p.0103 親戚ハ、親族、又ハ親屬ト云ヒ、古クハウカラ、ヤカラトモ云ヘリ、血統若シクハ婚姻ニ由リテ結合シタル一族ヲ謂フナリ、吾邦ノ書ニハ、眷屬ヲ親屬ノ事トシタルモノモアレド、眷屬ハ汎ク隨從ノ者ヲ謂ヘルニテ、必シモ親屬ニハ限ラザルナリ、親戚ハ後又之ヲ親類ト云ヒ、德川幕府時代ニハ、事アル時ハ、親類書ト云フモノヲ、官府ニ徴シテ、之ヲ檢査スルノ例モアリキ、
親戚ニハ、内戚、外戚、本親、傍親等ノ別アリ、内戚ハ叉内親トモ云ヒ、男黨即チ父黨、夫黨ノ親族ヲ謂ヒ、外戚ハ女黨即チ母黨、妻黨ノ親族ヲ謂フ、又本親トハ、父子ノ關係ニシテ、即チ高祖父、曾祖父、祖父、父及ビ子、孫、曾孫、玄孫等ノ親ヲ謂ヒ、傍親トハ、兄弟ノ關係ニシテ、即チ伯父、伯母、叔父、叔母、姪、甥等ノ親ヲ謂フ、古書ニ傍期トアルハ、即チ此傍親ニシテ、期ノ喪ヲ服スベキモノヲ謂フナリ、傍期ハ一ニ傍周トモ云ヒテ、期親ト同ジク、尊卑ニモ長幼ニモ謂フナリ、而シテ所謂尊卑長幼トハ、親族關係ノ次序ニ就キテ言ヘルコトニテ、尊卑ハ血統ノ高下ニ因リテ之ヲ分チ、長幼ハ年齡ノ多少ニ因リテ之ヲ定ムルモノナリ、例セバ父子又ハ叔姪等ノ關係ニ於テハ、父ハ子ヨリモ、尊屬ニシテ、姪ハ其年齡ノ如何ニ關ラズ、叔ヨリモ卑屬ナルガ如シ、然レドモ、兄弟姉妹、及ビ從父兄弟姉妹等ノ關係ニ於テハ、單ニ血統ノ高下ノミヲ以テ之
ヲ決シ難キモノアリ、故ニ專ラ長幼ヲ以テ之ヲ次序ス、例セバ伯父ノ子ニテモ、己ヨリ年少ナレバ從父弟ニシテ、叔父ノ子ニテモ、己ヨリ年長ナレバ從父兄ナルノ類是ナリ、又等親アリ、蓋シ服忌ノ五服ニ本ケル稱呼ニシテ、分チテ五等トス、血縁ノ親疎ヲ以テ其標準ト爲スナリ、
祖先ハ直系親屬ノ尤モ尊キモノニシテ、祖ト宗トヲ謂ナリ、祖宗ノ外ハ幾代アルモ之ヲ稱セズ、而シテ高祖父母ヨリ以下、父母マデヲ以テ、直系ノ尊親屬ト爲シ、子ヨリ以下、玄孫マデヲ直系ノ卑親屬ト爲シ、其以下來孫、昆孫、仍孫、雲孫等ノ名アレドモ、通常ニハ之ヲ稱スル事ナシ、
襲家ノ制度ニ於テ、世ト云ヒ、代ト云フハ、支那ノ制ヲ承ケシモノニテ、世トハ直系相續ノ度數ヲ以テ算シ、代トハ家督相續ノ度數ヲ以テ算スルヲ謂フナリ、而シテ其世數ヲ算スルニ、自己ヲ算入スト、セザルトノ二説アレドモ、支那固有ノ制ハ、單ニ誰ヨリ幾世トアレバ、其人ヲ算入シ、誰ノ何世ノ孫トアレバ、其人ヲ算入セザル例ナルガ如シ、
此他親族ノ名稱ニハ、和漢其文字ヲ一ニシテ、其實ヲ異ニスルモノ頗ブル多シ、タトヘバ姪ハ支那ニ在リテハ、男黨ノヲヒ、又ハメヒナリ、然ルニ吾邦ニテハ、多ク姪ヲ男黨、女黨ノ別ナク、メヒニ用イ、甥ハ女黨ノヲヒナルヲ、多ク男黨、女黨ノ別ナク、ヲヒニ用イタリ、又父母ハ相對スルモノニテ、支那ノ制ハ、伯父ノ妻ヲ伯母ト云ヒ、叔父ノ妻ヲ叔母ト云ヒ、父ノ姉妹ヲ姑ト云フ、然ルニ吾邦ニテハ、古クヨリ父ノ姉妹ヲ伯叔母ト云ヒ、之ヲ總稱シテ姑ト云ヘリ、又母ノ兄弟ヲヲヂト云ヒ、舅ノ字ヲ以テ之ニ當ツ、又母ノ姉妹ヲヲバト云ヒ、姨又ハ姨母、若シクハ從母、外甥母ノ字ヲ以テ之ニ當ツ、又古クヨリ姨ヲ父ノ姉妹ニモ用イタリ、叉夫ノ父ニ舅ノ字ヲ用イ、夫ノ母ニ姑ノ字ヲ用イ、妻ノ父ニ外舅ノ字ヲ用イ、妻ノ母ニ外姑ノ字ヲ用イ
ル事ハ、支那ニ同ジ、サレド皆同ジク男ヲシウト、女ヲシウトメト呼ビタリ、又吾邦ニ在リテハ、祖父、祖母ト、伯叔父、伯叔母トハ、一ハオヂ、オバ、一ハヲヂ、ヲバト云フコト古ノ例ナレド、後世兩者相混ジテ、只文字ニ其迹ヲ留ムルノミナリ、オヂ、オバヲ多クオホヂ、オホバト云フニ至リシモ、蓋シ或ハ之ヲヲヂ、ヲバニ別タンガ爲ニ用イ習ハセシモノナラン、
乳母ハ、メノトト訓ズ、オモ、チオモ、オチ、チヌシ、皆同一ニシテ、生母ニ代リテ兒女ニ乳ヲ哺スルヨリ名ヅクル所ナリ、而シテ男子ノ保傅ヲ亦メノトト云フハ、其兒女ヲ養育スルノ職、乳母ノ之ヲ哺乳スルト、其理相同ジキ所アルヲ以テナリ、
此篇ハ政治部戸籍、相續、養子等ノ各篇ニ關聯スル所多シ、宜シク參看スベシ、
p.0105 親戚(シンセキ)〈孔頴達云、親指二族内一、戚言二族外一、千字文註、至親曰レ親、傍親曰レ戚、〉 親類(シンルイ) 親族(シンゾク)
p.0105 戚〈セキ親戚外戚〉
p.0105 親族(○○)
p.0105 凡 臨之官、私役三使所二 臨一、及借二奴婢、牛馬、車船、碾磑、邸店之類一、各計二庸賃一、以レ受下所二 臨一財物上論、〈○中略〉其於二親屬(○○)一、雖下過レ限及受レ饋乞貸上、皆勿レ論、〈謂親屬別於二數限外一駈使及受二饋餉財物飮食一、或有二乞貸一、皆勿レ論、〉親屬、謂五等以上、及三等以上婚姻之家
p.0105 泰時相續して、德政をさきとし、法式をかたくす、己が分をはかるのみならず、親族ならびにあらゆる武士までもいましめて、高官位を望む者なかりき、
p.0105 なにばかりのしぞく(○○○)にかはあらん、いとよくもにかよひたるけはひかなと思くらぶるに、心はづかしげにて、あてなる所はかれはいとこよなし、これはたヾらうたげに、こまかなる所ぞ、いとおかしき、ようしうなりあはぬ所をみつけたらんにてだに、さばかりゆかしと覺ししめたる人を、それとみてさてやみ給べき御心ならねば、ましてくまもなくみ給に、いかで かこれをわがものにはなすべきと、わりなくおぼしまどひぬ、
p.0106 ちかくてとほき物
おもはぬはらから、しんぞくの中、
p.0106 これは〈○玉鬘〉げんじの御ぞう(○○○)にもはなれ給へりし、後の大殿わたりにありける、わるごだちのおちとまりのこれるが、とはずがたりし置たるは、
p.0106 一書曰、〈○中略〉時伊弉諾尊亦慙焉、因將二出返一、于レ時不二直默一歸而盟之曰、族離(ウカラハナレン/○)、又曰、不レ負二於族(ウカラ)一、〈○中略〉不負於族、此云二宇我邏磨概茸(ウガラマケジト)一、
p.0106 故獻二能美之御幣物一、〈能美二字以レ音〉布二縶白犬一著レ鈴而、己族(オノガウカラ)名謂二腰佩人、令レ取犬縄一以獻上、
p.0106 族は書紀神代卷に訓注に、宇我邏(ウガラ)とあるに依て訓べし、〈此訓注に依に、宇賀良(ウガラ)、夜賀良(ヤガラ)、波良賀良(ハラガラ)など皆賀(ガ)を濁るべき言なり、登(ト)、母賀良(モガラ)は今も濁ていへり、〉万葉三〈五十四丁〉に親族兄弟(ウガラハラガラ)〈此親族今本に、ヤカラと訓たれど、ウガラと訓べし、〉
p.0106 根臣即盗二取其禮物之玉縵一、纔二大日下王一曰、大日下王者、不レ受二勅命一曰、己妹乎、爲二等族(○○)之下席一而、取二横刀之手上一而怒歟、
p.0106 爲等族之下席は、比登志宇賀良能斯多牟斯呂爾那良牟(ヒトシウガラノシタムシロニナラム)と訓べし〈爲は那佐米夜(ナサメヤ)と訓べきが如き語の勢なれども、米夜(メヤ)と訓べき宇なければ、然は訓がたし、師(賀茂眞淵)は此をヒトシキヤカラノムシロトラセムヤと訓れたれどいかゞ、下をトルとは訓がたきうへに、席をとると云ことあるべくもあらず、〉族は、書紀神代卷に、宇我邏(ウガラ)と訓注あり、又親屬(ウガラヤガラ)、顯宗卷に、親族(ウガラヤガラ)、安閑卷に、同族(ウガラ)などあり、〈宇賀良(ウガラ)と</rt></ruby>夜賀良</rb><rt>ヤガ</rt></ruby>との差別、宇賀良は生族(ウマレカラ)、夜賀良は家族(ヤガラ)の意か、なほよく考ふべし、さて宇賀良も、夜賀良も波良賀良(ハラカラ)も、皆加な淸て呼へども、右の書紀の訓注に依らば、准へて皆濁るべきか、はれ濁ると淸むとあるか、悉には知がたし、登母賀良(トモガラ)は今も濁りて、云り、さて万葉三の長歌に親族兄弟(ヤカラハラカラ)とある親族もウガラと訓べきにや、〉此に等族(ヒトシガラ)と云は、若日下王と大長谷王とは姨甥(ヲバヲヒ)に坐て、共に天皇の御子なれば、同品の御族(ミウガラ)に坐よしなり、下席に爲るとは、大長谷王の妃に爲坐ことを、如レ此は云るなり、夫婦は交合時に、婦をば夫の下に敷故に、下に敷れむと云意なり、〈下席とはたヾ下に敷よしなり、上席に對へて云にはあらず、〉さるは正しき言には非ず、たヾ怒りて 嘲りたる、戯言のよしなり、
p.0107 十二年九月戊辰、到二周芳娑磨一、時天皇南望之、詔二群卿一曰、於二南方一烟氣多起、必賊將在、則留之、〈○中略〉有二女人一、曰二神夏磯媛一、其徒衆甚多、一國之魁帥也、聆二天皇之使者至一、〈○中略〉參向啓之曰、〈○中略〉有二殘賊者一、〈○中略〉其所レ據並要害之地、故各領二眷屬(ヤカラ/○○)一、爲二一處之長一也、
p.0107 七年四月、百濟王遣二斯我君一進レ調、別表曰、前進レ調使麻那者非二百濟國主之骨族(ヤカラ/○○)一也、故謹遣二斯我一奉二事於朝一、
p.0107 やから 族をよめり、彌屬(イヤカラ)の義成べし、或は家族(カラ)也といへり、神代紀に屬をうから、やからとよめり、
氏(ウヂ/○)と内(ウチ)と、淸濁のかはり有るに疑あるべけれど、伊勢の内宮の在る所を宇治といふも、五十鈴川の川内なる故の名なるを宇遲と云にて知るべし、然れば氏をうぢと云ふも、同じ族内なる義より出たる言なり、
p.0107 氏を宇遲と訓むは、内(ウチ)ともと同語なり、語の淸濁に拘はるべからす、故氏神と云は、内神といふ意にて、内に屬たる神のこヽろに親みて云る稱なり、漢字の義を放れて、言の義を思ふべし、
p.0107 左京大夫とのヽ御うへ〈○藤原道長妻倫子〉けしきだちてなやましうおぼしたれば、〈○中略〉いみじうのヽしりつれど、いとたひらかに、ことにいたうもなやませたまはで、めでたきをんなぎみ〈○彰子〉むまれだまひぬ、此御一家(○○○)には、はじめて女生れたまふを、かならずきさきがねといみじきことにおぼしたれば、大殿〈○藤原兼家〉よりも御よろこびたび〳〵きこえさせ給ふ、
p.0107 白河殿攻落事
大將ハ〈○中略〉大音揚テ、淸和天皇九代後胤、下野守源義朝、大將軍ノ勅命ヲ蒙テ罷向、若一家ノ氏族 タラバ、速ニ陣ヲ開テ可二退散一トゾ宣ケル、
p.0108 この入道殿下〈○藤原道長〉のひとつかど(○○○○○)ばかりこそは、太皇太后宮、皇太后宮、中宮、三所おはしたれ、
p.0108 禿童事
六波羅殿の御一家のきんだちとだにいへば、花ぞくもゑいゆうもたれかたをならべ、おもてをむかふものなし、又入道相國のこじうと、平大納言ときたヾのきやうのたまひけるは、この一もん(○○○)〈○平氏〉にあらざらんものは、みな人非人たるべしとぞのたまひける、さればいかなる人も、この一もんにむすぼれんとぞしける、
p.0108 久安三年七月廿一日癸未、今日法皇御二覽武士一、散位平正弘率二子姪之輩十三人一、皆著二甲冑一、又散位源重成、右衞門尉公俊等、同渡二御前一、重成郎從甲冑之士纏二數幅之布一、〈世俗號二之保呂一〉爲レ禦二流矢一云々、永久之比、南都衆徒合戰之日、叔父重時朝臣郎從著二此布一云々、一族(○○)之風云々、見者足レ驚レ眼、
p.0108 寛元二年六月十日己卯、肥前國御家人、久有志良左衞門三郎兼繼、訴二申安德左衞門尉政尚一族五人任官事一、政尚政家等所領三分二、司レ被レ召趣、前兵庫助奉行之、
p.0108 賴朝は我身かヽればとて、兄弟一族をばかたくおさへけるにや、義經五位の撿非違使にてやみぬ、範賴が參河守なりしは、賴朝拜賀の日、地下の前駈に召加へたり、おごる心見えければにや、この兩弟をも終にうしなひにき、さらぬ親族もおほくほろぼされしは、おごりのはしをふせぎて、世をも久しく家をもしづめんとにやありけん、
p.0108 凡元日不レ得レ拜二親王以下一、〈○註略〉親戚〈謂親者、内親(○○)也、戚者外戚(○○)也、〉及家令以下不レ在二禁限一、
○按ズルニ、戚ノ字ハ、支那ノ字書ニ據ルニ、必シモ外戚ノ意義ナシ、
p.0108 内戚外戚 父方の親類を内戚と云、母方の親類を外戚と云、親族に内外を稱す る皆是なり、
p.0109 仁壽三年五月乙巳、无品齊子内親王薨、親王嵯峨太上天皇第十二女也、〈○中略〉親王適二三品太宰帥葛井親王一、〈○嵯峨弟〉内外戚皆恥三其非二成禮一、
p.0109 なかたヾ、ないしやく(○○○○○)にも、外しやく(○○○○)にも、女といふものなんともしく侍る、〈○中略〉もしはヽかたの外しやくこそ、かのとしかげの朝臣のきむは、つかうまつらめ、
p.0109 外戚シヤク
p.0109 外戚(グワイセキ/ゲシヤク)
p.0109 外戚(グワイ)
p.0109 同〈○承久三年〉十月十日とさのくにヽせんかう〈○土御門〉あるべきにさだめられけり、〈○中略〉げしやく(○○○○)のつちみかどの大納言さだみち卿參りて、なく〳〵御車をよす、
p.0109 九條の右丞相〈○中略〉わが子孫を帝の外せきとはなさんとちかいて、觀音の化身の、叡山の慈惠僧正としだんの契ふかくて、横河のみねに楞嚴三昧院といふ寺をたて、
p.0109 御ぐしおろして御法名圓助ときこゆ、〈○中略〉院の宮だちの御中には、御このかみにてものし給へど、御げさく(○○○○)のよはきは、いまもむかしもかヽるこそ、いと〳〵ほしきわざなりけれ、
p.0109 一内外(○○)、親族(○○)、假服、〈付半減假幷服減、閏月禁忌、改葬假、無服殤、夫婦假服、遠闋日、〉父母〈假卅日、但五十日忌レ之、服十三ケ月、〉祖父母養父母〈假卅日、服五月、百五十日也、〉曾祖父母、伯叔父姑、兄弟姉妹、嫡子、夫之父母、〈假廿日、服三月、九十日也、〉高祖父母、庶子、嫡孫、養子〈假十日、服一月、卅日也、〉徒父兄弟姉妹、姪女、庶孫、〈假三日服七日〉
外祖父母〈假卅日、服三月、九十日也、〉繼父母、舅姨〈外戚也〉異父兄弟姉妹〈假十日、服一月卅日也、〉但繼父不二同居一者無二禁忌一、凡服者、自二假初日一計也、男之女子者、皆庶孫内也、〈假三日、服七日、〉喪葬令云、衆孫七日云々、
p.0110 旁親之稱、己身至二三從一而止、父至二再從一而止、祖至二從兄弟一而止、曾祖則親兄弟而已、以三其承二高祖一、故高祖兄弟無レ稱、
p.0110 凡戸主皆以二家長一〈謂嫡子也、凡繼嗣之道、正嫡相承、雖レ有二伯叔一、是爲二傍親一、故以二嫡子一爲二戸主一也、〉爲レ之、
p.0110 養子可レ著二本姓傍親服假一不レ可レ有レ著二所養傍親服假一事、
p.0110 服假雜例
或抄云、八歳以後、可レ有二服假一、七歳以前者、夭亡之時、傍親不レ可レ有二服假一、至二于二親一者、本服三月假三日、一月服假二日、七日服一日、是信貞説也、
p.0110 承安五年〈○安元元年〉六月十三日壬戌、今日明法博士中原基廣參來、〈依レ召也〉各相尋事等、〈○中略〉
一本生所養服事
問云、於レ親者、本生所養共可二著服一歟、又傍親(○○)可レ付二何方一哉、
申云、於二四等已上親一者、聽爲二養子一、然者本生所養共可レ著レ之〈昭穆不二相叶一者非二此限一〉於二傍親(○○)一者、一向可レ依二本生一、不レ可レ付二所養一、是允容〈○容恐亮誤〉説也、允正は可レ付二所養一云々、是謬説也、
p.0110 凡天皇爲二本服二等以上親喪一服二錫紵一、〈謂凡人君即レ位、服絶二傍朞(○○)一、唯有二心喪一故云二本服一、其三后及皇太子不レ得レ絶二傍朞(○○)故律除二本服字一也、〉
p.0110 古記云、本服、謂天皇即位則絶二服期一准〈○准恐誤字〉有二心喪一之時服二錫紵一、退則脱耳、錫紵謂二黑染之色一、若自不レ臨者不レ服耳、然案レ禮天子絶二傍朞一、今檢二令文一、本服五月以上、則明令意於二高祖父母一亦絶二服期一也、三后亦同、何者、案二名例律一議親注云、太皇太后本服七日以上親、皇后本服一月以上親故、但於二皇太子一者、且特合レ勘也、問以三文稱二本服一、何知レ絶二服期一也、答若不レ絶服期一者、文稱レ臨二五月以上服親喪一可レ云、本字不レ合レ稱、故絶二服期一可レ知也、
p.0110 三公諸侯大夫降服議
周制諸侯絶二傍周(○○○)一、卿大夫絶レ緦、 ○按ズルニ、傍周ハ傍期ナルヲ、唐玄宗ノ諱隆期ヲ避ケテ、期ヲ周ニ作レルナリ、
p.0111 即嫡繼慈母殺二其父一、及所養者殺二其本生一、並聽レ告、〈○中略〉
答曰、子孫之於二祖父母父母一、皆有二祖父子孫名一、其有二相犯之人一、多不レ據レ服而斷、賊盗律有レ所二規求一、而故二殺期以下卑幼一者絞、論レ服相犯例準二傍期一、在二於子孫一、不レ入二期服一、然嫡繼慈養依レ例雖レ同親母一、被レ出改嫁、禮制便與二親母一不レ同、其改嫁者、唯止服レ期、依レ令不レ合レ解レ官、據レ禮又無二心喪一、雖レ曰二子孫一、唯準二期親卑幼一、若犯二此母一亦同二親尊長一、被レ出者禮既無レ服、並同二凡人一、其應二理訴一亦依二此法一、
p.0111 童子喪服儀
蜀譙周縗服圖、童子不レ降二成人小功親以上一、皆服二本親(○○)之縗一、童子不レ杖不レ廬、不レ免不レ麻、當室著二免麻一、
p.0111 等親事〈○註略〉
儀制令云、五等親者、父母、養父母、夫子爲二一等一、〈○中略〉
釋云、未レ知三五等以上諸親、明二定尊長卑幼(○○○○)之色一、答、父母養父母、〈爲二一等尊(○○○)一〉子養子、〈爲二一等卑(○○○)一〉夫、〈別生父、〉祖父母、嫡母、 繼母、伯叔父姑、夫之父母、〈已上五色、爲二二等尊(○○○)一、〉姪、孫、子婦、〈已上三色、爲二二等卑(○○○)一、〉妻妾、〈別生父〉
職制律云、聞二父母若夫之喪一匿條疏云、其妻既非二尊長一、又殊二卑幼一、在二禮及詩一、比爲二兄弟一、即是妻同二於卑 幼一、又賊盗律、同居卑幼、將レ人盗二兄家財物一條、説者云、妻雖レ准二二等幼(○○○)一、而依レ禮與レ夫合體、故自由任レ意、曾祖父母、〈同祖〉伯叔婦、夫之祖父母〈同祖〉、夫之伯叔姑、繼父同居、〈此謂二繼母一、及レ後娶、妾所レ召也、名例律、敺二告三等尊長一條(○○○○○)注云、繼母爲二三等一、則知夫前妻妾子、〉於二繼母一相二生尊卑一也、撿二鬪訟律一、妾與二夫之妻妾子一相敺之罪、約入二於尊長、卑幼難レ定條一、則知妻妾子、與二父妾一者、尊卑難レ定、此則子在二尊長卑幼之例一、其嫡母於二妾子一、亦比爲二三等一、從父兄姉、異父兄姉〈右二色三等長(○○○)〉從夫弟妹、異父弟妹、〈已上二色爲二三等幼(○○○)一〉高祖父母、〈同祖〉從祖祖父姑、從祖伯叔父姑、外祖父母舅姨、〈右五色爲二四等尊(〇〇〇)一〉曾孫、〈同孫〉兄弟孫、從父兄弟子、外甥、孫婦、妻妾前夫子、〈右五(五恐六)色爲二四等卑(〇〇〇)一〉夫兄姊再從兄姊兄妻妾、〈已上二(二恐三)色相合所レ生〉 鬪訟律云、敺二兄之妾一、及敺二夫之弟妹一、各加二凡人一等一律義云、兄妻妾及弟妹、兄自有二本服一、而不レ入二尊長卑幼節級一者、以二尊長卑幼一難レ定故也、則知此二色、尊卑長幼、不レ定、〈以上四等也〉玄孫、〈同孫〉外孫女聟、〈已上二色、爲一五等卑(○○○)一、妻(○)妾父母、既爲二五等尊(○○○)一、所以女聟亦爲二五等卑一也、〉姑子、舅子、姨子、〈已上三色、先生爲レ長(○)、後生爲レ幼(○)、〉其尊長卑幼、難レ定之色、總依二凡謀一也、古答云、問兄弟同年、又從父兄弟同年何科、答、以二凡謀一論、爲レ不レ稱二尊長卑幼一故、
p.0112 釋云、於二四等親一、夫之弟妹、與二兄之妻妾一、不レ可レ作二尊長卑劣一、然則與二凡闕一無レ別也、〈○中略〉於二五等一以二妻妾父母一爲レ尊、以外以レ齒爲二長劣一耳、
p.0112 八虐〈○中略〉
五曰、不道、謂乙殺下一家非二死罪一三人上、〈○中略〉殺二四等以上尊長一、〈依レ令從祖伯叔父姑、舅姨、再從兄姉等是、〉及妻甲、
p.0112 一八虐罪事〈○中略〉
五曰、不道、〈○中略〉
鬪訟律云、告二二等尊長(○○○○)外祖父母夫一者、雖レ得レ實徒一年、
謀レ殺二伯叔父一 謀レ殺二兄姉一 謀レ殺二外祖父母一 謀レ殺レ夫 謀レ殺二夫之父母一
名例律八虐注云、謀レ殺二伯叔父姑、兄姉、外祖父母、夫、夫之父母一、賊盗律云、謀レ殺二外祖父母、夫、夫之父母一 者、皆斬、殺二嫡母、繼母已上二等尊(○○○)一、殺二伯叔父之婦一、殺二夫之伯叔父一、殺二夫之祖父母一、殺二夫之姑一、殺二繼父同 居一、
已上三等尊(○○○)
殺二從父兄姉一 殺二異父婦一
已上三等長(○○○)
殺二從祖祖父一、〈祖之兄弟也〉殺二從祖祖姑一、〈祖之姉妹也〉殺二從祖叔父一、〈祖之從父兄弟也〉殺二從祖姑一、
已上四等尊(○○○) 殺二夫之兄姊一 殺二再從兄弟一〈(弟、法曹至要抄作レ姉)從祖伯叔父之子也〉
已上四等長(○○○)
p.0113 凡棄レ妻須レ有二七出之狀一、〈○中略〉皆夫手書棄レ之、與二尊屬近親(○○○○)一同署、〈謂尊屬近親相須、即男家女家親屬共署也、〉
p.0113 跡云、與二尊屬近親一同署、講依二下條一由二夫祖父母父母一、若无二祖父母父母一者亦是、此條云、由二近親一、故合レ由二三等以上親一、若无二三等親一、亦依二下條一夫得二自由一、朱云、下條一端由二祖父母父母一者、舅從母等亦可レ由者、未レ知此親雖レ非三三等以上親一入二近親一同署乎何、問尊屬近親幾事、答一事也、尊屬之近親耳、反問、近親何者、等〈○等上恐脱二三之字一〉以上親、凡此人親屬、答下條所レ由諸親者未レ明、然則尊屬者尊長(○○)也、近親者卑幼(○○)者、近親者凡三等以上也、
p.0113 凡五等親(○○○)者、父母、養父母、夫、子、爲二一等一、〈謂養子亦同也〉祖父母、嫡母、繼母、伯叔父姑、兄弟姉妹、夫之父母、妻妾、姪、孫、子婦、爲二二等一、〈謂妾亦同、子妾尚爲二二等一、父妾入二二等一明、其養子之父母及妻者、不レ得三復爲二夫之父母及子婦一也、〉曾祖父母、〈謂祖父之父母也〉伯叔婦、夫姪、從父兄弟姉妹、異父兄弟姉妹、夫之祖父母、夫之伯叔姑、姪婦、繼父、同居夫前妻妾子、爲二三等一、〈謂今妻妾子亦同也、夫姪爲二三等一、夫兄弟爲二四等一、謂伯父之妻爲レ母、夫之姪爲レ子、猶レ子、引而進之、義也、從兄弟謂兄弟之子、相呼爲二從父一、長者曰レ兄、少者曰レ弟也、〉高祖父母從祖祖父姑、〈謂祖父之兄弟姉妹也、〉從祖伯叔父姑〈謂從祖祖父之子、即父之從父兄弟姉妹也、〉夫兄弟姉妹、兄弟妻妾、再從兄弟〈謂從祖伯叔父之子也〉姉妹、外祖父母、舅、姨、〈謂母之兄弟曰レ舅、姉妹曰レ姨、〉兄弟孫、從父兄弟子、外甥曾孫、孫婦、妻妾前夫子、爲二四等一、妻妾父母、姑子、舅子、姨子、玄孫、外孫、女聟、爲二五等一、
p.0113 朱云、養祖父母不レ入二等親一者、先有二別義一通耳、額云、至二于養曾高一皆可レ入二等親一者、未レ明何、〈○中略〉古記云、問等親入レ女以不、答不レ、唯不レ得レ離准レ入耳、一云、稱レ等者女亦同、他准レ此、〈○中略〉釋云、養子之妻與二養父母一者不レ可レ稱二夫之父母及正子婦一、各從二本等一也、一云、亦同二夫父母及正子婦一也、妾亦爲二二等一、孫稱二婦妾一、故父妾亦可レ入二二等一、妾亦約也、問祖之妾何、答孫之妾入二四等一者、此夫之祖父母爲レ人二三等一、故其於二祖之妾一无レ被二決杖一者、合二覆勘取捨一也、私案、不レ入二等親一也、或云、師云、養子之子妻者同二眞孫一耳、 自餘放二令釋一也、〈在穴〉跡云、父妾爲二等親一、孫妾入二等親一故、
p.0114 養祖父母無二服假一事
儀制令五等親條、朱書云、養祖父母不レ入二等親一、
案レ之、令入二等親一之中、雖レ有下無二服假之法一者上、不レ入二等親一之族、未レ見下可二著服一之文上、然則養祖父母、已非二等親一、何令二著服一矣、
p.0114 六議
一曰議親、謂皇親及皇帝五等以上親、及太皇太后皇太后四等(○○)以上親、〈太皇太后者皇帝祖母也、皇太后者皇帝母也、〉皇后三等(○○)以上親
p.0114 凡太皇太后、皇太后、皇后之親分二五等(○○○)一、皆先定二於司封一、宗正受而統焉、凡皇周親、皇后父母爲二一等一、準二三品一、皇大功親、皇小功尊屬、太皇太后、皇太后、皇后周親、爲二第二等一、準二四品一、皇小功親、皇緦麻尊屬、太皇太后、皇太后、皇后周大功親、爲二第三等一、準二五品一、皇緦麻親、爲二第四等一、皇祖免親、太皇太后小功卑屬、皇太后、皇后緦麻親、及舅母、姨夫、爲二第五等一、並準二六品一、其籍如二州縣之法一、凡大祭祀、及冊命、朝會之禮、皇親、諸親、應二陪レ位豫會一者、則爲二之簿書一、以申二司封一、若皇親爲レ王、〈舊唐志王作レ三〉公子孫應レ襲レ封者亦如レ之、
p.0114 八議
一曰議親〈謂二皇帝祖免以上親、及太皇太后皇太后緦麻以上親、皇后小功以上親一、〉
疏議曰、義取下内睦二九族一、外叶二萬邦一、布二雨露之恩一、篤中親親之理上、故曰二議親一、祖免者、據レ禮(○○)、有レ五(○○)、高祖兄弟、曾祖從父兄弟、祖再從兄弟、父三從兄弟、身之四從兄弟是、
p.0114 齊衡元年四月庚辰、詔曰、夫人之至親(○○)、莫レ親三於母子一、故子登二尊位一、則貴歸二於母一、古先哲王、未レ有二違レ之者一、〈○下略〉
p.0115 文治六年〈○建久元年〉正月六日辛酉、兼任、送二使者於由利中八維平之許一云、古今間報二六親(○○)若夫婦怨敵之者一、尋常事也、未レ有下討二主人敵一之例上、兼任獨爲レ始二其例一所レ赴二鎌倉一也者、仍維平馳二向于小鹿島大社、山毛之左田之邊一、防戰及二兩時一、維平被一討取一畢、
p.0115 三族(サンゾク)〈父黨、母黨、妻黨、〉 九族(キユゾク)〈高祖父、曾祖父、祖父、稱(ヲヤ)、己、子、孫、曾孫、玄孫、〉
p.0115 高祖、曾祖、祖父、己身、子孫、曾孫、玄孫、〈謂二之九族一〉父己子、〈謂二之三族(○○)一〉
p.0115 天皇諱時康、〈○中略〉天皇少而聰明、好讀二經史一、容止閑雅、謙恭和潤、慈仁寛曠、親二愛九族(○○)一、性多二風流一、尤長二人事一、
p.0115 族者何也、族者湊也、聚也、謂二恩愛相流湊一也、上湊二高祖一、下至二玄孫一、一家有レ吉、百家聚レ之、合而爲レ親、生相親愛、死相哀痛、有二會聚之道一、故謂二之族一、尚書曰、以親二九族一、族所二以九一何、九之爲レ言究也、親疎恩愛究竟謂二之九族一也、謂二父族四母族三、妻族二一、父族四者、謂父之姓爲二一族一也、父女昆弟適レ人有レ子、爲二二族一也、身女昆弟適レ人有レ子、爲二三族一也、身女子適レ人有レ子、爲二四族一也、母族三者、母之父母爲二一族也、母之昆弟爲二二族一也、母之女昆弟爲二三族一也、母昆弟者男女皆在二外親一、故合言レ之、妻族二者、妻之父爲二族一、妻之母爲二二族一、妻之親略、故父母各一族、禮曰惟氏三族之不レ虞、尚書曰、以親二九族一、義同也、一説合言二九族一者、欲レ明二堯時倶三一也、禮所二以獨父族四一何、欲レ言下周承二二弊之後一民人皆厚中於末上、故與二禮母族一、妻之黨廢レ禮、母族父之族、是以貶二妻族一以附二父族一也、或言レ九者、據レ有二交接之恩一也、若二邢侯之姨譚公惟私一也、言二四者一據レ有レ服耳、不レ相二害所一レ異也、
p.0115 四年十月乙丑、詔二軍丁筑紫國上陽咩郡人大伴部博麻一曰、於二天豐財重日足姫天皇七年一救二百濟一之役、汝爲二唐軍一見レ虜、〈○中略〉汝獨淹二滯他界一於レ今三十年矣、朕嘉二厥尊レ朝愛レ國賣レ己顯一レ忠、故賜二務大肆幷絶五匹、緜一十屯、布三十端、稻一千束、水田四町一、其水田及二至曾孫(ヒヽコ)一、也、免二三族(○○)課役一、以顯二其功一、
p.0115 三族〈父族母族、妻族、〉
p.0116 本書〈○倭名類聚抄〉親屬注解、雖レ不レ難レ讀、又恐童蒙輩或時迷レ津、今爲作レ圖、希二一覽之瞭然一也、
○ ○ ○ ○ *1
*2 *3 族父(オホオホチヲチ) 族昆弟(マタイトコ)〈三從兄弟〉
*4 *5 *6
*7 *8
從祖*9父(オホ(チ)ヲチ) *10) 再從父弟(イヤイトコ)〈*11〉
從祖*12母(オホヲハ) *13
*14
世父(エホチ)〈伯父〉 從父兄(イトコ)*15
*16(ヲハ) 從父姉(イトコ)*17
高祖姑 會祖姑 祖姑(オホヲハ)〈王姑〉 姑(ヲハ)〈*18 *19〉 *20〈*21〉
コノカミ(―――)兄〈昆*22〉 (甥(ヲヒ)*23)
*24) (姪(メヒ)) (歸孫)〈ムマコヲヒムメコヒメ〉
*25
姊(アネ/イロネ)〈女兄*26 〉 出〈外姪*27)*28〉 離孫ムマコヲヒムマコメヒ
高祖父 *29(オホオホチ) 祖父(オチ)〈王父〉 父(チヽ)〈カソ考爺〉 己 子*30) ムマコ(―――)孫〈ヒコ〉 曾孫(ヒヽコ) 玄孫(ヤシハコ)
高祖母 曾祖母(オホオハ) 祖母(オハ)〈王母〉 母(ハヽ)〈妣孃イロハ(―――)〉 婦(ヨメ) 來孫 昆孫
婿(ムコ) 仍孫 雲孫
女*31) 外孫 弟(オトウト)*32*33) 〈姪(―)*34〉
*35 *36〈ムマコヲヒムマコメヒ〉
*37
妹(イモウト)〈*38イロト(―――)〉 出*39)*40 離孫〈ムマコヲヒムマコメヒ〉
仲父(ナカツヲチ) 從父*41(イトコ)弟
從父*42(イトコ)妹
叔父(オトヲチ) 從父*43(イトコ)弟
*44(ヲハ) 從父*45(イトコ)妹
季父 從父*46(イトコ)弟
從父*47(イトコ)妹
姑(ヲハ)*48((叔母) *49*50
從祖*51父(オホ*52ヲチ) *53) 再從兄弟(イヤイトコ)*54
從祖*55母(オホヲハ) *56
祖姑(オホヲハ) *57
*58 *59 族父(オホオホチヲチ) 族昆弟(マタイトコ)三從兄弟
*60 *61 *62
高祖姑 曾祖姑 *63 *64
○ ○ ○ ○ *65 母黨
○〈*66 *67〉 従舅(ハヽカタノオホチヲチ)
舅(ハヽカタノオホヲチ大舅) *68〈*69〉
○〈*70 *71〉 從母(ハヽカタノヲハ姨) 從父兄(イトコ)*72
從父姉(イトコ)*73
外祖父(ハヽカタノオホチ)〈外王父〉 母 己
外祖母(ハヽカタノオホチ)〈外王母〉 舅(ハヽカタノオホヲチ小舅) *74〈*75〉
從母(ハヽカタノヲハ姨) 從父*76(イトコ)弟
從父*77(イトコ)妹
○〈*78〉 従舅(ハヽカタノオホチヲチ)
夫黨
兄公(コシウト)
女公(コシウトメ)
舅(シウト)〈阿翁〉 夫(ヲフト)〈*79*80(ヲトコ)〉
姑(シウトメ) 叔(コシウト)
女妹(コシウトメ)*81
妻黨
婦兄(コシウト)〈甥〉
姨(コシウトメ)イモシウトメ
外舅(シウト)〈婦翁〉 妻(メ)*82
外姑(シウトメ)〈婦母〉 婦弟(コシウト)甥
姨(コシウトメ)イモシウトメ
皇國上古同母兄弟姉妹稱呼
兄(イロネ)〈母兄〉
姊*83)母(イロハ) 己〈男子〉
弟*84)〈母弟〉
妹*85)
兄*86)
姉(イロネ)
母(イロハ) 己〈女子〉
弟*87) 妹(イロモ)
女子稱呼
兄*88) *89(ヲヒメヒ)*90 *91
嫂(ヨメ) 稚婦謂姒婦(オホヨメ)
私(ムコ)
姉*92)
己
弟*93) *94(ヒメヒ) *95
婦(ヨメ) 長婦謂娣婦
兄弟之妻相呼妯娌 兩壻相呼姫
私(ムコ)
妹*96)
○按ズルニ、親屬圖ハ、尚ホ禮式部服紀上篇ニ在リ、宜シク參照スベシ、
p.0119 道富丈吉由緒書
本國阿蘭陀國あむすてるだむ
生國肥前國長崎 道富丈吉
一父 へんでれきとうふ
右とうふ儀は、阿蘭陀國之都あむすてるだむ住居、先へんでれきとうふ忰にて、父存生之内はゆにおると稱し、父死後之名を繼ぎ罷在候、〈○中略〉
親類書(○○○)
父方
一祖父 阿蘭陀國あむすてるだむ住居 〈先〉へんでれきとうふ〈死〉
一祖母 右同斷、あれんきさんでるね 〈すゑんき死娘〉まるがれつたねすしんぎ
一父 〈寛政十一未年始而渡來仕、翌申年再渡、以來在留仕、加美職相勤罷在候、〉 へんでれきとうふ
一母 長崎新橋町住居 〈土井德兵衞死娘〉よう
一伯母 阿蘭陀國あむすてるだむ住居 〈父とうふ姉〉ゐるれむやこふヘ〈ツテ〉妻
ゐるへるみいなどうふ
一同 右同斷 〈同〉へんやめんけいせるまん〈死〉妻 ゐるへるみいなどうふ
一同 右同斷 まるがれつたどうふ
〈母一所に罷在候〉
母方一祖父 新橋町ケ所持町人 土井德兵衞〈死〉
一祖母 野母村峯仁平死娘 すゑ
一伯父 同斷 土 井 瀧 藏
一伯母 新大工町住居 〈母よう妹作次郎妻〉こと
一從弟 〈土井瀧藏子〉 國太郎
一同 〈作次郎子〉 文次郎
p.0120 文久二壬戌年七月八日
親類書用紙(○○○○○)〈幷〉書式(○○)ノ達
布衣以上之御役人〈幷〉三千石以上寄合之面々差出候親類書等、是迄老中支配之分者奉書ニ認、 若年寄支配之分者程村ニ認差出候處、向後ハ老中若年寄支配共、別冊之通美濃紙綴本ニ相認 可レ被二差出一候、且又轉役等之節者、新規認直し差出候ニ不レ及、最前差出置候親類書相下ゲ、增減之 上進達致候樣可レ被二心得一候、尤唯今迄差出置候分ハ、引替不レ及候、
右之趣、向々〈江〉可レ被レ達候事、
p.0120 祖〈オヤ〉
p.0120 先祖子孫號名
始祖〈始立二根基軌業一之祖〉 先祖〈此代々自二始祖之子一至二高祖之父一〉 高祖〈最高在レ上〉 曾祖〈權上祖轉增益也〉
大父 父 己
p.0121 此三柱綿津見神者、阿曇連等之祖神(○○)以伊都久神也、
p.0121 祖神は意夜賀微(オヤガミ)と訓べし、凡て上代は父母に限らず、幾世にても遠祖までを通はして、皆たヾ意夜(オヤ)と云り、〈其證は古書にあまた見ゆ、父母は其意夜の中の一世なるが、有が中に近く親き故に、殊に其稱を専と負て、後には意夜といへば、たゞその父母のみの稱の如くなれりしなり、後世のならびを以テ古をな疑ひそ、〉故古書には祖字を意夜と訓て、親のことにも用ひたり、〈意富々々遲意富遲などは、事を分けて云ときの稱にて、すべては何れもみな意夜なり、〉書紀には遠祖上祖本祖始祖など書て、登富都意夜と訓り、是も古稱にて、万葉〈十八〉にも遠都神祖(トホツカムオヤ)などあり、されど此記には、何れも祖とのみありて、遠祖など書ること一も無れば、たヾ意夜と訓例なり、されば上代には、某姓の本祖と云をも、たヾ祖とぞ云けん、又子と云も己が生るに限ず、子々孫々までかけて云稱なり、
p.0121 宗〈ソウ云二祖主(○○○)一也〉
p.0121 凡三位以上、及別祖(○○)、氏宗(○○)、〈謂別祖者、別族之始祖也、氏宗者、氏中之宗長、即繼嗣令聽レ勅定是也、〉
p.0121 大化二年八月癸酉、詔曰〈○中略〉遂使二父子易レ姓、兄弟異レ宗(ヤカラ)、夫婦更互殊一レ名、一家五分六割、
p.0121 本二其元生一則有二三體一、跡二其群分一則有二三例一、〈○中略〉古記、本系並録而載、或載二古記一而漏二本系一、或載二本系一漏二古記一、書曰二同祖之後(○○○○)一、宗氏古記雖レ云二遺漏一、而立レ祖不レ繆、但事渉二狐疑一、書曰二之後(○○)一、所下以辨二遠近一示中親疎上、是爲二三例一也、
p.0121 新撰姓氏録の論〈○中略〉
此は上にも引る、路眞人出レ自二諡敏達皇子難波王一也とある次に、守山眞人同祖難波王之後也とある類をいへり、〈其は同祖と云は、上に論へる如く慥なるかれ、之後と云は、下に辨ふ如く、狐疑に渉るを云例なればなり、〉此は守山眞人の祖は(○○○○○○○)、敏達天皇(○○○○)なることは、古記本系並に記し載せて慥なれど、宗を難波王(○○○○○)と爲たるは、古記にまれ本系にまれ、一方に見えて、一方には漏たる故に、疑なきにしも非ざれば、かく録されたるなり、〈○中 略〉
抑この録、文は約なれども、抄略したる本の傳はれるには非ず、元來の全き書なることは、各々姓々の下に録せる文と、上に引りし、桓武天皇紀十八年の詔命に、令レ載二始祖(○○)及別祖(○○)等名一、勿レ列二枝流並繼嗣歴名一、あるに熟く符るを以て知べし、
p.0122 祭法、有虞氏禘二黄帝一郊レ嚳、祖二顓頊一而宗レ堯、夏后氏亦禘二黄帝一而郊レ鯀、祖二顓頊一而宗レ禹、殷人禘レ嚳而郊レ冥、祖レ契而宗レ湯、周人禘レ嚳而郊レ稷、祖二文王一而宗二武王一、註、有二郊祖宗門謂二祭祀以配食一也、此禘謂レ祭二昊天於圜丘一也、祭二上帝於南郊一曰レ郊、祭二五帝五神於明堂一曰二祖宗一、祖宗通言爾,下有二禘郊祖宗一、孝經曰、宗二祀文王於明堂一、以配二上帝一、明堂月令、春曰、其帝太昊、其神句芒、夏曰、其帝炎帝、其神祝融、中央曰、其帝黄帝、其神后土、秋曰、其帝少昊其神蓐収、冬曰、其帝顓頊、其神玄寘、有虞氏以上尚レ德、禘二郊祖宗一、配用二有德者一而已、自レ夏以下、稍用二其姓氏之先後之次一、有虞氏夏后氏宜レ郊、顓頊殷人以レ郊、契郊祭二帝一、而明堂祭二五帝一、小德配レ寡、大德配レ衆、亦禮之殺也、〈○註略〉疏、〈(中略)祖二顓頊一而宗レ堯者、謂祭二五天帝五人帝及五人神於明堂一、以二顓頊及堯一配レ之、故云、祖二顓頊一而宗レ堯、祖始也、言爲二道德之初一、始故云レ祖也、宗尊也、以二有德可一レ尊故云レ宗、其夏后氏以下禘郊祖宗其義亦然、〉
p.0122 一書曰、天照大神乃賜二天津彦彦火瓊瓊杵尊八坂瓊曲玉、及八咫鏡、草薙劒三種寶物一、又以下中臣上祖(トホツオヤ/○○)天兒屋命、忌部上祖太玉命、猿女上祖天鈿女命、鏡作上祖石凝姥命、玉作上祖(○○)玉屋命、凡五部神上使二配侍一焉、
p.0122 天皇〈○中略〉及二年四十五歳一、謂二諸兄及子等一曰、昔我天神、高皇産靈尊、大日靈尊、擧二此豐葦原瑞穗國一、而授二我天祖(アマツミオヤ/○○)彦火瓊瓊杵尊一、〈○中略〉是年也甲寅、其年十月辛酉、天皇親帥二諸皇子舟帥一東征、至二速吸之門一、時有二一漁人一、乗レ艇而至、〈○中略〉乃特賜レ名爲二椎根津彦一、〈○註略〉此即倭直部始祖(○○)也、行至二筑紫國菟狹一、〈○註略〉是時勅以二菟狹津媛一賜二妻之於侍臣天種子命一、天種子命是中臣氏之遠祖(○○)也、
p.0122 七年二月丁卯、立二鬱色譴命一爲二皇后一、后生二二男一女一、第一曰二大彦命一、〈○中略〉大彦命是阿倍 臣、瞻臣、阿閉臣、狹々城山君、筑紫國造、越國造、伊賀臣、凡七族之始祖(○○○○○)也、
p.0123 二年十一月、依二大嘗供奉之料一、遣二於播磨國司山部連先祖(○○)、伊與來目部小楯一、
p.0123 神龜元年三月辛巳、左大臣正二位長屋王等言、伏見二二月四日勅一、藤原夫人〈○聖武母后宮子娘〉天下皆稱二大夫人一者、〈○中略〉伏聽二進止一、詔曰、宜下文則皇太夫人、語則大御祖(オホミオヤ/○○○)、追二收先勅一頒中下後號上、
p.0123 貞觀十一年十二月十四日丁酉、遣二使者於伊勢大神宮一奉レ幣、告文曰、〈○中略〉況掛〈毛〉畏〈岐〉皇太神〈波〉、我朝〈乃〉太祖(○○)〈止〉御座〈天〉、食國〈乃〉天下〈乎〉照賜〈比〉護賜〈利、○下略〉
p.0123 一高祖父之親〈幷〉曾祖父之兄弟等唱方之儀
初鹿(朱書)野河内守答
四月(朱書)〈○天保九年〉七日井伊掃部頭殿家來ゟ問合
一高祖父之親を高曾祖父と唱候儀も御座候哉、又者外に唱方も御座候哉、
高祖父之親者先祖(○○)と唱候事に候
p.0123 枝別之宗特立二之祖一、書曰二出自(○○)一、〈○下略〉
p.0123 姓氏録を校合たる大むね
一序に、三體三例といふことあり、三體は、神別、皇別、諸蕃にて、誰もよくしれることにて論なし、つぎに三例といふは、出自(○○)、同祖之後(○○○○)、之後(○○)と三ッにて、此三ッのしるしざまによしあること也、しかれども、今の姓氏録は、抄録の書たる故に、すべてのさまも、みだりがはしく、しどけなきさまのみしたれば、〈天皇の御事をしるせるに、實の大御名をしるせるかと思くば、ゆぐりなく後の御諡をしるせるたぐひ、みだりかはしきこといと〳〵おほし、〉此三例も、分明にはわかれがたき中に出自となるは、枝別之宗、特立之祖をいふとありて、三例の中にも、とりわきて祖事つまびらかに、正しき氏とみゆれば、皇別神別ともに之後などあるに比ては、出自とあるかたは、數もこよなくすくなきを、諸蕃にいたりて、かへりて出自としるせる が、いと〳〵多きは、いとうたがはしきことなるに、一本には、出自とあるは、いと〳〵まれにして、おほく之後とあり、此本よろしきに似たるが故に、今はしばらくそれによれり、之後とあるが、よろしきに似たるよしは、序に祖事陟二狐疑一、書曰二之援一といひ、所下以辨二遠近一示中親疎上、などいへるをもて、かた〳〵諸蕃によしあればなり、〈○中略〉
文化四年夏 安藝國人 源稻彦
p.0124 新撰姓氏録の論〈○中略〉
或古記本系並録載、而枝別之宗、特立之祖、書曰二出自一、
古記とは、上文にいはゆる古記舊史をいひ、本系とは、いはゆる新進本系なり、並録載とは、古記 本系ともに、録し載せて、彼此よく符ひて紛亂なきをいふ、〈或字よリ以下九字、今本ともに、而字録載の間に在て、出自の下に記せるは錯亂れるなり、今は一古本に依て註しつ、〉さて遠都於夜(トオつオヤ)に祖と宗とを立ることは、元漢土の論にて、祖とは始祖(ハジメノオヤ)をいひ、宗とは其次に功德ありし於夜を云て、此二於夜を殊に重く祭る事あり、〈此事彼此の漢籍に見えて、彼方の學問する徒の、いみじき事に言さわぐ説どもあり、〉此録にも其號に傚ひて記されたり、斯て此の文は、打見たる儘にては一條に見ゆれど、熟く、見れば三例に見別つべく書れたり、〈かヽる文例、漢土の古文にも彼此あるを、皇國の古き漢文は、彼の古文に似て、かゝる文もをり〳〵交れるはいと珍らし、後世の漢學者流わづかに漢世あたりの文、また宋人の文法などを眞似び得て、殊更に佶屈なる語な綴り、其を古文辭と稱ひて猛き事に思ひ、皇國の古人の漢文を、いと拙き物にいふめれど、古にかゝる文の有とは得知らずぞ有ける、〉其は枝別之宗、特立之祖書曰二出自一と云を一例として、譬へば路眞人出レ自二諡敏達皇子難波王一也とあるは、路眞人の家にては、敏達天皇は祖にて、難波王は宗なる故にかく録されたり、〈そは此次に守山眞人路眞人、同祖、難波王之後也とあるもて、敏達天皇を祖とし、難波王を宗とせること知べし、なほ此類は神別にも、藤原朝臣出レ自二津速魂命三世孫天兒屋根命一也といひ、添縣主出レ自二津速魂命男武乳速命一也と見えたるは、藤原の家にては津速魂命を祖とし、兒屋根命な宗とし、添縣主の家にては、津速魂命を祖とし、武乳速命を宗とする由なり、なほ皇別に、八多眞人出レ自二諡應神皇子稚野毛二俣王一也、など此類おほく記されたり、さて今本に、諸蕃に此例なもて、牟佐村主出レ自二呉孫權男高一也、など書るが多かれども、此にもと呉孫權男高之後也と有しを、後人の思ふ旨ありて、之後字を削りて、出自と書る本の傳はれると所思たり、其由下文の下に註を 見て辨ふべし〉、また特立之祖書曰二出自一を一例として、譬へば大和國地祇に、國栖出レ自二石穗押別命一也と書れたる類は、此命より前の祖の名傳はらず、また宗と立べき於夜の名も傳はらざる故に、特この命をのみ祖に立たるを云へり、〈但し此例は然しも多からねど、皇別にも諸蕃にも彼此あり、心を著て見るべし、〉また枝別之宗書曰二出自一と云を一例として、譬へば大和國の天孫に、大角隼人出レ自二火闌降命一也と書れたるは、日子番能邇々藝命の御末は、皇統と火闌降命の末とに別れたるを、大角隼人の家に取ては、邇々藝命は祖にして、火闌降命は宗なり、然るに祖を記し出す、宗を擧たるを云へり、
p.0125 庶流と唱候儀ニ付評議申上
文化十四丑年十二月七日御目付荒川常次郎差出廻し、十一月七日紀伊守殿吉十郎を以御下ゲ了簡書相添、同十一日同人を以上ル、
覺
交替寄合松平彈正儀、松平因幡守庶流と書出候得共、御三家庶流之外、庶流と唱候儀有レ之候哉、取調可レ被二申聞一候事、
紀伊守殿〈十一月十一日、吉十郎を以上ル、十二月同人を以御下ゲ承付、即日返上、〉
〈書面庶流唱之儀、先是迄之通被二取据置一候段、無二急度一御沙汰之旨承知仕候、〉
御書面庶流と申儀取調候處、御三家庶流ニ限リ相唱候旨、申二規定一仕候書留者無二御座一候得共、都而御書付等ニ御三家ニ限リ庶流と有レ之候間、當時ニ而者、一席之名目之樣ニ相成候、且松平因幡守松平彈正家之儀者、爾家共元祖池田家より出候家(○○○○○○○○○○○○○)ニ而、因幡守元祖衞門督忠繼者、池田輝政次第權現樣御孫ニ而、五才之時、備前國を被二下置一、其後因幡伯耆を引替被二下置候、彈正元祖石見守輝濟儀者、輝政四男ニ而、是又權現樣御孫ニ而、拾貮才之時、播州宍粟郡三万八千石被二下置一、其後同國佐用郡三万石を加、六万八千石被二下置一候處、家來騒動之儀ニ付、領地被二召上一、同國神崎郡之内壹万 石被二下置一、石見守輝濟、其子政直共、松平相模守〈江〉御預ケ相成有レ之候處、松平新太郎光政、松平相模守御願ニ付、輝濟子能登守政直〈江〉播州神崎郡印南郡之内壹萬石被二下置一被二召出一候處、能登守政直死去之節、實子無レ之候ニ付、松平新太郎光政、松平相模守光仲願ニ付、政直遺領壹万石を相分ち、弟兩人、久馬助政武〈江〉七千石、勝左衞門政濟〈江〉三千石被二下置一候而、久馬助政武儀者、家督之儀ニ付、松平之御稱號相名乗、勝左衞門政濟者、分知之儀故、池田苗字相名乗候樣被二仰婆一候趣、寛永系圖〈幷〉松平彈正系譜ニ相見申候、左候得者、彈正儀、因幡守同家ニ而、分家分地など申候類ニ者無レ之候得共、乍レ然其家々之申合ニ而、庶流抔相唱取扱候儀も可レ有レ之哉ニ候間、其家ニ限リ相唱候儀者、格別之事、前書之通、庶流と申儀、御三家庶流ニ限リ、一席之名目之樣相成來候間、諸家ニ而相用候ハヾ、混雜可レ仕儀も可レ有レ之奉レ存候間、以來對二公邊一候事ニ者、庶流と唱候儀者無用ニ仕候樣被二仰渡一可レ然奉レ存候、大目付〈幷〉同役一同評議仕候處、書面之通御座候、則被レ成二御下ゲ一候、御書面返上仕、此段申上候、以上、
十一月 荒川常次郎
p.0126 高祖(○○)〈加彌於保地(○○○○○)〉
p.0126 高祖父 爾雅云、曾祖王父之考爲二高祖王父一、日本紀上祖、〈和名止保豆於夜(○○○○○)〉文字集略云、五世祖也、
p.0126 所レ引釋親文、下皆同、那波本曾祖下高祖下並有二王字一、與二原書一合、蓋那波本校補非二源君之舊一、丘 大學衍義補今稱二高祖父高祖母居、釋名、高祖、高皐也、最在レ上皐二韜諸下一也、上祖見二神代紀上一、按止保豆於夜、遠祖也、古謂二父母一曰二於夜一、謂二祖先一亦曰二於夜一、故上祖日二止保豆於夜一也、然上祖即遠祖、非二高祖父一、源君引レ之非レ是、新撰字鏡、高祖訓二加美於保知一、簾中抄謂二之於保川於保知一、
p.0126 高祖父〈トヲツオヤ 文字集略云、五世祖也、曾祖父母之父母也、〉
p.0127 延暦十八年二月乙未、贈正三位行民部卿兼造宮大夫美作備前國造和氣朝臣淸麻呂薨〈○中略〉高祖父(○○○)佐波良、曾祖父波伎豆、祖宿奈、父乎麻呂墳墓、在二本郷一者、拱樹成レ林、淸麻呂投竄之日、爲レ人所二伐除一、〈○下略〉
p.0127 高祖母 爾雅云、曾祖王父之妣爲二高祖王母一、
p.0127 那波本、曾祖下、高祖下、並有二王字一、蓋依二原書一校補也、類聚名義抄高祖母訓二止保川於八一、恐非レ是、按簾中抄、謂二高祖父母一爲二於保川於保知无波一、无波於波之轉、然則此可レ訓二於保川於波一、
p.0127 曾祖王父之考爲二高祖王父(/ヒヒオホヂ)一、曾祖王父之妣爲二高祖王母(/ヒヒオホバ)一、 郭氏曰、高者、言二最在一レ上、丘氏曰、今稱二高祖父高祖母一、會典、即太太公婆(/ヒヒヂイヒヒバヽ)、
p.0127 柳生播磨守答
父之高祖父母玄孫之子唱名目者無二御座一、書面等に相認め候節者、父之高祖父母誰玄孫之子誰よりと相認候事御座候哉、
書面、父之高祖父母者先祖誰よりと相認、其外書面にて可レ然存候、
p.0127 曾祖(○○)〈於保於保地(○○○○○)〉
p.0127 曾祖父 爾雅云、王父之考爲二曾祖王父一、〈和名於保於保知〉文字集略云、曾重、四世祖也、
p.0127 新撰字鏡曾祖同訓、喪葬令集解、曾祖父母、俗云二於保知一也、疑傳寫脱二一於字一也、按於保於保知、大祖父之義、曾祖父者父之祖父、故曰二大祖父一、今俗呼二比治々一、〈○中略〉郭璞曰、曾猶レ重也、與二此義一同、釋名、曾祖從レ下推レ上、祖位轉增益也、按説文、曾、詞之舒也、借爲二曾益曾重義一也、
p.0127 曾祖父〈オホオホチ 祖父之父也、文字集略云、四世祖也〉
p.0127 王父之考爲二曾祖王父(/ヒオホチ)一、王父之妣爲二曾祖王母(/ヒオホバ)一、 郭氏曰、曾猶レ重也、丘氏曰、今稱二曾祖父曾祖母居、會典、即太公太婆(/ヒヂイヒバヽ)、
p.0128 古記云、釋親云、王父之考爲二曾祖王父一、王父之妣爲二曾祖王母一、案祖父母之父母、曰二曾祖父母一、自レ我三繼祖父母也、俗云、於保保知也、
p.0128 貞觀元年十月廿三日乙巳、尚侍從三位廣井女王薨、廣井者、二品長親王之後也、曾祖(○○)二世從四位上長田王、祖從五位上廣川王、父從五位上雄河王、〈○下略〉
p.0128 貞觀三年二月廿九日癸酉、參議從四位上行太宰大貮淸原眞人岑成卒、岑成左京人、贈一品舎人親王之後也、曾祖二世(○○○○)從四位上守部王、祖從五位下猪名王、父无位弟村王、岑成是弟村之子也、
p.0128 後成恩寺殿〈〇一條兼良〉ハ曾祖父兼敦ニ御相傳也、其御作ノ纂疏ニハ、口傳相承ヲバ一モ載ラレズ、尤深切也、
p.0128 平野御歌
しらかべのみかどのおやのおほぢこそひらのヽ神のこヽろなりけれ
今案、白壁ハ光仁天皇也、其曾祖父ハ舒明天皇、其曾祖父ハ欽明天皇也、是平野明神云々、
p.0128 曾祖父養祖父養父當人譯合有レ之續問合
初鹿(朱書)野河内守挨拶
牧野備後守ゟ問合
曾祖父
養祖父 部屋住ニ而相勤候内病死
養父 嫡孫承祖ニ相成 當人
右曾祖父者、養祖父ニ相當リ候哉之事、
書面、養父嫡孫承祖ニ而も、養父之父者祖父ニ付、其父者其身之爲、曾祖父ニ而候、
p.0129 曾祖母(○○○) 爾雅云、王父之妣爲二曾祖王母一、〈和名於保於波(○○○○)〉
p.0129 按於保於波、大祖母之義、今俗呼二比婆々一、
p.0129 曾祖母〈オホウハ祖母之母也〉
p.0129 祖父(○○) 爾雅云、父之考爲二王父一、九族圖云、祖父、〈於知保(○○○)〉
p.0129 現在書目録、載二喪服九族圖一卷一、源君所レ引蓋是、祖父母、見二儀禮喪服一、釋名、祖祚也、祚物先也、又謂二之王父一、王 也、家中所二歸 一也、王母亦如レ之、按説文、祖、始廟也、以爲二父祖之祖一、轉注也、令集解同訓、新撰字鏡、阿父訓二於地一、古本訓二於保知一、阿父恐有二誤字一、按於保知、大父之急呼、祖父者父之父、故曰二大父一也、於地又急二呼於保地一者、今俗呼二治々一、
p.0129 祖父〈オホチ父之父也〉
p.0129 〈ヲヽチ父ノチヽ也〉
p.0129 おやのおや 祖父をいふ
p.0129 おほぢ 祖父をよめり、和名抄にみゆ、大父の義なり、大父は漢張良傳に見えたり、神代紀に祖神もよめり、曾祖父をおほ〳〵ぢ、外祖父を母方のおほぢとよめり、爾雅に、父之考爲二王父一、父之妣爲二王母と見ゆ、東王父西王母の稱も是よりや出たりけん、
p.0129 父之考爲二王父(オホヂ)一、父之妣爲二王母(オホバ)一、祖王父也、
郭氏曰、如二王者一尊レ之、丘氏曰、今稱二祖父祖母一、大明會典曰、即公婆(ヂイバヽ)、〈○中略〉
胤按、左氏曰、以二王父字一爲レ氏古者多以レ祖稱二王父一、又曰二大父一、漢書大父行、是也、意者曰レ祖者、自レ廟而言 レ之、曰二王父一者、就二其人一而稱レ之爾、至二後世一、則以レ祖稱二其人一、而言二王父一者甚少、且祖字从レ示、又廟有レ功曰レ祖、有レ德曰レ宗、則義之所レ本可レ知矣、猶二父廟稱一レ禰也、此義字書未レ發、
p.0130 むかし、はヽ君〈○明石姫君母明石上〉の御おほぢ(○○○)中務の宮ときこえけるが、らうじ給ひける所、大ゐ河のわたりにありけるを、その御のち、はか〴〵しうあひつぐ人もなくて、としごろあれまどふを思いでヽ、かの時よりつたはりてやどもりのやうにて、ある人をよびとりてかたらふ、
p.0130 長元四年六月十七日伊勢のいつき内宮にまいりて侍けるに〈○中略〉
御和奉りける 祭主輔親
おほぢちむまごすけちかみよまでにいたヾまつるすべらおほんかみ
p.0130 祖母(○○) 爾雅云、父之妣爲二王母一、九族圖云、祖母〈母波(○○)〉孫炎曰、人之尊祖若二天王一、故王父王母也、
p.0130 新撰字鏡阿婆同訓、下總本作二於保波一、與二伊呂波字類抄一合、令集解亦云二於保婆一、按於保波、大母之急呼、於波又於保波之急呼、則有二保字一、無二保字一兩通、然曾祖母訓二於保於波一、外祖母訓二母方乃於波一、則似下源君訓二祖母一爲中於波上、今俗呼二婆々一、〈○中略〉魏孫炎爾雅注八卷、見二隋書一、今無二傳本一、
p.0130 祖母〈オホハ父之母也、〉
p.0130 祖母〈ウハ〉
p.0130 うば 祖母又嫗又姥をよめり、うとおと通ず、今は乳母をしかいへり、
p.0130 源重之が母の近江のこふに侍けるに、むまごのあづまよりよるのぼりて、いそぐ 事はべりて、えこのたびあはでのぼりぬることヽいひて侍ければ、おばの女のよみ侍ける、おやのおやと思はましかばとひてましわが子のこにはあらぬなるべし
p.0130 外祖父(○○○)波々加太乃於保地
p.0130 外祖父 爾雅云、母之考爲二外王父〈母方乃於保知(○○○○○○)〉
p.0131 新撰字鏡、令集解、外祖父同訓、〈○中略〉外祖父見二儀禮喪服一、〈○中略〉按説文、外遠也、卜尚二平旦一、今夕卜、於レ事外矣、轉爲二對レ内之稱一、宗族在レ内、母黨在レ外、故云レ外以別レ之、
p.0131 外祖父〈母方ヲホチ〉
p.0131 古記云、釋親云、母之考爲二外王父一、母之妣爲二外王母一、案生母之身曰二外祖父母一也、俗云母方於保遲於保波也矣、
p.0131 神龜元年十月壬寅、忍海手人大海等兄弟六人除二手人名一、從二外祖父外從五位上津守連通姓一、
p.0131 天長十年三月乙卯、詔曰、〈○中略〉朕外祖父從三位橘朝臣疏基顯レ族、驤二首高衢一、外祖母從三位田ロ氏敏二彩芝田一、騰二芳蕙圃一、但屬二運謝一、巳從二閲川一、朕以二菲薄一丕承二洪業一、〈○中略〉宜三外祖父及外祖母並追二贈正一位一也、
p.0131 嘉祥三年四月己酉、太宰帥三品葛井親王薨、親王桓武天皇第十二子也、母大納言贈正二位坂上大宿禰田村麻呂之女、從四位下春子也、〈○中略〉嵯峨天皇御二豐樂院一、以觀二射禮一、畢後、勅二諸親王及群臣一、各以レ次射.親王時年十二、天皇戯二語親王一曰、弟雖二少弱一、當レ執二弓矢一、親王應レ詔而起、再發再中、時外祖父田村麻呂亦侍坐、驚動喜躍、不レ能二自已一、即便起座、抱二親王一而舞、
p.0131 この道長大臣は、今入道殿下これにおはします、一條院三條院のをぢ、當代〈○後一條〉東宮〈○後朱雀〉の御おほぢ(○○○)におはします、
○按ズルニ、一條天皇ノ御母詮子、三條天皇ノ御母超子ハ、並ニ兼家ノ女ニシテ、道長ノ妹ナリ、 故ニ道長ハ其伯父ニ當ル、又後一條天皇及ビ後朱雀天皇ノ御母ハ、道長ノ女彰子ナリ、故ニ道 長ハ其外祖父ニ當ルナリ、
p.0131 外祖母(○○○)〈(母字原无、意補)母方乃波々〉
p.0132 外祖母 爾雅云、母之妣爲二外王母一、〈母方乃於波(○○○○○)〉
p.0132 令集解訓二外祖母一、爲二母方於保波一、按於波、於保波兩通、詳二於祖母條一、新撰字鏡、外祖母母方乃波々、恐母方乃於波之誤、外祖母、見二儀禮喪服、禮記檀弓下一、
p.0132 外祖母〈ウハ(○○)、母方、〉
p.0132 天平七年十一月己未、正四位上賀茂朝臣比賣卒、勅以二散位葬儀一送レ之、天皇之外祖母也、
p.0132 貞觀十三年十月五日丁未、天皇服二錫紵一、〈○中略〉是時、天皇爲二祖母太皇太后一、〈○仁明后藤原順子〉喪服有レ疑未レ決、於レ是、令二諸儒議一レ之、從五位上行大學博士兼越前權介菅野朝臣佐世、從五位下行助敎善淵朝臣永貞等議云、儀禮喪服經、齊衰不レ杖、期章祖父母(○○○)、傳曰、何以レ期、至尊也、〈○中略〉祖母服制如レ此、春秋之義、天子之位至尊、万機之政至大、故三年之喪、既葬卒哭、除レ喪即告、依レ此言レ之、天子於二父母一尚爾、況祖母乎、然則葬後除レ喪、即レ吉、可レ即二杜之説一、
p.0132 かの御おば(○○)〈○源氏君外祖母〉北のかた、なぐさむかたなくおぼししづみて、おはすらん所にだに、たづねゆかんとねがひ給ししるしにや、つひにうせ給ぬれば、またこれをかなしびおぼすことかぎりなし、
p.0132 久安三年九月六日丁卯、入レ夜向二外祖母尼公家一、問二疾之病一、余〈○藤原賴長〉大哭、祖母亦哭、涙不レ落、〈俗人以レ之爲二死相一、未レ知レ所レ出、〉
p.0132 母與レ妻之黨爲二兄弟一、母之考爲二外王父(/ハヽカタノオホヂ)一、母之妣爲二外王母(/ハヽカタノオホバ)一、
郭氏曰、異姓故言レ外、丘氏曰、今稱二外祖父母一、會典、即外公外婆、通鑑梁簡文紀、刑及二外族一、胡三省曰、男子謂二舅家一爲二外家一、婦人謂二父母之家一爲二外家一、外族、外家之(/ハヽカタノモン)族也、
母之王考爲二外曾王父(/ハヽカタノヒオホバ)一、母之王妣爲二外曾王母(/ハヽカタノヒオホジ)一、 胤按、今稱二外曾祖父母一、
p.0133 親オヤ
p.0133 二十二年三月丁酉、登二高臺一而遠望、時妃兄媛侍レ之、望レ西以大歎、〈○中略〉爰天皇愛三兄媛篤二温淸之情一、則謂レ之曰、爾不レ視二二親(○○)一、既經二多年一、還欲二定省一、於レ理灼然、則聽レ之、
p.0133 山部宿禰赤人歌六首
美沙居(ミサゴイル)、石轉爾生(イソワニオフル)、名乗藻乃(ナノリソノ)、名者告志氐余(ナハノラシテヨ)、親者知友(オヤハシルトモ)、
p.0133 むねつぶるヽ物
おやなどの心ちあしうして、れいならぬけしきなる、まして世の中などさわがしき比、よろづの事おぼえず、
p.0133 親代(オヤシロ)
源平盛衰記廿卷〈十六丁ウ〉石橋合戰條に、家安親代(○○)ト成テ、夜ハ胸ニカヽへ奉テ通夜勞ハリ、晝ハ肩ニノセ終日ニ奉レ育云々、按に母代といふも似たる事なるべし、こは佐奈田與一を郎等文三家安が、はごくみそだてしよしをいへる所なり、
p.0133 父の事を、昔の人は、おやじや人、又おやじやものと云ひ、母の事を母じや人といひ、兄の事を兄じや人などヽいひしなり、今の世の人、父の事をおやじと云ふは、おやじや人と云ふ事を略して、おやじと云ふなり、
p.0133 おや 日本紀、續紀、宣命などに見ゆ、祖字をよむは遠祖(トホツオヤ)までを通はしいふ、又親字をよめり、老の義也、源氏にものヽおやはじめのおやなどいへるは祖の義也、古事記に、母の事も祖とも云り、母をおやとよみしは、萬葉集に見えたり、阿爺の字、禪録に見えたり、伊勢物語眞名本に、母字おやとよめれど、必はヽとよむべし、されど萬葉集には、母を多くおやとよめり、我國 の風、兩親の肉多く母に就は、親しみを主とする也、
p.0134 或書の中〈題號不レ見〉
人の親を、おやじ.おやぢいなどいふは、いかなることにや侍らん、傾城屋の亭主をおやぢといふよしきヽ侍るが、もしそれよりおこれることか、何さまよろしさうなることヽは聞えず、
p.0134 つヽみの中納言の君〈○藤原兼輔〉十三のみこの母御息所を内に奉りけるはじめに、御かど〈○醐醍〉は、いかヾおぼしめすらんなど、いとかしこく思なげき給けり、さてみかどによみてたてまつり給ける、
ひとのおやのこヽろはやみにあらねども子をおもふみちにまどひぬるかな〈○此歌又見二後撰和歌集、兼輔集一、〉先帝いと哀に思し召たりけり、御返しはありけれど人えしらず、
p.0134 天文十五、此年、信州佐久郡シカ殿城ヲ、甲州ノ人數、信州人數、悉談合被レ成候而、取懸被レ食候、去程、シカ殿モ隨分ノ兵共ヲ御持候、又常州ノモロオヤ(○○○○)ニテ御座候高田方、シカ殿ヲ見繼候而城ヲ守リ被レ食候、
p.0134 阿孃〈波々(○○)〉
p.0134 父母 孝經云、身體髪膚受二于父母一、父〈加曾(○○)〉母〈伊呂波(○○○)〉俗云、父〈和名知々(○○○○)〉母〈波々(○○)〉爾雅云、父爲レ考〈好反〉母爲レ妣、〈匹履反〉集注舎人曰、生稱二父母一、死時稱一考妣一、又云、惠公者何隠之考也、仲子者何桓之母也、明非二死生之異稱一矣、云阿耶〈知々〉阿 〈波々〉
p.0134 所レ引古文開宗明誼章文、〈○中略〉説文、父矩也、家長率敎者、从二又擧一レ杖、自虎通、父者矩也、以二注度一敎レ子也、廣雅、父榘也、榘與レ矩同、釋名、父甫也、始生レ己也、易有二子考一無レ咎、書事二厥考厥長一、接説文、考老也、以爲二父之稱一者、轉注也、〈○中略〉本居氏曰、知男子尊稱、宇摩志阿斯訶備比古遲神.又謂二八千戈神火遠理神一、稱二比古遲一、應神天皇時國栖人歌、謂二天皇一云二麻呂賀知一、皆是也、故以爲二父稱一也、父 訓二加曾一、見二神代紀一、其他尚多、又仁賢紀有三人名二鹿父一、本注俗呼レ父爲二柯曾一、〈○中略〉按呼二父母一爲二知々波々一、見二萬葉集及佛足石歌一、蓋古今通稱也、廣本以爲二俗語一、非レ是、阿耶又見二新撰字鏡古本一、〈○中略〉説文、母收也、从レ女象二襄レ子形一、一曰象二乳子一也、廣雅亦云、母收也、釋名、母冐也、含生レ己也、母訓二以路波一、見二神代紀一、其他尚多、按以路波謂二生母一也、以路是親昵之義、波即波々之急呼、以別二嫡母庶母繼母之稱一、猶丁同母兄弟姉妹、稱二以路禰以路登、以路勢以路毛一、以別中異母兄弟姉妹上也、泛訓二母字一曰二以路波一非レ是、〈○中略〉經典釋文云、爾雅犍爲文學注三卷、一云、犍爲郡文學卒史臣舎人、漢武帝時待詔、今無二傳本一、〈○中略〉按禮記曲禮云、生曰レ父曰レ母、死曰レ考曰レ妣、舎人蓋本レ之、〈○中略〉按尚書謂二生者一爲二考妣一、爾雅又云、父之考爲二王父一、父之妣爲二王母一、方言云、南楚瀑洭之間、謂二婦妣一曰二母一、稱二婦考一曰二父姼一、皆謂二生者一爲二考妣一、故郭璞以爲レ非二死生之異稱一、然漢儒多據二曲禮一爲レ説、故説文、妣歿母也、釋名、父死曰レ考、母死曰レ妣、舎人以爲二別稱一、亦是也、蓋或渾言、或析言、皆通也、阿孃又見二新撰字鏡一、按木蘭詩云、旦辭二爺孃一去、暮宿二黄河邊一、爺孃之名、出二於此一、木蘭詩又云、阿爺無二大兒一、木蘭無二長兄一、呼レ父爲二阿爺一、故呼レ母亦爲二阿孃一也、
p.0135 父〈チヽ〉
p.0135 母〈ハヽ生母〉
p.0135 父チヽ 母ハヽ 上世には、父をオヤといひ、母をオモといふ、〈舊事紀、日本紀等に、母の字讀てオモといひけり、百濟の方言にも、母もオモと云ひけり、今も朝鮮の俗、母をオモと云ふは、古の遺言也、我國の語、彼國に傳へしか、又彼國の語の、我国に傳りしか、凡て詳ならず、〉古俗また父をカゾといひ、母をばイロハといひ、又父ヲテヽとも云ひけり、〈日本紀の仁賢天皇紀に、俗呼レ父爲二柯尊一と註せられたり、また家母をイロハといふも、即母の義に取りしなり、テヽ萬葉集に見ゆ、抄にはチゝといひ、テヽといふは、轉語なりと見えたり、近き俗、父を卜ヽといひ、母をカヽといふが如きも、また其語の轉ぜしなり、〉亦俗に、父母をすべ稱して、タラチメとも、タラチネとも云ひ、また父をタラチヲといひ、母をタラチメとも、タラチネノハヽともいひけり、其義の如きは並に不レ詳、〈萬葉集には帶乳根(タラチネ)とも、足常などともしるしたり、〉上古の時オヤといひしは、父にのみも限らざりしと見えて、舊事記に御祖としるされ、ミオヤと云ひしは、祖神の御事也、日本紀には、皇祖皇考の字引合て、ミオヤとは讀みしなり、俗には祖父母をば、オヤ ノオヤなどいひ繼父母をばマヽと云ひけり、眞間の字を用ゆる也、誠には隔てある事を云ひしなるべし、庶母をもマヽと云ひし事、日本紀に見えたり、
p.0136 父ちヽ 大和にてあんのうと稱す、播磨邊より西國にててヽらと云、長崎にてちやんと云、肥前佐賀にて別當といふ、越前にてのヽといふ、父をてヽと稱し、とヽを呼ぶは、諸國の通稱也、萬葉及宇治、拾遺等に、てヽと見えたり、とヽは稗文に、<ruby><rb>爹爹</rt></ruby>とヽ</rb><rt>と書侍るもあれど、てヽといひ、とヽといふは、父の轉語なるべし、又上總にて、祖母を崇めてのヽと稱し、越前にて、父をのヽと呼は、極老の剃髪せしなどを、のヽといひならはしたる物ならん、小兒に對して、如來を如々と略語し、如々轉じてのヽとなりたる物か、但し古代よりの詞なる歟しらず、
母はヽ 西國にてかヽといふ、長崎にてあひいと云、〈阿妣なるべしと云説あり〉肥の佐賀にてはあうぼうと云、〈阿母といふの轉語にや〉出羽にてだヾといふ、
山崎垂加翁云、俗人の母を稱して、袋といふは、胞胎の義によると云々、又母といひ、かヽといふは諸國の通稱歟、京にて兒童はハワサンと呼び、年長じては、母者人と稱す、東國にてはかヽさんといふ、〈○中略〉父といひ、母とよぶは、もとより通稱にして、それより轉じたる詞も、國々多かるべし、
p.0136 天平神護元年十一月辛巳、詔曰、必人〈方〉父〈我可多〉母〈我可多能〉親在〈天〉成物〈仁〉在、然王〈多知止〉藤原朝臣等〈止方〉朕親〈仁〉、在〈我〉故〈仁〉、黑紀白紀〈乃〉御酒賜御手物賜〈方久止〉宣、
p.0136 天平勝寶七歳乙未二月、相替遣筑紫諸國防人等歌、
知知波波母(チヽハヽモ)、波奈爾母我毛夜(ハナニモガモヤ)、久佐麻久良(クサマクラ)、多妣波由久等母(タビハユクトモ)、佐々己氐由加牟(サヽゴテユカム)、
右一首、佐野郡丈部黑當、
p.0136 山上臣憶良罷レ宴歌一首 憶良等者(オクラヽハ)、今者將罷(イマハマカラム)、子將哭(コナクラム)、其彼母毛(ソノカノハヽモ)、吾乎將待曾(ワヲマツラムゾ)、
p.0137 菅原の大臣冠し侍りける夜、はヽのよみ侍りける、
久かたの月の桂もをるばかり家の風をもふかせてしがな
○按ズルニ、菅公ハ貞觀元年ニ年十五歳ニシテ冠ス、四年ニ試ラレテ及第文章生ニ補スル由、 公卿補任ニ見ユ、母氏ハ伴氏、貞觀十四年正月十四日ニ卒スト文草ニ見ユ、月桂ヲ折トハ及第 ノ故事ナリ、
p.0137 小兒之忠言事
南都ニ戒律僧世間ニナリテ、子息アマタアリケル中ニ、コトニイトヲシクスル子五歳ノ時、知タル上人兩三人彼房ニユキテ、物語スル次デニ、此子チヽガヒザノ上ニイタルヲ、キヤツハ不覺ノ者ニテ候、コレ程ニ成候テ、父トハ都テ寢候ハデ、母トノミフセリ候トイフ時、コノ子父ガヒザヲツイタチテ内へ入ザマニ、父ハ我ヲバ母トヌルトイヘドモ、父モマタ母トハヌルメルハト云、實ニサモト覺テヲカシク、イタイケシタリシ由語侍キ、
p.0137 嫁母(○○)
嫁母は、父死後他人に嫁せる母をいふ也、通鑑綱目冊三の卷〈百六十一丁ウ〉に、嫁母謂二父卒母嫁一と見ゆ、
p.0137
貞繼〈十郎、勘解由左衞門、伊勢守、政所、殿中總奉行、御厩別當、從二尊氏公一義滿公迄、大父(●○)ト號ス、廣福寺法名昭禪、道號友峯、壽八十三、明德二年、〉 貞信〈義滿公於二貞信宅一御誕生云々、七郎左衞門尉、伊勢守、賴繼之實子也、諸職同前、又號二大父(ヲホチヽ)一、思恩院、道號松洲、法名常眞、應永八年六十七歳、〉 貞行〈兵庫助、尾張守、伊勢守、貞繼之弟也、代々殿中總奉行諸職同前、義持公御代、又號二大父(●○)一知光院、道號心岩、法名常誠、應永十七、五十三歳〉 貞經〈勘解由左衞門、伊勢守、十郎貞國之兄也、背二上意一隠二吉野山一、法名勢元、永享四、〉 貞國〈備中守、伊勢守、兵庫 助、從四位上、諸職同前、義敎公御代三年目ヨリ號二大父(○○)一、深心院道號悦堂、又常慶、法名常隆、又眞蓮、〉
p.0138 考〈先ニ死曰レ考〉
p.0138 妣〈ハヽ、死母曰レ妣、〉
p.0138 父(/チヽ)爲レ考、母(/ハヽ)爲レ妣、〈○中略〉
胤按、父母考妣、生死異レ稱、傳習已久、禮傳所レ説、似レ不レ可二必廢一、如二天子稱一レ朕、古者上下通稱、至二秦始皇一、專屬二天子一、父母考妣之異レ稱、意亦古者生死互言、而後世始分別歟、今須レ据二禮記之説一、其爺娘等稱、乃方俗郷談耳、不二必考究一、
p.0138 戊午年六月丁巳、越二狹野一到二熊野神邑一、且登二天磐盾一、仍引レ軍漸進、海中卒遇二暴風一、皇舟漂蕩、時稻飯命乃歎曰、嵯乎、吾祖則天神(○○○○○)、母則海神(○○○○)、如何厄二我於陸一、復厄二我於海一乎、
p.0138 二年九月丁亥、吉備島皇祖母(スメミオヤ)命〈○皇極天皇生母〉薨、 癸巳、詔二土師娑婆連猪手一、視二皇祖母喪一、天皇自二皇祖母命臥病一、及レ至レ發レ喪、不レ避二床側一、視養無レ倦、
p.0138 神龜元年二月甲午、受レ禪即二位於大極殿一、大二赦天下一、詔曰、〈○中略〉美麻斯親王〈乃〉齢〈乃〉弱〈爾〉、荷重〈波〉不レ堪〈自加止〉所念坐而、皇祖母坐〈志志〉、掛畏〈岐〉我皇天皇〈爾〉授奉〈岐、○下略〉
p.0138 皇祖母は淤保美淤夜(オホミオヤ)と訓べし、文武天皇の大御母命のよしにて、元明天皇を申せる也、そも〳〵御母を皇祖母と申ては、祖字いかヾなれば、是は聖武天皇の御祖母(ミオバ)のよしならむと、思ふ人あるべかめれど、然にはあらず、まづ古は凡て、母を御祖(ミオヤ)といへること、古事記などに多く見え近くは下鴨を御祖神と申すなども、上鴨別雷神の御母に坐が故也、又此紀の此卷の詔に、天皇の大御母藤原夫人を、宜二文則皇大夫人、語則大御祖云々一とある、これにて大御祖と申すは、大御母なること、いよ〳〵明らけし、さてそれに母字を添て書事は、皇祖とのみにては、皇神祖(スメロギ)と混ふ故に、御母なることを知らさむため也、その例は、皇極紀に、吉備島皇祖母(ミオヤ)命と あるも、天皇の御母吉備姫王の御事也、又孝德紀にところ〴〵、皇祖母尊と有は、皇極天皇の御事にて、皇太子中大兄の御母にて、天皇の御姉に坐を、大御母と崇奉り給へる也、これら皆御祖母(ミオバ)にはましまさず、御母也、此事は、玉勝間の山菅の卷にもいへり、すべてよのつねの文字づかひにのみめなれて、古書にうとき人は、思ひまがへて誤ること、此類多きぞかし、
p.0139 天平元年八月壬午、喚二入五位及諸司長官于内裏一、而知太政官事一品舎人親王宣レ勅曰、〈○中略〉現神大八洲國所知倭根子天皇我王祖母天皇(ワガオホギミミオヤスメラミコト)〈乃〉、始此皇后〈乎〉朕賜日〈爾〉勅〈豆良久、○下略〉
p.0139 祖母(ミオヤ)は、御母のよし也、挂畏〈支〉よりこれまで一つヾきにて、元正天皇を申給ふ也、祖母の文字に就ては、元明天皇の如くなれども然にはあらず、祖母と書て、美於夜(ミオヤ)と訓こと、第五詔〈○神龜元年二月甲午詔〉の下にいへるが如し、元正天皇は、實の大御母命にはましまさヾれども、其御禪(ミユヅリ)を受嗣坐れば、御母とは申給ふなり、
p.0139 正述二心緒一
足千根乃(タラチネノ)、母爾不所知(ハヽニシラエズ)、吾持留(ワガモテル)、心者吉惠(コヽロハヨシエ)、君之隨意(キミガマニ〳〵)、垂乳根乃(タラチネノ)、母白者(ハヽニマヲサバ)、公毛余毛(キミモアレモ)、相鳥羽梨丹(アフトハナシニ)、年可經(トシハヘヌベシ)、
p.0139 たらちねの はゝ
万葉卷三に、帶乳根乃(タラチネノ)、母命者(ハヽノミコトハ)、〈○中略〉赤子を育つヽ、日月を足しめ、成人(ヒトヽナス)は母のわざ也、よりて日足根(ヒタラシネ)の母てふを、日を略き、志(シ)を知(チ)と通はせ、根てふほめ語を添て、たらちねの母とはいふ也、〈根は物の本なれば、古へは人の名にもほめていひたり〉天皇の御名にも、皇子にも、息長足(オキナガタラシ)、倭足(ヤマトタラシ)、五十日足(イカタラシ)など申も、その生しなし奉る乳母の氏、或はそだちませる地の名などを付申せし也、且紀に、治養持養などの字を比多須(ヒタス)と訓も、日須良須(ヒタラス)を略ける語なるをおもへ、
p.0139 むすびおきて我たらちねはわかれにきいかにせよとて忘れはてしぞ、とある をみ給ひて、なみだ雨のごとくにふらし給、
p.0140 てヽとは父を云
父をてヽといふは、ちヽの通音也、體源抄十二本卷〈卅四丁オ〉八幡社例事條に、高祖父母ヒオホヂノテテハヽノ事也、
p.0140 これも今はむかし、ゐ中のちごのひえの山へのぼりたりけるが、櫻のめでたくさきたりけるに、風のはげしくふきけるをみて、このちごさめ〴〵となきけるをみて、僧のやはらよりて、〈○中略〉なぐさめければ、櫻のちらんはあながちにいかヾせん、くるしからす、我てヽの作たる麥の花ちりて實のいらざらんおもふがわびしきといひて、さくりあげてよヽとなきければ、うたてしやな、
p.0140 父をてヽと云も、神樂うたに、
さつてヽがもたせの眞弓おく山にみかりすらしも弓のはづ見ゆ
此さつてヽは、薩人の父といへるなり云々、愚案抄
p.0140 トヽカヽ 同書〈懷橘談〉に、凡小兒の言語明らかならざるゆへ、上の一字は云ひ侍れども、下の文字にうつり辨舌ならざるゆへ、下の假字をおどりていふたぐひ多し、母を上(カミ)といへば、カヽといひ、父を殿(トノ)といへばトヽといひ、亭といへばテヽと云ふが如し、貞丈云、カヽと云ふは則ハヽといふの訛なり、カとハと音横の相通也、〈アカサタナハマヤラワ〉父をトヽと云ひ、又テヽといふは、音竪の相通也、〈タチツテト〉ハヽ轉じてカヽとなり、チヽ轉じてトヽとなり、テヽとなる也、小兒音の相通は知らねども、是れ音韻の自然也、上をカヽと云ひ、殿をトヽと云ふ説は非なるべし、
p.0140 かヽ 卑俗に母をいふ、かとはと韻通ず、通鑑胡注に、齊諸王皆呼二嫡母一爲二家々一ともみゆ、田舎に妻をもかヽといへり、兒に据ていふ也、西土に母を媽々といひ、郷談に妻をも媽々と いふに同じ、
p.0141 小兒語
嬰兒の語に、父をとヽと云は、ちヽよりてヽと轉り、てヽよりとヽと轉りたるのみ、奥羽の邊地には、だヽアともいふ歟、皆多行のタチツテトと轉り來なり、〈つヽとのみいはざる由は、いまだ考へず、〉母をかヽと云は、はか同韵の言の横通して轉ぜるなるべし、〈五十音圖にて、音の反切を見るに、父字は同行を縱に行、母字は同韵を横に行なり、今父母の言轉ずるも、又父は縱に轉り、母は横に通ふも一奇といふべし、〉
p.0141 今小兒母ヲかヽさまト云、是ハ家家ノ字ナリ、通鑑陳ノ宣帝紀ニ曰、北齊ノ後主、泣啓二大后一曰、有レ縁復見二家家一、無レ縁永別、胡三省注ニ、齊ノ諸王呼二嫡母一爲二家家一ト、イツノコロヨリ日本ニ言傳タルニヤ、子ガ母ヲかヽト呼ヨリ轉ジテ、父モ妻ヲかヽと云、
p.0141 嬭〈チヲモ亦作レ㚷楚、人呼レ母爲二嬭母一、〉
p.0141 おも 日本紀に母をよめり、古事記に御母とも見ゆ、乳母湯湯母(チオモユオモ)なども見えたり、今朝鮮語にもしかいへり、一説には、梵語の阿摩也といへり、萬葉集に阿母と書り、史記の注に阿母は乳母と見えたり、よて萬葉集に乳母をもよめり、
p.0141 故爾八十神怒、欲レ殺二大穴牟遲神一共議而、〈○中略〉以レ火燒二似レ猪大石一而轉落、爾追下、取時、即於二其石一所二燒著一而死、爾其祖御命哭患而、參二上于天一、請二神産巢日之命一時、乃遣三𧏛貝比賣與二蛤貝比賣一、令二作活一、〈○中略〉蛤貝比賣持レ水而、塗二母(○)乳汁一者、成二麗壯夫一〈訓二壯夫一云二袁等古一〉而出遊行、
p.0141 塗二母乳汁一者は、於毛能知志流登奴禮婆と訓べし、〈○註略〉母は乳母(チヲモ)を云なり、凡て於母と云は、親母(オヤ)にまれ乳母(メノト)にまれ、兒に乳を飲しむる人の稱なれば、親母(オヤ)とせむも違はず、〈親母を於毛と云も、乳をのまし養ふことにつきての稱なり、然るをたゞ波々の古言とのみ心得て、乳養のことにあづからぬ處の母字をも、なべて於毛と訓はひがことなり、〉されど中卷玉垣宮段に、取二御母一とあるも乳母なり、なほ於母のことは、彼處〈傳廿四の彼處〉に委く云べし、
p.0142 六年九月、是秋日鷹吉士被レ遣後有二女人一、居二于難波御津一、哭之曰、於母亦兄於吾亦兄弱草吾夫 怜矣、〈言二於母亦兄、於吾亦兄一、此云二於慕尼慕是、阿例尼慕是一、〉
p.0142 〈父カソ、万葉集、〉
p.0142 母〈イロハ〉 〈爾雅云、母爲レ妣、日本紀私記云、母以路波、舎人云、稱二父母一、死稱二考妣一、郭璞云、公羊傳曰、惠公者隠公之考也、仲子者桓公之母也、明非二死生之異稱一矣、楊氏漢語抄云、阿孃、〉
p.0142 いろは 母の古語也、神代紀、和名鈔にみゆ、色身は母より受れば、色母の義なるべし、實母をいふ詞也、
p.0142 物の名
父母をかぞいろはといふ、かぞは家尊(カゾ)にて音なり、いろはは家母(イロハ)にて訓なり、世俗これを湯湯(ユトウ)よみといふ、
p.0142 冬日幸二于靭負御井一之時、内命婦石川朝臣應レ詔賦レ雪歌一首、 諱曰二色(○○○)〈○色一本作レ邑〉婆(○)一、
p.0142 二十二年三月丁酉、登二高臺一而遠望、時妃兄媛侍之、望レ西以大歎、〈○註略〉於レ是天皇問二兄媛一曰、何爾歎之甚也、對曰、近日妾有下戀二(カソイロハ)父母一之情上、便因西望而自歎矣、冀暫還之、得レ省レ親歟、
p.0142 六年九月、此是秋日鷹吉士被レ遣後有二女人一、居二于難波御津一、哭之曰、於母亦兄於吾亦兄弱草吾夫 怜矣、〈○註略〉哭聲甚哀、令二人斷一レ觴、菱城邑人鹿文(カカソ)〈鹿父人名也、俗呼レ父爲二柯曾(カゾ)一、〉聞而向レ前曰、何哭之、哀甚若レ此乎、
p.0142 天國排開廣庭天皇〈○欽明〉男大迹天皇〈○繼體〉嫡子也、母(イロハ)曰二手白香皇后一、天皇愛レ之、常置二左右一、
p.0142 得伊弉諾尊 從四位下行民部大輔兼丈章博士大江朝臣朝綱
賀曾伊呂婆阿波禮度美須夜毗留能古婆美斗勢儞那理努阿枳多多須志天
かぞいろはあはれとみずやひるのこはみとせになりぬあしたヽずして
p.0143 堀川院の御時、百首の歌奉りけるとき、春雨の心をよめる、
前中納言匡房
よも山に木のめ春雨降ぬればかぞいろはとや花のたのまむ
p.0143 常根津日子伊呂泥(トコネツヒコイロネ)命、〈○中略〉伊呂泥(イロネ)は、伊呂勢(イロセ)と同くて、同母兄の意か、書紀に、此御名を某兄(イロネ)と作(カヽ)れ、神代卷、神武卷、欽明卷、孝德卷などに、兄をも然訓り、和名抄にも、兄日本紀云、伊呂禰とあり、〈同母姉を、伊呂泥と云によりて、此泥は凡て女に限れろ稱の如く聞ゆめれども然らず、白檮原宮段に、神淳河耳命の御兄を那泥汝命と申し賜へれば、那泥と云ふも、女には限らず、伊呂泥も准ふべし、〉されば此は、男女に通ふ稱なり、〈同母姉を云は、阿泥(アネ)の阿を省きて、泥と云なり、〉さて伊呂とは、人を親み愛みて云る言にて、某入彦某入娘と申す御名の伊理(イリ)、又郎子郎女(イラツコイラツメ)などの伊良(イラ)も、皆此同言の活用にて同意なり、日子坐王の御子に伊理泥王、崇神紀に飯入根(イヒイリネ)と云名なども、伊呂泥と云と通へるを以て知べし、同母兄弟を、伊呂勢(イロセ)、伊呂杼(イロド)、伊呂妹(イロモ)、母を伊呂波(イロハ)と云も、〈伊呂波は伊呂波々なり、〉親み愛みて云稱ぞかし、〈万葉十六に、伊呂雅(イロケ)せる菅笠小笠とよめるも、伊呂は、其人を親みて云るなるべし、〉さて此伊呂泥を、書紀に某兄(イロネ)と書れたる某字は、如何なる由にか、〈若しくは、古へに人を親みて云るよりうつりて、其名を云べき時に、名に代て伊呂と云しことのありしにや、某は那爾賀志曾禮賀志(ナニガシソレガシ)などゝ訓て、名に代て云字なり、書紀には、此下なる蝿伊呂泥蝿伊呂杼をも 某姉(ハへイロネ)、 某弟(ハヘイロド)と書れ、垂仁紀〈一丁〉に、某邊(イロベ)とも書れたり、〉
p.0143 大方殿御方
太平記伯耆の卷などに、大方殿とあるは、母堂の事なり、親元日記にも、將軍の御母堂をば大方殿と書たり、また御方といふは、御方御所ともいふ、御方住居の義にて、將軍家の御嫡子の事なり、親元日記には御方御所とあり、
p.0143 應永廿九年七月十三日戊寅、御方御所樣嵯蛾御出アリ、大木庵へ御入御點心アリ、香嚴院々主、主首座御袋(○○)死去御坊門前マデ御出アリ、有二御對面一、御馬鹿毛御歸御輿也.
p.0143 享德四年正月九日乙卯、今曉室町殿姫君誕生也、御袋(○○)大館兵庫頭妹也、
p.0144 一人の母をおふくろと云ふは、御ふところと云ふ事也、母は懷妊の時、子はふとこうにある故也、ふところを略して、ふころといひ、ふころと云詞轉じて、ふくろに成たる也、今も薩摩國の人は、人の母を御懐(フトコロ)と書也、袋と云にはあらず、一説に、人母の胎内にて、胞衣(エナ)をかぶりつヽまれて、袋に入りたるがごとくなる故、人の母を御袋と云といへり、此説用がたし、御ふくろといふ事、舊記には見えざる名目也、后宮名目抄と云書に、右の胞衣の事によりて、御袋と云説見たり、其書は、大納言爲兼卿の息女、御櫛笥殿中將といひし女房、鎌倉將軍の御臺所へ書て、參らせられし書也と云也、然らば久き名目歟、
p.0144 嫡母〈萬々波々〉
p.0144 嫡母
p.0144 凡五等親者、〈○中略〉祖父母、嫡母、繼母、〈○中略〉爲二二等一、
p.0144 凡謀レ殺二祖父母、父母、外祖父母、夫、夫之祖父母、父母一者、皆斬、嫡母、繼母、伯叔父姑、兄姊者、遠流、已傷者絞、
p.0144 繼父〈萬々父〉
p.0144 繼父母 世説云、諸葛宏、爲二繼母族黨一所レ讒、又云、王祥事二後母一甚謹、後母即繼母也、謂レ母、則可レ知レ父、但繼父、〈和名萬萬知々(○○○○)〉繼母、繼父母、各謂二其子古我不一レ生義也、
p.0144 所レ引黜免篇文、原書宏作レ厷、又原書文學篇注、引二王隠晉書一曰、厷字茂遠、按始臂上也、或作レ肱、宏屋深響也、轉訓二大也一、依二茂遠之義一、作レ宏似レ是、〈○中略〉所レ引德行篇文、原書事二後母一下有三朱夫人三字一、此節文、按繼父繼母、見二儀禮喪服一、説文、繼續也、从二糸 一、新撰字鏡、繼父訓二萬々父一、嫡母訓二萬々波々一、令集解同、萬々知々、又見二大和物語一、萬々波々、又見二更科日記一、按繼父名二萬々知々一、繼母名二萬々波々一、則繼子當レ名二萬々古一、今俗所レ呼亦爾、各謂二其子一下、恐脱二萬々二字一、
p.0145 繼母 〈マヽハヽ〉〈庶子母也、嫡母者嫡子之母也、並男女所レ稱也、若同居則一月服十日假、〉娜〈同〉 繼父 〈マヽチヽ〉
p.0145 凡服紀者、〈○中略〉繼母繼父同居(○○○○○○)、〈○中略〉一月、
p.0145 古記云、妾之男女、謂二父嫡妻一爲二嫡母一、嫡母爲二妾子一无二報服一也、俗云、麻麻母也、〈○中略〉古記云、母之後夫爲二繼父一、繼父爲二妻之前父一、男女无二報服一也、繼父若不二同居共財一不レ服也、俗云二麻麻父一也、
p.0145 假父假母(マヽチヽマヽハヽ)
假父母をマヽといふは隨の義也、實の父母失て後、それに隨て出來し父母の義也、繼父母はたおなじ.隨を上にいへるは眞間の手兒女、足柄のまヽの小菅など見え、遠江にコトノマヽノ神社もあり、土の隨意(コヽロマヽ)に崩落るがけの事也、
p.0145 生母にあらずして、子を養育する母を、まヽ母といひ、生子にあらずして、養育を受る子を、まヽ子といふ、まヽは養育の義にて、小兒に乳を飲付する、今の乳母の事なり、これを古へ乳付けといふ、東鑑に、武衞〈賴朝卿をいふ〉乳付けの青女を召さる、摩々と號すとあるにて知るべし、これより轉稱して、小兒の乳を飲むを、まヽと云ひ、今にては、小兒の飯を喫するをもまヽと云ふことにはなりし、
p.0145 若倭根子日子大毘毘命、〈○中略〉娶二庶母(○○)伊賀迦色許賣命一、生御子、御眞木入日子印惠命、
p.0145 庶母は、美麻々波々(ミマヽハヽ)と訓べし、〈美は御なり〉和名抄に、繼父和名万々知々、繼母万々波波、〈今の本には、万々波々と云和名はなし、古本にあり、〉字鏡に、嫡母万々波々(マヽハヽ)、庶兄万々兄(マヽセ)などあり、相照して心得べし、〈庶母は、繼母嫡母などとは異なれども、嫡と云庶と云繼と云は、漢國にての差別にてこそあれ、皇國にては、其差別にはかゝはらず、たヾ非所生母を麻々母と云、非所生子を、麻々子と云り、されば嫡母庶母繼母、みな麻々母なり、庶兄を万々兄とあるにても知べし、(中略)延佳本に、アラメイロハと訓るは非なり、〉
p.0145 貞觀十年二月十八日壬午、參議正四位下行右衞門督兼太皇太后大夫藤原朝臣良繩卒、〈○中略〉良繩素性寛厚、不レ好二花飾一、〈○中略〉後母(○○)安部氏性悍忌、諸子皆排却、但至二于良繩一、殊以重愛、
p.0146 故御息所の御あねおほいこにあたり給けるなん、いとらう〳〵しく、うたよみ給ことも、おとうとたち御やす所よりもまさりてなむいますがりける、若きときにめをやはうせ給にけり、まヽはヽ(○○○○)の手にいますがりければ、心にものヽかなはぬときもありけり、さてよみ給ける、
ありはてぬいのちまつまのほどばかりうきことしげくなげかずもがなとなんよみ給ける、
p.0146 おやなき人は身もいたづらになるものなり、むかしちかげのおとヾのたヾひとり子を、まヽはヽ(○○○○)にはかられて、いまはをとめもきこえずとなんいふなる、
p.0146 入道申二官符一事
九月四日戌時ニ、太政入道〈○平淸盛〉手輿ニ乗、新院ノ御所ニ參テ申ケルハ、〈○中略〉彼義朝ガ三男ニ、右兵衞佐賴朝ト申奴ハ、近江國伊吹ガ麓ヨリ尋出シテ、將テマウデ侍シヲ、入道ガ繼母ニ、池尼ト申候シガ、賴朝ヲ見テ、一旦ノ慈悲ヲ發シ、〈○下略〉
p.0146 三浦介道寸父子滅亡の事
道寸是を聞、〈○中略〉それがしは上杉高救が男なり、時高養子と成て三浦へ移る、其後繼母に弟一人いできたり、繼母の讒言により弟を世にたてんため、われを害せんはかりごとあり、我心うくおもひ出家し、世を遁れ、小田原總世寺に有し所に、家老の者おほくしたひ來てみかたとなる、〈○下略〉
p.0146 或人問ふ、妻死して子有り、再娶るべきか、否か、曰く、曾の大賢すら尚再娶らず、矧や庸人をや、某側に在りて曰く、我常に人の子繼母に鞠はるヽを視るに、其の才多くは實母ある者に過ぐ、再娶ことに必子に益なきに非ずと、此の言理あり、
p.0146 繼母之儀ニ付續名目之儀問合
文化十三年十月七日、松浦肥前守家來差出候書面、水野主殿頭差出袋廻し、 一養父無妻ニ而罷在致二養子一居候處、其養子三拾貮歳ニ相成候上、右養父初而妻を迎候、尤其養子妻之養ニハ不二相成一候處、右養子之爲メニ右妻を何母と唱可レ申哉、
書面之通者、繼母ニ而候、
p.0147 嫡母繼母其外續名目之儀問合
朱書
稻生出羽守答
一無妻之内、妾腹ニ男子兩人有レ之、兄者嫡子ニ相立、其後父妻を迎候得者、妾服之子兩人ゟ、右父之妻者嫡母ニ御座候哉、
書面之通者、嫡母ニ而候、
一先妻死去後、妾服ニ男子兩人出生、兄者嫡子ニ相立候、相果候妻者嫡母ニ御座候哉、續名目無二御座一候哉、其後父後妻迎候得者、妾服之子兩人ゟ、右父之後妻者嫡母ニ御座候哉、若繼母ニ相成候哉、
書面之通者、先妻死去後出生之妾腹男子ゟ、先妻者續名目無レ之、後妻之嫡母ニ而候、
一養父無妻之内養子ニ相成、其後養父妻を迎候歟、或者養父之先妻死去後、養子ニ相成、養父後妻迎候得者、養子之養母ニ御座候哉、若繼母ニ相成候哉、
書面之通者、其父養母ニ不二相定一候得者、養子之爲繼母ニ而候、
右三ケ條兼而爲二心得一奉レ伺候、以上、
弘化三年五月十四日 酒井若狹守家來
宇佐美金右衞門
右之通、文政十二丑年五月十四日、服忌相掛り石谷備後守樣〈江〉相伺置候得ども、未御差圖不レ被レ下候ニ付、猶又奉レ伺候、
p.0147 凡庸之性、後夫多寵二前夫之孤一、後妻必虐二前妻之子一、非下唯婦人懐二嫉妬之情一、丈夫有中沈惑之僻上、亦事勢使二之然一也、前夫之孤、不下敢與二我子一爭上レ家、提擕鞠養、積習生レ愛、故寵レ之、前妻之子、毎居二己 生之上一、宦學婚嫁、〈○註略〉莫レ不レ爲レ防焉、故虐、異姓寵則父母被レ怨、繼親虐則兄弟爲レ讎、家有レ此者、皆門戸 之禍也、
p.0148 養父 養母
p.0148 とりおや(○○○○) 閑居友に見えたり、養父を云、今もいへり、
p.0148 凡五等親者、父母、養父母夫、子、爲二一等一、
p.0148 舅(○) 爾雅云、夫之父曰レ舅、〈和名之宇止(○○○)〉一云、阿翁没則曰二先舅一、
p.0148 新撰字鏡云、阿翁夫之父、與二辨色立成所一レ言合、〈○中略〉又新撰字鏡、婚媾並訓二志比止一、皇極紀、婚姻訓二牟己之比止一、假寧令集解云、夫之父母、俗云二志比止、志比止賣一、靈異記訓釋、舅之不止、〈○中略〉釋名、夫之父曰レ舅、舅久也、久老稱也、母之兄弟曰レ舅、亦如レ之也、白虎通、舅者舊也、姑者故也、舊故、老人稱也、按母之昆弟亦曰レ舅、見二父母類一、
p.0148 姑(○) 爾雅云、夫之母曰レ姑、〈和名之宇止女(○○○○)〉没則曰二先姑一、
p.0148 説文、姑、夫母也、按父之姉妹亦曰レ姑、又按説文、以レ謂二夫之母一、爲二本訓一、釋名、以二父之姉妹一爲二本訓一、詳二父母類一、
p.0148 舅〈シウト夫之父也〉
p.0148 夫父母〈ヲウトカチヽハヽ舅姑〉
p.0148 婦稱二夫之父一曰レ舅(シフト)、稱二夫之母一曰レ姑(シフトメ)、舅姑在則曰二君舅()シフトギミ、君姑(シフトメギミ)一、没則曰二先舅先姑(スギシシフト、スギシシフメ)一、
漢廣川王傳、背二尊章一、師古曰、尊章、猶レ言二尊姑一也、今關中俗、婦呼二舅姑一爲レ鐘、鐘、音章、聲之轉也、會典、舅姑即公婆、正字通、嫜、止商切、夫父曰二舅嫜一、舅姑亦曰二尊章一、杜甫詩、何以拜二姑嫜一、通作レ章、
p.0148 朱云、問夫之父母者、未レ知於二養子之妻妾一何、令釋云、亦同者額云難也、古記云、釋親云、婦稱二夫之父一曰レ舅、稱二夫之母一曰レ姑、案生夫之身曰二夫父母一、俗云、志比止、志比止賣也、
p.0148 外舅(○○) 爾雅云、妻之父爲二外舅一、〈與三婦稱二夫之父一同〉 一云、婦翁也、
p.0149 新撰字鏡云、婦翁、妻之父與二辨色立成一合、
p.0149 外舅〈妻之父也〉
p.0149 外姑(○○) 爾雅云、妻之母爲二外姑一、〈與三婦稱二夫之母一同〉一云、婦母也、一云、夫之敬二妻之父母一、如妻之尊二敬舅姑一同二其名一加二外字一也、
p.0149 新撰字鏡云、婦母、妻之母、亦與二辨色立成一合、〈○中略〉釋名、妻之父曰二外舅一、母曰二外姑一、言妻從レ外來、謂レ至二己家一爲レ婦、故反以二此義一稱レ之、夫妻匹敵之義也、
p.0149 妻之父爲二外舅(/メカタノシウト)一、妻之母爲二外姑(/メカタノシウトメ)一、
丘氏曰、今稱二外父外母一、楊子方言、南楚瀑洭之間、謂二婦妣一曰二母姼一、謂二婦考一曰二父姼一、姼音多、會典、妻父母即丈人父母、〈○中略〉
胤按、舅姑本妻稱一夫之父母一之名、故夫稱二妻之父母一曰二外舅外姑一、
p.0149 夫 白虎通云、夫猶扶也、以レ道扶接也、〈和名乎宇止(○○○)〉一云〈乎止古(○○○)、〉
p.0149 所レ引三綱條文、原書猶作レ者、按説文、夫丈夫也、又云、男丈夫也、是知夫本男子之稱以爲二夫妻之夫一者、轉注也、〈○中略〉按古謂レ夫單稱レ乎、古事記須勢理毘賣歌云、那遠岐氐遠波那志、又本書後夫訓二宇波乎一、前夫訓二之太乎一、皆是也、後加レ人稱二乎比止一、喪葬令集解云、夫俗云二乎比止一、是也、比布通音、故轉爲二乎布止一也、新撰字鏡、 訓二乎不止一、亦與レ此同、其謂二之乎宇止一者、又乎布止之一轉、與下舅訓二志比止一、比不通音、故或訓二之不止一、又轉云中之宇斗上同、則乎布度乎宇度皆通、今俗譌呼二乎都登一、
p.0149 いもせ 妹兄の義也、夫婦をいふ、夫は長し、妻は弱ければ、同義にいひ習はせる質朴なる上古のことばにこそ、西土にも夫婦となることを、兄弟と書し、夫を伯とも仲子とも呼たる事も見ゆ、北齊には妻を呼て妹といふとも書せり、神代記には稱レ妻爲レ妹、蓋古之俗乎と見へたり、もとは諾冊の尊より出たる詞なれば、延喜式にも伊佐奈伎伊弉奈美命妹妋と見へ たり、妋は夫の義、字書の本義にあらず、猶いろせの條考べし、
p.0150 夫をつと 薩摩にてとの丈といふ〈夫男夫子(せなせこ)などゝ歌書にをゝく出〉
p.0150 こていといふは、御亭主をいふ事なるべし、賤宿の詞には、夫をもごてい、ごて樣などと云なり、牛童を牛番こてと、木曾の云し事、平家もの語に見えたり、
p.0150 前夫 顔氏云、前夫、〈和名之太乎(○○○)〉一云〈毛止乃乎止古(○○○○○○)〉
p.0150 令俗謂二舊來有一レ之爲二之太治有一レ之、之太乎之之太、蓋是也、毛止乃乎止古、見二後撰集金葉集一、
p.0150 後夫 顔氏家訓云、後夫多寵二前夫之子一、〈和名宇波乎(○○○)〉一云〈伊萬乃乎宇止(○○○○○○)、〉
p.0150 所レ引後娶篇文、原書子作レ孤、此所レ引恐誤、按宇波對二之太一之稱、與二宇波奈利之宇波一同、
p.0150 妻 白虎通云、妻〈西反、和名米(○)、〉者齊也與レ夫齊レ體也、又用二夫妻婦妻一一云〈米阿波須(○○○○)〉
p.0150 按妻訓二米阿波須一、天智紀同、蓋妻配之義、〈○中略〉所レ引嫁娶條文、説文、妻婦與レ夫齊者也、與レ此義同、釋名、天子之妃曰レ后、諸侯之妃曰二夫人一、卿之妃曰二内子一、大夫之妃曰二命婦一、士庶人曰レ妻、妻齊也、夫賤不レ足二以尊稱一、故齊等言也、
p.0150 妻〈メ〉
p.0150 治暦比取二人妻(○○)一、メ(○)ニシタリケル者アリケリ、春宮〈○後三條〉御即位アリケレバ、此御時ハ罪科ニモソ被レ行トテ、返二遣本人許一了云々、
p.0150 妻〈ツマ(○○)〉
p.0150 妻(ツマ) 万葉仙覺抄につはつヾく也、まはまとはる也、詞林采葉抄曰、つはつヾく、まはまとはる也、夫婦枕をならべて、まとはりぬると云詞也、篤信曰、右兩説いぶかし、只むつまじの上 下を略せりと見て可なるべし、或上古の自語なるべし、
p.0151 物の名
妻はつれまつはるの略歟、いにしへは夫婦相共に稱してつまといへり、
p.0151 四十年、日本武尊毎有下顧二弟橘媛一之情上、故登二碓日嶺一、而東南望レ之、三歎曰、吾嬬者耶、〈嬬此云二菟摩一〉故因號二山東諸國一、曰二吾嬬國一也、
p.0151 大納言兼大將軍大伴卿歌一首
神樹爾毛(カミキニモ)、手者觸云乎(テハフルトフヲ)、打細丹(ウツタヘニ)、人妻(ヒトヅマ/○○)跡云者(トイヘバ)、不觸物可聞(フレヌモノカモ)、
p.0151 嬪、婦(メ/ツマ)也、
正字通、通雅云、妻曰二郷里薩薩愛梍未蒙、夷稱也、沈約山陰柳家女詩、還レ家問二郷里一、詎堪二特作一レ夫、郷里謂レ妻也、
p.0151 三年〈○安康〉八月、穴穗天皇〈○安康〉意將二沐浴一、幸二于山宮一、遂登樓兮遊目、因命レ酒分肆宴、爾乃情盤樂極間、以二言談一顧謂二皇后一、〈○註略〉曰、吾妹(ワキモコ/○○)〈稱レ妻爲レ妹、蓋古之俗乎、〉汝雖二親昵一、朕畏二眉輪王一、
p.0151 妻つま、 京にて他の妻をお内義さん(○○○○○)とよぶ、大坂にておゑさん(○○○○)とよぶ、〈お家さまなり〉江戸にてかみさま(○○○○)といふ、甲斐にて中居(なかゐ/○○)といふ、〈甲州の國風の歌に、甲金や三升升に四角箸切はふづくりをこれお中居とよめり〉播摩邊又越後わたりにてごりよん(○○○○)と云、〈よめ御料などの轉語か〉奥州南部又は津輕にてあつぱ(○○○)といふ、〈吾が母といふの轉語なるべし、小兒の母に對して云詞か、〉仙臺にておかた(○○○)といひ、又ごヾさま(○○○○)と呼は、たつとぶ詞なり、御は尊稱也、御は女の通稱也、故に御をかさねて唱るにや、又仙臺にては、媳婦を呼てをむかさり(○○○○)といふ、上總にてめこ(○○)といふ、〈源氏に、めこのかほも見でと有、これは吾妻也、〉他の妻をばをぢよう(○○○○)と云、〈御女郎の略語か〉伊勢にやよ(○○)といふ、〈下賤の妻をいふと也〉尾張にてお家(○○)とよぶは、江戸にてお袋(○○)といふにあたる、同國にてかみさま(○○○○)とよぶは、老女の稱也、對馬にてをゆみ(○○○)といふ、肥の佐賀にてをとも女郎(○○○○○)といふ、〈おともは手前の事をいふ、おとゝいふ時にそこもとゝいふにひとし、〉 又をかた(○○○)といひ、女房内義(○○○○)などやうの詞は、通稱にして記にいとまあらず、
p.0152 落書附誹諧之事
一中むかしのことかとよ、都に公事聞の奉行あり、一段と正路に批判せられたと、しかしながら 女中方より耳へ入ることは皆理になるときに、
かみさま(○○○○)の御前で公事がすむならばまヽのやうなる批判なるべし、とかく女房にはたか きもいやしきも心がとらるヽと、
一多賀豐後に所司代仰付られ候時に、女じやもの(○○○○○)に談合仕り御返事申上うといふた、尤じや、こ の女じやものに談合申すといふに説々おほしといへども、たヾ女公事取次など究めてと思 ひ右のごとく申上た事じや、〈○下略〉
p.0152 母妻女と書例
父にしたがふ時は某女と書き、夫に適時は某妻と書く、或北方(○○)とも室(○)とも簾中(○○)とも御臺所(○○○)とも、その人の位によりて分るべし、夫におくれて子にしたがふ時は、某母と書也、右大將道綱母などのごとし、これ婦人三從の義によれる稱也、
p.0152 上方にて買(かう)て來るを、江戸にては買(かつ)て來る、〈○中略〉お家樣( いへさま/○○○)をお上樣( かみさま/○○○)、〈○中略〉御寮人(ごりやうにん/○○○)を御新造(ごしんぞ)、
p.0152 公方御他界之事、附御臺所御歌ノ事
永祿三年ノ暮ニ氏康御隠居アリ、號二萬松軒一、〈○中略〉姫君六人オハシマス、何レモ器用ノ君達ナリ、其六人ト申スハ高林院殿、マイ田殿〈セタカイノ御所吉艮殿ノ御前〉常陸殿内室(○○)〈七マガリ殿是ナリ〉氏眞ノ御前(○○)〈早川殿ト申ス〉武田勝賴ノ<ruby><rb>御前(○○)〈是ハ甲州ニテ御生害〉等也、
○按ズルニ、爰ニ御前ト云ヒ、或ハ内室ト云フハ、其夫ノ地位ニヨリテ、其稱ヲ異ニセシモノナ ラン、
p.0153 俚語、呼レ妻曰二竈神(カマ/○○)一、是有レ由也、孔子曰、夫竈者老婦之祭也、老婦謂二先炊者一也、自レ古婦職在レ供二酒食一而掌二爨炊事一、也已、
p.0153 室
近頃の人のあらはせし歌の書に、平人の妻を某室と書たり、いといはれなき事也、有職問答四の卷に、北政所(○○○)或はなにがしの室などいふ事は、關白の室に限るよし見ゆ、桃花蘂葉には、大臣の妻を室といへる例あり、されば室とは必三公の北方ならではいふまじき稱也、後室などいふも、三公の未亡人の稱と見ゆ、愚管抄には、政子の事を賴朝が後家(○○)と書れたり、
p.0153 貞觀十一年十二月七日庚寅、從四位下行伊豫權守當摩眞人淸雄卒、淸雄者、左京人也、祖從五位下吉島、父正六位上治田麻呂、淸雄之娣爲二嵯峨天皇之幸姫一、生二源朝臣潔姫、全姫二皇女一、潔姫是太政大臣忠仁公之室也、
p.0153 寛元五年〈○寶治元年〉六月五日丙戌、泰村披二御書一時、盛阿以レ詞、述二和平子細一、泰村殊喜悦、亦具所レ申二御返事一也、盛阿起座之後、泰村猶在二出居一、妻室自持二來湯漬於其前一勸レ之、賀二安堵之仰一、泰村一口用レ之即反吐云云、
p.0153 北の方
北の方といふ稱は、三公より以下、國の受領の妻に至るまで、しかいへること、塞穗、源氏、榮花など考て知べし、こは必本妻の稱也、今も五位以上には書べき也、
二/人品
p.0153 一貴人の妻を、北の方とも云ふ、北の政所(マンドコロ)とも云ふ事、男は陽也、女は陰也、南は陽也、北は陰也、表は陽也、奥は陰也、女は奥に引きこもり居て、内所の諸事を取りはからふゆへ、北の方とも、北の政所とも云ふ也、政所は、諸事を取り計らふ役所を云ふ也、
p.0154 天慶七年十二月二日、七親王北方〈○有明親王妃、藤原時子〉賀二父左大臣〈○仲平〉七十筭一、
p.0154 北方の御帳のうちに、おまし所して、御とのごもりなどするに、〈○中略〉
としふれどわすれぬ人のねしとこぞひとりふすにもうれしかりけるとて、おましをうちはらはせてふしたまへば、たヾこそ、
ねし人もなみだのうへにふす物をやどのしたにはかずもかへなん、こヽはちかげの大殿、かくてひさしくおとヾ一條殿へまうで給はず、たヾこそあこ君のもとへ時々かよふを、まヽはヽの北方うらやましとおぼしけれど、いとかたおもひなり、
p.0154 一貴人の妻を御臺所といふ事は、御臺盤所と云事を略したる詞也、飯の事をだいと云、女の詞に、飯をおだいとも、ぐごとも云事、上﨟名の記にも見へたり、膳の事をば臺盤と云、其臺盤を置く所を、臺盤所と云、今も食物を調ふる所を臺所と云も、臺盤所と云を略したる詞也、男は表に居て、家の仕置其外表向の事をつかさどり、女は奥に居て、夫の食物を調ふるはづの事なる故、臺盤所にて世話をする心にて、御臺所と云也、貴人なれども、人の妻たる者の所作を、わすれぬ爲の名なるべし、
p.0154 かまくらには三代將軍の跡たえ、しよくをつぐべき君たちもましまさねば、あまみだい所(○○○○○)〈○平政子〉しばらくせいだうをきこしめしけり、
p.0154 延寶八年七月十日、吉辰なればとて、二丸より本城にうつらせ給ふ、〈○德川綱吉〉御臺所(○○○)鶴姫君も、神田橋より同じく本城に入りたまふ、
p.0154 一貴人の妻を御簾中といふは、常々御簾の中に居給ひ、表向へ出て、人に見え給はぬ心なり、〈貴人の妻を、御簾中と稱する事は古書には見ざる事なり〉
p.0154 一人の妻を御料人と云事、料ははからふとよみて、内所の事どもを、取りはからふ 故也、御料と云も、御料人を略したる詞也、今時人のむすめの事を、御料とも御料人とも云人有り、あやまり也、よめ入せずばいふまじき事也、〈光大曰、御料と云は、人の妻の事のみにかぎらず、打つけに其名をいはずして、尊みて云ふ詞也、曾我物語などに、賴朝の事な御料と云ふたる事所々に見えたり、〉
p.0155 内方の稱は貴賤に亘る例
後世に人の妻を内方(ウチカタ)といふは、下ざまにのみ限れる事とみゆれど、古くは貴人をもしか呼し事と聞ゆ、さるは貫之集上卷に、延長四年きよつらの民部卿六十の賀、つねすけの中納言内方せられける云々、〈按ずるに、恒佐卿の室家は、淸貫卿の女なり、尊卑分脈恒佐卿の篇に見えたり、〉天延二年閏十月廿七日權記云、申時許、高遠少將内方乳之後死去、是中納言朝成第三女也、また正暦四年二月廿九日記云、早旦左京亮國平朝臣來云、修理大夫内方、自二夜半一有二惱氣一已入滅、悲歎無レ極云々、〈修理大夫は中納言藤懐平卿なり、公卿補任に見ゆ、又室家は中納言源保光卿女ならむ、尊卑分脈考ふべし、〉など見えたるが如し、〈猶あるべけれど、今おもひいでず、〉又妻室を女房といふも、昔は貴人の稱なりしなり、
p.0155 畿内の賤民婦をさして衒妻と呼べり、或曰、左傳昭二十二年に有仍氏の女の美色をいへるに玄妻と云、よつて玄妻の字にして、左傳より出たりといへり、例の文華によつて、鶏を割に牛の刀を用るにいたれり、按るに、字書に、鉉は賣也とあれば、賤しき婦をさして、賣婦(ばいふ)とおとしめ云ことばなり、鉉妻か衒妻なるべし、東都にて、傾城奉公人の肝煎する者を女衒と云も、衒は售なれ、
p.0155 醍醐の花見
長束大藏大輔、茶屋は晩日に及ぶべきを兼て期せしに依て、御膳の用意なり、將軍この茶屋へ成せられ、饗膳あらば急ぎ上よと仰しかば、大藏大に悦び則上奉る、〈○中略〉見せだなにありつる瓢簟を御腰に物し給へば、是もかはりを被レ下候やうにと乞つヽ、茶屋のかヽ(○○○○○)廿ばかりなる二三人兩、 の御手にすがり、おあし給り候へ、すまさせ給へとて、笑をふくみかけ申せば、秀吉公もことの外打ゑませたまひつヽ、さらば算用をとげ御すまし有べきとて、内へ入給ひしが勘定の聲はなくて、御酒宴と見えて、目出たや松の下千世も幾千代ちよ〳〵などいふ小歌の聲々に、〈○下略〉
p.0156 嫡適〈同、丁狄、主嫡也、君也、主也、牟加比女、〉
p.0156 嫡妻〈ムカヒメ〉
p.0156 大神〈○須佐之男命○中略〉故爾追至二黄泉比良坂一、遙望呼二謂大穴牟遲神一曰、〈○中略〉亦爲二宇都志國玉神一而、其我之女須世理毘賣爲二嫡妻一而、於二宇迦能山〈○註略〉之山本一、於二底津石根一宮柱布刀斯理、〈此四字以レ音〉於二高天原一冰椽多迦斯理〈此四字以レ音〉而居是奴也、
p.0156 嫡妻は字鏡に、嫡牟加比女(ムカヒメ)と見え、書紀に多く正妃とあり、此等に依て訓べし、牟加比は正しく夫に對配意なり、〈物語文に、今の妻の生る子を、むかひばらと云るは、先妻と別けて、今妻をいへれど、是も本は嫡妻腹より轉れるにや、〉
p.0156 むかひばら(○○○○○)のかぎりなくとおぼすは、はか〴〵しうもえあらぬに、ねたげなることおほくて、まヽはヽの北のかたは、やすからずおぼすべし、物語にことさらにつくりいでたるやうなる御ありさまなり、
p.0156 ほんさい(○○○○)つよくものし給、さる時にあへるぞうるゐにて、いとやんごとなし、わか君だちは七八人になり給ぬ、
p.0156 みかどさいなどもいづれをかゐてものすらん、おとヾなるたヾがげをなんゐてまかりける、それをおもひなくりなおとヾたヾいまかれひとりをなんもて侍なる、ほんさい(○○○○)どもみなわすれ侍てとそうし給へば、いとけうあるねぬ御もとの人は、花のかげにすゑたり、なかより御ふみをうちにいるれば、おとヾいと見まほしくおぼさるれど、えいり給はず、北方御ふみを見給て、わらひ給ふ、
p.0157 久安五年十月十六日甲子、今日有二攝政北政所准后勅書事一、〈○中略〉
勅〈○中略〉從一位藤原朝臣者、攝籙之嫡室(○○)、皇后之母儀也、〈○下略〉
p.0157 古奈彌
p.0157 嫡適〈同、丁狄反、主嫡也、(中略)毛止豆女、〉
p.0157 前妻 顔氏云、前妻、〈和名毛止豆女(○○○○)、〉一云、〈古奈美(○○○)〉
p.0157 按伊呂波字類抄不レ載二毛止豆女之訓一、新撰字鏡、嫡字訓二毛止豆女一、毛止豆女又見二曾禰好忠歌一、或曰二毛止豆女一見二大和物語一、
p.0157 前妻〈コナミ亦 顔氏家訓云、前妻コナミ、後妻ウハナリ、前妻之子後妻所ウハナリ レ稱、前夫之子後夫所レ稱幷マヽコ也、又稱二後子一、本文未詳、〉
p.0157 戊午年八月、弟猾大設二牛酒一以勞二饗皇師一焉、天皇以二其酒宍一班二賜軍卒一、乃爲一御謡一之曰、〈謠此云二宇多預禰一〉于 能多伽機珥(ウダノタカキニ)、辭藝和奈破蘆(シギワナハル)、和餓末菟夜(ワガマツヤ)、辭藝破(シギハ)、佐夜羅孺伊殊區波辭(サヤラズイスグハシ)、區 羅佐夜離(クジラサヤリ)、固奈彌餓(コナミガ/○○○)、那居波佐麿麼(ナコハサバ)、多智曾麼能未廼(タチソバノミノ)、那鶏句塢(ナケクヲ)、居氣辭被惠禰(コキシヒエネ)、宇破奈利餓(ウハナリガ/○○○○)、那居波佐麼(ナコハサバ)、伊智佐介幾未廼(イチサカキミノ)、於朋鶏句塢(オホケクヲ)、居氣 被惠禰(コキタヒエネ)、是謂二來目歌一、
p.0157 參河守大江定基出家語第二
今昔、圓融院天皇ノ御代ニ、參河守大江定基ト云フ入有リ、參議左大辨式部大輔濟光ト云ケル博士ノ子也、心ニ慈悲有テ身ノ才人ニ勝タリケル、藏人ノ巡ニ參河守ニ任、而ル間本ヨリ棲ケル妻(○○○○○○○)ノ上ヘニ、若ク盛ニシテ形端正也ケル女ニ思ヒ付テ、極テ難二去リ一思テ有ケルヲ、本ノ妻強ニ此ヲ嫉妬シテ、忽ニ夫妻ノ契ヲ忘レテ相離ニケリ、然レバ定基此ノ女ヲ妻トシテ過ハル間ニ、相具シテ任國ニ下ニケリ、
p.0157 嫌〈宇波奈利〉
p.0157 後妻 顔氏云、後妻必惡二前妻之子一、〈和名宇波奈利(○○○)〉
p.0157 所レ引後娶篇文、原書作下凡庸之性、後夫多寵二前夫之孤一、後妻必虐中前妻之子上、依二 注文一似レ連下引後夫多寵二前夫之孤一句上、此恐傳寫誤脱、〈○中略〉新撰字鏡、 字訓二古奈彌一、嫌字訓二宇波奈利一、或曰、初娶妻如二嫡妻一、謂二之古奈美一、後娶婦人如レ妾、釋名、妾、謂二夫之嫡妻一曰二女君一、古奈美會二女君字一作二 字一、有二嫡妻一者又娶他女一、謂二之宇波奈利一、兼有二二女一、故從レ女從レ兼作二嫌字一、爲二宇波奈利一、並皇國會意字、是説或然、
p.0158 後妻ウハナリ
p.0158 古記云、夫爲レ妻服三月、次妻(○○)无レ服也、朱云、問妻者未レ知於レ妾何、額云爲レ妾无レ服者、
p.0158 品不レ賤人去レ妻後棲語第十一
今昔、誰トハ不レ云人品不レ賤ヌ君達受領ノ年若キ有ケリ、心ニ情有テ故々シクナム有ケル、其ノ人年來棲ケル妻ヲ去テ、今メカシキ人ニ見移ニケリ、然レバ本ノ所ヲバ忘レ畢ヌ、今ノ所ニ住ケレバ本ノ妻心疎シト思テ、糸心細クテ過ケル、
p.0158 康治二年十一月七日己未、進士宗廣妾、〈名兒〉、上成打(○○○)、
p.0158 後妻打(ウハナリウチ)古圖考
うはなりとは、後妻をいへる古言なり、和名鈔後妻〈和名宇波奈利〉新撰字鏡嫌〈宇波奈利〉、日本紀〈卷二十三〉嫉妬の二字をうはなりねたみと訓り、
p.0158 百二三十年以前〈○元龜天正頃〉は、女のさうどう打といふ事有し由、假命ば妻を離別して、五十日或は一ケ月の内、又新妻を呼入れたる時初の妻より、必さうどう打企る、功者成親類、女と打寄談合し、男は曾て構ふ事にあらず、手前の女五三人も有レ之ば、親類中の達者成る女ばかり二十人三四十人百人も身代により催し、新妻の方へ使を遣す、是は家老の役なり、口上は御覺可レ有之候、さうどう打何月幾日何時可レ參候、持參道具は木刀成とも、棒成共、しない成共、其譯を申遣、大方はしないなり、先にても家老取次、新妻何分にも御詫言可レ申と申も有レ之、左樣によはげを出すは、一 生の大恥なり、成程御尤相待候段、返事有レ之、男の携はるは、此使取次計なり、其後は男一切不二出會一法なり、扨日限に離別の妻乗物にて、供女は皆かちにて、くヽり袴たすき髪を亂し、又かぶり物鉢卷などし、甲斐々々敷出立、しないを持押寄るなり、門をひらかせ、臺所より亂れ入、鍋釜障子あたるを幸に打こはす、其時刻を考、新妻の仲人と侍女郎と、先妻の時の侍女郎、同時に出合、眞中へ入、樣々の言を盡し返す、むかしはさうだう打に、二三度賴まれぬ女はなし、七十年以前、八十計のばば有しに、そうどううちに十六度賴まれし抔と語りし、百年以來すきとなし、
p.0159 うはなり、はんにや
又云、〈○宗固隨筆〉うはなりこなみといふは、前の妻の事をうはなりといふ、後添の事をこなみといふ、夫故前妻の後の妻を恨たる事をうはなり打といへり、打は鐵杖(シモト)の事なり、人の怨靈をうはなりとは中古よりいふ詞也、盤若といふも女の顔の事にあらず、祈禱に大盤若經をよむゆゑに、盤若面といひて、鬼女を畫がく事なり云々、與淸曰、前妻後妻の事、神武天皇の御歌に見えて、厚顔抄古事記傳などに解あり、うはなり打は寶物集に見え、骨董集に考あり、
p.0159 又曰く、〈○司馬江漢〉四十を過ぎて後妻を娶るべからず、人四十にしては漸く精氣衰ふ、女子と小人とは養ひがたし、
p.0159 〈ヤマメ、 婦、女 〉
p.0159 寡やもめ〈俗に後家、又後室ともいふ〉 京にてやまめと云、尾州にてやごめといふ、〈これらは轉訛して、かくいふものか、〉遠江にてつぐめといふ、
p.0159 百孀婦(ヤモメ)
俚諺に、越後新潟八百八後家(ヤゴケ)といへり、そは新潟は北國の船舶輻湊の地にて、倡婦色を衒ものおほし、皆一女一室を構へ、一人住して客を曳く、そのさま後家所帶の家に似たれば、これを後家と よび、又數の多をたとへて八百八後家といへりとなん、八百を以て多數にたとへいふは、若狹の八百比丘などの類也、古言の八百日行濱の眞砂、鹽の八百合などの遺辭なり、八百八をたとへにしたると、近江湖に八百八谷の水落入る、あるは江戸八百八町などおほかり、皇明通紀三の卷〈卅三丁ウ〉洪武十六年の條に、沐英留二鎭雲南一、麓川之外有レ國曰レ緬、車里之外有レ國、曰二八百媳婦一、〈○中略〉これらの八百媳婦の名、よしありてきこゆ、八百八後家も八百孀婦にて、やもめ住せる女の多きをいへるにはあらじか、後家の名も鎌倉比の書に見えて、古く聞えたれど、倡女(オヤマ)にいはんは似つかはしからぬにや、
p.0160 凡〈○中略〉無レ夫者、爲二寡妻妾一、〈謂夫亡、及被レ出者、不レ限二年之長幼一、皆爲レ寡也、〉
p.0160 十六年七月戊寅朔、即日以二玖賀媛一賜二速待一、明日之夕、速待詣二于玖賀媛之家一、而玖賀媛不レ和、乃強近二帷内一、時玖賀媛曰、妾之寡婦(ヤモメ)以終レ年、何能爲二君之妻一乎、
p.0160 弘計天皇〈○顯宗、中略、〉天皇久居二邊裔一、悉知下百姓憂苦上、恒見二枉屈一若レ納二四體溝隍一、布レ德施レ惠、政令流行、恤レ貧養レ孀、天下親附、
p.0160 古記云、天平八年正月廿日格云、大宰官人及所部國司等後家(○○)徭役事、奉レ勅、大宰官人及所部國司等、後家徭役免負者、幸覆二天澤一、幷免二疾苦一雖二赴邊一、任永無二煩累一、但自爾以來、年月浸遠、官人相替、稍忘二恩勅一免役之家、還被二駈使一、不レ能レ嘿、已具狀請レ裁者、〈○下略〉
p.0160 孤孃女憑二敬觀音銅像一示二奇表一得二現報一縁第卅四
諾樂右京殖槻寺之邊里、有二一孤孃一、未レ嫁无レ夫、姓名未レ詳也、父母有時、多饒二富財一、數作二屋倉一、奉レ鑄二觀世音菩薩銅像一體一、〈○中略〉里有二富者一、妻死而鰥(○○○○)、見二之是孃一通レ媒伉儷一、〈○下略〉
p.0160 またの日、よべ、さとより參れる上らうわか人どものなかに、とりわきて右近めしいづれば、おもたヾしくおぼゆ、おとヾも御らんじて、などかさとゐは久しくしつる、れいなら ず、やもめ人(○○○○)の、ひきたがへこまがへるやうもありかし、おかしきことなどありつらんなど、れいのむつかしう、たはぶれごとなどの給ふ、
p.0161 太政官符下總國司〈内〉
應レ令レ入レ京故守藤原朝臣有行後家事
右右大臣宣、奉レ勅、件後家、宜給二食十具馬十疋一令レ入レ京者、國宜二承知一、依レ宣行レ之、路次之國、亦宜准レ此、符到奉行、
右少弁 左少史
天暦七年六月十日
p.0161 ごけ 後家の字、朝野群載に、權中納言某朝臣後家と見え、儀式帳安東郡專當沙汰文に見ゆ、今専ら寡婦を稱せり、後室ともいへり、
p.0161 後室
東大寺造立供養記云、重衡卿後室云々、こは三公ならぬ人の妻にも後室といへり、
p.0161 妾 文字集略云、妾、〈接反、和名乎無奈女(○○○○)、〉非二正嫡一、故以レ接爲レ稱、一云有二接嫡一之名也、小妻也、
p.0161 景行紀同訓、安康紀、大草香皇子言妹幡梭皇女、今陛下不レ嫌二其醜一、將レ満二荇菜之數一、荇菜亦同訓、今南部謂二之乎奈米一、古語之遺也、物語書謂二之加計米一、今俗謂二之米加計一、或呼二天加計一、〈○中略〉那波本二枉並作レ接、按枉嫡接嫡並未レ聞、不レ知二孰是一、〈○中略〉後漢書宗室三侯傳、趙惠王乾居二父喪一、私聘二小妻一、注、小妻妾也、小妻又見二漢書外戚恩澤侯表、枚乗傳、孔光傳、外戚傳、佞幸傳、後漢書竇融傳、董卓傳一、釋名、妾接也、以レ賤見二接幸一也、白虎通、妾者、接也、以レ時接見也、
p.0161 妾〈ヲヽナメ〉
p.0161 めかけ 物にめかけたる女と見えたり、沙彌塞律に、蓮華色女が事を記して、 長者見レ之愛重、即問卿氏族何、今爲レ係レ誰と見えたり、今も媵妾をてかけめかけといへり、
p.0162 妾おもひもの 京師にててかけ(○○○)とよぶ、東國にてめかけ(○○○)と云、西國及尾州にてごひ(○○)と云、〈御妃にや〉奥の南部にておなめ(○○○)といふ、
p.0162 てかけめかけ
妾をてかけといふ事、三議一統下卷〈廿二丁オ〉宮仕門に、賞翫の白拍子妾傾城などに、料足出す事云々と見ゆ、めかけと云詞も、九十三卷の六則に抄出せり、
p.0162 御野國味蜂間郡春部里太寶貳年戸籍
下政戸六人部久知良戸口十一〈○註略〉
下々戸主久知良〈年五十三正丁〉 嫡子石前〈年十一小子〉 次小石前〈年八小子〉 妾子(○○)麻呂〈年十五小子○中略〉
中政戸春部星麻呂戸口廿二〈○註略〉
下々戸主星麻呂〈年五十七正丁〇中略〉 妾(○)春部姉賣〈年五十正女○中略〉
p.0162 御野國蜂間郡春部里太寶貳年戸籍
上政戸六人部加利口卅〈○註略〉
下々戸主加利〈年八十耆老○中略〉 妾(○)建部刀自賣〈年六十三〇中略〉
上政戸國造族皆麻呂戸口卌六〈○註略〉
下中戸主阿佐麻呂〈年五十七正丁○中略〉 妾國造族紫賣〈年卅五正女〉
p.0162 このとの〈○藤原兼家〉は、うへもおはせねば、この女御〈○冷泉女御藤原超子〉どのヽ御かたにさぶらひつる大輔といふ人を、つかひつけさせ給て、いみじうおぼしときめかしつかはせ給けれは、權の北方(○○○○)にてめでたし、
p.0162 大殿〈○藤原兼家〉とし比やもめにておはしませば、おほんめしうどの内侍のすけ のおぼえ、年月にそへて、たヾ權の北の方(○○○○○)にて、世中の人みやうぶし、さてつかさめしのをりは、ただこのつぼねにあつまる院女御〈○冷泉女御藤原超子〉の御方に大輔といひし人なり、
p.0163 妾ト云者、無テ叶ザル物也、當時ハメカケ(○○○)ヲバ隠レ者ノ樣ニ仕ル、是習シノ惡敷也、古ヘハ天子諸侯トモニ一娶一九女一迚、姪姊迄八人附來ル、皆メカケ也、何レモ其后ノ親類ニテ、然モ家來ノ女也、卿大夫之事ハ見ヘズ、古ヘハ官ニテ無レバ、其法無成ベシ、去ドモ子無レバ、妾ヲ置コト通法也、今ノ世ハ表向一妻一妾ト、高下トモニ立テ置候故、メカケハ隠シ者ニ成テ、卻テ色々ノ惡事生ル也、唐律ヲ按ルニ、妻ノ次ニ媵妾者有、是ハ賤敷者ニ非ズ、妻ト左迄替モ無家筋ノ人也、和律ハ此處闕卷ナレバ、事ノ樣知レザレドモ、總體日本ノ古法ハ、唐朝ノ風ナレバ替有マジ、此媵ハ、古ヘノ姪姊也、兼テ如レ斯人ヲメカケノ役ニ仕テ、婚禮ノ時ヨリ連行トキハ、此風馴レコニ成テ、本妻ハ嫉妬モ薄キ道理也、又本妻ノ親類ニテ、家來ノ内ヲスルコト成バ、人ノ心ハ樣々ナレドモ、先ハ妾ノ惡事薄キ道理也、兼テ餘多設ケ置候トキハ、大好色ノ人ハ格別ノコト、大形ハ男ノ心モ是ニテ足ベシ、古ノ聖人ハ人情ヲ察シテ、男女ノ間ニコト少キ爲ニ、如レ此ノ禮ヲ立テ玉フコト也、唯今大名ノ家ニ、上﨟ノ御方ト云モノ有、是古ヘノ媵成ベシ、中頃ヨリ本妻ノ嫉妬ノ心ヨリシテ、夫ノ召仕者ノ樣ニハ今ハセヌ成ベシ、備前ノ松平伊豫守ガ奥方ノ風儀宜トテ、某ガ妻ノ母語ル、若キ時分、其家ニ仕ヘテヨク知タリ、妾ニテ子ヲ持タル女モヤハリ奥方へ仕ヘテ、外ノ女中並ニテ、何ノ替リ無シ、唯切米ノ少シ宜ト、奉公ノ樂ナル迄ノコト也、伊豫守ガ奥方賢良ノ婦人ニテ、左樣ノ者ト見レバ、殊ニ念頃ニセラレタリ、奥方ニテノ遊ビハ、管絃、歌樂、手習迄也、三味線、筑紫琴抔ハ、大名ノセヌコト也トテ、堅ク是無ト也、是ハ新太郎少將、聖人ノ道ヲ深ク信ジテ、家内ノ宜ク治リタル餘風殘リテ如レ斯、去ドモ禮ト云物ヲ立ザレバ、只主人ノ物數寄ト思フコト成故、其風破レタリト承ル、去バ妾ノコトモ禮制ヲ立度事也、
p.0164 子ヲ持タル妾ヲ御部屋(○○○)ト名付テ、傍輩諸親類ニモ取カハシヲサセ、家來ニハ樣付ニサセテ、其召仕ノ女房ヨリ諸事ノ格式等ヲ、本妻ニ左迄違ハヌ樣ニスルハ不レ宜コト也、此五六十年以前迄ハ、箇樣ニハ無リシヲ、御先々前御代〈○德川綱吉〉ノ比ヨリ始リテ、今ハ世ノ通例ノ樣ニ成タリ、〈○中略〉妾ノ子ヲ持タルヲ御部屋ト稱シテ、結構ニ會釋シテ、時代ノ風俗ニ合ス可爲ニ、有職ノ輩ノ作事シタルコト明ナリ、古ニ母ハ以レ子貴ト云ルハ、其子ノ代ニ成テノコト也、御先々前御代未ダ御部屋住ニテ御座アリシ時、御家老ドモ、桂昌院樣〈○本庄氏、德川家光妾、〉へ御登城アルベシト申上タレバ、何ト名乗テカ登城ハ爲ベキ、大猷院樣〈○家光〉ノ御召仕也ト名乗ルベキカ、館林殿〈○德川綱吉〉ノ母也ト名乗ベキカ、何ト名乗テモ大猷院樣ノヲモブセ也、館林殿ノ御面伏也ト御意アリ、又淸陽院樣〈○綱重〉ノ御實母ハ、折々御登城アリケレドモ、桂昌院樣ハ遂ニ御登城ナカリシナリ、此段某幼少ノ時ニ承ル、此時分迄ハ、御女中方モ、箇樣ノ理筋ヲ御存知也、今時ハ左樣ノ理筋絶果タリ、此御部屋ト云ルモノ、多クハ妓女風情ノ者也、夫ヲ寵愛スル男モ不學ニシテ、然モ不智成バ、今ハ定法ノ如クニ成ヌ、且又大名ハ、一年替ニ在所ニ居ユへ、近年ハ公家ノ女抔ヲ竊ニ呼寄テ、在所ニ居へ置、本妻ノ如スル類多シト云、是等モ妾ヲ重ク會釋風俗ヨリ如レ此ナリタリ、サレバ制度ヲ立テ、長子ヲ持タル妾ヲバ、家老ナドノ同格ニシテ、召仕ノ内ノ貴人ト定、其召仕女中ヨリ、衣服、器物、家居迄ニ、微細ニ制度ヲ立ズハ、此惡風ハ止ベカラズ、家康公ノ御妾七人衆トテ有、駿府ヨリ毎年御鷹野ニ金ケ原へ御成ノ時、七人衆御供也、女一人モ連ラレズ、馬ニテ御供成故、江戸ニ暫御滯留ノ内ハ、某〈○荻生徂徠〉ガ曾祖母ノ許へ女ヲ借リニ來リテハ貸シテ遣レ、曾祖母モ、折々七人衆ノ御部屋へ行留リ抔シテ、東照宮ヲモ見奉ルト、父祖母ノ物語ニテ承ル、此七人衆ト申ハ、三家ノ御方ニハ、何レモ御實母樣ニテ、重キ御事ナリシカドモ、其御代ハ如レ此ニテ有シ事也、
p.0164 妯娌 爾雅云、關西、兄弟之妻、相呼爲二妯娌一、逐理二反、〈和名阿比與女(○○○○)〉
p.0165 爾雅郭璞注云、今相二呼前後一、或云二妯娌一、與レ此頗異、所レ引蓋是舊注、按方言築娌匹也、郭璞注、今關西、兄弟婦相呼爲二築娌或源君誤引レ之、
p.0165 妯娌〈アヒヨメ〉
p.0165 あひやけ〈○中略〉 あひよめは妯娌也、兩婦也と注せり、共に倭名抄に見ゆ、
p.0165 婚姻 爾雅云、壻之父爲レ姻、〈因反〉婦之父爲レ婚、〈昏反〉婦之父母、壻之父母相謂爲二婚姻一、
p.0165 説文、婚婦家也、禮娶レ婦以二昏時一、婦人陰也、故曰レ婚、姻壻家也、女之所レ因、故曰レ姻、釋名、婚言下壻親迎用レ昏、故恒以二昏夜一成上レ禮也、姻因也、女往因レ媒也、白虎通、昏時行レ禮、故謂二之婚一、婦人因レ夫而成、故曰レ姻、今俗呼二阿比也計一、
p.0165 あひやけ 婚姻をいふ、妻父曰レ婚、婿父曰レ姻といへり、東鑑に相舅と書り、親家ともいへり、やけは宅の義にや、
p.0165 婦之父母、壻之父母、相謂爲二婚姻(/アヒヤケ)一、
丘氏曰、俗謂二之新家(/エンジヤ)一、唐以來則然、又以二婚姻之婚姻一、爲二四門親家一、宋人戯作下賓二于四門一賦上、亦有二此語一、
婦之黨爲二婚兄弟(/ヨメカタノエンジヤ)一、壻之黨爲二姻兄弟(/ムコカタノノエンジヤ)一、
郭氏曰、古者皆謂二婚姻一爲二兄弟一、邢氏曰、禮記曾子問鄭注云、婿之父母、致二命女氏一曰、某之子有二父母之器一、不レ得三嗣爲二兄弟一、是古者謂二婚姻一爲二兄弟一、以三夫婦有二兄弟之義一、或據下壻於二妻之父母一、有中緦服上、故得レ謂二之兄弟一也、
p.0165 この殿〈○藤原道長〉は、北の政所、二所おはします、この宮々の御母うへと申は、土御門左大臣雅信のおとヾの御むすめにおはします、〈○中略〉其まさのぶのおとヾのむすめを、今の入道殿下の北政所〈○倫子號鷹司殿〉と申なり、その御はらに、女君よところ、おとこ君二ところぞおはします、〈○中略〉又高松殿のうへ〈○明子〉と申も、これ源氏におはします、延喜御子高明親王、左大臣左大將ま でならせ給へりしに、おもはざるほかの事により、大臣とられて、太宰權帥にならせ給ひてながされ給ひし、いとヾ心うかりし御むすめにおはします、
p.0166 爲隆宰相は、大辨にて中納言に成んとしけるにも、宰相中將なれども、大辨におとらず、何ごともつかへ、除目の執筆などもすれば、うれへとヾめなどし給ける、おほかたのものの上ずにて、鳥羽の御堂のいけほり山つくりなど、とりもちてさだし給とそきこえ侍し、ゆヽしくうへをぞおほくもち給へるとうけたまはりし、六七人ともち給へりけるを、よごとにみなおはしわたしけるとかや、多はすみなどをもたせて火をこしたる、きえがたにはいでつヽ、よもすがらありきたまひて、あさいをうまどきなどまでせられけるとぞ、さてそのうへどもみななかよくて、いひかはしつヽぞおはしける、
p.0166 何時の頃にか、權大納言にて大將かけ給へる人、〈○中略〉北の方二所ものし給ふ、一人は源宰相と聞えしが、御女に物し給ふ、御志はいとしも優れねど、人より前にみそめ給ひてしかば、愚ならず思ひ聞え給ふ、〈○中略〉今一所は藤中納言と聞えしが、御女に物し給ふ、
p.0166 兼家季仲基高家繼忠雅等拍子附忠盛卒事
又或人ノ語ケルハ、昔モ係ルタメシナキニ非、村上〈ノ〉帝ノ御宇、左中將兼家ト云人アリ、北方ヲ三人持タレバ(○○○○○○○○○)、異名ニハ、三妻錐(ミツメギリ)ト申ケリ、或時此三人ノ北方一所ニ寄合テ、妬色(ネタミイロ)ノ顯レテ、打合取合、髪カナグリ衣引破リ、ナンドシテ、見苦カリケレバ、中將ハ穴六借(カシ)トテ、宿所ヲ捨テ出給ヌ、取サフル者モナクテ、二三日マデ組合テ息ツキ居タリ、二人ノ打合ハ常ノ事也、マシテ三人ナレバ、誰ヲ敵(カタキ)共ナク、向フヲ敵ト打合ケルコソ咲シケレ、是モ五節ニ拍子ヲカヘテ、取障ル人ナギ宿ニハ、三妻錐コソ捼合(モミアヒ)ナレ、穴廣々ヒロキ穴カナトハヤシケリ、
p.0166 むかし大和國に、宇多の太郎なにがしと云者あり、文武有士なりければ、國の守親し くいひよりて聟とせり、繼直出居のかたわらに、休所かまへて、かねて召仕べき者もあり、妻の住べき所は、奥にいりてあり、妻いたりて三箇夜の後、めのとだつ者めし出て、我今まで妻なき事は、思ふ所有故也、せばき家の内こそ、ひいなの樣に、夫婦ならびゐずしても叶はぬ、我小身なれども、内外のへだて有、かヽる程の人は、夫婦賓主のごとくあるべし、互に用意なくては見ゆべからず、へだつとおもひ給ふな、妾などは主とすれば、おのづから常の用意あり、妻はさもなければ、なれすぎてたがひの心のおくも、かくれなきやうに成ては、互にうとむ心も出來なん、且我につたなき性有て、不仁無禮の心、かたちを惡む心有、とりわき不慈のいかり、不仁の事などあれば、世の中のけがれをいとふ樣にて、思ひなおしがたし、氣にぶくて、我身のあやまちをだにたヾしえざれば、まして人の惡をたヾす事もむづかしといひきかせて、物むづかしくては奥に不レ入、可レ入ときはかならずせうそこせり、妻のこヽろむづかしき時は、めのと出て不例のよしを傳ゆ、もし奥に不仁、奢りの事などあれば、其多少によりて、一旬、二旬、三旬もいたらず、おり〳〵せうそこのみあり、それと人の過をあらはしがほにはあらで、書に見かヽりてとなどいひ、あるは武事のはたすべき行ありてなどまぎらはすれど、心の鬼はしるべく、たしなみもてゆくほどに、あしき習ひなどは跡なくきへうせて、上らうしき心をきて作りいでぬ、此男道學武藝はいふに及ばず、歌の道絃管の遊びもいとよくて見るにあくべき人ならねば、妻もおなじく心に入てしなせり、生れ付すぐれたるにはあらねど、下地おほどかにて、上らうと作りなすべきには、あまる所ありければ、しなよくもてつけて、花の朝、月の夜などには、時にあひたるしらべ共にて、あらまほしきあはひに成けるとなん、
p.0167 古事記、八千矛神の后の歌よみしたまふ段に、爾其后取二大御酒坏一、立依指擧而歌曰、〈○中略〉此歌のこヽの意は、汝命こそは男にてませば、いづくにもいづくにも、遺る處なく妻を持て おはすらめ、吾は女なれば、汝命をおきてほかに夫はなしといふこヽろなり、これは男は身のほどにあはせては、いくら妻をもちたらんもあしからず、女はたヾひとりのみ夫はもつべき婦道の敎へあるによりて、かくはいひ給へるなり、
p.0168 昆〈波良加良〉
p.0168 男子先生爲レ兄(/コノカミ)、後生爲レ弟(/ヲトフト)、
正字通、兄者、男女之通稱、故今女先生者稱レ姉、稱二女兄一、正韻、一東兄註、引二爾雅一專屬レ男非、
胤按、正字通説不レ可レ從、
p.0168 兄アニ 弟オトウト 姉アネ 妹イモウト 古語に兄をばセといひ、弟をばナセといひ、姉をばナネといひ、妹をばナニモといひけり、亦兄をイロネといひ、弟をイロトといひ、姉をイロセともいひ、兄弟姉妹相稱して、ハラカラなども云ひしは、皆是同母兄弟姉妹なるを云ふ也、〈兄をセといひ、弟をナセといひ、姉をナネといひ、妹をナニモといひし事は、日本紀に見えしなり、其ナといひ、ナニといひしは、汝也、兄の字舊讀てエといひけり、エといひ、セといひ、ネといふは皆轉語也、ナセといひ、ナネといふは、幷に汝兄(ナセ)といふが如しナニモといふは、即汝妹(ナニモ)なり、萬葉集抄に、イモといふは、イは發語の詞なり、モとは向ふの義也と見えたり、古歌に兄弟の事を、箸向ふと云ひしが如くなるべし、古の俗、妻をもイモと云ひしは、相親しむの謂と見えたり、また同母兄弟姉妹を稱して、イロネとも、イロトとも云ひし、イロとは則イロハ也、母をいふなり、ネとは即兄也、トとはヲト也、猶甲をエと云ひ、乙をトといふが如し、イロセとは、エといひセといふは、轉語也、則同母の兄弟をいふ、古事記に、素戔烏神自ら稱して、天照大神の伊呂勢者也とのたまひし事の見えしは、弟をもイロセと云ひしなり、昆弟相當ふの稱にして、ナセといひしが如きも、また此義とこそ見えたれ、ハラカラとは、猶同胞といふが如し、八ラとは腹也、古語にヨリといふ詞も、アヒダといふ言葉も、共にカラといひけり、されば自の字間の字、並にカラと讀むなり、同じき腹の間より出でしを云ひし也、たゞ其義の如きは不レ詳〉其後又兄をばアニといひ、姉をばアネといひ、弟をばオトウトといひ、妹をばイモウトといひ、相通じては、兄姉をもセウトといひ、弟妹をもオトウトといひ、また兄をばコノカミなどいひけり、〈アニといひアネといふアは大也、古語にアといひ、アヲといび、オといひ、オホといふが き、皆相轉じていひけり、ニといひ、ネといふは、並に兄也、ヲ ウトとは少人也、舊事紀、日本紀に、少男讀でヲトコといひ、少女讀でヲトメと云し事の如く也、イモウトとは妹人也、セウトとは兄人也、コノカミとは子上也、その我よりさきに生るヽ事な云ひし也、〉
p.0169 兄弟 舊事宣化紀に、同母弟と書せるを、ハラカラノイロと訓ぜり、自レ腹の弟といふ事、〈夫より、これより、カレカラ、コレカラといふに同じ、〉然れば異母兄弟をば、ハラカラとは云まじきにや、
p.0169 はしむかふ おとのみこと
萬葉集卷九に、〈弟の死たるを哀しめる歌〉父母賀(チヽハヽガ)、成乃任爾(ナシノマニマニ)、箸向(ハシムカフ)、弟乃命者(オトノミコトハ)云々、また二つあり、先古き語の意にていはヾ、相うつくしみ向はるヽ弟の命といふか、集中に愛妻愛嬬など書たるは、はしきつまともはしづまともよむべく、又同じ愛妻の字を、うつくしづまとよむべき所もあり、又愛八師(ハシキヤシ)、君之使(キミガツカヒ)とも、古事記には、波斯祁夜斯(ハシケヤシ)、和伎弊能迦多(ワドヘノカタ)ともあれば、彼これを照してみるに、皆うつくしむてふ意也、向とは心にかなふことなどを、古へは向しきといへれば、さる意にていふか、はた二人ある兄弟は相對ふ理りのみにても有べし、今一つは箸(ハシ)と書るを正しき字とせば、今の人たヾ二人ある兄弟をはしよりおとヽひといふは、古へよりいへることにてかくいへるか、食(ヲシ)ものヽ具など歌によめること古への常也、
p.0169 於レ是天津日高日子番能邇邇藝命、於二笠沙御前一遇二麗美人一、〈○中略〉問下有二汝之兄弟一乎上、答二白我姉石長比賣在一也、
p.0169 兄弟は、此は波良賀良(ハラガラ)と訓べし、〈イロネイロド(○○○○○○)と訓はわろし〉
p.0169 かいせうといふ人、法師になりて、山にすむあひだに、あらはひなどする人のなかりければ、おやのもとにきぬをなん洗ひにをこせたりけるを、いかなるをりにか有けん、むつがりて、おやはらから(○○○○)のいふ事もきかで、法師になりぬる人は、かくうるさきこといふものかといひければ、よみてやりける、
いまはわれいづちゆかましやまにてもよのうきことはなをもたえぬる
p.0169 兄弟〈ハ〉他人の始 世諺に、兄弟は他人の始と云事あり、愚人は惡く心得て、兄弟は 他人も同じ事と云事也と思ふは誤也、兄弟は共に父母の骨肉をうけて、同體なるものなれば、兄弟ほど親しきはなし、然れども兄弟の子生れては、伯叔父甥姪となり、其子又子を生、又其子が子を生、段々に親しみうとくなり、血脈のつヾき遠くなりて、果は他人となるゆへ、兄弟は他人のはじめと云也、
p.0170 俗諺
兄弟他人の始 この諺は、兄弟各々枝葉出來ぬる末がすゑには、他人となれることにて、現在の兄弟はや他人のきざしとて、疎くせむことかは、羅大經が鶴林玉露に、陶淵明贈二長沙公族祖一云、同レ源分レ派、人易世疎、慨然寤歎念二茲厥初一、老蘇族譜引云、吾所三與相視如二塗人一者、其初兄弟也、兄弟其初一人之身也、悲夫とあるも同じ理をいへり、
p.0170 兄 爾雅云、男子先生爲レ兄、〈許營反〉一云昆、〈和名古乃知美(○○○○)〉日本紀云〈和名伊呂禰(○○○)〉
p.0170 説文、兄長也、白虎通、兄者況也、況二父法一也、廣雅亦云、兄況也、釋名、兄荒也、荒大也、故青徐人謂レ兄爲レ荒也、那波本榮作レ營、按許榮與二廣韻一合、在二十二耕一、營在二十四淸一、作レ榮爲レ勝、伊勢廣本誤作レ勞、疑那波氏所レ見本亦作レ勞、知二其誤一改作、又誤作レ營也、爾雅、晜兄也、釋文、晜本亦作レ昆、故此云二一云昆一也、本居氏曰、古乃加美、子首也、謂二長子一也、應神紀、淸寧紀、長子訓二己乃加美一、是也、魁帥訓二比止己乃加三一、官司長官云二加美一、其意與レ此同、若泛二稱諸兄一、宜レ云二阿爾一、神代紀、仁賢紀、兄皆訓二阿仁一、是也、泛二訓兄一爲二古乃加美一、非レ是、兄訓二以呂禰一見二神代紀一、其他尚多、本居氏又曰、以呂禰、謂二同母兄姉一、以別二異母兄姉一也、泛二訓兄姉一爲二以呂禰一非レ是、至二綏靖紀庶兄、淸寧紀異父兄一、並訓二以呂禰一、其謬尤甚、愚按以呂禰、男子謂二同母兄之稱一、女子謂二同母姊一亦同、其以呂、親眤之義、與下謂二生母一爲二以呂波一之以呂上同、禰蓋衣之轉、衣對二於止一之名、其稱通二男女一、契冲以二以呂禰之禰一、爲二阿尒之轉一、本居氏以爲二阿禰上略一、並非レ是、古事記神沼名河耳命謂二神八井耳命一爲二那泥一者、即男子謂二同母兄一爲二伊呂禰一之證也、袁祁命謂二意富祁命 云二汝兄先儛一亦當三依レ之訓二那泥一、今本訓爲二奈世一、非レ是、若女手謂二同母男子一、則不レ論二兄弟一、皆稱二伊呂勢一、古事記、速須佐之男命、答二足名椎神一詔、吾者天照大御神之伊呂勢者也、蓋古昔女子謂二兄弟及夫一皆爲レ勢、仁賢紀、古者不レ言二兄弟長幼一、女以レ男稱レ兄、是也、故謂二同母兄弟一爲二伊呂勢一也、又女子謂レ夫爲レ勢、古今通稱、但其名男子稱二兄弟一、女子稱二姊妹一耳、萬葉集相聞歌云、奈勢能古、古事記、伊邪那美命、謂二伊邪那岐命一、爲二我那勢命一、神代紀、吾夫君、此云二阿我那勢一、皆是也、又女子謂二兄弟一爲レ勢者、謂兄爲二世宇登一、物語書多見、古事記天照大神謂二須佐之男命一爲二我那勢之命一、亦是也、又備中國賀夜郡有二庭妋郷一、謂二爾比世一、下道郡有二弟翳郷一、訓レ世、可レ證二謂レ夫爲レ世、謂レ弟亦爲一レ世也、
p.0171 兄〈アニ亦イロネ〉
p.0171 兄〈コノカミ阿兄、舎兄、母兄、〉
p.0171 兄〈イロノネ、亦アニ、コノカミ、 爾雅云、男子先生爲レ兄、一云レ昆、和名古乃加美日本紀私記云二伊呂禰一、〉
p.0171 兄あに〈嫡子也、俗に總領といふ、〉 越後にてあんにやさといふ、東國にてせなといふ、出羽にてあんこうといふ、奥の南部に、てあいなといふ、九州にてばぼうといふ、備前にて親かたといふ、土佐にておやかたちといふ、〈備前にていふ親かたもをなじ心か〉
p.0171 このかみ 兄をいふ、子の上の義也、
p.0171 あに 兄を常にあにといへり、又なあにとも見えたり、
p.0171 兄、あに、このかみ、せうと、弟、おとうと、いろと、
p.0171 古記云、釋親云、男子先生爲レ兄、後生爲レ弟、案父之子身之兄弟也、
p.0171 あにご、あねご、おぢご、おばごなどのごは、御の字也、うやまひて御と云也、御は御前を略したる也、あに御前、あね御前と云心也、一説にあにごなどのごは、公の字也といふは、あやまり也、父御前、母御前、あね御前、姫御前などヽいふ詞、昔よりあり、
p.0171 今時人の兄をあにきといひ、伯父ををぢきなどヽ云事、あにきみ、をぢきみといふ 事を、みの字を略して云也、古は兄君、伯父君などヽいひし也、
p.0172 爾速須佐之男命〈○中略〉爾答詔、吾者天照大御神之伊呂勢(○○○)者也、〈自レ伊下三字以レ音〉
p.0172 伊呂勢(イロセ)、<ruby><rb>中卷下卷には伊呂兄と書り、同母兄を云なり、伊呂とは、本愛しみ親しみて云言なり、此事中卷浮穴宮段、常根津日子伊呂泥命の下〈傳廿一の十のひら〉に委く云り、考ふべし、〈師(賀茂眞淵)説に、伊呂は家等にて、万葉十四東歌に、伊波呂(イハロ)と云るこれなり、さて同母の子は、母と共に同家に在る故に、伊呂母(ハ)伊呂兄(セ)伊呂弟(ト)伊呂姊(ネ)と云なりとあり、是ぞ古のさまをよく得られたるものと、さきには思ひしかど非ざりけり、〉さて此命は御弟なれども、男命なる故に兄と詔ふなり、其由は上〈傳六の九葉〉に云り、上に天照大御神の大御言にも我那勢命とあり、
p.0172 兄八島士奴美神、娶二大山津見神之女名木花知流〈二字以レ音〉比賣一生子、布波能母遲久奴須奴神、
p.0172 兄は御阿邇(ミアニ)と訓べし、書紀神代卷に兄弟(アニオト)、又垂仁の卷に御子たちの次第を云處に第一をも阿爾(アニ)とよめり、又仁賢卷にも異父兄弟(ハラカラノアニオト)など訓り、〈此稱、中昔の物語どもにも多かり、今人の心には、阿爾と云は、俗言のごと思ふめれど、言のさまいと古し、和名抄に兄古乃加美、又母兄波良比止豆乃古乃加美とあれども、古能加美(コノカミ)と云は、本第一子に限る稱なり、魁帥(ヒトコノカミ)なども其中の長を云、官司にても長官な加美(カミ)とは云り、然るを必しも第一に限らず、ひろく弟に對て云は、兄字を訓るから轉れる後のことなるべし、されば書紀應神卷淸寧卷などに、長子な訓るはよく當れり、此に先に三柱女神坐せば、長子にはあらざれば叶はず、又伊呂勢伊呂泥などは、同母のを云稱なれば、是も此には叶はず、然ればたゞ勢(セ)と云ぞ、ひろく兄字によく當れゝど、此は然訓むも語調よろしからずなむ、〉
p.0172 故天皇崩後、其庶兄當藝志美美命、娶二其嫡后伊須氣余里比賣一之時、將レ殺二其三弟一而謀之間、〈○中略〉於レ是其御子聞知而、驚乃爲將レ殺二當藝志美美一之時、神沼河耳命曰二其兄神八井耳命一、〈○下略〉
p.0172 兄は伊呂勢(イロセ)と訓べし
p.0172 御眞木入日子印惠命〈○崇神〉者、治天下也、其兄比古由牟須美王之子、大筒木垂根王、〈○下略〉
p.0172 其兄、此兄は美古能加美(ミコノカミ)と訓べし、此は五柱皇子だちの中の第一と云意なるべければなり、凡て古能加美は、子上と云ことにて、子等の中の第一なる一人を云稱なり、〈又其と云を、印惠命を指て申せりとせば、御阿邇(アニ)と訓べし、阿邇と云は、第一の一人には限らぬ稱なり、何れにまれ、此の兄を、イロセ、イロエなど訓るは非なり、いろせなどは、同母の兄を云稱なればな り、〉
p.0173 弟 爾雅云、男子後生爲レ弟、〈和名於止宇止(○○○○)〉
p.0173 按、説文、弟韋束之次第也、轉爲二後生者之稱一、白虎通、弟悌也、心順行篤也、釋名、弟第也、相次第而生也、契冲曰、於止宇止、劣人之義、謂三生年劣二於己一也、本居氏曰、弟古單曰二於止一、於止宇止、即弟人之義、而於止通二男女一之稱、其謂二女子後生一爲二於止一、於一妹條一詳レ之、
p.0173 弟〈オトウト〉
p.0173 昆〈コノカミ兄也、後也、亦作二昆弟一、〉
p.0173 おとうと 倭名鈔に弟をよめり、劣人の義、年の劣れる義也、おとヽともいふ、おとうとの略也、いもうとをおとうとヽもいひし事、紫式部日記、後拾遺集に見ゆ、
p.0173 四十年七月戊戌、天皇持二斧鉞一、以授二日本武尊一曰、朕聞、〈○中略〉東夷之中蝦夷是尤強焉、男女交居、父子無レ別、冬則宿レ穴、夏則住レ樔、衣レ毛飲レ血、昆弟(○○)相疑、〈○下略〉
p.0173 顯隆
葉室流稱二嫡家事一、顯隆卿爲隆卿兩人嫡庶事、爲隆者舎弟(○○)也、然而父爲房卿、以二顯隆一爲二家嫡一之間、父卿永久三年四月死、重服内、同年八月十三日補二藏人頭一畢、爲隆卿保安三年正月補二貫督一、雖二舎弟一侈進也、不レ依二年齒嫡庶一、所見古今所レ知也、
p.0173 續名目之儀ニ付問合
文化十酉年六月廿四日、水野若狹守差出袋廻シ、
一、二男者死去仕、三男者他〈江〉聟養子に差遣候、其後嫡子致二死去一候ニ付、嫡女〈江〉他より致二聟養子一候、右聟養子より、他〈江〉聟養子ニ罷越候三男者、年若ニ而も、養方兄と唱、三男より者、實方姉聟ニ者御座候得共、年之少長ニ不レ拘、實方弟之續ニ相心得可レ然哉、
書面之通者、二男死去、三男他〈江〉聟養子、其後嫡子死去、嫡女〈江〉家督相續之致二聟養子一候上者、聟養 子より、右三男者養方弟(○○○)之續ニ而候、
p.0174 石谷(朱書)備後守挨拶
嫡男有レ之、病身ニ而、他家ゟ致二養子一候處、嫡男ゟ養子之者年增ニ而、兄弟之譯難レ決御座候ニ付、文化十一戌年相伺候處、嫡男より養子之者年增ニ而も弟に定候樣御差圖御座候ニ付、右之通心得罷在候、然ル處、故有而、兄之養子ニ相成候者、右養子以前兄ニ男女子有レ之候得共、實甥姪ニ候之處、前條御差圖ニ隨ひ、年下ニ而も兄姊と相定宜有二御座候哉、
右之趣御問合仕候、以上、
九月 丹羽左京大夫内(小澤長右衞門)
書面、兄之養子ニ成候者、右養子以前兄ニ男女子有レ之候得者、實甥姪ニ付、年之長少ニ不レ拘、養子 之方實叔父ニ付、兄と相定可レ然候、
p.0174 母兄 文選注云、母兄、〈俗云、波良比止豆乃古乃加美(○○○○○○○○○○)、〉同胞之義同母兄也、
p.0174 垂仁紀、母兄訓二波良加良一、按波良、腹也、謂二同腹一也、加良者、與下親族訓二宇加良也加良一、輩儕訓中止毛賀良上同、然則波良加良、同母兄弟姉妹之總稱、非レ可三特訓二母兄一也、古弟謂二同母兄一爲二以呂禰一、女弟呼二同母女兄一亦同、女子謂二同母兄一則爲二伊呂勢一、〈○中略〉母兄、嵇康與二山濤一絶交書兩見、李善五臣皆無レ注、按隠七年公羊傳注云、母兄同母兄、源君或誤引レ之、
p.0174 母弟 尚書注云、母弟同母弟也、
p.0174 所レ引周書牧誓篇孔傳文、按古兄謂二同母弟一爲二以呂止一、女子呼二同母女弟一亦同、女子謂二同母弟一、則爲二伊呂勢一、與三女子呼二同母兄一同、
p.0175 山代之大筒木眞若王、娶二同母弟(○○○)伊理泥王之女、母泥能阿治佐波毘賣一生子、迦邇米雷王、〈加邇米三字以レ音〉
p.0175 同母弟は、師〈○賀茂眞淵〉の伊呂杼(イロド)と訓れつるを用ふべし、若櫻宮段穴穗宮段などに、伊呂弟とあるに同じければなり、〈女なれば伊呂妹と書る、其は伊呂毛なり、此事傳十三の六十三葉に委云り、考合すべし、書紀に、母弟同母弟などをハラカヲ、ヲモハラカラ、ハヽハラカラ、ハラカラノイロト、オナジハラノイロトなど訓るは、皆古稱にあらず、〉
p.0175 四年九月戊申、皇后母兄(○○)狹穗彦王謀レ反欲レ危二社稷一、因伺二皇后之燕居一而語之曰、汝孰二愛兄與一レ夫焉、於レ是皇后不レ知二所レ問之意趣一、輙對曰、愛レ兄也、
p.0175 貞觀十二年九月十三日壬戌、第四皇子誕、皇太子同母弟(○○○)也、
p.0175 貞觀十五年四月廿一日乙卯、勅曰、〈○中略〉其號二親王一者、同母後産、並同盡一、尸鳩之深惠、欲レ一二恩施一、司牧之至公、猶從二義割一、但冀下枝分二若木一、高下共レ春、派出二天潢一淺深同潤上、普告二遐邇一、令レ知二朕意一、是日定二親王八人源氏四人一、〈○中略〉皇子貞保、母女御藤原氏、故中納言長良之女、〈○中略〉皇女敦子與二貞保一同母(○○)並爲二親王一、皇子長猷、母賀茂氏、越中守峯雄之女、〈○中略〉皇女載子、與二長猷一同母、並爲二源氏一、貫二隷左京一條一坊一、
p.0175 久安二年四月十六日己卯、今日有二暲子内親王准后勅書事一、〈○中略〉
勅、親二九族一而敦レ睦、唐堯之聖德長昭建二諸姫一而分レ封、周發之賢行既舊、暲子内親王者、朕同産之姉(○○○○○)也、〈○中略〉宜下本封之外更加二千戸一以爲中公主湯沐之邑上、亦任人賜爵、殊准二三宮一、布二告遐邇一俾レ知二朕意一、主者施行、
久安二年四月十六日
p.0175 みちの國に淸衡家衡といふものあり、淸衡はわたりの權大夫經淸が子なり、經淸貞任に相ぐしてうたれにし後、武則が太郎武貞經淸が妻をよびて家衡をばうませたるなり、然れば淸衡と家衡とは父かはりて母ひとつの兄弟(○○○○○○○)なり、〈○下略〉
p.0176 慶長八年八月十四日、信州小諸ノ城主松平因幡守藤原康元、享年五十二歳ニシテ卒ス、其子甲斐守忠良封ヲ襲、康元ハ久松佐渡守俊勝ガ二男ニシテ、神君御同胞ノ昆弟(○○○○○○○)タリ、
p.0176 異父兄〈父コトナルアニ〉 異父弟〈父コトナルヲト〉、 異父姊〈父コトナルアネ〉 異父妹〈父コトナルイモウト〉
p.0176 古記云、異父同母、故曰二異父一、既異姓、故服降二身之兄弟姉妹一等一、俗云、麻麻波良加良(○○○○○○)也、
p.0176 六年是秋、日鷹吉士被レ遣後有二女人一、居二于難波御津一哭之曰、於レ母亦兄(オモニモセ)、於レ吾亦兄弱草吾夫 怜(ワレニモセワカクサアガツマハヤ)矣、〈○註略〉哭聲甚哀、〈(中略)或本云、玉作部鯽魚女、共二前夫韓白水即 一生二哭女一、更共二後夫住道人山寸一生二麓寸一、則哭女與二 寸一異父兄弟之故、哭女之女飽田女、呼二 寸一曰、於レ母亦兄也、哭女嫁二於山寸一生二飽田女一、山寸又淫二鯽魚女二生 寸一、則飽田女與二 寸一異母兄弟之(○○○○)故、飽田女呼二夫 寸一曰、於レ吾亦兄也、古者不レ言二兄弟長幼一、女以レ男一稱レ妹、男以レ女稱レ妹、故云二於レ母亦兄、於レ吾亦兄一耳、〉
p.0176 八年五月乙酉、天皇詔二皇后及草壁皇子尊、大津皇子、高市皇子、河島皇子、忍壁皇子、芝墓皇子一曰、朕今日與二汝等一倶盟一于庭一、千歳之後欲レ無レ事、奈之何、皇子等共對曰、理實灼然、則草壁皇子尊先進盟曰、天神地祇及天皇證也、吾兄弟長幼幷十餘王、各出二于異腹(コトハラ/○○)然不レ列二同異一、倶隨二天皇勅一而相扶無レ忤、若自今以後、不レ如二此盟一者、身命亡レ之、子子孫絶レ之、非レ忘非レ失矣、五皇子以レ次相盟如レ先、然後天皇曰、朕男等各異腹而生(○○○○)、然今如二一母同産(ヒトツオモハラカラ)一慈之、則披レ襟抱二其六皇子一、因以盟曰、若違二茲盟一忽亡二朕身一、皇后之盟且如二天皇一、
p.0176 この大將殿のなくなし給てし人〈○浮舟〉は、宮の御二條の北方〈○中君〉の御をとうとなりけり、ことはら〈○中君浮舟〉なるべし、
p.0176 異父兄弟之儀ニ付問合
稻生(朱書)出朋守答
女子、他〈江〉縁付、女子出生仕候上、離縁相成、里方〈江〉歸り、其後又候他〈江〉再縁仕候處、女子出生、右〈江〉聟養子仕候節者、最初縁付候先ニ而出生之女子者、右養子之者之爲ニ者、養母方姊之續可二相成一哉、又 者異父兄弟ニ准じ可レ申哉、此段兼而心得罷在候度、奉レ伺候、以上、
弘化三年閏五月廿八日 松平備中守家來(高室八左衞門)
書面之通者、異父姉ニ而候、
p.0177 〈萬々妹也〉 庶兄〈萬々兄〉
p.0177 あらめいろね 古事記に、庶兄を訓ぜり、
p.0177 故天皇崩後、其庶兄當藝志美美命娶二其嫡后伊須氣余理比賣一之時、〈○下略〉
p.0177 庶兄は字鏡に庶兄万々兄(マヽセ)とあり、如此訓べし、〈上卷に庶兄弟とあるをば、たゞ阿爾於登杼母と訓たりき、彼は異母兄弟等を凡て云る、其を麻々某といふ稱を知ざればなり、又書紀綏靖卷に、庶兄をイロネ、用明卷に、庶弟なハラガヲと訓るなどは皆當らず、〉又同書に、嫡母万々波々、 万々妹などもあり、〈漢國にて、庶字は嫡に對へる稱にして、嫡妻の生る子を嫡子といひ、妾の生るを庶子といふ、されば庶兄とは、嫡妻の生る弟の、妾の生る兄をいふ稱なり、此も其定まりの如く庶兄と書り、然れども皇國にては、嫡庶を論ず、凡て異母の兄弟を麻々兄麻々弟と云けむこと、彼字鏡に嫡をも庶をも万々とあろにても知るべく、又和名抄に、繼父万々知々、繼母万々波々と見え、又古も今も、非所生子を麻々子と云、今言に非所生親子(ナサヌオヤコ)の問を麻々志伎中(マヽシキナカ)と云り、〉
p.0177 故大帶曰子天皇娶二此迦具漏比賣命一、生子大江王、〈一柱〉此王娶二庶妹(○○)銀王一生子、大名方王、
W 古事記傳
p.0177 庶妹は、麻々伊毛(マヽイモ)と訓べし、〈アラメイロト(○○○○○○)など訓るは非也〉字鏡に、 万々妹也とあり、〈 字は心得ず〉凡て庶をば麻々と訓べきこと、白檮原宮段に、庶兄とある下〈傳廿の卅九葉〉に云るが如し、〈庶字にはかかはらず、ただ異母のよしなり、〉
p.0177 古記云、釋親云、女子先生爲レ姉、後生爲レ妹、案父之子身之姉妹也、俗云、阿禰於伊毛(○○○○○)也、
p.0177 娣妹の字義
女子の長を姉といひ、次を娣といふ、男子の長を兄といひ、その次女を妹といふ、娣妹ともにイモウトとよめど、字はおなじからず、晉語一〈國語七卷七丁右〉に、獻公伐二 戎一克レ之、滅二 子一、獲二 姫一以歸、立以爲二夫人一、生二奚齋一、其娣生一卓子一云々、注に、娣大計切、女子同生、謂二後生一爲レ娣、於レ男則言レ妹也云々と見えたる にて知べし、また、爾雅〈註疏本三卷廿丁左〉釋親に、男子謂二女子先生一爲レ姉、後生爲レ妹云々とありて、妹は男子の妹にいふなるを、倭名抄〈二卷十四丁オ〉兄弟類部に、爾雅云、女子先生爲レ姉、音止、女兄、和名阿禰.日本紀讀與レ兄同云々、また、爾雅云、女子後生爲レ妹、音昧、和名伊毛宇止、日本紀私記云、以呂止云々と記されしは、上の男子の二字に心づかずして、誤られたる也、喪葬令集解にも、姉妹俗云二阿禰於伊毛一と見ゆ、
p.0178 熱田縁起に云、〈○中略〉先レ是日本武尊、於二甲斐坂折宮一、有二戀宮酢媛一、即歌曰、阿由知何多(アユチガタ)、比加彌阿禰古波(ヒガミアネコハ)、和例許牟止(ワレコムト)、止許佐留良牟也(トコサルラムヤ)、阿波禮阿禰古乎(アハレアネコヲ)、〈(中略)比加彌阿禰古とは、宮酢媛を指して詔ふなり、氷上なる姉子と云意なり、曾丹集歌に、あねこが閨と云り、今世の言にも、若き女を、姉とも姉御ともいふ、式に愛知郡火上姉子神社あり、雌媛を祭ると云り、〉
p.0178 姉子
延喜神名式に、愛智郡火上姉子神社あり、〈○中略〉曾丹集の歌に、神まつる冬はなかばに成にけらあねこが閨に榊をりしきとありと、本居氏の書にみゆ、おのれ又おもふにこれらの姉ごは、今も父ご、母ご、伯父ご伯母ご、兄ごといふに同じくて、もとは父き、母き、伯父き、伯母き、兄き、姉き、などいふきの轉りたるなり、俗に子、或は御とかくは借字なり、猶中の卷なる伯耆の條を合せ見るべし、
p.0178 例の中納言殿おはしますとて、けいめいしあへり、君だちなまわづらはしくきき給へど、うつろふ方ことににほはし置てしかばと、ひめ君はおぼす、中君(○○)は思ふかたことなめりしかば、さりともと思ながら、心うかりし後は、ありしやうにあね(○○)君をもおもひきこえ給はず、心おかれてものし給ふ、
p.0178 今三都ニ、女ノ多集リタル處ニテ、諸女義ヲ結テ、兄弟ブンナド云事、唐ノ崔令欽ガ敎坊記ニ日、敎坊中ノ諸女、以二氣類相似一、約爲二香火兄弟ト言ハ、香火ヲ備テ鬼神ニ誓ユヘニカク云ニヤ、此事由テ來ル事舊シ、漢書外戚傳曰、房與レ宮對食、注應劭曰、宮人自相與爲二夫婦一名二對食一、房宮二人之名也ト、角先生蠟師父何人カ俑作レルヤ、
p.0179 待賢門院の堀川、上西門院の兵衞、をとヽい(○○○○)なりけり
p.0179 祇王事
太政の入道は、かやうに天下をたなごヽろのうちににぎり給ひしうへは、世のそしりをもはヾからず、人のあざけりをもかへらみず、ふしぎの事をのみし給へり、たとへばそのころ京中に聞えたるしらびやうしのじやうず、ぎ王ぎ女とて、おとヾひ(○○○○)あり、とぢといふしらびやうしがむすめなり、
p.0179 姉 爾雅云、女子先生爲レ姉〈止反〉女兄、〈和名阿禰○禰下一本有二日本紀私記云與レ兄同九字一〉
p.0179 原書女子上有二男子謂三字一、白虎通、姊者咨也、釋名、姉積也、猶二日始出、積レ時多而明一也、按説文姊女兄也、故此云二云女兄一也、〈○中略〉姊訓二伊呂禰一、見二神代紀下一、其他尚多、故此云二與レ兄同一、按伊呂禰、女子謂二同母姊一、男子謂二同母兄一之稱、若男子謂二同母姊妹一、則稱二伊呂毛一、古事記云、阿治志貴高日子根神、其伊呂妹高比賣命、是也、據下仁賢紀云中古者不レ言二兄弟長幼一、男以レ女稱上レ妹、是可レ證レ不三必論二長幼一也、若泛謂二諸女兄一、宜レ稱二阿禰一、是阿尒米之急呼、即兄女之義也、
p.0179 姊〈アネ亦イロネ〉 女兄〈同〉
p.0179 姊〈イハシ、アネ、イロネ、 爾雅云、女子先生爲レ姊、女兄、音止、和名阿禰、日本紀私記云、與レ兄同、〉
p.0179 あね 常に姊をいへり、神代紀に姊をなねとよめり、皇代紀に、兄をあねとよめるも多し、あにの轉語成べし、信州甲州にては、婦女はすべてあねと呼り、
p.0179 姉あね 九州にてばほうぢよといふ、上總房州にてなヽといふ、〈兄弟に限らず、目上の女を尊んでなゝといふ、〉
p.0179 素戔鳴尊劉曰、吾元無二黑心一、但父母巳有二嚴勅一、將三永就二乎根國一、如二與レ姊相(ナネノミコト)見一、吾何能敢去、是以跋二渉雲霧一遠自來參、不意阿姊(ナネノミコト)翻起嚴顔、
p.0180 いづれがいづれなどとひ給に、これは故衞門のかみ〈○空蟬父〉のすゑの子にて、いとかなしくし侍けるを、おさなき程におくれ侍て、あね(○○)なる人のよすがにかくて侍るなり、〈○下略〉
p.0180 妹 爾雅云、女子後生爲レ妹、〈昧反、和名伊毛宇止(○○○○)、〉
p.0180 説文、妹女弟也、白虎通、妹者末也、廣雅同、釋名、妹昧也、猶二日始入、歴レ時少尚昧一也〈○中略〉本居氏曰、古單曰二以毛一、以毛宇止、即妹人、與下謂二於止一爲中於止宇止上同、古昔男子稱二女子一爲二以毛一、若姊妹、若妻妾、及於二他婦人一亦然、仁賢紀所レ謂古者不レ言二兄弟長幼一、男以レ女稱レ妹、是也、古事記云、阿遲鉏高日子根神、次妹高比賣命、是以レ兄對二女弟一、故云二以毛一也、若以二女兄一、對二女弟、則曰二於止一、與二兄之於一レ弟同、古事記又云、姊石長比賣、其弟木花之佐久夜毘賣、是也.中古猶然、古今集在原業平歌小序、謂二婦妹一爲二妻弟一、源氏物語花宴卷、謂二朧月夜君一爲二女御之弟一、皆古義之存者也、愚按神代紀云五十猛神妹大屋津姫命、味耜高彦根神之妹下照姫、思兼神妹萬幡豐秋津姫命、其他尚多、法隆寺繡帳文云、多至波奈等己比乃彌己等妹、名等己彌居加斯支侈比彌乃彌己等、是以レ兄對二女弟一、故曰レ妹、又神代紀、磐長姫謂下其女弟神吾田鹿葦津姫之被上レ幸二於天孫一曰、唯弟獨見レ御、垂仁紀、以二皇后弟之三女一爲レ妃、景行紀、美濃國造神骨之女、兄名兄遠子、弟名弟遠子、熊襲梟帥有二二女一、兄曰二市乾鹿文一、弟曰二市鹿文一、應仁紀、皇后弟弟姫、反正紀、夫人弟弟媛、允恭紀、皇后奏言妾弟名弟姫、又朕頃得二美麗孃子一、是皇后母弟也、天智紀、有二遠智娘弟一曰二姪娘一、法隆寺繡帳文云、娶二大后弟名乎阿尼乃彌己等一爲后、是以二女兄一對二女弟一、故曰レ弟、古今集業平歌小序、謂二妻妹一爲二妻弟一、大和物語、本院北方御弟童、名曰二於保都布禰一、奉二之陽成帝一無レ寵、菅原孝標女更科日記謂二己與レ姊之間一、爲二姊弟乃中一、榮花物語藤壺卷、謂二初匣殿一爲二皇后御弟四御方一、初花卷、謂二小一條中君一爲二宣耀殿女御之弟一、狹衣物語、謂二堀川大臣北方一、爲二一條院后宮御弟東宮御姨一、後拾遺集小序、謂二長女一爲二阿禰一、幼女爲二於止々一、皆與二本居氏所一レ言合、其説可レ從、妹訓二伊呂止一、見二神代紀一、其他尚多、按以呂止、男子謂二同母弟一、女子謂二同母妹一之稱、古事記、伊邪本和氣命、其伊 呂弟水齒別命、又云、穴穗天皇爲二伊呂弟大長谷王子一、皆以レ兄對二同母弟一也、又云、和知都美命有二二女一、兄名二蠅伊呂泥一、弟名二蠅伊呂杼一、以姊對二同母妹一也、若男子謂二同母女子一、爲二以呂毛一、引見二上條一、泛訓レ妹爲二以呂止一非レ是、又用明紀云、皇弟皇子者、謂二穴穗部皇子即天皇庶弟一、而訓二皇弟一爲二須女伊呂止一、亦誤、
p.0181 妹〈イモウト 爾雅云、女子後生、爲レ妹、音味、和名以毛字止、日本紀私記云、以呂止、〉
p.0181 いも 妹をいふ、いは發語、もはむかふ義也といへり、萬葉集に孋をもよめり、凡そ夫より婦をよび、兄姉より妹人をいふはもとよりにて、弟より姉を指ても他人どちも女をしか呼び、女どちも互に指ていふなり、
p.0181 國稚如二浮脂一而、久羅下那洲多陀用幣琉之時、〈○註略〉如二葦牙一因二萌騰之物一而成神名、〈○中略〉次成神名、宇比地邇〈上〉神、次妹須比智邇〈去〉神、
p.0181 妹は伊毛と訓べし、〈和名抄に伊毛宇止とあるは、妹人の義にて、後のことなり、〉伊毛とは、古夫婦にまれ、兄弟にまれ、他人どちにまれ、男と女と雙ぶときに、其女を指て云稱なり、〈故に記中の例、兄弟な擧るに、兄と妹となれば、妹をば妹某といひ、姉と妹となれば、弟某(オトソレ)と云て妹とはいはず、阿遲鉏高日子根神、次妹高比賣命といひ、姉石長比賣、某弟木花之佐久夜毘賣と云るが如し、心を著べし、古の定まりと見えたり、然れば女と女との間にては、伊毛と云ことは、上古には無かりしなり、又書紀仁賢卷に、古者不レ言二兄弟長幼一、女以レ男稱レ兄、男以レ女稱レ妹とある如く、男よりは姊をも妹と云しなり、さて又夫婦の間にて、妻を妹と云ることは、世人もよく知れることなり、然るを書紀に、雄略天皇の皇后を指して吾妹と詔へるを註して、稱レ妻爲レ妹蓋古之俗乎とあるはいかにぞや、此は今京になりてまでも、常に云ることにて、奈良のころにさらなるを、如此よそ〳〵しげに、蓋古俗乎などゝは、強て萬を漢籍めかさむとての文なり、さて又他人どちの間にても、男の女を指て妹と云ることも、万葉などに甚多し、但し十二卷に、妹といヘばなめしかしこししかすがにかけまく欲き言にあるかも、とよめるを思へば、敬ふべき人をばいはざりし稱にこそ、〉然るをやヽ後には、女どちの間にても稱ことヽなれりき、〈姉妹の間にて妹を云はさらにて、他人にても、万葉四吹黄刀自が歌、又紀女郎が友に贈歌、又十九に、家持の妹の其妻の許に贈歌、其答歌などに皆妹と云り、〉さて妹字をしも書は、此稱に正しく當れる字のなき故に、姑く兄弟の間の伊毛に就て當たるものなり、ゆめ此字に泥みて、言の本義を勿誤りそ、〈黙るを後生人は、ひたすら字を主として思ふ故に、伊毛と云は、本兄弟の妹より出たるが轉て、妻をも然云ぞと心得誤るめり、〉
p.0182 故阿治志貴高日子根神者、忿而飛去之時、其伊呂妹(○○○)高比賣命、思レ顯二其御名一故、歌曰、〈○下略〉
p.0182 伊呂妹は、伊呂毛(イロモ)と訓べし、同母妹を云なり、まづ凡て古に兄弟を稱呼に、男弟女弟(オトウトイモウト)對へて、男兄(アニ)を勢(セ)と云、阿爾(アニ)とも云、〈此は常の如し〉又女兄(アネ)に對へて、男弟(オトウト)をも勢(セ)と云り、〈須佐之男命のみづから、天照大御神の伊呂勢と詔へるが如し、中昔までも然云り、女兄に對へて、男弟を淤登(オト)と云ことはかり、此は後世と異なり、〉さて女弟(オトウト)に對へて、女兄(アネ)を阿泥(アネ)と云、又男弟(オトウト)のみづから女兄(アネ)を指ても、阿泥(アネ)と云り、〈但し男弟の、女兄を阿泥と云は、みづから呼ときのことなり、傍よりは、男弟に對へては、女兄をも伊毛と云り、中昔までもしかり、此は後世と異なり、〉さて男兄に對へて、男弟を淤登(オト)と云、〈此は堂の如し、女兄に對へて、男弟を淤登と云ことはなかりき、〉又女兄に對へて、女弟をも淤登と云り、〈中昔までも然りき、女兄に對へて、女弟を伊毛と云ることに無し、此に後世と異なり、〉さて男兄に對へて、女弟を伊毛と云、〈此に常の如し、女兄に、對ヘては女弟を伊毛といへることなかりき、〉又男弟に對へて、女兄をも伊毛と云り、〈此は後世と異なり〉かくて又同母兄弟の間にては、勢(セ)を伊呂勢(イロセ)、阿泥(アネ)を伊呂泥(イロネ)、〈阿泥の阿を省きて泥と云なり、例は黑田宮段に、伊呂泥とありて、書紀に某姉と書れたり、さて泥と云は、もとは男女にわたれる稱にて、男名にも負り、此事中卷浮穴宮段、傳廿一の十ひらに云り、然るを阿泥の阿を省きて、同母姉をも伊呂泥といふなり、〉淤登を伊呂杼(イロド)〈淤登の淤を省きて、杼と云なり、濁るは伊呂より連く音便なり、例は黑田宮段に、伊呂杼とあり、又記中に、伊呂弟とあり、さて凡て伊呂と云言の義は、中卷浮穴宮段、傳廿一の十びらに云べし、〉とも常に云り、これらに准ふるに、同母兄に對へて、女弟(イモ)をば伊呂毛(イロモ)と云けんこと決し、〈阿泥を伊呂泥、淤登を伊呂杼と云例にて、伊毛の伊を省きて、伊呂毛と云べし、〉故今然訓るなり、〈前には伊呂毛と云ることの、慥に見えるざによりて、伊呂妹の妹をも、杼と訓べしと云つれども、其は精しからざりき、其故は、古男兄に對へて女弟を淤登と云る例なればなり、記中に伊呂杼とあるは、みな男弟にて、女弟にはみな伊呂妹と書り、又黑田宮段に、伊呂杼と云名も、女兄に對へて云るなれば、男兄に對へて云る例には非るぞかし、凡て古に兄弟を稱呼る名ども、男と女によりて、互に異なること、右の如くにして、後世の格とは異なること多し、委曲ににわきまへずは誤又るべし、書紀の訓、和名抄などは古に合ひがたきことまじれり、よく〳〵わきためて取べき也、〉
p.0182 一云〈○中略〉時豐玉姫化一爲八尋大熊鰐一、匍匐透虵、遂レ以レ見レ辱爲レ恨、則徑歸二海郷一、留二其女弟(イロト/○○)玉依姫一持二養兒一焉.所以兒名稱二彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊一、
p.0182 御野國味蜂間郡春部里太寶貳年戸籍〈○中略〉
中政戸漢人意比止戸口廿〈○註略〉 下々戸主意比止〈年卅六(○○○)正丁○中略〉
戸主妹乎賣〈年五十二(○○○○)正女○中略〉
中政戸六人部儒戸口廿二〈○註略〉
下々戸主儒〈年卅六(○○○)正丁○中略〉
戸主妹豐賣〈年五十二(○○○○)正女〉
p.0183 御野國味蜂間郡春部里太寶貳年戸籍〈○中略〉
上政戸國造族皆麻呂戸ロ卌六〈○註略〉
下中戸主阿佐麻呂〈年五十七(○○○○)正丁○中略〉
戸主妹安賣(○○○)〈年六十(〇〇〇)正女〉
○按ズルニ、右ノ戸主妹乎賣、豐賣、安賣等、皆戸主ノ妹トアレド、其年齡戸主ヨリ長ゼリ、
p.0183 むかし在中將のみむすこ在次君といふがめなる人なん有ける、女は山蔭の中納言のみひめにて、五條のごとなんいひける、かのざいじぎみのいもうと(○○○○)の、伊勢のかみのめにていますがりけるがもとにいきて、〈○下略〉
p.0183 於レ是天津日高日子番能邇々藝命、於二笠沙御前一遇二麗美人一、〈○中略〉故爾、其姉者因二甚凶醜一、見畏而返送、唯留二其弟(○)木花之佐久夜毘賣一以、一宿爲レ婚、
p.0183 弟は淤登(オト)と訓べし、〈伊呂杼(イロド)と訓て宜きもあれど、所によることなり、〉和名抄に、爾雅云、男子後生爲レ弟、和名於止宇止、〈とあれども、淤登は男女にわたりて云稱なり、又もとはたゞ淤登と云りしを、淤登宇登と云は、夫を袁宇登、妹を伊毛宇登と云類にて、宇登は皆人にて、弟人夫人妹人なり、かく人と添て云は後のことなり、〉また爾雅云、女子後生爲レ妹、和名伊毛宇止とあれども、古は姉に對へて、後に生れたるをば、女をも弟と云て妹とはいはず、記中の例皆然り、心を著て見べし、中昔までも然にぞありける、〈後に生れたる女子を妹と云は、男兄(アニ)に對へ云稱なり、姉に對へては弟とのみ云て、妹と云ることなかりき、然るを後世には、姉にむかへても妹とのみ云て、男ならで は弟とは云ぬことゝなれるは、漢籍には姉妹と云るにめなれたるうつりにして、皇國の古稱にたがへり、和名抄なども、たヾ漢ざまによりて云るものなり、實は中昔までも古の如くにて、姉に對へては弟とこそ云つれ、古今集雜上詞書に、妻の弟をもて侍りける人に云々、源氏物語花宴卷に、朧月夜君のことを、女御の御おとうとだちにこそあらめ、などある類にて、姉に對へて妹と云ことは無かりき、〉
p.0184 土佐國妹兄行住二不知島一語第十
今昔、土佐國幡多郡ニ住ケル下衆有ケリ、己ガ住浦ニハ非デ、他ノ浦ニ田ヲ作ケルニ、己ガ住浦ニ種ヲ蒔テ、苗代ト云事ヲシテ可レ殖程ニ、成ヌレバ、其苗ヲ船ニ引入テ殖人ナド雇具シテ、食物ヨリ始テ馬齒辛鋤鎌鍬父鐺ナド云物ニ至マデ、家ノ具ヲ船ニ取入テ渡ケルルニヤ、十四五許有男子、其ガ弟ニ十二三歳許有女子(○○○○○○○○○○○○)ト、二人ノ子ヲ船ニ守リ目ニ置テ、父母ハ殖女雇乗ントテ陸ニ登リニケリ、白地ト思テ船ヲバ少シ引居テ、綱ヲバ棄テ置タリケルニ、此二人ノ童部ハ、船底ニ寄臥タリケルガ、二人乍ラ寢入ニケル、其間ニ鹽滿ニケレバ、船ハ浮タリケルヲ、放ツ風ニ少シ、吹被レ出タリケル程ニテ、滿ニ被レ引テ遙ニ南ノ澳ニ出ケリ、澳ニ出ニケレバ、彌ヨ風ニ被レ吹テ帆上タル樣ニテ行、其時ニ童部驚テ見ニ、懸タル方ニ无漢ニ出ニケレバ、泣迷ヘドモ可レ爲樣モ无テ只被レ吹テ行ケリ、父母ハ殖女モ不二雇得一シテ船ニ乗ムトテ來テ見ニ船モナシ、暫ハ風隠ニ差隠タルカト思テ、此走リ彼走リ呼べ共、誰カハ答ヘント爲ル、返々求騒ゲドモ跡形モ無レバ、云甲斐无テ止ニケリ、然テ其船ヲバ遙ニ南ノ沖ニ有ケル島ニ吹付ケリ、童部恐々、陸ニ下テ船ヲ繋デ見レバ敢テ人无シ、可レ返樣モ无レバ、二人泣居タレドモ甲斐无テ、女子ノ云ク、今ハ可レ爲樣ナシ、然リトテ命ヲ可レ棄ニ非ズ、此食物ノ有ム限コソ少シヅヽモ食テ命ヲ助ケメ、此ガ失畢ナン後ハ何ニシテカ命ハ可レ生然レバ去來此苗ノ不レ乾前ニ殖ント、男子只何ニモ汝ガ云ンニ隨ム、現ニ可レ然事也トテ、水ノ有ケル所ノ田ニ作ツベキヲ求メ出シテ、鋤鍬ナド皆有ケレバ、苗ノ有ケル限リ皆殖テケリ、然テ斧鐺ナド有ケレバ、木伐テ菴ナド造テ居タリケルニ、生物ノ木時ニ隨テ多カリケレバ、其ヲ取食ツヽ 明シ暮ス程ニ、秋ニモ成ニケリ、可レ然ニヤ有ケン、作タル田糸能出來タリケレバ、多ク苅置テ妹兄過ス程ニ、漸ク年來ニ成ヌレバ、然リトテ可レ有事ニ非ネバ、妹兄夫婦ニ成ヌ、然テ年來ヲ經程ニ、男子女子數産次ケテ、其レヲ亦夫婦ト成シツ、大ナル島也ケレバ、田多ク作リ弘ゲテ、其妹兄ガ産次タリケル孫ノ、島ニ餘ル許成テゾ于レ今有ナル、土佐ノ國ノ南ノ沖ニ妹兄ノ島トテ有トゾ人語リシ、此ヲ思フニ前生ノ宿世ニ依コソハ、其島ニモ行住、妹兄モ夫婦トモ成ケメナント語リ傳ヘタルトヤ、
p.0185 入道〈○藤原道長〉おとヾの四の君は、威子の内侍のかみときこえたまひし、こよひ女御にまいり給ひて、藤つぼにおはします、神な月の十日あまりのころ、きさきにたヽせ給、國母〈○彰子〉も后〈○威子〉も、あねをとヽ(○○○○○)におはしませば、いとたぐひなき御さかえなるべし、
p.0185 嫂婦 爾雅云、女子謂二兄之妻一爲レ嫂、弟之妻爲二婦嫂一、〈草反〉作レ㛐〈和名與女(○○)、父母之呼二子妻一同、〉
p.0185 説文、㛮兄妻也、釋名、嫂叟也、叟老者稱也、叟縮也、人及物老、皆縮一小於舊一也、鄭玄注二喪服傳一云、嫂猶レ叟也、叟老人稱也、〈○中略〉按嫂屬二心母一、早屬二淸母一、草屬二精母一、三字其音皆不レ同、未レ知二此所レ音何據一、干祿字書、㛐嫂㛮、上俗中通下正、按禮嫂叔不レ相二爲服一、孟子、男女授受不レ親禮也、嫂溺援レ之以レ手權也、昭二十八年左傳注、子容母叔向嫂、是男子亦可下謂二兄妻一爲上レ嫂、然不レ可レ得下謂二弟妻一爲上レ婦也、〈○中略〉新撰字鏡、㛐訓二與女一、與下此言中與三父母之呼二子妻一同上合、今俗呼二阿爾與女、於止宇止與女一、按子之妻亦曰レ婦、
p.0185 嫂〈ヨメ謂二兄弟一妻一爲レ嫂、〉
p.0185 あによめ 嫂をよめり、兄の婦也、
p.0185 女子謂二兄之妻一爲レ嫂(アニヨメ)、弟之婦爲レ婦(オトフトヨメ)、
胤按、孟子曰、男女授受不レ親禮也、嫂溺援レ之レ以レ手權也、禮嫂叔不二相爲服一、據レ此則兄妻稱レ嫂者、不二特女 子一、雖下自二男子一而言上可也、禮曰、謂二弟之妻婦一者、是嫂亦可レ謂二之母一乎、故名者人治之大者也、可レ無レ愼乎、然則弟妻不レ可二單稱一レ婦也必矣、漢楚元王傳、過二其丘嫂(/サウレウアニヨメ)一、應劭曰、丘、姓也、孟康曰、西方謂二亡女婿一爲二丘婿一、丘、空也、兄亡空有レ嫂也、張晏曰、丘大也、師古曰、史記丘字作レ巨、丘巨皆大也、張説得レ之、又晉后妃傳、從嫂(トシ上ノイトコヨメ)蓋從兄之妻、
p.0186 姒婦 爾雅云、娣婦謂二長婦一爲二姒婦一、〈似反、和名於保與女(○○○○)、〉
p.0186 釋名、姒言下其先來已所上レ當二法似一也、新撰字鏡、姒娣並訓二與女一、
p.0186 姒婦〈オホヨメ〉
p.0186 娣婦〈ヲトヨメ〉
p.0186 娣婦 爾雅云、長婦謂二稚婦一爲二娣婦一、〈上音弟、和名於止與女(○○○○)、〉
p.0186 説文、娣女弟也、釋名、娣弟也、已後來也、或曰先後、以二來先後一弟レ之也、按於斗與女、於保與女、蓋謂二弟妻兄妻一、新撰字鏡云、弟妻曰レ娣、兄妻曰レ姒、是也、然儀禮喪服傳疏、成十一年左傳正義並爲二二婦互稱一、謂二年小者一爲レ娣、言娣姒從二身之少長一、非下兄妻呼二弟妻一爲二娣婦一、弟妻謂二兄妻一爲中姒婦上、爾雅邢昺疏從レ之、爾雅又云、女子同出、謂二先生一爲レ姒、後生爲レ娣、郭璞曰、同出、謂三倶嫁事二一夫一也、戴侗六書故云、謂二長婦稚婦一者、言二兄弟之妻一也、同事二一夫一、以レ齒爲二長弟一可也、兄弟之妻、焉得三以レ齒爲二長弟一乎、如皆以レ齒、則弟之婦亦可下謂二兄之妻一爲上レ娣矣、兄弟之妻自相號呼、而亦曰レ娣焉、則嫌三乎以爲二己姪娣一也、故兄弟之妻可レ謂二之娣婦一、而不レ可三單謂二之娣一、其相謂則皆曰レ姒、而別レ之以二叔伯一、穆妻謂二聲伯之母一爲レ姒、叔向之嫂謂二叔向之妻一爲二長叔姒一、是也、説者惑二於弟婦之稱一レ姒、遂謂下以二婦之長幼一爲中娣姒上、而不レ以二夫之長幼一、不二亦亂一レ名也哉、邵晉 亦以下賈氏孔氏娣姒從二身之少長一不上レ計二夫之兄弟一爲レ非、所レ辨著明、其説可レ從、然皆長婦呼二稚婦一、稚婦呼二長婦一之名、長婦長子之妻、稚婦季子之妻則非下泛呼二兄妻弟妻一之名上、則娣婦訓二於斗與女一、姒婦訓二於保與女一者、非レ是、新撰字鏡、娣字姒字㛐字皆單訓二與女一、
p.0187 長婦謂二稚婦一爲二娣婦(/アヒヨメ)一、娣婦謂二長婦一爲二姒婦(/アヒヨメ)一、
郭氏曰、今相二呼先後一、或云二妯娌一、
p.0187 女子同出、謂二先生一爲レ姒、後生爲レ娣、
郭氏曰、同出、謂三倶嫁事二一夫一、公羊傳云、諸侯娶二一國一、二國往媵レ之、以二姪娣一從、娣者何、弟也、此即其義也、
p.0187 私 爾雅云、女子謂二姉妹之夫一爲レ私、公私私字也、〈和名與レ壻同〉孫炎注云、謂レ無二正親一也、
p.0187 按説文、私、禾也、又云、厶姦衺也、韓非曰、蒼頡作レ字、自營爲レ厶、六書所レ謂指事也、
説文又云、公平分也、从二八厶一、八猶レ背也、韓非曰、背レ厶爲レ公、是公私字作レ厶、經典皆作レ私者、厶字單形難レ寫、故假二借禾旁字一耳、〈○中略〉今俗呼二阿禰无古以毛宇止无古一、男子謂二姉妹之夫一亦同、〈○中略〉釋名、姉妹互相二謂夫一曰レ私、言下於二其夫兄弟之中一、此人與二己姉妹一有中恩私上也、按姉妹之夫爲レ甥、見二爾雅一、然則自二女子一言レ之名レ私、自二男子一言レ之名レ甥、源君不レ擧者、蓋與レ私和名同而混レ之也、今俗是亦呼二阿禰牟古、以毛宇止牟古一、
p.0187 私(シ)〈ムコ 姊妹夫爲レ私〉
p.0187 女子謂二姉妹之夫一爲レ私(アネイモトムコ) 郭氏曰、詩云譚公維私、孫氏炎曰、謂二吾姨一者、我謂二之私一、邢侯譚公皆莊姜姉妹之夫、互言レ之耳、丘氏曰、今稱二姨夫一、
p.0187 兄公 爾雅云、夫之兄爲二兄公一、〈和名古之宇止(○)〉
p.0187 原書郭璞注、今俗呼二兄鐘一、語之轉、釋名、夫之兄曰レ公、公、君也、君、尊稱也、俗間曰二兄章一、章灼也、章二灼敬三奉之一也、又曰二兄伀一、言是已所レ敬、見レ之怔忡、自肅齊也、
p.0187 兄妐〈コシフト 夫之兄曰二兄妐一兄公イ〉
p.0187 夫之兄爲二兄公(ショウ/アニコジフト)一 丘氏曰、俗謂二之大伯一、釋名、俗間曰二兄章一、章灼也、章二灼敬三奉之一也、
p.0188 淸盛捕二化鳥一幷一族官位昇進附秀童幷王莽事
サレバ六波羅殿ノ御一家ノ公達ト云テケレバ、花族モ英才モ面ヲ向へ肩ヲ並ル人ナカリケリ、太政入道ノ小舅(○○)ニ平大納言時忠卿〈○淸盛妻ノ兄〉ノ常ノ言ニ、此一門ニアラヌ者ハ、男モ女モ尼法師モ、人非人トゾ被レ申ケル、
p.0188 叔 爾雅云、夫之弟爲レ叔、與一兄公一同、
p.0188 釋名、叔、少也、幼者稱也、叔亦俶也、見レ嫂俶然却退也、
p.0188 叔〈コシフト夫弟曰レ叔〉
p.0188 夫之弟爲レ叔(/オトヽコジフト)
丘氐曰、俗加以レ小、家禮考證、晉書、王衍妻郭氏謂二衍弟澄一曰、夫人臨レ終、以二小郎一屬二新婦一、不下以二新婦一屬中小郎上、又王凝之妻謝道蘊謂二凝之弟獻之一曰、欲下爲二小郎一解上レ圍、是小郎者夫之弟也、
胤按、隋牛弘弟 、嘗醉射二殺弘駕車牛一、其妻謂レ弘曰、叔射二殺牛一、猶爾雅之稱也、
p.0188 女公 爾雅云、夫之姉爲二女公一、〈和名古之宇止女(○○○○○)〉
p.0188 女妐〈コシフトメ 女公イ 夫之姊曰レ妐〉
p.0188 夫之姉爲二女公(シヨウ/アネコジフトメ)一
丘氏曰、俗謂二之大姑一、C 女妹
p.0188 女妹 爾雅云、夫之女弟爲二女妹一、〈和名與二女公一同〉又姉妹也、〈〇一本无二也字一、妹下有下之妹見二上文一五字上、〉
p.0188 按源君所レ見爾雅、蓋脱二女字一、單作レ妹、故注云、又姉妹之妹、與二私條注云、今案公私之私字也、婦條注云、又夫婦之婦也一一例、皆明二字同義異一也、所レ引爾雅、若作二女妹一、不レ應二注云如一レ此、則作二女妹一者、疑係下後人依二原書一校增上、今不二遽增一、袁廷檮曰、釋親云、夫之女弟曰二女妹一、郭璞注、今謂二之女妹一、 按爾雅正文女妹、當レ作二女叔一、禮記昏義、和二於室人一、注、室人謂二女妐女叔諸婦一也、正義曰、女叔謂二壻之妹一也、夫之弟爲レ叔、故女弟爲二女叔一、爾雅本作二女叔一、故郭注云、今謂二之女妹一、若爾雅作二女妹一、郭氏必不二如レ此下一レ注矣、其説可レ從、然唐石經及宋版爾雅、皆作二女妹一、謬來已久、源君所レ見亦不レ作二女叔一也、
p.0189 女妹〈コシフトメ夫之女弟曰二女妹一〉
p.0189 夫之女弟爲二女妹(/イモトコジフトメ)一
丘氏曰、自レ唐以來、稱爲二、小姑一、故詩有下先遣二小姑嘗一之句上、
p.0189 婦兄 辨色立成云、婦兄婦之兄也、
p.0189 按婦兄弟、即下條甥是也、
p.0189 婦弟 辨色立成云、婦弟婦之弟也、
p.0189 婦兄〈コシフト婦之兄也〉
p.0189 甥 爾雅云、妻之昆弟曰レ甥、〈音生、和名古之宇斗(○○○○)、〉
p.0189 原書曰作レ爲、釋名、妻之昆弟曰二外甥一、其姉妹女也、來歸二己内一爲レ妻、故其男爲二外甥一、甥者生也、他姓子本生二於外一、不レ得レ如三其女來在二己内一也、〈○中略〉按甥即婦兄弟、複出非レ是、無者爲レ是、又按姉妹之子亦曰レ甥、見二兄弟類一、又姑之子曰レ甥、舅之子亦曰レ甥、於二從父兄弟及從母兄弟條一辨レ之、姉妹之夫亦曰レ甥、於二私條一辨レ之、姑之子以下、源君皆不レ載、
p.0189 妻之晜弟爲レ甥(メカタノコジフト)
釋名、外甥、類書纂要、稱二外甥一曰二宅相一、品字箋今世俗以二妻之兄弟一皆呼曰二舅想一、因三其子之呼二母舅一、而假二借之一者也、
謂二我舅一者、吾謂二之甥一也、
胤按(○○)、姑之子(○○○)、舅之子(○○○)、妻之昆弟(○○○○)、姉妹之夫(○○○○)、四人體敵(○○○○)、皆可レ稱甥(○○○○)、而又以稱二姉妹之子一、稱二姉妹之孫一、稱二女 子子之夫一、然謂二我舅一者吾謂二之甥一、則呼二姉妹之子一、與レ稱二女壻一、蓋其正名也、故文字所レ稱、皆稱二姉妹之子一、夫名者人治之大者也、殊二其稱呼一、欲レ不二相混一也、而四者同レ稱、其可乎哉、善乎丘氏之言曰、古之人造レ字立レ名之始、何獨詳二於物一而略二於人一哉、如下舅之一名、或以呼二夫之父一、或以呼二姑舅之子、妻之晜弟、姉妹之夫、女子之壻一、乃至昆弟之子、惟女子稱レ姪、而無中男子之稱上、其中類多二假借混同者一、顧乃於二艸木蟲魚之品一、條分而類二別之一、釋レ名者、於二一馬之賤一、因二其毛色一、而有二數十種之稱一、造レ字者、於二一玉之微一、隨二其形色一、而有二數百品之別一、人家親屬稱呼、乃人倫之大綱、名正然後言順、然後上下相安、而可三以致二肅雝之治一、非二細故一也、
p.0190 姑之子爲レ甥(/タメウノイトコ)
儀禮姑之子注、外兄弟也、疏、姑是内人、以二出レ外而生一故也、會典、姑之子謂二之表兄弟一、即姑舅兄弟、
胤按、父之姉妹之子、
舅之子爲レ甥(/ハヽカタノイトコ)
儀禮舅之子注、内兄弟也、疏、對二姑之子一云二舅子一、本在レ内不レ出、故得二内名一也、會典、舅之子謂二之内兄弟一、即姑舅兄弟、〈○中略〉
胤按、母之昆弟之子、杜甫別二李義一詩、中外貴賤殊、余亦忝二諸孫一、邵寶注云、宗(/トウメウ)姓爲レ中、異(/タメウ)姓爲レ外、
姉妹之夫爲レ甥(/アネイモトムコ)
郭氏曰、四人體敵、故更相二爲甥一、甥猶レ生也、今人相呼蓋依レ此、丘氏曰、後世所レ謂甥者(/タメウノヲイ)、止以稱二姉妹之子一、而臨レ文者、或以呼二人之壻一、而謂二姑舅之子一爲二中表兄弟一、朱子語類云、舅子謂二之内兄弟一、姑子謂二之外兄弟一、爾雅雖二古書一、然且當レ從レ俗、不レ然駭二、人之見聞一也、
p.0190 姨 爾雅云、妻之姉妹同出爲レ姨、〈夷反、與二女公一同、〉一云〈伊毛之宇止女</rb><rt>○○○○○○</rt></ruby>、〉
p.0190 説文亦云、妻之女弟、同出爲レ姨、釋名只云、妻之姉妹曰レ姨、姨弟也、言下與二己妻一相 長弟上也、母之姉妹曰レ姨、亦如レ之、按母之姉妹亦曰レ姨、見二父母類一、
p.0191 姨〈イモシフトメ爾雅云、妻之姉妹、婦之姉妹曰レ姨、〉 イモウトメ
p.0191 httpss://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00243.gif 〈ヨメ爾雅云、妻之姉妹、イモウトメ、〉
p.0191 姨〈コシフトメ婦姉妹也、訓與二女姑一同也、〉 婦弟〈已上同訓、與二女姑一同、〉
p.0191 妻之姉妹同出爲レ姨(/メカタノコジウトメ)
郭氏曰、同出謂二倶レ己嫁一、詩云邢侯之姨、丘氏曰、今稱レ同、釋名、妻之姉妹曰レ娣、娣、弟也、言下與二己妻一相長弟上也、