一、尤可レ申レ之、著二黑糸威甲一、駕二鹿毛馬一者、先取レ予引落、其後追來者、嗷々而不レ分二其色貝云云、重忠令二歸參一、具披二露此趣一、件甲馬者實政之也、已開二御不審一訖、
p.1216 寬喜四年〈○貞永元年〉十一月廿八日、武州〈○北條泰時〉爲二御當番一、今夜宿二侍于御所一給、而御共侍持二參御筵一、不レ可レ布二御疊之上一、昵二近于人一之者、爭不レ辨二此程之禮一哉、尤耻二傍輩推察一之由被レ仰、出羽前司民部大夫入道、以下宿老兩三輩、候二其所一承レ之、周防前司親實、此事可レ爲二末代美談一之由、濳感二申之一云云、
p.1216 貞永二年〈○天福元年〉正月十三日、武州〈○北條泰時〉參二右大將家〈○源賴朝〉法華堂一給、今日依レ爲二御忌日一也、到二彼砌一、布二御敷皮於堂下一坐給、御念誦移レ剋、此間別當尊範令二參會一、可レ有二御堂上一之由、頻雖レ申レ之、御在世之時、無二左右一不レ參二堂上一、薨御之今、何忘レ禮哉之由被レ仰、遂自二庭上一令レ歸給云云、
p.1217 長祿四年〈○寬正元年〉七月六日庚辰、春公之父常久字昌運〈○細川、中略、〉爲レ人純實而果勘、事二父霄岸有二孝行一、出入則必吿レ之、自二其少時一、未嘗不レ著二衣冠一不レ見二霄岸一、霄岸又遇レ之太恭謹、其禮若レ接二嚴賓一也、
p.1217 東照宮〈○德川家康〉大度勇略におはしませし事は、誠に申も愚なり、中にも禮儀を正させ給ひしかば、今川義元討死の桶挾間を御鷹狩にて、過させ給ふ時、必御馬より下させ給ふ、これは御幼時、義元のよしみを思召出されての事なりけり、上杉景勝に途中にて行逢せ給ふ時、輿より下りさせ給ふ、是も父謙信のよしみを思召ての御事なり、
p.1217 勝賴〈○武田〉亡て後、信長、信玄の館を見んとて、馬を乘入んとせられしに、馬進まざりしかば、引返されけり、東照宮は、程經て甲州を治めさせ給ふ時、信玄の館の跡、御覽の時、館の門外にて、御馬より下させたまひしとぞ、
p.1217 蒲生〈○氏郷〉は江州の士なり、佐々木承禎の臣なりし、後信長に事へ、又太閤に仕ふ、氏郷は勝れたる人也、始は勢州松坂にて、十二萬石を所領す、夫より直に會津百二十萬石を領す、太閤の時也、此時四十歲許也、承禎は江州一ケ國を領して大名也、信長に滅されて江州を取らる、承禎の子は四郎殿とて、太閤の時は咄の者に、成て、知行二百石也、蒲生は其臣たりしが、百萬石餘を領す、伏見などにて、太閤の御前に侍て、退參の時、氏郷昔を思て、刀を持て從はれし事ありしとぞ、
p.1217 一細川三齋の兒小姓に、當座指料の刀を給はる事ありしに、謹て頂戴して腰にさし、頭を座につけ色代し、其後彼刀を三齋の左りの脇になをしをき、たちさりて指かへの刀をもち來り、拜領せし刀に取かへて退けり、若輩の身として、奇特なる心ばへ也、上下かんじあへりしと也、
p.1217 阿閉掃部
秀康卿、越前に封ぜられ給ひし後、阿閉掃部とて、武功の譽ありし者を、厚祿にて召抱られけり、〈○中〉 〈略〉掃部〈○中略〉某一生の内に、武者振の見事なる士を一人見申て候、その事をはなし申べし、江州志津嶽の戰に、暮方に某一騎余吾の湖のわたりを引候ひしに、〈阿閉掃部が父は阿閉淡路守とて、明智にくみしけるとなん、然れば志津嶽合戰の時、掃部は柴田方にてあるべし、〉敵とおぼしくてうしろより詞をかけし故、馬を引返し候へば、其人申候は、今朝よりかせぎ候へども、よき敵にあひ申さず候、御人體を見うけ幸とこそ存候へ、御不祥ながら御相手になり申べきとて、すゝみより候故、それこそこなたも望む所にて候へとて、たがひに馬をのりはなし、すでに鎗をあはせんとしけるに、其人しばし御待候へ、今朝より雜兵をおほく突崩し候故、鎗よごれて候まゝ、鎗をあらひ候て御相手になり候、はんとて、余吾の湖に鎗を打ひたし、二三遍あらひつゝ、さらばとて突あひしが、久しく勝負なかりし程に、日も暮はてゝものゝあやめも見へずなりぬ、其時あなたより又詞をかけ、もはや鎗先も見へず候、御殘多くは候へども、是までにて候、御いとま申候べし、御名こそ承たく候、某は靑木新兵衞と申者にて候とて、某が名をも承り候て、此後又陣頭にて出合候はゞ、たがひに人手にはかゝり申まじく候、もし又味方にて候はゞ、わりなく入魂いたし候べし、さらばとて立わかれしが、是程見事なる武士はつゐに見侍らず、いかゞなりはて候にやと語りける、〈○下略〉
p.1218 正月の拜賀に、無官の輩謁見終りて後、けふの賀班に、織田右近が居しとみえたり、かれは正しく右府〈○織田信長〉の後にて名家なれば、總禮をうくべきにあらず、しばし退散をとゞめ候へと仰て、ことさら出御ありて、右近一人が賀をうけさせられしとぞ、
p.1218 經典を繙き玉ふにも、〈○德川綱吉〉收めらるゝにも、必らず拜戴したまひ、御講義をし玉ふには、御刀御指添共に、はるか御座をはなされて置れしなり、こは經籍に臨みたまへば、先聖に對し玉ふ、御思召にて、かく御崇敬ありしなり、
p.1218 公〈○池田光政〉泮宮ニ至ラセ給フ時ハ、必禮服ヲ召給ヒ、必ズ遠ク乘輿ヲ止テ、オリサセ 給フ、今ノ小畠儀左衞門ガ門前ヨリ、北へ過サセタマフコトナシ、
p.1219 歷世の靈廟、公〈○德川吉宗〉の御時にいたり、東叡三緣の兩山にて、旣に七廟に及べり、これ古禮、天子七廟の制に嫌ひなしとせず、末の世のならはしにて、かくはなり來りし事ながら、歷世建置れし諸廟を、我世にあたり減ずべきにあらず、わが百歲の後は、新に廟を建べからず、常憲院殿〈○德川綱吉〉の廟中に配祀すべしと仰出されけり、その後、大猷院殿〈○德川家光〉の靈廟火災にかゝりければ、これをも嚴有院殿〈○德川家綱〉の廟に配祀させ玉ひ、遂に當家の定制となされたりこれも費用をおしませ玉ふにあらず、禮數を定め玉へるみこゝろざしとぞ聞えし、
p.1219 一當上樣〈○德川吉宗〉御盛德の事、狩野探幽、堯舜より以來、代々の聖人を畫たる極彩色の六枚屛風有、舜などには鳳凰の成儀を書ならべ、其形見事成物なるを、先年御物にも成らんかと上覽に入けり、久敷其儘御差置被レ成、十七日御忌日、麻上下召候御時に、始て上覽ありて、上意に尤見事成繪なれ共、聖人の像を懸物抔にして、床に掛なビするは不レ苦、屛風と云物は、筵席の上に置て、平生對坐しても見るもの也、屛風抔に聖賢の像を書て、見る事勿體なき事に思召候間、御返し被レ成候由上意なり、常々聖像には、假初にも上下召ずしては、御對し不レ被レ成候、
熊本侯學者ヲ優待シ玉フ事
附錄 伊形正助ト申スハ、木葉村ノ百姓ナリシガ、詩上手ナリトテ撰擧セラレ、俸祿ヲ給ハリタリ、其比堀平太左衞門公所ニテ、始テ出合ヒ、正助ニ向ヒ、此以後ハ懇意致シタシ、〈○中略〉其後平太左衞門、外ノ儒者ニ對談ノ節、物語リシケルハ、サテモ學德ト申スモノハ、不思議ナルモノナリ、先日用事ニツキ、伊形正助ニ、返書ヲ認メタルニ、已ニ書調ヘシ上ニテ見レバ、何トカ無禮ナル辭アルヤウニテ落付ズ、又書直シ見テモ、兎角宜シカラズ、凡三度調直シテ、漸ク成就シタリ、日用ノ書狀ヲ調直シタルコトハ、多クハ無リシニ、不思議ナルモノナリ、正助ハ輕キ新參ノ扶持人ナレド、偏
ニ學問ノ德ニ推サレタルナリト云へリ、
p.1220 禮
君をあふぎ臣をおもひてかりそめもたかきいやしき禮儀みだすな
○
p.1220 謙〈去嫌反 ヘル ユツルウヤマフ 和ケ厶〉
p.1220 謙讓(ケンシヤウ) 謙下 謙恭
p.1220 謙(ヘリクダル) 遺(同)〈音隨、毛詩、〉
p.1220 謙退(ケンタイ) 謙讓(ケンジヤウ) 謙下(ケンゲ) 謙辭(ケンジ)
p.1220 雄朝津間稚子宿禰天皇、〈○允恭、中略、〉天皇自二岐嶷一至二於總角一、仁惠儉下(ヘリクダリ玉ヘリ)、
p.1220 六年〈○反正〉正月、瑞齒別天皇〈○反正〉崩、爰群卿議之、〈○中略〉選二吉日一、跪上二天皇之璽一、雄朝津間稚子宿禰皇子、〈○允恭〉謝曰、〈○中略〉更選二賢王宜レ立矣、寡人弗二敢當一、群臣再拜言、夫帝位不レ可二以久曠一、天命不レ可二以謙距(ユヅリフセグ)一、〈○下略〉
p.1220 謙(ヘリクダル) へりは減(ヘル)也、身のたうときとかしこきとを、へらして人にくだる也、へりくだるは、萬の善の本なり、萬善これよりおこる也、わが身をあしきと思へば、ひたもの善にすゝむゆへなり、
p.1220 四十一年〈○應神〉二月、譽田天皇〈○應神〉崩、時太子莵道稚郎子讓二位于大鷦鷯尊一、〈○仁德〉未レ卽二帝位一、〈○中略〉旣而興二宮室於莵道一而居之、猶由レ讓二位於大鷦鷯尊一、以久不レ卽二皇位一、爰皇位空之旣經二三載一、時有二海人一賷二鮮魚之苞苴一、獻二于菟道宮一也、太子令二海人一曰、我非二天皇一乃返之、令レ進二難波一、大鷦鷯尊亦返以令レ獻二菟道一、於レ是海人之苞苴鯘二於往還一、更返レ之取二他鮮魚一而獻焉、讓如二前日一、鮮魚亦鯘、海人苦二於屢還一、乃棄二鮮魚一而哭、故諺曰、有海人(アマナレヤ)耶、因己物以泣(オノガモノカラ子ナク)、其是之緣也、太子曰、我知レ不レ可レ奪二兄王之志一、豈久生之煩二天下一乎、乃自死焉、時大鷦鷯尊聞二太子薨一以驚之、從二難波一馳之到二莵道宮一、爰太子薨之經二三日一、時大鷦鷯尊標 擗叫哭不レ知レ所レ如、乃解レ髮跨レ屍以三呼曰、我弟皇子、乃應レ時而活、自起以居、爰大鷦鷯尊語二太子一曰、悲兮惜兮、何所以歟、自逝之、若死者有レ知、先帝何謂レ我乎、乃太子啓二兄王一曰、天命也、誰能留焉若有レ向二天皇之御所一、具奏二兄王聖之且有一レ讓矣、然聖王聞二我死一以急二馳遠路一、豈得レ無レ勞乎、乃進二同母妹八田皇女一曰、雖レ不レ足二納綵一、僅充二掖庭之數一、乃且伏レ棺而薨、於レ是大鷦鷯尊素服爲之發レ哀、哭之甚働仍葬二於菟道山上一、
p.1221 延曆十五年七月乙巳、右大臣正二位兼行皇太子傅中衞大將藤原繼繩薨、〈○中略〉繼繩歷二文武之任一、居二端右之重一、時在二曹司一、時就二朝位一、謙恭自守、政跡不レ聞、雖レ無二才識一、得レ免二世譏一也、
p.1221 承和九年十月壬午、彈正尹三品阿保親王薨、〈○中略〉親王素性謙退、才兼二文武一、〈○下略〉
p.1221 貞觀元年四月廿三日戊申、大納言正二位兼行民部卿陸奧出羽按察使安倍朝臣安仁薨、〈○中略〉安仁志尚謙虚、愛レ公如レ家、顧謂二子弟一云、諸國調貢、多入二封家一、納レ官者少、所レ食邑於レ身有レ餘、乃上表曰、帶職兩三官周二旋於具瞻之地一、食邑八百戸、盈二溢於尸素之身一、伏望減二大納言之所食一、給二中納言之所封一、帝感二安仁之有一レ讓、特許二其所一レ請、
p.1221 兩大臣〈○左大臣藤原時平、右大臣菅原道眞、〉天の下の政をせられしかば、右相は年もだけ才もかしこくて、天下の望むところなり、左相は譜代の器なりければすてられがたし、あるとき上皇〈○宇多〉の御在所朱雀院に行幸、猶右相にまかせらるべしと、いひさだめありて、すでにめしおほせ給ひけるを、右相かたくのがれ申されてやみぬ、
p.1221 天曆三年正月廿一日、頭有相參來、仰〈○藤原師輔〉云、御病重由助憂不レ少、爲二息災一給二度者五十人一者、復命云、依二臣下病一息給之例雖レ有二一兩一、是爲二有功勤公之輩一也、今臣年來纏二病痾一無レ由二出仕一、而蒙二不渥之恩一、不レ知レ所レ奏者、此仰具承、中納言傳之、被物白大褂 一重、
p.1221 貞信公〈○藤原忠平〉太政大臣ニ成給テノ給ヒケル、我カタジケナク、人臣ノ位ヲキハム、コノカミ時平大臣ヲ、太政犬臣ニナサルベキヨシ、前皇オホセラレケルニ、カノオトヾ奏シテ申 サク、弟忠平必此官ニイタルベシ、一門ニ二人イルベカラズトテ、勅命ヲウケズトイヒキ、〈○下略〉
p.1222 これもいまはむ、かし、月の大將星を犯といふ勘文をたてまつれり、よりて近衞大將、をもくつふしみ給べしとて、小野宮右大將はさま〴〵の御いのりどもありて、春日社、山階寺などにて、御所あまたせらる、そのときの左大將は、枇杷左大將仲平と申人にてぞおはしける、東大寺の法藏信都は、此左大將の御所の師なり、さだめて御所のことありなんと待に、をともし給はねば、覺束なきに、京に上りて、枇杷殿にまいりぬ、殿あひ給ひて、何事にてのぼられたるぞとの給へば、僧都申けるやう、奈良にてうけ給れば、左右大將つゝしみ給べしと、天文博士勘申たりとて、右大將殿は、春日社、山階寺などに御いのりさま〴〵に候へば、殿よりもさだめて候なんと思給て、案内つかうまつるに、さることもうけ給はらずと、みな人はおぼつがなく思給て、まいり候つるなり、なを御所候はんこそ、よく候はめと申ければ、左大將の給やう、尤ゑかるべきことなり、されどをのがおもふやうは、大將のつゝしむべしと申なるに、おのれもつゝしまば、右大將のためにあしうもこそあれ、かの大將は、才もかしこくいますかり、年もわかし、ながく大やけにつかうまつるべき人なり、をのれにおきては、させることもなし、年も老たり、いかにもなれ、何條ことかあらんとおもへば、いのらぬなりとの給ければ、僧都いろ〳〵と打なきて、百千の御祈にまさるらん、この御心の定にては、事のをそれ更に候はじといひてまかでぬ、されば實にことなくて、大臣になりて、七十餘までなんおはしける、
p.1222 東大寺供養の時、鎌倉右大將〈○源賴朝〉上洛有けるに、法皇〈○後白河〉より寶藏の御繪共を取出されて、關東にはありがたくこそ侍らめ、見らるべきよし仰つかはされたりけるを、幕下申されけるは、君の御秘藏候御物に、いかでか賴朝が眼をあて候べきとて、恐をなして、一見もせで、返上せら、れにければ、法皇は定て興に入らんと思召たりけるに、存外にぞ思食されける、
p.1223 一ある時、古田大膳、靑木民部少輔に向ひ、貴殿は越前の眞柄をうち給ひしと也、其時の樣子かたり給へかし、承たくぞんじ候といはれしに、眞柄といひしものは、大剛大力のものにて、我等などにうたるべきものにあらず、折ふしの仕合よくて、眞柄手負ひ、くたびれし所へ、ゆきかゝりてうちし故、なにの樣子もなく候ひしとこたへられけり、かたるにかざりなくの給ふやうかなと、大膳ことの外、聞人みな感じける也、
p.1223 東照宮、後稻田に御感狀を賜ふ、太平の後、御旗本の人々、稻田に逢て、大坂夜討の時の事語られよといひしに、九郎兵衞聞て、十五の年の事、隔りてみな忘れたりとて、强て問ども一言もいはず、公方より賜りたる感狀の詞をとへども、存寄ざる賞を得て、深くをさめ置、再び見たる事なければ、これも忘れたりとて、語らざりしとなり、
p.1223 輝元、餘多の國々沒收せられ、周防、長門兩國を給はり、長門國をば、秀元にゆづりあたぶべしと仰せ下さる、秀元此由を承り、輝元が嫡子のはべれば、兩國の事をば、彼にこそ給ふべけれと申して、我身は僅に豐東豐西豐田三郡を領し、長門の長府に住して、長門守秀就が成人の程、彼家の事を執り行ひ、常に關東に伺候す、
p.1223 一本多中務少輔忠勝、病デ卒スル時〈○中略〉我黃金一萬五千兩ヲ儲ヘオキヌ、次子出雲守忠朝ハ小身ナレバ、此黃金ヲ與ベシトノ遺言ナリ、〈○中略〉忠政〈○中略〉黃金ヲ封ジテ、忠朝ニ與ズ、〈○中略〉忠朝〈○中略〉黃金ヲ取ル心ナシ、〈○中略〉忠政之ヲ耻ヂテ、皆忠朝ニ與タレ共、忠朝固辭ス、忠政ハ父ノ書置不レ可レ違ト云、忠朝ハ次子、其家ノ財ヲ專ニスベカラズト云テ、兄弟互ニ相讓ラル、一門ノ人々感レ之、黃金ヲ二ツニ分テ、半ヲ忠政、半ヲ忠朝ニト定ラレケレバ、忠朝マヅ其裁判ニ任セナガラ、急用アラバ、時ニ當リテ申請クベシトテ、封ヲ解カズ、忠政ノ倉ニ置テ、身ヲ終ルマデ、一金ヲモ不レ取、
p.1224 三宅寄齋
寄齋資性謙虚、退讓自將、不三敢欲二名高一、雖レ然聞二其操行一、慕附者衆矣、特與二藤惺窩一交情最密、惺窩長二于寄齋一十九歲、而能愛二敬之一、稱以爲二謙厚君子一、
p.1224 貝原益軒
益軒貝原氏、諱篤信〈○中略〉その學博く和漢に亘れること、等輩尠しといへども、性甚謙にして、只身の及ざることを恐れ、名に近づくことを喜ばず、常に言、吾人に長たることなし、但恭默道を思ふのみと、
p.1224 或人ノ話ニイフ、先生〈○貝原益軒〉諸國ヲ巡リ、歸國ノ海路ニテ、同船數輩、各姓名ヲトヒキクニモ及バズ、何トナキ物語ドモヲシテ、日ヲ重子シニ、其中一人ノ若キ男人々ニ對シテ、經書ヲ講ズ、先生例ノ恭々シク默シテコレヲ聽テ、一言是非ヲ論ゼズ、著岸シテ、各ハジメテ其郷里ヲ明シ、再會ヲ契テ別ルヽニ臨ミ、先生モ、吾ハ貝原久兵衞ト申者也ト、名ノラルヽヲ聞テ、彼ノ若キ男、大キニ恥オソレテ、速ニニゲサリシトナン、傳ニハ見エザレ共、其爲レ人ノ一端ヲミルベシ、
p.1224 越後の光長朝臣の、御家中騷動につき、家臣荻田主馬、小栗美作を江戸の御城へめし、御前におゐて、對決仰付られ候節、綱豐卿、〈甲府〉御三家の御方も、其席に御詰被レ遊候處に、此席の御座配は、御三家の下へ、綱豐卿御著座の筈の處に、西山公〈○德川光圀〉達て仰られ、御座を綱豐卿へ御ゆづり、西山公は次の座に御著被レ成候、此時綱豐卿は正三位、西山公は從三位にて御座被レ成によつて也、
p.1224 二丸におはしけるほどは、〈○德川吉宗〉いかにも御喪中の御つゝしみうるはしく、少しも御遊樂のけしきなく、常に好せ玉ひし鷹のたぐひ、近づけ玉はざりしが、譜代の人々をばめして、まみへさせ給ふ、これ舊臣を待遇し給ふ盛慮なるべし、またこのほど、尾張水戸の兩 卿拜謁せられし時、公上段より下りかゝらせ給ふを見て、綱條卿〈○水戸〉はしりより、しひてとゞめ進らせられけれど、今日ばかりはと仰ありて、下段にて御對面あり、其後は上段にて、謁をうけ玉ひしとなり、