p.0249 風ハ、カゼト云フ、旋風、嵐、暴風、大風等ノ稱アリ、旋風ハツムジカゼ、又ハツジカゼト云フ、旋回シテ吹クナリ、嵐ハアラシト云フ、山上ヨリ吹キ下スヲ云フナリト、暴風ハハヤチ、後世ハノワキト云ヒ、大風ハオホカゼト云フ、風ハ又吹キ來ル方向、又ハ時節ニ依リ、東風(コチ)、南風(ハエ)、西北風(アナシ)、木枯(コガラシ)、をに北、へばりこち等ノ稱アリ、大風暴風等ノ殿舍ヲ倒シ、人畜ヲ壓傷シ、秋稼ヲ損ズル如キ災異屢々ナリ、
p.0249 風 春秋元命苞云、陰陽怒而爲レ風、
p.0249 春秋元命苞、今無二傳本一、卷數撰人皆不レ詳、文選風賦注、太平御覽、廣韻所レ引、並與レ此同、説文、風八風也、風動蟲生、故蟲八日而化、釋名、風氾也、其氣博氾而動レ物也、又云、風放也、氣放散也、白虎通、風之爲レ言萌也、
p.0249 風八風也、東方曰二明庶風一、東南曰二清明風一、南方曰二景風一、西南曰二涼風一、西方曰二閶闔風一、西北曰二不周風一、北方曰二廣莫風一、東北曰二融風一、〈樂記八風從レ律而不レ姦、鄭曰、八風從レ律應レ節至也、左氏傳、夫舞所下以節二八音一而行中八風上、服注、八卦之風也、乾音石、其風不レ周、坎音革、其風廣莫、艮音匏、其風融、震音竹、其風明庶、巽音木、其風清明、離音絲、其風景、坤音土、其風涼、兌音金、其風閶闔、易通卦驗曰、立春調レ風至、春分明庶風至、立夏清明風至、夏至景風至、立秋涼風至、秋分閶闔風至、立冬不周風至、冬至廣莫風至、白虎通調風作二條風一、條者生也、明庶者迎衆也、清明者芒也、景者大也、言陽氣長養也、涼寒也、陰氣行也、閶闔者咸收藏也、不周者不レ交也、言陰陽未二合化一矣、廣莫者大莫也、開陽氣也、按調風條風融風一也、八卦八節八方一也、通卦驗始二於調風一許終二於融風一者、許依二易八卦之次一終二於艮一也、艮者萬物之所二以成レ終而成一レ始也、風之用大矣、故凡〉
p.0250 〈無レ形而致者皆曰レ風、詩序曰、風風也、教也、風以動レ之、教以化レ之、劉熙曰、風氾也、放也、〉从レ虫凡聲、〈凡古音扶音切、風古音孚音切、在二七部一、今音方戎切、〉風動レ蟲生、故蟲八日而匕、〈依二韵會一、此十字在二从レ虫凡聲之下一、此説从レ虫之意也、大戴禮、淮南書皆曰、二九十八、八主レ風、風主レ蟲、故蟲八日化也、謂風之大數盡二於八一、故蟲八日而化、故風之字从レ虫、〉凡風之屬皆从風、 古文風、
p.0250 吹〈音衰、カゼ、フク、アフク〉
p.0250 風〈方隆反、カセ、カゼフク、〉 颵〈カセコヱ〉
p.0250 颸(カセ) 〈二字義同、風也、 音弗、〉
p.0250 風(カセ)〈天地之氣嘘而成レ風〉 凮(カセ) 〈竝古文風字〉 䫼(スキカセ)〈風自レ孔來曰レ䫼〉 順風(ヲヒカゼ) 逆風(ムカフカゼ)〈石尤風同〉 颯颯(サツサツ)〈風聲〉
p.0250 順風(ヲヒカゼ) 颶風(ヲキツカゼ)〈五雜組、海風也、以三其具二四方之風一、〉 沖津(同)風〈和俗所レ用〉
p.0250 風 ふかせなり、虚空よりふかする也、但上古のことば、其名づけし意はかりがたし、
p.0250 風カゼ 義不レ詳、古語にサといひ、又カザといひし、皆是其語の轉ぜしにて異なる義ありとも聞えず、舊事紀に、陽神朝霧を吹撥ふの氣、化して風神となれりなどいふ事は、見えけれど、カゼといふ義の如きは聞えず、〈古語にカゼをサとのみ云ひしによれば、カといひしは、上の詞助なりしに似たり、萬葉集抄に、カは詞の上の助なり、弱きをカヨワキといひ、細きをカボソキといふが如しと見えたり、またセとは狹也とも見えたり、迫をセマルといふも、則迫狹の義なるなり、さらばカゼといふは、其氣の物に迫りぬるをいふ事、たとへば雷風相薄るなど、いひし事の如くなりけんも知らず、サといひしはセの轉語なり、〉
p.0250 かぜ 風をよめり、かせ反け、氣の義なるべし、又生すの義也、物風を得て生化す、よて風字虫に从へり、神代紀にも朝霧を吹撥(ハラフ)の氣風神となるといへり、風に陰陽あるは神代紀に見えて、春夏の風は物を吹あげ、秋冬の風は物を吹おとすも、理の自然なるべし、蠡海集には、春の風は下より升り、夏の風は空中に横行すともいへり、倭名鈔に微風をこかぜとよめり、風はやみは疾風をいふ也、風の姿は物によせていふ也、風ひやかは冷なる也、字書に䫿を風凉と注せり、風ほめくは新撰字鏡に〈劉風〉をよめり、風をいたみは、つよく吹をいふ、風のたよりは、そことなく傳へ
p.0251 くるをいふ詞也、今も風便など音にいへり、河圖帝通記に、風天地使也と見えたり、
p.0251 しなどのかぜ 中臣祓にみゆ、源氏にそのよのつみは、みなしなとのかぜにたぐへてなどいへり、神代紀に級長津級長戸邊を風神といへり、口訣に 颻云二級長一と見えたり、 颻は野分の風也といへり、又乾風をいふといへり、
p.0251 六月晦大祓
科戸之風〈乃、〉天之八重雲〈乎〉吹放事之如〈久、◯下略〉
p.0251 なべて世の哀ばかりをとふからにちかひしことヽ神やいさめん、とあれば、あな心う、そのよのつみはみなしなどの風に、たぐへてきとの給あひぎやうもこよなし、
p.0251 風 神風〈いせの國、經信卿の説、〉 春 秋 はつ あまつ 夜 夕 朝〈万一〉 山 野 浦 濱 河 浪 しま たに 松 しほ をひ うは した よこ おき〈後拾、長能歌也、〉 は〈羽葉清輔抄〉 南〈雪ゆきといへり〉 あま しなと ありそ ときつ〈万〉 うしほ〈万〉 みなと いゑかせ〈家風也〉山した のせ〈清輔抄〉 北 冬〈同〉 こち〈東風也、あさこち、只こちともいへり、〉 あなし〈いぬゐ也〉 ひかた〈日方ひつじさる、俊頼抄巽風也、範兼はこち風のふきやまぬなり、〉 をきつ はやち〈海神のふかする風也〉 あゆ〈東の風とかけり、是家持が越中守時作歌也、是北陸道詞也、〉 いかほ こからし〈秋冬〉 山おろし 河おろし〈さよふけてとよめり〉 山こし うらこし〈あはれなるかぜなり〉 野分 しのヽをふき まかぜ くすのうら しなとの しまなびく〈俊頼抄〉 あらしまかぜいたま〈万〉 あすかかぜ はつせ風 さほかぜ〈已上三は所名也、万にあり、〉風ともいはで山おろし吹ともいへり、風まつりといふは、社などに風なふかせそと申也、又万葉になみおそろしと、かぜまもりとよめる、これ舟事なり、 こがらしは秋冬風木枯なり、但こがらしの秋のはつ風ともよめり、野宮歌合に、正通冬物と難て閉口畢、 こヽろあひのかぜ わいたやまし きたこち、これらも風名也、 をしやな〈巽風、清輔抄、〉 谷風にとくる氷は、是毛詩心也、 謂二東風一云々、尤氷可レ解風也、但作二春
p.0252 谷風一又多、
p.0252 泰風(ニシカゼ)〈又云西風〉 北風(ホクフウ) 東風(トウフウ) 南風(ナンフウ) 谷風(コチ/ヒカタ) 東風(同)
p.0252 不周風(アナジ)〈乾風也〉 廣莫風(キタカゼ)〈文選註、北方風、〉 凉風(同)〈爾雅〉 朔風(同) 北風(同) 凱風(ミナミカゼ)〈爾雅、南方風也、〉 飄風(同)〈韵瑞〉 東風(ヒガシカゼ) 谷風(ヒカタ/ニカシカゼ)〈爾雅、東風、〉
p.0252 風かぜ〈◯中略〉 西國にても南風をはへ(○○)と云、東南の風ををしやばへ(○○○○○)と云、北國にては東風をあゆの風(○○○○)といふ、西北の風をよりけ(○○○)と云、北風をひとつあゆ(○○○○○)と云、東北の風をぢあゆ(○○○)と云、丑の方より吹風をまあゆ(○○○)と云、南風をぢくたり(○○○○)と云、江戸にては東南の風をいなさ(○○○)といふ、東北の風をならい(○○○)と云、〈つくばならい(○○○○○○)といふあり〉西北の風をはがち(○○○)と云、東風を下總ごち(○○○○)といふ、未申の方より吹風を富士南(○○○)と云、
p.0252 一大風ト云フハ、家フキヤブリナドスル風歟、又別ノ心アル歟、毛詩ニ箋曰、西風謂二之大風一ト云々、ニシカゼヲモ大風ト云ベキニコソ、タニ風ト云ヘドモ、必ズ谷ニフク風ニモカギラズ、東風ヲバ谷風ト云フ、毛詩ニ習々谷風、注云、習々和舒之貌、東風謂二之谷風一、陰陽和則谷風至、源順ガ鶯ノ詠ニ、コホリダニトマラヌ春ノ谷風ニト云ヘルコノ心也、春ハ東ヨリ來レバ、東風ハハルカゼ也、秋ハ西ヨリ來ル故ニ、西風ハ秋ニカタドル、
p.0252 東風(コチ) こは氷也、ちはちらすなり、春のはじめにこほりを吹ちらす風也、とくるをちると云、又とくの反字はつ也、つとちと通ず、こほりとくなり、日方(ヒカタ) 東風の久しくふくを云、東の方より吹也、南風(ハエ) 南風はあたヽかにして蒸(ムス)氣也、故によろづのさかな飯など、はやくすゑると云意、西北風(アナジ) 雨なし也、めを略す、あなしふけば、雨ふらざる物也、
p.0252 こち 東風をいふ、ちは疾風をはやちとよめる類也、伊勢家集に、こちてふ風とよめり、琉球は東もこちといへり、中國の船人、三月の風を、へばりごちといふ、十月の風をほしの入
p.0253 ごちといふ、此はしはすばるをいふ、凡て九月の節より正月の節中は、すばる星の出入にひより變りやすし、江戸にては下總こちといふ、
p.0253 ひかた〈あなし しなとの風 こヽろあひの風 しのヽをふヾき〉 あまぎりあひひかた吹らしみづぐきのをかのみなみになみ立わたる 顯昭云、ひかたは坤風也、 無名抄云、ひかたは巽風也、ひるはふかで夜ふく風也、 私云、たつみの風をば、をしやなと云、又伊勢ごちといふ、又いぬゐのかぜをばあなしといふ、
p.0253 ひかた 万葉集に日方吹といへるは、申酉の風をいふ、蝦夷にてもしかいへり、夕日の空に吹を、船人の語にも、ひかたのよひよわりといふ、晩に其方より吹は強きものながら、暮すぐるほどに、かならずよわる也といへり、
p.0253 はえ 南風をいふは、翻譯名義集に、婆廋此云二風神一といへるに本けりといへり、凱風也、琉球にもはえといへり、京にてはやうづといへり、中國の船人、五月の南風を、あらはえといひ、六月の末の風を、しらはえといふ、西國にて東南の風をおじやばえといふ、
p.0253 あなぢ 西北風をいふ、西土にいふ不周風也、ちは風の訓、こちまぢのちに同じといふめり、一説に、此風吹ば雨なし、水氣までを吹拂ふをもて、あなしともいふといへるはいかヾ、畿内及中國の船人の詞に、西北の風を、あをぜといふは、あなじの轉語也、
p.0253 あなしと云ふ風 あなしの名義は、いまだおもひ得たる説もあらねど、袖中抄卷二十に、いぬゐの風をあなしといふ〈八雲御抄卷三、藻鹽草卷一等にも同じく見ゆ、〉とあるを見れば、あなはもし戌(イヌ)の轉訛にて、其方よりふく風の名にはあらじか、〈和歌分類風部に、あなしは戌亥の風なり、又説辰巳の風なり、又和州穴師山の風を云といへり、穴師山の風よりいひそめて、いづこにもいふなり、戌亥といひ辰巳といふは、和州穴師山を乾に受たる里人のいひ、辰巳にうけたる里人のいへるなり、已上貞徳説とみえたり、顯昭法橋の東國如何といはれたるも、もしかやうの思ひとりにはあらじか、そはかくまれ、この説はうけがたし、〉しはしぐれ、しまき、あらし、つむしのしにて、風の義なら
p.0254 む事は、いふ迄もなかめり、〈こちはやちのちも亦おなじ〉但異名分類の説には、あなしは只あらき風にて、あらしの轉語、らとな同韻通ず、あらめでたなど云べきを、あなめでたといふがごとしとみゆれど、此説もいかヾなり、其故はいかにと云ふに、往し天保十二年の土佐國人漂流記といふものを見しに、其國吾川郡宇佐浦と、幡多郡中の濱との漁人等、あなぜといふ風に吹ながされて、無人島に漂着したるよしかけり、こはしをせとこそは訛謬たれ、古き名を傳へたるもめでたく、かつ只あらしには非ずして、辰巳さまに吹める風の異名なる事も明らかなる事、土佐と無人島との地方にてよくしられたり、されど我戌の方の風かといへるは、いまだ宜しと決めたるにはあらねば、例の識者の是正を請ふべく、おろ〳〵こヽにはいひ出つるなり、〈なほ東國の方言に、いなさといふ風の名あるも、いなさとあなしと音近ければ、いなさはあなしの訛言にやあらむと、はじめにはふとおもひたりしが、こは辰巳よりふく風をいふといへば、しからざる事勿論なれど、辰巳と戌亥とは相對したれば、さはいへどよしなきにもあらじか、是はた猶よく考ふべし、又鹽尻卷二十一云、熱田浦人の俗諺に、暴風して雨ふるを、はへと云ひ、巽の風をイナサと呼び、坤の風をナラヒと云とあり、いなさは東國と同じけれど、ならひは違へり、東國に云ならひは乾風なり、〉
p.0254 舶趕風(しらはへ) 東坡集云、梅雨既過、颯然清風彌レ旬、歳々如レ此、潮人謂二之舶趕風一、此時海舶初廻、此風自二海上一與レ舶倶至爾、 按、舶者海中大船今市舶也、趕者追也、日本海上亦然、梅雨天霒中多有二西風一、〈俗云久呂波惠〉梅雨既過、天晴多有二東風一、〈俗云志良波惠〉舶趕風是乎、
p.0254 三月には西風久しくふく、是を三(サ)にしといふ、 七月十五日の前後は、かならず北風久しく吹、是を俗に盆北(ぼんきた)と云、 夏秋の頃東風久しくふく、是をひかたこちといふ、數十日吹事有、
p.0254 多湊(サハト)ぶり 佐渡の方言に、風は東より吹を山瀬といふ、辰のかたより吹を出しといふ、巳より吹をうちといふ、南をくだり、未より吹をわかさ、申より吹をひかた、西を眞西、戌より吹を下西、亥より吹をたば、北は正、丑より吹をあひ、寅より吹を中の手といふ、これをしる歌、
p.0255 卯は山瀬辰だし巳うち午くだり未わかさに申ひかた風 西眞西戌はしも西亥たば風北は眞丑あひ寅は中の手
p.0255 天皇上幸之時、黒日賣獻二御歌一曰、夜麻登幣邇(ヤマトベニ)、爾斯(ニシ/○○)布岐阿宜氐(フキアゲテ)、玖毛婆那禮(クモバナレ)、曾岐袁理登母(ソキヲリトモ)、和禮和須禮米夜(ワレワスレメヤ)、
p.0255 爾斯布岐阿宜氐は、西風吹令散而(ニシフキアゲテ)なり、西風を爾斯(ニシ)とのみ云は、〈風と云ことを省きたるにはあらず、此御代のころ、さまで省ける語はいまだあらじ、〉此歌に依て考るに、比牟加斯(ヒムカシ)、爾斯(ニシ)と云は、もと其方より吹風の名にて、比牟加斯は東風、爾斯は西風のことなりしが、轉て其吹方の名とはなれるなるべし、〈故古は方をば多く、東西とのみはいはず、東方西方といへり、是西風の吹來る方、東風の吹來る方と云意より云なれたることなるべし、然るを後には、方の名を本として思ふ故に、西風を爾斯とのみ云るは、風を略ける如聞ゆるなれど然らず、〉斯(シ)は風にて、風神を志那都比古(シナツヒコ)と申す志(シ)、又嵐飊(アラシツムジ)などの志(シ)も同じ、〈風は神の御息にて、息を志と云こと、師(賀茂眞淵)の冠辭考、志長鳥條に云れたるが如し、〉又暴風(ハヤチ)東風(コチ)などの知(チ)も通音にて同きなるべし、さて東風(ヒムカシ)西風(ニシ)と云名の意は、比牟加斯は日向風(ヒムカシ)なり、〈凡て東方を日向(ヒムカヒ)と云ること多し〉爾斯は詳ならねど、試に云ば和風(ナギシ)ならむか、〈那岐は爾と切る、又那伎を爾岐とも云、〉和(ナギ)とは天の霽たるを云、〈常には風の無きをのみ、和とは心得たれども、其のみならず、雨又雲霧などもなく晴たるをも云、古今集戀歌に、雲もなく和たる朝の我なれやいとはれてのみ云々とよめるは、甚晴といはむ料に、和たる朝と云り、是晴を和と云故なり、風のなきことは此歌に用なし、凡て那具とは、何にまれ靜まり收まるを云へば、雨雲霧などの晴るをも云べき理なり、〉西風は殊によく雲霧を吹晴らす物なれば和風(ナギシ)と云るか、さては次の句の、雲ばなれにも殊に由あり、〈さて比牟加斯爾斯を、もと風名とするにつきて、美那美伎多も共にもとは風名か、又是は本より方名か、いまだ考得ず、〉万葉十八〈二十六丁〉に、南吹(ミナミフキ)、雪消益而(ユキケマサリテ)、射水河(イミヅガハ)、これも南風を美那美(ミナミ)とのみよめり、〈是は此の歌に、西風を爾斯とのみあるを、風を略きたるものと心得て、其にならひて、美那美とはよめるか、はたそのかみ常に然云ることの有しか、さだかならず、若常に然云ことの有しならば、美那美と云も、もと風名にやありけむ、かにかくに定めがたし、伎多も此に准へて定むべし、〉
p.0255 羈旅作
天霧相(アマギリアイ)、日方(ヒカタ/○○)吹羅之(フクラシ)、水莖之(ミヅグキノ)、崗(ヲカノ)水門(ミナト)爾(ニ)、波立渡(ナミタチワタル)、
p.0256 詠レ花
春日(カスガ)野之(ノノ)、芽子落者(ハギシチリナバ)、朝東(アサコチノ/○○)、風(カゼ/○)爾副而(ニタグヒテ)、此間爾落來根(コヽニチリコ子)、
p.0256 入京漸近、悲情難レ撥、述懷一首、〈并一絶〉
伊美豆河波(イミヅガハ)、吉欲伎可布知爾(キヨキカフチニ)、伊泥多知底(イデタチテ)、和我多知彌禮婆(ワガタチミレバ)、安由能加是(アユノカゼ/○○○○○)、伊多久之布氣婆(イタクシフケバ)、美奈刀爾波(ミナトニハ)、之良奈美多可彌(シラナミタカミ)、〈◯中略〉 右大伴宿禰家持賜二掾大伴宿禰池主一〈四月卅日〉
東風(アユノカゼ)、〈越俗語、東風謂二之安由乃可是一也、〉伊多久布久良之(イタクフクラシ)、奈呉乃安麻能(ナコノアマノ)、都利須流乎夫禰(ツリスルヲフ子)、許藝可久流見由(コギカクルミユ)、〈◯三首略〉 右四首、天平二十年春正月二十九日大伴宿禰家持、
p.0256 行二英遠浦一之日作歌一首
安乎能宇良爾(アヲノウラニ)、餘須流之良奈美(ヨスルシラナミ)、伊夜末之爾(イヤマシニ)、多知之伎與世久(タチシキヨセク)、安由乎伊多美可聞(アユヲイタミカモ)、 右一首、大伴宿禰家持作レ之、
p.0256 すがはらのおとヾ右大臣の位にておはします、〈◯中略〉昌泰四年正月廿九日、太宰權帥になしたてまつりてながされ給ふ、〈◯中略〉この御子どもをおなじかたにつかはさヾりけり、かた〴〵いとかなしくおぼして、御まへの梅を御らんじて、
こち(○○)ふかばにほひおこせよむめのはなあるじなしとて春なわすれそ
p.0256 つくしよりのぼりけるみちに、さやかた山といふ所をすぐとてよみ侍ける、 右大辨通俊
あなしふくせとの鹽あひに舟出してはやくぞ過るさやかた山を
p.0256 一日百首 海路
兼てしりぬあなしの風を思ふより心つくしの波路なりとは
p.0257 弘安四年夏比、蒙古、大唐、高麗以下國々兵共ヲ驅具テ、三千餘艘、大船數千萬乘列テ來ケル、〈◯中略〉去程十日餘比、西國早馬著テ申、去七月晦日夜半ヨリ、乾風オビタヾシク吹テ、閏七月一日、賊船悉漂蕩シテ海ニ沈ヌ、
p.0257 風雨類 韶(シヨウ)風〈春風〉 東風〈同〉 黄雀(クワウシヤク)〈同〉 薫(クン)風〈夏〉 南風〈同〉 凉風〈同〉 西風〈秋〉 金風〈同〉 野分〈同〉 朔(サク)風〈冬〉 北風〈同〉 木枯(キガラシ)
p.0257 風かぜ 畿内及中國の船人のことばには、西北の風をあなぜ(○○○)と稱す、二月の風ををに北(○○○)といふ、三月の風をへばりごち(○○○○○)と云、四月未の方より吹風をあぶらまぜ(○○○○○)と云、五月の南風をあらはへ(○○○○)といふ、六月未の風をしらはへ(○○○○)といふ、土用中の北風を土用あい(○○○○)といふ、七月未の風をおくりまぜ(○○○○○)と云、八月の風をあをぎた(○○○○)といふ、九月の風をはま西(○○○)といふ、十月の風をほしの入こち(○○○○○○)といふ、十一月十二月の頃吹風を大西(○○)と云、〈◯中略〉 伊勢國鳥羽或は伊豆國の船詞に、二月十五日前後に一七日ほど、いかにもやはらかに吹く風をねはん西風(○○○○○)といふ、〈但し年毎に吹にもあらず〉三月土用少し前より南風吹あぶらまじ(○○○○○)といふ、四月よき日和にて南風吹おほせ(○○○)といふ、五月梅雨に入て吹南風をくろはへ(○○○○)といふ、梅雨半に吹風をあらはへ(○○○○)と云、梅雨晴る頃より吹南風をしらはへ(○○○○)と云、六月土用半過より、北東の風一七日程吹年有、ごさい(○○○)と云、〈六月十六七日伊勢の祭禮有、出家も參事也、故に御祭といふ也、〉六月中旬東風吹年あり、ぼんごち(○○○○)と云、それ過てより南風吹をくれまじ(○○○○)といふ、八月の風をあをぎた(○○○○)と云、〈はじめは雨にそひて吹、後はよくはれて北風吹なり、〉又雁わたし(○○○○)とも云、十月中旬に吹く北東の風を星の出入(○○○○)といふ、〈夜明にすはる星西に入時吹也〉又大風には二月吹を貝よせ(○○○)と云、〈正月の節より四十八夜前後の西風也〉三四月東南の風吹をなたねづゆ(○○○○○)と云、四五月吹東南の風をたけのこづゆ(○○○○○○)といふ、八月に吹風を野分(○○)といふ、〈正月の節より二百十日め前後にふくなり〉十月西風吹神わたし(○○○○)と云、〈霜月の荒(○)といふは、廿三日より晦日までの間に荒るとしあり、〉近江國湖水にて風の定らぬ事を論義(○○)といふ、日和風をといて(○○○)と云、湖上の風を根わたし(○○○○)と云、秋冬の風を日あらし(○○○○)と云、春
p.0258 夏の風をやませ風(○○○○)、又ながせ風(○○○○)、又せた風(○○○)、播磨邊又四國にて、春南風にて雨を催す風をやうず(○○○)と云、越後にて東風をだし(○○)といふ、西北の風をしもにし(○○○○)といふ、西南の風をひかた(○○○)といふ、
p.0258 (コガラシ)〈風過二木上一曰レ 、字彙疾風、〉 木枯(同)〈本朝俗謂二冬時疾風一爲二木枯一、〉 凩(同)〈本朝俗字〉
p.0258 こがらしは令二木枯一の意なり、からすとは葉を吹きしをりて、枯木のごとくなすなり、六帖に、木がらしの音にて秋は過ぎにしを今も梢にたえずふくかな、とよめる歌は、秋の風をこがらしといふよしによめり、〈◯中略〉野宮歌合に、〈◯中略〉正通は木がらしとは冬の風をこそいへ、此頃の風をいかヾ、冬のあらしを秋の初風といへるにやあらんと難じけれど、猶負にさだめらる、されど冬の風をこそいへといへるをば、然らずともいへる事はなければ、そのころも大かたは今のごとく冬の物としけるにこそ、
p.0258 こがらし 木嵐の義なるべし、木枯にはあらじ、嵐をからしとよむは音便也、五十嵐をいがらしとよむも同じ、字書に風過二木上一曰レ とみゆ、檒も同じ、凩は倭の俗字也、歌に冬によめり、又秋にもよめる事は、野宮歌合の順の判に、六帖の歌を引て證せり、
p.0258 むしのね 但馬
淺茅生の露吹むすぶ木枯にみだれてもなくむしの聲哉〈◯中略〉 此蟲のねの歌、露吹むすぶ木枯のなどいへるわたり、いひなれたりなどさだむるほどに、正通が申やう、木枯とは冬のあらしをこそいへ、この比の風をいはヾ、雨をば時雨とやいふべからんといふを、きこしめして、みすのうちにこれかれかヽる事をいふことをこそは、ためしにひかめとて、
木枯の秋のはつ風ふかぬまになどか雲ゐにかりのおとせぬ 又p.0259 我門のわさ田の稻もからなくにまだき吹ぬる木がらしの風 などいへるは、冬の嵐を秋の初風といへるにやあらん、
p.0259 堀河院の御時、百首の歌奉りける時よめる、 藤原仲實朝臣
山ざとはさびしかりけり木枯の吹ゆふ暮のひぐらしのこゑ
p.0259 飇飆 〈四形作俾遙反、平、暴風、豆牟志加世、〉 颺〈余尚余章二反、比呂己留、又豆牟自加世、〉 夙〈昔陸反、且也、飄颺也、豆牟自加是又阿志太、〉 〈重音、豆牟自加是、〉
p.0259 飇飆〈上俗下正〉
p.0259 飊 文選詩云、回飊卷二高樹一、兼名苑注云、飊暴風從レ下而上也、音焱、〈和名豆無之加世〉
p.0259 按、飊正作レ飆、説文、飆从レ風猋聲是也、俗作レ飊、見二廣韻一、飆猋並甫遙切、焱以瞻切、其音廻別、不レ得二以レ焱音一レ飊、作レ猋爲レ是、然段玉裁曰、古書焱猋二字多互譌、如二曹植七啓、風厲猋擧一、當レ作二焱擧一、班固東都賦、焱々炎々、當レ作二猋々炎々一、王逸曰、猋去疾貌也、李善幾不レ別二二字一、然則源君、或以レ焱音レ飊、山田本作レ猋者、恐係二後人校改一、〈◯中略〉按、爾雅、扶搖謂二之猋一、郭璞注、猋暴風從レ下上、兼名苑注蓋本レ此、又按、説文、飆扶搖風也、莊子搏二扶搖一而上、釋文引二司馬彪注一云、上行風謂二之扶搖一、是知飆謂二風從レ下吹至一レ上也、又依二牛馬體一引二爾雅注一、回毛一名旋毛、訓二都无之一、則都无之加世之爲二回旋風一可レ知也、文選廻飆訓二豆牟之加世一者是也、又爾雅、廻風爲レ飄、説文、飄回風也、玉篇、飄旋風也、日本紀、萬葉集、飄訓二川牟之加世一亦是也、單飆字不レ得レ訓二都牟之加世一、源君引二兼名苑注一者、以解二釋文選廻飆之飆字一耳、
p.0259 飍〈香幽反、ツシカセ、〉 飄〈匹遥反、ツムシカセ、〉 颺〈音羊、ツムシカセ、〉 飊〈音雹、ツシカセ、〉 夙〈今正、音宿、ツムシカセ、〉 〈ツシカセ〉 〈ツムシ風〉
p.0259 飈(ツチカゼ) 〈三字義同〉
p.0259 つむじ 和名抄に廻毛をよめり、關東にてつじ風をいふ、古語也、神名式に出雲
p.0260 國意宇郡波夜都武自和氣神社見えたり、万葉に飄の字かくよむを正義とす、
p.0260 天人のヽ給ふに從ひて、花園より西をさしてゆけば、おほいなる川あり、その河より孔雀いで來て、その川をわたしつ、琴をば例のつじ風(○○○)おくる、
p.0260 九年〈◯仲哀〉三月戊子、皇后〈◯神功〉欲レ擊二熊鷲一、而自二橿日宮一遷二于松岟宮一、時飄風(ツムシカセ)忽起、御笠墮レ風、故時人號二其處一曰二御笠一也、
p.0260 神龜四年五月辛卯、從二楯波池一飄風忽來、吹二折南苑樹二株一、即化成レ雉、
p.0260 天平勝寶五年三月庚午、於二東大寺一設二百高座一講二仁王經一、是日飄風起説經不レ竟、於レ是以二四月九日一講説、飄風亦發、
p.0260 嘉祥元年七月甲子、有二飊風一、起レ自二春興殿庭一、轉至二紫宸殿東北頭一、更經二清凉殿東一、便向二右近衞陣一、簸二揚炬屋一離レ地數尺、到二版位前一、披靡悉摧、
p.0260 貞觀二年四月十一日辛卯、廻飃起二外記候廳前一、旋轉西行、小虫無二萬數一、飛二散其中一、
p.0260 貞觀十八年五月十二日戊子、飈風起二紫宸殿前一、轉出二修明門一、
p.0260 昌泰二年五月廿二日甲寅、未時飄風吹、傾二大極殿高御座於巽方一、又中務省正廳同傾、摠京中人屋不レ破稀焉、
p.0260 承平三年七月十三日丁亥、飈風吹二損右近陣火炬屋、并春興校書殿檜皮一、寮占二乾坤方兵革之由一、仍山陰山陽太宰府以二官符一、
p.0260 鳥羽僧正は、近き世にはならびなき繪書也、法勝寺金堂の扉の繪書たる人也、いつの程の事にか、供米の不法の事有ける時、繪にかヽれける、辻風(○○)の吹たるに、米の俵をおほく吹上たるが、塵灰のごとくに空にあがるを、大童子法師原はしりより、取とヾめんとしたるを、さまざまにおもしろう筆をふるひてかヽれけるを、〈◯下略〉
p.0261 安元三年〈◯治承元年〉四月十八日丁亥、未刻辻風、人屋少々吹破、自二神泉池一如レ筵者出上、順風飄飄、其色墨々、無二落墮所一、遂差二辰巳方一飛去云々、即入レ雲了、閭巷云、龍王上レ天也、去長承之比有二此事一、天下異也云々、
p.0261 旋風事
六月〈◯治承三年〉十四日旋風夥吹テ、人屋多ク顚倒ス、風ハ中御門京極ノ邊ヨリ起テ、坤ノ方ヘ吹以テ行、平門棟門ナドヲ吹拂テ、四五町十町持行テ、抛ナドシケル、上ハ桁梁垂木コマイナドハ、虚空ニ散在シテ、此彼ニ落ケルニ、人馬六畜多ク被二打殺一ケリ、屋舍ノ破損ハイカヾセン、命ヲ失フ人是多シ、其外資財雜具、七珍萬寶ノ散失スルコト數ヲ知ズ、コレ徒事ニ非ズトテ御占アリ、百日ノ中ノ、大葬、白衣ノ怪異、又天子ノ御愼、殊ニ重祿大臣ノ愼、別シテハ天下大ニ亂逆シ、佛法王法共ニ傾、兵革打續、飢饉疫癘ノ兆也ト、神祇官、并陰陽寮共ニ占申ケリ、係ケレバ、去ニテハ我國今ハカウニコソト上下歎アヘリ、〈◯平家物語爲二五月十二日事一〉
p.0261 治承四年四月廿九日辛亥、今日申刻上邊、〈三四條邊云々〉廻飄忽起、發レ屋折レ木、人家多以吹損云々、又同時雷鳴、七條高倉邊落云々、〈◯中略〉又白川邊雹降、又西山方同然云々、 五月四日乙卯、陰陽大允安倍泰茂來、行二百性〈◯性恐怪誤〉祭一、〈於二南庭一行レ之〉此次去廿九日飄風事持二占文一、依レ爲二希代事一、續二加之一、兵有レ敗之占、尤可レ恐事歟、
p.0261 治承四年卯月廿九日、中御門京極の程より、大なる辻風起りて、六條わたりまで、いかめしくふきける事侍き、三四町をかけて吹まはるまヽに、其中にこもれる家ども、大なるも小さきも、一として破れざるはなし、さながらひらにたふれたるもあり、けたはしらばかり殘れるもあり、又門の上を吹はなちて、四五町が程にをき、又垣をふきはらひて、隣とひとつになせり、况や家のうちの寶、數をつくして空にあがり、檜皮葺、板の類ひ、冬の木のはの風に亂るヽが如し、塵を烟の
p.0262 ごとくふきたてたれば、すべて目も見えず、おびたヾしくなりとよむ音に、物いふ聲も聞えず、彼地獄の業風なりとも、かばかりにこそはとぞ覺ゆる、家の損亡するのみならず、是をとりつくろふ間に、身をそこなひて、かたわづけるもの數をしらず、此風ひつじさるの方に移り行て、多くの人の歎をなせり、辻風は常に吹ものなれど、かヽる事やはある、只事にあらず、さるべき物のさとしかなとぞ疑ひ侍りし、
p.0262 土風に江戸町さはぐ事
見しは昔、江戸に土風たえず吹たり、されば龍吟ずれば雲おこり、虎うそぶけば風さわぐ、かヽるためしの候ひしに、江戸に土風吹は町さわがしかりけり、此風を他國にては旋風といふ、此字めぐる風と讀たり、又つむじの毛のごとく、土をまひて吹ければ、つむじ風共俗にいふ、〈◯中略〉扨又此風、土をうがつ故にや、關東にては土くじり(○○○○)といふ、萬葉に六月の土さへさけて照日と讀り、土さくる共あり、土くじりとはおかしき名なり、取分江戸近邊に吹風也、〈◯中略〉藻鹽草に、風の異名さまざま記せり、若此内に土くじりと云風や有とよみて見れば、つじといふ風の名あり、是は谷の河風なりと注せる、かなに書て正字しれず、〈◯中略〉嵐の異名また多し、此内にも土くじりといふ風はなし、然に江戸あたりに吹土くじりといふ風は、雪の氣色もなく音もせずして、俄に地より吹立、土をまきつヽんで空へ吹上れば、たヾくろけむりのごとし、皆人是を見て、すは火事こそ出來たれ、やけ立烟を見よとさはぎてんたうする、町の御掟の事なれば、家々より手桶に水を入、引さげ引さげ持行事は、先立てはたじるしを持、火本は爰やかしこと、はしりまはる内に、土けぶりはきえて、そらごとなりといへば、さげたる桶の手持もなく、はたをまひてかへりしは、見るもおかしかりき、
p.0262 登龍 越中越後の海中、夏の日龍登るといふ甚多し、黒雲一村虚空より下り來れ
p.0263 ば、海中の潮水其雲に乘じ逆卷のぼり、黒雲を又くはしく見れば、龍の形見ゆることなり、尾頭などもたしかに見て、登潮は瀧の逆に懸るが如し、又岩瀬と云所、宮崎といふ所まで、十餘里の間に竟りて、黒龍登れるを見しと云、又鐵脚道人退冥の手代、越後の名立の沖を船にて通りし時、海底に大龍の蟠れるを見しといふ、蟠龍を見る事は、此手代に限らず、彼海底には折々ある事となり、是等は皆慥なる物語なりき、
p.0263 不忍池より天明年間龍卷ありけり、佐渡越後越中の海中には、夏の日龍騰る事度々有と、其節は虚空より黒雲下り來れば、海中の潮水、瀧を逆に掛しごとく逆卷のぼり、黒雲中に入る、其雲の中に龍の形の如きもの見ゆると傳聞り、其如く不忍池より黒雲逆卷のぼり龍騰りしと見へ、近邊家屋を損し、火の見櫓など倒せしなり、その次第を聞に、北海にて龍騰るの形勢に、少しも替らず同様なり、是をもて見れば、小しき池底にも龍蟄伏し、池水時氣に乘じて發達し、上よりは應じて雲下り、上下相感動し龍昇るものなるべし、
p.0263 先年龍マキトテ暴風雨アリシトキ、諸船コノ難ニ遭モノ多シ、或老侯家根舟ニテ大川ニ遊居シガ、白鬚祠ノ邊トカ此風ニ遭タリ、川水スサマジク卷カヘリ、其舟ヲ空中ニマキ揚グルコト一丈餘ニヤアリケント云、其時舟中ニ侯ノ妾モアリシガ、心カシコキ者ニテ、ワガ腰帶ヲ解キ、侯ヲ舟ノ柱ニ結ツケタリ、ヤガテ舟ハ一ト落シニ、川中ニ墜タルニ侯ハ何事モナカリシガ、髮ノ元結切レタリト云、同舟ノ人ニ溺者モアリト聞ケリ、
p.0263 つむじといふ風は、春のころは風地を吹をもて、土埃を吹き卷きぬ、長閑なる日などに、ふと風いでヽ渦を卷あぐる也、辻風なるべし、また西國方に風鎌といふものありて、人の肌へをそがるヽなり、そぐ時に傷むことなく、しばらくして破血して、その傷堪がたし、このことをふせぐには、古き暦をふところにして居るときは、そのうれひなしと、ところの者は申侍りぬ、
p.0264 嵐 孫愐切韻云、嵐山下出風也、盧含反、〈和名阿良之〉
p.0264 萬葉集用二荒風字一、按、阿良、暴疾之義、之、風之古名、古事記、風神志那都比古神、神代紀、級長戸邊命、亦曰二級長津彦命一、是風神、又大祓詞、科戸之風、皆是、然則阿良之、猶レ言二暴疾風一也、〈◯中略〉唐書云、孫愐唐韻五卷、今無二傳本一、按、宋景徳四年牒云、以二舊本偏旁差僞、傳寫漏落、注解未一レ備、乃命刊正、大中祥符元年牒云、書成、改爲二大宋重修廣韻一、二牒並載在二廣韻卷首一、所レ謂舊本、即孫愐切韻、則知廣韻重二修孫氏切韻一者、本書所レ引孫韻、多與二廣韻一合、故今皆取二廣韻一以校レ之、而廣韻嵐字注云、山氣與レ此不レ同、按、玉篇、嵐大風也、又文選、謝靈運晩出二西射堂一詩注引二埤蒼一、慧琳一切經音義、引二古今正字一並云、嵐山風也、與二此所一レ引義合、廣韻訓二山氣一、恐非二孫氏之舊一、又按、慧琳音義云、毘藍風、正言二吠濫婆一、吠者散也、濫婆者所レ至也、言此風所レ至之處、悉皆散壞也、又云、毘不也、藍婆遲也、謂二此風行最極迅急一、舊翻爲二迅猛風一是也、慧琳又云、吠嵐婆、力含反、案、舊經論中、或作二毘藍婆一、或言二旋藍婆一、又作二鞞嵐婆一、或作二隨藍婆一、皆梵音之楚夏耳、依レ此攷レ之、蓋漢人依二梵言一、謂二迅猛風一爲二毘藍婆一、又厭二其冗長一、省云二毘藍一、再省云レ藍、以三漢無二其字一、會レ意從二山風一作二嵐字一、音力含反、爲二迅猛風名一也、猶下漢人省二梵語磨羅一云レ磨、後從レ鬼諧レ聲作二魔字一、又省二梵語率都波一云二偸婆一、再省云レ偸、遂從レ土諧レ聲作二塔字一、又省二梵語跋陀羅一云レ跋、後從レ金諧レ聲作二鈸字一之類上也、故漢魏書無二嵐字一、説文亦不レ載二是字一也、清孫星衍輩、以爲二説文所レ載 字省一者、未レ攷二之梵語一也、
p.0264 嵐〈アラシ音婪〉
p.0264 嵐(アラシ)〈今按、字書註皆曰山氣、倭名抄云、孫愐云、嵐山下出風也、今考二字書一、無下爲二山下出風一之訓上、按、選詩草敵二虚嵐一翠、杜詩煙嵐長似レ雨、坡詩翠嵐樓影孤、山谷詩松風起二晩嵐一、羅豫章詩山染二嵐光一帶レ日黄、皆是爲二山氣一、惟文選謝靈運詩云、夕曛嵐氣陰、註翰曰山風也、〉
p.0264 嵐 山風はあらき物也、又草木をふきあらす也、文屋康秀の歌に、吹からに秋の草木のしほるればむべ山風をあらしといふらん、といへるがごとし、
p.0265 あらしと、おろしと同じ、萬葉集に下風と書きて、あらしとも、おろしともよめり、眞(頭書)淵云、嵐は和名に山下出風と書ける意にて、萬葉山下風と書ききたれるを、又漸に略して、山下とも、下風とも書きしなり、然れば皆あらしとよむべきを、やまおろしなどよめるはいかにぞや、三吉のヽ山下風のさむけくにと有るも、山のあらしとよむべきなり、今山下風とよめるはわろし、
p.0265 風カゼ〈◯中略〉 暴風をアラシといふは、暴(アラシ)の義也、我國の俗、嵐の字を讀てアラシといふ、此字もと山氣の蒸潤をいひて、迅猛の風をいふ事、もとこれ梵語に出づ、
p.0265 あらし 嵐をよむは、しはちと韻通ず、暴風(アラチ)の義、山城のあらし山、越前のあらち山、もとは同語なるべしといへり、萬葉集に下風をあらしとよめるは、おろしと義同じ、孫愐云、嵐山下出風也、よて山下ともかけり、また荒風冬風なども書たり、飄をもよめり、玉篇に大風也と注せる意也、うつぼ物語にあらしの風とも見えたり、
p.0265 大行天皇幸二于吉野宮一時歌
見吉野乃(ミヨシノノ)、山下風之(ヤマノアラシノ)、寒久爾(サムケクニ)、爲當也今夜毛(ハタヤコヨヒモ)、我獨宿牟(ワレヒトリ子ム)、 右一首、或云天皇御製歌、
p.0265 ゆふ暮にうちむれておはしたれば、山ごもりよろこびかしこまりきこえ給ことかぎりなし、〈◯中略〉大將も、 もヽしきのむかしのともをみにくればあらしの風もにしきをぞしく
p.0265 是貞のみこの家の歌合のうた 文屋やすひで
吹からに秋の草木のしほるればうべ山かぜをあらしといふらん
p.0265 暴風 史記云、暴風雷雨、〈漢語鈔云、八夜知、又乃和木乃加世、〉
p.0266 按、説文、曓疾有レ所レ趣也、 晞也、二字不レ同、 隷作レ暴、後借レ暴爲二曓疾之曓一、二字皆作レ暴、遂混同無レ別、故 晞之暴、俗從レ日作レ曝、以別二曓疾之暴一、〈◯中略〉按、知之同韻、波夜知之知、與二阿良之之之一同、謂レ風也、波夜知、速風之義、謂二倐忽吹起之風一、又能和岐、野別之義、謂下秋冬之際、風吹二排野草一者上、然則暴風可レ訓二能和岐乃加世一、不レ得レ訓二波夜知一、神代紀疾風迅風訓二八也千一、近レ是、又按、嶺表録異云、南海秋夏間、或雲物慘然、則其暈如レ虹、長六七尺、比候則颶風必發、故呼爲二颶母一、舟人常以爲レ候、豫爲レ備レ之、又云、惡風謂二之颶一、壞レ屋折レ樹、不レ足レ喩也、甚則吹二屋瓦一如二飛蝶一、或二三年不二一風一、或一年兩三風、韓愈詩、颶起最可レ畏、訇哮簸二陵丘一、是亦波夜知之類也、
p.0266 暴風〈ハヤチ又ノワキノカセ〉 〈音宏、 、䫻、ハヤチ、ノワキ、〉
p.0266 風カゼ〈◯中略〉 疾風をハヤチといふは、疾速の義なりしかば、舊事紀に速飄疾風等の字を用ひて、ハヤチとは讀れし也、〈今俗にハヤテといふは、其語の轉ぜしなり、◯中略〉 倭名鈔には、〈◯中略〉暴風の字をしるし、漢語抄を引て、ハヤチ又ノワキノカゼと註せり、ノワキといふは、ニハカの轉にて、即暴の義なり、後俗野分の字を用ひしは、暴風の山より下るをば、ヤマオロシといひ、野を分るをばノワキといふに似たり、
p.0266 のわきのかぜ 和名抄に暴風をよめり、野を吹分るの義也、 颻をも訓ぜり、野わきだつともいへり、八月比にある事也、山おろしにむかへて看べし、されば禮月令に、仲秋疾風至といひ、孟冬行二夏令一、則國多二暴風一と見えたれば、疾風を訓ずべしといへり、
p.0266 天稚彦之妻、下照姫、哭泣悲哀、聲達二于天一、是時天國玉聞二其哭聲一、則知二夫天稚彦已死一、乃遣二疾風(ハヤチヲ)一、擧レ尸致レ天、便造二喪屋一而殯之、
p.0266 一書曰、〈◯中略〉海神授二鈎彦火火出見尊一、因教之曰、還二兄鈎一時、天孫則當レ言、汝生子八十連屬之裏貧鈎狹狹貧鈎、言訖三下唾與レ之、又兄入レ海鈎時、天孫宜在二海濱一、以作二風招一、風招即嘯也、如レ此則
p.0267 吾起二瀛風邊風一、以二奔波一溺惱、火折尊歸來、具遵二神教一、至二乃兄鈎之日一、弟居レ濱而嘯之時、迅風忽起、兄則溺苦、無レ由レ可レ生、
p.0267 戊午年六月丁巳、越二狹野一到二熊野神邑一、且登二天磐盾一、仍引レ軍漸進、海中卒遇二暴風(アカラシマカゼ)一、皇舟漂蕩、
p.0267 大友の御ゆきの大納言は、〈◯中略〉遠くて筑紫のかたの海に漕出たまひぬ、いかヾしけむはやき風吹て、世界くらがりて、船を吹もてありく、いづれのかたともしらず、舟を海中にまかり入ぬべく吹まはして、波は船に打かけつヽまき入、神はおちかヽるやうにひらめきかヽるに、〈◯中略〉かぢ取答て申、神ならねば何わざをかつかふまつらむ、風吹波はげしけれども、神さへいたヾきにおちかヽるやうなるは、辰を殺さんと求め給ひ候へばかくある也、はやても龍のふかするなり、はや神にいのり給へといふ、
p.0267 野分例のとしよりもおどろ〳〵しく、空の色かはりてふきいづ、花どものしほるヽを、いとさしも思ひしまぬ人だに、あなわりなと思さはがるヽを、まして草むらの露の玉のをみだるヽまヽに、御こヽろまどひもしぬべくおぼしたり、おほふばかりの袖は、あきの空にしもこそほしげなりけれ、くれ行まヽに物も見えず、吹まよはしていとむくつけヽれば、みかうしなど參りぬるに、うしろめたくいみじと、花の上を覺し歎く、〈◯中略〉人々まいりて、いといかめしう吹ぬべき風には侍り、うしとらの方より吹侍れば、このおまへはのどけき也、むまばのおとヾみなみのつり殿などは、あやうげになんとて、とかくことをこなひのヽしる、中將はいづこより物しつるぞ、三條の宮に侍りつるを、風いたく吹ぬべしと、人々の申つれば、おぼつかなさになん參りて侍つる、かしこにはまして、心ぼそく、かぜの音をも今はかへりて、わかきこのやうにをぢ給めれば、こヽろぐるしきに、まかで侍なんと申給へば、げにはやまかで給ね、おいもていきて、また
p.0268 わかうなること、世にあるまじきことなれど、げにさのみこそあれなど哀がり聞え給て、かうさはがしげにはべめるを、このあそんさぶらへばと、思たまへゆづりてなど、御せうそこ聞え給、みちすがらいりもみするかぜなれど、うるはしく物し給ふ君にて、三條の宮と、六條院とに參りて、御らんぜられ給はぬ日なし、うちの御物いみなどに、えさらずこもり給べき日よりほかは、いそがしきおほやけごと、節會などのいとまいるべく、ことしげきにあはせても、まづこの院にまいり、みやよりぞいで給ければ、ましてけふかヽる空のけしきにより、風のさきにあくがれありき給もあはれにみゆ、みやいとうれしくたのもしとまちうけ給て、こヽらのよはひに、まだかくさはがしき野分にこそあはざりつれと、たヾわなヽきにわなヽき給、おほきなる木のゑだなどのをるヽおともいとうたてあり、おとヾのかはらさへのこるまじう吹ちらすに、〈◯下略〉
p.0268 野分の又の日こそいみじう哀におぼゆれ、たてじとみすいがいなどのふしなみたるに、せんざいども心ぐるしげ也、おほきなる木どもたふれ、枝など吹をられたるだにをしきに、萩女郞花などのうへによろぼひはひふせる、いとおもはず也、かうしのつぼなどに、さときはをことさらにしたらんやうに、こま〴〵と吹入たるこそ、あらかりつる風のしわざともおぼえね、いとこききぬのうはぐもりたるに、くちばのおり物、うす物などのこうちききて、まことしくきよげなる人の、よるは風のさはぎに寢覺つれば、久しうねおきたるまヽに、鏡うち見て、もやよりすこしゐざり出たる、髮は風に吹まよはされてすこしうちふくだみたるが、かたにかヽりたるほど、まことにめでたし、物あはれなるけしき見るほどに、十七八ばかりにやあらん、ちいさふはあらねど、わざとおとななどは見えぬが、すヾしのひとへのいみじうほころびたる、花もかへりぬれなどしたる、うすいろのとのゐ物をきて、かみはをばなのやうなるそぎすゑも、たけばかりはきぬのすそにはづれて、袴のみあざやかにて、そばより見ゆる、わらはべのわかき人のねごめに、
p.0269 吹をられたるせんざいなどを、とりあつめおこしたてなどするを、うらやましげにおしはかりて、つきそひたるうしろもをかし、
p.0269 名おそろしき物 はやち
p.0269 野わきいみじうしたるひ、ゆるぎのもりはいかヾと、人のとひたりしに、
ありわぶる身のほどよりは野わきする淺ちが原の露はのどけし 同日 はやちふくしげみののらの草なれやおきてはみだるふせばかたよる
p.0269 百首歌奉ける時、秋歌とてよめる、 藤原季通朝臣
野分するのべのけしきを見渡せば心なき人あらじとぞ思ふ
p.0269 貞應三年百首風、澳のはやて、 爲家
波しらむ澳のはやてやつよからし生田が磯によするともぶね
p.0269 大風 漢書云、大風吹兮雲飛揚、〈此間云、於保加世、〉
p.0269 大風〈オホカセ〉 䫻〈雲物反、オホカセ、〉 䬑〈音謂、オホカセ、〉
p.0269 十年七月乙丑、大風之、折レ木發レ屋、
p.0269 九年八月丙辰、大風、折レ木破レ屋、
p.0269 大寶元年八月甲寅、播磨、淡路、紀伊三國言、大風潮漲、田園損傷、遣レ使巡二監農桑一、存二問百姓一、
p.0269 慶雲三年七月己巳、太宰府言、所部九國三島、亢旱大風、拔レ樹損レ稼、遣レ使巡省、因免二被レ災尤甚者調役一、
p.0269 和銅六年十一月辛酉、伊賀、伊勢、尾張、參河、出羽等國言、大風傷二秋稼一、調庸並免、但已輸
p.0270 者以レ税給レ之、 七年十月乙卯朔、美濃、武藏、下野、伯耆、播磨、伊豫六國、大風發レ屋、仍免二當年租調一、
p.0270 神龜四年十月庚午、安房國言、大風拔レ木發レ屋、損二破秋稼一、〈◯中略〉加二賑恤一、
p.0270 天平十五年八月乙亥、上總國言、去七月大風雨數箇日、雜木長三四丈已下、二三尺已上一万五千許株、漂二著部内海濱一也、
p.0270 天平十八年十月癸丑、日向國風雨共發、養蠶損傷、仍免二調庸一、
p.0270 天平勝寶五年九月壬寅、攝津國御津村、南風大吹、潮水暴溢、壞二損廬舍一百十餘區一、漂二沒百姓五百六十餘人一、並加二賑恤一、仍追二海濱居民一、遷二置於京中空地一、 十二月丁丑、免二攝津國遭レ潮諸郡今年田租一、 六年十二月乙卯、是年八月、風水、畿内及諸國一十、百姓産業損傷、並加二賑恤一、
p.0270 天平寶字三年九月丙子、太宰府言、去八月廿九日南風大吹、壞二官舍及百姓廬舍一、 十一月甲子、詔曰、如レ聞去十月中、大風百姓廬舍並被二破壞一、是以爲レ修二其舍一、免二今年田租一、 丙寅、詔、賜下大保已下至二于百官官人一絁綿上、各有レ差、以下被二風害一屋舍毀壞上也、
p.0270 天平神護二年六月丁亥、日向、大隅、薩摩三國大風、桑麻損盡、詔、勿レ收二柵戸調庸一、
p.0270 寶龜元年正月甲申、大宰管内大風、壞二官舍并百姓廬舍一千卅餘口一、賑二給被レ損百姓一、
p.0270 寶龜三年八月丙寅、是月自二朔日一雨、加以二大風一、河内國茨田堤六處、澁川堤十一處、志紀郡五處並決、 十一月丁亥、去八月大風、産業損壞、率土百姓被レ害者衆、詔免二京畿七道田租一、
p.0270 寶龜六年八月癸未、伊勢、尾張、美濃三國言、異常風雨漂二沒百姓三百餘人、馬牛千餘一、及壞二國分并諸寺塔十九一、其官私廬舍不レ可二勝數一、遣レ使修二理伊勢齋宮一、又分レ頭案二撿諸國被レ害百姓一、 辛卯、大祓、以二伊勢美濃等國風雨之災一也、
p.0270 寶龜九年三月己酉、土佐國言、去年七月、風雨大切、四郡百姓産業損傷、加以二人畜流亡、廬舍破壞一、詔加二賑給一焉、
p.0271 延暦四年十月壬申、遠江、下總、常陸、能登等國、去七八月大風、五穀損傷、百姓飢饉、並遣レ使賑二給之一、
p.0271 弘仁二年九月癸卯、大風、破二京中廬舍一、 甲辰、被二風損一者、給米有レ差、
p.0271 弘仁七年八月己酉、夜大風、倒二羅城門一、京中諸國亦多被レ害、賜二諸衞見侍者祿一、
p.0271 弘仁七年九月戊辰、奉二幣於伊勢大神宮一、去八月十六日夜、爲レ停二大風一所レ禱也、
p.0271 承和元年八月己亥、暴風大雨相并、折二拔樹木一、壞二民廬舍一、由レ是走二幣畿内名神一祈レ止二風雨一、 庚子、夜裏風雨猶切、達レ旦不レ罷、城中人家往往倒壞、
p.0271 承和十四年六月丙申、大風發レ屋折レ木、雨亦降、入レ夜彌猛、 丁酉、遣レ使奉二幣於松尾大神一、祈レ之、
p.0271 天安二年六月己酉、大宰府言、去五月一日大風暴雨、官舍悉破、青苗【G木・亐】失、九國二島盡被レ傷、
p.0271 貞觀十一年七月十四日庚午、風雨、是日肥後國大風雨、飛レ瓦拔レ樹、官舍民居顚倒者多、人畜壓死不レ可二勝計一、潮水漲溢漂二沒六郡一、水退之後捜摭、官物十失二五六一焉、自レ海至レ山、其間田園數百里陥而爲レ海、 十月廿三日丁未、是日勅曰、妖不二自作一、其來有レ由、靈譴不レ虚、必應二粃政一、如聞肥後國迅雨成レ暴、坎徳爲レ災、田園以レ之淹傷、里落由レ其蕩盡、夫一物失レ所、思切二納隍一、千里分憂、寄二皈牧宰一、疑是皇猷猶鬱、吏化乖レ宜、方失二甿心一致二此變異一歟、昔周郊偃レ苗、感レ罪レ己而弭レ患、漢朝壞レ室、據レ修レ徳以攘レ災、前事不レ忘取レ鑒在レ此、宜下施以二徳政一救中彼凋殘上、令二太宰府一、其被二災害一尤甚者、以二遠年稻穀四千斛一周二給之一、勉加二存恤一、勿レ令レ失レ職、又壞垣毀屋之下、所レ有殘屍亂骸早加二收埋一、不レ令二曝露一、
p.0271 貞觀十六年八月廿四日庚辰、大風雨、折レ樹發レ屋紫宸殿前櫻、東宮紅梅、侍從局大梨等樹木、有レ名皆吹倒、内外官舍人民居廬罕レ有二全者一、
p.0272 仁和三年八月廿日辛酉、自レ卯及レ酉大風雨、拔レ樹發レ屋、東西京中居人廬舍顚倒甚多、被二壓死一者衆矣、内膳司檜皮葺屋顚仆、采女一人宿二其中一、邂逅免レ害、時人奇レ之、
p.0272 延喜十三年八月朔日、大風拔レ木發レ屋、 五日甲戌、依二仁壽二年閏八月十二日例一、計二遇レ害者一、凡 千五百十七烟、賜レ物有レ差、
p.0272 延喜十三年八月一日、大風猛烈、公私屋舍多顚倒、 二日、今日有レ勅、遣二使左右京一令レ撿二被損風害一、爲二賑給一、 九月九日、宿職依レ有二風損一停二止節事一、但侍從以上菊酒如レ例、今日以前豫申二損田廿國不堪佃田廿四國一、
p.0272 延喜十三年十一月七日乙巳、大風猛烈、左馬寮顚倒人死、
p.0272 天慶七年九月二日辛未、夜大風暴雨、諸司官舍京中廬舍顚倒不レ可二勝計一、信濃守從五位下紀朝臣文幹、爲レ舍被二打壓一卒去、
p.0272 天暦元年七月四日丁亥、今夜大風猛烈、京中廬舍或顚倒或破壞、就レ中宮内省南門、大藏省後廳、掃部寮西屋、左馬寮、造酒司南門、典藥寮東檜皮葺屋等顚倒、又河水漲溢、
p.0272 天暦二年六月七日、二見云々、朱雀院南池中、見下如二龍頭一物上、大膳醤院屋風吹倒、打二殺屬野中安世一、 七月廿七日、夜大風雨、屋舍多顚倒、死人有レ數云々、 廿八日、分二遣諸衞官人於諸司一、令レ實二撿風損官舍一、
p.0272 天徳元年十二月廿日壬申、今夜疾風暴雨、發レ屋折レ木、古今未聞之事也、應和二年八月卅日乙卯、今日大風雨、大和近江等國、官舍及神社佛寺損壞、東大寺扉三間、力士大門等、興福寺維摩堂一宇、幢一基、新藥師寺七佛藥師堂一宇、并數宇、雜舍、西大寺食堂一宇、調寺講堂一宇、及自餘諸寺、并人宅等多以顚倒、京中無二殊愁一、
p.0272 安和二年七月廿二日丁卯、今夜大風暴雨、發レ屋折レ木、 廿三日戊辰、風猶不レ止、厨家南
p.0273 門、内豎所廳、兵庫寮南門、典藥寮南門、式部省録曹司、神祇官舍二宇、大炊大膳雜舍等、悉以顚倒、
p.0273 天元三年七月九日、午後大風暴雨、宮中樹木諸門、羅城門等顚倒、東西京人宅多以破損、
p.0273 永祚元年八月十三日辛酉、酉戌刻大風、宮城門舍多以顚倒、承明門東西廊、建禮門、弓場殿、左近陣、前軒廊、日華門、御輿宿、朝集堂、應天門東西廊卌間、會昌門、同東西廊卅七間、儀鸞門、同東西廊卅間、豐樂殿東西廊十四間、美福、朱雀、皇嘉、偉鑒、達智門、眞言院、并諸司雜舍、左右京人家、顚倒破壞不レ可二勝計一、又鴨河堤所々流損、賀茂上下社御殿、并雜舍、石清水御殿東西廊顚倒、又祇園天神堂、同以顚倒、一條北邊堂舍、東西山寺皆以顚倒、又洪水高潮、畿内海濱河邊民烟人畜田畝爲レ之皆沒、死亡損害、天下大災古今無レ比、 十七日乙丑、於二八省院一、奉レ遣二伊勢以下諸社幣帛使一、宣命云、去六月十九日夜、賀茂玉垣中數星散、去月中旬彗星連夜呈レ光、又近日霖雨、并去十三日大風損等被レ載二辭別一、 九月七日乙酉、於二八省院一奉二幣伊勢、石清水、賀茂、松尾、平野、稻荷等一、依二大風損一也、
p.0273 比叡山大鐘爲レ風被二吹辷一語第卅八
今昔、比叡山ノ東塔ニ大鐘有ケリ、高サ八尺廻リ也、而ル間、永祚元年〈己丑〉八月ノ十三日、大風吹テ所所ノ堂舍寶塔門々戸々ヲ吹倒シケルニ、此ノ大鐘ヲ吹辷ハシテ、南ノ谷ニ吹落シテケリ、最初ノ房ノ棟板敷ヲ打切テ谷様ニ辷テ、次々ノ房共同ジク打拔ツヽ、七ツノ房ヲ打倒シテ、南ノ谷底ニ落入ニケリ、夜半計ノ事ナレバ、此ノ房共ニ人皆寢入タル程ナレドモ、其レニ人一人不レ損リケリ、其ノ比ノ希有ノ事ニナム云喤ケル、
p.0273 長徳四年八月廿日丙午、自レ卯至二亥時一、大風、宮中諸司多以顚倒、武徳殿、御書所顚倒畢、
p.0273 寛仁四年七月廿二日辛未、夜大風吹、壞二内裏所々一、左近陣前軒廊、朱器殿、左衞門陣北舍一宇、春華門陣舍東一宇、修明門陣舍東一宇、右衞門陣舍、宜秋門一宇、八省院東廊廿餘間、延祿
p.0274 堂、左近衞府西門一宇、待賢門、藻壁門、殷富門、修理職西門、織部司、大炊舍一宇、并倉一宇、大膳職倉一宇、兵庫倉一宇、其外不レ可二勝計一、
p.0274 長元元年九月三日甲午、從二昨日未刻一及レ申、大風、京中屋舍、多以破損云々、富小路以東如レ海、上東門院并法成寺水入云々、〈◯中略〉頭辨被レ示云、被レ撿二諸司京内風損一之使、先例如何、報云、諸司官吏諸寺殿上人、京内諸衞官人云々、 四日乙未、從二右府一被レ示云、連月大風、京畿外國多風損之由云々、豐樂院門等、并府廳顚倒、府廳可二造立一事、府力難レ及歟、申レ爵加二府力一欲レ作云々、 七年八月九日丙寅、天陰、自二昨日一降雨之中、終夜終日殊甚、定有二田舍愁一歟、及二晩景一自レ艮風漸扇、入レ夜東風大吹、所々舍屋并中門等、多以損破、及二夜半一之間、風成レ巽、其勢甚盛、樹木中門屏、所々雜舍、悉以顚破、成人之後、未レ見二如レ此之風一、及レ曉成二南風一、其勢漸休、 十日丁卯、天陰、人々云、京條大小屋舍顚破殊甚、又諸司所々如レ此、人畜之類多以被二打死一云々、頭中將御宅、西板屋顚倒、下人多被二打覆一之中雜仕女并其兒童死去、自餘或早出、或未レ死云々、厨家別當史守輔來云、明日定考饗頭等申云、上客并所々饗等、兼日盛儲、而各住宅皆以顚破之間、同以損破、忽申无二爲術一之由、爲二之如何一者、仰云、天慶間依二大風一定考延引、是已同事也、早申レ左隨二彼命一可二左右一也者、又申云、今日釋奠、廟供等物、依二損穢一可二延引一云々、及二午刻一、侍從中納言相共參内、立二春花門下一招二頭辨一、〈今朝觸二牛斃一之人著二座愚宅一、又中納言御家有二犬死一云々、仍共立二陣外一、〉辨被二來向一、各示雖レ有二觸穢一、去夜風依二大事一、乍レ立陣參入之由、辨云、禁中又有二觸穢一者、仍參入、〈中納言日來有レ被レ勞不レ被二束帶一、宿衣也、〉徘二徊南殿邊一、禁中損壞不レ可二勝計一、此中陣前、軒廊、御子宿、春興殿、月華門、進物所等顚倒、辨云々、今曉關白殿令二參入一給、頃之内大殿中宮權大夫等被二參入一、殿下相共、巡二撿八省豐樂院等一、八省堂二宇、巽角廊五十餘間、應天門并東西廊顚倒、豐樂院清暑堂、并豐樂殿東廊、儀鸞門東西廊顚倒、又美福門、皇嘉門、達智門、郁芳門、除二左衞門一之外、五衞府廳、并雜舍、大膳掃部等舍屋、悉以顚倒云々、又應天門馬被二打斃一、其穢觸二來禁中一也、此外未レ聞二顚破所々一、余參二中宮御方一、頃之歸二南殿一、納言共參宮、次罷出參二關白殿一、召二大外記頼隆眞人、史隆佐朝臣一、被レ仰云、今日釋奠祭
p.0275 如何、有二禁中觸穢之中一、如聞大學廟殿顚倒、廟器等皆以破損云々、如レ此之時、有下用二中丁一之例上乎、申云、天徳年有二大裏穢一用二中丁一、依二彼例一可レ被レ行歟者、仰云、早參内令二頭辨一奏二此由一、可レ用二中丁一之由、可レ仰二供奉諸司一者、頃之出給、良久言談、風損事頗有二歎念氣一、尤可レ然云々、及レ曉歸レ家、傳聞左右辨參入、申二定考饗不具之由一、被レ承二可レ延之由一云々、 十一日戊辰、天晴、或者云々、中院東西舍、并廊北舍、大學紀傳明法曹司舍、穀倉院廳、并雜舍顚倒、又右馬寮厩町餘顚倒、御馬五匹被二打襲一、雖レ然翌日壞閉見レ之、一匹不レ損云々、又紀傳曹司學生等、同被二打襲一、雖レ被レ疵不レ死、明法厨女又雖二打襲一不レ死云々、 十二日己巳、天晴、人々云、大風夜洪水泛、山崎河尻長洲邊、人畜屋財多以損死、又諸國之船同流云々、午後參殿、相次前帥四條中納言被二參入一、被レ仰云、可レ令レ注二内外諸司所々損色一之由、昨日令二仰下一了、注進後可レ分二宛八省豐樂院諸門等於諸國一也、又諸司等隨二損大少一、仰二長官一隨二申請一量給レ爵、若其司官人等、欲レ令二修造一如何者、彼此申可レ注之由、頃之令二參内一給、相次人々被二退出一、一日後漸聞レ之、諸司所々、京畿人宅、諸山神社佛寺衆木、或落二其材一顚破、或拔二其根一折倒云々、風勢雖レ劣二永祚一、物損多勝二彼年一云々、 十九日丙子、天晴、午刻參内、右府、侍從中納言被二參入一、相次宮内卿、右衞門督、左兵衞督參入、頭辨仰二右府一云、風損殿舍門廊堂等、可レ分二宛諸國一、但諸司可レ作事如何、令二諸卿定申一、彼此被レ申云、隨二損破大少一計給レ爵、若本司本府允屬等可レ令二修造一歟、仰依二定申一、又被レ仰云、備中國司修二造應天門并東西廊樓等一、可二重任一之由蒙二宣旨一、修二造之一了、但東樓并廊少少未二葺了一、仍不二覆勘一之間、爲二大風一門并西廊顚倒之由、行事所有レ令レ申、重本國可二造立一歟、將可レ被レ宛二他國一歟、彼此被レ申云、造畢之由、行事等所レ申、敢不レ可レ被レ疑、未二葺畢一樓廊等、令二本國一可レ令レ終二其功一、顚倒門廊者、任レ秩已欲レ終、何重被レ宛哉、早可レ被レ仰二他國一也、仰依二定申一也、又被レ仰云、右近府廳、并弓場屋、各一宇造立、依有二申レ爵者一、先日被レ下二宣旨一、隨二新造立一、欲レ葺二檜皮一之間、爲レ風共顚倒、今令レ申云、重造立已無二其力一、作二葺弓場一宇一、欲レ預二榮爵一者如何、共被レ申云、依レ請被レ免有二何事一乎者、仰依レ請、次國宛、先被レ下二損色文二通一、〈諸司一通、八省豐樂院一通〉僕執筆、可レ修二造風損所々一事、
p.0276 安福殿 進物所 木工寮 月華門 同寮〈已上廿日改定〉 左近陣前軒廊 御輿宿〈已上修理職〉 八省院 承光堂九間〈北五間尾張國 次四間丹後國、同廿五日改定二丹波一、〉 康樂堂〈伊與國、同日改二讃岐一、〉 宣政門以南廊廿二間 會昌門以東廊廿二間 已上造八省行事所 應天門〈播磨國 丹波國、同日改定二伊與一、〉 同門西二蓋廊十七間〈東十間伊與國 東八間但馬國 次三間能登國 同日東五間美作 次四間備前國 次七間越後國 次三間越中國 次三間加賀國 次四間備後國 次四間周防國〉 豐樂院 明儀堂十九間〈北五間備後國、同日改二安藝一、 次五間備前國 次七間美乃國 次五間伯耆國 次四間紀伊國 次七間美作國、但馬、〉 豐樂殿西軒廊六間〈能登國、同日改二信乃一、〉 霽景樓南廊十一間〈上野國、同日改二越後一、〉 觀徳堂以南廊六間〈越中國〉 儀鸞門以東廊十一間〈西七間安木國次四間伊世國〉 儀鸞門東廊三間〈已上越後、同日改二越中一、〉 儀鸞門東廊八間〈同日改二上野一、同門西廊二間、〈已上安木〉〉 同門以西廊六間〈東三間駿河國次三間遠江國〉 同門西廊六間 豐樂殿西廊六間〈已上信乃〉 儀鸞門〈丹波國播磨國〉 豐樂門〈美作國 備前國同日改二因幡後司一〉 不老門〈美乃國伯耆國〉 郁芳門〈周防國、同日改二尾張一、〉 美福門〈讃岐國、同日改二定備中一、〉 皇嘉門〈近江國〉 安嘉門〈阿波國〉 達智門〈因幡國、同日改二土佐一、〉 宮城南門〈土佐國、同日改二丹後一、〉 中院 七間三面檜皮葺屋一宇〈攝津國〉 神嘉殿東西廊廿間〈西十間和泉國、同日改二備中一、東十間加賀國、同日改二伊與一、〉 四間一面檜皮葺西屋一宇〈和泉國、備中、〉 三間渡殿一宇〈攝津國、同日改二伊與一、〉 神祇官 北廳屋〈信乃國紀伊國〉 南屋一宇〈常陸國〉 西屋一宇〈武藏國〉 倉一宇〈若狹國〉 宮内省 廳屋七間〈東四間和泉國、同日改二三河一、次三間伊賀國、同日改二甲斐一、〉 治部省 廳屋七間〈東四間參河、同日改二加賀一、 次三間能登〉 長元七年八月十九日 右府於二仗座一付二頭辨一、〈即被レ示レ辨云々、大略所二量宛一也、重能御覽、若有下被二改定一事上、以二後日一可二改書一之由、申二關白一、又明年得替國雖レ宛、今年中不レ可レ仰畢、然者暫不レ賜二官府一、又當二御忌方一之國々、今年不レ可レ仰二行事所一、慥定二御忌當否一可二催行一也、如レ此之趣、同可レ申者、〉被二退出一了、僕有レ召參二殿御宿所一、〈頭辨因兼祗候〉被レ仰云、修理職宛所、進物所、月
p.0277 華門、可レ被レ宛二木工一歟、又美作、美乃、信乃宛所頗輕、播磨應天門其材木定有歟、仍所レ作輕、又伊與如レ此、越後材木雖レ有國司劣、所レ役重歟、攝津所レ宛又過差、相量可二平均一歟者、余申云、右大臣被レ申云、大略所レ宛也、又々殿下御覽可レ被二定仰一也者、就レ中先年被レ宛八省豐樂院仰レ事時、大略於二仗座一宛レ之、又於二御宿所一改定、於二大臣里第一、後日書二定文一、覆奏已有二先例一、可レ然之様可レ被二量仰一也者、此次他雜事等申請、及二深更夜一退出、
p.0277 長久元年七月廿六日、大風、伊勢豐受大神宮正殿、并東西寶殿瑞垣、悉以顚倒、八省含嘉堂同顚倒、
p.0277 康平二年七月十二日、大風起、雲飛揚、左近陣廊八間以下、諸司舍屋多顚倒、
p.0277 寛治五年正月十二日、今日大雨、入レ夜大風、小屋皆悉以破損、八省西廊顚倒云々、
p.0277 寛治六年八月三日甲寅、大風、諸國洪水高潮之間、民烟田畠多以成レ海、百姓死亡不レ可二稱計一、伊勢太神宮寶殿一宇并四面廊等、皆爲二大風一顚倒、
p.0277 大治三年八月二日、暴雨大風、陽明門顚倒、長承三年九月十二日、大風殊甚、拔レ樹顚レ屋、諸司官舍、京中人屋、一宇不レ全、今年風水火三災並起、
p.0277 久安六年八月四日、大風、大學寮廟堂前舍一宇顚倒、今日釋奠也、又大内仁壽殿顚倒、
p.0277 仁平三年九月廿日丙午、終日暴風大雨、今日伊勢齋内親王〈嘉子〉可レ有二群行御禊一也、權大納言宗能卿、中納言重通卿、參議兼長卿、教長卿、參二野宮一云々、暴風大雨、其勢猛烈、高野川蔀屋、皆以顚倒、野宮舍屋、多以顚覆、勢多頓宮六十餘宇顚倒、仍延引、又土御門被レ造内裏南殿、大極殿後戸扉一枚顚倒、賀茂別雷社前大木顚倒、打損舍屋數間云々、
p.0277 安元元年九月十二日庚寅、天陰、自二亥終刻一至二丑終刻一、大風、京中舍屋無二一全一、後聞横川根本椙、爲二大風一被二吹仆一、〈◯中略〉又聞天王寺西向鳥居〈懸額鳥居也〉顚倒云々、
p.0277 治承元年四月十八日、未刻暴風、其聲如二炎上一、三條大宮人家門多顚倒、件風起二於神泉苑
p.0278 中一云々、或云善如龍王去二此池一云々、
p.0278 安貞二年十月七日、雨降、自二戌刻一至二子時一大風、御所侍、中門廊、竹御所侍等顚倒、其外諸亭破損不レ可二勝計一、拔二其梁棟一吹二棄于路次一、往反之類爲レ之少々被二打殺一云々、寛喜二年九月八日、自二申一刻一至二寅四點一、大風殊甚、御所中已下人家、多以破損顚倒、
p.0278 一正徳三年六月六日、午ノ下刻、高田郡〈◯安藝國〉保坂村ノ山大谷ト申處ニ、ノボリノヤウナル物二本出申候、夫ヨリ豐田郡久芳村ノ田方カニノ木山ト申所ニテハ、一本ノヤウニ見ヘ申候、右ノボリノ様成白キモノ、カニノ木山ニテ消ヘ申候、然處ニ晴天俄ニ曇リ、黒雲ノ内白キ差ワタシ四間バカリノ、丸キモノ出候テ、北内ヨリ色黒白ノ烟ノ様ナルモノ吹出シ、同時豐田郡野善村ヒラキ坂ト申處ニモ、右ノ通ナルモノ出、烟ノヤウナルモノ吹出シ申候、右兩所ヨリ出申モノ、一ツニ成候ト存ジ候ヨリ、大風一筋吹出シ、野善村助貞山ニ吹ワタリ、カタチ六七間四方程ニナリ、烟リノ様ニ連ナリ、高サ四五間十間バカリ上、クル〳〵ト舞ヒ、又ハ地ニテ舞通リ申候、然處鳩ノ少シ大キナルモノ、件ノ物ノ上ニ一廻居申候、夫ヨリ國光吉兵衞ト申モノ、家吹ハギ、其外近所ノ百姓ノ家大分ニ損ジ申候、稻ノ中ナドヲ通リ申時ハ、水吹上川原ニ成申候、夫ヨリカシコ爰廻リ止リ、又ハ跡ヘ戻リ、兼貞ワタリノ山ヘ舞ノボリ、傘一本薪三束、其外ヒロゲ置候ユヘ、草ナド吹コト落著見ヘ不レ申候、右ノスサマジキコトニ付、百姓ドモ皆々肝ヲ消、ヲソレ居申候、サテ右ノモノ舞申節ハ、殊ノ外騷敷候テ、常ノ雲トモニ廻リ候ヤウニ見ヘ申候、右廻リ候物ノ内、少シ赤キヤウニ見ヘ申モノモ有レ之、又黒キ人ノヤウナル物ト見候者モ有レ之、又人ニヨリテ人ノ首ノヤウニ見申者モ有レ之候、夫故婦人ナド見候テハ氣ヲ取失ヒ、行カヽリ戻申者モ多ク有レ之候、近キ村ハ大雨フリ申候、野善村ハ雨フリ不レ申候ヨシ、
p.0278 大風行
p.0279 歳在二戊子一〈◯文政十一年〉維秋中、八日九日天大風、風來レ自二西南海上一、肥前筑後當二其衝一、怒浪大齧穴門破、防萟次第來擊撞、掌大雨點撲レ人腥、雨邪潮邪聲洶洶、大屋掀撼人盡走、小屋併レ人飛入レ空、大木倔強姑抗拒、力竭戰敗斃二老龍一、烏鳥失二其巣一、駢死孰雌雄、陸已如レ此况在レ海、萬艑四散失二所在一、呉船葉碎越船破、雖レ然可レ修又可レ改、歐邏巴船號二浮城一、吹レ之上レ陸陷二地底一、募三能引拔致二於水一、賞以二互市利一載一、愚民莫レ應涕滂沱、曰何必恤二喎蘭陀一、吾屋盡破、吾田無レ禾、無レ縁レ出二常科一、何况供倍多、金銀宮館成旋圮、奈二此封姨降嫁一何、君不レ聞貞觀中、海溢二肥後一沒レ郡六、大鳥來集二宰府屋一、朝廷惶懼問二大卜一、權帥少貳各陳レ策、水田課耕緩二貢調一、停二止交易一務二儲蓄一、嗚呼古人太過慮、何不三坐食二駭鯨肉一、
p.0279 颶(うみのおほかせ)〈音具〉 〈石尤風 海中大風也◯中略〉 按、勢州、尾州、濃州、騨州、有二不時暴風至一、俗稱二之一目連一、以爲二神風一、其吹也、拔レ樹仆レ巖壞レ屋、無下不二破裂一者上、惟一路而不レ傷二他處一焉、勢州桑名郡多度山有二一目連祠一、相州謂二之鎌風一、駿州謂二之惡禪師風一、相傳云、其神形如レ人着二褐色袴一云々、
p.0279 過し壬戌のとし〈◯享和二年〉七月晦日、上京今出川邊に一道の暴風、屋を壞り、天井床疊をさへ吹上、あるひは赤金もておほへる屋根などもまくり取離たり、纔に幅一間ばかりが間にて、筋に當らざれば、咫尺の間にて障なし、末は田中村より叡山の西麓にいたりて止りしとぞ、蛇の登るならば雨あるべきに、一雫も降らず、これ羊角風といふものかといへり、北國にては折々あることにて、一目連と號くとぞ、
p.0279 微風 崔豹古今註云、微風大搖、〈此間云、古加世、〉
p.0279 微風〈コカセ〉 䫾〈音逼、風、コカセ、〉
p.0279 まうでつきて見れば、〈◯熱田神宮〉いと神さびおもしろき所のさまなり、あそびしてたてまつるに、かぜにたぐひて物のおとどもいとをかし、
笛のねに神の心やたよるらん森のこかぜもふきまさるなり
p.0280 伊勢國風土記云、〈◯中略〉天日別命、神倭磐余彦天皇、〈◯神武〉自二彼西宮一征二此東州一之時、隨二天皇一〈◯中略〉天日別命奉レ勅東入二數百里一、其邑有レ神、名二伊勢津彦一、天日別命問曰、汝國獻二於天孫一哉、答曰、吾覔二此國一、居住日久、不二敢聞一レ命矣、天日別命發レ兵欲レ戮二其神一、于レ時畏伏啓云、吾國悉獻二於天孫一、吾敢不レ居矣、天日別命令レ問云、汝之去時、何以爲レ驗、啓云吾以二今夜一起二八風一、吹二海水一、乘二波浪一、將二東入一、此則吾之却由也、天日別命、令二整レ兵窺一レ之、比レ及二中夜一、大風四起、扇二擧波瀾一、光耀如レ日、陸國海與朗、遂乘レ波而東焉、古語云、神風伊勢國、常世浪寄國者、蓋此謂レ之也、
p.0280 戊午年十月癸巳朔、天皇嘗二其嚴瓫之粮一、勒レ兵而出、先擊二八十梟帥於國見丘一破斬之、是役也、天皇志存二必克一、乃爲二御謠一曰、伽牟伽筮能(カムカゼノ)、伊齊能于瀰能(イセノウミノ)、於費異之珥夜(オホイシニヤ)、〈◯下略〉
p.0280 和銅五年壬子夏四月、遣二長田王于伊勢齋宮一時、山邊御井作歌、
山邊乃(ヤマノベノ)、御井乎見我氐利(ミヰヲミガテリ)、神風乃(カムカゼノ)、伊勢處女等(イセノヲトメラ)、相見鶴鴨(アヒミツルカモ)、
p.0280 延喜聖主臨時奉幣之日、出二御南殿一、本自有レ風、把レ笏着レ靴欲レ拜之間、風彌猛、御屏風殆可二顚倒一、被レ仰云、穴見苦ノ風ヤ、奉レ拜レ神之時、何有二此風一哉云々、即刻風氣俄止云々、
p.0280 風は あらし、こがらし、三月ばかりの夕暮に、ゆるく吹たる花かぜ、いとあはれなり、八九月ばかりに、雨にまじりてふきたる風、いとあはれ也、雨のあしよこざまにさはがしう吹たるに、夏とをしたるわたぎぬの、あせの香などかはき、すヾしのひとへにひきかさねてきたるもをかし、此すヾしだに、いとあつかはしうすてまほしかりしかば、いつのまにかう成ぬらんと思ふもをかし、あかつき、かうし、つま戸などおしあげたるに、嵐のさと吹わたりて、かほにしみたるこそ、いみじうをかしけれ、九月つごもり、十月一日の程の空うちくもりたるに、風のいたう吹に、黄なる木の葉どものほろ〳〵とこぼれおつる、いとあはれ也、
p.0280 俊頼歌云
しなのなるきそ地のさくらさきにけり風のはふりにすきまあらすなp.0281 是ハ信濃國ハ極風早キ所也、仍〈テ〉スハノ明神ノ社ニ、風祝ト云物ヲ置テ、是ヲ春ノ始ニ、深物ニ籠居テ、祝シテ百日之間尊重スルナリ、然者其年凡風閑ニテ、爲二農業一吉也、自ラスキマモアリ、日光モ令レ見ツレバ、風不レ納云々、其意也、是ハ能登大夫資基ト云人、俊頼ニ語云、如レ此事承レ之、歌ニ讀ト思也云云、俊頼答云、無下ノ世俗事也、如レ此事更々不レ可レ詠不便云々、仍存二其由一之處、後日詠レ之、尤腹黒事歟、五品後悔云々、
p.0281 風 七八月大風ふかんとては、必虹のごとくにしてきれたる雲たつ、これを颶母(きらも)といふ、 冬日くれて風和かになる時は、明朝も又風はげし、 日の内に風おこるはよし、夜るおこるはあしヽ、日のうちに風やむはよし、夜半にやむはあしヽ、これは寒天のときの事なり、 東風急なるは蓑笠をそなふべし、東北風も雨、南風はその日たちまちにふらず、明る日か其暮にか必あめふる、西風北風はおほくは晴、北風は西風よりいよ〳〵よし、但し春北風ふけば時雨多し、秋は西風にて雨ふる、南風は四時ともに雨ふる、南に海ある所は、南風にも雨ふらずといふ所有、東に海をうけたる所も同じ、 乾風はかならずはるヽ故に、いぬゐ風を日吉と云、 冬南風ふけば、二三日の間にかならず雪ふる、 風西南より轉じて、西北風になれば彌大なり、 孫子曰、ひるの風はひさしく、よるのかぜはやむ、 大風ふかんとては、衆鳥空に鳴てひるがへり飛て、群魚水面におどり、星うごき、日月に暈有て、雲きれ〴〵にしてとぶ、其色白く黄にして、あつまり散る事さだまらず、雲日をめぐり、雲のあし黄にして行事はやし、 正二月に北風吹ば、必雨そふ物也、 西風久しければ火災有、物をかはかす故なり、西北風もつとも火災のうれへあり、〈◯中略〉 知風草といふ草有、和名をちから草共、風ぐさとも云、かやに似たり、其ふしの有無を見て、そのとし大風の有無をしる、節一ツあれば其年一度大かぜ吹、二ツあれば二度ふく、三ツあれば三度ふく、本にあれば春ふく、中にあれば夏秋ふく、末にあるときは冬大風有、
p.0282 二百十日 立春ヨリ二百十日メナリ、秋風烈キ時ナリ、 ◯按ズルニ、二百十日ノ事ハ、歳時部時節篇ニ載ス、
p.0282 天候 黒雲急に起るは、その方より暴風來る徴なり、曉に黒雲奇峯を爲すは、その方に風行くなり、東南風は晴にて、西北風は雨なり、然れども時節に因て差あり、 日光山よく晴れたるは北西風なり、〈北西風、又ヤマデといふ、日光山より出づるの義なり、〉曇りたるは雨徴なり、筑波山よく晴れたるは北東風なり、〈筑波オロシともいふ〉雨日は晴徴とす、富士山に黒雲あれば西南風なり、〈これをフジカタといふ、南西風はフジミナミといふ、〉曇天に富士山のみ晴れたるも西南風なり、 鳥飛下るに必風に向ふ、是を以て風の方向を知る、〈◯中略〉 星光搖くは、大風の徴なり、
p.0282 戯題二風神一〈并詩 寛永十六年作〉佐久間親衞校尉謂レ余曰、室家嘗相告曰、良人貌似二風神一、人之所レ憚也、聞而笑レ之、後一夕候二營中一、有レ命曰、爾似二風神一、雖レ知レ爲二其戯謔一、然唯而平伏退レ公之時、告二室中一曰、鈞旨如レ此、婦之言相協、不二亦奇一乎、相共又笑、因倩二畫工探幽一圖レ之、願乞二一言一以記レ之、答曰、夫風者大塊之噫氣也、其神曰二飛簾一、在レ星曰二箕伯一、在レ卦曰二巽二一、在レ管曰二地籟一、在レ獸曰二貍母一、隱二其名一曰二封家十二姨一、其發則觸レ物有レ聲而無レ色、然天地之間無レ所レ不レ有焉、若人爲二風伯一則亦益奇乎小詩一首以レ請故應レ之、吹出土囊口、封姨爲二配偶一、于喁掃二俗塵一、在レ斯阿誰某、
p.0282 建凌岱 俳諧を業とせる時、淺草門前に住、雷神のかた〳〵に風神の袋負へる形ををかしとて、自凉袋と名乘しが、俳諧を止てのち、文字を凌岱とあらたむ、