p.0310 虹ハ、ニジ、又ハヌジト云フ、白虹天ニ亘リ、日ヲ貫キ、其他異常ナル事アル時ハ、祥災ヲ卜定セリ、又中世虹ノ見ユル所ニ市ヲ立ツルノ習俗アリ、氣ハ、キト云フ、白氣アリ、赤氣アリ、光曜アルアリ、古ハ此ヲ占書ニ考ヘテ、災祥ノ應徴トス、氣ト云ヘル名ハ、甚ダ廣漠ニシテ、雲モ氣ナリ、霞モ氣ナリ、今此篇ニハ時アリテ空中ニ現ジ、別ニ其名ナキ者ノミヲ擧ゲタリ、而シテ方伎部天文道篇ニ望氣ノ事ヲ載ス、參看スベシ、又下野ノ室ノ八島ノ烟ノ如キモ、此ニ附載ス、陽炎ハ、カゲロフト云フ、又アソブイト、イトユフノ名アリ、春晴ノ日、田野ノ間ニ見ユル所ノ氣ナリ、又武藏野ノ逃水モ陽炎ノ類ナルベケレバ、此ニ附載ス、
p.0310 虹 毛詩註云、螮蝀虹也、帝董二音、螮又作レ蝃、〈和名爾之〉兼名苑云、虹一名蜺、五稽反、與レ鯢同、又五結倪擊二反、今按、雄曰レ虹、雌曰レ蜺也、
p.0310 按、天武紀虹字訓二奴之一、萬葉集上野國相聞往來歌、亦謂爲二努自一、一聲之轉耳、〈◯中略〉按、孟子趙岐注、霓虹也、兼名苑蓋本レ此、〈◯中略〉按、説文、霓屈虹、青赤或白色陰气也、又云、蜺寒蜩也、二字不レ同、後人虹霓之霓、連二上虹字一、變レ雨從レ虫、故干祿字書、倪霓上俗下正、遂與二寒蜩字一混無レ別、下總本擊作レ繫、按、五繫與二廣韻一合、五擊與二龍龕手鑑一合、伊勢廣本誤脱作二五結擊二反一、那波本作二五結倪擊二反一、蜺擊與二古今韻會一合、疑那波氏所レ見本亦誤脱、依二韻會一増二蜺字一也、曲直瀬本作二五結反一、無二五擊二三字一、亦恐後人所レ刪、雄曰レ虹、雌曰レ蜺、出二蔡邕月令章句一、見二藝文類聚一、又西京賦薛綜注、淮南子高誘注、
p.0311 郭璞爾雅注、如淳漢書注、皆同、蓋諸家析二言之一、趙岐統二言之一也、
p.0311 虹螮蝀也、〈釋天曰、螮蝀謂二之雩一、螮蝀虹也、毛傳同、〉状佀虫、〈虫各本作レ蟲、今正、虫者它也、虹似レ它、故字从レ虫、〉从レ虫工聲、〈戸工切、九部、〉明堂月令曰、虹始見、〈季春文〉
p.0311 霓屈虹青赤或白色、〈或字陸徳明作也、一曰三字非也、韵會白下無二色字一是也、屈當レ作レ詘、許書云、詰詘者、謂詘曲屈非二其義一、許意詘曲之虹多青赤或有二白色者一、皆謂二之霓一、釋天曰、螮蝀虹也、霓爲二挈貳一、郭云、雙出色鮮盛者爲レ雄曰レ虹、闇者爲レ雌曰レ霓、據レ此似二青赤爲レ虹、白色爲レ霓、然析言有レ分、渾言不レ別、故趙注孟子曰、霓虹也、虹見則雨、楚辭有二白霓一、〉 气也、从レ雨〈霓爲二陰氣一將レ雨之兆、故从レ雨、一从レ虫作レ蜺、猶二虹从一レ虫也、〉兒聲、〈五雞切、十六部、如淳五結切、郭樸五擊切、沈約郊居賦雌蜺連蜷深恐レ人、讀爲二平聲一、〉
p.0311 蜺霓〈上俗下正〉
p.0311 虹攻也、純陽攻二陰氣一也、又曰二蝃蝀一、其見毎於二日在一レ西而見二於東一、掇二飮東方之水氣一也、見二於西方一曰二升朝一、日始升而出見也、又曰二美人一、陰陽不レ和、婚姻錯亂、淫風流行、男美二於女一、女美二於男一、恒相奔隨レ之時則此氣盛、故以二盛時一名レ之也、霓齧也、其體斷絶見二於非時一、此災氣也、傷二害於物一、如レ有レ所二食齧一也、
p.0311 虹蜺〈上音紅、又貢、又右巷反、ニシ、下音鯢、虹蜺、メクル、〉 虹〈ニシ〉 螮蜥〈正或〉
p.0311 虹(ニシ)霓〈二字義同〉
p.0311 虹 には丹也、あかき也、しは白也、にじは紅白まじはれり、
p.0311 虹ニジ 萬葉集歌には、ノズとよみけり、今も東國の俗にはノジともいふなり、倭名鈔にはニジと讀む、皆其語の轉なり、其義は不レ詳、〈萬葉集に綵讀てニといふ、ニといふは即綵にて、シは詞助なりしに似たり、〉
p.0311 にじ 虹をいふ、丹の義、じはすぢの反也、又白虹も見ゆ、日本紀にぬじとよみ、万葉集にのじといふも皆通音也、今も東國の俗はのじといふとぞ、靈異記に電をよめり、埃囊抄に、虹ををにじ、霓をめにじといふ事あり、博聞録には、虹霓、但是雨中日影也と見えたり、又霏雪録には、蟾蜍の吐し氣也といふ、備中の岡氏かヽりしを、まのあたり見しと話れり、虹蜺の字、虫に从ふ
p.0312 もさる事にや、西國にてゆふじといふは、夕虹の略にや、
p.0312 虹にじ 東國の小兒のじと云、尾張の土人鍋づるといふ、西國にていうじと云、萬葉ぬじ、又のずとも詠り、〈西國にていうじと云は、夕虹の略語か、〉
p.0312 虹蜺〈洪鯢〉 虹霓 蝃蝀 螮蝀 天弓〈和名爾之〉 月令云、季春月虹始見、孟冬月虹藏不レ見、蔡邕曰、常依二陰雲一而晝見二於日衝一、無レ雲不レ見、太陰亦不レ見、大率見二朝西暮東一、或云、亦白色者爲レ虹、青色者爲レ蜺、 釋名云、虹攻也、純陽攻二陰氣一也、 按、虹下二于地一、或飮レ井、或飮レ池、或垂二首於筵一吸二飮食一、雄曰レ虹、雌曰レ蜺之類、甚妄説也、天文書云、虹蜺日氣下垂、吸二動地下之熱氣一、則旋湧而起、其處或値レ井或値レ池、見レ之人以爲虹能吸レ水也、實非レ吸レ水、虹映二日光一之色爲二紅緑一也、紅者火、緑者水氣、而爲二水火之交一、故必向二日方一也、中天日光、盛時無レ虹矣、試レ之日在レ東使下人西邊噴レ水人從二中間一看上レ之、其水珠皆成二紅緑之象一、其體穹然、外黄中緑而裹レ紅也、對レ日成レ虹、而他處復有二一虹一者、又虹影所二自射一也、有二虹始見虹藏不レ見之期一、見方必向二于日一、則非二蟲屬一明焉、
p.0312 相聞
伊香保呂能(イカホロノ)、夜左可能爲提爾(ヤサカノヰデニ)、多都弩自能(タツヌジノ)、安良波路萬代母(アラハロマデモ)、佐禰乎佐禰氐婆(サ子ヲサ子テバ)、 右上野國歌
p.0312 一虹ト云フハ何レノ所變ゾ、蟾蜍ノイキ歟、虹ハ日輪ノメグリノ半ヨリ上カヱ、クモニ映ジテミユル也、博聞録ニ、虹霓ハ但是レ雨中ノ日影ナリト云フ、虹ハオニジ、霓ハメニジト云フコトアレドモ、イキ物ニアラ子バ、實ノ雌雄モアルベカラズ、サレドモ虫篇ヲシタガヘテ動物ニ思ヒナラハセルユヘニ、字對ニモ動物ニ用フ、實義ニハソムケリ、雲ノウスキ所ニ虹モウスクミユ、又影ウツロヒテ、別ニウスキ虹ノ見ユルコトモアリ、是レ等ヲワキテ、メニジ、オニジト云フ歟、日西ニアレバ虹ハ東ニアリ、カゲノウツリムカヒテ
p.0313 見エ、ソラノ日ノ勢ヲ見レバ、ワヅカナル日輪トオモヘドモ、カゲニウツス時ハ、ヲビタヾシキ也、五十一由旬ノ輪ノ形ヲウツセバ、イカホド大ナリトモアヤシムベキニアラズ、日本紀ニハ虹ヲバヌジトヨメリ、ソレヲ今ハニジト云ヒナラハセリ、和語ノ古今ニオナジカラザル事、コレニカギラザル歟、又鎭星散ジテ爲レ虹ト云ヘルコトモアリ、オボツカナキ事也、
p.0313 三年四月、阿閉臣國見、〈更名磯特牛〉譖三栲幡皇女、與二湯人廬城部連武彦一曰、武彦汗二皇女一而使二任身一、〈湯人此云二臾衞一〉武彦之父枳莒喩聞二此流言一、恐二禍及一レ身、誘二率武彦於廬城河一、僞使二鸕鶿沒レ水捕一レ魚、因二其不意一而打殺之、天皇聞遣二使者一案二問皇女一、皇女對言、妾不レ識也、俄而皇女齎二持神鏡一、詣二於五十鈴河上一、伺二人不一レ行埋レ鏡經死、天皇疑二皇女不一レ在、恒使二闇夜東西求覔一、乃於二河上一虹見如レ虵四五丈者、堀二虹起處一而獲二神鏡一、移行未レ遠得二皇女屍一、〈◯下略〉
p.0313 十一年八月丙寅、殿内有二大虹一、 戊寅、是日平旦有レ虹、當二于天中央一以向レ日、
p.0313 養老四年正月甲子、白虹、南北竟レ天、
p.0313 寶龜三年六月乙丑、有レ虹繞レ日、
p.0313 寶龜六年五月丙午、白虹竟レ天、
p.0313 延暦元年三月辛卯、有レ虹繞レ日、
p.0313 弘仁十年三月己卯朔、有レ虹貫レ之、
p.0313 承和五年十月戊戌、酉刻白虹竟二西山南北一、長卅許丈、廣四許丈、須臾而銷焉、
p.0313 齊衡三年八月丁丑、冷然院及八省院、大政官廳前、同時虹見、記レ異也、
p.0313 貞觀十二年六月十日辛卯、是日夜白虹見二東北一、首尾著レ地、
p.0313 貞觀十六年四月七日乙未、時加レ未日有二重暈一、白虹貫レ日、即日在レ胃、
p.0313 仁和五年〈◯寛平元年〉十二月六日癸亥、作物所預宮興害大言、左近陣有二大虹一、見レ之、須臾
p.0314 消亡、人亦見三虹飮二内兵庫安福殿一、即是也、同時見レ之、計一虹光彩、所レ映二見兩所一也、
p.0314 寛平九年八月七日庚戌、太政官正廳東廳、虹蜺見、
p.0314 承平二年八月十三日、未三刻、虹立二日華門前官廳一、
p.0314 天慶二年六月十五日乙酉、今日未刻、内膳司供御辨備棚上虹立、同時左衞門陣櫻樹下、作物所政所前虹立、此間電雨烈降、
p.0314 天徳五年〈◯應和元年〉五月卅日、酉時白虹經レ天、
p.0314 康保二年二月廿七日戊辰、出羽國言上、正月八日未時、日之左右有二兩耀一、即虹貫レ之、又有二白虹一、分二立東西一、仍下二陰陽寮一、令レ占レ之、
p.0314 安和元年八月十九日庚午、白虹亘レ天、
p.0314 正暦五年九月八日丁巳、今日外記廳前揔版位、虹立、有二御卜一、
p.0314 長元七年十一月十二日戊戌、大外記頼隆眞人相示云、昨日未刻、外記廳前立レ虹者、而六位外記等、乍レ見二聞其由一、不レ申二事由一、仍上卿著レ廳有レ政、 十三日己亥、早旦自二大夫外記許一相示云、廳虹恠、令レ卜二三人一、陰陽師助時親、孝秀等卜云、非レ恠、自然所レ致也者、允恒盛卜云、恠所寅申卯酉年人、就二病事一出家歟、若又有二刀兵之厄一歟、期恠日以後廿五日内、及明年二月八月九月節中、並壬癸日至レ期忌愼、兼又被二祈禱一、無二其咎一乎者、而昨日同時、關白殿又立レ虹、同孝秀時親等卜申云、病事可二愼御一者、仍殿仰同恠人々卜、其趣各異也如何、慥召二問件人々一可レ令レ奉二各勘文一者、召二問件者等一、令レ進二勘文一、申二殿下一可二一定一之者、 十二月十五日辛未、今日於二外記廳一、以二十口僧一、一箇日轉二讀仁王講一、是依二前日虹恠一也、施供、〈厨家納絹卅三匹〈僧綱二口各三匹〉年料米卅三石、是依二先例一、大外記頼隆眞人所二申請一云々、〉
p.0314 寛治六年八月廿八日己卯、未時虹遶二日輪一、
p.0314 久安四年六月八日甲午、戌刻詣二石山一、密祈二女御代事一、路間蝃蝀在レ東、可レ謂二吉祥一、
p.0315 久壽二年七月十四日己未、未刻虹見二家南庭泉一、大驚怪、餘〈◯藤原頼長〉曰、漢靈帝時、虹見二御座玉堂後殿庭中一、翌日大内記遠明進二勘文一、
p.0315 承安三年六月十日辛未、今夜有二白虹之變一、泰親大驚云々、予〈◯藤原實房〉退出之間也、
p.0315 壽永二年十月十七日戊申、天晴、卯刻虹二筋〈其色如レ常、倶殊分明、〉自レ坤至レ艮、又東天赤光云々。建久元年十二月十九日己亥、早旦業俊來云、去夜白虹有二貫レ月事一云々、 廿日庚子、召二司天之輩一問曰、白虹變事皆悉申二曰虹之由一、資元一人申下非二白虹一之由上、不可説云々、各被レ申状付二宗頼一畢、明旦可レ奏之由仰レ之、又御祈之間、事可レ奏之由示了、 廿一日辛丑、此日三合御祈廿二社奉幣也、上卿大臣行事辨親經、宣命辭別載二白虹變事一、及レ晩宗頼自レ院歸來仰二御祈事等一、
p.0315 建保六年六月八日戊申、晴、東方見二白虹一、但片雲競、衆星希、及二夜半一雨降、 十一日辛亥、卯刻西方見二五色虹一、上一重黄、次五尺餘隔赤色、次青、次紅梅也、其中間又赤色甚廣厚兮、其色映二天地一、小時銷、則雨降、
p.0315 文暦元年十月十五日庚辰、卯時東方虹、司天輩申二白虹之由一、維範朝臣申二不レ然之由一、
p.0315 仁治四年〈◯寛元元年〉十二月廿九日辛丑、天霽、午一點白虹貫レ日、將軍家被二御覽一、諸人又見レ之、日脚昇二半天一、未四刻此變訖、召二司天等一、直被二尋聞食一、就二上座一先泰貞申云、暈虹先々有二相論一、至二今度一無レ所レ交、但有レ雲於二貫レ日之條一者、眼精不レ及云云、晴賢申二貫レ日之由一、國繼、晴茂、廣資等、一同申二白虹之旨一、武州參給、其後於二御所南庭一、被レ行二七座泰山府君祭一、
p.0315 寶治二年閏十二月十六日己未、有二天變一、天文博士晴繼朝臣申、白虹貫レ日、權天文博士良光朝臣、主計助清基朝臣等、有二咡雲一之由奏レ之、大膳權大夫維範朝臣不二見及一之、如レ聞者日裹歟之由申レ之、
p.0315 天保十四年二月六日夜より、毎夜西南の方へ白虹顯る、
p.0316 詩集傳蝃蝀ノ章、蝃蝀在レ東ノ註ニ、蝃蝀虹也、日與レ雨交、 然成レ質似下有二血氣一之類上、乃陰陽之氣、不レ當レ交而交者、蓋天地之淫氣也、在レ東者暮虹也、虹隨二日所一レ映、故朝西而暮東也ト見ユ、然ルニコノ六月廿日ノ夜亥刻納凉シテ端居セシニ、虧月東方ニ皎ラカルニ、西天ニ白虹空ヲ亘ル、予〈◯松浦清〉左右ヲシテ、其状ヲ審ニセシム、報ジテ曰ク、白虹ノ中青虹交ルト、然ラバ夜ノ虹ハ月ニ映ジテ形ヲ爲スコト、晝ノ日ニ映ズルト同ジ、左右數人皆未ダ曾夜虹ヲ見ルコトナシ、一人ハ嘗テ見ルコトアリト云、詩註ハ晝虹ヲ云タルナリ、
p.0316 長元三年七月六日丁巳、今日關白〈◯藤原頼通〉并春宮大夫家〈◯藤原頼宗〉虹立、依二世俗之説一、有二賣買事一、
p.0316 寛治三年五月卅日、上皇〈◯白河〉六條中院前池虹立、可レ立レ市之由、雖レ有レ議、公所依レ無二先例一、被レ止レ之、上皇渡二御他所一、
p.0316 寛治六年六月七日己未、雨下或得レ晴申時禁中〈堀川院〉殿上小庭、并南池東頭、有二虹見事一、則召二外記一被レ問二先例一、大外記定俊勘二申前例一、承平、康保、正暦、長元年中、度々禁中虹立、隨二御卜趣一、或奉幣、或讀經者、但不レ被レ行二軒廊御卜一也、仍同十日、召二陰陽頭賀茂成平一有二御卜一、占云、御藥事頗非レ輕者、候二藏人所一陰陽師道言朝臣近日有レ假不二出仕一也、仍次人召二陰陽頭成平一於二便所一、有二御占一也、抑世間之習、虹見之處立レ市云々、若是本文歟如何、件由内々被レ尋二諸道紀傳一、〈文章博士敦基朝臣、同成季朝臣、此外正家行家朝臣、依レ爲二上臈一也、〉明經陰陽道、〈道言朝臣〉已上六通、今日虹又賀陽院立也、而長元年中、宇治御時、此處有二虹見事一、被レ立レ市也、仍後被レ立レ市也、御占同二大内一、仍禁中殿下御物忌合也、 八日、諸道勘文、皆虹見之處、無二立レ市之文一、是只俗語歟、 廿二日甲戌、今日又賀陽院殿、有レ虹見レ氣、〈同廿五日重被レ立レ市〉
p.0316 寛治六年六月廿五日、高陽院立レ市、依二虹蜺立一也、先令二諸道勘申一、
p.0316 保延元年六月八日、中宮廳前立レ市、依二虹見一也、
p.0317 應安五年八月四日戊寅、盛深僧正送状云、小童去月廿六日移二住一乘院一目出之由示レ之、次同廿四日辰刻自二金堂艮角一虹吹二上坤方一、滿寺驚レ之、自二廿五日一三ケ日間立レ市之由同示送也、
p.0317 虹霓〈◯中略〉 虹霓の立ちて西に有るは明日必雨降り、東に見ゆるは必風吹く、切れ切れに光り散るは風起る、日暮に東南に見ゆるは天風なり、
◯
p.0317 二十八年十二月庚寅朔、天有二赤氣(○○)一、長一丈餘、形似二確尾一、
p.0317 十一年八月壬申、是日、白氣(○○)起二於東山一、其大四圍、
p.0317 天平勝寶八歳十月丙申、有二白氣一貫レ日、
p.0317 延暦十一年正月甲申、白氣貫レ日、
p.0317 弘仁二年七月丁未、大極殿龍尾道上有二雲氣(○○)一、状如レ烟、須臾竭滅、
p.0317 承和六年六月丁丑、是夜有二赤氣一、方卅丈、從二坤方一來至二紫宸殿之上一、去レ地廿許丈、光如二炬火一、須臾而滅、
p.0317 承和十四年六月乙巳、此夜月暈之外、有二白氣一繞レ之、
p.0317 貞觀元年二月十一日丁酉、有二赤黄白氣(○○○○)一、形如二車輪一繞レ日、
p.0317 貞觀六年十月七日庚申、夜北山有レ光如レ電、又朱雀門前見二赤光一、長五尺許、
p.0317 貞觀十六年四月廿四日壬子、非レ霧〈◯霧、一本作レ雲、〉非レ霞、黄赤色氣、延蔓蔽レ天、
p.0317 貞觀十七年五月十六日丁酉、夜有二雲氣一竟レ天、形如レ幡、頭掛二西山一、尾掛二東山一、
p.0317 元慶二年八月二日乙丑、夜有レ光、見二紫宸仁壽兩殿之間一、
p.0317 天永元年三月十一日己酉、近日瘴煙竟發、仍今朝始二大般若并六字法一、
p.0317 久安六年九月十六日己丑、今日寅刻、天北方并西方有二赤氣一、如二野火一、
p.0318 嘉應二年十月廿七日、西方有二赤氣一、 十二月廿七日、四箇條仗議、〈◯中略〉諸道勘二申赤氣事一、承安元年正月廿二日、南方有二赤光一、其勢如二車輪一、治承元年十一月廿三日、近日有二赤氣一、
p.0318 文治五年三月卅日壬申、白氣經レ天、貫二北斗鬼星一、長五丈餘云云、
p.0318 嘉祿三年〈◯安貞元年〉七月十九日丙申、風雨雷鳴甚、亥刻聊屬レ晴、自二西山一赤氣立及二半天一、其色赤白、西黒雲隱、東映二明月一、而或明或隱、少時而消畢、至レ曉更又甚雨、 廿八日乙巳、後藤左衞門尉基綱爲二奉行一、陰陽輩召二集御所一、天變之事被二尋下一之處、泰貞、宣賢、非二白虹一之由申レ之、親職、晴賢、爲二白虹一之旨言上云云、 廿九日丙午、親職、晴賢等、白虹勘文捧レ之、後藤左衞門尉基綱付レ之畢、
p.0318 暦仁二年〈◯延應元年〉四月廿三日壬戌、天霽、戌刻乾方有二妖氣一、光芒巽長八尺、廣一尺、色白赤、雖レ無二本星一、其光映レ天如二野火一、御所中上下見二怪之一、經二一時一消訖、 廿六日乙丑、光之妖氣出見、軸星有無及二天相論一云云、
p.0318 仁治二年二月四日壬戌、戌刻白赤氣三條出現、件變消、其東傍赤氣又出現、長七尺、彼變減猶西傍赤氣一條出現四尺、觀レ之恠レ之、泰貞朝臣最前馳二參御所一申云、此變爲二彗星形一異名火柱(○○)也、村上御宇康保年中出現、同變云云、次晴賢、廣資等參上、晴賢申云、今夜依二陰雲一諸星不二分明一之上者、非レ可レ窺二得彗星之類一、且又無二軸星一、旁有二不審一、以二晴天之時一可二伺定一云云、廣資同二泰貞之説一、仍各聊雖レ及二相論一、猶不二一決一云云、 十六日甲戌、去四日天變事、依レ仰前武州召二聚天文道之輩一、令二尋問一給、前武州祗二候持佛堂廣庇一、太宰少貳爲佐、出羽前司行義、加賀民部大夫康持等在二其座一、泰貞、晴賢、資俊、國繼、廣資等參入、被二尋仰一云、去四日赤氣事、可レ相二尋實否一之旨、所レ被二仰下一也、各可レ注二進所存一、就レ其可レ問二答是非一者、面々注二進之一、泰貞状云、依二陰雲一分明不レ窺二究之一、但可レ被レ處二天變一者、火柱之形歟者、晴賢状云、推古天皇廿八年、并天慶二年、元永五年有二赤氣一、彼三箇度赤氣已同二今度氣一、但有二野火疑等一云云、此條不レ見二伺彼所々一之間、
p.0319 實否難二存知一者歟、資俊、國繼状云、爲二赤氣一云云、廣資状載二火柱之由一、對馬前司倫重爲二奉行一、讀二申彼状等一訖、前武州被レ整レ之、付二爲佐、行義康持一、進二覽御所一給、被レ待二彼三人歸來一之程、面々以レ詞及二相論一、晴賢難申云、可レ被レ處二天變一者、火柱之由載二泰貞状一、頗不レ足レ言也、當道不二定申一者、上方爭可レ被レ知二食天變實否一哉云云、前武州被二大甘心一給、此間件三人自二御所一歸參、傳二申仰一云、可レ爲二變異一者、自二京都一可レ申歟、其時可レ有二御沙汰一之由云云、 卅日戊子、去四日赤氣事、於二都鄙一彗星出現之由風聞、自二一條殿一御書到來之間、以二泰貞晴賢等注進状一、明曉爲レ被レ進二京都一、被レ經二御沙汰一云云、
p.0319 建長三年三月十四日甲戌、去比、信濃國諏方社頭湖大島并唐船等出現、片時之間、如レ消而失云云、此事無二先規一之由、社家驚申云云、
p.0319 應安三年十月八日、戌刻ヨリ赤色ノ氣、北ニ當テ天ニ見テ、夜半ニ及ブマデ有レ之、其體燒亡ヲ見ガ如シ、諸人希異ノ思ヲ成了、先年嵯峨ニテ見エタリ、 十一月六日夜、子丑寅刻ニ、赤氣北ノ天ニ現ズ、深赤色先々超過、諸人目ヲ驚ス、白色黒色等ノ大小ノ筋、赤色ノ上ニ南北エ光明ノ如ク現ズ、希代ノ形色也、 四年九月、雨夜赤氣又天ニ見ユ、
p.0319 赤氣 赤氣〈長凡九尺餘、幅五寸許、地ヨリ離ルヽコト五六丈、〉以上皆下ヨリ見計ラヒテノ寸尺也、 酉ノ半刻頃ヨリ戌ノ刻ニ至テ消ル、遠近ハハカリガタシ、 關宿城中ヨリ見渡セバ、戌亥ノ方ヨリ、少シ子ノ方ヘフリテアラハル、其色眞ノ朱ニシテ、上下共ニボツトクマドリタルヤウニ見ユ、是ハ赤氣ト云モノニテ、古來ヨリ異國ニテモ度々有事也ト、マタ赤キハ陰氣ノ壯ナル所ヘ出ルハ、全ク陰氣ノコリタルモノニテ、明日ハ大雨ナラント云シガ、少シ曇リタル由也、又古河〈關宿ヨリ三里〉ニテモ、同様ニ見ヘシト云リ、右段々上下ヨリウスクナリテ消シ、 安永九庚子年十二月十二日夜也關宿侯久世隱州臣、池田正樹〈權左衞門〉記ニアリ、
p.0319 安政二年七月、南の方月下に白氣現る、十一日夜四時殊に鮮なり、
p.0320 蜃樓(カヰヤグラ/カイロ)〈蜃者介蟲蛟之屬、春夏間嘘氣成二樓臺城郭之状一、又謂二之海市一、〉
p.0320 蜃氣樓 本草云、蜃蛟之屬、其状亦似レ蛇而大、有レ角如二龍状一、紅鬣、腰以下鱗盡逆、食二燕子一能吐レ氣、成二樓臺城郭之状一、將レ雨即見、名二蜃樓一、亦曰二海市一、〈史記天官書、海旁蜄氣象二樓臺一、〉其脂和レ蠟作レ燭、香凡百歩、烟中亦有二樓臺之形一としるせり、しからば海中にて氣を吐ものは、蛟の如きかたちせる蜃といふものなり、大なる蛤をも〈西川如見怪異辨斷云、蜃は大蛤と訓ず、然れども今俗云、蛤蜊の義には非ず、兎角大なる貝と見えたり、其貝の息を吐出すに、日の光に映じて、樓臺の象現するものなりといへり、〉蜃といへるより混じて、おぼえたる人の、蛤のうへに樓臺のかたをゑがきたるを見て、蜃氣樓なりといへるはあやまりなり、さてかの蛤に樓臺をとりあはせてゑがきたるは、繪師のあやまりならず、別に故事ある事なり、金藏經に云、佛在二膽波國迦羅池邊一爲レ衆説法、一蛤草下志心聽受、有レ人持レ杖悞中二蛤頭一、尋即命終生二於天上一、感其宮殿廣十二由旬、得二宿命通一知二曾爲一レ蛤、乃乘二宮殿一禮レ佛報レ恩とあり、もと死したる蛤の魂氣天にのぼりて、宮殿を見るさまをゑがきたるを、蜃樓と見あやまりたるは、笑ふべきことぞかし、
p.0320 蜃氣ノ樓臺ヲナスコト、和名ヲナガフトイヘリ、長門ノ海中ニマヽアリト聞リ、吾州ノ伊勢ノ海モ、昔ヨリ其名アリ、二三月ノ頃、天氣暖和ニシテ、風浪ナキ日ニ多クアラハルヽナリ、コレ蛤蜊ノ氣ナリトイヒ傳ヘ、然レドモ蜃ト蛤蜊ト同ク介類ニシテ別アリ、コトニ桑名ハ蛤蜊ニ名ヲ得タル地ナレドモ、ナガフノ見ユルコトヲ聞ズ、但羽津楠邑等ノ海邊ニ多シ、吾友ニ楠邑ノ南川トイヘル里ニ、山本勘右衞門トイヘル老翁アリ、コノ人ハ弱年ノ時ヨリ兩度見タリ、後ニ見タルハ樓閣ノ中ニ、種々ノ飾リアリテ、甚奇巧ナリシト物語セリ、羽津楠ナドニモ蛤出レドモ、桑名ニクラブレバ寡シ、然レバ蛤ノ氣ニテナレルニハアラザルベシ、楠ノ南一里バカリニ郷アリ、其名ヲ長太ト書テ、ナカフト訓ゼリ、蜃氣ニ因テ名ヅケタルナルベシ、天地ノ間ニハ理外ノ事多シ、虹ノ日ニ映ジテ青紫ノ色ヲナスガ如ク、海中ノ春和ノ氣日ニ映ジテ、色ヲ現ズルナルベケ
p.0321 レドモ、樓閣ノ形象ヲナスハアヤシムベシ、
p.0321 唇氣樓 唐土の詩文にも、多く作りてもてはやせる、唇樓といふことあり、又海市ともいふ、〈◯中略〉我國は四方皆大海にて、何れの國の人も海を見ざる者もなきに、此唇氣樓は甚稀なり、只越中の魚津といふ所に、毎年三月の末より四月の間に、天氣殊にのどやかにして風收り、海上霞渡りて、一面の鏡の打曇れるがごとき日に、此唇氣樓をむすぶ、毎年一兩度、或は多き年は、三四度も結ぶ事あり、殊に唐土の人のいへる如く、海上に煙の如く雲の如く、次第にむすび來りて、遂には樓臺の如く、或は城廓の如く、人馬往來せるが如きも、歴々然として見ゆ、北地に我親しく交りし、宮島式部大夫と云社人は、折よく魚津にて是を見たり、初は幕を引るが如くなりしが、しばらく見る間に、城廓の如く、矢倉高塀やうのものも見え、矢間などの如きものも見えしが、又暫する間に、松原の如く、繪に書る天の橋立などのやうに見えし、夕暮に及び風少し出たれば、漸々に消失て跡かたもなくなりしなり、富山よりは纔に六里を隔てたる所なれば、城下の人々皆見物したく思へども、何時に結ぶもしれがたく、又むすびたる時、急に人して告しらすにも、其間には消失て見るべからず、此ゆゑに魚津近所の海邊の人は、例年見る事なれど、二三里を隔てたる地方の人は、一生涯つひに見ざる人多し、余〈◯橘南谿〉が越中にありし時も、三四月の間を魚津に逗留して、唇樓を見るべしと、人々にすヽめられ、余も亦年頃の望なりしかど、富山にありし頃は正月二月なれば、それより三四月まで越中に逗留せん事、あまり永々しければ、殘念なりしかども、見ずして越後にこえたり、越後の糸魚川にて、松山茂叔に此事を語りしに、此人も糸魚川の海中遥に山の出來たるを見たり、漁人のいひしは、これは鹽山といふものにて、折々見ることなりといひしと語られき、余初め唐人の作れる詩抔を見て思ひしは、唇樓は大洋にある事にて、陸地近き入り海には、なきことのやうに心得しが、魚津の地理を見るに左にはあらず、魚津は北海に臨める
p.0322 地なるに、向ふの方七八里と思ふ程に、能登國の山を屏風の如くに見る、魚津の海は東よりの入海なり、海中より蒸登る陽氣、向ふの山に映じて、色々の形を見るなり、向ふに當なく、數百千里見はらしたる大海にては、陽氣のぼるといへども、向ふの當無れば映ずることなくして、人の目に見えがたしとぞ覺ゆ、伊勢の桑名の海にも三十年五十年の内には、たま〳〵唇樓を結ぶ事ありといふ、是も向ふに尾張三河の山を受てあるゆゑなるべし、又安藝國にてもたま〳〵は有りと云、是も向ふに山あり、其外の國にては唇氣樓をむすぶ事はまだきかず、奇を好む人は、三四月の頃、越中に遊びて此樓臺を見るべき事なり、
p.0322 蓬萊巖 聖崎をはなれて海水のうへにたてり、巖上に古松數株ありて海風にもまれ、容姿おのづから造りなせるがごとし、世に畫がくなる蓬萊山といふものに似たり、故に名とす、また別に蓬萊と稱するものあり、三四月の頃、風恬(しづ)かに波穩かなる時、此處より浮出づ、その粧ひ金銀瑠璃を以て砂とし、其上松柏生茂り、或は宮殿樓閣の象ありて、其莊嚴たぐへん物なし、光明海上に彩きわたりて次第に消滅す、いまも往々是を見る人あり、多くは丑日に現ずといふ、その由縁を知らず、近世橘南谿が著せる西遊記に、安藝國に蜃樓ありといへるは、恐らくは是をいふなるべし、
p.0322 記二伊豫嘉島浦夜海市事一
伊豫嘉島浦去二宇和島藩城西海岸一可二六里一、寛政元年己酉十二月晦日夜亥刻、海上距レ岸三四百丈外有二一小山浮出一、浦民有二福松者一初先見レ之、因呼二其弟岩松一出來指示見レ之、既而居民傳聞、遂盡出觀レ之、其山高可二四丈一、山頂有二火三塊一、其長可二二尺横一尺一、其光如レ燃レ篝、其左右火著レ山而不レ動、中央一火離レ山而升降不レ定、山下水際又有二數百火一、相連成レ列、亦如二篝燈一、其火光照耀以映見、其山腹上下數處彷彿類下有二樹木一者上、然亦不二分明一、村民中有二膽勇者一、棹レ舟往求レ之、離レ岸既三四百丈許、其所レ見與二岸上所一レ望遠近無レ異、p.0323 因不二復往一而還、既而比レ及二子刻一、村民皆歸二其舍一、後有二復出望レ之者一、山已無レ有、有識者曰、此所レ謂蓬萊山者也、村民中或傳有レ望二睹其山旁一有二龜者一、然此事非三衆所二彰見一、是以不二敢言一云、
記二越中魚津浦晝海市事一
越中魚津浦孟夏之月、常現二海市一、晴日無レ風薄雲罩レ天之日則必見レ之、風生則雖レ見而忽復息、見レ之之初常必先起レ自二滑川一、滑川去二魚津一三里、而將レ見之時、其岸際林木皆化成二其物一、其間長可二六丈一、其餘一二里間、則樹色悉成至二黒色一、而海市之生、初先如二數柱並植者一、而其柱形亦數斷不レ全、既而稍當二其東一生下如二樓櫓一者上四五處、其高者可二二三仞一、又生二城墻一高可二六尺一、墻見如二白壁一、白壁之間特透明、舟帆來者映二見于其中一云、寛政九年夏四月十三日、生始二未刻一至二於申下刻一而息、是日午時金澤侯駕到二此地一、適見二海市一、因令二扈駕諸臣皆出觀一レ之、蓋百年前侯始祖某公之時、嘗到レ此見二海市一、而某公年至二八十一、是以今公亦喜以爲二吉徴一、是日大坂和田隆侯幹僕福成政者、適亦客寓二在其地一而親觀レ之云、成政前レ此凡三見レ之、並皆朦朧不レ明、獨此日所レ見爲二鮮明一、魚津之地當二能登東十二三里一、而海市唯在二魚津一、及二其近邑巖瀬五里之間一見レ之、能登海上之人不レ能レ見レ之、云海市又有レ時變幻不レ一、金澤士人加藤維明者、嘗見下其成中松樹驛道上、前田某者嘗見下其松樹中有二一柳樹一而其上植二竹竿一以曬二一汗衫一者上、野村貞英乃嘗見下其成中一長橋上、此三士皆嘗來爲二魚津宰一、是以見レ之云、又云、魚津工人乃皆云、魚津近國無レ有二如レ此城墻樓櫓松樹長橋者一、疑是空氣攝二近江勢多城松樹長橋之景一、以寫二作此海市一也、
p.0323 題しらず 藤原實方朝臣
いかでかはおもひありともしらすべきむろのやしまの煙ならでは
p.0323 むろのやしま 顯昭云、〈◯中略〉むろのやしまとは、下野國の野中に島あり、俗はむろのやさまとぞいふ、室は所名歟、その野中に清水の出るけのたつが、けぶりに似たる也、是は能因が坤元儀に見えたる也、〈◯下略〉
p.0324 室の八島をよめる 藤原顯方
たえずたつむろの八島の煙かないかにつきせぬおもひなるらん
p.0324 室のやしまに立煙は、よヽの歌にきこゆ、しかるに其所を貝原翁の日光の記の附録に、金崎といふより一里半にして總社村あり、林のうちに總社明神のやしろあり、是下野國の總社なり、其前に室の八島あり、小島のごとくなるもの八ツありて、其廻りはひきく池のごとし、今は水なし、島の大きさいづれも方二間計、其島に杉少し生たり、此島の廻りの池より水氣烟のごとく立のぼるを賞しける也、其村の人あまたに問けるに、今は水なきゆゑ煙もたヽずといへりと記さる、しかるに此頃かの國の士の一説を得たり、これは一所にあらず、島と號る所八村倶に都賀郡にて、鯉が島、高島、萩島、大川島、卒(ソ)島、曲(マガ)の島、沖の島、仲の島等也とぞ、いづれか是なることをしらねど、見きくまヽに記す、さて煙ははたして水氣歟、又里の煙歟しらず、室といふは若一所ならば總社村の古名歟、都賀郡の所々をいふとならば、郡内にて室といふ總名ありしにや、辨ふべからず、室といふ名も煙によしあり、
p.0324 絲遊(イトユフ)〈陽炎也〉 陽炎(カゲロフ)〈智度論疏、陽春之月、有二日光風動一レ塵、梵名爲二陽炎一、此名爲二野馬一、〉 野馬(同)〈事見二莊子一〉 遊絲(同)〈又云風絲〉
p.0324 爾阿知直白、墨江中王、火著二大殿一、故率逃二於倭一、爾天皇歌曰、〈◯歌略〉到二於波邇賦坂一、望二見難波宮一、其火猶炳、爾天皇亦歌曰、波邇布邪迦(ハニフザカ)、和賀多知美禮婆(ワガタチミレバ)、迦藝漏肥能(カギロヒノ)、毛由流伊幣牟良(モユルイヘムラ)、都麻賀伊幣能阿多理(ツマガイへノアタリ)、
p.0324 かげろふとは、春に成ぬれば、日のうららかにてりたるに、ほのほのもゆるやうに見ゆる也、いとゆふなど云もおなじ事なり、虫のなかに蜻(えば)のちいさきやうなるを、かげろふと云ことあれども、それは別のものなり、それはおぼろげにもみえず、ふかき山のこもりぬなどにぞ侍るなる、今の歌にも蜻火之(かげろうの)とかきたれども、これはことばのおなじければ、假字にかきたる也、
p.0325 かげろひ かぎろひとも見ゆ、陽燄をいふ、影る日の義也、野馬も遊絲も同じ、萬葉集に炎字をもよめり、火影也、かげろひてとはたらかしてもいへり、古事記にかぎろひのもゆる家むらとよみたまふは、人家の火炎をいふ也、萬葉集にかげろひのもゆる荒野といへるは、荒野によれば葬火也、かげろふ 中比よりかげろひを轉じたる詞也、かげろふのもゆる春日などいふは、楞伽經にいへる春時燄也、雲にかげろふなどいふは陰する意也、ろふ反る、かけると同じ、古事記の歌に、夕日のひかげる宮と見えたり、祝詞には夕日の日隱處とあり、菅家萬葉集に遊絲をよめり、かげろふのそれかあらぬかとよめる是也、詩にも天外遊絲或有無と見えたり、かげろふのあるかなきかなどいふは蜻蜓をいふ、倭名鈔、日本紀に見ゆ、童蒙抄に、黒きとうばうのちひさきやうなる物といへり、今も蜻蜓の一種極めて細小なる物をいへり、本草にも蜻蜓言二其状怜仃一也とみえたり、水邊の木陰にすみて、その飛貌の欵々と水に點じ、閃々と電のごとくなれば、陽炎に比していへるなり、萬葉集に蜻火とも玉蜻とも書て、かげろひとよめる也、かげろひの磐垣淵とつヾけたるも此義なるべし、玉蜻は蜻蜓が目を土に埋おけば、青珠となるよし、博物志に見えたりとぞ、又燈火の一名蜻蜓眼といへる事、家瑞記に見えたり、蜉蝣をいふは、蜻蜓より轉じたる也、
p.0325 いとゆふ 遊絲をいふは、春の頃、長閑き空に亂れて、糸の如くちら〳〵と見えわたるものをいふ、又あそぶ草ともよめり、野馬も同じ、
p.0325 かげろふに三つあり、野馬と蜻蛉と今ひとつは、ゆふぐれに命かけたるなどよめるやう蜉蝣にやと覺し、されどそれをば和名にも、ひをむしとのみいへり、萬葉にかげろふの夕とつヾけたるは蜻蛉なるを、よくも見ずして、かげろふといふ名のはかなく聞ゆれば、ひをむしの別名かなど、思ひたがへてよみなしけるにや、
p.0326 眞淵(頭書)云、かげろひは本はかげろひ火なり、古事記に難波の宮に火つきたるを、かぎろひのもゆるいへむらとよませ給ひ、萬葉にかげろひのたヾ一目のみ見し人とも、かげろひの岩がきふちともよめるも、はしり火石の火なり、また萬葉に東の野に炎(カゲロヒ)の立ちみえてとよめるは、明くる天の光なり、かげろひの夕さりくれば、かげろひの日もくれ行かばとよめるは、夕日の光なり、かげろひのもゆる春とよめるは春の陽炎なり、俗にいとゆふと云ふ、又蜻蛉をもかげろひといへば、萬葉にかげろひてふ所にかりて書ける多し、然ればかく多きが中に、火と日と陽炎と蜻蛉と四つありといふべしや、蜉蝣をかげろふといへるはいと誤なれば、數には入れずて、誤のよしはいふべきなり、又古事記にかぎろひといひたれば、きとけとは通はしいふべけれど、下のひをふといふはよろしからず、
p.0326 絲ゆふ考 清水濱臣の據字造語鈔云、按ずるに、遊絲は古く絲ゆふとのみ歌によみ來れるを、此永久四年百首には、七人みな遊ぶ絲とよめり、是より先にありしや、大方見あたらぬやうなり、遊絲の字にすがりてよめれど理り協はず、近頃の歌には凡てよむことながら、心あらん人は庶幾すべからぬ事にこそ〈以上〉と、見えたるをおもふに、古く絲ゆふとのみ歌にもよみ來れりと云へるは、いともいとも不審き説なり、そも〳〵遊絲を歌の題とせしは、此永久の百首よりさきには、いまだ見もおよばぬ事にて、これを又絲ゆふとよめるは、今すこし後なるべし、さるは丹後守爲忠朝臣百首に、野外遊絲の題見えて、例の遊ぶ絲とよめる歌四首あり、按ふに、こは永久百首にならへるなるべし、さて其外に今一首〈兵庫頭源仲正うた〉野邊みれば春の日暮の大空に雲雀とともに遊ぶ絲ゆふ、とよめるありて、これ絲ゆふとよめる歌の、根源とおぼしきなり、〈此爲忠家百首は、一題八首の例なれど、遊絲の歌のみは以上五首ありて、三首缺たり、〉此百首詠ありし時代は、永久より二十年許後なる、保延の頃なるべし、しか思ひとらるヽ故は、長承三年十二月十九日、中右記に、今夕院渡二御三條烏丸新御所一云々、丹
p.0327 後守爲忠造進也、爲忠叙二正四位下一とあると、外記日記、久安四年正月十三日の條に、故丹後守爲忠入道と見えたるに依てなりかし、さて又保延より六十年許後なる六百番歌合〈按ずるに建久五年に係れり〉に、此題を出されたるには、大方は絲ゆふとのみ詠れて、遊ぶ絲とよめるは少なし、かヽれば遊ぶ絲の方よりも、絲ゆふはすこし後なるが故に、不審とは云へるにこそあれ、さて此ものヽ名義を、賀茂翁の説〈圓珠庵雜記首書〉に、いとゆふは遊絲を後の世の人の、強てこヽの語めきて云し俗語なるべし、もし又古へより云たらば、絲木綿(ユフ)の意にて、ゆふの絲に見なしたるか云々といはれたるは、まづはよろしげに聞えたる物から、猶よくおもふに然るべからず、春村〈◯黒川〉つら〳〵稽ふるに、空穗物語祭使の卷〈二十二右〉に、かくゆふぐれに〈按ずるに六月つごもりがたなり〉きむだちみすあげて、いとゆふのみき帳ども、たてわたし云々とあるは、陽炎をいふ絲ゆふにはあらねど、此名の物に見えたるなるべし、さて是を故細井貞雄が比校せし古鈔本には、いとゆひのみき帳とあり、是に依てはじめてしりぬ、絲ゆふは原絲ゆひなりしを、よこなまりたるものになむありける、凡て几帳は一幅一幅の上に、絹の平縫の細紐をたれたると、又絲を幾筋も結びたれたると二様ありて、其絲をゆひたれたる方を、絲ゆひの几帳とは云なるべし、但是を訛謬て、絲ゆふと呼なれたるも、既くよりのならひと見えて、祭使の流布本にはしか見え、榮花物語音樂の卷〈五右〉にも、いとゆふなどのすそごの御几帳、むらごのひもぐして云々と見えたり、〈根合卷四十六左に、紅のうちたるふたあひのふたへもんのうはぎ、いとゆふのもからぎぬ云々とも見えたり、猶考ふべし、〉猶雅亮裝束鈔下に、絲ゆふむすびの狩衣とあるは、其露の絲を云へるなるべし、〈◯註略〉偖又陽炎を絲ゆふといふは、上件の絲ゆふによそへて、呼そめし物なるべし、さるは此陽炎の異名を、遊絲といへるに由あればなるべし、但しまことの和名は、萬葉にかぎろひと見ゆれど、中昔はかげろふと呼びしを、白河帝の御世などにても有べし、又絲ゆふとも名付そめたり、此ほどにやとおもはるヽゆゑは、狹衣卷一之上〈二十右〉に、紫の雲たなびき渡ると見ゆるに、びんづらゆひていひ
p.0328 しらずをかしげなる童の、さうぞくうるはしくしたる、かうばしき物ふとおりくるまヽに、いとゆふか何ぞと見ゆる、薄き衣を中將君に打かけて、袖を引たまふに、我もいみじくもの心ぼそくて、立とまるべきこヽちもせず云々と、見えにたるこそ、陽炎をしも絲ゆふとよべるはじめかとおぼゆればなり、さてさし次は彼仲正の歌なり、かヽればさきの絲木綿の説は、よろしげにして宜しからず、〈木綿は楮木の皮を麻の如くさきたるをいへり、さればもし絲木綿とつヾけて、木綿を絲という理り協はヾ、麻をも絲麻といはるべきに似たれど、しかよべる事ふつに見えねば、絲木綿とも亦いはれぬなるべし、〉また遊絲の遊の音訛などいふめるは、いと拙くして云にたらねば、絲結の義と決めたらむこそよからめ、さてかくしるしをへたるを、大江章雄打見ていへらく、絲ゆふは白河の御世より、今すこし古く見えたり、さるは和漢朗詠集雜部、晴とある題の歌に、霞はれみどりの空ものどけくてあるかなきかにあそぶいといふ、とあり、但寛永の刊本には、あそぶいとゆふとありと云へり、かく云へるに驚きて、一とせ古筆了伴より柳營に奉れりし、公任大納言の眞蹟といふ本、幸ひさきに比校して置しを、取出て披き見るに、其眞本も亦あそぶいとゆふとありて、それを墨もてけちたるかたへに、同筆にてあそぶとり見ゆとあり、按ふに諸本に遊ぶいと見ゆとも、あそぶ絲ゆふとも見ゆる事は、あるかなきかにと云ふ四の句にひかれて、ふと書僻めしがひろまれるにはあらじか、されば彼古鈔本にあそぶとり見ゆとあるかたも、しかすがに捨がたく、流布本のみには據がたければ、さのみ的證ともいひがたかるべし、
p.0328 輕皇子宿二于安騎野一時、柿本朝臣人麻呂作歌、東(ヒムガシノ)、野炎(ヌニカギロヒノ)、立所見而(タツミエテ)、反見(カヘリミ)爲者(スレバ)、月(ツキ)西渡(カタブキヌ)、
p.0328 柿本朝臣人麻呂妻死之後、泣血哀慟作歌二首并短歌、〈◯中略〉蜻火之(カギロヒノ)、燎流荒野爾(モユルアラヌニ)、白妙之(シロタヘノ)、天領巾隱(アマヒレカクリ)、〈◯下略〉
p.0328 詠レ鳥
p.0329 今更(イマサラニ)、雪零目八方(ユキフラメヤモ)、蜻火之(カギロヒノ)、燎留春部常(モユルハルベト)、成西物呼(ナリニシモノヲ)、
p.0329 詠二陽燄喩一
遲遲春日風光動、陽燄紛紛曠野飛、擧レ體空空無レ所レ有、狂兒迷渇遂忘レ歸、遠而似レ有近無レ物、走馬流川何處依、妄想談議假名起、丈夫美女滿二城圍一、謂レ男謂レ女是迷思、覺者賢人見則非、五蘊皆空眞實法、四魔與レ佛亦夷希、瑜伽境界特奇異、法界炎光自相暉、莫レ慢莫レ欺是假物、大空三昧是吾妃、
p.0329 かげろふ
あるとみてたのむぞかたきかげろふのいつともしらぬ身とはしる〳〵
p.0329 遊絲 源忠房
しづけくて吹くる風もなき空にみだれてあそぶいとぞみえける
p.0329 六百番歌合遊絲 從二位家隆卿
のどかなる夕日の空をながむればうすくれなゐにそむるいとゆふ
p.0329 にげみづ 武藏野の景色也、春より夏かけてうらヽかになぎたる空に、わかく生しげりたる草の原に、地氣のたち升るが、こなたより見れば、草の葉末をしろ〳〵と、水の流るるが如く見ゆめり、まことの水には非ず、こと處にゆけば、又むかふに見ゆるをもて名けり、志怪録に、深州東鹿縣中、有二水影一長七八尺、遥望見二人馬往來如一レ在二水中一、乃至レ前不レ見レ水と見えたり、
p.0329 恨躬耻運雜歌百首 沙彌能貪上
東路に有といふなるにげ水のにげのがれてもよをすぐすかな
p.0329 にげみづ 顯昭云、にげ水とは、あづまぢにあり、人ののまんとすれども、おほかたくまれでにぐる水なりとぞいひつたへたる、是は俊頼朝臣詠也、是もさる事やはあるべきとおもへど、人のいひ置たる事なれば、しるしのする也、
p.0330 武藏野ノ逃水ハ、古ヨリ名高キコトナリ、然レドモ常ニアルニアラズ、其地ノ人モ見ルコト甚稀ナリ、固ヨリ水ニハアラザルナリ、時アリテ廣原ヲ遥ニ望メバ、波浪ノ起ルニ似テ色五彩ヲマジヘ、其中ニ人物舟船ノ行クガ如ク、彷彿トシテ影ノ如ク畫ノ如シ、漸其處マデイタリ視レバ、アルトコロナク、又向ニ見ユルコトハジメノ如ク、移時乃滅ス、水ノ流ルヽニ似テ定ル所ナク逸失スレバ、逃水ト名ヅケシナリ、清暑筆談曰、廣野陽炎望レ之如二波涛一、奔馬及海中蜃氣爲二樓臺人物之状一、此皆天地之氣、絪縕盪潏、回薄變幻、何往不レ有二周處一、風土記亦同二此説一、唐陸勲志怪水影ト云モ亦同、右二説已載二經史摘語一、コノ説ノ如ク氣ナリ、蜃氣樓ト云ニ同ジ、海上ニアルヲ海市ト云、山中ニアルヲ山市ト云、原野ニアルヲ地市ト云、池北偶談ニ見エタリ、武藏野ノ逃水ハ地市也、