p.0702 鬭爭ハ、一ニ喧嘩ト云フ、膂力ヲ以テ互ニ相爭フヲ謂フナリ、而シテ單ニ言論ノミヲ以テ他ヲ壓シ、若シクハ之ニ侮辱ヲ加ヘントスルヲ口論ト云フ、亦此ニ倂載セリ、
p.0702 喧嘩(ケンクワ) 鬪諍(トウシヤウ)
p.0702 諠嘩カマヒスシ
p.0702 五十一年、初日本武尊、〈○中略〉所レ獻二神宮一〈○熱田〉蝦夷等晝夜喧嘩(ナリトヨキテ)、出入無レ禮、
p.0702 諠嘩(ケンクハ)〈左傳、漢書、〉諠嘩(同)〈見二武備志軍中禁令條下一〉 口論(コウロン)
p.0702 含藝里、〈○中略〉又有二酒山一、大帶日子天皇〈○景行〉御世、酒泉涌出、故曰二酒山一、百姓飮者、卽醉相鬪相亂、故令二埋塞一、
p.0702 元慶五年正月、是月、東京一條兒童數百會聚、相鬪作二戰陣之琺一、若二成人之爲一也、
p.0702 善相公與二紀納言一口論事
又談レ被云、善相公〈○三善淸行〉與二紀納言一〈○紀長谷雄〉口論之時、善相公云、無才博士ハ、和一奴志輿利始也砥云介利、于レ時紀家秀才也云々、以レ之思レ之、善家無レ止者也、
p.0702 一條院御時、實方與二行成一於二殿上一口論之間、實方取二行成之冠一、投二棄小庭一退散云々、行成無二繆氣一、靜喚二主殿司一、取二寄冠一擺レ砂著レ之云、左道ニイマスル公達哉云々、主上自二小蔀一御覽ジテ、行成ハ召仕ツベキ者也ケリトテ、被レ補二藏人頭一、〈于レ時備前介、前兵衞佐也、〉實方ヲバ謌枕ミテマイレトテ、被レ任二睦奧守一云々於二任國一逝去云々、
p.0702 後朱雀院御誕生五夜産養之時、左少蔣伊成〈入道中納言義懷息也〉被二陵礫一之間、不レ雄二其責一、以 レ笏敺二右兵衞佐能信之肩一、仍藏人定輔、伊成ヲ自レ緣突落、召二集能信之家人一執レ髮踏臥、以二續松一令二敺陵一云云、依レ之伊成後日出家云々、
p.0703 靜賢法印のもとに、馬允なにがしとかや、ゆゝ敷力つよく、けなげ有男有けり、或時こともあらぬ小冠と、双六をうちける程に、口論をしあがりて、此小冠を引寄て、へその下をつきてげり、柄口迄つきたりければ、いきごとすべくもなかりけるに、小冠者少もおどろきたるけしきもなく、やがて敵にしがみつきて、刀をうばひ取て、さしも大力の大男を押ふせて、うへに乘て刀をさしあてゝ、旣にころしてんとしけるが、いかゞ思けん、先わが腹をかき出して、きずを見て云樣、汝これほどに成たれば、害せん事滯有べからず、但我きず痛手にて必死すべき身也、功德に汝か命たすけん、最後に罪つくりてよしなしと云て、事なくておはりぬ、さて法印の前に行て、かゝる事こそ候つれとて、事の次第始めより申て、やがてたふれ臥て死にけり、〈○下略〉
p.0703 額うち論の事
さるほどにおなじ七月〈○永萬元年〉二十七日、上皇〈○二條〉つゐにかうぎよなりぬ、〈○中略〉御さうそうの夜、延曆興福兩寺の大衆、がくうちろんといふ事をし出して、たひがにらうぜきにおよぶ、一天の君ほうぎよ成て後、御むしよへわたしたてまつる時のさほうは、南北二凉の大衆、こ己〴〵く供奉して、御む所のめぐりに、我が寺々のがくをうつ事有けり、まづしやうむてんわうの御ぐはんあらそふべき寺なければ、東大寺のがくをうつ、つぎにたんかいこう〈○藤原不比等〉の御ぐはんとて、興福寺のがくをうつ、北京には興福寺に向へて、延曆寺のがくをうつ、次に天武天皇の御ぐはん、敎待和尚、智證大師のさう〳〵とて、園城寺のがくをうつ、しかるを山門の大衆、いかゞおもひけん、ぜんれいをそむひて、東大寺のつぎ、興福寺のうへに、延曆寺のがくを打あひだ、南都の大しゆ、とやせまし、かうやせましと、せんぎするところに、こゝに興福寺のさいこうだうじゆ、くはんをんば う、せいしばうとて、聞えたる大あくそう二人ありけり、くはんをんばうはくろいとおとしのはらまきに、しらえのなぎなたくきみじかにとり、せいしばうは、もよぎおどしのようひき、こくしつの大だち持て、二人つとはしり出、延曆寺のがくをきつて、おとし、さん〴〵にうちわり、うれしや水、なるはたきの水、日はてるともたえずとうたへと、はやしつゝ、南都のしゆとの中へぞ入にける、
淸水ゑんじやうの事
山門の大しゆらうぜきをいたさば、てむかひすべきところにごゝろふかう、ねらうかたもや有けん、一ことばもいださず、〈○中略〉おなじき二十九日の午こくばかり、山門の大衆おびたゞしう下らくすと聞えしかば、〈○中略〉され共山門の大しゆ六波羅へは寄ずして、そゞうなる淸水寺にをし寄て、佛閣僧ばう一宇も殘さず皆やきはらふ、是はさんぬる御さうそうの夜の、くはいけいのはちをきよめんがためとぞ聞えし、淸水寺はこうぶくじの末寺たるによつてなり、
p.0704 元曆二年〈○文治元年〉十一月廿五日甲辰、豐明宴會也、〈○中略〉傳聞御前試夜、少將雅行與二侍從定家一、有二鬪諍事一、雅行嘲二哢定家一之間、頗及二濫吹一、仍定家不レ堪二忿怒一、以二脂燭一打二雅行一了、〈或云、打レ面云々、〉依二此事一定家除籍畢云々、
p.0704 建久五年六月卅日己未、於二武藏國大河戸御厨一、久伊豆宮神人等、喧嘩出來之由、有二其聞一、依二驚思食一、爲レ令二尋沙汰一、被レ下二遣掃部允行光一、云云、
p.0704 仁治二年十一月廿九日壬子、未剋若宮大路、下々馬橋邊騷動、是三浦一族、與二小山之輩一有二喧嘩一、兩方緣者、馳集成レ群之故也、前武州〈○北條泰時〉太令レ驚給、卽遣二佐渡前司基綱、李左、衞門尉盛綱等一、令レ宥給之間靜謐云云、事起爲、若狹前司泰時、能登守光村、四郎式部大夫家村以下、兄弟親類、於二下下馬橋西頰好色家一、有二酒宴亂舞會一、結城大藏權少輔朝廣、小山五郎左衞門尉長村、長沼左衞門尉時 宗以下一門、於二東頰一又催二此興遊一、于レ時上野十郎朝村〈朝廣舍弟〉起二彼座一、爲二遠笠懸一向二由比浦一之處、先於二門前一射追二出犬一、其箭誤而入二于三浦會所簾中一、朝村令三雜色男乞二此箭一、家村不レ可二出與一之由骨張、依レ之及二過言一云云、件兩家有二其好一、日來互無二異心一、今日確執、天魔入二其性一歟云云、 卅日癸丑、駿河四郎式部大夫家村、上野十郎朝村、被レ止二出仕一、咋日喧嘩、職而起レ自二彼等武勇一云云、凡就二此事一預二勘發一之輩多レ之、雖レ非二指親昵一、只稱二所緣一、相二分兩方一、與二本人等一同令二確執一之故也、又北條左親衞者、令三祗候人帶二兵具一、被レ遣二若狹前司方一、同武衞者、不レ及レ被レ訪二兩方子細一、依レ之前武州御諷詞云、各將來、御後見之器也、對二諸御家人事一、爭存レ惡乎、親衞所爲太輕骨也、暫不レ可レ來、前武衞斟酌頗似二大儀一、追可レ有二優賞一云云、次招二若狹前司、大藏權少輔、小山五郎左衞門尉一、被レ仰曰、互爲二一家數輩棟梁一、尤全レ身可レ禦二不慮凶事一之處、輝二私武威一、好二自滅一之條、愚案之所致歟、向後事殊可レ令二謹愼一之由云云、皆以敬屈、敢無二陳謝一云云、
p.0705 佐竹家ノ浪人某十云者、カノ丹前風ニ出立チ、長刀ヲ指歩キ、往來ノ人ナドニ爭論ヲシカケ、其者ニ誤マラスヲ面白シトテ、武士町人ノ差別ナク、論ヲシカケル也、尤此者ガ自慢ニテ、ヤヽトモスレバ、合手ノ者ノ腕腰ヲ痛メナドスル故、人々恐レケルヲ、猶面白ガリテアバレ歩ク也、太田太郎左衞門其事ヲ聞キ、惡キ奴哉、往來ノ者ノ妨ゲヲスル奴、我出合ナバ取リヒシギ呉ント、日々遠近往來シケルニ、カノ者トオボシキ者行キ當リ、忽チムナグラヲ取リ惡口ス、太郎左衞門其手ヲシカト捕ヘテ、此頃往來ノ者ノ妨ゲヲスル浪人者アリト聞ケリ、大カタ其方ナラント云ナガラ、其手ヲ子ジ上ゲケルニ、骨折レ肘ノツガヒ放レ、手キカズ成リシト也、
p.0705 神田橋ヨリ龍ノ口へ通道ニテ喧嘩有リキ、其故御書院番渡邊源藏、大手ヨリ出、神田橋ノ方へ趣ク所ニ、水野日向守徒士ノ者四人、神田橋御門内出羽守屋シキヨリ出迎ニ大手下馬へ趣ク、御禮日ニ烹往還込合ケル故ニ、歩行ノ者一人源藏ガ供ヲ割タリ、生得ノ源藏氣早キ者ニテ、手廻リニ風流者ヲ抱へ置タレ、バ、若黨慮外者ト稱シテ、件ノ徒士ヲ突走ラシム、彼徒士立 留マリタリシガ、雜兵ヲ見テ源藏馬ヨリ下知シテ、慮外者切レト云シカバ、若黨共刀脇差ヲ拔テ矢庭ニ是ヲ切殺ス、然ルニ殘ル所ノ徒士ハ少々行過タリケルガ、顧リミテ三人拔連レテ切テカカル、源藏馬ヨリ飛下リ、十文字ノ鎗ヲ取テ忽チニ一人突伏セタリ、二人猶相働ラキケル、源藏馬ノ口取ヲ切伏セ、此間ニ方々ノ辻番所ヨリ大勢出合、左右ニ分タリ、下馬ニ腰掛居タリシ出羽守ガ徒士、傍輩ノ者喧嘩ト聞、十六七人走リ來、コレニ依テ中小姓仲ケ間小人ニ至ルマデ六十七人走リ來リテ、源藏ヲ取寵ル、神田橋御門上番ノ士共一兩人、足輕ヲ引具シテ來リテ、兩方ニ相隔ツ、出羽守屋敷近所故、家人等追取刀ニテ数十人走リ來ル、兩御番衆ハ御城ヲ替リノ時分ナレバ段段來リ、源藏相番ハ勿論知ル人モ知ラヌ人モ來合、源藏ト一所ニ集リタル、已ニ珍事ニ及バントス、此事御城内へ相知レ、御徒士目付來リテ源藏ヲ先井上河内守宅ニ入レ、出初守家人共ハ下馬へ遣ハシ、或ハ屋敷ヘモ分ケ遣ハシ、兩方詮議セシム、口上書ノ内、死人共ヲ片付ヨトテ、御徒士目付ハ登城ス、コレニ依テ靜ニ右之段御徒目付委細申シ上ル、依テ上聞ニ達スル所ニ、源藏ハ御直參、彼等ハ倍臣、殊ニ慮外ナレバ、子細ナク相濟ケリ、
p.0706 鬪爭之起自レ少及レ大、匪二啻鬪雄一、多以レ決レ死、凡有二血氣一、皆有二爭心一、能忍二小忿一勿レ致レ奮、未然可レ愼云々、然而先賢間有レ之、後愚誡レ何、
p.0706 一喧嘩之事、不レ及二是非一可レ加二成敗一、但雖二取懸一、於下令二堪忍一之輩上者、不レ可レ處二罪科一、〈○下略〉
p.0706 掟〈○中略〉
一喧嘩口論堅停止之事、善惡手初謹而可二堪忍一、背二此旨一互及二勝負一者、不レ寄二理非一双方可二成敗一、〈○中略〉
慶長二年三月廿四日 盛親〈在判〉
元親〈在判〉
p.0706 甲州ノ小山田故備中ノ話ニ、人々ノ不和ナルヲ取扱ヒテ、和熟セシムル節ハ、少シ 高下アル人ニブモ、其節計リハ高下ノ差別ヲ付ズシテ、取扱フベキ事、第一ノ心得也、盃モ同樣ナルヲ二ツ出シ、同樣ニ飮セ同樣ニ納ムベシト云シ、寬永ノ頃、内藤左馬助長政方へ、伊達政宗ヲ招カレシ時、兼松又四郎モ同席ニ在リ、伊達用事有テ、兼松ガ傍ヲ通ル時、袴ノ裾兼松ガ膝ニ掛リケル、兼松怒テ扇ヲモテ、伊達袴腰ヲ打ケル、此時伊達供ノ士イカニシテ聞誤リケン、主人政宗ハ兼松又四郎ニ討レタリト聞キ、供方一同騷動ニ及ビ、且屋敷ヘモ其趣キニ註進シケレバ、屋敷ヨリ多人數押寄セ、内藤モ兼松モ討取ント、旣ニ玄關へ打入シ所へ、伊達政宗自身出テ制サレシ故、馳付シ者一同安心シテ歸リケル、サテ内藤ハ伊達ト兼松ノ和熟ヲ調ント、種々取扱ヒ、雙方共承引シテ一席ニ出ル、内藤盃ヲト云、小性盃ヲマヅ伊達へ出ス、伊達其盃ヲ受テ兼松へ送ル、兼松其盃ヲ取テ忽チ押碎、スハヤ事破レタリト、一席ドヨメク所ニ、内藤心付キ新タナル盃ヲ二ツ持來リ、雙方ノ前へ備フ、是ニ因テ伊達兼松同樣ニ盃ヲアゲ、漸和義調ヒケル、夫ヨリ盃追々廻リテ、兼松ガ前ニ來ル時、伊達ツト立テ肴申サントテ、曾我ヲ舞ヒナガラ、打テ腹ガイユルナラ、ウテヤウテヤ犬坊ト歌ハレシハ、サスガ政宗也ト、一席ノ人々感ジケルト也、又兼松モ小身ニ在ナガラ、大身ノ伊達へ對シ、少シモオクレヲ取ラザルハ勇士也ト、人々賞シケルトナリ、
p.0707 藤堂家二代目高次ノ世ニ、先年大坂夏御陣ニテ討死セシ一門家老ノ子供、父ノ戰功ノ甲乙ヲ雜談セシガ、互ニ意地ヲタテ、終ニ鬪論ニナリヌ、其一方ハ藤堂新七、相手ハ藤堂仁右衞門ナレバ、總家中ノ士モ二ツニ分レテ、旣ニ珍事ニ及ントス、爰ニ藤堂采女トイフ家司、初ヨリ何方ヘモ不レ抱、中ニ立テ勤メケルガ、爭論ノ事無異ニ治ルベクモ見エザレバ、國家ノ大事ヲ思慮シ、同役其外頭取タル者ヲ集メテ相ハカリ、新七仁右衞門ヲ招キケル、各隔意ノ輩、兩人ノ頭取ヲ先ニ立テ、采女方へ入來リヌ、少頃アリテ亭主一同へ挨拶シ、サテ今日御銘々申請ノ儀、餘ノ子細ニアラズ、何レモ御亡父方ノ戰功ヲ吟味ヨリ事起リ、確執出來テ、コレニ依テ元ヨソ遣恨ナキ相 組ノ中モ不通ニ及ビ、其上家士共モ私ノ事ニテ、主君高次ノ御身ノ上迄モ危キニ至ルハ、人臣タル者ノ所行ニアルベキヤ、又各先祖幷ニ亡父ニ對シテ、子タル者ノ志ト云フベキヤ、然ラバ君ニ對シテハ大不忠、亡父へ對シテハ大不孝ナリ、カヽル不忠ノ者、イカンゾ其君ノ祿ヲ食ンヤ、各只今切腹アルベシ、某初ヨリ此事ニ少シモ抱ラズト雖モ、此時宜ニ及ンデ、餘所ニハナガメマジケレバ相伴申ベシ、夫々下知シケレバ、兼テ用意セシ短刀ヲ三方ニ載テ、銘々ノ前ニ置シ時、采女又曰、各無益ノ爭論ヨリ命ヲ捨テラルヽハ、誠ニ犬死トヤ云ン、サラバ忠孝ノ道ニ立返リテ、雙方一和シ、向後忠義ヲ立テラレントナラバ、只今和談アルベシ、マタ忠孝モ顧ズシテ、我意ヲ立ントノ事ナラバ、某手本ヲ仕ルベシト、押肌脱テケリ時ニ仁右衞門、新七ニ向テ云、誠ニ亭主ノ節義尤ナリ、某老年ナレバ、發言イタスナリ、何レモ和談アルマジキヤ、第一主君へ對シ大不忠ナルノミナラズ、我々ハ死シテモ家中ノ面々、大勢切腹ナクテハ、騷動ノ初メナリ、何レモ如何思召ヤト申出シケレバ、新七モ同ジク道理ニ伏シ、打解タル挨拶シケレバ、其餘ノ一座一同ニ感伏シテ、亭主ノ忠臣ヲ賞シケリ、其上ニテ仁右衞門女ヲ新七嫁ニ、此内談ノ席ニテ申合セケルトナリ、誠ニ藤堂家ノ危難、旦タニ及ビケルヲ、采女ガ忠臣ニヨリテ、忽チ和談シケルハ、戰場ニテノ討死ニ、忠功百倍ナリト申アへリ、