p.0428 行旅ハ又羈旅ト云フ、上古ハ交通甚ダ不便ニシテ、且ツ旅宿ノ設備ヲ缺キタリシカバ、多クハ山野ニ露宿シ、糧食ヲ負戴シテ飯ヲ炊クモ亦路傍ニ於テセシガ、孝德天皇ノ時、令シテ旅人ノ爲ニ、時弊ヲ矯正セリ、驛傳ノ制、定マリシ後モ、仍ホ公用以外ノ人ニハ、多ク其便ヲ缺キタリシガ、道路漸ク開通シ、且ツ交通ニ關スル設備モ亦益〻發達セシカバ行旅ノ難易亦往昔
ノ比ニアラズ、
凡ソ行旅ヲ爲スニハ、危害甚ダ尠カラザリシヲ以テ、古來旅中ノ安全ヲ神祇ニ祈請シ、幣帛ヲ奉ル等ノ風アリキ、事ハ神祇部祈禳、幣帛兩篇ニ載セタリ、又旅人ノ發足セントスルヤ、親族朋友等、祖宴ヲ張リ、又ハ衣服、調度、詩歌等ヲ贈與シ、或ハ便宜ノ地ニ見送リ、以テ惜別ノ意ヲ致ス、之ヲ餞ト云フ、餞ハウマノハナムケト云ヒ、後ニハ單ニハナムケトモ穩ス、而シテ旅人ノ始テ途ニ上ルヲ、門出、若シクハ鹿島立等ト稱シ、旅人ノ到著シ又ハ歸著スル時、途ニ迎フルヲ坂迎ト稱セリ、
行旅ノ事ハ、驛傳ニ關聯スル所多キヲ以テ、政治部驛傳、宿驛兩篇ヲ參看スベシ、
p.0429 旅タヒ 羇 旅 客〈已上タヒ〉
p.0429 覇旅(キリヨ)
p.0429 行旅
p.0429 羈旅(キリヨ)
p.0429 旅(タビ) 羇(同) 寄(同) 去家(同)
p.0429 羇旅(キリヨ)〈韵會、羇旅寓也、左傳註、羇寄也、旅客也、〉
p.0429 たび 旅をいふ、日本紀に行をもよめり、發日の義成べし、發行も旅行も行度も義同じ、幽齋聞書に、羇旅は大なる旅也、國をも多くへだてたるやうによむべし、旅字ばかりの時は、遠近を限らずとみえたり、〈○中略〉思ふ子に旅をさせよといふ俗語は、程子も旅に在ては、謙降柔和なれば自保すべしといへりとぞ、
p.0429 旅 草枕 ぬさ たむけ〈これはたびの心也、人めを六びといひ、すむわれさへぞたびこゝちするなどいへる、たむけぬさは旅を本とす、見二其外一多、〉
p.0429 くさまくら(○○○○○) 〈たび〉
萬葉卷一に、草枕(クサマクラ)、客爾之有者(タビニシアレバ)云々、こは卷五に、道乃久麻尾爾(ミチノクマビニ)、久佐太袁利(クサタヲリ)、志婆刀利志伎提(シバトリシキテ)てふごとく、草引結びて枕とする意にて、旅には冠らするなり、〈此うた舒明天皇の御代を擧たるに、いひなれしつゞけ樣なれば、いと上つ代より〉 〈いへる詞なりけり、〉
p.0430 大化二年三月甲申、詔曰、〈○中略〉復有下被レ役二邊畔一民上、事了還レ郷之日、忽然得レ疾、臥一死路頭一、於レ是路頭之家、乃謂之曰、何故使三人死二於余路一、困〈○困恐因誤〉留二死者友伴一、强使二祓除一、由レ是兄雖レ臥二死於路一、其弟不レ收者多、復有三百姓溺二死於河一、逢者乃謂之曰、何故於レ我、使レ遇二溺人一、困〈○困恐因誤〉留二溺者友伴一、强使二祓除一、由レ是兄雖レ溺二死於河一、其弟不レ救者衆、復有二被レ役之民一、路頭炊レ飯、於レ是路頭之家、乃謂之曰、何故任レ情炊二飯余路一、强使二祓除一、復有二百姓一、就レ他借レ甑炊レ飯、其甑觸レ物而覆、於レ是甑主乃使二祓除一、如レ是等類、愚俗所レ染、今悉除斷、勿レ使二復爲一、復有二百姓一、臨二向レ京日一、恐二所レ乘馬疲瘦不一レ行、以二布二尋、麻二束一、送二參河尾張兩國之人一、雇令二養飼一、乃入二干京一、於二還レ郷日一、送二鍬 口一、而參河人等、不レ能二養飼一、飜令二疲死一、若是細馬卽生二貪愛一、工作二謾語一、言レ被二偸央一、若是牝馬孕二於己冢一、便使二祓除一、遂奪二其馬一、飛聞若レ是、故今立レ制、凡養二馬於路傍國一者、將二被レ雇人一、審吿二村首一〈首長也〉方授二詶物一、其還レ郷日、不レ須二臾〈○臾恐更恐〉報、如致二疲損一、不レ合レ得レ物、縱違二斯詔一將レ科二重罪一、
p.0430 和銅五年十月乙丑、詔曰、〈○中略〉令二行旅人必齎レ錢爲一レ資、因息二重擔之勞一、亦知二用レ錢之便一、
○按ズルニ、行旅ニ關スル法令ハ、政治部驛傳篇、宿驛篇等ニ載セタルヲ以テ、此ニハ省略セリ、
p.0430 旅客タヒヽト 旅人〈同〉
p.0430 旅客
p.0430 旅人(リヨシン) 旅客(リヨカク)
p.0430 旅客(リヨカク)〈又云遊子〉 旅人(リヨジン) 旅客(タビビト) 旅人(同) 遊子(同) 遊子(ユウシ)〈旅客、義同、文選註、謂二行人也、指南、不レ著二一業一、曰二遊子一、〉
p.0430 二十一年十二月庚午朔、皇太子遊二行於片岡一、時飢者臥二道垂一、仍問二姓名一而不レ言、皇太子視之與二飮食一、卽脱二衣裳一覆二飢者一而言、安臥也、則歌之曰、斯那提流(シナテル)、箇多烏箇夜摩爾(カタヲカヤマニ)、伊比爾惠氐(イヒニエテ)、許夜勢屢(コヤセル)、諸能(ソノ)多比等(タビト/○○)阿波禮(アハレ)、〈○下略〉
p.0430 年のころ廿四五なる男、〈○中略〉もとより旅なれぬ身にて侍べるものをといふ、樂阿彌聞て、あらいとおしや、旅は道づれ世はなさけと云事あり、そなたの樣なる旅なれぬ人は、追 はぎにあひて、ころさるゝか、かたりにあふて一跡をとらるゝか、旅籠や、渡しぶね、所々で損をする事多し、旅には第一、藥をたしなみ、煩ひをふせぐを肝要とす、菓冷水むざとしたる食物をつゝしむべし、夏旅の霍亂は多くは食傷よりおこるなり、あやしき人に道づれして、ひとつ宿にとまりて、荷物をすり替られ、寢たる間だに、とりにげにあふ事あり、夜ふかく宿を出ぬれば、山だち、辻切の氣づかひあり、宿につきては、家の勝手、閑道の要害、見おくべし、座敷の壁に荷物をよせかけておくべからず、疊のおちこみて、やはらかなる所あらば、疊をあげて是をみよ、蚊帳の内ならば、かたわきに立より、壁にそふて臥すべし、夜盜入て、つり手をきり、おしつゝむ時の用心なり、宵にねたる所をば、わきへ替て寢なをれ、太刀かたなは、柄口をわが身にそへておくべし、遊女にたはれて、金銀をぬすまるゝな、たとひよぶとも心ゆるすな、さて道中第一の用心には、堪忍にまさる事なし、船頭、馬かだ、牛遣などは、口がましく言葉いやしう、わがまゝなる者なれば、是にまけじとする時は、かならず大事のもとひとなる、今錢二三文をたかくつかへば、萬事はやくとゝのふなり、扇、笠、きんちやくも、たかき所におくべからず、わすれやすきものなり、旅飯(はたご)錢は宵に渡すべからず、朝たつ時にわたすべし、錢をかふには、金銀を手ばなし、人をたのみて、つかはしぬれば、あしき銀にすりかへらるゝ事あり、しるしをみせて錢をとりよせ、其後にわたすべし、道の右左に神や佛の堂社あらば、手をあはせ心に念じてとをるべし、まもりの神となり給ふ也、まだ此外に色色の事どもあり、後には合點ゆくべし、〈○中略〉いざや道づれになり、道々かたりてのぼらんとて、うちつれ立てぞのぼりける、
p.0431 行脚の覺悟として、自戒自愼の誓語して首にかけし條目、
一不レ惜身命を思定、今日切の境界、無常迅速夢幻泡影忘るまじき事、
一色欲、身欲、名聞欲を可レ離事、附憍慢心可レ愼事、 一五戒勿論也、但し飮酒、妄語の二戒は事によるべし、他の爲善事には僞も可なるべき事、
一山賊追剝等に逢ば裸にて渡すべし、若殺害にをよばゞ、首をのべて待べし、死て敵を取るまじき事、〈附〉四寸の小刀の外、刃を持間敷事、
一衣、食、居は、天道にまかすべし、當季の外、衣は可レ捨事、
一船賃、木ちん、茶代、少しもねぎるまじき事、
一中途にて乞凶非人に慈悲を加べし、かつ病人には所持の藥可レ與事、
一文筆所望なきに書まじき事、但し望む人あらば、貴賎を不レ撰、一言も否といふ詞出す間敷なり、自作の外、他作の文注、書く間敷事、
一一足も馬駕にのるまじき事、但不レ及山上の道は折によるべし、右の九箇條、佛神に誓ひ、心戒を定るものなり、若此意趣を破る心ざし出ば、卽歩に立歸るべし、若病死する事あらば、行脚の日記と、此ケ條を古郷へ送給ふべし、
死て後尸の事は任他取(さもあらばあれ)置にては鳥狼
諸國旅宿衆中 産國勢州射和村大淀氏三千風判
旣に行脚成就の上は、此事ひけらすもいらざる事なれど、かつは後世同氣の行脚人、心づくべきかと、兩紙を費せしになん、
p.0432 餞〈疾演反、上、酒食送人也、又疾箭反、上、諸也、馬乃波奈牟介(○○○○○○)、〉
p.0432 餞〈ハナムク(○○○○)馬餞〉
p.0432 餞別(ハナムケ)
p.0432 つくしへくだりける人に、むまのはなむけ(○○○○○○○)し侍とて、人々さけたうべて、ひねもすにあそびて、夜やう〳〵ふけゆくまゝに、おひぬることなど、いひいだして、よみ侍ける、 慶範法師〈○歌略〉
p.0433 餞(ハナムケ) たびにゆけば、のれる馬のはな、其かたにむくゆへに、たびだつ人に、物をおくるをはなむけと云、馬のはなむけと云事、歌書に多し馬を略してはなむけと云、
p.0433 うまのはなむけ 新撰字鏡に餞をよめり、餞は食にかゝり、贐(○)は貨にかゝる、旅立人を送るとて、馬の鼻向の義也、今略してはなむけといへり、拾遺集に、せんと音にても詞書に見えたり、門出を祝ひて、途中恙なからんために、道祖神に手向するなり、
p.0433 はなむけ 餞をいふ、歌書に多く馬のはなむけといへり、旅立人の馬の鼻に向ひて、餞別するの意也、飮食に餞といひ、貨財に贐といふ、又代にてやるを程儀(○○)などいへり、
p.0433 天曆御時、御めのと肥前が、いではのくにに、くだり侍けるに、せん(○○)たまひけるに、ふぢつぼより、さうぞく給ひけるに、そへられたりける、 よみ人しらず〈○歌略〉
p.0433 倭建命〈○中略〉罷行之時、參二入伊勢大御神宮一、拜二神朝廷一、〈○中略〉罷時、倭比賣命、賜二草那藝劒(○○○○)一、〈廓藝二字以レ言〉亦賜二御囊(○○)一而詔、若有二急事一、解二玆囊口一、
p.0433 みちのくにへまかりける人に、火うち(○○○)をつかはすとて、かきつけける、
貫之
おり〳〵にうちてたく火の煙あらば心さすかをしのべとぞ思
あひしりて侍ける人の、東のかたへまかりけるに、櫻のはなのかたに、ぬさ(○○)をさしてつかはしける、 よみ人しらず
あだ人のたむけにおれる櫻花あふさかまでは散ずもあらなん〈○中略〉
しもつけにまかりける女に、かゞみ(○○○)にそへてつかはしける、 よみ人しらず
ふたご山ともにこえねどます鏡そこなる影をたぐへてぞやる、 しなのへまかりける人に、たきもの(○○○○)つかはすとて、 するが
しなのなるあさまの山もみゆなればふじのけむりのかひやなからん〈○中略〉
いせへまかりける人、とくいなんと心もとながるときゝて、たびのてうど(○○○○○○)など、とらするものから、たゝんかみにかきてとらする、なをばむまといひけるに、 よみ人しらず
おしと思心はなくてこのたびはゆくむまにむちをおほせつる哉〈○中略〉
とをき國にまかりける人に、たびのぐ(○○○○)つかはしける、かゞみのはこのうらにかきつけてつかはしける、 おほくぼののりよし
身をわくる事のかたさにます鏡影ばかりをぞ君にそへつる〈○中略〉
みちのくにへまかりける人に、あふぎ(○○○)てうじて、うたゑにかゝせ侍ける、
よみ人しらず
別行道の雲居になりゆけばとまる心も空にこそなれ〈○中略〉
秋たびにまかりける人に、ぬさ(○○)をもみぢの枝につけてつかはしける、
よみ人しらず
秋ふかくたび行人の手向にはもみぢにまさるぬさはなかりけり
p.0434 ゐ中へまかりける人に、かりぎぬあふぎ(○○○○○○○)つかはすとて、 藤原長能
よのつねにおもふわかれのたびならば心見えなるたむけせましや
p.0434 かくて帥中納言〈○藤原隆家〉祭の又の日〈○長和三年四月〉くだり給べければ、さるべきとこうどころより、御馬のはなむけどもあるなかに、中宮〈○三條后藤原硏子〉より御心よせ思ひきこえ給へりければ、裝束せさせ給て御扇(○)に、
すゞしさはいきの松ばらまさるともそふるあふぎの風なわすれそ、かくて我はかちより、き たのかたはふねにてくだらせ給、
p.0435 そちは、この二十八日になん、船に乘なん日取たりければ、出でたちさらにいとちかし、〈○中略〉おとな三十人、わらは四人、しもづかへ四人なん率てくだる員に定めたりつる日のちかうなるまゝに、はらからたちみなわたりあつまりて、今は別れをしみ、あはれなることをのたまふ、〈○中略〉明後日くだり給ふとて、左の大い殿にたいめんしたてまつらでは、いかでかとて參りたまふ、車の多からんは所せしとて、三つばかりしてなん打わたりける、北のかたたいめんして、聞え給へる事どもは書ず思ひやるべし、たれも〳〵御供にくだる人々に、北のかたいとよくしたる扇(○)二十、螺すりたる櫛(○)、まき繪の箱に白粉(○○)入れて、こゝの人のかたらひけるして、かたみに見たまへとてとらす、子だちも思ふやうに心ばせ有りて、人に思はるゝとうれしく思ゆ、〈○中略〉つとめて文あり、〈○中略〉まき繪の御衣櫃(○○○)一よろひに、かたつかたには、正身の御さうぞく(○○○○○)みくだり、色々の織もの(○○○)うちかさなりたり、上には、唐櫃の大さに滿ちたる幣ぶくろ(○○○○)に、中に扇(○)百いれて打覆ひたまへり、又ちひさき衣ばこ(○○○)一ようひあり、此御むすめにおこせ給へるなるべし、かたつかたには、御さうぞく一具、片つかたには、黃金の箱にしろいもの(○○○○○)入てすゑ、ちひさき御ぐしの箱入れたり、くはしく書べけれどむづかし、
p.0435 五年〈○神龜〉戌辰、大宰少貳石川足人朝臣遷レ任、餞三于筑前國蘆城驛家一歌(○)三首、
天地之(アメツチノ)、神毛助與(カミモタスケヨ)、草枕(クサマクラ)、覊行君之(タビユクキミガ)、至家左右(イヘニイタルマデ)、
大船之(オホフネノ)、念憑師(オモヒタノミシ)、君之去者吾者將戀名(キミガイナバワレハコヒナムナ)、直相左石二(タヾニアフマデニ)、
山跡道之(ヤマトヂノ)、島乃浦廻爾(シマノウラワニ)、緣浪(ヨスルナミ)、間無牟(アヒダモナケニ)、吾戀卷者(ワレコヒマクバ)、
右三首、作者未レ詳、
p.0435 閏三月〈○天平勝寶四年〉於二衞門督大伴古慈悲(コジビ)宿禰家一、餞二之入唐副使同胡麻呂宿禰等一歌二首、 〈○一首略〉
梳毛見自(クシモミジ)、屋中尾波可自(ヤヌチモハカジ)、久左麻久良(クサマクラ)、多婢由久伎美乎(タビユクキミヲ)、伊波布等毛比氐(イハフトモヒテ)、〈作主未レ詳〉
右件歌、傳誦大伴宿禰村上、同淸繼等是也、
p.0436 さだときのみこの家にて、ふぢはらのきよふが、あふみのすけにまかりける時に、むまのはなむけしけるよゝめる、 きのとしさだ
けふわかれあすはあふみと思へどもよやふけぬらん袖の露けき〈○中略〉人のむまのはなむけにてよめる きのつらゆき
おしむから戀しき物を白雲の立なん後はなに心ちせん
p.0436 とをくまかりける人に、餞し侍ける所にて、 橘直幹
おもひやる心ばかりはさはらじをなにへだつらん峯の白雲
p.0436 天曆の御時、小貳命婦、豐前にまかり侍ける時、大ばん所にて餞せさせ給に、かづけ物たまふとて、 御製〈○村上〉
なつ衣たちわかるべきこよひこそひとへにおしき思ひそひぬれ
p.0436 すけのぶの少將、うさの使にてたゝれしに、殿上にて餞に、菊の花のうつろひたるを題にて、別の歌よませ給へる、
さはとをくうつろひぬとかきくのははおりて見だにあかぬこゝろを
p.0436 天平寶字三年正月甲午、大保藤原惠美朝臣押勝、宴二蕃客於田村第一、勅賜二内裏女樂、幷綿一万屯一、當代文士賦レ詩(○○)送別、副使揚泰師、作レ詩和之、
p.0436 會二安秀才一餞二舍兄防州一〈探二得隅字一〉
兄友弟恭不二道無一、勤レ王自與恒親疎、一廻吿レ別腸千斷、我助二君情獨向一レ隅、
p.0437 三年歲暮欲二更歸一レ州、聊述二所懷一、寄二尚書平右丞一、
一離一會宛如レ新、隨念了知是宿因、衞早尚書長劇務、吿歸刺史暫閑人、途中不レ惜分二君手一、夜後將レ論處二我身一、世路難三於行二海路一、飛帆豈敢得二明春一、
p.0437 後三條院、東宮にておはしましける時、學士實政朝臣任國におもむきけるに、餞別のなごりをおしませ給て、御製かゝりけるとかや、
州民縱作二甘棠詠一 莫レ忘多年風月遊
此心は、毛詩云、孔子曰、甘棠莫レ伐、邵伯之所レ宿也、といへる事なり、
p.0437 暮春於二文章院一、餞二諸故人赴一レ任、同賦二別方山水深一、各分二一字一、 慶保胤
夫別者、古今所レ重也、李老贈レ人以レ言、楊子臨レ岐以泣、展二此祖席一、不二且宜一乎、諸故人夜雪開レ秩相携、又欲二數十年一、春風割レ符、一別不レ知二幾千里一、方今其方何處、山重水深、船尾西廻、棹二殘月一而不レ繫、馬頭東去、策二浮雲一而將レ行、於レ是酌二盃酒一以强勸、不レ醉奈二何呉坂楚嶺之寒嵐一、加二飡飯一以莫レ辭、定知帳二然三峽五湖之春浪一、旣而擧レ袂欲レ離、揮レ手重謝、客有二仁智之樂一、自助二山水之心一、於戯西崦日落、南浦春闌、一詠一吟、或留或去、猥接二送レ別之士一、聊記二遺レ恨之篇一云爾、
暮春於二文章院一、餞二諸故人赴一レ任、同賦二別路花飛白一、 江以言
夫離別之爲レ事焉、憂則萬緖、理亦千名淵雲漢庭之英毫也、未レ與二其情於墨妙之詞一、蘇李胡塞之貞狀也、猶拭二其涙於精强之眼一、彼一日三秋之死望、二載千秋之歎音、自レ古有レ之、不レ一二二其辭一矣、方今舊日親故、春風遠離、昔垂二丹螢之幌一、今割二銅虎之符一、業成功成鄒魯之山嵐舊、或南或北、秦呉之國雲分、故傾二別爵一聊祖二輕鑣一、蓋乃惜三子行二于長途一、隨二吾道之遺跡一而已、于レ時佗郷客別、別路花飛、花飛則尋常惜レ之、況當二客別一、客別亦尋常恨レ之、況當二花飛一、逸馬嘶二晨風之中一、蹄踏二輕質之雪一、征衣過二夕陽之下一、袖織二廻文之霞一、至レ如二夫春苔生而忽埋、曉雲連而彌亂一、重門深徼之幽蹊、指二抱關一兮漸迥、朱輪華轂之芳轍、計二記里一兮方長者 也、旣而一撙先贈、雙襟自霑、斑 之昧意厚、沈醉正酣、丹棘之方功空、離憂未レ忘、以言後會骨驚、前期鬢老、楊岐路滑吾之送レ人多年、李門浪高、人之送レ吾幾日、仰訴二靈庿之精一、俯慙二祖席之客一云レ爾〈○中略〉
仲冬餞二奝上人赴一レ唐、同賦二贈以一レ言、各分二一字一、〈探二得輕字一〉 慶保胤
夫人之重レ別、古今一也、我朝率土之中、遠則一二千里、分レ手之後、久亦五六餘年、書信易レ通、不レ期二鴈足繫レ帛之歉一、歸去無レ妨、豈俟二烏頭變レ黑之日一、乃如二其臣之別レ君、子之辭一レ父、猶遺二一日三秋之恨一、又有二牽レ衣攬レ涙之悲一、何況異域他郷、天涯煙水、前程不レ知二幾雲關露驛一、後會不レ噵二何春風秋月一、嗟呼倩思二今日之遠行一、不レ似二吾土之當一レ別、往昔緇素非レ一、渡海者多矣、聖敎未レ傳、或專二誠於求法之年一、王事靡レ鹽、或委二命於人覲之節一、如二我師一浮雲無レ蹤、一去一來、靈舟不レ繫、自レ東自レ西、昔仲尼之去レ周也、仁者相贈以レ言、今上人之赴レ唐也、親知各露二其膽一、子是花月之一友、贈二此蒭牧之二言一、堂有二母儀一、莫三以逗二留中天之月一、室有二師跡一、莫三以偃二息五臺之雲一、聊記二斯文一、別涙露レ紙、云レ爾、
夏夜、於二鴻臚館一餞二北客一、 後江相公〈○大江朝綱〉
延喜八年、天下大平、海外慕レ化、北客算二彼星躔一、朝二此日域一、望二扶木一而鳥集、渉二滄溟一而子來、我后憐二其志一、褒二其勞一、或降レ恩、或增レ爵、於レ是餞宴之禮已畢、俶裝之期忽催、夫別易會難、來遲去速、李都尉於レ焉心折、宋大夫以レ之骨驚、想彼梯レ山航レ海凌二風穴之煙嵐一、廻レ棹揚レ鞭、披二龜林之蒙霧一、依依然莫レ不レ感二忘レ遐之誠一焉、若非下課二詩媒一而寬二愁緖一、携二歡伯一而緩中悲端上、何以續二寸斷之膓一、休二半銷之魂一者乎、于レ時日會二鶉尾一、船艤二龍頭一、麥秋動二搖落之情一、桂月倍二分 之恨一、嗟呼前途程遠馳二思於鴈山之暮雲一、後會期遙、霑二纓於鴻臚之曉涙一、予翰苑凡藂、揚庭散木、媿對二遼水之客一、敢陳二孟浪之詞一云レ爾、
p.0438 太宰帥幷大貳奏二赴任由一事
太宰帥幷大貳、赴任參入、令レ奏二事由一、藏人以奏聞、奉レ仰召二殿上一賜二酒肴一、〈或不レ召只賜レ祿、或雖レ召賜二仰幷祿一不レ賜二酒肴一、〉數巡之後召二御前一、自二右靑璅門一參上、候二孫廂南第一間北面一、卽賜二仰及祿一、〈御衣一襲、或加二賜白褂一領一、若於二御前一、賜二酒肴一、殿上王卿依レ召參上、勸盃、其儀御座〉 〈如レ常、諸卿座又如レ常、帥若大貳座、諸卿座、四方北面設レ之、鋪二菅圓座一賜二酒肴一、〉卽於二南廊壁下一拜舞、自二仙華門一退出、
諸國受領官奏二赴任由一事〈付鎭守府將軍、出羽城介、〉
諸國受領赴任之由、付二藏人一奏聞之、隨レ仰垂二御簾一、〈藏人叙位年、件官者不二亦垂一レ之、〉召二御前一、自二仙華門一參入、候二南廊壁下一、傳二宣仰旨一兼賜レ祿、〈或不レ召二御前一、於二右近腋陣頭一賜レ祿、但陸奧守加二給御衣一、或召二殿上一自二右靑璅門一參上、其座同二大貳座一、奉レ仰賜レ祿、於二南廊壁下一拜舞、自二仙華門一退出、又鎭守府將軍出羽介等、雖レ非二受領官一召二御前一矣、〉
p.0439 大同四年三月戊辰、是日東山道觀察使正四位下兼行右衞士督陸奧出羽按察使藤原朝臣緖嗣、爲レ入二邊任一辭二見内裏一、召昇二殿上一、令三典侍從五位上永原朝臣子伊太比賜二衣(○)一襲、被(○)等一、
p.0439 天長五年二月甲寅、賜二鎭東按察使伴朝臣國道餞一、有二御製一、賜二衣被及雜珍玩物一、
p.0439 承和三年四月壬辰、天皇御二紫震殿一賜二餞入唐大使藤原朝臣常嗣、副使小野朝臣篁、等一、命二五位已上一賦下賜二餞入唐一、之題上、于レ時大使常嗣朝臣欲レ上レ壽、先候二進止一、勅許訖、常嗣朝臣避レ座而進喚二采女二聲、采女擎二御盃一來、授二陪膳釆女一、常嗣朝臣跪唱レ平、天皇爲之擧訖、行酒人進賜二常嗣朝臣酒一、卽跪受飮竟、降レ自二南階一拜舞還坐、旣而群臣獻レ詩、別有二御製一、大使賜而入レ懷退而拜舞、賜二大使御衣一襲、白絹御被二條、砂金二百兩、副使御衣一襲、赤絹被二條、砂金百兩一、各淵醉而罷、
p.0439 元慶四年六月七日己丑、從四位上行大貳安倍朝臣貞行詣レ闕辭見、賜二御衣一襲一拜舞而出、是日、親王公卿參二侍仗下一遮二留貞行一、聊命二別酌一、以二内藏錢一萬一、充二圍碁賭物一、酣暢方罷、
p.0439 よし道の朝臣、十二月のころほひ、うさの使にまかりけるに、としあけば、かうぶ りたまはらんことなどおもひて、餞たまひけるに、かはらけとりてよみ侍ける、
橘則長
別ぢはたつけふよりもかへるさを哀雲ゐにきかんとすらん
p.0439 長德元年九月廿七日、戌刻陸奧守實方朝臣侖レ奏二赴任之由一、先於二殿上一勸酒一兩巡、〈内藏寮儲二肴物一、依二重喪人一〉 〈儲二精進物一、〉其後出二御晝御座一、藏人信經奉レ仰召二實方朝臣一、朝臣應レ召候二孫廂南第一間一、次召二藏人頭齊信朝臣一、朝臣奉レ仰取レ祿、出レ自二母屋南第一間障子戸一賜之、〈支子染衾一條、幷御下襲一具也、例給紅染褂、而此度用二支孑色一隨レ有云々、〉別有二仰詞一、幷叙二正四位下一給レ祿、幷奉二仰詞一退出、依二重喪一不二拜舞一、
p.0440 鹿島立(カシマタチ)〈常陸鹿島緣起在二神事一也〉
p.0440 首途(カドイデ/カドテ)〈文選〉 啓行(同)〈毛詩〉 門出(同)〈俗字〉 鹿島立(カシマダチ)〈本朝俗斥二首途之義一、事見二藻鹽一、〉
p.0440 發足(ホツソク)〈陶望齡游台宕路程、九月廿七日癸巳、發足、甲牛、早過二嵩 一、〉 俶裝(カトテ)〈杜詩、俶裝逐二徒旅一、邵寶曰、張平子思玄賦、簡二元辰一而俶裝、註俶始也、〉 首途(カドイデ)〈資暇錄、見下將二首途者上、多云、車馬有二行色一、〉 起程(ハツソク)〈水滸傳〉
p.0440 鹿島立(カシマタチ) たびのかど出を云、神功皇后新羅を攻給ふ時、鹿島香取の二神、まづ首途し給ひしより云ことば也といへり、
p.0440 國務條々事
一赴二任國一吉日時事
新任之吏赴二任國一之時、必擇二吉日時一可二下向一、但雖レ云二吉日一、世俗之説、降雨之日尤忌レ之、出行亦改二吉日一、更出行耳、是任二人情一、非レ有二必定一、
一出行初日不レ可レ宿二寺社一事
世俗説云、不レ食二索餅一、不レ聽二凶事一、不レ宿二寺中一、不レ寄二社頭一云々、但今世之人、亦隨二氣色一耳、
p.0440 太宰大 大伴宿禰百代等驛使歌二首
草枕(クサマクラ)、羇行君乎(タビユクキミヲ)、愛見(ワツクシミ)、副而曾來四(タグヒテゾコシ)、鹿乃濱邊乎(シカノハマベヲ)、
右一首、大 大伴宿禰百代、
周防在(スハウナル)、磐國山乎(イハクニヤマヲ)、將超日者(コエンヒハ)、手向好爲與(タムケヨクセヨ)、荒其道(アラキソノミチ)、
右一首、少典山口忌寸若麻呂、 以上天平二年庚午夏六月、帥大伴卿忽生二瘡脚一、疾苦二枕席一、因レ此馳驛上奏、望請庶弟稻公、姪胡麻呂、欲レ語二遺言一者、勅二右兵庫助大伴宿禰稻公、治部少丞大伴宿禰胡麻呂兩人一、給レ驛發遣、令レ看二卿病一、而逕二數旬一幸得二平復一、于レ時稻公等、以二病旣療一、發レ府上レ京、於レ是大 大伴宿禰百代、少典山口忌寸若麻呂、及卿男家持等、相二送驛使一、共到二夷守驛家一、聊飮悲別、乃作二此歌一、
p.0441 二月〈○天平勝寶七歲〉七日、駿河國防人部領使守從五位下布勢朝臣人主、準二九日一歌數二十首、 但拙劣歌者不レ取二載之一、〈○中略〉
爾波奈加能(ニハナカノ)、阿須波乃可美爾(アスハノカミニ)、古志波佐之(コシバサシ)、阿例波伊波波牟(アレハイハハム)、加倍理久麻低爾(カヘリクマデニ)、
右一首、帳丁若麻績部諸人、
p.0441 鹿島立
旅立前の日、阿須波明神を祭、此神鹿島に鎭座あるゆへなり、榊をたて神酒備餅を以、旅の安全を祈る、〈○中略〉此神へ御饌をさゝげていのるに、旅に居る者飢につかれずと也、世俗影膳(○○)といふて居るも、此遺風なり、
○按ズルニ、神祇ニ旅行ノ安全ヲ祈請スル事ハ、神祇部祈禳篇ニ載ス、
p.0441 二月〈○天平勝寶七歲〉十四日、常陸國部領防人使大目正七位上息長眞人國島進歌數十七首、 但拙劣歌者不二取載一之、
祁布與利波(ケフヨリハ)、可敝里見奈久氐(カヘリミナクテ)、意富伎美乃(オホギミノ)、之許乃美多氐等(シコノミタテト)、伊泥多都和例波(イデタツワレハ)、
右一首、火長今〈○今恐日誤〉奉部與曾布、
阿米都知乃(アメツチノ)、可美乎伊乃里氐(カミヲイノリテ)、佐都夜奴伎(サツヤヌキ)、都久之乃之麻乎(ツクシノシマヲ)、佐之氐伊久和例波(サシテイクワレハ)、
右一首、火長大田部荒耳、〈○下略〉
p.0441 源のさねが、つくしへゆあみんとて、まかりける時に、山ざきにてわかれおしみ ける所にてよめる、 しろめ
いのちだに心にかなふ物ならば何か別のかなしからまし
やまざきより神なびのもりまで、をくりに人々まかりて、かへりがてにして、別れおしみけるによめる、 源さね
人やりの道ならなくに大かたはいきうしといひていざかへりなん〈○中略〉
藤原のこれをかゞ、むさしのすけにまかりける時に、をくりにあふさかをこゆとてよみける つらゆき
かつこえて別もゆくか相坂は人だのめなるなにこそ有けれ
p.0442 九日〈○承平五年正月〉のつとめて、おほみなとより、なはのとまりをおはんとて、こぎいでにけり、これたがひに、くにのさかひのうちはとて、見おくりにくる人、あまたがなかに、ふぢはらのときざね、たちばなのすゑひら、はせべのゆきまさらなん、みたちよりいでたうびし日より、こゝかしこにおひくる、この人々ぞ心ざしある人なりける、この人びとのふかき心ざしは、この海にはをとらざるべし、これよりいまはこぎはなれてゆく、これをみをくらんとてぞ、この人どもはおひきける、かくてこぎゆくまに〳〵、海のほとりにとゞまる人もとをくなりぬ、ふねの人も見えずなりぬ、きしにもいふことあるべし、船にもおもふことあれどかひなし、かゝれど、この歌をひとりごとににしてやみぬ、
おもひやる心はうみをわたれどもふみしなければしらずやありけん
p.0442 源惟盛、としごろ侍物にて、箏のことなどをしへ侍けるを、土佐國にまかりける時、かはじりまで、送りにまうできたりけるに、蒼海波の秘曲のことぢたつることをしへ侍て、そのよしの譜かきて給うとて、奧に書付て侍ける、 入道前太政大臣 をしへをく形見をふかく忍ばなむ身は靑海の波にしがれぬ
p.0443 彌生も末の七日、〈○元祿二年〉明ぼのゝそら朧々として、月は在明にて光をさまれる物から、不二の峯幽にみえて、上野谷中の花の梢、又いつかはと心細し、むつましきかぎりは、宵よりつどひて、舟に乘りて送る、千住と云ふ所にて、船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の涙をそゝぐ、
行春や鳥鳴魚の目は涙、これを矢立の初として、行く道なほすゝま、ず、人々は途中に立ちならびて、後かげのみゆるまでは見送るなるべし、
p.0443 坂迎(サカ厶カヒ)〈酒迎、馬迎(○)、並(○)同、〉
p.0443 さかむかへ 坂迎の義、京師の人參宮せしを歸路に迎ふるをいふ、其もと東へ下る人の歸りを、逢坂まで出迎ふるよりの名成べし、關迎(○○)ともいふ、人を迎送するに、四方の關に至るは、異朝の例也、詩にも西出二陽關一無二故人一といへり、
p.0443 國務條々事
一境迎事
官人雜仕等、任レ例來向、或國隨二身印鎰一參向、或國引二卒官人雜仕等一參會、其儀式隨二土風一而已、
p.0443 寸白任二信濃守一解失語第卅九
今昔、腹中ニ寸白持タリケル女有ケリ、 ノト云ケル人ノ妻ニ成テ懷妊シテ、男子ヲ産テケリ、其ノ子ヲバ トゾ云ケル、漸ク長ニ成テ冠ナドシテ後官得テ、遂ニ信濃ノ守ニ成ニケリ、始メテ其ノ國ニ下ケルニ、坂向ヘノ饗ヲ爲タリケレバ、守其ノ饗ニ著テ居タリケルニ、〈○下略〉
p.0443 賀茂村の坂迎ひ 京 角鹿比豆流
伊勢大神宮廣前に、太々神樂捧げ奉るとて、かの御社に春毎參詣する事、六十六國に殘る處もな し、都の町々近き村里、老たるも若きも、かたらひつゝ、二十三十あるは百にも滿てる人の、願はて家に歸る日、家族うからしたしきかぎり、逢坂山の水うまやに集ひ、待酒汲かはし宴をなす、是を坂迎といふ、こゝより家までかへるさ、迎の人と共に謠ひつれて、都の町くだりさわぎ行く事、引きもきらず、こをみる人大路に立ちつゞけり、三月廿一日、上賀茂の一郡松林の加茂塘をすぐるに、鞍馬口の乞食の兒等いでゝ、錢を乞ふ事頻りなり、加茂村の百姓さか迎の日、唐坂といふ菓子を二ツづゝあたへ、また人數こゝらなれば、菓子の代にあし一筋あだふるが、古き例なりとかや、
p.0444 むかし男有けり、その男身をえうなき物に思ひなして、京にはあらじ、あづまの方に、すむべき國もとめにとて行けり、もとより友とする人ひとりふたりしていきけり、道しれる人もなくて、まどひいきけり、みかはの國八はしといふ所にいたりぬ、そこを八橋といひけるは、水ゆく川のくもでなれば、橋を八わたせるによりてなん、八はしといひける、其さわのほとりの木のかげにおりゐて、かれいひくひけり、そのさわにかきつばた、いとおもしろく咲たり、それをみてある人のいはく、かきつばたといふ五もじを句のかみにすへて、たびの心をよめといひければよめる、
から衣きつゝなれにしつましあればはる〴〵きぬる旅をしぞおもふ、とよめりければ、みな人かれいひのうへに、涙おとしてほとびにけり、ゆき〳〵てするがの國にいたりぬ、うつの山にいたりて、わがいらんとする道は、いとくらふほそきに、つたかえではしげり、物心ぼそくすゞうなるめをみる事と思ふに、す行者あひたり、かゝる道は、いかでかいまするといふをみれば、見し人なりけり京に其人の御許にとて文かきてつく〈○中略〉なをゆき〳〵て、むさしの國と、しもつふさの國とのなかに、いとおほきなる河あり、それをすみだ川といふ、その川のほとりにむれゐて思ひやればがぎりなく遠くもきにけるかなとわびあへるに、わたし守はや舟にのれ、日もくれ ぬといふに、のりてわたらんとするに、みな人物わびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず、さる折しも白き鳥のはしと足のあかき、しぎの大さなる、水の上にあそびつゝ魚をくふ、京には見えぬ鳥なれば、みな人みしらで、わたしもりにとひければ、これなん都鳥といふをきゝて、
名にしおはゞいざことゝはんみやこ鳥わがおもふ人は有やなしやと、とよめりければ、舟こぞりてなきにけり、
p.0445 それのとし〈○承平四年〉のしはすのはつかあまりひとひのいぬのときにかどです、〈○中略〉廿二日にいづみの國までと、たひらかに願たつ、〈○中略〉 廿七日、おほつよりうらとをさしてこぎいづ、〈○中略〉 廿八日、うらとよりこぎいでゝ、おほみなとをおふ、〈○中略〉 廿九日、おほみなとにとまれり、〈○中略〉 四日、〈○承平五年正月〉風ふけばえいでたゝず、〈○中略〉 九日のつとめて、おほみなとより、なはのとまりをおはんとて、こぎいでにけり、〈○中略〉 十日、けふはこのなはのとまりにとまりぬ、 十一日、あかつきに船をいだして、むうつをおふ、〈○中略〉 十七日、くもれる雲なくなりて、あかつきつく夜いとおもしろければ、船をいだしてこぎゆく、〈○中略〉夜やうやくあけゆくに、かぢとりら、くろき雲にはかにいできぬ、風ふきぬべし、みふねかへしてんといひて舟かへる、このあひだに雨ふりぬ、いとわびし、〈○中略〉 十九日、ひあしければふねいださず、 廿日、きのふのやうなれば船いださず、〈○中略〉 廿一日、うの時ばかりに船いだす、〈○中略〉 廿二日、よんべのとまりよりことゞまりをおひてぞゆく、〈○中略〉 廿三日、ひてりて、くもりぬ、このわたり、かいぞくのおそりありといへば、神ほとけをいのる、 廿四日、きのふのおなじところなり、 廿五日、かぢとりらのきた風あしといへば、船いださず、かいそくおひくといふ事、たへずきこゆ、 廿六日、まことにやあらん、かいぞくおふといへば、夜なかばかりより、船をいだしてこぎくる道にたむけする所あり、かぢとりしてぬさたひまつらするに、ぬさのひんがしへちれば、かぢとりのまうしてたてまつる事は、このぬ さのちるかたに、みふねすみやかにこがしめ給へと、まうしたてまつる、〈○中略〉 卅日、あめかぜふかず、かいぞくは、よるあるきせざなりときゝて、夜なかばかりに船をいだして、あはのみとをわたる、よなかなればにしひんがしもみえず、おとこをんなからく神ほとけをいのりて、このみとをわたりぬ、〈○中略〉けふ海になみににたるものなし、神ほとけのめぐみかうぶれるににたり、けふふねにのりしひよりかぞふれば、みそかあまりこゝぬかに成にけり、いまはいづみのくにゝきぬれば、かいぞくものならず、〈○中略〉 六日、〈○二月〉みをつくしのもとよりいでゝ、なにはにつきて、かはじりにいる、みな人々をんなおきな、ひたひにてをあてゝ、よろこぶ事ふたつなし、
p.0446 十三になるとしのぼらんとて、九月三日かどでして、いまだちといふ所にうつる、〈○中略〉かどでしたる所は、めぐりなどもなくて、かりそめのかやゝのしとみなどもなし、〈○中略〉おなじ月の十五日、雨かきくらし降に、さかひ〈○常陸下總境〉を出て、下野〈○下野下總誤〉の國のいかたといふ所にとまりぬ、〈○中略〉國にたちをくれたる人々まつとて、そこに日を暮しつ、十七日のつとめてたつ、〈○中略〉その夜はくろどの濱といふところにとまる、〈○中略〉そのつとめてそこをたちて、下つさのくにと、むさしのさかひにて有、ふとゐがはといふ、かゞみのせ、まつさとのわたりにとまりて、夜ひとよ舟にてかつ〴〵物などわたす、〈○中略〉つとめて舟に車かきすへてわたして、あなたのきしにくるまひきたてゝ、をくりにき〈○き原作二はへ一據二一本一改〉つる人々、これよりみなかへりぬ、のぼるはとまりなどして、いきわるゝほど、行もとまるもみななきなどす、〈○中略〉ましもと云所も、すが〳〵とすぎて、いみじくわづらひ出て、遠江にかゝる、さやの中山など越けんほどもおぼえず、いみじくくるしければ、てんりうといふ川のつらに、かりやつくりまうけたりければ、そこにて日ごろすぐるほどにぞ、やうやうをこたる、冬深くなりたれば、河風はげしく吹上て、たへがたくおぼえけり、〈○中略〉二むら山〈○三河〉の中にとまりたる夜、大きなるかきの木の下に、いほをつくりたれば、夜ひとよいほのうへ にかきおちかゝりたるを、人々ひろひなどす、〈○中略〉とゞまりてしはすの二日京にいる、
p.0447 旣に天和三亥の春、奧州仙臺を首途し、この年の卯〈○貞享四年〉五月まで大旅五年、猶見殘し再順二年、元祿二巳の年まで、首尾七年に行脚成就し侍る、凡そ道往三千八百餘里、一足も榮耀の馬籠にのらず、一宿借り兼し事なく、一飯に飢たる事なく、一病の障なく、一言の爭なく、萬滿足の功をとり、一生の大願望の本ゐをとげし事、ひとへに天下泰平、時季滿足の旬に、仕合たる果報と獨笑して、此記の淸書に意を去ざりし、〈○中略〉
元祿三庚午於二凉床一拭筆 行脚散人三千風綴焉
p.0447 玉堂琴士碑
琴士、姓紀、浦上氏、諱 、字君輔、世仕二備前藩一、屬二其支封内匠君一、數役二江戸一、雅解二音律一、最善レ琴、偶見二古琴一、傾レ橐購獲、〈○中略〉寬政甲寅、〈○六年〉辭レ仕、得レ肆二志四方一、初娶二市村氏一、先卒、有二二子選、遜一、於レ是攜三琴與二二子一、東遊、會津侯害禮聘待、改二其廟樂一、乃留レ遜仕焉、置二選江戸一、而獨攜レ琴漫遊、東窮二奧羽一、西至二筑肥一、最喜二平安山水一、召レ選共居焉、日事二遊覽一、椎髻褒衣、鬚鬖鬖然、負レ琴而行、雖二士女雜沓處一、逢レ倦輒憩、人環指二目之一、不レ顧也、衣必綿布、無レ副、嗜レ酒、不二多飮一、朴器瓦皿、肴核隨レ有、醉則鼓レ琴、又寫二山水一、請レ畫者、以レ酒潤レ筆、輒欣然點染、氣韻高渾、猶二其琴一也、
p.0447 古川翁傳
古川翁、備中人也、倜儻有二大略一、喜二地理學一、學無レ所レ承、少小浪二遊海内二抵二奧羽一、渡二鰐浦一、窺二蝦夷一、究二筑紫薩隅一、至二鬼界境一、其間、雖下攀二鳥道一、渉二洪波大濤一、重繭饑困、舟殆覆溺沒上、自若也、寫下山谷形態、隆然窪然、及所二眺覽一、樹如レ薺、波瀾如レ織狀上、如二工レ畫者一、尤喜尋二近代戰爭之跡一、觀二其攻守勝敗所一レ由、以二鉤股法一、揣二遠近高卑一、不レ失二尺寸一、著二圖説一、鑿鑿有レ據、嘗罵二世以レ兵名レ家者一曰、此輩煮レ芋不レ辨二熟否一者、焉可レ施二實用一哉、
p.0447 扨不佞去春松前御用被二仰付一、四月十五日江戸發程、五月十六日三馬屋渡海、同廿 三日松前出立、箱館〈江〉罷越申候、兼而老人御編述之東遊雜記相携、沿途之勝概、松前の風物比校いたし候所、過差無レ之、老人一過眼め地、烟霞の妙察、全く山水の奇骨を被レ得候事と、感心不レ啻候、〈○中略〉來春エトロフよりウルツフ〈江〉相進候筈ニ候、兼而御存之通リ、去卯年長崎御用より、當未迄五ケ年之間、日本國中西東を究め、海外へ踏出し、經歷二十五ケ國、道程凡八百五十里、打返一千七百里、唐土の里法に直し候はゞ、八千八百里内外に可レ有レ之、不佞今年二十九、日本六十六州不佞が如き遠足し者、只一人に不レ可レ過、男兒四方の壯遊、本懷之至、欣躍不レ啻候、倂五ケ年の間、在宅僅十ケ月、二親の温情を欠候といへども、忠孝不二兩全一、此一事少々懸念而已ニ候、〈○中略〉
六月廿一日〈寬政十一未年也同十二月晦圏備中著〉 守重
古松軒老人
p.0448 凡例
一予醫學修行の爲に漫遊する事、前後合せて五年、東西南北到らざる所なし、〈○中略〉
南谿誌
p.0448 百井塘雨
百井塘雨は通名左右二、京師の人也、其兄は室川の豪富萬屋といへるが家長をして有けるによりて、おもへらく、商家とならば此ごとく富むべし、然れどもおよぶべからねば、及ぬことを求んより、我欲する名山勝槩をたのしむにしくはなしとて、金三十斤を携へ、にしは薩摩、日向、東は奧羽外が濱のはて迄を窮む、其記事有といへども稿を脱せず、〈○下略〉
p.0448 百種園有武の傳
有武は浪花の産にして、氏は中邑、名は得、字は玄機、別號南嶺といふ、醫をもて業とす、〈○中略〉旅にいづることをこのみて、わが日のもとのうちは、ふまざる地なく、見ざる名所なく、すべて旅にある こと、はたとせあまりなり、こしのくににて病にかゝりてせんすべなく、つひにみやこにかへることゝはなりぬ、
p.0449 予〈○松浦淸〉少年ヨリ東武往還ノ道中、多ノ人ノ旅行ニモ遇シガ、ソノ行裝小々殊ナルコトハ有レド、マヅハ似タルモノナリ、備中ニテ薩州ノ息女、江都ニ上ルニ遇タリ調度ノ長櫃幾箇モ持行ウチ、飾著タルアリ、其サマ竹ヲ立テ、上ニ又横ニ結ビ、糸ヲ張リ、少キ鼓、又クヽリ猿ナドヲ下ゲ、竹ノ末三處ニハ、紅白ノ紙ヲ截カケニシテ、長ク垂レタルコト、神幣ノ如シ、或ハ紅ノ吹貫、小旗ナド付タルモ有リ、イト華ヤカナルコトニテ、女子ノ旅裝ト見ユル者ナリキ、〈東行筆記〉
p.0449 旅宿 旅館
p.0449 客宿(タビ子)〈万葉〉 旅寐(同)
p.0449 輕皇子宿二子安騎野一時、柿本朝臣人麿作歌、
八隅知之(ヤスミシヽ)、吾大王(ワガオホキミノ)、高照(タカテラス)、日之皇子(ヒノワカミコハ)、神長柄(カミナガラ)、神佐備世須登(カミサビセスト)、太敷爲(フトシキシ)、京乎置而(ミヤコヲオキテ)、隱口乃(コモリクノ)、泊瀨山者(ハツセノヤマハ)、眞木立(マキタテル)、荒山道乎(アラヤマミチヲ)、石根(イハガネノ)、禁樹押靡(フセギオシナミ)、坂烏乃朝越座而(サカトリノアサコエマシテ)、玉限(タマキハル)、夕去來者(ユフサリクレバ)、三雪落(ミユキフル)、阿騎乃大野爾(アキノオホヌニ)、旗須爲寸(ハタスヽキ)、四能乎押靡(シノヲオシナミ)、草枕(クサマクラ)、多日夜取世須(タビヤドリセス)、古昔念而(ムカシオモヒテ)、
短歌
阿騎乃爾(アキノニ)、宿旅人(ヤドルタビビト)、打靡(ウチナビキ)、寐毛宿良自八方(イモ子ラジヤモ)、古部念爾(イニシへオモヒテ)、〈○下三首略〉
p.0449 近江國篠原入二墓穴一男語第四十四
今昔、美濃ノ國ノ方へ行ケル下衆男ノ、近江ノ國ノ篠原ト云フ所ヲ通ケル程ニ、空暗ク雨降ケレバ、立宿リヌベキ所ヤ有ルト見廻シケルニ、人氣遠キ野中ナレバ、可二立寄一キ所无カリケルニ、墓穴ノ有ケルヲ見付テ、其レニ這入テ、暫ク有ケル程ニ、日モ暮テ暗ク成ニケリ、雨ハ不レ止ニ降ケレバ、今夜計ハ此墓穴ニテ夜ヲ明サント思テ、奧樣ヲ見ルニ廣カリケレバ、糸吉ク打息テ寄居タルニ、 〈○下略〉
p.0450 そのかへる年の十月廿五日、大嘗會御禊とのゝしるに、はつせの精進はじめて、その日京を出るに、〈○中略〉その山越はてゝ、にへのゝ池のほとりへいきつきたるほど、日は山の端にかくりにたり、今はやどゝれとて、人々あかれて、やどもとむる所はしたにて、いとあやしげなる下すのこいへなんあるといふに、いかゞはせんとて、そこにやどりぬ、みな人々京にまかりぬとて、あやしのおのこふたりぞゐたる、その夜もいもねず、此おのこいでいりしありくを、おくの方なる女ども、などかかくしありかるゝぞととふなれば、いなや心もしらぬ人をやどしたてまつりて、かまばしもひきぬかれなば、いかにすべきぞとおもひて、えねでまはりありくぞかしと、ねたると思ひていふ、ぎくにいとむく〳〵しくおかし、〈○中略〉曉よふかく出て、〈○初瀨〉えとまらねば、ならざかのこなたなる家をたづねてやどりぬ、〈○中略〉また初瀨にまうづれば、〈○中略〉三日さぶらひてまかでぬれば、〈○初瀨〉れいのならざかのこなたに、小家などにこのたびは、いとるいひろければ、えやどるまじうて、野中にかりそめに、いほつくりてすへたれば、人はたゞ野にゐて、夜をあかす、草のうへにむかばきなどを打しきて、うへにむしろをしきて、いとはかなくて夜をあかす、かしらもしとゞに露をく、曉がたの月いといみじくすみわたりて、よにしらずおかし、
p.0450 ひたちの國へ歸り侍りしに、むさしのゝはてなき道に行くれて、その夜は道づれの僧など、あまたありしも、みなかりそめの草の枕をむすびて、とゞまり侍りしほどに、此野はむかしも、ぬす人ありてこそ、けふはなやきそともよまれけると、きゝをきしかど、さまでやはとおもひしに、苔の衣をさへ、ひきてかへりし白波のあらかりしなごりに、いとゞ旅の床もものうくこそ侍りしか、
いとはずばかゝらましやは露の身の憂にも消ぬ武藏のゝ原
p.0451 旅宿
いにしへはいはゆる草枕にて、野にも臥、山にもいこひけむを、貴人は帳の幕など馬につけて、そをもてとりかこみつゝ、一夜をあかしたるものなるを、治れる御代のたふとさは、其草枕も名のみとはなれりしなり、かくてはたごやといふは、かのとばかりの幡を納めたる籠を、はたごといふよりうつりたる名也、今は本陣といひ、脇本陣などくさ〴〵となへたり、またちかき頃、難波講、大船講、關東講など名づけて、その目印を軒にかけたる、また某家中定宿、某用達などしるしてかけたるもあり、
p.0451 有間皇子自傷結二松枝一歌二首〈○一首略〉
家有者(イヘニアレバ)、笥爾盛飯乎(ケニモルイヒヲ)、草枕(クサマクラ)、旅爾之有者(タビニシアレバ)、椎之葉爾盛(シヒノハニモル)、
p.0451 閏三月、〈○天平勝寶四年〉於二衞門督大伴古慈悲宿禰家一、餞二之入唐副使同胡麿宿禰等一歌二首、〈○中略〉
梳毛見自(クシモミジ)、屋中毛波可自(ヤヌチモハカジ)、久左麻久良(クサマクラ)、多婢由久伎美乎(タビユクキミヲ)、伊波布等毛比氐(イハフトモヒテ)、〈作主未レ詳〉
p.0451 くしも見じ、やなかもはかじと云は、人のものへありきたるあとには、三日は家の庭はかず、つかふくしをみずといふ事のある也、
○按ズルニ、驛路ニ菓樹若シクハ柳等ヲ植エテ、行旅者ノ便ヲ計リシ事ハ、植物部ニ載セタレバ、宜シク參照スベシ、
p.0451 いづくにもあれ、しばし旅だちたるこそ、めさむるこゝちすれ、そのわたりこゝかしこ見ありき、ゐなかびたる所、山里などは、いとめなれぬ事のみぞおほかる、都へたよりもとめて文やる、其事かの事便宜にわするなといひやるこそおかしけれ、さやうの所にてこそ、萬に心づかひせらるれ、もてる調度までよきはよく、能ある人、かたちよき人も、つねよりはおかしとこそ見 ゆれ、寺社などにしのびてこもりたるもおかし、
p.0452 いとおしき子には旅をさせよ(○○○○○○○○○○○○○)といふ事あり、萬事思ひしるものは、旅にまさる事なし、鄙の永路を行過るには、物うき事、うれしき事、はらのたつこと、おもしろき事、あはれなること、おそろしき事、あぶなき事、おかしき事、とり〴〵さま〴〵也、人の心も、こと葉つきも、國により所により、おのれ〳〵の生れつき、花車なもあり、いやしきもあり、それのみならず、みちすがらには、海、川、山、坂、橋、平地、石はら、沙原、ほそ道、あぜ道、追分なんどとてこれあり、道のたすけには、大雪に山ごし、大水に川ごし、ふかき川に渡し船、のりかけに駄賃馬、あるいは歩にてゆく人のため、からじりの馬、籠、のり物、あるひは馬のなきときは、かち荷物のたすけもあり、しらぬ道には、あんない者あり、旅屋(はたごや)の遠き所には、店屋の餅團子、茶屋の燒餅、其外在所により家によりて、國の名物酒さかな、煮賣、燒賣色々あり、一日路すぎて、暮がたには、はたごやの宿、泊々これあり、〈○下略〉
○
p.0452 遊覽
p.0452 遊覽(ユウラン)〈又云二遊觀一〉
p.0452 周覽之遊、其興太多、春有二萬樹之花一、夏有二百尺之泉一、秋有二千里之月一、冬有二數重之雲一、各就二勝地一彌二添氣色一者也、
p.0452 昔者日本武尊、巡幸之時、到二於此津一、日沒二西山一、御船泊之明旦遊覽、繫レ船覽二於大藤一、因曰二藤津郡一、
○按ズルニ、天皇ノ遊覽ノ爲ニ行幸アリシ事ハ、帝王部行幸篇ニ載セタリ、
p.0452 葛野王二首〈○中略〉
五言、遊二龍門山一一首、 命レ駕遊二山水一、長忘冠冕情、安得二王喬道一、控レ鶴入二蓬瀛一、〈○中略〉
贈正一位太政大臣藤原朝臣史五首〈○中略〉
五言、遊二吉野二首、〈○一首略〉
飛レ文山水地、命レ爵薜蘿中、漆姫控レ鶴擧、柘媛接莫レ通、煙光巖上翠、日影浪前紅翻知玄圃近、對翫入二松風一、
p.0453 六日、〈○天平勝寶二年四月〉遊二覽布勢水海一〈○越中〉作歌一首幷短歌、
念度知(オモフドチ)、丈夫能(マスラヲノコノ)、許能久禮(コノクレニ)、繁思乎(シグキオモヒヲ)、見明良米(ミアキラメ)、情也良牟等(コヽロヤラムト)、布勢乃海爾(フセノウミニ)、小船都良奈米(ヲブ子ツラナメ)、眞可伊可氣(マカイカケ)、伊許藝米具禮婆(イコギメグレバ)、乎布能浦爾(ヲフノウラニ)、霞多奈妣伎(カスミタナビキ)、垂姫爾(タルヒメニ)、藤浪咲而(フヂナミサキテ)、濱淨久(ハマキヨク)、白浪左和伎(シラナミサワギ)、及及爾(シク〳〵ニ)、戀波末佐禮杼(コヒハマサレド)、今日耳(ケフノミニ)、飽足米夜母(アキタラメヤモ)、如是己曾(カクシコソ)、彌年能波爾(イヤトシノハニ)、春花之(ハルハナノ)、繁盛爾(シゲキサカリニ)、秋葉能(アキノハノ)、黃色時爾(モミヅルトキニ)、安里我欲比(アリカヨヒ)、見都追思努波米(ミツヽシヌバメ)、此布勢能海乎(コノフセノウミヲ)、
反歌
藤奈美能(フヂナミノ)、花盛爾(ハナノサカリニ)、如此許曾(カクシコソ)、浦已藝廻都追(ウラコギヘツヽ)、年爾之努波米(トシニヌバメ)、
p.0453 御堂關白〈○藤原道長〉大井川にて遊覽し給ふ時、詩歌の舟をわかちて、各堪能の人々をのせられけるに、〈○下略〉
p.0453 寬治六年十月廿九日、殿上逍遙ありけり、其時の皇居は堀河院也ければ、その北なる所にて、人々あつまりたりける次第に、馬をひかせて北陣の上をわたして、叡覽有けり、人々三條猪熊にてぞ馬に乘ける、頭辨季仲朝臣、頭中將宗通朝臣、烏帽子直衣、其外の人々は狩衣をぞ著たりける、所衆瀧口小舍人あひしたがひける、大井河にいたりて、紅葉の船に乘て盃酌ありけるには、大夫季房、侍從宗輔、實隆などは、年をさなければ、貫首の上にぞ差たりける、夜に入て集會の所にかへりて、各冠などしかへて、内裏へまいりて、宮の御かたにて和歌を講じけり、先盃酌ありけるとかや、むかしはこのことつねのことなりけるに、中ごろよりたへにけり、くちをしき世 なり、〈○中略〉
承元五年〈○建曆元年〉閏正月二日の朝、目もおどろくばかり雪ふりつもりけるに、九條大納言〈○道家〉參内せられて、此ゆきは御、覽ずやとて、人々いざなひて、車寄に車さしよせて、別當の三位かうのすけ以下、内侍たち引ぐしてやり出されけり、中宮は后町よりいまだ入せおはしまさねば、中御門殿へやりよせて、宮の女房一車やりつゞけて、大内右近馬場賀茂の方ざまへ、あこがれゆかれける、大納言直衣にて騎馬せられたりけり、さらぬ人々も、或は直衣、或は束帶にて、六位まで伴ひたりけり、賀茂神主幸平、狩裝束して、車のともに參れり、むかしはかゝる雪には、馬に鞍置まうけてこそ付しに、今はかやうの事たえて侍つるに、めづらしくやさしく候ものかなとて、わかき氏人ども、おなじく狩裝束して、みな〳〵鷹手にすへて、かんだちへのかたへ、御ともつかうまつりて、雪の中のたかゞりして御覽ぜさす、道すがらいと興有事共ありけり、〈○下略〉
p.0454 永享四年〈壬子〉九月、富士御覽の御下向に、〈○足利義敎〉初の十日、京都出御、同十七日駿河國藤枝鬼巖寺に御下著、雨すこし時雨て、曉方より晴て、月はゐり明にて、いそぎ御立、同十八日、府中先小野繩手にして、御輿たてられ御覽じて、前後左右どよみあひ御跡はいまだ藤枝五里のほど、何とはなくつたへ〳〵、山も河もひゞきわたりけるとなん、御著府すなはち富士御覽の亭へ、すぐに御あがりありて、
みずばいかに思しるべきことのはもおよばぬふじとかねて聞しも、
p.0454 醍醐之花見
尼孝藏主をもつて仰られしは、三月十五日、醍醐の花見を催され候はん、政所殿も見物あるべきよし申候へと宣ふ、〈○中略〉
醍醐御普請之覺 一三寶院小破之所をば可レ加二修理一也、大破なる所は新儀に立直し、たゝみ以下も、あたらしく可二申付一候事、
一院外五十町四方、三町に一ケ所宛、番所を立、弓鐵炮之者を置、かたく番を沙汰し可レ申事、
一伏見より醍醐に至て、道の兩邊に埓を結せ可レ申事
一寺々宿札を打候て、破壞の所あらば、可レ致二修理一之事、
一院内院外掃除念を入可二申付一之事
一振舞等其外萬潤澤に可レ在レ之之事
一百姓已下幷往還之旅人等、不二謎惑一樣に可レ在之事
右堅可二申付一者也
慶長三年戊戌正月廿日 德善院玄以僧正
淺野彈正少弼殿〈○中略〉
長束大藏大輔殿〈○中略〉
寺々の名花、所々の花園まで、道の左右に埓をとをし、五色の段子のまんまくをうち、秀吉公父子其外上﨟衆、かちにていとしづかなる有さま、人間の住家にはあらざるにやと、おもはれて艶なり、〈○中略〉石橋の左に當て、さび渡りたる堂に、益田少將此所を便りとして、茶屋をいとなみ、一獻すすめ奉る、殿下御氣色在しなり、二三町山上し給へば、谷の右左り、咲も殘らず、散そめもせぬ、花あまたにして、實枝をならさぬ風、香を吹送りしかば、温問此上あるべきとも、更に覺えざりけり、〈○中略〉略仙洞にも、けふは風も心し雨もはれ、長閑なる花をみるらんとて、廣橋中納言を勅使につかはされしかば、攝家衆も淸花のかた〳〵も、ことごとく使者まいらせられにけり、御供にあらぬ諸侯大夫、幷京堺の歷々よう、折作物珍物盡二其員一、名酒には加賀の菊酒、麻地酒、〈○中略〉江川酒等捧奉り、 院内に充て、院外に溢にけり、
p.0456 文政元年戊寅二月、春水先生大祥忌、歸展二于廣島一、喪除、遂游二鎭西一、從二豐筑一入レ肥、留二長崎一二月强、南極二薩隅一、明年春、歸二廣島一奉二母夫人一入京、侍二遊芳野寧樂諸勝一、秋送至二廣島一、爾後西省無二虚歲一、後數迎レ之、侍二游伊勢及琵琶湖等一、