p.0309 鹿(○)〈麑附〉 陸詞切韻云、鹿〈音祿、和名加、〉斑獸也、爾雅集注云、牡鹿曰レ麚(○)、〈音家、日本紀私記云、牡鹿佐乎之加、〉牝鹿曰レ麀(○)、〈音憂、和名米加、〉其子曰レ麑(○)〈音迷、字亦作レ麛、和名加吳、〉
p.0309 説文、鹿獸也、象二頭角四足之形一、鳥鹿足相似、从レ匕、李時珍曰、鹿馬身羊尾、頭側而長、高脚而行速、牡者有レ角、夏至則解、大如二小馬一、黃質白斑、俗稱二馬鹿一、牝者無レ角、小而無二毛雜一、黃白色、俗稱二麀鹿一、〈○中略〉仁德三十八年紀有二牡鹿一、訓二之加一、顯宗卽位前紀訓注、牡鹿此云二左鳴子加一、則知所レ引私記顯宗紀也、本居氏曰、佐美稱、與レ眞通、故古事記作二眞男鹿一、地名有二加稱レ佐者一、有二加稱レ眞者一、其義同、如二佐檜隈、眞熊野一是也、是可レ知三佐乎之加之爲二眞牡鹿之義一、然則佐衣、佐筵、佐夜、佐寢之佐、亦卽與レ眞通之佐、同美稱也、〈○中略〉按仁德紀、牝鹿訓二女之加一者、恐非レ古、〈○中略〉爾雅、鹿牡麚、牝麀其子麛、郭無レ注、此所レ引蓋舊注也、説文、麚牡鹿、麀牝鹿、麛鹿子、皆與二爾雅一合、隱十一年左傳正義、牡鹿之名レ麚、猶二牡豕之名一レ貑也、王引之曰、麚之言假也、爾雅釋詁、假大也、故獸之牡者名レ焉、按爾雅釋文、麛本或作レ麑、源君所レ據本亦作レ麑也、魯語、獸長二麑䴠一、韋昭解鹿子曰レ麑、論語麑裘、皇侃疏、麑鹿子、皆是、按麑後世會意字、與二説文狻麑形聲字一自別、
p.0309 鹿鹿〈今正音祿和名カ〉 麑〈音迷、五號反、カコ、〉 麛 䴥 〈俗通正、音加、牡鹿カノシヽ(○○○○)、〉サヲシカ、 麀〈音憂、牝メカ、〉 〈或〉
p.0310 鹿〈カセキ(○○○)、カノシヽ、〉 麑〈カコ鹿子〉 麛
p.0310 鹿 を さを 秋〈淸抄〉 きたちなぐの〈万〉 きなくとも〈万〉 こよひはなかずいねにけらしも かたぬくしかと云は、鹿のかたのほふをとりて、えひするうらをするなり、 又占部とも云 万九、あきはぎを鹿のつまとはいふ也、さてはなのつまとはいふ、すがる〈異名也〉 はちをもすがると云といへども、以レ鹿爲二正説一、 かせぎ わひなき万 しかのしがらみとは、萩の中に入ほどにむすぼゝれたる也、山よひとよみ 又山したとよみ 但このとよみの言、歌合に被レ咲事なり、 しろしか日本紀 日本武尊信の山にて、ひるをなげかけ給しか也、 伊勢大輔云、さをしかはかならずちゐさからねど、おほきならぬをばよむべし、
p.0310 鹿(シカ) しろくして臭ある也、かのしゝとは、かあしき肉也、
p.0310 鹿シカ 舊事紀に、眞名鹿讀てマナカと云ふ、また眞牡鹿と見えしをば、古事記には、眞男鹿としるしたり、眞名といひ、眞といふが如きは、美稱也と見えたれば、古には牡鹿をばヲシカと云ひしとぞ見えたる、カといひ、シカといふ、並に義不レ詳、〈纂疏に、天斑駒といふものは、一説に鹿名也といふとしるされたり、其代に鹿をば眞名鹿、眞牡鹿などもいひしに、亦呼て斑駒といふべき事とも思はれず、斑駒といひしは別に其物ありぬべけれど、義旣に隱れしかば異なる説もありしなるべし、〉
p.0310 しか 鹿をいふ、肉香の義にや、角の岐の數によりて聲を發す、よて四聲を限るもの也と、山家の説也、角に十二の岐あるもの、南都正倉院の寶物たり、又楓の形したるもあり、軍用にせし事多く見えたり、眼科には角を角石といふ、〈○中略〉ともしの鹿は、鹿兒にて鳴ぬものなりといへり、〈○中略〉史に多入レ鹿爲レ證二前言一といふ事見えて、叛意なきの旨を明せり、さをしかの八耳より出たるにや、春日に鹿を神使といへるは、第一殿は鹿島神にて、神幸の時、鹿に乘たまふよし、古記に見えたり、よて春日嚴島ともに鹿民家に多くて犬の如し、〈○中略〉鹿を追者は山を見ずとは、淮南子に逐レ獸者目不レ見二大山一と見ゆ、
p.0311 さがにまかりて、鹿のなくを聞てよめる、
をしか(○○○)鳴この山里のさがなればかなしかりけり秋の夕ぐれ
p.0311 一シヽ(○○)ヲ鹿ト云歟
常ニハカノシヽニ限リテシヽト計云歟、但日本紀ニハ、鳥獸ト書テ、トリシヽト讀マセタリ、諸獸ニワタル詞歟、猪鹿ニ限リテ云フメリ、
p.0311 白鹿は、斯漏伎加(シロキカ)と訓べし、和名抄に鹿、和名加とあり、〈鹿は加と云ぞ正しき名なる故、萬葉の歌を考るに、鹿一字を書る處は、何れも加と訓て宜きを、今本にみなシカと訓るは非なり、シカと訓ては、皆句の調わろし、心を著べし、志加と云處には牡鹿と書たり、されば志加と云は、牡鹿に限れる名と聞えたり、シカと訓べき處に、たゞ鹿と書るは、集中にいくばくもわらず、さて和名抄に、牡鹿、佐乎之加、牝鹿米加、麑加吳(カゴ)とあり、又かのしゝと云も、猪をゐのしゝと云と同じくて、加と云名なればなり、其外地名或は借字などにも、凡て鹿字は加と云に用ひたり、是其正しき名なるが故なり、然るにかせぎと云を、古名と心得て、書紀などにても然訓るは、中々にひがことなり、凡て尋常に異りて耳なれざる言を以て、古言と心得るはひがことなり、鹿をかせぎと言ことも、正しくに見えたることなし、其はたゞ春日ニ祭ル神の内なる、鹿島神の、東國より大和に來坐し事を傳へたるに、かせぎに乘てと云るのみなれば、是もかの父母をかぞいろはと云と同じ類と知べし、〉
p.0311 ざをしか(○○○○)
故鈴の屋大人のいはれしは、萬葉集なる、鹿の字は、みな加とよむべし、しかとよみては、いづれも文字あまりて、しらべわろし、しかにはかならず、牡鹿と牡の字をそへてかけり、心をつくべし、鹿の字をしかとよみてよろしきは、わづかにひとつふたつなりといはれき、此考によりて、ある人さをしかの事を、しかは牡鹿のこと、さはそへていへる詞にて、をは小のこゝうなちんといへり、かの萬葉集に、左小牡鹿ともかきたれば、げにさることのやうなれど、よくおもひめぐらすに、さにはあらじ、さと小とかさねていへる例も見えず、さはそへていふ詞、をは男にて、しかは鹿なるべし、和名抄に鹿〈和名加〉とあれども、昔よりしかともいひつらんとおもはるゝは、同書に麋〈於保之加〉新撰字鏡に、麞〈久自加、又於保自加、〉とあるは、皆大鹿のこゝろにて、大牡鹿の心にはあらず、又萬葉集八の卷、〈三十〉 〈八丁に〉呼立而(ヨビタテヽ)、鳴奈流鹿之(ナクナルシカノ)、同卷、〈三十九丁に〉猪養山爾(イカヒヤマニ)、伏鹿之(フスシカノ)、同卷、〈四十八丁に〉秋芽子師努藝(アキハギシヌギ)、鳴鹿毛(ナクシカモ)同卷、〈同丁に〉山下饗(ヤマシタトヨミ)、鳴鹿之(ナクシカノ)、同卷、〈四十九丁に〉秋野乎(アキノヌヲ)、旦往鹿乃(アサユクシカノ)と見えたる歌ども、みなしかとよむべく、かとよみては、しらべとゝのはねば、鹿をしかともいひしこと、いよ〳〵さだかにて、牡鹿にかぎりていふ名にはあらざるなり、萬葉集にしかといふに、をり〳〵牡鹿ともかけるは、ことわりをもて、牡といふもじをそへたるものぞ、さるは鹿を歌によむは、鳴聲をめでゝの事にて、すべてみな牡鹿のうへをいへればなり、故大人はこの事に心つかれずして、おもひあやまられたり、かみのくだりにもいへるごとく、八の卷ひと卷にも、鹿といふもじを、加とはよまれぬ歌五つあれば、萬葉集なるはみな加とよむべしとは、いはれぬことなるをや、
p.0312 白髮天皇〈○淸寧〉二年十一月、播磨國司山部連先祖、伊與來目部小楯、於二赤石郡一、親辨二新嘗供物一、〈一云、巡二行郡縣一收二歛田租一也、〉適會二縮見屯倉首一、縱賞新室以レ夜繼レ晝、〈○中略〉天皇〈○顯宗〉次起、自整二衣帶一、爲二室壽一曰、〈○中略〉吾子等、〈子者男子之通稱也〉脚日木此傍山牡鹿(サヲシカ)之角〈牡鹿此云二左鳴子加(○○○○)一〉擧而吾儛者、〈○下略〉
p.0312 一眞男鹿(O O O )、古事記にあり、是にマヲシカと訓を付たる本あり誤也、サヲシカとよむべし、眞ノ字ヲサネとよむ也、ネを略してサヲシカ也、〈マヲシカと云ことハ例なき名目也〉
p.0312 内二拔天香山之眞男鹿之肩一拔而、取二天香山之天波波迦一、〈此三字以レ音、木名、〉
p.0312 眞男鹿(マヲシカ)、書紀に眞名鹿(マナカ)ともあり、眞(マ)は稱辭なり、又書紀顯宗卷に、壯鹿此云二左鳴子加(サヲシカ)一とありて、佐袁鹿(サヲシカ)てふ名は、常に多く云めれど、眞男鹿(マヲシカ)と云るは他には見ず、〈故思に佐衣(サゴロモ)、佐筵(サムシロ)、佐夜(サヨ)、佐寢(サヌル)など多く付云佐は眞と通ふなるべし、地名にも佐檜隈(サヒノクマ)とも眞(マ)熊野とも云る通ひて聞ゆろをや、〉
p.0312 すがる(○○○)なるの
春なればすがるなる野のほとゝぎすほと〳〵いもにあはずきにけり
顯昭云、〈○中略〉草のすのかれてかるくなると云歟、〈○中略〉但古今歌に、 すがるなく秋の萩原あさたちて旅行人をいつとかまたん
此すがるをば、無名抄、綺語抄、奧儀抄、童蒙抄等に、みな鹿を云といへり、或はわかきしかともいへり、たしかなる證文は見えねども、かやうに申傳へつれば、和歌の事はさてこそは侍れ、其中奧儀抄には、さそりと云虫をもすがると云、〈○下略〉
p.0313 しかは、しゝともかせぎ(○○○)ともいへり、しか、かせぎ、ともに日本紀にみえたれど、歌にはしかとのみよめり、すがるはさそりといふ蜂なるを、誤りて鹿とおもへり、日本紀第十四にみえたり、
p.0313 鹿をかせぎといふ事
鹿をかせぎといふを、古の名と思ふめれど、此名すべて古書に見えたることなし、たしかならぬ名なり、おもふに和名抄の僧坊具の中に、鹿杖といふ物をあげて、加勢都惠(カセヅエ)としるせるはいかならむ、
p.0313 かせぎ 日本紀に鹿をよめり、角の體桛に似たるよりの名也といへれど、鹿柵(カセキ)を直に其物に呼たるなるべし、〈○中略〉伊豆風土記に、鹿柵の射手といふ事見えたり、しかふせぎの訓なるべし、
p.0313 寂然大原に住侍けるに、高野より山ふかみといふ事を上におきて、十首歌よみてつかはしける中に、 西行法師
山ふかみなるゝかせぎのけぢかさに世にとほざかるほどぞしらるゝ
p.0313 鹿をすがる又かせぎともいふ由
鹿の一名をすがるといふ由は、顯昭法橋の袖中抄すがるの條に、〈○中略〉見えたるぞはじめなる、さて鹿をすがるといふよしは、鹿はあるがなかに、長高く瘦弱たるが立てるさまの、腰のことに細 くみゆるものなれば、蜾 の腰の細きに譬へて、野山に近き里人などの目馴たるまゝに、あだ名にすがると呼たるが、おのづから世にもあまねき一名となれるものなるべし、〈山里人云、鹿は肩胸のかたは强くて、腰の弱きものなり、狩すとて鹿柵に追入れ、或は雪になづみたるを、腰のつがひをつよく打てば、ありくこともえせずなるものなり、〉奮説に、若き鹿なりともいへるは、かれが若きほどは、殊にひわづに瘦ばみたれば、其たとへしたしくきこゆ、もとはかれが若きをいへるを、なべてのうへにおよぼして呼ぶ事となれるにてもあるべし、〈○中略〉
又鹿をかせぎともいふよしは、牡鹿の角を織機具の挊(カセ)の如く見なしてたとへたるなるべし、但し今の世になべて用ふ挊は、さばかりたとへつべくもあらぬを、其古ざまなるをおもひてかくはいへるなり、さるにあはせては、こゝにいはむもこと〴〵しくてつきなけれど、いにしへの挊の事をもわきまへがてらいふべし、其はまづ古語拾遣に、御歲神の所爲を記せる文に、發レ怒以レ蝗放二其田一、苗葉忽枯損似二篠竹一云々、とありて、其を大地主神の占へ給へるに、御歲神の吿給へる言に、宜下以二麻柄一作レ挊挊上レ之と見えたり、挊は新撰字鏡に、挊力棟反加世比とみえたるこれなり、〈○下略〉
p.0314 鹿〈今訓二志加一、或曰加乃之志、〉集解、鹿處處山林有レ之、馬體短尾、頭類レ馬而長、高脚而行駛、四蹄有レ岐如レ驢、牡有レ枝、角夏月則解生レ茸、茸落生レ角、其角及茸濳藏不レ見、山人能察而收レ之、牡者黃質白斑、胸腹微白、尾端亦白、背上有二一道黑毛一、牝者無レ角、無レ斑而小也、鹿性多淫、一牡交二數牝一、而牡夜常喚レ牝而鳴、入レ秋最頻、故歌人以二萩薄紅葉一爲レ伍、以作二閑寂之嘆一也、六月而生レ子、鹿子無レ角、遍身有二白圓斑一、俗稱二鹿子斑一、在原業平詠二士峯之雪一是也、鹿毎食二生草一、就レ中喜二穀蔬一、穿二田圃一爲二荒場一、於レ是獵夫作二笛聲一、而聚二牡鹿一、其笛以二鹿角根及胎鹿皮一而造或以二蝦蟇皮爲レ勝、然吹レ之、動蛇蝮多聚、故近世用二胎鹿皮一而代レ之、其聲作二牝鹿之微音一、而牡鹿慕來、竟罹レ弶墜レ陷、復不レ免二弓炮之難一、或曰、牝鹿至誤爲二牡鹿之聲一、凡獵夫吹レ笛、自二山上一至二山下一則鹿至、若吹二曠野林間一則不レ至、吹レ笛之人少不レ動レ身、則忽至二于眼前一、若少動レ身則去、其來時必匍匐而至、雖二林中草間一絶無レ聲而至、人以 爲レ奇矣、自レ古五月暗夜、獵夫腰二鐵籠一焚二薪竹一、狀似二松明一、鹿見レ火而太喜來、竟不レ曉二人之所一レ爲、亦斃二于射一、此謂二照射一、歌人詠二賞之一、皆是民家所レ業、而公家非レ所レ用、惟促二群卒一列二部伍一、號二呼山岡一、驅一逐林麓一、則群鹿駭出、而弓砲戈戟無レ所レ免爾、世人多嗜レ鹿而食者、謂能益レ人、其肉甘淡軟肥、而少レ臊不レ硬、寔夫然乎、本邦食レ鹿者最多二穢忌一、此謂二賀茂春日神使之故一乎、内侍所、伊勢、石淸水、住吉、吉田、祇園、諏訪、熱田、鹿島、香取等亦然、大抵食二生宍一者五十日、干宍者九十日、或曰生鹿三十日、干鹿七十日、同火七日、同座五十日、忌レ之而詣二神社一、若二賀茂春日等土人一、殺レ鹿則必不レ免二神祟一、土人不レ識二鹿肉一而食亦多レ尤、故食レ之欲レ療レ痾者、請二祝巫之赦狀一、而食則無レ尤、此等食穢不二獨鹿一、其餘獸肉亦若レ斯、然以レ鹿最忌者、伊勢賀茂天子之宗廟社稷、春日攝關藤氏之祖宗也、 肉(○)、氣味、〈古謂〉甘温無レ毒、〈冬時可レ食、他月不レ宜、不レ可下同二雉肉白鮠魚鰕一食上、〉主治補レ中益レ氣、療二一切風虚一調二血脈一、〈○中略〉
茸角(○○)、集解、鹿之角解見レ之者鮮矣、山中最希有、山人所レ謂蛞蝓好食二鹿角一、故得二自解之角一者最少、又曰、鹿毎二夏月一頻食二土茯苗一、旣至二角動時一、往二深山之溪澗濕土一、而顚倒則角旣留二于泥中一、土茯苗能落二舊角一、生一新角一者歟、二説倶未レ識二其眞一也、今市中所レ鬻之角者、獵夫殺而採者也、茸者角(フクロツノ)解而後生レ茸、茸長作レ角、或曰、鹿惜レ茸、故茸不レ長之際不レ出二山下一、此亦果然乎、未レ詳、今諸工收二骨角一以造レ器者、大抵用二鹿角一、或以二靑紅一染レ之者、先鋸作レ片、浸二嚴醋一四五日、用二其酷一、煮レ角半日、取出浸二靑紅一、則經レ日白染、或用二大鹿角一作二檑木一、而硏二藥石玉砂一亦好、眼科家常用レ之、
p.0315 鹿 鹿角春生夏長秋堅冬脱、牡鹿ハ鳴キ、牝鹿ハ不レ鳴、七月ノ末ヨリナキ、八月ノ中サカンニ、九月末マデナク、鹿ハ四五月ニ子ヲウム、姙ム事凡九月ニシテ、只一子ヲウム、其肉春夏ハ不レ可レ食、味惡シ、後足ハ多レ肉味好、前足ハ少レ肉味亦不レ佳、一種角ニ無レ枝アリ、形小ナリ、能傷レ物、常ノ鹿ヨリ性タケシ、
p.0315 鹿シカ カノシヽ、〈古歌ニ〉ヨブコドリ、モミジドリ、 山ノカセギ カセギ 雄ヲサオシカ〈和名抄、日本紀古名、〉 今ハ別ニサオシカト云モノアリ、雌ヲメカ、〈和名抄〉 スヽ力〈歌〉 シ カノ子ヲカゴ〈古歌〉 カノコ スガル〈歌〉
是ハ山中ニ多シ、ヒルハ隱レテ夜出ル、人ノ居ヌ所ニハヒルモイル、和州春日山、藝州宮島ニ多シ、何レモ市中ニモイル、何モ毒ガイ禁制也、家ノアマリ物ヲ犬ニクワセズ鹿ヲ蓄フ、犬ハ鹿ヲ害スル故カワズ、雄ハ茶色ニ白キ斑文アリ、集解ニ黃質白斑トアリ、子鹿ノ時ハ斑文ヨク明也、唐デ裘ニスル、日本ニハハラゴモリ皮ヲ巾著ニスル、是ヲ胎皮、廣東新語是ヲ藥用ニスルヲ鹿胎ト云、逢言ヲジカハ長角二ツアリ、年ヲフレバ長サ三尺多枝アリ、三四五モアリ、甚ハ十六股モアリ、是ハ珍シ、其等ト長キ角モ毎年落ル、夏至ノ時分ヲツルト直ニ生ズ、鹿ハ陽物ニシテ陰氣ヲ生ズルニ感ジテ落ル、タラノ木ノ芽ヲ食故、楤木ノメノ名ヲ美濃デツノヲトシト云、又小薊ノ新葉ヲ食フト落ト云、皆俗説也、是ハ下カラフクロヅノ出ル故也、鹿茸ト云、初ハ紫ニシテ九ク茄子ノ如シ、一日ノ中長ク出ル、枝ノアルハセウガノ如ク分レ出、子ノ内ニ生ズル角ハ枝ナシ、年ヲヘテ枝カヅ多シ、〈○中略〉雌ニハ角ナシ、形ハ同ジ、雄ヨリ小也、斑文ナシ、其内山中ニイル鹿ハ瘦小ニシテ色ハツキリトワカル、市中ハ形大ニシテ毛キタナシ、春日宮島ノハ紙ヲクラフ、然レドモ不淨ナレバ不レ食、
p.0316 乞食者詠
伊刀古(イトコ)、名兄乃君(ナセノキミ)、居居而(ヲリ〳〵テ)、物爾伊行跡波(モノニイユクトハ)、韓國乃(カラクニノ)、虎云神乎(トラトフカミヲ)、生取爾(イケドリニ)、八頭取持來(ヤツトリモチキ)、其皮乎(ソノカハヲ)、多多彌爾刺(タタミニサシテ)、八重疊(ヤヘダヽミ)、平群乃山爾(ヘグリノヤマニ)、四月與(ウヅキト)、五月間爾(サツキノホドニ)、藥獵(クスリカリ)、仕流時爾(ツカフルトキニ)、足引乃(アシヒキノ)、此片山爾(コノカタヤマニ)、二立(フタツタツ)、伊智比何本爾(イチヒガモトニ)、梓弓(アヅサユミ)、八多婆佐彌(ヤツタバサミ)、比米加夫良(ヒメカブラ)、八多婆左彌(ヤツタバサミ)、宍待跡(シヽマツト)、吾居時爾(ワガヲルトキニ)、佐男鹿乃(サヲシカノ)、來立嘆久(キタチナゲカク)、頓爾(ニハカニ)、吾可死(ワハシヌベシ)、王爾(オホギミニ)、吾仕牟(ワレハツカヘム)、吾(ワガ)角(ツヌ/○)者(ハ)、御笠乃波夜詩(ミカサノハヤシ)、吾(ワガ)耳(ミヽ/○)者(ハ)、御墨坩(ミスミノツボ)、吾(ワガ)目(メ/○)良波(ラハ)、異墨乃鏡(マスミノカヾミ)、吾爪者(ワガツメハ)、御弓之弓波受(ミユミノユハズ)、吾毛等者(ワガケラハ)、御筆波夜斯(ミフデノハヤシ)、吾(ワガ)皮(カハ/○)者(ハ)、御箱皮爾(ミハコノカハニ)、吾(ワガ)宍(シヽ/○)者(ハ)、御奈麻須波夜志(ミナマスハヤシ)、吾(ワガ)伎毛(キモ/○○)母(モ)、御奈麻須波夜之(ミナマスハヤシ)、吾(ワガ)美義(ミキ/○○)波(ハ)、御鹽乃波夜之(ミシホノハヤシ)、耆矣奴(オイハテヌ)、吾身一爾(ワガミヒトツニ)、七重花佐久(ナヽヘハナサク)、八重花生跡(ヤヘハナサクト)、白賞尼(マヲシハヤサネ)、白賞尼(マヲシハヤサネ)、 右歌一首、爲レ鹿述レ痛作レ之也、
p.0317 淡海之佐々紀山君之祖、名韓帒白、淡海之久多〈此二字以レ音〉綿之蚊屋野、多二在猪鹿一、其立足者、如二荻原一、指擧角(○)者、如二枯樹一、〈○日本書紀椎下其戴角、類二枯樹末一、其聚脚、如中弱木林上、〉
p.0317 凡調〈○中略〉次丁二人、中男四人、並准二正丁一人一、其調副物、〈謂此唯爲二正丁一、不レ及二次丁中男一也、〉正丁一人〈○中略〉鹿角一頭、
p.0317 平中納言殿より
見る人はをじかの角にあらねどもなぐさむほどのなきぞわびしき
あて宮
おもふらんことはしられて夏のゝに角おちかはるしかとこそきけ
V 本草和名
p.0317 鹿茸(○○)、〈而庸反、角鹿初生、○中略〉鹿茸一名鹿角、〈出二雜要決一〉和名加乃和加都乃、
p.0317 鹿茸 雜要決云、鹿茸〈和名鹿乃和加豆乃〉鹿角初生也、
p.0317 本草雜要決一卷、見二隋書一、今無二傳本一、本草和名云、鹿茸而庸反、鹿角初生、〈○中略〉鹿茸一名鹿角、出二雜要決一、按此蓋從二本草和名一引レ之、然鹿角初生與レ引二雜要決一、中間隔二陶注及食經一、則明鹿角初生非二雜要決之文一、恐源君誤引也、鹿角初生、證類本草所レ引、諸家注皆不レ載、當二是本草音義文一、
p.0317 鹿茸〈カノ、和カツノ、〉
p.0317 茸〈而爾反、和カツノ、〉
p.0317 鹿茸〈カノシヽノワカツノ〉
p.0317 鹿〈○中略〉
鹿茸(フクロツノ)〈甘温〉壯二筋骨一生レ精、補レ髓、養レ血益レ陽、治二一切虚損一、蓋古角旣解新角初生時鹿二紫茄一、〈月令云、冬至麋角解、夏至鹿角解、陰陽相反如レ此、〉稍長四五寸、形如二分岐馬鞍一、茸端如二瑪瑙紅玉一、破レ之肌如二朽木一者最善〈鹿茸不レ可二以レ鼻齅一レ之、中有二小白蟲一、視レ之不レ見入二人鼻一、〉 〈必爲二蟲顙藥不レ及也、〉
按、鹿茸、〈和名鹿乃和加豆乃、俗云袋角、〉茸字、〈草生貌〉俗以爲二蕈菌之字一、鹿角初生相二似未開蕈一故然矣、長二三寸、不レ尖不レ堅者爲レ良、〈以二猿尾鹿尾一僞レ之、而此等短而有レ毛、〉本草必讀云、鹿角初生爲レ茸、至二堅老成一レ角不レ過二兩月之久一、其發生之性雖二草木易レ生者一、未レ有下速二於此一者上、其補二益於人一、又豈有レ過二於此物一乎、
p.0318 鹿〈○中略〉
凡夏至ノ時角墮ツ、直ニ其跡ヨリ新角ヲ生ズ、初ハ茄子ノ如ク圓カニシテ光リ、紫褐色ニシテ薑形ノ如シ、採テ乾ス時ハ色黑クナル、コレヲフクロヅノト云、和名鈔ニカノワカツノト訓ズ、鹿茸ナリ、鹿茸ハ暫時ニ生長スルモノナリ、故ニ未ダ長ゼザル一寸半ヨリ二寸許ニシテ、柔ナルヲ藥用トス、四五寸ニ至レバ、硬クナリテ良ナラズ、故ニ未ダ角形ニナラズシテ圓ナルヲ、茄子茸(○○○)ト云ヲ用ユ、又外ニ疣多キ者アリ、イボミ樣ト呼ブ、多クハ柔ナリ、鹿茸一名冲天寶、〈本草滙〉九女春、〈事物異名〉
p.0318 諸國進年料雜藥
美濃國六十二種〈○中略〉鹿茸七具〈○中略〉 信濃國十七種〈○中略〉鹿茸十具〈○中略〉 播磨國五十三種〈○中略〉鹿茸一具〈○中略〉 讃岐國卌七種〈○中略〉鹿茸鹿角各五具
p.0318 鹿茸を鼻にあてゝ嗅べからず、ちいさき虫ありて、鼻より入て腦をはむといへり、
p.0318 六帖題 衣笠内大臣
わさ角をかたにかけたるかは衣けふのみあれを待わたりけり
p.0318 十三年三月、天皇遣二專使一以徵二髮長媛一、〈(中略)一曰日向諸縣君牛仕二于朝庭一、年旣老君之不レ能レ仕、仍致仕退二於本土一、則貢二上己女髮長媛一、始至二播磨一時、天皇幸二淡路島一、而遊獵之、於レ是天皇西望之、數十麋鹿、浮レ海來之、便入二于播磨鹿子(カコ)水門一、天皇謂二左右一曰、其何麋鹿也、泛二巨海一多來、爰左右共視而奇、則遣レ使令レ察、使者至見皆人也、唯以二著レ角鹿皮一、爲二衣服一耳、問曰、誰人也、對曰、諸縣君牛、是年耆之、雖二致仕一不レ得レ忘レ朝、故以二己女髮長媛一而貢上矣、天皇悦之、卽喚令レ從二御船一、是以時人號二其著レ岸之處一、曰二鹿子水門一也、凡水手曰二鹿子一、蓋始起二于是時一也、〉
p.0318 凡應レ供二神御一由加物器料者、〈神語號二雜贄一、同爲二由加物一、〉九月上旬申レ官差二ト部三人一遣二三國一、先大 祓後行事料、〈○中略〉鹿皮一張、〈(中略)已上、阿波國麻殖那賀兩郡所レ輸、〉
p.0319 凡諸國輸調、〈○中略〉大鹿皮一張、〈六尺以上〉小鹿皮二張、〈四尺以上〉
p.0319 又(大和)同國十津川千本鎗の百姓居住す、則此所にて御朱印被二下置一、長サ拾九里程横三里程有と云、田畑山林有、此所の百姓共、御預りの鎗千筋、鐵炮千挺、弓千張、今に在、御上洛の節、二條御城の御裏御門〈江〉相詰ると云、其節は鹿の皮千枚獻じ奉ると也、
p.0319 鹿 家良
五月雨のひまなきころも小男鹿のうはげのほしはくもらざりけり
p.0319 家集首夏の心を 源仲正
おちかはるふたげの鹿のくもりほしやゝあらはるゝ夏はきにけり
p.0319 十年四月、是月筑紫言、八足之鹿生而卽死、
p.0319 一吾邦にて、大牢といへるは、大鹿(○○)、小鹿(○○)、猪なり、
p.0319 小鹿〈○中略〉
天保四年、蠻舶小鹿二匹ヲ載來ル、高サ五六寸、常鹿ト異ナルトコロナシ雄ニハ角アリ、雌ニハ角ナシ、雄ハ長崎ニテ死ス、雌ハ大坂へ來リ江戸へ持行シト云、終ルトコロヲシラズ、
p.0319 須波伊(スハイ/○○○)〈九州にてサヲシカといふ、牡鹿と同名なり、形常鹿より小にして角に岐なく、本幹の如し、故に名づく、總て鹿は角二岐のものは二聲鳴き、三岐のもの三聲なく、此鹿は幾聲もなくといふ、〉
國中深山ニ鹿數十群居の中、稀に一二匹交はり居る事あり、
p.0319 白鹿(シロシカ)〈本草〉
國中深山稀にあり、享和二年、牟婁郡三木庄尾鷲郷の間八鬼山にて捕るもの、目及四足の爪赤し、
p.0319 四十年十月、日本武尊進入二信濃一、是國也、山高谷幽、翠嶺萬重、人倚レ杖而難レ升、巖嶮磴紆、 長峯數千、馬頓レ轡而不レ進、然日本武尊披レ烟凌レ霧、遙徑二大山一、旣逮二于峯一而飢之、食二於山中一、山神令レ苦レ王、以化二白鹿一立二於王前一、王異之、以二一箇蒜一彈二白鹿一、則中レ眼而殺之、〈○中略〉先レ是度二信濃坂一者、多得二神氣一以瘼臥、但從レ殺二白鹿一之後、踰二是山一者、嚼レ蒜塗二人及牛馬一、自不レ中二神氣一也、
p.0320 六十年十月、差二白鳥陵守等一、充二役丁一、時天皇臨一于役所一、爰陵守目杵、忽化二白鹿一以走、於レ是天皇詔之曰、是陵自レ本空、故欲レ除二其陵守一、而甫差二役丁一、今視二是恠一者甚懼之、無レ動二陵守一者、則且授二土師連等一、
p.0320 祥瑞
天鹿(○○)〈純靈之獸也、五色光耀洞明、一角長尾、○中略〉 右大瑞〈○中略〉
白鹿(○○)〈仁鹿也、色如二霜雪一○申略〉 右上瑞〈○中略〉
戴(○)レ角塵鹿(○○○)〈牝鹿而有レ角也〉駮麀〈如レ鹿疾走○中略〉 右下瑞
p.0320 五十三年、新羅不二朝貢一、 五月遣二上毛野君祖竹葉瀨一、令レ問二其闕貢一、是道路之間獲二白鹿一、乃還之獻二于天皇一、
p.0320 六年十月丁未、越國獻二白鹿一頭一、
p.0320 元年九月丙申、丹波國獻二白鹿一、
p.0320 慶雲元年十一月、周防國貢二白鹿一、
p.0320 慶雲三年七月己巳、周防國守從七位下引田朝臣秋庭等獻二白鹿一、
p.0320 神護景雲二年正月乙卯、播磨國獻二白鹿一、
p.0320 寶龜元年五月壬申、先レ是伊豫國員外掾從六位上笠朝臣雄宗獻二白鹿一、勅曰、朕以二薄德一祗奉二鴻基一、善政未レ孚、嘉貺頻降、去歲得二伊豫國守從五位上高圓朝臣廣世等進白鹿一一、頭〈○中略〉於レ是左大臣藤原朝臣永手、右大臣吉備朝臣眞備已下十一人奏、臣等言、〈○中略〉臣等叨陪二近侍一、頻觀二靈物一、挊躍 之喜、實万二恒情一、白鹿是上瑞、白雀合二中瑞一、伏望進二白鹿一人叙二位兩階一、賜二絁廿匹、綿卅屯、布五十端、稻二千束一、共捕二白鹿一五人、各叙二位一階一、牧長一人、挾抄二人、各賜二稻四百束一、捕レ鹿處駈使三人、水手十三人、各三百束、進二白雀一人叙二位兩階一、賜二稻一千束一、進レ瑞國司及所レ出郡司各叙二位一階一、又伊豫肥後兩國、神護景雲三年以往正税未納、皆悉除免、出レ瑞郡田租免二三分之一一、臣等准レ勅商量、奉行如レ件、伏請付レ外施行、制曰、可、
p.0321 延曆十一年閏十一月壬辰、伊豫國獻二白鹿一、 廿一年正月乙亥、美作國獻二白鹿一、賜二獲人稻五百束一、
p.0321 延曆廿二年正月癸丑朔、廢レ朝雨也、 甲寅、受二朝賀一、美作國獻二白鹿一、〈○中略〉宴二侍臣於前殿一、賜レ被、
p.0321 齊衡三年十二月丁酉、美作國獻二白鹿一、放二神泉苑一、
p.0321 天安元年二月己丑、是日改元爲二天安元年一、緣三美作常陸二國獻二白鹿連理之瑞一、遣二雅樂頭從五位下藤原朝臣貞敏、〈○中略〉散位從五位下橘朝臣岑雄等於諸山陵一、宣制曰、天皇恐〈美〉恐〈美毛〉掛畏〈岐〉山陵爾申賜〈倍止〉申〈久〉、公卿奏〈久〉、維齊衡三年十月二十日〈爾〉、常陸國木連理〈乎〉獻、同年十二月十三日〈爾〉、美作國白鹿〈乎〉獻〈禮留乎〉進〈止〉奏〈世利〉、如レ是〈支〉嘉瑞〈波〉、是薄德〈乃〉令二感致一〈倍支〉物〈爾波〉非〈須〉、掛畏〈支〉山陵〈乃〉慈賜〈比〉示賜〈倍留〉物〈奈利止〉爲〈天奈毛〉貴喜〈比〉受賜〈天〉、御世〈乃〉名〈乎〉改〈天〉天安元年〈止須留〉事〈乎〉、差レ使〈天〉進出〈天〉恐〈美〉恐〈美毛〉申賜〈久止〉奏、詔曰、〈○中略〉美作國貢二白鹿一頭一、色均二霜雪一、自絶二毛群一、性是馴良、足レ稱二仁獸一、不レ因レ仙來在二彤庭一、重二彼遐齡一、毓二于靈囿一、〈○中略〉朕之菲虚非レ可二能致一、唯由二宗社垂祐、股肱叶賛一、今欲下鍾二此休徵一、不レ享二獨美一、施一之惠澤一、偏及中萬方上、宜下復二美作常陸二國百姓當年徭役廿日一、就レ中瑞祥所レ出重以中優矜上、苫田郡調、眞壁郡庸今年可レ輸、並皆免之、
p.0321 貞觀四年九月廿七日癸巳、美作國獻二白鹿一、
p.0322 晩秋陪二右丞相開府一賜レ飮、于レ時美作獻二白鹿一、仍命賦二四韻一、〈同勒徵興升膺〉
金方銀獸色相仍、待得秋旻至有レ徵、過隙〈○疑白字〉駒人自感、度關疑馬吏先興、行時練段翻三史、臥處霜封可數升、勞苦挾輈州境遠、來呈上瑞聖君膺、
p.0322 貞觀十年十一月廿八日丁巳、太宰府獻二白鹿一一、放二神仙苑一、
p.0322 元慶元年三月三日甲辰、備後國獲二白鹿一一而獻之、雲白可レ愛、奉レ覽二太上天皇一〈○淸和〉後放二於神泉苑一、
p.0322 元慶七年五月廿六日辛卯、大雨、神泉苑裏舊有二放鹿一、是月生二白鹿一、遠客〈○渤海〉來朝、得二此禎祥一豈不レ懿歟、
p.0322 勘二奏神泉苑白麑一狀
右謹案二史記平準書一、漢武帝時、上林苑有二白鹿一、以發二瑞應一、又孝經援神契曰、德至二鳥獸一則白鹿見、宋均注曰、應レ宴二嘉賓一、然則神泉者、古之上林苑、嘉賓者今之渤海客、以レ今稽レ古、應在二明時一、圖譜所レ存、宜レ爲二上瑞一、臣伏奉レ勅勘申如レ右、謹奏、
p.0322 延喜十七年閏十月廿六日、備後國獻二白鹿一、奉覽之後、放二神泉苑一、
p.0322 延長六年九月四日丙子、天台山捕二送白鹿二頭一、依レ勅令レ放二神泉一、
p.0322 長元二年七月三日戊辰、昨夕前大貳惟憲妻入京、卽參内云、惟憲明後日入洛、〈○中略〉惟憲獻二白鹿于關自一〈○藤原賴通〉云々、或云、被レ養二高陽院内一云々、甚以不二甘心一、又云、野鹿不レ可レ令レ在レ家、可レ忌事也者、 廿一日戊寅、昨日御二覽白鹿一、關白隨身二人引レ之、其夜預二瀧口一令レ候、翌日返二遣關白第一、御覽之間、左少將資房候二御前一、卽資房所レ申也、 廿二日己卯、今日白鹿被レ放二神泉苑一、以二延喜十七年例一歟、神泉苑垣顚倒無二涯岸一、爲二犲狼食一歟、
p.0322 長元二年七月十三日、前大貳雅定卿獻二白鹿一、天覽之後縱二神泉苑一、先被レ定二吉否一、
p.0323 天照大御神見畏閉二天石屋戸一而刺許母理〈此三字以レ音〉坐也、爾高天原皆暗、葦原中國悉闇、〈○中略〉是以八百萬神、於二天安之河原一神集集而、〈訓レ集云二都度比一〉高御產巢日神之子、思金神分レ思〈訓レ金云二加尼一〉而、〈○中略〉召二天兒屋命、布刀玉命一〈布刀二字以レ音、下傚レ此、〉而、内二拔天香山之眞男鹿之肩一拔而、取二天香山之天波波迦一〈此三字以レ音、木名、〉而、令二占合麻迦那波一而、〈白レ麻下四字以レ音〉
○按ズルニ、鹿トノ事ハ、神祇部太占篇ニ詳ナリ、
p.0323 古老曰、倭武天皇爲レ巡二東陲一、頓宿二此野一、有レ人奏曰、野上群鹿、無レ數甚多、其聳角如二蘆枯之原一、比二其吹氣一、似二朝霧之立一、
p.0323 三十八年七月、天皇與二皇后一居二高臺一而避レ暑、時毎夜自二兎餓野一有レ聞二鹿鳴一、其聲寥亮而悲之、共起二可憐之情一、及二月盡一以鹿鳴不レ聆、爰天皇語二皇后一曰、當二是夕一而鹿不レ鳴、其何由焉、明日猪名縣佐伯部獻二苞苴一、天皇令二膳夫一以問曰、其苞苴何物也、對曰、牡鹿也、問之何處鹿也、曰、兎餓野、時天皇以爲、是苞苴者必其鳴鹿也、因謂二皇后一曰、朕比有二懷抱一、聞二鹿聲一而慰之、今推二佐伯部獲レ鹿之日夜及山野一、卽當二鳴鹿一、其人雖下不レ知二朕之愛一、以適逢獮獲上、猶不レ得レ已而有レ恨、故佐伯部不レ欲レ近二於皇居一、乃令二有司一移二郷于安藝渟田一、此今渟田佐伯部之祖也、俗曰、昔有二一人一、往二兎餓一宿二于野中一、時二鹿臥レ傍、將レ及二雞鳴一、牡鹿謂二牝鹿一曰、吾今夜夢之、白霜多降之覆二吾身一、是何祥焉、牝鹿答曰、汝之出行、必爲レ人見レ射而死、卽以二白鹽一塗二其身一如二霜素一之應也、時宿人心裏異之、未レ及二昧爽一、有二獵人一以射二牡鹿一而殺、是以時人諺曰、鳴牡鹿矣隨レ相レ夢也(ナクシカモイメカムセノマヽニ)、 六十七年十月甲申、幸二河内石津原一以定二陵地一、丁酉始築レ陵、是日有レ鹿、忽起二野中一、走之入二役民之中一而仆死、時異二其忽死一、以探二其痍一、卽百舌鳥自レ耳出之飛去、因視二耳中一、悉咋割剝、故號一其處一曰二百舌鳥耳原(モズノミヽハラ)一者、其是之緣也、
p.0323 菟餓野鹿
攝津國風土記曰、雄伴郡有二夢野一、父老相傳云、昔者刀我野有二牡鹿一、其嫡牝鹿居二此野一、其妾牝鹿居二淡路 國野島一、彼牝鹿屢往二野島一、與レ妾相愛無レ比、旣而牡鹿來宿二嫡所一、明旦牡鹿語二其嫡一云、今夜夢、吾背〈爾〉雪零〈於祁利止〉見〈支〉、又〈日都須久紀〉草生〈多利止〉見〈支〉、此夢何祥、其嫡惡二夫復向レ妾可一レ往仍詐相レ之曰、背上生レ草者、矢射二背上一之祥、又雪零者白鹽塗レ宍之祥、汝渡二淡路野島一者、必遇二船人一射死二海中一、謹勿二復往一、其牡鹿不レ勝二感戀一、復渡二野島一、海中遇二逢行般一、終爲射死、故名二此野一曰二夢野一、俗説云、刀我野爾立留眞牡鹿母、夢相乃麻麻爾、
p.0324 起 神護景雲二年正月九日、大和國添上郡三笠山御垂跡、同年十一月九日、寅日寅時宮柱立御殿造畢、自二常陸國一御影向、御乘物以レ鹿爲二御馬一、以二柿木枝一爲二御鞭一、
○按ズルニ、春日神鹿ノ事ハ、神祇部神使篇ニ詳ナリ、宜シク參考スベシ、
p.0324 賣龜五年正月乙丑、幽背國言、去年十二丹、於二管内乙訓郡乙訓社一狼及鹿多、野狐一百許毎夜鳴、七日而止、
p.0324 延曆十七年八月庚寅、遊二獵於北野一、便御二伊豫親王山莊一、飮酒高會、于レ時日暮、天皇歌曰、氣佐能阿狹氣(ケサノアサケ)、奈久知布之賀農(ナクチフシカノ)、曾乃己惠遠(ソノコエヲ)、岐嘉受波伊賀之(キカズハイカジ)、與波布氣奴止毛(ヨハフケヌトモ)、登時鹿鳴、上欣然、令二群臣和一レ之、冒レ夜乃歸、
p.0324 延長六年閏八月廿九日辛未、神泉鹿、仰二六府幷左右京一、令レ追二放北山一、雖レ然鹿不レ出、
p.0324 承平二年正月廿九日辛亥、鹿入二承明門一、前至二圍司町一被レ射死、
p.0324 承平二年正月廿九日、辰刻、鹿入二中陪一、而陰陽寮占申云、非レ恠、
天曆二年二月五日、明方語云、常陸國府鹿七頭來、又國分寺鐘皆濕、將門時鹿一頭鐘角濕、而此度多レ數云々、甲斐守維幹小説也者、
p.0324 長和五年十一月廿三日癸亥、鹿入二禁中一、有二御卜一御藥火事、
寬仁元年十月十六日辛巳、召二主計頭吉平於藏人所一、被レ占下鹿入二内裏一之事上、占二申御藥火事一、
p.0325 永承六年正月八日、野鹿入二禁中一、
天喜四年九月十九日、鹿入二大内一、有二御卜一、 五年四月十六日、鹿上二脩明門棟一、須臾走失、
p.0325 賴朝遠流附盛安夢合事
京師本、杉原本、鎌倉本半井本並云、賴朝伊豆國蛭ガ島へ流サルベシト定ラル、池殿、宗淸ガ許へ賴朝具シテ參レト宣、宗淸佐殿ヲ具シテ參、池殿、賴朝ヲ近ク呼寄、〈○中略〉伊豆國ハ鹿多キ處ニテ、常ニ國人寄合狩スル處ゾ、人ト寄合狩ナドシテ、流人ノ思樣ニ振舞トテ國人ニ訟ラレ、二度憂目見スベカラズト宣、
p.0325 淸章射レ鹿幷義經赴二鵯越一事
同六日〈○元曆元年二月〉ノ未明、上ノ山ヨリ巖崩レテ落、柴ノ梢ユルギケレバ、城ノ中ニハスハヤ敵ノ寄ルハトテ、各甲ノ緖ヲシメ、馬ニ騎笞ヲ取テ待處ニ、雄鹿二、雌鹿一ツヾキテ出來レリ、能登守〈○敎經〉ハ此鹿ノ下樣ヲ思フニ、一定敵ガ寄ルト覺エタリ、爰ニハマン鹿ダニモ人ニ恐テ深ク山ニ入ベシ、深山ノ鹿爭力人近ク下ルベキ、菩薩ヲ山ノ鹿ニ喩ヘタリ、招ケドモ不レ來トイヘリ、敵ノ近付ル條子細ナシ、我ト思ハン者アマスナト宣ヘバ、伊豫國住人高市武者所淸章ハ、馬ノ上ニモ歩立ニモ弓ノ上手ナル上ニ、而モ獵師成ケルガ、折節射付馬ノ早走ニ乘タリケリ、一鞭アテヽ弓手ニ相付テ箙ノ上サシ拔出シテ、雄鹿二ハ同ク草ニ射留ツ、雌鹿一ハ逃テケリ、不レ意狩シタリ、殿原草分ノカフソ、シヾノハヅレ、肝ノタハネ、舌ノ根、鹿ノ實ニハ能處ゾ、鹿食へ殿原ト云ケレ共、大形ノ忩忩ノ上、軍場ニテ鹿食フ事憚アリ、其上稻村明神トテ程近ク御座ケレバ、松ノ二三本有ケル本ニ弃置ケリ、ソレヨリシテコソ、ソコヲバ鹿松村トモ名付ケレ、〈○中略〉
鷲尾一谷案内者事
御曹司〈○源義經〉ハ、如何ニ鷲尾○經春山ノ案内ハト問給フ、此山ヲバ鵯越トテ極タル惡所、左右ナク馬 人通ルベシ共覺エズ、〈○中略〉ナテ此山ニハ鹿ハ無カ、彼惡所ヲバ鹿ハ通ラズヤト問給フ、鹿コソ多ク候へ、世間寒ク成候ヘバ、雪ノ淺リニ食ントテ、丹波ノ鹿ガ一ノ谷へ渡リ、日影暖ニ成ヌレバ、草ノ滋ミニ臥サントテ、一ノ谷ヨリ丹波へ歸候也ト申ス、〈○中略〉御曹司ハ是ヲ聞給ヒ、殿原サテハ心安シ、ヤヲレ鷲尾鹿ニモ足四、馬ニモ足四、尾髮ノ有ト無ト、爪ノ破タルト圓キト計也、西國ノ馬ハ不レ知、東國ノ馬ハ鹿ノ通ル所ハ馬場ゾ、打テヤ殿原トテ、〈○中略〉北ノ山ノ下ニゾ至リケル、
p.0326 前大和守時賢が墓所は、長谷といふ所にあり、そこの留守する男くゝりをかけて鹿を取ける程に、或日大鹿かゝりたりける、此男が思ふやう、くゝりかけて取たらんいとねんなし、射殺しだりといひて、弓の上手のよし人にきかせんと思ひて、くゝりにかけたる鹿にむかつて、大かりまたをはげて射たりける程に、其箭鹿にはあたらずして、くゝりにかけたりけるかづらにあたりければ、かづらはきれて鹿は事ゆえなく走りにげて行にけり、此男かしらがきをすれども、さらに益なし、
p.0326 白膠一名鹿角膠、和名加乃都乃々爾加波(○○○○○○○○)、
p.0326 鹿〈○中略〉
鹿ノ角ヲ製シテ膠ニスルヲ、鹿角膠、又白膠トモ云、前ノ角膠ト製スル人ノ名ヲ書タルモアリ、今不レ然、藥店ニハ牛皮膠ト此角膠ト混ジテアリ、牛皮膠ハニカバ、鹿角膠ハ酒制スルガヨシ、製法奧ニアリ、是ヲ煮テ和ニシテ粉ニシタルヲ鹿角霜ト云、又日本ニテハ角直ニ燒テ角石ト云一、色白シ、眼科ナドツカフ、
p.0326 諸國進年料雜藥
攝津國卌四種〈○中略〉鹿角四具〈○中略〉 丹波國卌三種〈○中略〉鹿角一具〈○中略〉 播磨國五十三種〈○中略〉鹿角一具〈○中略〉 美作國卌一種〈○中略〉鹿角一具〈○中略〉 備中國卌二種〈○中略〉鹿角二具〈○中略〉 讃岐國卌 七種〈○中略〉鹿茸鹿角各五具
p.0327 鹿〈○中略〉
皮毛(○○)、集解、本邦未二入レ藥用一、惟作レ革造レ器、鼓鞠最多、或用三胎鹿皮有二豹文一作二槍鞘一、爲レ希矣、
p.0327 交易雜物
伊賀國〈(中略)鹿皮廿張○中略〉 尾張國〈(中略)鹿革廿張、鹿皮十張、鹿角十赦、○中略〉 參河國〈(中略)鹿革六十張○中略〉 遠江國〈(中略)鹿皮十張、鹿革卅張、○中略〉 伊豆國〈(中略)鹿皮廿張○中略〉 甲斐國〈(中略)鹿皮卅張、(中略)鹿革十張、○中略〉 相摸國〈(中略)鹿皮廿張、鹿角十枚、(中略)鹿革廿張、○中略〉 武藏國〈(中略)鹿革六十張、鹿皮十五張、○中略〉 安房國(中略)鹿革廿張○中略 上總國(中略)鹿皮五十張、(中略)鹿角十枚、○中略 下總國(中略)鹿革廿張、○中略 常陸國(中略)鹿皮廿張、(中略)鹿角十枚○中略 美濃國〈(中略)鹿革卅張○中略〉 信濃國〈(中略)鹿皮九十張○中略〉 上野國〈(中略)鹿革六十張○中略〉 下野〈(中略)鹿角十國枚○中略〉 能登國〈(中略)鹿皮十張○中略〉 丹波國〈(中略)鹿革十張○中略〉 丹後國〈(中略)鹿革十張○中略〉 因幡國〈(中略)鹿皮十張〉 出雲國〈へ中略)鹿革廿張、(中略)鹿皮廿張、○中略〉 石見國〈(中略)鹿革卅張〉 播磨國〈(中略)鹿革五十張○中略〉 美作國〈(中略)鹿革十張、鹿皮廿張、鹿角十枚、○中略〉 備前國〈(中略)鹿革廿張、鹿皮十張、鹿角十枚、○中略〉 備中國〈(中略)鹿皮五十張○中略〉 備後國〈(中略)鹿角十枚○中略〉 安藝國〈(中略)鹿皮廿張、鹿革廿張、〉 周防國〈鹿革卅張○中略〉 長門國〈鹿革廿張○中略〉 紀伊國〈(中略)鹿革十張○中略〉 阿波國〈(中略)鹿皮十張○中略〉 讃岐國〈(中略)鹿革廿張、(中略)鹿子皮十五張、○中略〉 伊豫國〈鹿革五十枚、鹿皮十張、〉
p.0327 一書曰、〈○中略〉天照大神謂二素戔鳴尊一曰、汝猶有二黑心一、不レ欲二與レ汝相見一、乃入二于天石窟一、而閉二著磐戸焉、〈○中略〉時有二高皇產靈之息思兼神云者一、有二思慮之智一、乃思而白曰、宜下圖二造彼神之象一、而奉中招禱上也、故卽以二石凝姥一爲二冶工一、採二天香山之金一、以作二日矛一、又全二剝眞名鹿(マナカ)之皮(○)一、以作二天羽韛(アメノハブキ)一、〈○下略〉
p.0327 產物
鹿皮 エゾ人冬中山ニ入、弩或ハ弓ヲ以射捕リ、肉ハ食ヒ皮ヲ衣トシ、其餘ヲ賣出ス、其數不レ少、以上七種、島中土產隨一ノ物也、
p.0327 年料別貢雜物 太宰府〈筆一千一百廿管、兎毛鹿毛(○○)各五百六十管、〉
p.0328 謹解 申貢經師事〈○天平寶字二年七月十七日〉
廿(紙背ニ)七日下鹿毛筆二管〈堺料○中略〉又下錢三百卅文〈二百四十文筆六管直、九十文墨三挺直、〉
p.0328 風俗諺曰、葦原鹿、其味若爛、喫異二山宍一矣、常陸下總二國大獵、無レ可二絶盡一也、
○按ズルニ、本書印本頭書云、狩屋望之云、風俗之上恐有二脱文一、此一行不レ可レ解、甲本丙本若字作二茗 字一、己本作二苦字一、不レ知二孰是一、今據二乙本一、諸本無二常陸下總四字一、今据二丙本一補レ之トアリ、姑ク附シテ後考 ニ供ス、
p.0328 元慶三年正月三日癸巳、奏請、〈○中略〉陸奧國鹿腊、莫二以爲レ贄奉一レ充二御膳一、
p.0328 延喜廿年三月廿二日、遣二官使於越前國一、賜二渤海客時服一、 五月五日、召二仰瀧口右馬允藤原邦良等一、見客在京之聞、毎日可レ進二鮮鹿二頭一事、
p.0328 備前岡山より二里過ぎて、宮内と云ふ處に、茶屋あり、遊女ある處なり、夫より二里右の方へ入る、足守に至る、爰は木下侯の領地なり、留まる事數日、予〈○司馬江漢〉鹿の生血を啜らん事を云ふ、領主俄に狩に出でられけるに、漸く鹿一疋を獲たり、則生きたる鹿の耳元を、小づかを以て衝き破り、血を啜りければ、人々懼れをなしける、予薄弱なれば、鹿の生血は至りて肉を養ふ良藥と聞く、然れども得がたき物なり、又ある時、鹿の肉を喰はんとて、料理人に云ひ付けゝるに、煙り臭くして、一向に喰ふ事能はず、何なる故と問ふに、此所は吉備津の宮あり、皆其神の氏子なるにより、獸類は穢とて之を忌み嫌ふ事なり、故に外に竈を造り、鼻に氣の入らぬ樣に、長き半を以て煮たる故、あんばいあしゝと云ひければ、夫故に吾生血を呑みたる事を聞く者、如レ鬼思ぶも尤ぞかし、
p.0328 鹿のちがへ 袋草紙に、吉備大臣夢違の誦文の歌とて、あらちをのかる矢のさきに立る鹿もちがへをすればちがふとぞきく、拾芥抄に夢誦とて、から國のそのゝみたけに鳴鹿もちがへをすればゆるされにけり、といふ歌見えたり、いかなる事をよめるにかと、年頃いぶかしくおもひつるに、この武藏の多摩郡松原村阿伎留神社の神主阿留多伎貞樹が、おのれ〈○伴信友〉がもとに來かよひて、物かたらふちなみに語りけらく、前年吾里へ筑紫人某が歌などこのめるおもむきにて、諸國をめぐるなりとて、しばし人の家に來逗りてありけるが、あるじとものがたりするを、かたはらにてきゝをりつるに、さきに紀伊國熊野にものせし時、山路をふみまよひて、からくして谷蔭なるさゝやかなる一家を見つけて、たのみてやどりぬ、獵人の家なりけり、初夜過ぐるころ、若き男の鐵炮を持たるが歸り來て、今日は大鹿に逢ひつれど、え射とらざりつるこそくちをしかりしかとつぶやくを、父と見ゆる翁の、其はちがへせられためりとうちいひてあるに耳とまりて、そのちがへとはいかなる事をするにかと問ふに、鹿の獵人に遭たる時、此方に向きて前足をやりちがへてつき立て、見おこせてある事をするを、ちがへをすといふなり、かれが然して立向へるときは、いかによくしたゝめねらひても、いつも射はづしはべるなり、但し若き鹿は然ることせず、大なる老鹿には、おり〳〵さることしはべりとこたへたりとて、何とかや古歌を誦して、鹿のちがへをすといふ事、これにて知られたりといへり、さるはいかなる歌のあるにかと問ふに、かのあらちをの云々の歌なるべしといへば、さりけり〳〵といひて、さてかたりけるは、おのれが里わたりの山里人の、山深く入らむとするには、まづその山口に向ひ、左の足を上にやりちがへ、つき立て心をふとくもちて入るなり、しかすれば山中にて災に遭ふことなし、また山入ならでも、ことさらなる事ありて、ものへゆくときも、然するならひありといへり、あやしくめづらしきことなり、
p.0329 崗本天皇〈○舒明〉御製歌一首 暮去者(ユフサレバ)、小倉乃山爾(ヲグラノヤマニ)、鳴鹿之(ナクシカノ)、今夜波不鳴(コヨヒハナカズ)、寐宿家良思母(イネニケラシモ)、
p.0330 天平五年癸酉、遣唐使舶發二難波一入レ海之時親母贈レ子歌、
秋芽子乎(アキハギヲ)、妻問鹿許曾(ソマトフカコソ)、一子二子(ヒトツゴフタツゴ)、持有跡五十(モタリトイへ)戸、鹿兒自物(カコジモノ)、吾獨子之(ワガヒトリゴノ)、草枕(クサマクラ)、客二師往者(タビニシユケバ)、〈○中略〉忌日管(イハヒツヽ)、吾思吾子(ワガオモフアコ)、眞好去有欲得(マサキクアリコソ)、
p.0330 これさだの御子の家の歌合のうた よみ人しらず
おく山に紅葉ふみわけなく鹿の聲きく時ぞ秋はかなしき
p.0330 麋脂、一名宮脂、一名遁脂、〈陶景注云、其脂墮二土中一、經レ年人得レ之、名曰二遁脂一、〉麋茸一名 、〈音譽、牡也、〉一名麎、〈音辰、牡也、〉和名於保之加(○○○○)乃阿布良、
p.0330 糜 四聲字苑云、麋〈晋眉、漢語抄云、於保之加、〉似レ鹿而大、毛不レ斑、以二冬至一解レ角者也、
p.0330 按説文、麋鹿屬、麋冬至解二其角一、四聲字苑蓋本レ之、又按麋冬至解レ角出二月令一、夏小正、仲夏曰二鹿角解一、仲冬曰二麋角解一、西山經、西皇之山多二麋鹿㸲牛一、注、麋大如二小牛一、鹿屬也、埤雅、麋水獸也、靑黑色、肉蹄、一牡能二十牝一、鹿屬也、鹿以二夏至一隕レ角而應レ陰、麋以二冬至一隕レ角而應レ陽李時珍曰、麋似レ鹿而色靑黑、目下有二二竅一、爲二夜目一、今獵人多不二分別一、往々以レ麋爲二鹿牡者一、猶可下以二角退一爲上レ辨、
p.0330 麋〈音眉、鹿屬、オホシカ、〉 麋俗
p.0330 麋 ヲヽジカ
鹿ノ類也、鹿ヨリ大也ト、和產モアリソウナ物、鹿ノ中ニ交リ居ソフナ者也、鹿ハ陽ニ屬ス、山ニイル、麋ハ陰ニ屬ス、澤ニ居ル鹿ハ、夏至ニ角落、本條ハ冬至ニ落、之デ考タラバシレソウナモノ也、唐デ茸ヲツカフ、麋茸逢言、兎角鹿茸ニテ僞ルト云、是モ膠トナス、麋膠ト云、
p.0330 四十年、是歲日本武尊、初至二駿河一、其處賊陽從レ之、欺曰、是野也、麋鹿(オホシカ)甚多、氣如二朝霧一、足如二茂林一、臨而應狩、日本武尊信二其言一、入二野中一而覓レ獸、
p.0331 二十二年九月丙戌、天皇狩二于淡路島一、是島者横レ海在二難波之西一、〈○中略〉麋鹿 鴈多在二其島一、
p.0331 間宮林藏と云ふ人、蝦夷の奧へ冬月行かん事を好みて、文化午年〈○七年〉十一月、此地を發して、辛未正月にかへる、六月二日、予〈○司馬江漢〉が家に來る、冬月は海川皆氷となる故に、其上を渡り行く、故に行きやすし、唐太の地に、トナカヒと云ふ獸あり、大さ大八車を引く牛程ありて、頭に大なる角あり、全體鹿の如し、蹄もわれてあり、如レ牛レ如レ馬畜ひて甚用をなすと云ふ、おらんだにてはレンシイルと云ひ、支那にては順鹿(○○)と云ふなり、
p.0331 麞〈諸羊反、平、久自加(○○○)、又於保自加(○○○○○)、〉
p.0331 麞骨一名白肉、〈陶景注云、正是麞不レ施二於鹿一、〉一名麕、〈楊玄操、音九倫反、〉和名乎之加(○○○)乃保禰、
p.0331 麞 唐韻云、麏〈居筠反、字亦作レ麕、〉鹿屬也、本草音義云、麞〈音章〉一名麕、〈相名久之加〉
p.0331 按本草和名云、麞骨一名麕、楊玄操音九倫反、攷レ之、新修本草麞骨條、陶注云、又呼爲レ麕、則知三一名麕出二陶注一、源君從二本草和名一引レ之、以爲二楊氏音義文一誤、説文、麞麋屬、李時珍曰、麞秋冬居レ山、春夏居レ澤、似レ鹿而小、無レ角黃黑色、大者不レ過二二三十斤一、雄者有レ牙出二口外一、俗稱二牙麞一、〈○中略〉按久之可未レ詳、
p.0331 麞〈音章、俗獐、クジカ、 シカ(○○)〉 麕〈籀通、クシカ、〉
p.0331 鹿シカ〈○中略〉 又倭名鈔に、本草音義、爾雅注等を引て、麞一名麕クジカといひしは、此國に產するものとも見えず、クジカとは、似レ鹿而黃黑色なるをいひしと見えけり、〈(中略)古語にクといひしは黑也、(中略)シヽとは萬葉集に、シヽクシロといふ事を、仙覺抄には、鹿宍〉〈肉同〉〈氣味すぐれし花いふと見えたれば、鈴羊をカマシヽといひ、また俗に鹿をカノシヽなどいふも、並に其肉の美なるをいひしなるべし、〉
p.0331 麞〈獐同〉 麕〈音君〉 麏〈同〉 麌〈牡〉 麜〈牝〉 麆〈子〉 和名久之加、俗云美止利(○○○)、〈○中略〉 按、麞皮自二暹羅一來名二美止利一、或稱二奈禮阿比一者乎、以爲二 裘一、軟美爲二最上一、
p.0332 麞 ワナシ
和名抄ニ是モクジカト訓ズ、非也、朝センニテノロ(○○)ト云、此モ皮朝鮮ヨリ渡ルコビト皮ト云テ足袋ニス、唐皮ノ上品也、コビトハ國名也、 一名赤吏〈抱朴子〉 麞ノ子ヲ獐〈訓蒙字會〉
p.0332 麞 ノロ〈朝鮮〉 一名赤吏〈抱朴子〉 黃羊〈六書故〉 獐羔〈訓蒙字會子ノ名〉
和產ナシ、舶來ノコビト韋ト呼ブモノ此ノ獸皮ナハ、柔軟ニシテ 及衣服ニ製シ、弽(ユガケ)ノ大指ノ處ニハ必此韋ヲ用ユト云フ、淸商ハ末皮ト書ス、往歲水戸黃門公、朝鮮ノ產ヲ常州山中ニ放タルト言傳フ、形ハ鹿ニ似テ小ク、黃黑色角ナク、牙アリテ口外ニ出ルコト野猪ノ如シ、此ヲ獐牙ト云、然レドモ形ノミニシテ物ヲ害スルコト無ク、麑ノ牙アリテ物ヲ害スルニ異ナリ、老獐ハ牙愈見ハル、コレヲ牙麞ト云、牝ニハ牙ナシ、耳ハ形三ニ分レテ他獸ニ異ナリ、獐耳細辛(スハマサウ)ノ名ハ、葉ノ形此耳ニ似タルヲ以テナリ、
p.0332 祥瑞
白麞(○○)〈白鹿之流○中略〉 右上瑞
p.0332 一西山公〈○德川光圀〉むかしより、禽獸草木の類ひまでも、〈○中略〉この國〈○常陸〉へ御うつしなされ候、〈○中略〉
獸の類 麞(ノロ)〈此領の山に御はなち候〉
p.0332 麂〈音己〉 俗云古比止
本綱、麂山中多有レ之、乃麞類也、似レ麞(クシカ)而小、牡者有二短角一、黧色豹脚、脚矮而力勁、善跳越其行二草 一、但循二一徑一、其口兩邊有二長牙一、好鬪南人往々食二其肉一、然堅靱不レ及二麞味美一、其皮極細膩、鞾 珍レ之、爲二第一一、無下出二其右一者上、但皮多二牙傷痕一、其聲如レ擊二破鈸一、 一種有二銀麂一、白色、 一種有二紅麂一、紅色、 一種麖(○)〈類レ麂而大者〉
p.0333 麂
和產詳ナラズ、古ヨリクジカ(○○○)ト訓ズルハ、麂下ノ几ヲ九字ニ見誤リタルナリト云、此皮舶來アリ、インデント云、又インデイトモ云、是應帝亞(インデヤ)ノ音轉ニシテ、天竺國ノ總稱ナリ、ソノ皮至テ柔軟ニシテ、佩具ニ製スルニ上品トス、唐山ニテ靴及襪ニ用レバ濕氣ヲ避ルト云、天工開物ニ、麂皮且禦二蝎患一、北人製レ衣、而外割條以緣二衾邊一、則蝎自遠去ト云フ、インデンヲ淸南ハ烏羊皮ト書スル時ハ、應帝亞ヨリ出ル皮ハ、麂ノミニ限ラザルベシ、
p.0333 麈(しゆ)〈音主〉
三才圖會云、麈似レ鹿而大、群鹿隨レ之、皆視レ麈所レ往也、其尾辟、麈以置二蒨帛中一、能令二歲久紅色不一レ黦、又以拂レ氈、令二氈不一レ蠹、
按禪家常携二麈尾一〈今呼曰二拂子一〉爲二高僧一、衆皆隨行、〈詳見二于佛器下一〉
p.0333 麝香〈楊玄操音、食亦反、〉唐
p.0333 麝香 爾雅注云、麝〈食夜反〉脚似レ麞而有レ香、
p.0333 唐繪ニ猫ノ姿シタル獸ヲ畫ルヲ麝香ト云、字ノ作異ナリ如何、誠ニ不審ノ事也、然ニ江帥記ニ曰ク、麝香ハ非二猫形一鹿ノ類也、仍文字モ鹿ヲ隨ヘタリ、臍ハカユガリテ足ニテカクニ落ル也、其落タル所ニハ草モ不レ生ト云々、眞ニ此麝香ハ希ナル者也、〈○中略〉然ニ今繪ニカケル如ク猫ノ姿シテ香シキ獸ヲバ靈猫ト云、又ハ蛉狸トモ云、其陰(フグリ)殊ニ其香麝香ノ如シ一〈○中略〉昔シ麝香トテ日本へ渡ルハ皆是也、其別ヲ不レ知者ハ、偏ニ此靈猫ヲ麝香ト思ヘリ、
p.0333 麝 一名拔萃團〈輟耕錄〉 射香〈醫學正傳〉 臍香〈痘疹金鏡錄〉
和產未ダ出デズ、本邦ニモ諸州深山ニ香氣アル獸屎アリ、奧州及蝦夷等ニハ殊ニ多シト云、然ド モ麝ハ香ヲ剔出シテ、屎溺中ニ覆フト云テ、ソノ屎ニ香氣アルコトヲ言ハザル時ハ麝類ニ非ズ、舶來ノ麝香數品アリ、大都二ツニ分ツ、臍麝香トウツシトナリ、臍麝香ハ全形ナルヲ云、大サ一寸許、又微大ナルモアリ、形隋ナルモアリ、長キモアリ、外ハ皆毛アル皮ニテ包裹ス、新渡ニハ絲ニテ縫合タルアリ、僞ナリ、毛ハ淡褐色ナリ、又他色モアレドモ、白毛ナル者ハ品良ナラズ、重サハ大抵五錢ヨリ八錢ニ至ル、形正圓ナルヲマル手ト云、又ヤマダカト云、扁長ナルヲヒラデト云フ、先年ハマルデニ上品アレドモ今ハヒラデノ方ニ上品アリ、上品ハ體燥キテ細末トナスベシ、體濕フ者ハベタト名ヅケテ下品トス、細末トナラズ、カタマリテ紙捻ノ如ニナリテ色黑シ、燥ケルハ香氣少キ者ト雖ドモ、他藥ニ合シテ香多シ、濕フ者ニ香氣好キ品アリト雖ドモ、他藥ニ合シテ香少シ、況ヤ新渡ノ濕リテ惡臭ナルヲヤ燥ケル者ヲ皮ヲ去テ、中ノ粉ヲ取ルヲコボレト云、上品ノ稱トス、通志略ニ、宕州散麝香ノ文アリ、又ウツシト云ハ、一名ウツリトモ云、他物ヲ麝香ノ中ニ入レ置テ、ソノ香氣ヲ移シ取ルヲ云フ、鯨糞或朽木ヲ粉ニシテ器ニ入、臍麝香ヲソノ中ニ入レ、二三年陰處ニ置ケバ、麝香ソノ粉ニウツルモノナリ、ソノ麝香ヲ拔去リテ、粉ノミヲ販グ、最下品ナリ、又鯨糞或朽木粉ノ中ヘコボレテ拌合スモアリ、唐山ニテモ雞子黃(タマゴノキミ)ヲ煮テ移スコトヲ本草原始ニ云、又荔枝核ニ移スコト、本草滙ニ云フ、又荔枝核燒レ灰入二燒酒一、拌和充混ト、本經逢原ニ云フ、其色ハ赤黑シ、赤色多者ヲ上トス、アカフト云、色黑キ者ヲクロフト云、下品ナリ、ウツシモ色黑シ、麝香ニ酸臭ナル者、甘臭ナル者、辛臭ナル者、苦臭ナル者、烟臭ナル者、朽臭ナル者アリ、皆良ナラズ、コノ六臭ナクシテ香氣ツヨク、鼻ヲ衝者ハ眞ナリ、臍麝香ヲ方書ニ當門子ト云フ、上品ノ麝香包ヲ開ケバ、赤黑粉ノ中ニ豆ノ如クナル圓塊アリ、大抵八分許ノ重サアリ、大ナル者ハ一錢餘ナルモアリ、稀ナリ、質軟ニシテ幾重モ疊リテ鮓荅(セキフン)ノ如シ、是當門子ナリ、本草集要ニ、當門子麝香中如二小豆一作レ丸者是也ト云、東醫寶鑑ニ破二看麝内一有二顆子一者當門子也ト云ヘリ、又木實ヲ以僞ル者アリ、黑色ニ シテ、堅シ、試法火ニ入レ燒ケバ、聲アリテ友殘ラズシテ香氣好ク、後ニ微ク毛臭アルモノハ眞ナリ、燒ザル前ノ香ト、已ニ燒ク時ノ香ト異ナラザルヲ擇ブベシ、燒ザル前ハ香氣好クシテ、燒ケバ臭氣ニナリテ、灰殘ルモノハ僞ナリ、味ハ鹹苦ナルヲ良トス、眞僞倶ニ毛ヲ雜入スレバ、集解ニ、毛以レ在二裹中爲レ勝ト、東醫寶鑑ニモ云ヘルハ非ナリ、ソノ已ニ香ヲ出シ去リタル殻モ香氣アリ、和劑局方ニ麝香空皮子ヲ用ルコトアリ、
p.0335 承安元年七月廿六日、入道大相國〈○平淸盛〉進二羊五頭、麝一頭於院一、〈○後白河〉
p.0335 土佐寄船之事
慶長元年九月八日、元親公居城長家ノ森種崎ノ麓、葛木濱浦戸ノ湊へ夥敷唐船ヨリ來ル、元親公軍兵ヲツカハシ、此船ヲ湊へ引ヨスル、是ハ南蠻ノ内延須蠻(ノビスパンヤ)ト云國へ通船也一〈○中略〉右ノ趣ヲ元親公ヨリ秀吉卿へ言上アリ、時ヲ不レ移增田右衞門尉ヲ遣シ船中ヲ改ルニ、一生タル麝香 一疋〈○中略〉 一麝香入タル箱二人シテ持 數二ツ
p.0335 狐陰莖、和名岐都禰(○○○)、
p.0335 狐 考聲切韻云、狐〈音胡、和名木豆禰、〉獸名射干(○○)也、關中呼爲二野干(○○)語訛也、孫愐切韻云、狐能爲二妖怪至二百歲一化爲レ女也、
p.0335 按輔行傳弘決云、狐一名野干、藏經音義隨函錄云、野干、 獸也、俗云野狐也、竝以二野干一爲レ狐、與二所レ引考聲切韻一合、皇國古人多從二是説一、故現報靈異記、亦以二野干一爲レ狐、然子虚賦云、騰遠射干、張揖注云、射干似レ狐、能緣レ木、飜譯名義集云、悉伽羅、此云二野干一、似レ狐而小、形色靑黃、如レ狗群行、夜鳴如レ狼、法華經譬喩品、竝二載狐狼野干一、基法師音訓云、禪經云、見二一野狐一、又見二野干一、故知二二別一、寶積經音義亦云、狐野干之類也、則二物其實不レ同、合爲レ一非レ是、又按、周禮巾車射人注、禮記玉藻注、竝云二豻胡犬一、儀譜聘禮注、禮記檀弓注、淮南道應訓注、漢書司馬相如傳注引二郭璞一、竝云二豻、胡地野犬一、説 文亦云、豻、胡地野狗、爾雅疏引二字林一云、豻、野狗、似レ狐黑喙、皆是野干字、〈○中略〉廣韻云、狐、狐狢、説文曰、妖獸也、鬼所レ乘有二三德一、其色中和、小前豐後、死則首レ丘、與レ此不レ同、按、太平御覽引二玄中記一云、百歲狐爲二美女一、孫愐至二百歲一化爲レ女之説蓋本レ之、陶弘景曰、狐形似レ狸而黃、亦善能爲レ魅、蘇敬曰、鼻尖似二小狗一、惟大尾、全不レ類レ狸、
p.0336 悉伽羅〈此云二野〉〈音夜〉〈干一、似レ狐而小形、色大黃如レ狗、群行夜鳴如レ狼、郭璞云、射〉〈音夜〉〈干能緣レ木、廣志云、巢二於絶巖高木一也、靑論云、譬如二野干一、夜半逾レ城、深入二人舍一、求レ肉不レ得、僻處睡息、不レ覺二夜竟一、惶怖無レ計、慮レ不二自免一、住則畏レ死、便自定レ心、詐死在レ地、衆人來見、有二一人一、云我須二其耳一、言已截去、野干自念、截レ耳雖レ痛、但令二身在一、次有レ人云、我須二其尾一、便復、截去、復有レ人云、須二野干牙一、野干自念、取者轉多、或取二我頭一、則無二活路一、卽從レ地起、奮二其智力一、絶踊間關、遂得二自濟一、行者之心、求レ脱二苦難一、亦復如レ斯、生不二修行一、如レ失二其耳一、老不二修行一、如レ失二其尾一、病不二修行一、如レ失二其牙一、至レ死不レ修、如レ失二其頭一、輔行記云、狐是獸、一名二野干一、多レ疑善聽、顏師古注二漢書一曰、狐之爲レ獸、其性多レ疑、毎レ渡二河氷一、且聽且渡、故言二疑者一而稱二狐疑一、述征記云北風勁河冰合、要二須狐行一、此物善聽、氷下無レ聲、然後過レ河、説文云、狐妖獸也、鬼所レ乘、有二三德一、其色中和、小レ前大レ後、死則首レ丘、郭氏玄中記曰、千歲之狐爲二婬嬬一、百歲之狐爲二美女一、然法華云、狐狼野干、似二如三別一、祖庭事苑云、野干形小尾大、狐卽形大、禪經云、見二一野狐一、又見二野干一故知異也、〉
p.0336 狐音〈胡、キツネ、野干、クツネ(○○○)、〉
p.0336 狐(クツネ)〈多疑之獸也、古之婬嬬也、其名紫紫、化爲レ狐也、〉 野干(コキツネ)
p.0336 狐 おい わか ひる 小 ふる 又きつと〈云きつにはめなでといへり〉
p.0336 狐キツネ〈○中略〉 キツネの義不レ詳、此俗にも狐を呼て、野干といふ事、こゝに出でしと見えたり、〈(中略)キツネとは、キは臭なり、五辛菜をすべてキといふ是也、ツは詞助也、子はエヌの轉也、エヌは犬也、〉
p.0336 きつね 狐をいふ、きつに(○○○)ともいふ、伊勢物語のきつにはめなでを、花鳥物語にはきつねはめなでと書り、又万葉集に、狐にあむさむはきつ(○○)とばかりもいへる也、けつねともいへり、靈異記にきつ寢よといふは舊き説なれど心得がたし、きは黃也、つは助辭、ねは猫の略なるべし、俗に狐を野干とす、佛經に射干と見えて狐とは異れり、字彙に豻同二野犬一、似レ狐而小、出二胡地一といへり、源氏にきつねのすみかといへるは、文集に狐隱二蘭菊叢一といへる是也、大和添上郡眉間寺の西北に七疋狐といふ所あり、聖武天皇母公の陵の地にして、立石に狐杖をつき踊る形を造る、も と七狐ありしが、四个は谷に落て破碎し、三狐を存すといふ、其所以を詳にせず、
p.0337 狐きつね 關西にて晝はきつね、夜はよるのとの(○○○○○)と呼ぶ、西國にてはよるのひと(○○○○○)といふ、又關西にてすべてけつね(○○○)とよぶ也、又歌にはきつとも詠じ、詩經にはくつねと訓たり、又東國にては、晝はきつね、夜はとうか(○○○)と呼、常陸の國にては白狐をとうかといふ、是は世俗きつねを稻荷の神使なりといふ故に、稻荷の二字を音にとなへて、稻荷と稱するなるべし、又晝夜とかはりて物の名をよびわくる事あり、予思ふに婦人兒女のものにをそれ、又は物いまひする人、かかる迂遠の説を設たるなるべし、
p.0337 長忌寸意吉麻呂歌
刺名倍爾(サシナベニ)、湯和可世子等(ユワカセコドモ)、櫟津乃(イチヒツノ)、檜橋從來許武(ヒバシヨリコム)、狐爾安牟佐武(キツニアムサム)、
右一首傅云、一時衆集宴飮也、於レ時夜滿三更、所レ聞二狐聲一、爾乃衆諸、誘二興麻呂一曰、關二此饌貝雜器、狐一聲 河橋等物一、而作レ歌者、卽應レ聲作二此歌一也、
p.0337 昔男みちのくにまですゞろに至りにけり、そこなる女、都の人はめづらかにやおぼえけん、せちに思へる心なん有ける、〈○中略〉さすがにあはれとや思ひけん、いきてねにけり、夜ふかく出ければ女、
夜もあけばきつにはめなんくだかけのまだきになきてせなをやりつる
p.0337 狐ヲ命婦(○○)ノ御前ト云ハ何事ゾ、〈○中略〉狐ヲ祝フ社、女神ニテマシマサバ、女官ニ準ジテ命婦ト云フ、吳音ニミヤウブト申セルニヤ、又元來其名アル神ノ使者ナレバ云歟、人ニ可レ被レ尋也、
p.0337 一命婦事
或云、昔洛陽城ノ北、舟岡山ノ邊ニ老狐有リ、夫婦、夫ハ身ノ毛白クシテ、銀針ヲナラベタル如シ、尾ノ端アガリテ、秘密ノ五古ヲサシハサミタルニ似タリ、婦ハ鹿ノ首、狐ノ身ナリ、又五ノ子ヲタナ ビク、各異相セリ、〈○下略〉
p.0338 持物道祖祭似レ少レ應、野干坂伊賀專(タウメ/○)之男祭叩二蚫苦本一舞、
p.0338 恠刀禰〈九尾附〉
狐を野干(ヤカン)といふよしは、和名抄云、狐考聲、切韻云、狐、〈音胡、和名木豆禰、〉獸名射干(ヤカン)也、關中呼爲二野干一語訛也と抄せり、亦野干は狐に似て、好て樹に登るもの也といふ、〈出二于捜神記一〉萬葉集に、野干玉と書てぬばたまと訓じたるは、狐は、陰獸にして夜をむねとすればなるべし、又きつねの異名をまよはし鳥(○○○○○)といふは、人を魅すものなれば也、又伊賀專(タウメ)ともいへるよし新猿樂記に見えたり、一説に伊賀にて白狐を專御前(タウメゴゼン)と唱るといへり、是は伊賀といふ文字につきていふ歟、信じがたし、專(タウメ)は和名太宇女、老女の一稱なるよし和名抄に見えたり、唐山の古説に、狐は千古の淫婦也、その名を阿紫といふといへれば、こゝにも專(タウメ)と呼にやあらん、河海抄に刀女(タウメ)は狐なりといへり、
p.0338 延久四年十二月七日、藤原仲季勘二罪名一、配二流土佐國一、於二齋宮邊一依レ射二殺白專女一也、
p.0338 治承三年正月十一日、齋宮自二野宮一退下、〈○中略〉去年坐二一本御書所一之間、五月十三日見二付白專女一、〈狐之(之恐也誤)齋宮號二專女(○○○○○)一〉被二射殺一、〈○下略〉
p.0338 狐〈訓二喜津禰一、或訛稱二化津禰一、○中略〉
集解、狐之多レ疑、妖魅媚惑、衆人所二常識一也、有二黃黑白駁一、色白者尤稀、尾有二白錢文一者亦稀、腋腹白者儘有、凡晝伏レ穴夜出竊食、聲患如二兒啼一、磬喜如二打壼一、故民俗聞二其鳴聲一而卜二吉凶一、其氣極臊烈、其失氣亦惡臭不レ可レ當、若人驅レ犬逐レ之、窘迫必失氣、當二其失氣一則人惱大迷不レ能レ近レ之、若夜行忽見二野火一、其靑燃者狐尾放レ火也、或謂狐取二人之髑髏、馬之枯骨、及土中之朽木一以作二火光一、而未レ詳、〈○中略〉自レ古流俗傳稱、狐者稻荷之神使也、天下之狐、悉拜二詣洛之稻荷社一、能超二華表一、能作二妖魅一、其妖術之長、從二其長者一、神授二位階一者有レ品、予〈○平野必大〉昔聞二老祝之言一、曰稻荷神者素盞烏之子、稻倉魂之靈、上古有二使レ狐之事一乎、未レ詳所二以然一焉、惟 村村家家素有レ狐、常隱而不レ見、故村里家墅有二間地一、必構一小祠一、稱二稻荷一以祭二狐神一、而祈レ福禳レ災也、狐性善守レ死、今人生割二狐腹一取レ肝、調二鳥犀圓一、然狐剛直不動、不二膚撓一不二目逃一、刳二盡臟腑一而後死、此則首レ丘之理乎、狐雖二多疑妖慧一、不レ忍二油鼠之臭一、而被レ害可レ謂二忮而愚一矣、本邦獵夫捕レ狐法、設二弶于野叢一、繫二油炙死鼠一以爲レ餌、狐忮二香餌一不レ曉レ罹レ弶而斃、今人不レ好レ食二狐肉一、惟取レ脂煉レ膏、博二于瘡腫一以得二奇効一焉、
p.0339 狐 キツネ〈歌ニ略シテキツ、詩經道春點ニクツネ、今アヤマツテケツネト云、〉 マヨハシドリ歌 イカダトメ〈同〉 京ニテ夜ハインヨルノトノト云、西國ハ夜ハヨルノヒト云、東國ニテ夜ハトウカト云、是稻荷ノ字ヲイミテ音ニテヨミタル也、
是ハ多キモノ也、今ツキ、害ヲナス、形シルヽ物也、大和本草ニ四國ツシマ肥前ノ、五島ニヲラヌト云、是ハミナ茶色也、染色ニモ、キツネ色ト云狐、ハ年久シクナルト變ジテ白狐ニナルト云、時珍説ニ白色者尤稀云々、
p.0339 狐〈音胡○中略〉
按、本朝狐、諸國有レ之、唯〈伊豫、土佐、阿波、讀岐、〉四國無レ之(○○○○)耳、凡狐多壽經二數百歲一者多、而皆稱二人間之俗名一、〈如二大和源九郎、近江小左衞門一是也、〉相傳、狐者倉稻魂之神使也、天下狐、悉參二仕洛之稻荷社一矣、人建二稻荷祠一而祭レ狐、其所レ祭者、位異二于他狐一、凡狐患則聲如二兒啼一、喜則聲如二壺敲一、性畏レ犬、若犬逐レ之窘迫則必屁、其氣惡臭而犬亦不レ能レ近レ之、將レ爲レ妖、必戴二髑髏一拜二北斗一、則化爲レ人、〈見二于陳眉公秘笈一〉惑レ人報レ仇、亦能謝レ恩、好二小豆飯油熬物一、
p.0339 狐〈○中略〉 其性多レ疑善聽、信州諏訪湖冬冰堅凝、狐聽而先渡、自後人亦度、春狐聽レ冰、其後人不レ渡ト云、〈○中略〉本草弘景曰、江東無レ狐、本邦ニモ四國及對馬、肥前之五島ニハ無レ狐ト云、
p.0339 狐は鼠の油揚を好
世鏡抄〈廿二丁ウ〉に、まことに燒(ヤキ)鼠につける狐のごとく、をどりあがりはしりつゝ、色をかへ品をかへて馳走也云々、
p.0340 白狐(ビヤクコ)
p.0340 三年九丹、石見國言、白狐見、
p.0340 延曆元年四月乙丑、重閣門白狐見、
p.0340 狐
近年奧州カラ黑狐皮ノキタルアリ、松前ヨリ黑白交ル狐皮來ル、會津ヨリウス黑ノ皮モキタル、
p.0340 秋田蕗
奧州の内にて黑き狐を見たり、上方には無きもの也、蝦夷地には有るよし兼て聞けり、純黑なる狐の皮は尤珍重する事なり、我見たりしは、あまり見事なる黑色にてはなかりし、
p.0340 祥瑞
九尾狐(○○○)〈神獸也、其形赤色、或曰白色、音如二嬰兒一、○中略〉白狐(○○)〈岱宗之精也〉玄狐(○○)〈神獸也○中略〉 右上瑞〈○中略〉
赤狐(○○)〈○中略〉 右中瑞
p.0340 白狐非二瑞物一
今俗白狐を瑞物とし、九尾狐を妖物とするは誤也、九尾狐の吉瑞なることは、延喜式にも見え、漢籍の所見おほかるは、已に六十四の卷にいへるがごとし、古微書十一春秋濳潭巴に、白狐至レ國、名利不レ至、下驕恣云々とありて、白狐は靈瑞の物にあらず、
p.0340 靈龜元年正月甲申朔、遠江國獻二白狐一、
p.0340 養老五年正月戊申朔、甲斐國獻二白狐一、
p.0340 天平十二年正月戊子朔、飛驒國獻二白狐白雉一、
p.0340 和銅五年七月壬午、伊賀國獻二玄狐一、 九月己巳詔曰、〈○中略〉況復伊賀國司阿直敬等所レ獻黑狐、卽合二上瑞一、其文云、王者治致二太平一則見、思與二衆庶一共二此歡慶一、宜レ大二赦天下一、其强竊二盗常赦所レ不 レ免者、並不レ在二赦限一、但私鑄錢者降二罪一等一、其伊賀國司目已上、進二位一階一、出レ瑞郡免レ庸、獲レ瑞人戸給二復三年一、
p.0341 九尾の狐
玉藻前の謠曲にて、那須野の殺生石の故事を世人のきゝなれ、かつ過ぎし年、妖狐傳といふ册子なども印行したることありしからに、九尾狐といへば、惡狐とのみおもへり、ふるくも下學集、琉球神道記などにも、この俗説を載せたり、下野なる玉藻稻荷の社は、かの惡狐の靈を祭れりとかや、しかはあれど九尾狐はもと瑞獸にて、已に太平御覽に、山海經、竹書紀年、吳越春秋、白虎通、古今注、魏略、郭璞九尾狐賛等を引用せり、因に云ふ、官妓を九尾狐といへること侯鯖錄にあり、これは官妓の聲色のために、人の蠱惑せらるゝを、狐に魅さるゝに喩へしなるべし、
p.0341 恠刀禰〈九尾附〉
唐山演義の書に、九尾の老狐化して姐妃となり、紂王を蟲惑せしよしを作りしかば、こゝにも好事のものありて、近衞帝の宮嬪玉藻前といふ狐妖を作り出せしは、謠曲の滑稽なるが、何人か序あやしう綴りなして、三國傳來の怪談なりぬ、この草紙久しく寫本にて行れしを、近曾繪にかき板に鏤てます〳〵行れ、九尾の狐といへば、姐妃玉藻が事也と侲子も合點せり、今按ずるに、九尾の狐は瑞獸也、呂氏春秋、禹年三十、未レ娶行二塗山一、恐二時暮失一レ嗣、辭曰、吾之娶必有レ應也、乃有二白狐九尾一而造二干禹一、禹曰、白者吾服也、九尾者其證也、于レ是塗山人歌曰、綏々白狐、九尾龎々、成二于家室一、我都悠昌、于レ是娶二塗山女一、白虎通、狐九尾者何、狐死首レ丘不レ忘レ本也、明二安不一レ忘レ危也、必九尾者何、
p.0341 狐は人にくひつくもの也、堀川殿にて、舍人がねたる足を狐にくはる、仁和寺にて、夜本寺の前をとをる下法師に、狐三飛かゝりてくひつきければ、刀をぬきてこれをふせぐ間、狐二疋をつく、ひとつはつきころしぬ、二はにげぬ、法師はあまた取くはれながらことゆへなかりけり、
p.0342 狐の愚
狐のよな〳〵くるを、かならず餌與ふる者ありけり、かれはけものゝうちにて、ざえあるものなれば、かくしなばかれも惠をしりて、むくゆることもありなんとて、日ごとに怠らずあたふれば、かれもなれになれてけり、ある日うま子生れてければ、いとことしげさに、二日ばかり餌あたふることをわすれにければ、きつねうらみいかりてや、そのうま子をくひてけりとそ、
p.0342 大納言泰通の五條坊門高倉の亭は、父侍從大納言の家にてふるき所也、相つゞきてすまれける程に、きつねおほく常にばけゝり、され共ことなる事などし出したる事もなければ、扨過られけるに、年をへてます〳〵にばけゝる程に、大納言いかり給て、きつねがりをしてたぬをたちてんと思て、侍共にみな其用を仰せてけり、あす下人共あまたぐしてひとりももれず皆參べし、面々につえ又弓矢など用意すべきよし仰つ、あす四方を能かためてついぢのうへ屋の上に人を立、又天井のうへに人を入てみな狩出して、出ん所を打ころし射ころさんとさだめてけり、去程に其あかつきがたに、大納言の夢に見給ふやう、年たけしらがしろき大童子のとくさのかり衣きたる一人、西向のつぼの柑子のもとにかしこまりて居たり、大納言あれは何ものぞととひければ、おそれ〳〵申けるは、是は年比此殿の御内に候もの也、われ二代迄相つぎ候ほどに、子共孫まであまたいできて候、をのづから狼藉をふるまひ候事など、心のをよび候ほどは制し仕候へ共、用ひ候はぬによりて、今かたじけなく御勘氣にあづかり候事、尤其いはれある事にて候、明日みな命をたゝれまいらすべきよしを承候、御さたのやう承及候に、まことにいかでか一人もにげのがるゝもの候べき、こよひばかりの命かなしく候て、おそれ〳〵うれへ申上候はんとて參候也、まげて此度の御勘當をばゆるし給はり候へ、今より後をのづからもしれごと仕候はゞ、其時いかなる御勘當も候べき也、わかく候やつばらに、此御氣色のやう申ふくめ候 なば、いかでかこり侍らず候べき、あやまりて御まもりと成て候はゞ、今より後は御内の吉事などをば、かならず吿しらしめまいらすべく候といひて、かしこまりゐたるとみるほどに夢さめぬ、夜もあけてしら〳〵と成にければ、大納言をき給ひて、はしのやり戸をあけて見出されければ、夢にこれ大童子が居たると見つる木のもとに、老孤の毛なきが一疋有、大納言を見奉ておそれたるていにて、やをらすのこの下へはひ入にけり、ふしぎにおぼえて、其日のきつねがりはとどめてけり、其後はばけものながくなく成ぬ、家中に吉事あらんとては、かならずきつねないてつげゝれば、かねて思ひしりけるとぞ、
p.0343 釣狐寺
南莊少林寺ノ塔頭、永德年中ニ耕雲庵ト云アリ、其住僧伯藏主ト云リ、此僧鎭守稻荷明神ヲ信仰シテ、毎日法施不レ怠、或時神感應有テ、森ノ中ニ三足ノ野狐アリ、抱歸テ養愛ス、此狐ニ有レ靈、達二隨仕用一、追二賊難一事アリ、其孫々三足ニシテ、今ニ至寺内ニ住居ス、稻荷靈驗新也、世ニ云傳、釣狐ノ狂言〈又吼噦(コンクワイ)共イヘリ〉此寺ヨリ發リ、然ハ才覺ナリシ狐ノ謀ナレバ、其時大藏某狂言ニ作シヲ、彼狐感ジ、老翁ニ化シテ狂言ヲ見テ、猶野狐ノ骨髓動ヲ口傳セシトナリ、誠ニ狂言綺語トハ云ナガラ、道ニ達シヌレバ、如レ是奇特モ有事ニヤ、尤家ノ大事トスル狂言也、
p.0343 稻荷藤兵衞(たうかとうべい) 佐倉より一里餘り東の方墨村の百姓なり、この男常に狐をとる事に妙を得たり、故にたうか藤兵衞といふ、〈物類稱呼に、世俗きつねをいなりの神使なりといふ、故に稻荷の二字を音にとなへ てたうかと稱るなるべし、〉藤兵衞常に白分居屋鋪の裏にブツチメ〈狐を捕る仕かけ也〉を拵らへ置、此所へつれ來りて捕と云、ある時用事ありて、常州水戸へ往し歸り、おなばけの原にて、狐に出逢し故、この狐を欺し誘して、我が家へつれ歸り、裏山のブツチメにかけて捕しとなり、此道法十里あまり在て、その内に舟渡三ケ所ありといへり、また或日藤兵衞千葉野を通りける時、狐に出逢し故、欺し來りてブツチメに懸ん としたりしが、古狐ゆゑ、中々手安くかゝらず、一兩日過て、かの狐、隣家の忰に化て、夜半のころ、藤兵衞が家に來り、表の戸を叩き、藤兵衞〳〵、ブツチメへ狐がかゝつたり、はやく起よ〳〵と云けるゆゑ、藤兵衞ふと目をさまし云けるやう、今夜はブツチメを懸はぐつたり、狐のかゝるべきやうなし、欺しおるなといひすてゝ、偶然と寢て仕舞たり、翌朝藤兵衞が云けるは、夜邊隣の忰ブツチメにかゝつたり、行て見べしといひける故、家内の者起いでゝ至り見るに、大なる古狐一疋かかり居たりしとなり、〈藤兵衞めざましにとなりの忰を狐なりとさとり、卽智のあいさつ誠に名人と云べし、〉また或村に狐多く住て、人家の鷄など捕り食ふゆゑ、村内の若者ども相談して、かの藤兵衞をたのみ來り、狐を捕る所見たきよし望みければ、いと心安き事なり、おもしろき仕方して捕て見すべしとて、まつ地藏堂の庭の隅にブツヂメを仕かけ置、我は山に到り、此所へ狐を連來りてとる故、各々は此堂の内にて見物すべしと、表に竹のすだれをさげ、大勢この内に隱れ居たり、藤兵衞はやがて支度と丶のへて山に入、酒に醉たる聲色にて、大聲あげ、きつねはおらぬか、狐ヤアーイたうかにはやくめぐりあひたやなどゝ、さん〴〵に呼はりながら、山中をめぐりありくに、程なく藤兵衞狐をつれ、大醉の身ぶりにて、かの堂の前に出來りぬ、腰に二尋ばかりの繩をつけ、その先に鷄の死したるを結び付、よろよろ〳〵として引ずりありく、狐は是を捕らんとして、後になり前になり欠まはる、やがて藤兵衞懷よりごまめを落す、〈コハ〉大切の物を落したり、〈コノ〉ちくしやうめ、うぬに食れてたまるものか、〈ソウ〉うまくはまゐるまいなどゝ、ひとり言して、かのごまめを拾ひながら、終にたふれ臥したり、狐はそろ〳〵そばへより、拾ひ殘しごまめをとり食ひ、又後の方へ廻りて、かの鷄を曳く、藤兵衞目を覺し、足をあげて是を追ふ、かくする事度々なり、狐は楙れて側のブツチメに近より、しばらくやうすを伺ひ、段々となかへ這入、幾度も匂ひをかぎ、終に餌をくはへて横とびに飛いだす、其拍子に刎木はづれてブツチメにかゝりぬ、其自由なること、實に座舖の猫を嘲哢するが如 し、予藤兵衞に逢し時、餌は何なる哉と尋たれば、鼠の油揚なりといへり、〈然るやいなや〉佐倉の儒臣窪田某、狐藤兵衞の傳あり、云、城之東墨村有二獵者一、名二藤兵衞一、善捕レ狐、人呼曰二稻荷屋一、稻荷司レ穀神也、或謂神卽狐也、或謂狐神所レ使、故謂レ狐亦曰二稻荷一、以二藤兵衞捕一レ狐べ又轉曰二稻荷屋一云、〈○下略〉
p.0345 狐を捕る
我が里〈○越後魚沼郡〉にて、狐を捕る術さま〴〵あるなかに、手を懷にして捕る術あり、その術いかんとなれば、春陽の頃は、つもりし雪も、晝の内は軟なるゆゑ、夜な〳〵狐の徘徊する所へ、麥など舂杵を雪中へさし入て、二ツも三ツもきねだけの穴を作りおけば、夜に入りて、此穴も凍りて、岩の穴のやうになるなり、さてかれが好く油滾(かす)などをちらしおき、かの穴にも入れおく、さて夜ふけ、人靜りたるころ狐こゝにきたり、ちらしおきたるを喰ひ盡し、猶たらざれば、かならずかの穴にあるをくらはんとし、身をしゞめ、倒になりて、穴に入り、いれおきたるものをくらひつくし、出んとするに、尾のすこしいづる程に、作りまうけたる穴なれば、再びいづる事叶はず、雪は深夜にしたがひてます〳〵こほり、かれがちからには、穴をやぶる事もならず、いでん〳〵として、終には性を勞らす、捕へんとはかりしもの、これを見て、水をくみきたりて、あなに入るゝ、こほりたる雪の穴なれば、はやくは水も漏ず、狐は尾を振はして、水にくるしむ、人は邊りにありて、かれ將に死せんとする時、かならず屁をひるを避る、狐尾を搖さゞるを見て、溺死たるを知り、尾を採り、大根を拔がごとくして狐を得る、穴二〈ツ〉も三〈ツ〉も作りおくゆゑ、をりよき時は、二疋も三疋も狐を引拔事あり、是は凍りて岩のやうなる雪の穴なればなり、土の穴はかれが得ものなれば、自在をなして逃さるべし、されば雪國にかぎる事なれば、雪のついでにしるせり、
p.0345 五年、是歲命二出雲國造一〈闕レ名〉修二嚴神之宮一、狐嚙一斷於友郡役丁所レ執葛末一而去、
p.0345 寶龜三年六月己巳、有二野狐一踞二于大安寺講堂之甍一、
p.0346 寶龜五年正月乙丑、山背國言、去年十二月、於二管内乙訓郡乙訓社一狼及鹿多、野狐一百許毎夜鳴、七日而止、 六年五月乙巳、有二野狐一居二于大納言藤原朝臣魚名朝座一、 八月戊辰、有二野狐一踞二于閤門一、
p.0346 延曆二十二年十二月戊申、夜野狐鳴二禁中一、
p.0346 大同三年八月乙丑、野狐窟二朝堂院中庭一、常棲焉、經二十餘日一而不レ見、
p.0346 弘仁三年七月辛酉、有二野狐一見二朝堂院一、
p.0346 弘仁八年九月戊戌、有二野狐一登二於殿上一、
p.0346 天長四年十一月甲子、大内有二狐鳴一、仍遣一使柏原幷後大枝山陵一申吿、其詞曰云々、
p.0346 元慶五年正月、是月諸衞陣多二恠異一、右近衞陣、大將以下將曹已上座、狐頻遺レ屎、府掌下毛野安世宿二侍陣座一、狐溺二其上一、〈○中略〉近衞笠吉人胡籙緖、爲レ狐所二嚙去一、人執而引レ之、狐猶不レ放、遂嚙斷而將去、左兵衞陣有レ狐、嚙二所レ納之劔一而遁走、兵衞等追得二取留一、
p.0346 利仁將軍若時從レ京敦賀將レ行二五位一語第十七今昔、利仁ノ將軍ト云人有ケリ、若カリケル時ハ、ト申ケル、其時ノ一ノ人ノ御許ニ恪勤ニナン候ケル、越前國ニノ有仁ト云ケル勢德ノ者ノ聟ニテナン有ケレバ、常ニ彼國ニゾ住ケル、〈○中略〉其殿ニ年來ニ成テ所得タル五位侍有ケリ、〈○中略〉此五位ハ殿ノ内ニ曹司住ニテ有ケレバ、利仁來テ五位ニ云ク、去來サセ給へ大夫殿、東山ノ邊ニ湯涌シテ候フ所ニト、五位糸喜ク侍ル事哉、今夜身ノ痒カリテ否寢入不レ侍ツルニ、但シ乘物コソ侍ラネトイヘバ、利仁此ニ馬ハ候フトイヘバ、五位穴喜ト云テ、〈○中略〉關山モ過テ三井寺ニ知タリケル僧ノ許ニ行著ヌ、五位然ハ此ニ湯涌タリケルカトテ、其ヲダニ物狂ハシク遠カリケルト思フニ、房主ノ惰不二思懸一ト云テ經營ス、然ドモ湯有リ氣モ无シ、五位何ラ湯ハトイヘバ、利仁實ニハ敦賀へ將奉ル也ト云バ、五位糸物狂ハシカ リケル人哉、京ニテ此ク宣ハマシカバ、下人ナドモ具スべカリケル者ヲ、无下ニ人モ无テ然ル遠道ヲバ何カデ行ント爲ゾト怖シ氣ニイへバ、利仁疵咲テ、己レ一人ガ侍ルハ千人ト思セト云ゾ理ナルヤ、此テ物ナド食ツレバ急ギ出ヌ、利仁其ニテゾ胡錄取タ負ケル、然テ行程ニ三津ノ濱ニ狐一ツ走リ出タリ、利仁此ヲ見テ吉使出來ニタリト云テ、狐ヲ押懸レバ、狐身ヲ弃テ逃トイへドモ、只責ニ被レ責テ否不二逃遁一ヲ、利仁馬ノ腹ニ落下テ、狐ノ尻ノ足ヲ取テ引上ツ、乘タル馬糸賢シト不レ見トモ、極キ一物ニテ有ケレバ幾モ不二延サ一、五位狐ヲ捕ヘタル所ニ馳著タレバ、利仁狐ヲ提テ云ク、汝ヂ狐、今夜ノ内ニ利仁ガ敦賀ノ家ニ罷テ云ム樣ハ、俄ニ客人具シ奉テ下ル也、明日ノ巳時ニ高島ノ邊ニ男共迎ヘニ、馬二疋ニ鞍置テ可二詣來一ト、若此ヲ不レ云バ汝狐只試ヨ、狐ハ變化有者ナレバ、必ズ今日ノ内ニ行著テイへトテ放テバ、五位廣量ノ御使哉トイへバ、利仁今御覽ゼヨ、不レ罷テハ否有ジト云ニ合テ、狐實ニ見返々々、前ニ走テ行ト見程ニ失ヌ、然テ其夜ハ道ニ留ヌ、朝ニ疾ク打出テ行程ニ、實ニ巳時許ニ二三十町許ニ凝テ來ル者有リ、何ニカ有ント見ルニ、利仁昨日ノ狐ノ罷著テ吿侍ニケリ、男共詣來ニタリトイへバ、五位不定ノ事哉ト云程ニ、只近ニ近ク成テハラハラト下ルマヽニ云ク、此見ヨ實御マシタリケリトイへバ、利仁頰咲テ何事ゾト問へバ、長シキ郎等進ミ來タルニ、馬ハ有ヤト問ヘバ、二疋候フトテ食物ナド調ヘテ持來レバ、其邊ニ下居テ食ツ、其時ニ有ツル長シキ郎等ノ云ク、夜前希有ノ事コソ候シカト、利仁何事ゾト問へバ、郎等ノ云ク、夜前戌時許ニ御前ノ俄ニ胸ヲ切テ病セ給ヒシカバ、何ナル事ニカト思ヒ候ヒシ程ニ、御自ラ被レ仰樣、己ハ狐也、別ノ事ニモ不レ候、此晝三津ノ濱ニテ、殿ノ俄ニ京ヨリ下ラセ給ケルニ會奉タリツレバ、逃候ツレドモ否不二逃得一テ被レ捕奉タリツルニ、被レ仰ル樣、汝今日ノ内ニ我家ニ行著テ云ム樣ハ、客人具シ奉テナン俄ニ下ルヲ、明日ノ巳時ニ馬二疋ニ鞍置テ、男共高島ノ邊リニ參リ合へトイへ、若今日ノ内ニ行著テ不レ云バ、辛キ目見センズルゾト被レ仰ツル也、男共速ニ出立テ參レ、 遲ク參テハ我勘當蒙リナントテ、怖ヂ騷セ給ツレバ、事ニモ候ヌ事也トテ、男共ニ召仰候ツレバ、立所ニ例樣ニ成セ給テ、其後鳥ト共ニ參リツル也ト、利仁此ヲ聞テ頰咲テ五位ニ見合スレバ、五位奇異ト思タリ、物ナド食畢テ急立ヲ行程ニ、暗々ニゾ家ニ行著タル、此見ヨ實也ケリトテ、家ノ内騷ギ喤ル、〈○中略〉而ル間向ヒナル屋ノ檐ニ狐指臨キ居タルヲ利仁見付テ、仰覽ゼヨ昨日ノ狐ノ見參スルヲトテ、彼レニ物食セヨト云ヘバ、食ハスルヲ打食テ去ニケリ、
p.0348 承平の比、狐數百頭、東大寺の大佛を禮拜しけり、諸人これを追ひければ、その靈人につきていひけるは、久しく此寺にすむ、今尊像をいたましめやかんとするが故に、禮拜をいたす也とぞいひける、
p.0348 天祿三年二月四日乙丑、今日狐百餘頭鳴二陣内一、
p.0348 寬弘二年九月十六日辛酉、御卜、東大寺言上、去月十三日、白鷺烏與レ狐爭鬪、幷大佛殿内如二闇夜一、大佛面幷軀汗出之故也、
p.0348 春宮大進源賴光朝臣射レ狐語第六
今昔、三條院ノ天皇ノ春宮ニテ御坐ケル時、東三條ニ御坐ケルニ、寢殿ノ南面ニ春宮行カセ給ヒケルニ、西ノ透渡殿ニ殿上人二三人許候ケリ、而ル間辰巳ノ方ナル御堂ノ西ノ檐ニ、狐ノ出來テ臥シ丸ビテ臥セリケルニ、源賴光朝臣ノ春宮大進ニ候ケルニ、此レハ多田ノ滿仲入道ノ子ニテ極タル兵也ケレバ、公モ其道ニ仕ハセ給ヒ、世ニモ被レ恐テ士有ケル、其レガ其ノ時ニ候ケルニ、春宮御弓ト、ヒキメトヲ給ヒテ、彼ノ辰巳ノ檐ニ有ル狐射ヨ卜仰セ給ケレバ、賴光ガ申ス樣、更ニ否不二射候一ハジ、異人ハ射シテ候フトモ弊クモ不レ候、賴光ニ至テハ射候ヒナム无二限リ一耻ニ可レ候シ、然リトテ射宛候ハムニ於テハ可レ有キ事ニモ不二候ハ一、若ク候ヒシ時、自然ラ鹿ナドニ罷合テ、墓墓シカラネドモ射候ヒシヲ、今ハ絶テ然ル事モ不二仕候一ハネバ、此ノ樣ノ當物ナドハ、今ハ箭ノ落 ル所モ思工不レ候ト申テ、暫ク不レ射事ハ此ク申サム程ニ逃テヤ去ヌルト思フ程ニ、惡ヴハ西向ニ居テ吉ク眠テ可レ逃クモ非ズ、而ル間マメヤカニ射ヨト責ナセ給ヘバ、賴光辭ビ申シ煩テ、御弓ヲ取テヒキメヲ番テ亦申ス樣、カノ候ハヾコソ仕リ候ハメ、此ク遠キ物ハヒキメハ重ク候フ、征箭シテコヅ射候へ、ヒキメハ更ニ否ヤ不二射付一候ラム、箭ノ道ニ落テ候ハムハ射殺シ候ハムヨリモ鳴呼奇候シ、此ハ何ニ可レ仕キ事ニカ候ラムト、紐差乍ラ表ノ衣ノ袖ヲマクリ、弓頭ヲ少シ臥セタ、弓ヲ箭ツカノ有ル限リ引キ絡テ箭ヲ放タレバ、箭ノ行クモ暗クテ不レ見エヌ程ニ、卽チ狐ノ胸ニ射宛テツ、狐頭ヲ立テ轉テ逆樣ニ池ニ落入ヌ、力弱キ御弓ニ重キビキメヲ以テ射レバ、極ク弓勢射ル者也トモ不二射付一シテ、箭ハ道ニ可レ落キ也、其レニ此狐ヲ射落シツルハ希有ノ事也ト、宮ヨリ始奉テ候フ殿上人共モ皆思ケルニ、狐ハ水ニ落入テ死ニケレバ、卽チ人ヲ以テ取テ令レ弃ツ、後宮極ク感ゼサセ給テ、忽ニ主馬ノ御馬ヲ召テ賴光ニ給フ、其ノ時ニ賴光庭ニ下テ、御馬ヲ給ハリテ拜シテナム上ケル、然テ申ケルハ、此レハ賴光ガ仕タル箭ニモ不二候ハ一、先祖ノ耻セジトテ、守護神ノ助ケテ射サセ給ヘル也トナム申テ罷出ニケル、其後賴光親シキ兄弟骨肉ニ會テモ、更ニ我ガ射タル箭ニモ非ズ、此レ可レ然キ事也トナム云ケル、亦世間ニモ此事聞エテ、極ク賴光ヲナム讃ケルトナム語リ傳ヘタルトヤ、
p.0349 みはらのゝみかりの事
みかりの人々は、日のくるゝをも時のうつるをもしらずしてかりけるに、きつねなきてきたをさしてとびさりけり、人々これをとゞめんとて、やはずをとつてをつかけたり、君〈○源賴朝〉御らんぜられ、かれらをめしかへして、秋の野のきつねとこそいへ、夏の野にきつねなく事ふしぎ也、たれか候うたよみ候へと仰下されば、すけつねうけたまはつて、まことに源太がうたにはなるかみもめでゝ雨はれ候ひぬ、是にもうたあらばくるしかるまじ、たれ〳〵もと申されければ、大名わ れもわれもとあんじゑいじて見んとすれ共、よむ人なかりけり、こゝにむさしの國の住人あいきやうの三郎ゐだけだかになり、うかべる色見えければ、源太左衞門いかさまあいきやうの仕りぬと見えて候、はや〳〵と申ければやがて、
よるならばこう〳〵とこそなくべきにあさまにはしるひるきつねかな、と申ければ君聞召れてしんべうに申たり、まことにきつねにおほせてきつけう有べからずとて、かうづけの國松えだといふところにて三百町をぞ給はりける、
p.0350 建曆三年〈○建保元年〉十月十三日己酉、人レ夜雷鳴、同時御所南庭、狐鳴及二度々一云云、
p.0350 建長二年十二月十一日壬寅、幕府南庭連夜狐吟、今夜大番衆中、筑後左衞門衣郎知定代官男、以二引目一射レ之、仍走二出於東唐門一、吟聲到二于比企谷方云云、
p.0350 北條氏康和歌の事
聞しは昔、北條氏康公、近習に仕へし高山伊與守といふ老士かたりけるは、氏康は、文武の達人、弓矢を取て、關八州に威をふるひ、東西南北に敵有てたゝかひ、晝夜いくさ評定やんごとなく、寸暇をえ給ばず、され共、すきの道にや、其内にも、和歌をこのましめ給ひたり、〈○中略〉或夕つかた高樓にのぼり、すゞみ給ひける時に、其近邊へ狐來て鳴つるを、御前に候する人々、あやしみけれ共、兎角いふ人なし、梅窻軒と云者申けるは、むかし賴朝公、信州淺間見はら野の御狩に、狐鳴て北をさして飛さりぬ、〈○中略〉誰か有、歌よみ候へと仰下されければ、〈○中略〉武藏の國のぢう人愛甲三郎季隆、〈○中略〉と申ければ、君聞召て、神妙に申たり、誠に狐におほせて吉凶有べからずとて、上野の國松井田にて、三百町を給はるとかや、愚老和歌の道をまなび、とくをよばぬまでも案じて見候べきをと申、氏康きこしめし、夏狐鳴事珍事なり、皆々歌を案じ、出來次第に一首仕るべしと仰有ければ、各各案ずる體見えけれ共、詠人なし、やがて氏康公、 夏はきつねになく蟬のから衣をのれ〳〵が身の上にきよ、とよみ給ひしに、夜明て見れば、其狐の鳴つる所に死て有けり、皆人奇妙不思議也と感じあへり、
p.0351 安永五年三月
日光御社參御供行列御役人付、幷御山の繪圖うりあるく、此頃眞崎いなりの茶屋の老嫗に馴る狐有、嫗御出とよべば必出る、名付て御出狐と云、
p.0351 一駿河沖津の驛出はなれんとする茶店に、老婆ありて云、爰に狐あり、呼べば必來ル、旅人のあたふる食を取行と、試に白餅を買て呼に、老狐森の方より出ヅ、人にも恐れざるさま也、彼白餅を投しかば、やがてくわへて退き侍りし、狐は毎々人を恐れ侍るに、いかでかくは近づき侍るらん、ところのものはいと怪しき事なんと語り侍る、里俗に此狐を今川新兵衞とよぶ〈賢按、今川領の時分よりの狐か、〉
p.0351 狐の義理
越後國村上の近在に、百姓夫婦に娘三人持てり、天明巳年〈○五年〉の事なりし由、家内に鼠荒て物をそこないければ、マチンを飯にまじへ鼠に飼ひ、貳三疋も取りて庭先に捨たりしに、其夜近所の狐の子來りて彼鼠を食たるに、マチンをあたへたる鼠なれば、狐も其毒にあたりて死たり、親狐其家のあるじを大に恨み、姉娘に取付て色々とうらみ口ばしり、數日なやみてつひに死せり、又其次の娘にとり付て、只一月ばかりの間に三人の娘死しぬれば、父母甚歎き悲しみ、其夜庭先へ立出ていひけるは、鼠を捨たるは、汝が子にあたへ殺さんとの事にはあらざるに、汝が子むさぼり食ひて死したり、是元來汝が子のあやまりなるを、此方のしはざのやうに心得、此方の愛子三人までを取殺すとは、いかなる事そや、畜生とは云ながらあまりなる事かなと恨かこちけるに、彼親狐、此道理につまりしにや、其翌晩庭先に老狐貳疋死し居たり、百姓夫婦是を見て、昨夜此方 より恨をいひし道理にせめられ、かくみづから死したりと見えたり、不便のわざなりとなげき、つひにそれより無常を觀じ、夫婦とも剃髮し、田地を賣り家業を捨て、四國西國へ順禮に出たり、此春其者此邊へも來りしと、越後所々其はなしありけるまゝ書付侍る、
p.0352 多磨川狐
武藏國多磨郡多麻川ぞひの村落に、夫婦の間に子ひとりもてる農民有けり、秋のすゑつかた、その夫田に出て稻を苅けるに、稻の間にいと可愛らしき狐子の晝寢してをるを見る、よく寢入てさめざれば、驚かすも便なきわざ也とて、其所の稻をば苅のこして、外の稻をぞ苅ける、かくて其田の稻をば苅盡しつるに、狐子はなほ熟睡してさめざれば、是非なく寢入たる狐子を兩手にて抱へ、邪魔にならざる所へ移し置き、さて其稻を苅終て家に歸るに、狐子はなほよくねてぞ有ける、かくて其夜夫婦のものは、中に小兒をねさせてふしけるに、夜あけて起出て見るに、中にねせたる小兒見えず、夫婦はいたく驚きて表の方に出て見るに、小兒は門口に血まみれになりて死てあり、母は其死骸をいだきあげ、こは何者の所爲そや、此樣に幾所もからだに瘡をつけたるは、なぶり殺にしたるのか、あな痛ましやかなしやと、歎き悲しむ事限なし、夫いふ、昨日田に出て稻を苅けるに、しか〴〵の事あり、吾は狐子を憐てこそ驚かせもせざりしに、親狐の疑ひて恩を仇にてかへしたるならん、憎き狐のしわざかなといへば、妻ははじめてかくと聞き、さては此在所の穴に住む狐のしわざに候や、憎き狐の所爲かなとて、小兒の死骸を抱きながらかの狐の住む穴にゆきて、穴の口に小兒の死骸を投著て、おれ狐これを見よ、いかに四足なればとて、恩を仇にして吾子を殺した、よくも〳〵むごたらしく此子の命を取たるぞ、おれ畜生こゝに出よ、おれが命は吾取んと、聲のかぎり、およそ半時ばかりも罵て、せんかたなければ、また小兒の死骸を抱て家に蹄り、やうやく野べにぞおくりける、其夜は夫婦ともに愁傷て夜もねられず、曉がたにおき いでゝみ見れば、昨日小兒のころされて有つる門口に、を狐め狐二疋、葛にて頸くゝりて死てぞ有ける、此二疋の狐はじめは、我子のたしなめられし事と心得、其恨を報ひつるに、たしなめられしにはあらで、いたはられし事を聞知り、其理にせまりて頸くゝりたるにやあらん、ごは近き年ごろの事にて、此國府中の人の物語にて聞ぬ、
p.0353 孝狐死レ孝
粤に肥前國養父郡小畑むらといへるに仁右衞門といふあり、きはめて家貧しければ、下作をして、漸ほそきけぶりをたてけるが、よはひ五十に傾ければ、農夫の業つとめがたく、竹の皮をもつて小笠をぬひ、老のわざとなして世を過しける、然にひとりの子を持けるが、生得農夫の業をきらひ、山ちかければ、平日に山ふかく入て、鹿兎の類をうち野外に出ては雉子うづらをとり、專殺生を好けるが、遂そのわざに長じ、許多の價を得ける、ざれども父仁右衞門は其わざを嫌ひ、おりにふれて異見すといへどもさらに用ず、日終夜終山に入ける、頃は秋も末なりき狐をおとさんため、輪穴(わな)を工かけおきけるが、かならず狐を獲(おとす)こと夜毎なり、こよひも黃昏より出行ける、父なるものふかくもうれい、三更のころまでも念佛してありける折しも廿日月のかげいと薄くさしのぼり、秋風薄衣を通して寒く、さながら夜いたく更ぬるよと思ふ時、誰となく外面より仁右衞門が名をさして呼聲頻なり、仁右衞門あやしみ、稱名を止、聞てけるに、まさしく我名を呼ぶ事たしかなりければ、誰なるやと頭をめぐらして見てあるに、こは人ならで障子の外面に狐のかたち忽然とうつりぬ、仁右衞門猶あやしく、汝我名をさして呼ぶ子細かたるべしといふ、野干うなづきて、我こよひ推參せし事、翁にひとつのねがひあり、あはれかなへたびてんやといふ、仁右衞門いらへて、その品によつてかなへ遣すべしといふ、野干禮をなして、そも我は此山僻に住る野狐なり、父なるものひさ〴〵病にふして、今なを大事におよべり、よつて兄弟七疋の子狐、父が まくらによりて、一たび命を救ん事を庶幾するといへども、且て術なし、唯一品の良藥あり、則鼠の油揚なり、是を得ば完病治すべしと、扨こそ兄弟のものこれをもとめんと夜毎に出けるに、終かへり來らず、おの〳〵獵人のためにとらるゝ事六疋なり、こよひは是非我きてこれを得んとするに、命を失ふ事かならずなり、さもあらば此のち是をもとむるものなければ、父病の花めに死すこと眼前なり、よつて翁にねぎまゐらす事外ならず、何とぞかの良藥にひとしき品われにあたへたまはらば、一度父をすくひ申たしとわりなくも話ぬ、仁右衞門つく〴〵おもへらく、狐すらかくまで孝を思ふ、人間盍孝をわきまへざらんやと、野狐が孝を感じ、いかにもやすきねがひなりと、件の油物を持出、汝苦此匂ひのたへがたく、輪穴の一物を得むとせば、かならず命を失ふべし、さあらば此品誰あつて父にあたえんや、其厚味をあぢはひしりて、いさゝか輪穴に心をかけず、此品父に與へ厄きを救ふべしと、今ひとつの油物をとり遣て食させける、野狐よろこびにたへず、九拜してうちくらひける、仁右衞門今一つの油あげを竹の皮に包み、野狐が首に結ひつけ、早々かへしける、とかくして仁右衞門は臥間に入て寐、一睡の夢のさむる頃、忰なるもの獲うちかたげ家にかへり、父にかたりけるは、こよひ怪有のゑものをしたり見たまへと、かの獲を父が前に出しけるを見てあるに、竹の皮を首にまたふたる狐なり、仁右衞門大に嘆じ、ありししかじかの赴をかたりけるに、さすが情なき匹夫といへども殆感服し、忽其業を棄て父を伴ひ回國修行に出けるとなん、世にかゝる發心まゝすくなからず、
p.0354 文政十一年戊子年二十九歲春正月、公以二火災故一徙二居駒籠邸一、邸中士人有下汙二稻荷祠一者上、尋爲レ狐所レ魅、公以三世俗謂レ狐爲二稻荷神使一、乃遣二使神祠一、諭二其宜一レ宥二赦罪過一、狐魅立除、
p.0354 狐爲レ妻令レ生レ子緣第二
昔欽明天皇〈是磯城島金刺宮食國天皇天國押開廣庭命也〉御世、三野國大野郡人、應レ爲レ妻覔二好嬢一、乗レ路而行時、曠野中遇二於 妹女一、其女媚レ牡訓睇之、牡睇之言、何行稚嬢之、答言、將レ覔二能緣一而行女也、牡心語言、成レ妻耶、女答言、聽、卽將二於家一交通相住、比頃懷任生二一男子一、時其家犬、十二月十五日生レ子、彼犬之子、毎向二家室一、而期尅睚眥嘷吠、家室脅惶、吿二家長一言、此犬打殺、雖レ然患吿而猶不レ殺、於二二月三月之頃一、年米舂時、其家室於二稻舂女等一、將充二間食一入二於碓屋一、卽彼犬子將レ咋二家室一、而追レ犬卽驚誴、恐成二野干一、登一籬上一而居、家長見言、汝與レ我之中子相生、故吾不レ忘レ汝、毎來相寐、故隨二夫語一而來寐、故爲二岐都禰(キツネ)一也、時彼妻著二紅染裳一、〈今之桃花裳也〉而窕裳襴引遊也、夫視二去容一戀歌曰、〈古非皮米奈、和我戸爾於知奴、多万可妓留、皮呂可爾美緣氐、伊邇師古由惠爾也、〉故其令二相生一子名號二岐都禰一、亦其子姓負二狐直一也、其人强力多有、走疾如二鳥飛一矣、三野國狐直等根本是也、
p.0355 力女捔レ力試緣第四
聖武天皇御世、三野國片縣郡少川市、有二一力女一、爲レ人大也、名爲二三野狐一、〈是昔三野國狐爲レ母生人之四繼孫也〉
p.0355 寬平八年丙辰、善家秘記云余寬平五年、出爲二備中介一、時有二賀夜郡人賀陽良藤者一、頗有二貨殖一、以レ錢爲二備前少目一、至二于寬平八年一、秩罷居二住本郷葦守一、其妻淫奔入レ京、良藤鰥二居於一室一、忽覺二心神狂亂一、獨居執レ筆諷二吟和歌一、如下有二挑レ女通一レ書之狀上、或時有下與二女兒一通二慇懃一之辭上、然而不レ見二其形一、如レ此數十日、一朝俄失二良藤所在一、擧家尋求遂無二相遇一、良藤兄大領豐仲、弟統頗豐蔭、吉備津彥神宮彌宜豐恒、及良藤男左兵衞志忠貞等、皆豪富之人也、皆謂三良藤狂悖自捨二其身一、悲哽懊惱、求二其屍所在一、然猶無レ遇、倶發願云、若得二良藤死骸一、當レ造二十一面觀世音菩薩像一、卽伐二栢樹一與二良藤形體一長短相等、向レ之頂禮誓願、如レ此十三日、良藤自二莫宅藏下一出來、顏色憔悴如下病二黃癉一者上、又其藏无レ柱、唯石上居レ桁、桁下去レ地纔四五寸、曾不レ可レ容レ身、而良藤心情醒寤話云、鰥居日久、心中常念二與レ女通接一、於レ是女兒一人、以レ書著二菊華一云、公主有下愛二念主人一之情上、故奉レ書通二慇懃一、卽開レ書讀レ之、艶詞佳美、心情搖蕩、如レ此往反數度、書中有二和歌一遞唱和、彼遂以二飾車一迎レ之、騎馬先導者四人、行數十里許、至二一宮門一、老大夫一人迎レ門云、僕此公主家令也、公主分三僕引二丈人一、於レ是從二家令一入二門屛間一、其殿屋帷帳綺飾甚美、須臾薦二珍饌一未二盡備一、日暮卽入二燕寢一、終成二懷 好一、意愛纏密、雖レ死無レ恡、晝則同レ筵、夜則倂レ枕、比翼連理、猶如二疎隔一、遂生二一男兒一、兒聡悟狀貌美麗、朝夕抱持、未三嘗離二膝下一、常念改二長男忠貞一爲二庶子一、以二此兒一爲二嫡子一、此爲二其母之貴一也、居三个年忽有二優婆塞一、持レ杖直昇二公主殿上一、侍人男女皆盡逃散、公主又隱不レ見、優婆塞以レ杖突二我背一、令レ出二狹隘之間一、顧而視レ之、此我家藏桁下也、於レ是家中大小大怪、卽毀レ藏而視レ之、狐數十散走入レ山、藏下猶有二良藤座臥之處一、良藤居二藏下一、纔十三个日也、而今謂二三年一、又藏桁下纔四五寸、而今良藤知三高門縮レ形出二入其中一、又以二藏下一令レ知二大殿帷帳一、皆靈狐之妖惑也、又優婆塞者、此觀音之變身也、大悲之力脱二此邪妖一而已、其後良藤無レ恙十餘年、年六十一死、〈已上○又見二今昔物語卷十六一〉
p.0356 爲レ救二野干死一寫二法花一人語第五
今昔、年若クシテ形美麗ナル男有ケリ、誰人ト不レ知ズ侍ノ程ノ者ナルベシ、其ノ男何レノ所ヨリ來ケルニカ有ケム、二條朱雀ヲ行クニ、朱雀門ノ前ヲ渡ル間、年十七八歲許ナル女ノ、形端正ニシテ姿美麗ナル微妙ノ衣ヲ重ネ著タル大路ニ立テリ、此ノ男此ノ女ヲ見テ難レ過ク思テ、寄テ近付キ觸ルレバ、門ノ内ニ人離タル所ニ女ヲ呼ビ寄セテ、二人居テ万ヅニ語云フ、男女ニ云ク、可レ然クテ如レ此ク來リ會ヘリ、同ジ心ニ可レ思キ也、君我ガ云ハム事ニ隨へ、此レ懃ニ思フ事也ト、女ノ云ク、此レ可レ辭事ニ非ズ、云ハム事ニ可レ隨シト云ヘドモ、我レ若シ君ノ云ハム事ニ隨ヒテハ、命ヲ失ハム事疑ヒ无キ也ト、男何事ヲ云フトモ不二心得一ズシテ只辭ブル言也ト思テ、强ニ此ノ女ト懷抱セムトス、女泣々ク云ク、君ハ世ノ中ニ有テ家ニ妻子ヲ具セルラムニ、只行スリノ事ニテコソ有レ、我レハ君ニ代テ戯レニ永ク命失ハム事ノ悲キ也、如レ此ク諍フト云ヘドモ、女遂ニ男ノ云フニ隨ヌ、而ル間日暮テ夜ニ入ヌレバ、其ノ邊近キ小屋ヲ借テ將行テ宿ヌ、旣ニ交臥シテ終夜ラ行ク末マデノ契ヲ成シテ夜曉ヌレバ、女返リ行クトテ男ニ云ク、我レ君ニ代テ命ヲ失ハム事疑ヒ无シ、然レバ我ガ爲ニ法華經ヲ書寫供養シ後世ヲ訪ヘト、男ノ云ク、男女ノ交通スル事世ノ常ノ習ヒ 也、必ズ死ヌル事アラムヤ、然レドモ若シ死ナバ必ズ法花經ヲ書寫供養シ奉ラム、女ノ云ク、君我ガ死ナム事實否ヲ見ムト思ハヾ、明朝ニ武德殿ノ邊ニ行テ可レ見シ、但シ注ニセムガ爲ニト云ヒテ、男ノ持タル扇ヲ取テ泣々ク別レテ去ヌ、男此ヲ實トモ不レ信ズシテ家ニ返ヌ、明ル日女ノ云シ事若シ實ニヤ有ラム行テ見ト思テ、武德殿ニ行テ廻リ見ル時ニ、髮白キ老タル姥出テ男ニ向テ泣ク事无レ限シ、男嫗ニ問テ云ク、誰人ノ何事ニ依テ此クハ泣クゾト、嫗答テ云ク、我レハ夜前朱雀門ノ邊ニシテ見給ヒケム人ノ母也、其ノ人ハ早ウ失給ヒニキ、其ノ事吿奉ラムトテ此ニ侍リツル也、其ノ死人ハ彼ニ臥シ給ヘリト、指ヲ差シテ敎へテ搔消ツ樣ニ失ヌ、男恠シト思テ寄テ見レバ、殿ノ内ニ一ノ若キ狐、搨ヲ面ニ覆テ死テ臥セリ、其ノ扇我ガ夜前ノ扇也、此レヲ見ニ、然バ夜前ノ女ハ此ノ狐ニコソ有ケレ、我レハ然バ通ジニケリト、其ノ時ニゾ始メテ思フニ、哀レニ奇異ニテ家ニ返ヌ、其ノ日ヨリ始メテ七日毎ニ法花經一部ヲ供養シ奉テ、彼レガ後世ヲ訪フ、未ダ七々日ニ不レ滿ザル程ニ、男ノ夢ニ彼ノ有シ女ニ値ヌ、其ノ女ヲ見レバ、天女ト云フラム人ノ如ク身ヲ莊タリ、亦同樣ニ莊レル百千ノ女有テ此レヲ圍繞セリ、此ノ女、男ニ吿テ云ク、我レ君ガ法花經ヲ供養シテ我ヲ救ヒ給フニ依テ、刧々ノ罪ヲ滅シテ今忉利天ニ生レヌ、此ノ恩量リ无シ、世々ヲ經ト云ドモ難レ忘シト云テ空ニ昇ヌ、其ノ程空ニ微妙ノ樂ノ音有リト見テ夢覺ヌ、男哀ニ貴シト思テ、彌ヨ信ヲ發シテ法花經ヲ供養シ奉リケリ、男ノ心難レ有シ、譬ヒ女ノ遺言有リト云フトモ、懃ニ約ヲ不レ違ズシテ後世ヲ訪ハムヤ、其レモ前世ノ善知識ニコソ有ラメ、男ノ語ルヲ聞キ繼テ語リ傳へタルトヤ、
p.0357 康治三年〈○天養元年〉五月卅日庚辰、參院、新院侍所司治部丞親賴語曰、臣有レ僕生年十六、日〈○日上恐脱二一之字一〉在二納殿内一之時、有二一年若女著初者一、親賴僕與レ之通、事訖、女去卽陰瘡數日而膿腫遂落矣、先三四五許日、狐來二軒間一見二此少男一云々、奇異之甚、近代未レ聞事也、是大炊御門北高倉東亭也、此亭自レ本多レ狐也、 先年夏比、狐晝見數日、禁レ之以二弓矢一、猶見無レ止、爰予備二食量狐戸一、自レ此之後狐不レ見焉、爰知狐有二神靈一乎、此亭郭内及乾角有二古小神社一、若其神之所レ致歟、加之此亭度々免二四方火災一、及二家中放火之殃一者乎、
p.0358 狐
むかしいづれの頃にや、坂井の里に、浦野氏なる男ありて、妻をむかへ子一人もてり、母添乳して晝寐しけるに、此子おき出て母さまこそ尻尾はえたり〳〵と高聲していひければこの母おどろき、人にしられつる事の耻かしと思ひけん、いづ地へか走り行て再かへらず、その夜のうちにおのが田地に悉稻生たり、こは此母の植たるにやあらん、殊に其としは實のりて、獲もの多くして家さかへ、今この子孫多くなりしに、皆乳の下にまた乳の形あり、幾人となく必そのしるし有けり、小笠原歷代記に、長時の妻は浦野彈正正忠が娘なり、狐の人に化して產る處なりと、さらば此浦野氏はかの正忠が子孫なるをかくいひ傳へけるにや、
p.0358 狐はあやしきけものなり、常に人にばけてたぶらかし、また人の皮肉の内に入りてなやまし、あらぬ妙をなす事多し、抱朴子曰、狐壽八百歲也、三百歲後變化爲二人形一、夜擊レ尾出レ火、戴二髑髏一拜二北斗一、不レ落則變二化人一、これほど修行なり、功つみたるものなれども、一旦やき鼠の香くはしきを見て、たちまちにわなにかゝり、命をうしなふ、
p.0358 一狐妖、或問珍といふ書六册あり、寶永七年、三州田原の學者兒島不求といふ者の著はす所にて、纔の奇怪を辨斷せる問答有レ之、其中に狐妖を怪みて問し答に、〈上略〉其妖怪をなす調子は、草深き野原にて、靈天蓋〈サレカウベノゴト也〉を拾ひ、己が頂に戴きて仰のき、小計の星を拜す、しかれども仰のかんとすれば、頂の靈天蓋忽ち落し、又拾ひあげて頂に戴き、右の如くする事數年を積れば、後は北斗を拜し跳り廻りても、修煉して靈天蓋落さず、其時北斗を百遍禮して始て人の形に變化する也云々、貞丈云、右の狐のばけやうの傳授は、何か唐の書にて見し事ありしが、用にも たゝぬ事なれば、其書名も忘れだり、右委細の傳授をば狐に聞て書きたる歟、又は靈天蓋を拾ふ時より、數年を積て、北斗を百遍拜するまで狐につき從ひ、見覺えて書きたる歟、いぶかしき事也、學者と喚るゝ輩は、吾國の書に少しにても怪説あるをば一喫に云破り、唐の書に見えたる不稽の説をば、猨に信じて眞僞をも考へず、とにもかくにも隣の甚太味噌が好物なるぞをかしき、此類の事尚多し、
p.0359 狐媚記 江大府卿〈○大江匡房〉
康和三年、洛陽大有二狐媚之妖一、其異非レ一、初於二朱雀門前一儲二羞饌禮一、以二馬通一爲レ飯、以二牛骨一爲レ菜、次設二於式部省後、及王公卿士門前一、世謂二之狐大饗(○○○)一、圓書助源隆康參二賀茂齋院一、車在二門前一、入レ夜少年雲客兩三推レ駕、其車兼有二偶女一、乘レ月行々經二鴨川一、到二七條川原一、右兵衞尉中原家季相二逢於途中一、見二其車中一紅衣皎然、入レ夜有レ色、獨怪レ之、牛童不レ堪二其苦一、平二伏道一間、雲客給二一張紅扇一、倏忽而去、車前軾上有二狐脚跡一、牛童歸レ家明日見レ之、扇是璽〈○璽一本作レ璽〉栗骨也、其後受レ病數日而死、其主大恐欲レ焚二其車一、夢有二神人一來曰、請莫レ焚レ之、將二以有一レ報、明年除書任二圖書助一、
主上依レ造二御願寺一、不レ滿二卌五夜一、有下避二方忌一之行幸上、忽有二何人一、騎馬扈從、擧二左右袖一、自掩二其面一、其後有二垂纓小舍人一、藏人大學頭藤原重隆怪而問レ之、不レ答二子細一、馳入二於朱雀門一、瞥爾不レ見、增珍律師、説法宗匠也、有二一老嫗一來曰、無賴婦人欲レ修二法會一、忝垂二光臨一、律師許諾臨二其日夕一、嫗重來屈、律師赴レ請、到二於六條朱雀大路人家一、堂莊嚴如レ常、雖レ設二僧供一無二役送人一、簾中拍レ手、偶出二酒盃一、律師怪レ之敢不レ就レ饌、先登二講座一、打レ鐘一聲、燈色忽靑、所レ儲之饌、亦是糞穢之類也、事々違レ例、心神迷惑、半死遁去、後日尋レ之、掃レ地無レ宅、有レ人買二七條京極宅一、其後壞二此屋一、到鳥部野一爲二葬歛之具一、其所二渡與一之直、本是金銀糸絹也、後日見レ之、皆是弊鞋舊履、瓦礫骨角也、嵯呼狐媚變異、多載二史籍一、殷之姐己爲二九尾狐一、任氏爲二人妻一、到二於馬嵬一爲レ犬被レ獲、或破二鄭生業一、或讀二古冢善一、或爲二紫衣公一、到レ縣許二其女屍一、事在二徟儻一、未二必信伏一矣、〈○矣一本無〉今 於二我朝一正見二其妖一、雖レ及二季葉一、怪異如レ古、偉哉、
p.0360 狐變二大榅木一被二射殺一語第卅七
今昔 ノ比春日ノ宮司ニテ中臣ノ ト云フ者有ケリ、其レガ甥ニ中大夫 ト云フ者有ケリ、其レガ馬ノ食失タリケレバ、其レ求ムトテ、其ノ中大夫從者一人ヲ具シテ、我ハ胡錄搔負テ出ニケリ、其ノ住ム所ノ名ヲバ、奈良ノ京ノ南ニ三橋ト云フ所也ケリ、中大夫其ノ三橋ヨリ出テ、束ノ山樣ニ求メ入テ二三十町許行ケレバ、日モ暮畢テ夜ニ成ニケリ、オボロ月夜ニテゾ有ケル、馬ヤ食立ルト見行ケル程ニ、本ノ大キサ屋二間許ハ有ラムト見ユル程ノ、榲ノ木ノ長廿丈許有ケル、一段許去キテ立リケレバ、中大夫此レヲ見付テ其ニ突居テ、此ノ從者ノ男ヲ呼寄セテ云ク、若シ我ガ僻目カ、亦物ノニ迷ハサレテ不二思懸一ヌ方ニ來ニタルカ、此ノ立ル榅ノ木メ和尊ノ目ニハ見ユヤト問ケレバ、男己モ然カ見侍リト答フレバ、中大夫然テハ我ガ僻目ニハ非デ、迷ハシ神ニ値テ不二思懸一ヌ所ニ來ニタルニコソ有ナレ、此ノ國ニ取テ此許ノ榅ノ木有トハ、何コニテカ見タルト問ケレバ、從者ノ男更ニ思エ不レ侍ズ、其々ニゾ榅ノ木一本侍レドモ、其レハ小キ木也ト云ケレバ、中大夫然レバヨ旣ニ迷ハサレニケルゾ、何カセムト爲ル極テ怖シ、去來返ナム、家ヨリ何町許來ニタルラム、六借キ態カナト云テ返ナムト爲ル時ニ、從者ノ男ノ云ク、此許ノ事ニ値テ、故モ无ク過シテムハ无下ノ事ナルベシ、此ノ榅ノ木ニ箭ヲ射立テ置テ、夜明テコソ尋テ御覽ゼメト云ケレバ、中大夫現ニ然モ有ル事也、去來然バ二人シテ射ムト云テ、主モ從者モ共ニ弓ニ箭ヲ番テケリ、從者ノ男然ラバ今少シ歩ビ寄テ射サセ給ヘト云ケレバ、共ニ歩ビ寄テ二人乍ラ一度ニ射タリケレバ、箭ノ尻答フト聞ケルマヽニ、其ノ榅ノ木俄ニ失ニケリ、然レバ中大夫然レバヨ物ニ値ニケルニコソ有ケレ、怖シ去來還ナムト云テ逃ルガ如クニシテ返ケリ、然テ夜明ニケレバ、朝ニ中大夫從者ヲ呼テ、去來夜前ノ所ニ行テ尋テ見ムト云テ、從者ト二人行テ見ケレバ、毛モ 无ク老タリケル狐ノ、榅ノ枝ヲ一ツ咋ヘタリケルガ、腹ニ衞ヲ二ツ被二射立一テコソ死テ臥タリケレ、此レヲ見テ、然レバコソ夜前ハ此ノ奴ノ迷ハシケル也ケレト云テ、箭打拔テ返ニケリ、此ノ事ハ只此ノ二三年ガ内ノ事ナルベシ、世ノ末ニモ此ル希有ノ事ハ有ケリ、然レバ道ヲ踏違バ不レ知ヌ方ニ行カムヲモ、恠ムベキ事也トナム語り傳ヘタルトヤ、
狐變二女形一値二播磨安高一語第卅八
今昔播磨ノ安高ト云フ近衞舍人有ケリ、右近ノ將 貞正ガ子也、法興院〈○藤原兼家〉ノ御隨身ニテナム有ケル、未ダ若カリケル時、殿ハ内裏ニ御マシケル間ダニ、安高ガ家ハ西ノ京ニ有ケレバ、安高内ニ候ケルガ、從者ノ不二見エ一ザリケレバ、西ノ京ノ家ニ行クトテ、唯獨リ内通リニ行ケルニ、九月ノ中ノ十日許ノ程ナレバ、月極ク明キニ、夜打深更テ宴ノ松原ノ程ニ、濃キ打タル袙ニ紫苑色ノ綾ノ袙重ネテ著タル女ノ童ノ、前ニ行ク樣體頭ツキ云ハム方ナク、月影ニテ微妙シ、安高ハ長キ沓ヲ履テコソメキ行クニ歩ビ並テ見レバ、繪書タル扇ヲ指隱シテ、顏ヲ吉クモ不二見セ一ズ、額頰ナドニ髮捻懸タル云ハム方无ク嚴氣也、安高近ク寄テ觸這ニ薰ノ香極ク聞ユ、此ク夜深更タルニ何レノ御方ノ人ノ何コへ御スルゾト、安高云ヘバ、女西ノ京ニ人ノ呼べバ行クヤト答フ、安高人ノ許へ御セムヨリハ、安高ガリ去來給ヘト云ヘバ、女咲タル音ニテ誰ト知テカハト答フル、極ク愛敬付タリ、此ク互ニ語ヒ行ク程ニ、近衞ノ御門ノ内ニ歩ビ入ヌ、安高ガ思フ樣、豐樂院ノ内ニハ人謀ル狐有ト聞クゾ、若シ此レハ然ニモヤ有ラム、此奴恐シテ試ム、顏ヲツブト不二見セ一ヌガ恠キニト思テ、安高女ノ袖ヲ引ヘテ此ニ暫シ居給ベシ、聞ユベキ事有リト云ヘバ、女扇ヲ以テ顏ニ指隱シテカヾヤクヲ、安高實ニハ我レハ引剝ゾ、シヤ衣剝テムト云フマヽニ、紐ヲ解テ引褊ギテ、八寸許ノ刀ノ凍ノ樣ナルヲ拔テ女ニ指宛テ、シヤ吮搔切テムト、其ノ衣奉レト云テ、髮ヲ取テ柱ニ押付テ、刀ヲ頸ニ指宛ツル時ニ、女艶ス臰キ尿ヲ前ニ散ト馳懸ク、其ノ時ニ安高驚テ免ス際ニ、 女忽ニ狐ニ成テ門ヨリ走リ出テ、コウ〳〵ト鳴テ大宮登ニ逃テ去ヌ、安高此レヲ見テ、若シ人ニヤ有ラムト思テコソ不レ殺ザリツレ、此ク知タラマシカバ必ズ殺テマシト、妬ク悔シク思エケレドモ甲斐无クテ止ニケリ、其後安高夜中曉ト不レ云ズ内通リニ行ナレドモ、狐懲ニケルニヤ更ニ不レ値ザリケリ、狐微妙キ女ト變ジテ、安高ヲナムト爲ル程ニ、希有ノ死ヲ不レ爲ズシテナム有ケル、然レバ人遠カラム野ナムドニテ獨リ間ニ吉キ女ナドノ見エムヲバ、廣量シテ不二觸這一マジキ事也、比レモ安高ガ心バヘノ有テ、女ニ强ニ不レ躭ズシテ不被ヌ也トナム語リ傳へタルトヤ、
狐變二人妻形一來レ家語第卅九
今昔、京ニ有ケル雜色男ノ妻、夕暮方ニ暗ク成ル程ニ、要事有テ大路ニ出タリケルガ、良久ク不二返來一ザリケレバ、夫何ト遲ハ來ナラムト恠ク思テ居タリケル程ニ、妻入來タリ、然テ暫許有ル程ニ、亦同顏ニシテ、有樣露許モ違タル所モ无キ妻入來タリ、夫此レヲ見ルニ奇異キ事无レ限シ、何ニマレ一人ハ狐ナドニコソハ有ラメト思へドモ、何レヲ實ノ妻ト云フ事ヲ不レ知ネバ思ヒ廻スニ、後ニ入來タル妻コソ定メテ狐ニテハ有ラメト思テ、男大刀ヲ拔テ後ニ入來タリツル妻ニ走ハ懸リテ切ラムト爲レバ、其ノ妻此ハ何カニ我レヲバ此ハ爲ルゾト云テ泣ケバ、亦前ニ入來タリツル妻ヲ切ラムトテ走リ懸レバ、其レモ亦手ヲ摺テ泣キ迷フ、然レバ男思ヒ繚〈天〉、此彼騷グ程ニ、尚前ニ入來タリツル妻ノ恠ク思エケレバ、其レヲ捕へテ居タル程ニ、其ノ妻奇異ク臰キ尿ヲ散ト馳懸タリケレバ、夫臰サニ不レ堪ズシテ打免タリケル際ニ、其ノ妻忽ニ狐ニ成テ、戸ヲ開タリケルヨリ大路ニ走リ出テ、コウ〳〵ト鳴テ逃去ニケリ、其ノ時ニ男妬ク悔シク思ケレドモ、更ニ甲斐无シ、此レヲ思フニ、思量モ无カリケル男也カシ、暫ク思ヒ廻シテ、二人ノ妻ヲ捕へテ縛リ付テ置タラマシカバ、終ニハ顯レナマシ、糸口惜ク逃シタル也、郷ノ人其モ來集テ見喤ケル、狐モ益无キ態カナ、希有ノ命ヲ生テゾ逃ニケル、妻ノ大路ニ有ケルヲ見テ、狐ノ其ノ妻ノ形ト變ジテ謀タリ ケル也、然レバ此樣ノ事ノ有ラムニハ、心ヲ靜メテ可二思廻一キ也、希有ニ實ノ妻ヲ不レ殺ザリケル事コソ賢ケレトゾ、人云ケルトナム語リ傳ヘタルトヤ、
狐託レ人被レ取玉乞返報レ恩語第四十
今昔、物ノ氣病爲ル所有ケリ、物託ノ女ニ物託テ云ク、己ハ狐也、祟ヲ成シテ來レルニ非ズ、只此ル所ニハ自ラ食物散ボフ物ゾカシト思テ指臨キ侍ルヲ、此ク被二召籠一テ侍ル也ト云テ、懷ヨリ白キ玉ノ小柑子ナドノ程ナル取出テ、打上テ玉ニ取ルヲ、見ル人可咲氣ナル玉カナ、此ノ物託ノ女ノ本ヨリ懷ニ持テ、人謀ラムト爲ルナメリト、疑ヒ思ヒケル程ニ、傍ニ若キ侍ノ男ノ勇タルガ居タ、物託ノ女ノ其ノ玉ヲ打上タルヲ、俄ニ手ニ受テ取テ懷ニ引入レテケリ、然レバ此ノ女ニ託タル狐ノ云ク、極キ態カナ、其ノ玉返シ得サセヨト、切ニ乞ケレドモ、男聞キモ不レ入ズシテ居タルヲ、狐泣々ク男ニ向テ云ク、其ハ其ノ玉取タリト云フトモ、可レ持キ樣ヲ不レ知ネバ、和主ノ爲ニハ益不レ有ジ、我レハ其ノ玉被レ取ナバ極キ損ニテナム可レ有キ然レバ其ノ玉返シ不レ令レ得ズバ、我レ和主ノ爲ニ永ク讎ト成ラム、若シ返シ令レ得タラバ、我レ神ノ如クニシテ和主ニ副テ守ラムト云フ時ニ、此ノ男由シ无シト思フ心付テ、然ラバ必ズ我ガ守ト成リ給ハムヤト云ヘバ、狐然ラ也必ズ守ト成ラム、此ル者ハ努々虚言不レ爲ズ、亦物ノ恩不二思知一ズト云フ事无シト云ヘバ、此ノ男此ノ搦サセ給ヘル護法證セサセ給フヤト云ヘバ、狐實ニ護法モ聞シ食セ、玉ヲ返シ得サセタラバ、 ニ守ト成ラムト云ヘバ、男懷ヨリ玉ヲ取出シテ女ニ與ヘツ、狐返々ス喜テ受取ツ、其ノ後驗者ニ被レ追テ狐去ヌ、而ル間人々有テ其ノ物託ノ女ヲヤガテ引ヘテ不レ令レ立ズシテ懷ヲ搜ケルニ、敢テ其ノ玉无カリケリ、然レバ實ニ託タリケル物ノ持タリケル也ケリト、皆人知ニケリ、其ノ後此ノ玉取ノ男、太秦ニ參テ返ケルニ、暗ク成ル程ニ御堂ヲ出テ返ケレバ、夜ニ入テゾ内野ヲ通クルニ、應天門ノ程ヲ過ムト爲ルニ、極ク物怖シク思エケレバ、何ナルニカト恠ク思フ程ニ、實ヤ我ヲ守ラムト云 シ狐有キカシト思ヒ出テ、暗キニ只獨リ立テ狐々ト呼ケレバ、コウ〳〵ト鳴テ出來ニケリ、見レバ現ニ有リ、然レバコソト思テ男狐ニ向テ、和狐實ニ虚言不レ爲ザリケリ、糸哀レ也、此ヲ通ラムト思フニ極テ物怖シキヲ、我レ送レト云ケレバ、狐聞知顏ニテ見返々々行ケレバ、男其ノ後ニ立テ行クニ例ノ道ニハ非ズ、異道ヲ經テ行々テ、狐立留マリテ背ヲ曲テ拔足ニ歩テ見返ル所有リ、其マヽニ男モ拔足ニ歩テ行ケバ、人ノ気色有リ、和ラ見レバ、弓箭兵仗ヲ帶シタル者共數立テ、事ノ定メヲ爲ルヲ垣超シニ和ラ聞ケバ、早ウ盜人ノ入ラムズル所ノ事定ムル也ケリ、此ノ盜人共ハ道理ノ道ニ立ル也ケリ、然レバ其ノ道ヲバ經テ迫ヨリ將通ル也ケリ、狐其レヲ知テ、其ノ盜人ノ立テル道ヲバ經タルト知ヌ、其ノ道出畢ニケレバ狐ハ失ニケリ、男ハ平カニ家ニ返ニケリ、狐此レノミニ非ズ、此樣ニシツヽ、常ニ此ノ男ニ副テ多ク助クル事共ゾ有ケル、實ニ守ラムト云ケルニ違フ事无ケレバ、男返々ス哀レニナム思ケル、彼ノ玉ヲ惜ムデ不レ與ザラマシカバ、男吉キ事无カラマシ、然レバ賢ク渡テケリトゾ思ケル、此レヲ思フニ、此樣ノ者ハ此ク者ノ恩ヲ知リ虚言ヲ不レ爲ヌ也ケリ、然レバ自ラ便宜有テ可レ助カラム事有ラム時ハ、此樣ノ獸ヲバ必ズ可レ助キ也、但シ人ハ心有リテ因果ヲ可レ知キ者ニテハ有レドモ、中々獸ヨリハ者ノ恩ヲ不レ知ヌ不レ實ヌ心モ有ル也トナム語リ傳ヘタルトヤ、
高陽川狐變レ女乘二馬尻一語第卌一
今昔、仁和寺ノ東ニ高陽川ト云フ川有リ、其ノ川ノ邊ニ夕暮方ニ成レバ、若キ女ノ童ノ見目穢氣无キ立リケルニ、馬ニ乘テ京ノ方へ過ル人有レバ、其ノ女ノ童、其ノ馬ノ尻ニ乘テ京へ罷ラムト云ケレバ、馬ニ乘タル人乘レト云テ乘セタリケルニ、四五町許馬ノ尻ニ乘テ行ケルガ、俄ニ馬ヨリ踊リ落テ逃テ行ケルヲ追ケレバ、狐ニ成テコウ〳〵ト鳴テ走リ去ニケリ、如レ此ク爲ル事、旣ニ度々ニ成ヌト聞エケルニ、瀧口ノ本所ニ瀧口共數居テ物語シケルニ、彼ノ高陽川ノ女ノ童ノ、人 ノ馬ノ尻ニ乘ル事ヲ云出タリケルニ、一人ノ若キ瀧口ノ心猛ク思量有ケルガ云ク、己ハシモ彼ノ女ノ童ヲバ必ズ搦候ナムカシ、人ノ弊テ逃スニコソ有レト、ノ瀧口共ノ勇タル此レヲ聞テ、更ニ否ヤ不レ搦ザラムト云ケレバ、此ノ搦メムト云フ瀧口、然ラバ明日ノ夜必ズ搦テ將參ラムト云ケレバ、異瀧口共ハ云立ニタル事ナレバ否不レ搦ジト固ク諍テ、明日ノ夜 具ズシテ只獨リ極テ賢キ馬ニ乘テ、高陽川ニ行テ川ヲ渡ルニ、女ノ童不見エズ、卽チ打返テ京ノ方へ來ルニ、女ノ童立リ、打過ルヲ見テ、童其ノ御馬ノ尻ニ乘セ給ヘト打咲テ不レ ズ云フ樣愛敬付タリ、瀧口疾ク乘レ、何チ行カムズルゾト問ヘバ、女ノ童京へ罷ルガ日暮ヌレバ、御馬ノ尻ニ乘テ罷ラムト思フ也ト云ヘバ、卽チ乘セッ、乘スルマヽニ瀧口儲タリツル物ナレバ、指繩ヲ以テ女ノ童ノ腰ヲ鞍ニ結付ツ、女ノ童何ト此ハシ給フゾト云ケレバ、瀧口夕サリ將行テ抱テ寢ムズレバ、逃モゾ爲ト思ヘバ也ト云テ將行クニ、旣ニ暗ク成ヌ、一條ヲ東樣ニ行ケレバ、西ノ大宮打過テ見レバ、東ヨリ多ノ火ヲ燃シテ列レテ、車共數遣次ケテ前ヲ追ヒ喤テ來ケレバ、瀧口可レ然キ人ノ御スルナメリト思テ、打返テ西ノ大宮ヲ下リニニ條マデ行テ、二條ヨリ東樣ニ行テ、東ノ大宮ヨリ土御門マデ行ニケリ、土御門ノ門ニテ待テト云置タリケレバ、從者共ヤ有ルト問ケレバ、皆候フト云テ十人許出來ニケリ、其ノ時ニ女ノ童ヲ結付タル指繩ヲ解テ引落シテ、シヤ肱ヲ捕へテ門ヨリ入テ、前ニ火ヲ燃サセテ本所ニ將行タレバ、瀧口皆居並テ待ケレバ、音ヲ聞テ何ニゾトロ々ニ云ヘバ、、此ニ搦テ候フト答フ、女ノ童ハ泣テ今ハ免シ給ヒテヨ、人々ノ御マスニコソ有ケレト侘迷ケレドモ、不レ免ズシテ將行タレバ、瀧口共皆出テ立、並廻テ火ヲ明ク燃テ、此ノ中ニ放テト云ヘバ、此ノ瀧口ハ逃モコソ爲レ、否不レ放ジト云フヲ、皆弓ニ矢ヲ番テ只放テ興有リ、シヤ腰射居エム、然リトモ一人コソ射バヅサメトテ、十人許箭ヲ番テ指宛テ有レバ、此ノ瀧口然バトテ打放チツ、其ノ時ニ女ノ童狐ニ成テコウ〳〵ト鳴テ逃ヌ、瀧口共ノ立並タリツルモ、皆搔消ツ樣ニ失ヌ、火ヲ打消ツ レバ、ツツ暗ニ成ヌ、瀧口手迷ヲシテ從者共ヲ呼ブニ、從者一人モ无シ、見廻セバ何クトモ不二思エ一ヌ野中ニテ有リ、必迷ヒ肝騷テ怖シキ事无レ限シ、生タル心地モ不レ爲ネドモ、思ヒ念ジテ暫ク此ヲ見廻セバ、山ノ程所ノ樣ヲ見ルニ鳥部野ノ中ニテ有リ、土御門ニテ馬ヨリ下ツルト思フモ、馬モ何ニシニカバ有ラム、早ウ西ノ大宮ヨリ打廻ルト思ツルハ、此へ來ニケル也ケリ、一條ニ火燃テ値タリツルモ、狐ノケル也ケリト思テ、然リトモ可レ有キ事ニ非ネバ、歩ニテ漸ク返ケル程ニ、夜半許ニゾ家ニ返タリケル、次ノ日ハ心地モ亂レテ死タル樣ニテゾ臥タリケル、瀧口共ハ其ノ夜待ケルニ不レ見エザリケレバ、何主ノ高陽川ノ狐搦メムト云シニ、何ニカト口々ニ云咲テ、使ヲ遣テ呼ケレバ、三日ト云フタ方、吉ク病タル者ノ氣色ニテ本所ニ行タリケレバ、瀧口共一夜ノ狐ハ何ニナド云ケレバ、此ノ瀧口一夜ハ難レ堪キ病ノ罷發テ候ヒシカバ、否不レ罷ズ候ヒキ、然バ今夜罷テ試候ハムト云ケレバ、瀧口共此ノ度ハ二ツヲ搦メヨトゾ嘲ケレドモ、此ノ瀧口言少ニテ出ニケリ、心ノ内ニ思ケル樣、初被レ謀タレバ、今夜ハ狐ヨモ不二出來一ジ、若シ出來タラバ、終夜也トモ身モ、放タバコソ逃サメ、若シ不二出來一ズバ、永ク本所へ不二指出一ズシテ籠居ナムト思テ、今夜ハ强ナル從者共數ヲ具シテ、馬ニ乘テ高陽川ニ行ニケリ、益无キ事ニ依テ、身ヲ徒ニ成サムズルカナト思ヘドモ、云立ニタル事ナレバ此ク爲ルナルベシ、高陽川ヲ渡ルニ、女ノ童不二見工一ズ打返ケル度、川邊ニ女ノ童立テリ、前ノ女ノ童ノ顏ニハ非ズ、前ノ如ク馬ノ尻ニ乘ラムト云ケレバ乘セツ、前ノ樣ニ指繩ヲ以テ强ク結付テ、京樣ニ一條ヲ返ルニ、暗ク成ヌレバ、數ノ從者共ヲ以テ、或ハ前ニ火ヲ燃サセ、或ハ馬ノnan平ニ立ナドシテ、不レ騷テ物高ク云ツヽ行ケルニ、一人億フ者无シ、土御門ニテ馬ヨリ下テ、女ノ童ノシヤ髮ヲ取テ本所樣ニ將行ケレバ、女ノ童泣々ク辭ケレドモ、本所ニ至ニケリ、瀧口何々ニト云ケレバ、此ニ有ト云テ、此ノ度ハ强ク縛テ引ヘタリケレバ、暫コソ人ニテ有ケレ、痛ク責メケレバ、遂ニ狐ニ成テ有ケルヲ、續松ノ火ヲ以テ、毛モ无クセヽル〳〵ト燒テヲ 以テ度々射テ、己ヨ今ヨリ此ル態ナセソト云テ、不レ殺シテ放タリケレバ、否不レ歩ナリケレドモ、漸ク逃テ去ニケリ、然テゾ此ノ瀧口前ニ被レ謀テ、鳥部野ニ行タリシ事共委ク語ケル、其ノ後十餘日許有テ、此ノ瀧口尚試ムト思テ、馬ニ乘テ高陽川ニ行タリケレバ、前ノ女ノ童吉ク病タル者ノ氣色ニテ、川邊ニ立チタリケレバ、瀧口前ノ樣ニ此ノ馬ノ尻ニ乘レ、和兒ト云ケレバ、女ノ童乘ラムトハ思ヘドモ、燒給フガ難レ堪ケレバト云テ失ニケリ、人謀ラ厶ト爲ル程ニ糸辛キ目見タル狐也カシ、此ノ事ハ近キ事ナルベシ、奇異ノ事ナレバ語リ傳ヘタル也、此ヲ思フニ狐ハ人ノ形ト變ズル事ハ、昔ヨリ常ノ事也、然レドモ此レハ揭焉ク謀テ鳥部野マデモ將行タル也、然ルニテハ何ト後ノ度ハ車モ无ク道モ不レ違ザリケルニカ、人ノ心ニ依テ翔ナメリトゾ人疑ヒケルトナム語リ傳ヘタルトヤ、
p.0367 今はむかし、甲斐國に、たちの侍なりけるものゝ、夕ぐれに館をいでゝ、家ざまに行ける道に、狐のあひたりけるを、追かけて引目してゐければ、きつねの腰に射あてゝけり、きつねゐまろばかされて、鳴わびてこしを引つゝ草に入にけり、此おとこひきめをとりてゆくほどに、このきつねこしをひきてさきにたちて行に、又ゐんとすればうせにけり、家いま四五町にとみえて行ほどに、このきつね二町計さきだちて火をくはへて走ければ、火をくはへてはしるは、いかなることぞとて、馬をもはしらせけれども、家のもとに走よりて人になりて、火を家につけてけり、人のつくるにこそありけれとて、矢をはげて走らせけれども、つけはてければ、きつねになりて、草の中にはしり入てうせにけり、さて家蟯にけり、かゝるものも、たちまちにあだをむくふなり、これをきゝて、かやうのものをば、かまへててうずまじきなり、
p.0367 むかし物のけわづらひし所に、物のけわたしゝほどに、ものゝけ物につきていふやう、をのれはたゝりのものゝけにても侍らず、うかれてまかりとをりつるきつねなり、塚屋 に子どもなど侍るが、ものをほしがりつればがやうの所にはくひものちろぼう物ぞかしとて、まうできつるなり、しとぎばらたべてまかりなんといへば、しとぎをせさせて、一おしきとらせたれば、すこしくひてあなむまや〳〵といふ、この女のしとぎほしかりければ、そら物つきてかくいふとにくみあへり、紙給りてこれつゝみてまかりて、たうめや子共などにくはせんといひければ、かみを二枚引ちがへて、つゝみたれば、大やかなるをこしについばさみたれば、むねにさしあがりてあり、かくてをひ給へまかりなんと驗者にいへば、をへ〳〵といへば、立あがりてたうれふしぬ、しばしばかりありて、やがておきあがりたるに、ふところなる物さらになし、うせにけるこそふしぎなれ、
p.0368 享德二年二月廿五日、林光院主脩山來、話次及二射レ狗事一、山曰、鳥羽院御宇、息所有二美女一、不レ知二所出一、名曰二玉藻前一、然爲レ帝所レ寵、能知二天竺唐土之事一言レ之、爾後帝不豫、卜レ之、則此女所レ使レ然也、遂禱之、女變成レ狐逃去、此狐在二下野州那須野中一、將レ驅レ之、然捷疾不レ可二捕得一、先命二武士一騎レ馬射レ狗、以習レ射レ狗、然后上總介者射而殺レ之、尾有二雙針一、上總與二之賴朝一、賴朝得レ之、遂定二天下一、上總介亦源家之士也、凡今射レ狗本二於此一云、又曰、此狐乃周褒姒所レ化也、
p.0368 淸盛行二大威德法一附行二陀天一幷淸水寺詣事淸盛後憑モシク思テ、〈○中略〉希代ノ果報哉ト怪處ニ、或時蓮臺野ニシテ、大ナル狐ヲ追出シ弓手ニ相付テ旣ニ射ントシケルニ、狐忽ニ黃女ニ變ジテ莞爾ト笑ヒ立向テ、ヤヽ我命ヲ助給ハヾ、汝ガ所望ヲ叶ヘント云ケレバ、淸盛矢ヲハヅシ、如何ナル人ニテオハスゾト問フ、女答テ云、我ハ七十四道中ノ王ニテ有ゾト聞ユ、サテハ貴狐天王ニテ御坐ニヤトテ、馬ヨリ下テ敬屈スレバ、女又本ノ狐ト成テ、コウ〳〵鳴テ失ヌ、淸盛案ジケルハ、我財寶ニウエタル事ハ、荒神ノ所爲ニゾ、荒神ヲ鎭テ財寶ヲ得ニハ、辨才妙音ニハ不レ如、今ノ貴狐天王ハ、妙音ノ其一也、サテハ我陀天ノ法ヲ成就 スベキ者ニコソトテ、彼法ヲ行ケル程ニ、又返シテ案ジケルハ、實ヤ外法成就ノ者ハ、子孫ニ不レ傳ト云者ヲ、イカヾ有ベキト被レ思ケルガ、ヨシ〳〵當時ノゴトク、貧者ニテナガラヘンヨリハ、一時ニ富テ名ヲ揚ニハトテ被レ行ケレ共、遉ガ後イブセク思テ、兼タ淸水寺ノ觀音ヲ奉レ憑、蒙二御利生一ト千日詣ヲ始タリ、
p.0369 文治四年九月十四日丁未長茂〈本名資茂○城〉者、鎭守府將軍維茂〈貞盛朝臣弟也〉男、出羽城介繁茂七代裔孫也、維茂男敢不レ耻二上古一之間、時人感レ之、將軍宣旨以前、押而稱二將軍一而以二武威一、雖レ爲二大道一、毎日轉二讀法華經八軸一、毎年一二見六十卷〈玄義文句止觀〉 一部一、亦謁二惠心僧都一、談二往生極樂要須一、繁茂生則逐電、乍レ含二悲嘆一、經二四箇年一、依二夢想吿一、捜求之處、於二狐塚一尋二得之一、持二來于家一、其狐令レ變二老翁一、忽然來授二刀幷抽櫛等於嬰兒一、於二翁深窻一、侖二密音一云、可レ爲二日本國主一、於レ今者不レ可レ至二其位一云云、嬰兒者則繁茂也、長茂繼二遺跡一、彼刀令レ帶レ之云云、
p.0369 五條内裏にはばけ物ありけり、藤大納言殿、かたられ侍しは、殿上人ども黑戸にて碁をうちけるに、みすをかゝげて見る物あり、たそと見向たれば、狐人のやうについゐてさしのぞきたるを、あれ狐よとどよまれて、惑ひにげにけり、未練の狐、ばけ損じたるにこそ、
p.0369 妖は人より興るむかし駿府の御城に、うは狐といひ傳へし狐あり、人是に手巾をあたふれば、それをかぶりて舞しが、こへのみして形は見へず、たゞ手巾空に飜轉して廻舞のやうを見せし程に、人々興に入けり、人手巾をあたふる時は受取る、形は見へねども、もたる手をものゝすりて通るやうに覺へて、其まゝ取てゆきける、わかき人々わざと渡さじとあらがふに、なにほど堅く持ても、とられぬといふ事なしと語るを、大久保彥左衞門聞て、我はとられじとて、手巾をもちてこれとれといふに取得ず、さていふは、さても無分別の人よ、あなおそろしとてにげさりぬとぞ、彥左衞門は、手に覺 のある時に、わが手ともにきりておとさんと思ひつめけるを、狐さとりしなり、されば武士の心剛にして、一筋に直なるさへ其氣燄になき程に、狐も妖をなしえず、まいて正人君子においてをや、本より邪は正に敵せねば、正氣にあふては、氷の日にむかふて忽に消るがごとし、西域の妖僧、傳毅をいのり殺すとて自から暴死し、武三思が妾、狄仁傑にあふて藝を施しえず畏縮せしにてしるべし、
p.0370 鈍狐害をかふむる筑前福岡の城下より一里あまり過て、岡崎村に馬乘の高橋彌左衞門といふ者あり、用事有て入逢の頃より城下に出ゆきしが、夜に入とひとしく歸りしかば、いかで早く歸りたまふと妻のとひしに、されば道今すこしになりて、かの方より用も足りとてとめ侍りし、餘りにつかれたるとて閨に入り、供の僕は物くふて臥りぬ、此家に年おひたる婆ありけるが、妻の袖をひき、主人常は右の目盲たまへるに、只今は左の目盲たるこそいぶかしと吿ければ、妻おどろきさらば少し出し見んとて、姥が俄に腹痛しぬ、藥をあたへられよといひしかば、かく疲れていねたるにとつぶやぎ、漸くに出しをみれば左の目盲(しひ)たり、さては疑もなき妖ものなりしかば、妻かい〴〵しくも、最早婆も快く侍りしまゝいねさせよとて、ねやの戸をしめ、四方のかこみを嚴しくたてこめ、脇指を臥たる上より咽にあて、姥は後よりたゝみかけ打ければ、こん〳〵くわい〳〵と鳴し所をつき殺しける、又家來の者共は、供の狐をたゝき殺しけり、未熟の狐にや妖損じけるこそおかしかりし、
p.0370 中川の家に傳て疱瘡の藥を製せられしに、狐の生膽を取て調ずる事なりけり、延寶の頃とや、今年は國に歸たらば藥を調ぜんと有ける春、君歸らせ給なば、十五以上の兒の生膽をとらせ給なんと、誰とはなく國中にふれければ、子を持たる農商皆所を去て他國へ移り 住、郡中人なきがごとし、やみがたくて其由をおほやけにもうつたへ、さてと云なる由をこまやかにふれければ、やう〳〵にして民も歸りげり、是は狐のしわざよとて、其年は藥の沙汰もなくて事過けり、又の年になりて物頭の勇壯なるが申けるは、さきには狐のたゝりとて、藥をも調ぜられざりし、府下に居侍る狐の所爲とて、數代調ぜられたる藥の絶なんも、君威の薄きに似候間、某に命ぜられ候へ、狐狩してさやうの類こらしめ申べしと申ければ、然るべしと有て、まだ其事の外にはしれざりけるに、ある朝第一の重臣中川何がし、口の事有とて物頭の許に來しかば、渴仰して亭に請じ、さていか樣の御事にやと申しかば、わどのがむかしそゞろなりし事共、法の極にしがたき事共也、此書付を見て申披あるべしと一通を渡しければ、是を見るに、まだ若かりしより、年ざかりにてわかげにて有し、あやまちを書つゞけたり、ひらき終て云やう、是は皆わかき頃の血氣にて、しそんじたりしあやまちども也、只今の事にてはなく候へども、申ひらくべき樣なしと答ければ、さらば切腹候へとの命なり、とく〳〵と有ければ、カおよばぬ事なり、その用意いたすべし、しばらく御待候へとて奧に入て、此由を妻子に吿ければ、驚入て思もよらぬ事にあひ、歎き悲事限なし、かくて早く事おへぬべし、沐浴の湯わかせよとて、其よそひするうちに、家のうちこぞりて、兎角の事はわかたず、絶入ばかりなりけるに、湯を燒く下部の、亭の庭を見やるに、塀の上にあまたの狐、かしらをならべて睨居たり、亭のかたをむきて、今や〳〵と云に、供にありける士、手をふりていまだしと答けり、此よしを見付て、急ぎ主人にさゝやきければ、是を聞てさこそあらめ、此上は立出て使者を切捨、もし事違なば、其時こそ我ともかくもならんと獨言して、今こそ自殺し侍らめとて、亭へ出ければばや其氣を知けるか、悉く逃失けり、頓て此よしを申て、山々を狩して多く狐をとりければ、何事もなくてやみけり、
p.0371 一橘枝直〈はじめ爲直といヘり、後枝直とあらたむ、〉は、いとますらを心たくましき本性にて、いさゝかもめ めしき事なかりし人なりき、若かしりほど、おほやけのおほせごとゝして、町のつかさの下づかさにめしあげられて、住みぬべき居處給へりしに、やがてそのかまへのうち見ありくに、たつみの角に稻荷のほこらあり、枝直おもふに、ほこらこゝに有りて、家づくりせむにたよりあしく、所をかへばやと思へど、今までかく有り來りし事なれば、さておきぬ、かくて日比ふるに、朝ゆふこのみ飼へる小鳥、ともすればうする事幾度といふことなし、いといぶかしきことにおもひたるに、あるあした小鳥またうせたり、こめおける籠もくだけぬ、枝直いよ〳〵いぶかしみて、庭のうちこゝかしこ見めぐりみありくに、稻荷のほこらのあたりに尾羽ちりみだれたり、枝直怒りて、年久しくつかひならせる老つぶねを呼びて、とも〴〵にほこらを取りのけつゝ見れば、狐の住所と見えて穴あり、親狐はをりあはせずして、生れ出でゝ二日三日も經つるばかりの、子狐みつよつもこよひ居たり、枝直怒りて、にくきやつ哉、小鳥のうせたるは是の親狐がしわざなりけり、此子狐どもとく取り捨てよとて、彼老奴して、此子狐をみな近き川に流させ、穴をうめ、ほこらをこぼち、燒きすてさせけり、しかるに其夜より彼おいつぶね、身うちぬるみほとりて、物ぐるはしくなり、えもしれぬ事どもいひたけびてあなにくのこの老奴や、わがいつくしむ子どもを流し殺して、わがすむ所をまどはしゝ事よ、いかにせん〳〵、こよひを過さずとりころしてんと、大聲にさけぶ枝直聞きつけて、いよ〳〵いかりたけびつゝ、かの老奴にむかひていふやうは、狐よいましこそことわりなけれ、こゝの居處はおほやけより枝直に下し給へる所なり、枝直はあるじなり、さればほこらをおかむもおかじも、枝直が心なり、其あるじの好みかふ小鳥を奪ひはむは、ぬす人なり、やよことわりなのくち狐よ、子狐を流し捨て、ほこらをこぼたせしは、枝直がさせしなり、老奴が心よりなしゝにはあらず、うらめしと思はゞ、枝直にこそ訴へなげかめ、老つぶねに何の怨心殘さむ、とくはなれよ、さらずばなほいみじきめをみすべしとせためければ、ことわり とやおもひけむ、やがてはなれにけりとそ、そのをゝしき本性、此一事にておもひやるべし、
p.0373 南部七ノ戸(へ)に六里四方計の野あり、それに年々の二月の末に狐隊といふこと有、其邊の人はさゝえなど携へて見にゆく、およそ空薄曇たる日也、あらかじめ窺ふに、狐ども出て飛ありくさまあれば、必其日にて初に二三十の狐出るを、人々高聲に褒れば、頓て城郭の形顯はる、是は二丁計のかなたに見ゆ、さて甲胃を帶び馬にまたがり陣だてをなす、凡二百計にみゆ、又こなたより頻に聲をかくるほどに、やがて諸侯の行列をなすことふたゝび、一度は松前侯の行粧、一度は津輕侯のさまをまねぶ也、彼城郭陣立などは、厨屋川の戰の昔をまねぶ歟、此野の狐はわれらの事より外に見しることなければ也といへり、たゞこなたの見る人多ぐて、聲をかくるもしげゝればかしこの人數も多く花々しく見え、人もこゑも少なければさびしとなん、是も重厚まさしくみしよしかたられぬ、
p.0373 淡海八幡の近邑田中江の正念寺といふ一向宗の寺に住る狐有、其寺のために火災などふせぐことはもとよりにて、住僧他へ法事などに行時は守護して行とか、人の眼には見えねど、或時彼僧のはける草履にものをかけし人有しに、歸りて後もの陰より人語をなし、吾草履の上にありしに汚せりとて大に怒りしを、住僧夫は人の眼に見えねばせんかたなし、怒は無理也とさとしければ、げにと理に伏せりとそ、此狐の吿し言に、凡吾黨に三段有り、主領といふは頭にて、其次を寄方(ヨリカタ)といふ、其下を野狐(ノギヅネ)といふ、人に禍するは大かた野狐也、然れども吾下の野狐にあらざれば制しがたし、所々に主領有り、もし他の主領の下の寄方、もしは野狐にもあれ、是を制すれば怨をうくること深し、一旦の怨、永世忘れざること、人よりも甚しといへりとなん、是は狐つきのことを、彼寺にたのみてとはしめし時こたへし言とぞ、凡物とはんとおもへば、書付て本堂にさし置ば、其答をまた書ても見す、人語をなして答ることも有り、形は見せず、凡住僧を敬す ることは君のごとくす、ある時官を進むために金の不足せるを、助力せられんことを乞ふ、住僧うけがひながら不審して、其もとの金はいかにしてもてるやととはれしに、本堂の賽錢の箱に入らず、こぼれだるを折々に拾ひ置し也とこたへしとか、常に本堂の天井に住りとなん、さて此狐に限らず、官に進むとて金を用るよしの話ども聞るにつきて、稻荷の神官達に其金の納る所をとひしに、かつて知人なし、彼等が黨にての所爲ありや、しられぬこと也、
p.0374 文政元年寅五月廿一日屆書差出ス
御普請役町田相之助妹
あい 右愛義、四月二日より亂心樣に御座候處、得と相糺見候へば、大久保新田當山修驗大乘院に遣れ居候狐之由申聞候ニ付、右大乘院に遣われる狐にて、何等之譯を以乘移候哉、其段相尋候處、祈禱を賴れ、右布施料を申請度段、依レ之乘り移旨、大乘院差圖ニ付、乘移候段申聞不レ穩候間、家内之もの共、晝夜打懸り色々介抱仕、則大乘院觸頭之鳳閣寺〈江〉罷越、右之段始末相談候處、同寺申聞候は、大乘院義呼出、一通り承糺候上、挨拶可レ致旨申聞、同月七日、右鳳閣寺ゟ大乘院幷同人組合同道に而、鳳閣寺差圖のよしにて私方へ罷越、病人〈江〉問答致度旨申聞候ニ付、親類共幷私立會問答ニ及承候處、最初病人私共〈江〉申聞候通り、大乘院に遣われ候狐にて、則同人差圖ニ付、乘移り候段申聞候ニ付、大乘院義も一會之申披無レ之、組合之者共義も及二赤面一候次第ニ付、私幷親族共ゟ申達候者、大乘院差圖ニ而爲二乘移一候義に候はゞ、早々立去候樣可二取計一旨及二懸合一候所、右尋問之趣にては、何分大乘院身分難二相立一、此上心之及候丈者祈念致度段、同人申聞候ニ付、勝手次第祈念可レ致旨及二挨拶一候に付、大乘院は勿論組合一同祈念いたし候處、病人義も快樣子ニ付、此上再發之樣子ニ候はゞ、組合之内へ申聞矣候樣申置、一同罷歸候、然ル所同月晦日ゟ、尚又再發之樣子ニ而、騷敷有レ之候ニ付、早速其段右組合江申達候處、猶又當月六日、大乘院其外組合一同罷越、病人江再應及二尋問一候處、 何分最初相答候通り之義にて、其節も猶又大乘院始組合一同、終日祈念致候得共、一向立去樣子も不二相見一、今以同篇に而、全快不レ仕候ニ付、此節出所之義、祈念品々手當等仕り、右大乘院義、御吟味筋之義者相願不レ申候得共、同人狐遣候よし、外之方も私方同樣之義、所々ニ有レ之趣、風聞も承及候間、此後いか樣之義出來引合相成可レ申も難レ計奉レ存候間、此段申上置候、
寅五月 町田(御普請役)相之助
右之通申聞候ニ付、申上置候、以上、
p.0375 狐の術
狐のことは、往昔より口碑に傳へ物に記して、その物語種々あり、蓋人に冠せられて、その恨みを報うがごときは、獸といへどもその理あり、然るに恩も恨みもあらぬ人に魅て惱ますは、悉皆何の爲なるぞ、たゞその食を貪る爲か、また彼が晒落なるか、更に解すべからざる所なり、玄中記にいはく、狐五十歲能變化、百歲爲二美女一爲二神巫一、爲二丈夫一與二女子一交接、千歲能知二千里外事一、卽與レ天通、爲二天狐一と見え、五雜俎に、云々、狐千歲始與レ天通、不レ爲レ魅矣、其魅レ人者多取二人精氣一、以成二内丹一、然則其不レ魅二婦人一何也、曰狐陰類也、得レ陽乃成、故雖二牡狐一必托二之女一、以惑二男子一也、然不レ爲二大害一云々、思ふにこれ謝肇淛何に因てかくいふにか、凡そ狐美女に化し男子を誑かして精氣を取る、その取らるゝもの必死す、夫のみならず狐に魅れ久しくして退かざるは、究めてその人死に至る、奚爲大害をなさずとせん、むかし余が相識る人五十に及びて淫虐なり、或夜一人酒樓に至るに、これより嚮二十有餘の美人ありて獨酌をなす、彼人これを見て歡びつゝ、元來知る人にあらずといへど、盞を酌すにより、美人もまた悦びて膝を雜へ、酒嚥なし沈醉におよび其處を立出、夜のいたく更して駭て、美人のいはく、吾夫なし、他人の許に寄宿なせば、今さら歸り門を敲くは、いさゝか面伏なりと、うち萎れたる景勢なるに、かの男はよき僥倖と、夫より相識方に伴ひ、二階に登りて諸共に臥す、かく て夜の明んとする時、眼覺て見れば女はをらず、偖は厠へや往たらんと思へども歸り來ねば、訝りて立出見るに、厠にもをらず、四方の戸は内より固く鎖しつゝ、人の出たる容はなし、こゝに於て大に訝り、その家内を呼起し、云々のよしをいひ家の隅々探せども、彼美人の影だに見えず、昉(はじ)めて知る、この男が淫虐の虚に乘じ狐の誑かしたりとは、夫より後かの男は心地あしとて籠り居しが、三十日も過ざるまに、竟に亡人の數にいりぬ、これ精氣を狐の爲に奪はれたる故なりと、その頃人のいひあへり、愼まずんばあるべからず、
p.0376 秉穗錄に、遠州にてくだ狐の人につくことあり、其人なましそを食して餘物を食せず、尾州にて云ふかまいたちと的對なり、
p.0376 狐〈○中略〉
人病二傷寒發狂一、或毎思慮勞レ心而發レ病、或產死之後作レ怪、或夜忤二嬰兒一之類、多是狐妖之所レ爲、而鬼之所レ乘也、大抵狐之所二妖惑一者、兒女及男性昏愚氣怯狂燥之人也、其遭二妖怪一而惑者輕淺、則巫祝禳而去、狐精入二皮膚之間一、作二瘤塊狀一、能察レ之者强握出刺二針及小刀一則去、又放二田犬猛逸者一、則犬識二狐氣一、頻吠欲レ囓亦去、其深重則經レ年不レ去爲二廢人一、其有二宿怨一而不レ去、竟至レ奪レ命、或曰、狐化作レ女與レ人通、則其人死、若其人不レ死則狐反死、然於レ理未レ詳、又曰、被レ惑二狐妖一者、先於二疑似之際一、煎二櫁葉一令レ服レ之、則狐妖者太嫉忌爭而不レ服レ之、眞病者雖レ嫌二臭味一而能服レ之、是有二此理一爾、
p.0376 狐〈○中略〉 狐ノ人ニツキテ爲狂ニ、狼糞ヲタキテ鼻ヲフスベ、或薄茶一服ホド令レ飮レ之、又海鷂魚ノ尾ヲ用テ、病人ヲサスベシ、有レ效ト云、
p.0376 狐〈○中略〉
試二狐魅一其邪氣入二肩脇皮膚間一、必有レ塊、診二其脈一淨沈不レ定、其拇指多震也、能察レ之者、刺二火鍼一則去、或先疑似之間、煎二櫁葉一令レ服レ之、狐妖者不二曾吃一、眞病者雖レ嫌二臭味一而能吃、
p.0377 俗呪方
避狐、魚鳥を獲て夜行せば發 (ツケギ)を魚籃の中に納べし、かゝれば狐の爲に奪るゝことなし、狐は硫黃をおそるゝもの也、
p.0377 狐〈○中略〉
近世本邦術家有二使レ狐者一、呼稱レ修二飯繩法(○○○)一、其法先搜二求狐之穴居一、常牧二孕狐一以馴致、至二生レ子時一、逾勤而保二護之一、子旣漸長、母狐携レ兒來而乞レ名、術者名二于狐兒一、母狐拜顙携レ兒去、爾後術者有レ事、密喚二狐名一、狐隱レ形至、譯二問密事一、無レ不レ知レ之、旁不レ能レ見二狐形一、術者談レ妙、則人以爲レ神、久而術者有二些之穢行怠慢一、則狐亦不二長至一、而術家竟亡矣、
p.0377 狐つかひ、狐の怪をなすこと、〈○中略〉文德實錄に、席田郡有二妖巫一、其靈轉行噉心、一種滋蔓民被二毒害一、〈噉心とは、茶吉尼有二二種一、實類と漫荼羅となり、實類茶吉尼、名噉食人心、雖二業通自在一、祭者得レ福、名爲二邪法一、漫荼羅中茶吉尼者、如來應迹、故噉盡心垢、住大涅槃、所以名二乗如一、天龍八部、皆此義也、〉谷饗集にみゆ、荼吉尼は噉盡の義歟、これ茶吉尼天の邪法なるべし、〈著聞集に、知足院殿だきにの法を祈らせられ、狐の生尾を感得せられたる事見えたり、〉
p.0377 應永廿七年九月十日丙子、今朝室町殿醫師高天被二禁獄一、父子弟等三人也云々、此間仕レ狐之沙汰風聞、然而咋日於二御臺御方一、仰二驗者一被二加持一之處、二疋自二御所一逃出、則被レ縛二件狐一之後被二打殺一、依二此事一高天ガ狐ヲ奉二詛付一之條露顯云々、仍今朝被二召取一云々、晝程亦被レ召二取陰陽助定棟朝臣一、是モ仕レ狐之由有二虚説一云々、末代之作法、淺敷々々、 十月九日甲辰、後聞囚人高天、昨日被レ流二讃岐國一、俊經朝臣同國被レ流レ之云々、俊經朝臣ハ於二秋野道場一出家云々、是等皆狐仕之輩也、
p.0377 應永廿七年九月十一日、抑聞、室町殿御風氣同體也、追レ日御窮屈增氣云々、醫師高間付レ狐露顯之間、管領〈畠山〉召捕、〈家人藥師寺召捕預レ之〉狐三疋捕レ之活置云々、陰陽師定棟同付レ狐、露顯之間、讃州〈細川〉召捕云々、不思儀事也、天下御祈禱只此事云々、驚入者也、十四日、室町殿聊趣二御減氣一云々、高間侍所ニ 被レ渡度々被二糺問一、就二白杖一狐仕同類共、昨日八人被二召捕一、醫師陰陽師有驗僧等也、此内左大將〈執柄二條〉候人諸大夫俊經朝臣、醫道を學、狐仕之由、日來有二風聞一、仍被二召捕一畢、〈俊經朝臣息女比丘尼 得菴にあり、又兄弟行豐朝臣嫁之面々娘共、右往左往沒落、不便也、行豐朝臣妻忽離別云々、〉此外大進松井、〈目藥師〉宗福寺長老、淸水堂坊主等被二召捕一云々、自餘其名不レ聞、十月十日、室町殿御所勞雖レ有二減氣一未煩敷御事云々、狐仕人數權大夫俊經朝臣、醫師高間、陰陽師定棟朝臣、各配所へ下向、四國邊云々、後聞、藥師高間ハ、配所下向路次ニて被レ殺云々、
p.0378 狐つかひ
淸安寺といふ寺の和尚は、狐つかひにて有しとぞ、橋本正左衞門ふと出會てより懇意と成て、をりをり夜ばなしにゆきしに、あるよ五六人より合てはなしゐたりしに、和尚の曰、御慰に芝ゐを御めにかくべしと云しが、たちまち座敷芝居の體とかはり、道具だての仕かけ、なりものゝひやうし、色々の高名の役者どものいでゝはたらくてい、正身のかぶきにいさゝかたがふことなし、客は思よらずおもしろきことかぎりなく、居合し人々大に感じたりき、正左衞門は例のふしぎを好心から分て悦、夫より又習度と思心おこりて、しきりに行とふらひしを、和尚其内心をさとりて、そなたにはいづなの法(○○○○○)習度と思はるゝや、さあらば先試に三度ためし申べし、明ばんより三夜つゞけて來られよ、ごれをこらへつゞくるならば、傳じゆせんとほつ言せしを、正左衞門とび立計悦て一禮のべ、いかなることにてもたへしのぎて、そのいづなの法ならはゞやといさみいさみて、よく日暮るゝをまちて行ければ、先一間にこめて、壹人置、和尚出むかひて、この三度のせめの内、たへがたく思はれなば、いつにても聲をあげてゆるしをこはれよと云て入たり、ほどなくつら〳〵とねづみのいくらともなく出來て、ひざに上り、袖に入、ゑりをわたりなどするは、いとうるさくめいわくなれど、誠のものにはあらじ、よしくはれてもきずはつくまじと、心をすゑてこらへしほどに、やゝしばらくせめていづくともなく皆なくなりたれば、和尚出て、いや御 氣丈なること也と挨拶して、明ばん來られよとかへしやりしとそ、あくるばんもゆきしに、前夜の如く壹人居と、此度は蛇のせめ也、大小の蛇いくらともなくはひ出て、袖に入、ゑりにまとひ、わるくさきことたへがたかりしを、是もにせ物とおもふ計にこらへとほして有しとそ、いざ明晩をだに過しなば傳受をえんと心悦て、よくばん行しに、壹人有て待共〳〵何も出こず、やゝたいくつにおもふをりしもこはいかに、はやく別し實母の末期に著たりし衣類のまゝ、眼引つけ、小ばなおち、口びるかわきちゞみ、齒出て、よはりはてたる顏色やうぼう、髮のみだれそゝけたるまで、落命の時分身にしみていまもわすれがたきに、少しもたがはぬさまして、ふは〳〵とあゆみ出、たゞむかひて座したるは、鼠蛇に百倍して、心中のうれひ悲しみたとへがたく、すでに詞をかけんとするてい、身にしみ〴〵と心わるくこらへかねて、眞平御免被レ下べしと聲を上しかば、母とみえしは和尚にて、笑座して有しとそ、正左衞門めいぼくなさに、夫より後二度ゆかざりしとぞ、
p.0379 狐〈○中略〉
狐有二花山家能勢家之二派一、相傳云、往昔有二狐狩一、老狐將レ捕、急逃隱二花山殿乘輿中一、乞レ赦遂得レ免矣、能勢何某亦雖二時異一而助レ死之趣相同、共狐誓曰、至二子孫一永宜レ謝二厚恩一也、自レ此于レ今有二狐魅人一、則以二二家之符(○)一、置二閨傍一乃魅去平愈、其固レ約人亦可レ愧也、
p.0379 古へ野干ヲ神ノ體トナシタル社ノホトリニテ、キツネヲ射タルモノアリケリ、コノモノトガアリナシノ事、陣ノ定ニ及テ、諸卿サマ〴〵ニ申ケル中ニ、帥大納言經信卿申テ云ク、白龍之魚勢懸二預諸之密網一ト計リウチ云テイラレタリケリ、イミジキ神ナリトテモ、キツネノスガタニテハシリ出タラムヲ射タラムハ、ナニノトガヽアラムト云心ナリ、此事ハ龍ノ魚ノスガタニナリテ、浪ニタハフレテウカビイデタリケルホドニ、預諸ト云モノヽアミヲヒキケルニカ カリテ、カナシキメヲミテ、大海ニカヘリテ龍王ニウタヘケレバ、龍王コトハリテ云ク、ナニシニカ魚ノスガタトハナリケル、サレバコソアミニハカヽレ、今ヨリノチサル事ヲスマジキナリト云ナリ、今カク云ハ此事也、又或人申テ云ク、射タリト云トモ、其野干マサシク死タルヲミズ、トガヲモカラズト申、此日ノ定文ハ宰相中將隆綱ゾカキケル、此人ノカタチヲカクニ、雖レ聞二飮羽之號一、未レ見二首丘之實一、トイフ秀句ハイデクルナリ、後三條院ハコノ定文ヲ御覽ジテ、餘リニ感ゼサセ給テ、隆綱ガ宰相中將ヲ過分ニ思ケルハユヽシキ僻事也ケリ、伊勢大神宮正八幡宮イカヾオボシ召ケントゾ仰セラレケル、〈○又見二十訓抄一〉
p.0380 延久四年十二月七日辛巳、前大和守藤原成資男三郎仲季、於二伊勢齋宮邊一、依下射二殺白靈狐一之罪過上、配二流土佐國一、
p.0380 治承二年正月十二日、今夕於二一本御書所一、齋宮大番武者所瀧口源競、射二殺靈狐一了、門中倒臥了、
p.0380 治承二年閏六月廿四日、今夜伴武道配二佐渡國一、去五月初齋宮御所一本御、射二殺件狐一、仍被レ勘二罪名一、去四日有二陣定一、被レ行二此罪科一也、權中納言齋宮上卿、〈宣下〉右志明基爲二追使一云々、武道者、前瀧口競郎等也、 三年正月十一日庚午、齋宮自二野宮一退下、昨日母堂逝去之故也、今年可レ有二群行一也、去年坐二一本御書所一之間、五月十三日、見二付白專女一〈狐之(之恐也誤)齋宮號二專女一〉之被二射殺一、勅別當隆盛奏聞、藏人左少弁兼光奉レ仰、問二外記賴業、師尚一、留二〈○留一本无〉大外記一獻二勘文一、延久四年於二齋宮寮一、大和守成資朝臣三男藤原仲季射二殺靈狐一、依二件事一被レ勘二罪名一、有二仗議一仲季配二流土佐國一之由勘申、同年天皇遜位、隨齋宮退下者也、就二外記勘文一齋宮上卿權中納言實綱卿、奉レ勅、左少弁兼光傳宣、仰二明法博士一令レ勘二申所レ當罪名一、章貞、基廣、以二各別勘申一也、宿直人源競從武道成仲犯也、其後左大臣以下參二仗座一有レ定、被レ配二流佐渡國一、此事已彼徵歟、
p.0380 寅日鳴二北南一人死三十日 寅日〈東鳴人死、南鳴財備、西鳴口舌凶、北鳴客人來、〉卯日〈東鳴事在、南鳴小吉、西鳴酒食、北鳴客來、〉辰日〈東鳴愁來、南鳴愁在、西鳴客來、北鳴愁在、〉巳日〈束鳴人死、南鳴愁在、西鳴客來、北鳴愁在、〉午日〈東鳴凶、南鳴愁事、西鳴金財得、北鳴愁在、〉未日〈束鳴人死、南鳴女愁事、西鳴客來、北鳴客來、〉申日〈東鳴酒食、南鳴大凶、西鳴吉、北鳴客來、〉酉日〈東鳴客來、南鳴客來、西鳴凶、北鳴家事在、〉戌日〈東鳴客來、南鳴事在、西鳴金財得、北鳴客來、〉亥日〈東鳴得レ財、南鳴事在、西鳴大吉、北鳴人死、〉子日〈東鳴官口舌事、南鳴人死三十日、〉丑日〈鳴北方里邑人死、大神必有二五日忌一、〉
又云、子日〈官口舌事〉丑日〈病事〉寅日〈病事〉卯日〈馬牛死〉辰日〈火失事〉巳日〈財物得〉申日〈子死大凶〉酉日〈病事〉戌日〈水流死〉亥日〈同レ上〉
p.0381 狐〈○中略〉 其口氣ヲ吹ケバ火ノ如シ、狐火ト云、
p.0381 稻荷の狐
狐火の事、古より種々ある事なり、或人少年の頃、山中にて目前に見し事あり、七月二十五日の曉、隣村へ行んとする時、途中三四町隔て、山の麓に炬火のちらめくを見付、扨は狐火也、いで試んと稻田の畷道を稻葉がくれに這ゆくに、狐はかゝる時人來べしとはしらで、大小二三十疋叢祠の廣前にて、逐つ逐はれつ、息を限りに戯れ居けり、遠くよりて見るに、火とみゆるものは、彼が息なりけり、ヒヨウト飛上ル時、口中よリフツト息吹出づ、其息火の如く、ヒウ〳〵と光る、大抵口より二三尺前にてひかる也、光りつゞけに光る事なし、勢にのりヒヨツと飛び出す時のみちらつく、遠方より見れば、明滅断續するも理りなり、やがて人聲聞えたれば、それに驚きハウ〳〵ちりちりに山の奧へにげ入ぬ、擊レ尾出レ火などゝ古書にいひしは、口と尻との違ひなりと笑ひしも、今は昔の茶のみ話になれりと語る、此は吹二口氣一如レ火といふによく合へり、
p.0381 嘉吉元年二月七日、向二慶壽院一奉レ謁二海門和尚一、辛酉事等言談、和尚云、於二室町殿一女房髮近來切之恠異事、爲二何者之所爲一哉不審之處、近頃見二洛陽伽藍記一之處、狐之所爲也、及二百世一人切之事有二先例一也、狐者拜二北斗一如レ此變化歟、所詮北斗歟、尊星王歟、何樣就レ星被レ修二其法一、有二祈念一者可レ然哉、其物之所爲ト已ニ覺知ル時ハ、其物不レ成二變化事一者也、天狗なども不レ可レ盡と云事あり、肝要は就二其事一、修其法一、禳 レ災可レ然歟之由有二言談一、尤可レ然博覽之人也、如レ此事尤有レ謂者哉、 廿九日、剪二人髮爲二狐之所爲事、太平廣記之所見、先日海門和尚被レ示之旨、無レ何示二出之一了、當時室町殿女中人々、面々列座之席、已有二此事一未レ休、珍事云々、已知二其所爲一之時其物難レ化、就二北斗一尤可レ有二御祈禱一歟之由、同示出了、
p.0382 恠刀禰〈九尾附〉
佐渡には狸のみありて狐なし、されば狸の人に憑事ありとそ、四國へも狐は渡らずといふ也、但近屬讃州へ白狐のわたりしといへり、是否はしらず、
物の妖なる事狐にますものなし、しかれども物は異類を歡ず、老狐の美女になる事はあり、人の妻となりて子を生ことはなし、狐狸は同種類なれども、狐と狸とまじはりて子を生る事を聞ず、犬(ヂイヌ)と矮犬(チン)とは同物なれども、形の小大短長に便なければ得尾(マジハ)らず、鴻雁燕雀の類、その形の相似たるも、おのが雌雄に混合せざるは自然の理なり、
p.0382 狸骨〈楊玄操音、力之反、〉虎狸、猫狸、又有レ 、〈楊玄操言信〉一名鷄材、一名禽豹、〈已上、出二兼名苑一、〉一名鼠狼、〈出二拾遺一〉和名多々介(○○○)、
p.0382 狸 兼名苑云、狸、〈音釐、和名太奴木(○○○)、〉搏レ鳥爲レ粮者也、
p.0382 説文、貍伏獸、似レ貙、埤雅、貍、似レ貙而小、文彩班然、異二於貍貉一、爾雅翼云、貍者狐之類、狐口鏡而尾大、貍口方而身文、黃黑彬々、蓋次二於豹一、本草衍義、狸形類レ猫、其文有レ二、一如二連錢一者、一如二虎紋一、李時珍曰、貍有二數種一、大小如レ狐、毛雜二黃黑一、有レ斑若レ猫、而圓頭大尾者爲二貓貍一、善竊二鷄鴨一、有レ斑如二貙虎一、而尖頭方口者、爲二虎貍一、善食二蟲鼠果實一、似二虎貍一而尾有二黑白錢文一、相間者爲二九節貍一、
p.0382 狸〈音釐、タヌキ、タヽケ、メコマ、イタチ、〉
p.0382 貍〈狸正、タヌキ、タヽケ、音釐、野猫、〉
p.0382 狸貍〈上通下正〉
p.0382 新華嚴經音義 猫 狸〈(中略)貍狸也、又云野貍、倭言上尼古、下多々旣、〉
p.0383 狸(タヌキ)〈變則成レ豹〉
p.0383 狸 くさいなぎ ふるたぬき
p.0383 たぬき〈○中略〉 狸をよめり、此皮手貫によろしきをもて名を得る成べし、
p.0383 タヽゲノ筆ナンド云、タヽ毛トハタヌキノ毛歟、狸ノ字ヲタヽゲトヨム、又ネコマ共ヨム、只ネコト同事也、狸(タヽゲ)ヲ猯(タヌキ)ニ用ハ僻事也、サレバ帝範ノ審官篇云、 レ牛之𣇄不レ可二處以烹一レ雞、捕レ鼠狸不レ可レ使二之搏一レ獸ト云リ、是賢愚大小器異ナル事ヲ、狸(タヽケ)ノ鼠ヲ得テトレバトテ自餘ノ獸ヲ不レ可レ搏喩へタリ、可レ知レ猫也ト曰事ヲ、獸ヲ害スルヲバ搏ト云也、搏ハ補洛反、手擊ト註セリ、狸(タヽゲ)猯キハ各別也、狸ハ猫ナルベシ、サレバ大日經疏ニモ、六十心ノ狸心ノ下ニ如猫狸侍ベリ、明ケシ、猫ト狸ケ同類ト云事ゾ、
p.0383 貍(タヌキ)〈本草、總名、本草和名ニ多々介、和名鈔ニ太奴木、康賴本草に貍和名禰己、又多々計、醫家千字文注に、狸和名多々毛、今按禰古是也、とあるは、猫に狸、狸に野猫などの一名あるをもて混じ誤れるなり、○中略〉 各郡皆產す
p.0383 狸(タヌキ/ムヂナ)
タヌキ(○○○)トモムヂナ(○○○)トモ云、筑波郡狸淵村ハムジナフチトヨメリ、其性狐ニ類ス、人眼ヲ闇マシ形容ヲ變化スルニ工クミナルモノアリ、或ハ文字ヲ書スルモノアリ、
p.0383 貍ハ方言ジウモンヂ、稀ナリ、
p.0383 貍
集解、貍處處有レ之、毛形似レ狐雜二黃黑一、有レ斑如レ猫、而園頭大尾、善竊一雞鴨 類一、食二百果穀粟一、其氣臊臭、又有二虎斑尖頭方口者一、其肉不レ臭可レ食、予〈○平野必大〉未レ見レ之、大抵貍面似レ猫似レ狐妖怪亦相似、常掘一土窟一而隱棲、冬春負レ暄携レ子出レ穴、鼓レ腹而樂、故俗稱二貍腹鼓一、老者能變妖食レ人、若化作二人容一者、燒二松杉葉一而熏レ之、則露二 本形一、或入二山家一、坐二爐邊一偷二人眼一、向レ火乘レ暖、而展二陰囊一者、廣長四五尺、動炰一兒女一、而江レ之作レ害、或能馴レ人而作二人語一、卜二陰晴一吿二時變一、亦怪物也、獵家捕レ之、敎二田犬一驅出而斃、復懼二鷲鵰一、今時臘月捕レ之、剝レ皮日晒去レ臭、造二帽及席一、甚温柔亡レ寒、野人愛レ之、
p.0384 貍〈音釐〉 野貓 〈子〉 和名太奴木
按、狸有二數種一而淡黑色、背文如二八字一者名二八文字狸一、皆脚短而走不レ速、登レ樹甚速、其穴夏則奧卑下、冬則奧高上、老狸能變化妖恠與レ狐同、常竄二土穴一出盜二食果穀及雞鴨一、與レ猫同レ屬、故名二之野猫一、或鼓レ腹自樂、謂二之狸腹鼓一、或入二山家一坐二爐邊一、向レ火乘レ暖則陰囊垂延廣二大於身一也、貍皮可レ爲レ鞴、
p.0384 狸の頭(○○○)をやきて其灰を用ふれば、失心風を治すといへり、狸を得なばとく〳〵出だすべしと、國中へ觸れたりければ、二三疋打ち殺して出だしけり、みるもの兩の足をひらき、その毛をわけ、しばし頭をかたぶけて、こは雌なりとて笑ふ、狸のかくし所(○○○○○○)の袋は、席八つしくばかりもありといひたればなるべし、其後生ながら得たりとて、あやしき箱に入れて出だしたり、ひらき侍らずば見べきやうなし、いかゞはせんと戸おしかため、一間しつらひつゝ、いで此ふたあけよといへど、たれしもこゝろよからずとてあけず、豐田何がしをしてしひてひらかせたり、狸の足からめてありければ、蠢々のみにして出でもやらず、近づけばえならぬ匂ひたへず、寄合ふ人とてもなし、とく狩人へ返しあたへよとて、又ふたを覆ひ、此ふくろは見るべうもなし、むしろ八つしくばかりなりとも、かゝるがうちには、いかでその術をなしてんやとてわらひぬ、
p.0384 老狸の書畫譚餘〈○中略〉
因にいふ、北峯子の末篇にしるされし狸庵には、予〈○瀧澤馬琴〉も一兩度たいめんせしなり、渠が當時の本宅は中橋なりしか、よくもしらねど、年來芝新橋の橋づめに、さゝやかなる祗店を出だして、賣卜をもて活業にせしものなり、寬政中、予は伊東蘭洲に誘引せられて、そが店に赴きて、畜ひお ける狸を見し事ありけり、この時は、狸二三頭を、前を竹篇子にせし箱に入れて、その座右に置きたり、毛いろのいさゝか異なるを、いかにそやとたつねしに、一頭は玉面狸なり、その餘はよのつねなるものなりとて、ほこりがにとき示しにき、このゝち文化の初にや有りけん、誰やらが書畫會の席上にて、又彼狸庵に面をあはせし日、渠が年來秘藏すと聞えだる狸石を携へ來て、予にも見せ、人々にも見せけり、その石はまろくして長さは纔二寸に足らず、薄靑白なる石のうちに、黑く三四分ばかりなる狸のかたちあり、是天然のものにして、さながら畫けるに異ならず、見るもの嘆賞せざるはなし、只是のみにあらず、そが煙包(タバコイレ)の諸飾、紙囊(カミイレ)のかな物なんど、すべて狸にあらぬはなし、又好みて狸の寫眞をよくせり、予その畫きたる狸を見しに、形狀毛色分釐をたがへず、書は唯狸をのみよくして、その他のものを畫かずといひにき、
p.0385 出雲町といふ所に、狸庵といふ卜者あり、もとは中津の君の臣なりしが、彼家を出て、今は卜を以て世わたらひのたづきとす、性狸を愛して、家に二疋の狸を養ひ、己が子よりも深く愛し、食なども子には與へぬ時も、狸には與へぬ、狸の話を記せし書、十卷ほど有て、いづれも二三百葉づゝ有といふ、狸の話を知る人あれば、百里を遠とせず、行て聞也、一奇人也、
p.0385 狸の卜者
是はいと〳〵近き寬政の頃なり、江戸銀座二丁目西側に、狸の卜者といふもの在けり、名は何とか云けん、今忘れたり、這者いさゝかは學文もありて、會て語ときは十分おもしろき處あり、最一琦人にて、旦暮の行狀も人とは大いに異なる處あり、常に狸を好んで多く家に飼おき、朝暮これを愛する事、世の婦女子などが、猫を愛るに異ならず、牀室には狸の軸をかけ、壁には狸の繪をここかしこにはり著、夏の浴衣に狸のもやうを染、冬は狸の裘を躬にまとひ、簷端易の招牌にも狸をゑがけり、爰を以て世人狸の卜者と呼なしけり、
p.0386 後鳥羽院の御時、八條殿に女院わたらせ給けるころ、かの御所にばけもの有よし聞えければ、院の御所より庄田若狹前司賴慶がいまだ六位なりけるをめして、件のばけ物見あらはして參れと仰られて、彼御所へまいらせられにけり、賴慶すなはち八條殿に參りて、寢殿のきつねどに入て待けり、六ケ夜迄待たりけれども、あへてあやしき事なし、御所樣にも其程はさせる事なかりけり、七日にあたる夜、待かねて少まどろみたりけるに、かはらけのわれをもて、賴慶が頭にばら〳〵となげかけゝる、此時居なをりて、物は有けりと思て待ゐたるに、又さきのごとくばら〳〵となげかけゝり、され共目に見ゆる物もなし、しばしばかり有て、賴慶がうへをくろき物のつゝさきのやうなるがはしりこえけるを、下よりむずと取とゞめてけり、見れば古狸の毛もなきにてぞ侍りける、やがてをしふせてざしぬきのくゝりをぬきてしばりて、いきながら院の御所へゐて參りたりければ、御感のあまりに、御太刀一腰、宿衣一領ほうびに給はせけり、其後はかの御所にばけ物なかりけり、水無瀨山のおくにふるき池有、みづどりおほくゐたり、くだんのとりを人とらんとしければ、此池に人とり有ておほく人しにけり、源馬允仲隆、薩摩守仲俊、新馬介仲康、此兄弟三人、院の上北面にて、水無瀨殿に祗候の頃、をの〳〵相議して、かのみづどりとらんとて、もちなはのぐなど用意して行むかはんとするを、ある人いさめて、其池にはむかしより人とり有て、おほくとられぬ、はなはだむかふべからずといひければ、まことに無益の事也とてとゞまりぬ、其中に仲俊一人思ふやう、さるとても人にいひおどされて、させるみだら事もなきにとゞまるべきかは、きたなきこと也、我ひとり行て見んとて、小冠者一人に弓矢もたせて、わが身は太刀計打かたげて、闇の夜にて道もみえねど、しらぬ山中をたどる〳〵件の池のはたに行つきてけり、松の池へおひかゝりたるが有けるもとに居て待所に、夜ふくる程に、池の面しんどうして、なみゆばめきておそろ しき事かぎりなし、弓矢はげて待に、しばし計有て、池の中ひかりて、其體は見えねども、仲俊が居たる所の松の上にとびうつりけり、弓ひかんとすれば池へとびかへり、矢さしはづせば又もとのごとく松へうつりけり、かくする事たび〳〵になりければ、このもの射とめん事はかなはじと思ひて、弓をうちおきて太刀をぬきて待所に、又松にうつりて、やがて仲俊がゐたるそばへ來りけり、はじめは只ひかり物とこそ見つ〈○つ原脱、據二一本一補、〉るに、近付たるを見れば、光の中にとしよりたる姥の、ゑみ〳〵としたるかたちをあらはして見えけり、ぬきたる太刀にてきらんと思ふに、むげにまぢかきをよく見れば、物がらあんべいに覺えげれば、太刀をうちすてゝむずととらへてげり、とられて池へ引入れんとしけれど、松のねをつよくふみはりて引入られず、しばしからかひて腰刀をぬきてさしあてければ、さゝれてはちからもよはりひかりもうせぬ、毛むく〳〵と有物さしころされて有を見れば狸なりけり、是をとりて其後御所へ參りて、つぼね所へ行てねぬ、夜あけて仲隆等來て、夜前ひとり高名せんとて行しが、いか程の事したるぞとて見ければ、すは見給へとて、古狸をなげ出したりけり、かなしくせられたりとて、見あざみけるとなん、〈○中略〉
齋藤左衞門尉助康、丹波の國へ下向したりけるに、かりをして曰くれたりけるに、ふるき堂の有けるに、内へ入て夜をあかさんとしけるを、其邊の子細しりたる者、此堂には人とりするものゝ侍るに、さうなく御とゞまりはいかゞと云けるを、何事のあらんぞとて猶とゞまりぬ、雪ふり風吹て、きゝつるにあはせて世中けむつかしくおぼえて、正面のまに、はしらによりかゝりてゐたりけるに、庭のかたより物のきほひきたるやうにしければ、あかり障子のやぶれよりきと見れば、庭には雪ふりてしらみわたりたるに、堂の軒とひとしき法師のくろ〴〵として見えけり、さりながらさだかには見えず、去程にあかり障子のやぶれより、毛むく〳〵とおひたるほそきかいなをさし入て、助康がかほをなでくだしけり、そのをりきと居なをればひき入けり、其後あか り障子のかたにむかひて、かたまりねて待程に、又さきのごとく手を入てなでける手をむつと取てげり、とられて引かへしけれ共、もとよりすくやか成物なれば、つよく取てはなさず、しばし取からかひける程に、あかり障子引はなちてひろびさしへ出ぬ、障子を中にへだてゝうへにのり居にけり、軒とひとしう見えつれど、障子の下に成てはむげにちいさし、手も又ほそく成にければ、いとゞかつにのりてへしふせてをるに、ほそ聲を出してきゝとなきけり、其時下人をよびて、火を打せてともしてみれば古狸也けり、あした村人に見せんとて、下人にあづけたりけるを、下人共いふかひなく燒くらひてげり、次日おきて尋ければ、かしら計を殘したりけり、正體なくて其かしらをぞ村人に見せけり、其後はながく此堂に人とりする事なかりけり、
三條の前の右のおとゞのしらかはの亭に、いづこより共なくて、つぶてをうちけることたびたびに成にける、人々あやしみおどろけ共、何のしわざといふ事をしらず、次第に打はやりて、一日一夜に二興〈○興一本作レ與〉ばかりなどうちけり、蔀やり戸を打とをせども其跡なし、さりけれども人にあたる事はなかりけり、此事いかにしてとゞむべきと、人々さま〴〵に議すれ共、しいだしたる事もなきに、ある田舍さぶらひの申けるは、此事とゞめんいとやすき事也、殿原めん〳〵に狸をあつめ給へ、又酒を用意せよといひければ、此ぬしは田舍そだちのものなれば、さだめてやう有てこそいふらめと思ひて、をの〳〵いふがごとくにまうけてげり、其時此をとこさぶらひの、たたみをきたのたいの東の庭にしきて、火をおびたゞ敷をこして、そこにて此狸をさま〴〵調じて、をの〳〵能々くらひてげり、酒のみのゝしりて云やう、いかでかをのれほどの奴めは、大臣家をばかたじけなくうちまいらせけるぞ、かゝるしれごとする物共、かやうにためすぞとよくよくねぎかけて、其北は勝菩提院なれば、そのふるついぢの上へほねなげあげなどして、よくのみくひてけり、今はよも別の事さぶらはじといひけるにあはせて、其後ながくつぶて打事なかり けり、是更にうける事にあらず、ちかきふしぎ也、うたがひなき狸のしわざなりけり、
p.0389 古狸怪
龍吟ずれば雲を生じ、虎嘯ば風を起す、自然の妙なりと云べからず、爰に文政十一年三月中頃、雲峰の家に久敷仕ひし老婦有り、やちと云り、されども歲七十餘りになりければ、名を呼人もなく唯ばゞ〳〵と云れけり、然るにばゞが親族皆絶て、引取養ふ者もなく、懸るべきたよりも無れば、千秋を主人の家にすごせしと憐みおきける處に、其年の三月中頃より何の病もなきに氣絶して、暫くいきも通はざりしが、一時程過ければ漸く心付けれども、身體自由ならずして、唯日增に食事進み、常に十倍して其間に餅菓子を好みければ、好みのまゝにあたへ、老の身のあすもしらぬいたはしさに、老婦の云まゝに食物を好みに應じて與へし處、三度め食事の間に口の休む間なし、死に近き者なれば好みに隨ひ、云まゝに與へけり、手足不レ叶に、夜に入れば心面白げに唄謠、毎夜々々絶ゆく事なく、時には唄ふ友來れり迚、何か高らかた獨り言云て咄し、又はやし唄ひておもしろく聞へけり、友の名などいゝて、夫より聲高く小唄を夜半頃迄興に入り、酒に醉たるありさまにて、熟睡して朝迄靜に寢むりけり、かゝる病人もあるものかと、松本良輔なる醫師に脈伺はせしに脈絶てなし、少し有が如くなれども脈にあらず、奇なる病體にして藥法つかず、全く老もふつもりて心氣を失ひ、血道とちて脈胳通ぜず、唯おぎなふの外なしとて、時々見舞をなして異病なりと申ける、かくて月日を經る間に、半身自然と減じ、後には骨出て穴明き、穴の所より毛のはへたる樣なもの見ゆると看病人申ける、次第に暑に向ひ、しうき付日々腰湯など致しゐたはりけれは、ばゞも其惡さを知たるや、しきりに禮を申けり、食を養ひ遣すには小女を付置、食物を好めば應じて與へ、主人も憐れみ遣しけり、比も秋立冬に移りければ、寒さにも向しゆへ著類まで取替、其著類を能々見るに、狸の毛色なる毛夥敷、また其香ひ毛ものゝ匂ひ高く鼻をとを し、あやしき事に知られたり、夫よりして折々狸ばゞの枕元に出來ば、老婦の寢所の内に尾など長々出しだりとて、小女恐れ寄付ねども、次第〳〵に馴て、後はこわがる色なし、昨夜面白き事を狸が致したりとて、後々は小女も聊恐れず、夜々唄ふ文句を聞覺へ、其夜を待ぞおかしけれ、物になるれば初りの案ずるとは事違、かゝる事だに馴染れば、こはきを恐ず、却て今管は何を謠ふやと待もおかしきなり、ある夜狸の多く集りたるや、つゞみ笛太鼓三味線抔加へて拍子を能はやし、ばゞが大聲にて唄をうたひ、さも面白きさま聞へける、かゝる事有けるより、小女今宵も又聞たしとて、夜に入を樂しみ待も、事馴ればこわきをかへて待そむべ也、心の持よふとこそ思はれける、またある夜ばゞ唄ひ初しかば、足音しておどりさもおもしろくぞ聞へけり、又ある夜ばゞが枕元に、何れよりか柿澤山に積置たり、ばゞにこれを聞しに、是は昨夜客が皆々樣〈江〉厚き御世話に成とて、其御禮にあげよと申もらいたりと申ければ、人々あやしみ馬のふんにてもなきやと能々洗ひ、又皮を引ても割ても核出て眞の柿也、皆小女に與へければ、恐れずあやしまずたべて仕舞けり、また其後切餅を只枕元に積て有、是も小女に與へけり、されども恐れあやしまず、誰人の持來るにもあらず、狸のおくり物と見へたり、かゝる毛ものと云ども、ばゞに憐みぬれば、またむくゆるの印をなし、鳥獸とても、仁にはむくゆる心有り、積善の家には餘慶有、不積善の家には餘快有と、憐遣したるをかんぜし哉、折々それとは云ざれども、寸志を報るとの事、奇どく成ものとも思はる、全くばゞの死たるからを備に食しに體に入りたるなるべし、食殺したると云にはあらざるべし、また一夜火の玉、手鞠の如く頻りに上りたり下たりして、さはがしき事鞠をつくが如く、少女側近く寄、是を見るに、赤きまりの光りなるものにて、手にも取たらば取そふなと手を出し、つかまんとせしに、忽ちきへて影もなし、是を明日ばゞに聞しに、ばゞ答て申は、昨夜女子の客有て、久しぶりにて鞠をつきたりと申たり、又一夜火の玉ばゞの上に頻りに飛上り飛下 り面白見へたり、翌日是を尋るに、はごの子をつきたりと申けり、またある夜歌をよみし故書たしとて、筆墨紙を乞ければ、少女與へしに、きゝもせぬ手にて歌書ぬ、其歌に、
朝貌の朝は色よく咲なれど夕は盡るものとこそしれ、是のばゞ歌の道も知らざるに、字はいろはだによみえず、かゝる死前に歌などよみ、筆取て書は狸の爲す處也、又繪を書て小女に渡しけり、其繪もついに書たる事もなきに、蝙蝠に朝日を書、其上に讃を書たり、その賛に、日には身をひそめつゝしむかはほりの世をつゝがなく飛かよふ也、と認て小女に與ふ、皆古狸のなす事なるが、扨又食事は日增に進み、朝晩は八九膳、食後直に芳野團子五六本、直にきんつば三四十、又晝飯七八膳食し、其後もまた〳〵如レ此大食にて日を送りけれ共、病は聊も快復なく、ばゞの部屋の内に、一夜光明輝き、紫雲生じ、金花を降らし、三尊の阿彌陀佛顯れ、ばゞを連れて行樣子に見ゆれば、小女は驚き走り來り、其次第を吿ければ、雲峰の妻早く參りて見れども、ばゞは能寐て居たり、靜にして聊何事もなし、小女夢にても見しかと尋れば、少しもまどろみは致し不レ申とて、色變じて恐人しなり、比は其年の十一月の三日の朝、昨夜の事を案じ雲峰の妻尋れば、老婦が枕元より古狸尾を出し、靜に出て座中を廻り、細き戸の透間より出去りぬ、老婦は其儘息絶て終りけり、其後小女の夢に入て、古狸は世話になりたる禮を謝し、一つの金のむくの盃をさゝげてくれよと賴むと見へて夜は明にけり、今に其盃金盃に萩の彫したるあり、全く老婦の引取べき人もなく、かいほうして辱を報る印に與へしなるべし、不思議の事なる故、ありしまゝに書つるものならん、
p.0391 たのき〈○中略〉 老たるはよく變妖し人を食、又化して人となる、又よく人語をなす、阿波の家中は、市中の躍まはる事なりしに、明和年中に、兒女の中に交りて、ある家に至り、酒食をたべ、風流を盡して、歸りがけ狸の化たる者、途中に死たり、衣服編笠の類もとの如くなりしと ぞ、こは犬のしわざ也といへり、
p.0392 狐狸のばける古跡人の知たるは、泉州堺の小林寺、釣狐寺、上野國館林茂林寺などなり、これは茶釜も筆跡も今にあれど、伯藏主は只狂言に傳ふるのみにて、其故事おぼつかなし、狐狸の書畫をかけること多く聞ゆ、其角が茶摘集、伊勢國にて狐の人につきて云出たる、仁あれば春もわかやく木の目哉、此狐つき、日比の田夫にてぞ有ける、狐いにて後は無事なりしとなり、其筆跡正しう狐にて侍れば、歌にあやしくたへなるためしにもと書付侍る、元祿元年七月のことにやと有り、〈此たぐひ又往々あり、予(喜多村信節)も其書畫どもを見しが、狐は書にて狸は畫をかける多し、〉
p.0392 狐狸の書畫
予〈○山崎美成〉かつて狐狸のかきしといへる書畫をこれかれ見たりしに、大かた狐は書、狸は畫なるもをかし、さて老狐幸菴が書をかきたる記事は、藍田文集に見え、蛻菴が般若心經は旣に墨帖にありて、予も藏弆せり、狸の畫ける寒山拾得の圖を萩生氏の見せられしことあり、白雲子といふ狸の畫ける蘆鴈の圖、寫山樓〈文晁〉の藏にあり、これらの書畫は縮寫して、耽奇漫錄中に載せたれば、こゝに出さず、
p.0392 古狸の筆跡 好間堂
世に奇事怪談をいひもて傳ふること、多くは狐狸のみ、貍狢猫の屬ありといへども、これに及ばず、思ふに狐の人を魅す事甚害あり、狸の怪はしからず、かくて古狸のたま〳〵書畫をよくすること、世人の普くしるところにして、已に白雲子の蘆雁の圖は、寫山樓の藏にあり、良恕のかける寒山の畫は、護園主人示されき、その縮本今載せて耽奇漫錄中に收めたり、これまさしく老狸の畫けるものにして、諸君と共に目擊する所なり、しかるにその書をかけることを予嘗て聞けるは、武州多摩郡國分寺村名主儀兵衞といふ者の家に、狸のかきたりし筆跡あり、三社の託宣にて、 篆字、眞字、行字をまじへ、文章も違へる所ありて、いかにも狸などの書たらんと見ゆるものなるよし、これは狸の僧のかたちに化けて、此家に止宿し、京都紫野大德寺の勸化僧にて、無言の行者と稱し、用事はすべて書をもて通じたり、邊鄙の事故、有り難き聖のやうにおもひて、馳走して留めたりといふ、その後武藏の内にて犬に見咎められて、くひ殺され、狸の形をあらはしゝとのことなりとそ、その頃、此事を人々にも語りしに、友人鹿山の同日の談ありとていへらく、予往年鎌倉に遊びしとき、川崎の驛に止宿し、問屋某の家に藏する所の狸の書といふものを見たり、不騫不崩南山之壽と書けり、その書體、八分にもあらず、眞行にもあらず、奇怪いふべからず、いかにも狸の書といふべし、問屋の話に、鎌倉の邊の僧のよしにて、其あたりを勸化せし事、五六年の聞なり、果は鶴見生麥の邊にて、犬に食はれしよし、此事はさのみ久しき事にあらず、予が遊びし十年も前の事なりといふ、此二條その年月を詳にせずといへども、今その墨跡の現にその家に存したれば疑ふべからず、
因に云、五雜爼曰、狐陰類也、得レ陽乃成、故雖二牡狐一必托二之女一、以惑二男子一也といへり、吾邦にもむかし より、とかくに狐は婦人に化けたるためし多かり、しかるに狸はいかなる因緣かありけん、茂 林寺の守鶴を始めとして、いつも〳〵法師の姿になれるもをかしからずや、〈○中略〉 老狸の書畫譚餘
下總香取の大貫村、藤堂家の陣屋隷なる某甲の家に棲めりしといふ、ふる狸の一くだりは、予もはやく聞きたることあり、當時その狸のありさまを見きといふ人のかたりしは、件の狸は、彼家の天井の上にをり、その書を乞はまくほりするものは、みづからその家に赴きて、しか〴〵とこひねがへば、あるじそのこゝろを得て、紙筆に火を鑽りかけ、墨を筆にふくませて、席上におくときはしばらくしてその紙筆おのづからに閃き飛びて、天井の上に至り、又しばらくしてのぼり て見れば、必文字あり、或は鶴龜或は松竹、一二字づゝを大書して、田ぬき百八歲としるしゝが、その翌年に至りては、百九歲とかきてけり、是によりて、前年の百八歲はそらごとならずと、人みな思ひけるとなん、されば狸は天井より折ふしはおりたちて、あるじにちかづくこと常なり、又同藩の人はさらなり、近きわたりの里人の日ごろ親みて來るものどもは、そのかたちを見るもありけり、ある時あるじ戯れに、かの狸にうちむかひて、なんぢ旣に神通あり、この月の何日には、わが家に客をつどへん、その日に至らば、何事にまれ、おもしろからんわざをして見せよかしといひにけりがくて其日になりしかば、あるじまらうどらに吿げていはく、其嚮に戯れに狸に云々といひしことあり、さればけふのもてなしぐさには、只これのみと思へども、渠よくせんや、今さらに心もとなくこそといふ、人々これをうち聞きて、そはめづらしき事になん、とくせよかしとのゝしりて、盃をめぐらしながら、賓主かたらひくらす程に、その日も申の頃になりぬ、かゝりし程に、座敷の庭忽廣き堤になりて、その院のほとりには、くさ〴〵の商人あり、或は葭簀張なる店をしつらひ、或はむしろのうへなどに物あまたならべたる、そを買はんとて、あちこちより來る人あり、かへるもあり、賣り物のさはなる中に、ゆでだこをいくらともなく簷にかけわたしゝさへ、いとあざやかに見えてけり、人々おどろき怪みて、猶つら〳〵とながむるに、こはこの時の近きわたりにて、六才にたつ市にぞありける、珍らしげなき事ながら、陣屋の家中の庭もせの、かの市にしも見えたるを、人みな興じてのゝしる程に、漸々にきえうせしとぞ、是よりして狸の事をちこちに聞えしかば、その書を求むるものはさらなり、病難利慾何くれとなく、祈れば應驗ありけるにや、緣を求めて詣づるものゝおびたゞ敷なりしかば、遂に江戸にもそのよし聞えて、官府の御沙汰に及びけん、有司みそかに彼地に赴き、をさ〳〵あなぐり糺しゝかども、素より世にいふ山師などのたくみ設けし事にはあらぬに、且大諸侯の陣屋なる番士の家にての事なれば、さ して咎むるよしなかりけん、いたづらにかへりまゐりきといふもありしが、虚實はしらず、是よりして、彼家にては紹介なきものを許さず、まいて狸にあはする事は、いよ〳〵せずと聞えたり、これらのよしを傳聞せしは、文化二三年のころなりしに、このゝちはいかにかしけん、七十五日と世にいふ如く噂もきかずなりにけり、〈此ころ、兩國廣 路にて、狸の見せ物を出だしゝとありしに、彼大貫村なる狸の風聞高きにより、官より禁ぜられしなり、〉C 狸利用
p.0395 交易雜物
太宰府〈(中略)狸皮(○○)十張〉
p.0395 諸國進年料雜藥
太宰府十二種〈○中略〉 狸骨(○○)二具
p.0395 食堂所解 申可レ請七月粮點加仕丁事〈○天平寶字三年六月二十八日〉
錢(紙背ニ)五貰七百廿三文、〈○中略〉十文題料狸毛(○○)筆一管直
p.0395 奉二獻筆一表一首
狸毛筆(タヽゲノフデ)四管(クワン)〈眞書一ツ 行書一ツ 草書一ツ 寫書一ツ ○中略〉
弘仁三年六月七日 沙門空海進
p.0395 狸を汁にて煮て喰ふには、其肉を入れぬ先、鍋に油を引て、いりて後、牛房蘿蔔など入て煮たるがよしと人のいへり、さ、れば菎蒻などをあぶらにていためて、ごぼう大こんとまじへて煮るを、名付て狸汁(○○)といふなり、
p.0395 たぬき〈○中略〉 狸の腹つゞみといふは、げに其音鼓のごとし、
p.0395 十題百首 寂蓮法師
人すまでかねも音せぬ古寺にたぬきのみこそつゞみうちけれ
p.0396 兎大手柄
土舟、濳確願書云、滄州有二流永渠一、金石皆浮、洲人以二瓦鐵一爲レ船、といふ事あれば、かゝる流水には土舟をも浮ぶべし、亦ともすればとまりにしづむつち船のうきてし方ぞ戀しかりける、爲家卿の歌也、この土舟は土を積たる船なるべし、夫木集にはくちふねとありて、異本につちふねと傍注せり、いづれが是なるや、又濳確類書、舟師名二黃頭郎一、以レ土勝レ水故名とあれば、狸が土舟を造れりと作せしは、土もて兎の水德(スイトク)に勝ん爲歟、亦佐渡國雜太(サハタ)郡二ツ岩といふ山に、彈三郎といふ老貍あり、其處より一里ばかり山中に、勝々山土舟の林など唱る山林あり、土俗の説に、むかし兎に擊れたる狸は、彼彈三郎が親なりといひ傳へたるよし、曩に彼地に赴きたりし友人曳尾菴いへり、こは附會の説なり、證とするに足らず、彈三郎が事は次の卷にいふべし、
p.0396 狸塚
上州館林茂林寺〈禪宗〉より一里ばかり西に、狸塚(ムジナツカ)といふ村あり、一村狗を畜ふ事を禁ず、高源寺といふ寺あり、茂林寺の末寺也、かの文武火の茶釜は貳斗ばかりもいるべき大きなるもの也、蓋はなしと云、高源寺開山を正鶴といふ、今より二百八十年ばかりむかし也と、狸塚のもの丈助物語れり、
p.0396 猯膏〈崔禹作レ端、音他端反、〉一名獾㹠、〈口似レ㹠極肥、出二拾遺一、〉和名美(○)、
p.0396 猯 唐韻云、猯〈音端、又音旦、和名美、〉似レ豕而肥者也、本草云、一名獾㹠、〈歡屯二音〉
p.0396 按廣韻及説文徐音並云、貒他端切、屬二透母一、不レ屬二端母一、此以レ端音レ貒、恐誤、廣韻又云、他畔切、在二二十九換一、旦在二二十八翰一、此云二一音旦一、亦恐誤、下總本有二和名二字一、本草和名、猯膏、和名美、新撰字鏡狢同訓、今俗呼二美貍或万美一、別有二万美貍一、或譌呼二万米貍一、是陶弘景所レ云猫狸也、莫下以二其名相似一而混上矣、〈○中略〉廣韻同、唯猯作レ貒、集韻、貒夂作レ猯、按爾雅釋文引二字林一云、貒似レ豕而肥、孫氏蓋 依レ之、説文、貒獸也、本草衍義、猯肥矮、毛微灰色、頭連二脊毛一一道黑、觜尖黑、尾短闊、李時珍曰、貒卽今豬獾也、穴居、狀似二小豬㹠一、形體肥而行鈍、其耳聾、見レ人乃走、短足短尾、尖喙褐毛、能孔レ地、食二虫蟻瓜果一、〈○中略〉原書〈○本草〉獸部下品有二猯膏一、不レ載二一名一、本草和名云、一名獾㹠、出二拾遺一、證類本草引二陳藏器一亦載レ之、則知獾㹠之名出二陳氏本草拾遺一、源君引單云二本草一非レ是、説文、貛野豕也、廣雅、貒貛也、方言、貛關西謂二之貒一、郭注、貛豚也、蓋或單呼レ貛、或累呼二貛豚一也、㹠俗豚字、又周禮草人注、貆貒也、淮南齊俗訓高注云、貆、貆豚也、皆借レ貆爲レ貛、
p.0397 猯 ミ〈古名和名抄〉 マミ(○○)〈今名〉 ミダヌキ(○○○○)
京ニイズ、狸類也、カラダ肥テブタノ小ナル如シ、毛ノ色ウス黑シテ、ウス茶色ノ交リアリ、脊中一スヂ眞黑ク、首ヨリ尾マデトヲリ毛アリ、首ハヤセテアリ、鼻ガ長シ、鼻黑ク目ノ處白シ、タヌキノフノ如シ、四足ノ指分レテ人指ノ如シ、地ヲホリ穴居ス、穴ヲイガマズニホラズ、マガツテホル、鎗ノツカレヌヤウニスル也、
抱朴子、猯曲二其穴一以備レ徑、至鋒云々、カリウドハ、其穴ヲフスベテヲイダス、肥タルユへ走ルコトヲソシ、直ニ捕ラルヽ、九州食用ニス、油多シテ野猪ノ味ノ如シ、一名 土猪〈訓蒙〉 五兒里〈村家方〉
p.0397 貒〈音端〉 獾㹠 獾 䝏〈子〉 和名美
本綱、貒、山野間穴居、狀似二小豬㹠一、形體肥而行鈍、其足蹯、〈蹯者足掌也〉其跡 、〈 者指、頭跡也、〉其耳聾、見レ人乃走、短足短毛、尖喙褐毛、頭連レ尾、毛一道黑、能孔レ地食二蟲蟻瓜果一、其肉帶二土氣一、皮毛不レ如二狗貛一、
肉、〈甘酸平〉治二水脹久不レ瘥垂レ死者一、作レ羮食下レ水大効、〈野獸中惟貒肉最甘美益二瘦人一〉
p.0397 雜説八十ケ條
猯(マミ)は筑前山中にありて、穴居す、土人穴をふすべて捕也、味ひ野猪に似たりと、東武江戸麻布に猯穴といふ地あり、松平右近將 屋敷に領は此邊所々に棲しといふ、豆州土肥眞鶴の 野山に多く有て、土人捕て煮て食す、
p.0398 まみ穴、まみといふけだものゝ和名考、幷にねこま、いたち和名考、奇病、〈附錄〉
著作堂主人稿
江戸麻布長坂のほとりなるまみ穴は、いと名たゝる地名なれば、しらざるものなし、沾凉が江戸砂子には、雌狸穴と書きたり、雌狸をマミと訓ずるは、何に憑れるにやしらず、こは記者のあて字なるべければ論ずべくもあらねど、貝原が大和本草〈卷の十六獸の部〉貒をマミとす、〈○中略〉又本草綱目〈卷五十一獸之二〉獾の下に、稻若水、和名を剿入してマミとす、〈○中略〉益軒若水の兩老翁、或は猯をマミと訓じ、或は獾をマミと讀ませしは、訛をもて訛を傳ふ、世俗の稱呼に從ふのみ、今按ずるに、獾は和名鈔に見えず、猯は和名マミなり、〈○中略〉平野必大が本朝食鑑にのみ和名鈔を引きて貒をミと讀めり、〈○中略〉これらの諸説を合はせ考ふるに、近來世俗のマミといふけだものは、ミを訛れるに似たり、則猯なり、又田舍(イナカウド)兒は是をミタヌキといふ、その面の狸に似たればなり、いづれにまれミとのみは唱へがたきにより、或はマミといひ、或はミタヌキといふにやあらむ、かゝれば麻布長坂なるマミ穴も、むかし猯の棲みたる餘波(ナゴリ)にて、その穴のありしにより、マミ穴と唱へ來れるなりといはゞいふべし、しかれども猯をミタヌキと云は、よりて來るあり、いかにとなれば、貒はその頭狸に似たり、ミとのみは唱の不便なるによりて、ミタヌキといふ歟、又猯をマミといへるは、よりどころなし、いかにとなれば、猯に真僞のふたつなければなり、よりて再按ずるに、かの麻布なるまみ穴のマミは、元來貒の事にはあらで、鼯鼠をいふなるべし、
p.0398 貒(アナツポウ/○)〈本草 本草和名ニ美、在田郡にてツチカヒ(○○○○)といふ、〉 貉(ムジナ)〈本草 推古紐ニウジナ、和名鈔に無之奈、〉 右二種、在田日高兩郡にあり、多くはなし、
p.0398 猯(マミ) 今多カラズ、筑波郡ニ〈今西猯穴〉狸穴村アリテマミアナト訓ズ、依テ思フニ、狸ノ別種ト見エタリ、〈江戸ノ府下麻生ニモ猯穴ト云小地名アリテ、狸穴ニモ作ル、〉河内郡ニ東猯穴村アリ、茨城郡ニモ村ニ狸穴ト云地名アリ、大掾氏ノ族眞美穴林氏ノ起ル所ナリ、〈大掾傳記ニ見ユ〉コレ皆猯ノ住ルヨリ起レル名ト見エタリ、其體狸ノ少シク大ナルモノニテ灰毛(ハイケ)色ナリ、大體タヌキニ相似タルモノナリ、又津輕ニテマミト云モノ一種アリ、其形猫ノ大サニテ、面丸毛色純黑ナリ、其肉アブラ多シ、奧州津輕ノ俗好テコレヲ食フト云、思フニマミト云ハ味實ノ意ト見ヘタリ、〈津輕ノ俗説ニ熊子ヲ生厶、二疋ノ内一疋ハマミナリト云、故ニ異名ヲ熊ノ落シ子ト云フ笑ベシ、〉今本國ノ俗諺ニ虚誕ヲ好テ實情察シ難キ人ヲ猯遣ヒト云ナリ、コレハ狸ノコトヲ混合セシニヤ、
p.0399 狢〈下各反、綸也、彌、又牟志奈、〉
p.0399 狢 説文云、狢〈音鶴、漢語抄云無之奈、〉似レ狐而善睡者也、
p.0399 原書豸部云、貈、似レ狐善睡獸、此所レ引卽是、説文又云、貉、北方豸種、是二字不レ同、按玉篇、貉蠻貉也、亦與レ貈同、廣韻貈、貉、狢、並上同、故源君引二説文一作レ狢也、旣以二蠻貉字一爲二狐貉一、故蠻貉、字作二貊字一以避レ之貈字遂廢、爾雅翼、狢善睡之獸、似レ狐畜而養レ之、扣レ之卽悟、已而復寐、本草衍義云、狢形如二小狐一、毛黃褐色、李時珍曰、狢狀如レ貍、頭鋭鼻尖斑色、其毛深厚温滑、可レ爲二裘服一、埤雅、其營窟與レ貛皆爲二曲穴一、以避二雨陽一、亦以防レ患、俗云、貛貉同穴而異處、貛之出レ穴以レ貉爲レ導、
p.0399 狢〈音鶴、厶シナ、正貉、〉
p.0399 狢貉〈上通下正〉
p.0399 貍〈○中略〉
附錄狢、〈狐貍類、(中略)必大按、其毛斑色深厚温滑可二造レ裘服一、本邦未レ詳レ之、山人曰、貍之斑色有二善睡者一、山俗稱二無之奈一、性如レ鈍不レ似二狸狐之慧一、細察二其睡一者則非二眞睡一、乃使二耳而聾一也、故雖レ似二熟睡一、見レ人則駭走而竄矣、此則與二中華之狢一同物也乎、〉
p.0399 貉 ムジナ 是ハ京ニイズ、他國ニ多シ、勢州備前佐渡ニ多シト云、狐狸ハヲラズ、形貍ニ似テ黑シ、首ハヤセテ鼻ノ先尖ル嘴長シ、ヒル目ガウトシ、耳モキコヘズネムルガ如シ、實ニネルニアラズ、夜ハ目ガ明ラカニシテ、人家ニユキミソヲ盜ミネブル、ミソネブリ(○○○○○)ト云、此皮和ラカニシテ、冬シキ皮ニヨシト云、
一名 睡貉子〈訓蒙字會〉
p.0400 貉ハ方言ムジナ甚多シ、一種コムジナ(○○○○)アリ、方言トンチボウ(○○○○○)、外海部村々ニ多シ、
p.0400 祥瑞
玄貉〈○中略〉 右中瑞
p.0400 八十七年、昔丹波國桑田村有レ人、名曰二甕襲(ミカソ)一、則甕襲家有レ犬、名曰二足往(アユキ)一、是犬咋二山獸名牟士那(○○○)一而殺之、則獸腹有二八尺瓊勾玉一、因以獻之、是玉今有二石上神宮一、
p.0400 三十五年二月、陸奧國有レ狢(ウシナ)、化レ人以歌之、
p.0400 むじな、たぬき、 海棠庵記
ある人のいふ、むじな、たぬきは雌雄にて、雌をむじなといひ、雄をたぬきといふとかたりき、されどさだかならぬことにて、いと心得がたく思ひしに、このごろ羽州由利郡の農民與兵衞といふもの來にけり、この與兵衞は、むかし獵人にて、南部より出づるといふ、免狀てふものまで所持して、をさ〳〵巨魁なりしと聞えければ、まねきよせて、むじな、たぬき、まみなど問ひしに、答へていふ、むじな、たぬき、まみ、皆よく似たるものなれど各別種にて、みな雌雄あり、まみとむじなとは、毛いうも肉の肥えたるも、わきがたきまでよく似たり、只その別なるところは、まみ(○○)は四足ともに、人の指の如く、方言に熊のあらし子(○○○○○○)〈落胤といふが如し〉といふ、むじな(○○○)は四足犬に類す、狸(○)はあくまで瘦せて胴のわたり長し、やつがれ十七歲より山かつの業になれて、はや六十餘歲に及び、獸の事はよ く知り侍るなどかたりぬ、和名鈔にも、狢、狸、猯おの〳〵わかちあれば、むじな、たぬき、雌雄なりといふ俗説は、固よりとるには足らねど、嚮に曲亭ぬしのまみ考の因もあれば、そゞろに聞きしままにしるすのみ、
p.0401 陰貉
庵原郡山原村にあり、傳云、享和年中、此地痘瘡流行して、小兒多く死す、時に一の奇獸あり、毎度來りて其新葬の墓を發き、尸を喰ふ、僧俗これを悲み愁て、其邊りに嚴く圍ひすれば、又遠くより穴を穿ち、尸を引出し、食毀る事月を經て止ず、後終に小炮を以て討斃せり、其形狸の如し、村老此奇獸をさして陰貉(カゲムジナ)と云もの也と敎ゆ云々、按るに、古き百怪の畫卷物に、墓洗(ハカアラヒ)と云獸の圖を載たり、其形狸の如くにして、尾短く、四足とも三の指あり、爪赤く、口廣く、目細して、後の方につき、總身胡麻斑の毛生たり、これまさしく陰貉の類にして、墓あらひは墓荒(ハカアラシ)の訛にはあらずや、
p.0401 くだ
止駄郡横内村朝比奈山にあり、里人云、當村朝比奈山の邊りにくだと云獸あり、其形及大さ鼬の如し、人是を生捕り、飼馴し遣ふ時は、金銀衣食自在にして、事のかくるなし、此獸味噌を以て常の食とすべく、食物はまづ初をとりくだに與へて後食ふ、恰も神に供するが如しもし誤て其扱ひ飼ふ事おろそかなれば、忽他につき、口ばしりて、其尊信する志のうすきを詈り恥かしむしうねき物怪に似たり、くだ遣ひは、天下の大禁にして刑をまぬかれざるを知るといへども、土俗やゝもすれば、是を遣ふて富をうるを庶幾す、もと欲に耽るにおこるならん云々、是尾さき狐の類にや、
p.0401 黑 (しい)
震澤長語云、大明成化十二年、京師有レ物、如レ貍如レ犬、倐然如レ風、或傷二人面一噬二手足一、一夜數十發、負二黑氣一來、 俗名二黑 一、
按、元祿十四年、和州吉野郡山中有レ獸、狀似レ狼而大、高四尺、長五尺許、有二白黑赤皂彪斑之數品一、尾如二 牛蒡根一、鋭頭尖啄、牙上下各二、如二鼠牙一、齒如二牛齒一眼竪、脚太而有レ蹼、走速如レ飛所レ觸者傷二人面手足及 喉一、遇レ之人俯倒則不レ噬而去、用二銃弓一不レ能レ射レ之、用レ阱取二得數十一而止、〈俗呼名二志於宇一〉蓋黑 之屬乎、
p.0402 貛 アナホリ〈駿州〉 一名野豕〈説文〉 刀黃〈事物原始〉
頭ヨハ尾ニ至長サ三尺許、毛色黑黃、四足短クシテ爪長シ、尾大ニシテ短シ、目圓ニシテスルドナリ、體瘦テ走ルコト飛鳥ノ如シ、釋名天狗ハ同名多シ、窮奇、〈事物紺珠〉陰山ノ獸、〈山海經〉大荒赤犬、〈同上〉魚狗(カハセミ)〈綱目〉ニモ天狗ノ名アリ、又史記天官書及五雜組ニ、天狗ト云ハ星ノ名ナリ、又本邦ニテ天狗ト呼モノハ、別ニ一種ノ魔類ナリ、海貛ハ詳ナラズ、海獸ナリ、廣輿記女直ノ土產ニ、海貛皮、海猪皮アリ、
增、文政四辛巳年秋七月、阿州吉野川洪水ノ時、名東郡北新居村竹林中ニ穴居セシ者、濁水ノ爲ニ犯サレ出テ河中ニ入ル、漁人急ニ網罟ヲ下スコト凡テ三張ニシテ遂ニコレヲ纏ヒ獲タリ、里人其名ヲ知ル者ナシ、因テ余ニ鑑定ヲ請ヒ、且ツ其食物ヲ問フ、乃時珍ノ説ニ據テ、蟲蟻瓜菓ヲ食フコトヲ示ス、數日ノ後觀場ニ供ス、形狀コヽニ説ク所ノ如シ、