p.0015 方角トハ四方四角ノ稱ニシテ、四方ハ東、西、南、北ヲ云ヒ、四角ハ艮、巽、坤、乾ヲ云フ、
p.0015 方角(ハウガク)〈四方四隅之謂〉
p.0015 五方 東木位 西金位 南火位 北水位 中央土位
八方 震〈東〉巽〈辰巳〉離〈南〉坤〈未申〉兌〈西〉乾〈戌亥〉坎〈北〉艮〈丑寅〉
p.0015 朔日内膳司供二忌火御飯一事
高橋氏文云、挂畏卷向日代宮御宇大足彦忍代別天皇五十三年、〈◯中略〉冬十月到二于上總國安房浮島宮一、爾時磐鹿六獦命從レ駕仕奉矣、〈◯中略〉又此行事者、大伴立雙〈天〉應二仕奉一物〈止〉在〈止〉勅〈天、〉日竪、日横、陰面、背面〈乃〉諸國人〈乎〉割殺〈天、〉大伴部〈止〉號〈天、〉賜二於磐鹿六獦命一、
p.0016 日竪、日横、陰面、背面は、東南西北の四面の名を、おほらかに稱へる古語なり、其は万葉集〈一卷、作者未レ詳、〉藤原宮御井歌に、〈◯中略〉云々みえたり、今その大和の國圖によりて、國人に質問し、その方位を尋考るに、おほかた香山は東ざまの日縱の御門に向ひ、畝火山は南ざまの日緯の御門に向ひ、耳梨山は北ざまの背友御門に向へる由にて、吉野山は大宮よりは南に當れゝど、名ぐはしき大山にて、西ざまの影友の御門より、斜に遙に見えたるべければ、〈宮所蹟より、大凡五里ばかり隔たれり、〉四面の御門より見渡しのめでたき山々をよめる中に配りて、おほらかによみかなへたるものとぞきこえたる、〈西ざまの見わたしにめでたき山はあらずとぞ、さてまた此歌詞に、香山は、大御門爾云々と繁みさび立りといひ、畝火の山は、大御門爾云々と山さびいましといひ、梨耳山は大御門爾云々神さび立りと同じ趣にいひて、吉野山をば大御門從雲井にぞ遠くありけると、別ざまにいへるにも意をつけあぢはふべし、〉さて其四面の名を、然云ふ由は、まづ朝日の立昇りて、漸に南ざまにおよぶまでの間を、日縱と云ひ、南ざまより、西ざまに漸に降ち行く間を日横と云ひ、夕日の降ち陰ろふ西ざまより、北ざまにおよぶ間を陰面といふ、陰つ面の約れるなるべし、〈加茂保憲女集に、かげともに見えたる月をうきくものかくせどふくる身にぞありける、これ西のかたを、陰面といへり、〉北ざまより東ざまの間を外面といふ、いはゆる日横の亘の南ざまに向ひて、背つ面といふが約れるなるべし、万葉集〈二卷人麿〉の歌に、八隅知之(ヤスミシシ)、吾大王乃(ワガオホキミノ)、所聞(キコシ)見爲(メス)、背友乃國之(ソトモノクニノ)、眞木立(マキタツ)、不破山越而(フハヤマコエテ)、狛劒(コマツルギ)、和射見原乃(ワザミガハラノ)、行宮爾(カリミヤニ)とよめるは、美濃國にて、大和の方より北ざまに當れるをもて、背友乃國といへるなり、〈若狹は、北の極國なるが、その國の北海を受て、子丑の方に向ひたる高山を背面山と云ひ、海岸を徒に外面と呼びきたれり、こは一所の名とはいへど、其名義同じ、〉さて謂ゆる日縱日横は、成務紀に見えたるを、〈此紀の全文は下に論ふべし〉養老( ノ)私記〈この書いまだ本書を見ず、水戸家書紀校合御本の首書に注されたるに據る、〉に、日縱、比乃多都志(ヒノタツシ)、〈此は、谷川士清が書紀通證にも引り、さて縱字尋常には、タテとよみ、口語にも然云へど、本語はタツにて、縱横など連ねて、タテヨコと第四音に轉じても云ふなるべし、今時にも徒にはタツといふ人あり、和名抄に、釋名云、縛壁以レ席縛二著於壁一也、漢語抄云、防壁、多豆古毛とあるも縱薦なるべし、〉日横、比乃與古志と見えたるは、古語なるべし、隨ふべし、但し書紀印本には、ヒタヽシ、ヒヨコシと體言によめり、今この万葉集なる歌詞は、かの私記の古語を體言に、ヒタツシ、ヒヨ
p.0017 コシとよむべし、〈万葉集十八卷、大伴池立宿禰の歌に、多多佐にも與古佐も云々とみえ、孝徳紀なる域方九尋の方字を、タヽサ、ヨコサと訓み、類聚名義抄に、縱字タヽシ、またタヽサマ、横字をヨコサマ、またヨコシマなどよみたれば、ヒタヽシ、ヒヨコシとよまむもわろからじ、さてその多都志、與古之、また多々佐、與己佐などいへる、之また佐は、サマといふと同じほどの言づかひと聞ゆ、〉和名抄〈大路の條〉に、唐韻云、道路南北曰レ阡、〈日本紀私記云、多都之乃美知、 通本多知之乃美知と作り、いま古本に據る、成務紀印本には、タヽサノミチ、またタタシノミチとよめり、〉東西曰レ陌〈日本紀私記云、與古之乃美知、 成務紀印本には、ヨコサノミチとよめり、〉と見えたるは、道路の縱横にて、四面の方位につきて云ふ多都志、與古志とは別なり、思ひ混ふべからず、然るに成務紀〈五年九月の條〉に、令二諸國一云々、則隔二山河一而分二國縣一、隨二阡陌一以定二邑里一、因以二東西一爲二日縱一、南北爲二日横一、山陽曰二影面一、山陰曰二背面一と記されたるは、此時始て、日縱日横などいふ四名を設けて、諸國の方位を定たまへるがごとくきこゆれど、それより前代の此詔詞に、日縱日横、陰面背面乃諸國とみえたれば、いと上古よりおほらかに稱び來れる四面の名なりけるを、その名によりて、更に國縣を分定給ひたりし趣なり、然るに其を東西南北、山陽山陰に當てヽ、曰二云々一と記されたるは、漢文の潤飾にひかれて、かへりて當時の名稱の實に差いできて、きこえがたき文とはなれるなり、〈山陽は、春秋穀梁傳に、山南爲レ陽、六書故に、山阜之南向レ日謂二之陽一、山陰は説文に、陰山北也、注に、水南山北、日所レ不レ及也など云へるごとき義の漢語なるべし、天武紀に、山陽道、山陰道、また東海、東山、山陽、山陰、南海、筑紫とみえたるは、天智天皇の御世に始給へる漢様の令制の名稱なるを、古にめぐらして、おほかたに當て、漢文にものせられたるなるべし、此ほかにも然る例多かり、〉さてまた此詔詞に、日竪、日横、陰面、背面乃諸國人乎と詔へるは、天下の諸國の人をと詔へる義にて、いとめでたき古文なり、
p.0017 五年九月、令二諸國一以二國郡一立二造長一、縣邑置二稻置一、並賜二楯矛一以爲レ表、則隔二山河一、而分二國縣一、隨二阡陌一、以定二邑里一、因以二東西一爲二日縱(ヒタヽシ/○○)一、南北爲二日横(ヒヨコシ/○○)一、山陽(ミナミ)曰二影面(カゲトモ/○○)一、山陰(キタ)曰二背面(ソトモ/○○)一、是以百姓安レ居、天下無事焉、
p.0017 そとも 顯昭云、そともとはうしろと云事也、考二日本紀公望注一云、陽南、影面、かげとも、陰北、背面、そとも、案レ之、南は日の影のおもて、北はそむけるおもてといふ歟、
p.0017 讀奏事
p.0018 山陰道〈曽止毛乃道、舊説、加介止毛乃道、〉 山陽道〈加介止毛乃道、舊説、曾止毛乃道、〉
p.0018 藤原宮〈◯持統〉御井歌
八隅知之(ヤスミシシ)、和期大王(ワゴオホキミ)、〈◯中略〉日本乃(ヤマトノ)、青香具山者(アヲカグヤマハ)、日經(ヒノタテ/○○)乃(ノ)、大御門爾(オホミカドニ)、春山跡(ハルヤマト)、之美佐備立有(シミサビタテリ)、畝火乃(ウネビノ)、此美豆山者(コノミヅヤマハ)、日緯(ヒノヨコ/○○)能(ノ)、大御門爾(オホミカドニ)、彌豆山跡(ミヅヤマト)、山佐備伊座(ヤマサビイマス)、耳爲之(ミヽナシノ)、青菅山者(アヲスガヤマハ)、背友(ソトモ/○○)乃大御門爾(ノオホミカドニ)、宜名倍(ヨロシナヘ)、神佐備立有(カムサビタテリ)、名細(ナグハシ)、吉野乃山者(エシヌノヤマハ)、影友(カゲトモ/○○)乃(ノ)、大御門從(オホミカドユ)、雲居爾曾(クモ井ニゾ)、遠久有家留(トホクアリケル)、〈◯下略〉
p.0018 高市皇子尊城上殯宮之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首〈并〉短歌、
八隅知之(ヤスミシヽ)、吾大王乃(ワガオホキミノ)、所聞(キコシ)見爲(メス)、背友乃國之(ソトモノクニノ)、眞木立(マキタツ)、不破山越而(フハヤマコエテ)、狛劒(コマツルギ)、和射見我原乃(ワザミガハラノ)、行宮爾(カリミヤニ)、安母理座而(アモリイマシテ)、天下(アメノシタ)、治賜(ヲサメタマヒ)、〈一云拂賜而〉食國乎(ヲスクニヲ)、定賜等(サダメタマフト)、〈◯下略〉
p.0018 かげともに見えたる月をうき雲のかくせど〈◯かくせど、原作二こせを一、據二一本一改、〉ふくるみにぞありける
p.0018 四方〈東西南北〉
p.0018 四極〈四方、四邊、四陲並同、東西南北、〉
p.0018 四方 東〈左卯震〉 西〈右酉兌〉 南〈前午離〉 北〈後子坎〉
p.0018 東〈都公反ヒムカシ〉
p.0018 東動也、〈見二漢律暦志一〉從レ木、官溥説、從三日在二木中一、〈木槫木也、日在二木中一曰レ東、在二木上一曰レ杲、在二木下一曰レ杳、得紅切、九部、〉凡東之屬、皆從レ東、
p.0018 第一三才開始事
東ハ日ノ出ルホドニ如レ此訓、或云、ヒガシ、日ガアカシト云和語ゾ、
p.0018 比牟加斯(ヒムカシ)、爾斯(ニシ)と云は、もと其方より吹風の名にて、比牟加斯は東風、爾斯は西風のことなりしが、轉て其吹方の名とはなれるなるべし、
p.0019 神日本磐余彦天皇、〈◯中略〉謂二諸兄及子等一曰、〈◯中略〉聞二於鹽土老翁一曰、東有二美地一、青山四周、
p.0019 此之御世、大毘古命者、遣二高志道一、其子建沼河別命者、遣二東方十二道一而、令レ和二平其麻都漏波奴〈自レ麻下五字以レ音〉人等一、
p.0019 東方は比牟加志能加多と訓べし、〈方を師(加茂眞淵)の倍と訓れたれど、かヽる處にては、倍はわろし、〉古は凡東南西北、みな加多(カタ)と云ことを多く添て云る例なり、
p.0019 輕皇子宿二于安騎野一時、柿本朝臣人麻呂作歌、
東(ヒムカシノ)、野(ヌニ)炎(カギロヒノ)、立所見而(タツミエテ)、反見爲者(カヘリミスレバ)、月西渡(ツキカタブキヌ)、
p.0019 五行歌中 後京極攝政
月も日もまづ出そむる方なればあさゆふ人のうちながめつヽ
p.0019 西〈ニシ〉
p.0019 第一三才開始事
西ハイニシト云心也、日沈テ去ルホドニ、如レ此訓ズ、
p.0019 百小竹之(モヽシヌノ)、三野王(ミヌノオホキミ)、金厩(ニシノウマヤ)、立而飼駒(タテヽカフコマ)、角(ヒムガシノ)、厩立而飼駒(ウマヤタテヽカフコマ)、〈◯下略〉
p.0019 貞觀の御時、綾綺殿のまへにむめの木ありけり、にしのかたにさせりける枝の、もみぢはじめたりけるを、うへにさぶらふ男どものよみけるついでによめる、 藤原かちおむ
おなじえをわきて木のはのうつろふは西こそ秋のはじめなりけれ
p.0019 五行歌中 後京極攝政
秋風も入日の空もかねの音もあはれはにしにかぎる也けり
p.0019 南〈音男ミナミ〉
p.0019 離〈音籬ミナミ〉
p.0020 第一三才開始事
南ハ午時ニハ日光高シテ、森羅万象皆ミユルト云義ニテ訓ズ、
p.0020 七年、〈伊吉連博得書云、辛酉年(齊明七年)正月二十五日還到二越州一、四月一日從二越州一上路東歸、七日到二檉岸山明(ミナミ)一、〉
p.0020 教二喩史生尾張少咋一歌一首〈并〉短歌〈◯中略〉
於保奈牟知(オホナムチ)、須久奈比古奈野(スクナヒコナノ)、神代欲里(カミヨヽリ)、〈◯中略〉南吹(ミナミフキ)、雪消益而(ユキゲハフリテ)、射水河(イミツガハ)、流水沫能(ナガルミナワノ)、余留弊奈美(ヨルベナミ)、左夫流其兒爾(サブルソノコニ)、〈◯中略〉
右五月〈◯天平感寶元年〉十五日、守〈◯越中〉大伴宿禰家持作レ之、
p.0020 建久七年韻百廿八首 定家卿
たちのぼるみなみのはてに雲はあれどてる日くまなき北のおほ空
p.0020 北〈補默キタ〉
p.0020 第一三才開始事
北ハキタル心也、北ヨリ一陽生キタル故ニ、如レ此訓也、
p.0020 天皇〈◯天武〉崩之時、太后〈◯持統〉御作歌一首、〈◯中略〉
向南山(キタヤマニ)、陣雲之(タナビククモノ)、青雲之(アヲグモノ)、星離去(ホシハナレユキ)、月牟離而(ツキモハナレテ)、
p.0020 朗詠百首窓梅北面雪封寒 爲家卿
日かげみぬかた枝は雪にとぢながらかつ〴〵にほふまどの梅がへ
p.0020 四角〈艮巽坤乾〉
p.0020 四隅(シグウ)〈又云、四維、艮巽坤乾、〉
p.0020 四維〈維角也、四角也、是所レ謂方隅也、〉 艮〈東北〉 巽〈東南〉 乾〈西北〉 坤〈西南〉
p.0020 先達多以二耶須彌志流(やすみしる)一は、帝は八方をしろしめす義たるの由釋レ之、其義しからず、〈◯中略〉
p.0021 方角もとより各別也、されば或四方四角(○○)とも、或四方四維(○○)とも、或四方四隅(○○)とも云、方角すでに各別也何ぞ混亂して、やすみといはんや、是に依て其釋理に不レ叶なり、
p.0021 艮〈ウシトラ〉
p.0021 六帖題綾 光俊朝臣
百敷や大内山のうしとらに織部の司あやたてまつる
p.0021 巽〈タツミ〉
p.0021 題しらず きせん法し
わが庵は都のたつみしかぞすむよをうぢ山と人はいふなり
p.0021 坤〈口魂反、ヒツシサル、〉
p.0021 西南〈ヒツシサルノスミ〉
p.0021 家集未申と云事を 惠慶法師
みちのくの白河こえて別にしひつじさる〳〵行どはるけし
p.0021 乾〈イヌヰ、亦作レ乾、〉
p.0021 六帖題 衣笠内大臣
はるかなる都のいぬゐわが宿は大内山のふもとなりけり