p.0307 暦道ハ、古ハ天文道ト共ニ陰陽寮ノ掌ル所ニシテ、日月行度ノ盈縮ヲ推シ、時序節候ノ進退ヲ計リ、以テ暦ヲ造リテ、時ヲ授ケ日ヲ知ラシムルヲ要トセリ、暦ノ我史上ニ見エタルハ、欽明天皇ノ朝、百濟ヨリ暦本并ニ暦博士ヲ貢シ、尋デ推古天皇ノ朝ニ至リ、書生ヲシテ造暦ノ法ヲ學習セシメシヲ以テ初トス、蓋シ當時三韓ノ暦法ハ支那ヨリ傳ヘシモノニテ、其術東漸シテ我ニ及ビシナリ、持統天皇ノ時ニ至リ、劉宋ノ何承天ノ元嘉暦、李唐ノ李淳風ノ儀鳳暦ヲ併用ス、其後天平寶字中、唐ノ大衍暦ヲ用イル、大衍暦ハ唐ノ僧一行ノ作ル所ナリ、貞觀年中、改メテ長慶宣明暦ヲ用イル、宣明暦ハ唐ノ徐昻ノ作ナリ、此間唐ハ更ニ郭獻之ノ作ル所ノ五紀暦等ヲ用イシト雖モ、我ハ終ニ改ムルニ及バザリキ、蓋シ支那ニ在リテハ、是ヨリ後、歴代頻リニ改暦ヲ行フ、元ニハ郭守敬ノ授時暦アリ、明ニハ回々暦ニ本ヅキタル大統暦アリ、其法ノ精密ナルコト往時ノ比ニアラズ、然ルニ我國ニテハ、貞觀以降久シク改暦ノ擧ナク、暦法大ニ差錯ヲ致シヽヲ以テ、貞享元年德川綱吉ノ時、澀川春海表ヲ上リテ改暦ヲ請フ、是年朝議アリテ明ノ大統暦ヲ用イントス、春海復タ上表シテ、大統暦ノ缺點ヲ指摘シ、自作ノ新暦ヲ進ム、之ヲ貞享暦ト云フ、貞享暦ハ即チ郭守敬ノ授時暦ニ據リ、里差ヲ加ヘテ法ヲ立テシモノナリ、其後延享中ニ至リ、德川吉宗、我暦法ノ未ダ精確ナラザルモノアルヲ察 シ、明ノ崇禎暦書ヲ考覈シテ補暦セシメントシ、其薨去ニヨリテ果サズ、寶暦四年ニ至リ、前暦ヲ修正シ、漸ク改暦ノ典ヲ擧グ、之ヲ寶暦甲戌暦ト稱ス、司天ノ官益々意ヲ驗測ニ留メ、寬政九年、暦象考成後編ニ據リテ、更ニ改暦ノ擧アリ、之ヲ寬政暦ト稱ス、暦象考成ハ崇禎暦書ニ基キテ成ル所ニシテ、其後編ハ洋法ヲ參用シテ、校訂ヲ加ヘタルモノナリ、而シテ天保十三年ニ至リテ、再ビ寬政暦ヲ改刪シ、復タ改暦ノ擧ニ及ベリ、是ヲ天保暦ト爲ス、爾來復タ改暦ノ事ナク、明治五年ニ至リ、太陽暦ニ改メラレタリ、 古來暦面ハ、上中下三段ニ分チテ、日ノ吉凶、氣節ノ變等ヲ注記ス、之ヲ具注暦ト云フ、又七曜暦ト云フモノアリ、共ニ陰陽寮ノ造クル所ニシテ、毎年之ヲ奏上ス、之ヲ御暦奏ト稱ス、又中星暦ト云フモノアリテ、八十二年一度造進スト云フ、而シテ官暦ハ皆眞字ヲ以テ書スルガ故ニ、民間ノ使用ニ便ナラズ、是ニ於テ後ニハ假名ヲ以テ寫シ、之ヲカナゴヨミト稱セリ、又伊勢ノ神宮、伊豆ノ三島、武藏ノ大宮、及ビ薩摩等ヨリモ、各々暦日ヲ製作シテ頒行セリ、而シテ陸奧南部ヨリハ盲暦ト云フヲ出セリ、 暦本ノ製造ハ、古代ハ都テ陰陽寮ニテ掌リシガ、德川時代ニ在リテハ、江戸天文方ニテ之ヲ作リ、京都ニ送リテ、土御門家ニテ中段下段ノ注ヲ記入シ、更ニ江戸ニ廻付シ、然ル後始テ寫本ヲ以テ諸國ノ暦師ニ頒チ、暦師ハ又各々之ヲ印刷シテ頒布スル例ナリトス、而シテ伊勢頒暦ノ由來ハ、戰國ノ比、祭主藤波家ノ奏請ニ由リテ、土御門家ヨリ暦本ノ印刷頒布ヲ允シタルニ由レルナラント云フ、
p.0308 暦 漢書律暦志云、黄帝造レ暦、〈音暦、和名古與美、〉
p.0308 所レ引文、原書正文不レ載、應邵注有レ之、源君蓋引二應注一也、又續漢書律歴志正文、有二所レ引文一、此或脱二續字一、亦未レ可レ知也、下總本、黄帝下有二臣容成三字一、按、續漢書、漢書注、並無二是字一、蓋 後人依二他書一所レ增、非二源君之舊一、廣韻引二續漢書律歴志一云、黄帝造レ歴、世本云、容成造レ歴、續漢書注引二博物記一云、容成氏造レ歴、黄帝臣也、皆可三以見二容成造一レ歴、不レ出二續漢書及漢書注一、按説文無二暦字一、古只用二歴字一、説文、歴過也、傳也、轉明二時月過歴一之書謂二之歴一、後俗從レ日以別二經歴字一也、昌平本、下總本、有二和名二字一、本居氏曰、古與美、日數之義、時日之日訓レ加、蓋來經之急呼爲レ計、轉爲レ加也、謂レ數爲レ讀、
p.0309 暦(コヨミ) こまかにかきたるをよむなり
p.0309 暦コヨミ 吾國の暦、いづれの頃に始れるといふ事さだかならず、またコヨミといふ義も不レ詳、〈○中略〉 古語にコ(○)と云ひしには詳細の義あり、ヨミ(○○)とは數をかぞふる事をいひけり、歳月日時を細かにかぞへしるせしものをいふに似たり、
p.0309 こよみ 暦日をいふ、日讀の義、二日三日とかぞへて、其事を考へ見るものなれば、名とせるなり、欽明天皇の時に來る、暦本をこよみのためしとよめり、
p.0309 昔者、河圖畫二八卦一、洛書叙二九疇一、由レ此而天數地卦爲二用休一、則子午卯酉爲二四仲一、乾坤艮巽爲二四維一、而陰陽定而禍福驗矣、是故聖人暦數在レ躬、齊二七政於星躔一、愼二萬機於月令一、則與二天地一合二其德一、與二日月一爭二其明一也、因レ玆雖二顯密超佛之宗一、無レ不レ用二暦家之法一、矧乎輔國養民之理、豈非二作暦之功一、於レ是自二吾曩祖一以降、四百餘載、子々相續、綿々不レ絶、念レ玆心神竭、筋力屈、推歩之術、惟予勤也、然今所二具註一者、三墳五典之大道也、始レ自二天地之根元一、終至二宿曜之吉凶一、粗擧二八々問一、故儲二一問答一所二輯録一者、皆諸文之説也、其本則二乎周易卦一爲二六十四段一、分二上下二卷一者象二乎二儀一、上二十四段者、節氣之定法、下四十段者、五行之成數也、倩見二陰陽之窮達、五行之妙用一、吉非レ吉、凶非レ凶、圓轉無レ窮、如二環無一レ端、但近代末葉皆假二名於道一、覓二利於衢一之流寫二此暦一、以レ暦爲二渉世之資一而已(○○○○○○○○○)、繄豈可下以二國家重器一類中商買之輕物上耶、大概所レ詮者、雖二述而不一レ作、家之口傳、或道之樞要也、烏焉之誤、須招二後見之嘲一、愼勿レ出二深室一是幸焉、 龍集〈甲午〉孟春日〈○應永二十一年〉 在方〈○賀茂〉誌
p.0310 大意 國家人民ノ要用ハ運氣ナリ、運氣ノ業事ハ暦ニ在リ、暦ノ本體ハ天文ナリ、此故ニ運氣ヲ知ラムト欲セバ、先暦象ヲ察スベシ、暦象ト運氣ト無二相離一、是ヲ天文ト云フ、劉温舒四時氣候ヲ論ズルヲ先トスルコト、是又素問ノ意ナリ、蓋暦ハ黄帝ヨリ興リ、堯舜ニ備ハレリ、夫ヨリ以來歴代ノ造暦甚多シ、往古ノ暦ハ寒暑水旱ノ時ヲ示シ、歳氣ノ陰陽大過不及ノ運ヲ知ラシメ、種耕蠶織採藥ノ時ヲ過ツコトナキガ爲ニス、後世戰國以來、人皆知阿謀計ヲ事トシ、世事紛冗ニシテ、僥倖ノ富榮ヲ求メ、疑惑盛ンナリ、折節陰陽術數ノ徒頻ニ出テ、日月星辰ノ吉凶ヲ語リ、禍福ノ事應ヲ説テ俗ヲ動シ、事々物々ノ吉凶ヲ撰ムコト專ラナル世ノ慣ヒト成リシナリ、〈○中略〉 惡日ニ作タル事ノ末遂ザルヲ數ヘテ見ンモ難カルベシト、古人ノ言葉實ニ然リ、人一生ノ間、日ノ吉凶ヲ考驗スト云フ共、一二甲子ノ間ヲ過ルコトナシ、天地開ケシヨリ此カタ、幾千萬甲子ナラン、其中ノ一二甲子ノ考驗ヲ例トシテ、前後千萬甲子ノ吉凶ヲ定メムコト尤不審、然ドモ暦ハ朝廷ノ故實ニシテ、其恒例ニ從ヒ、暦家日ノ吉凶ヲ記ス、禍福ノ應不應ハ不レ可レ知トイヘ共、事ニ臨ムデハ暦ヲ開キテ人情ノ疑ヒヲ决定スル世ノ通義ナレバ、日ヲ撰ブコトナキコトアタハズ、雖レ然和漢ノ暦本ヲ集メテ較考フルニ、日ノ吉凶其用事全ク同キ者寡シ、蓋天地ニハ日ノ吉凶ナク、人ニ憑テ吉凶アリ、此故ニ水土隔タリ、俗同ジカラザル時ハ、其吉凶又同ジカラズ、然ル時ハ此國ノ人ハ此國ノ暦ニ隨ヒ、此吉凶ヲ撰ブベキニヤ、古昔ハ世質ニシテ、暦ノ印判ナキ故ニ、庶民ノ家ニハ暦本モ不レ有、偶村長ノ家ニ寫暦アレバ、往テ節氣ヲ尋ネ、吉凶ヲ問ヒ、或ハ假借シテ書寫セリ、今也世治リ國安ク、土民茅屋ニ至ルマデ、判暦不レ有ト云處ナシ、誠ニ公恩日々ニ用ヒテ不レ知、皇澤ノ忝ニアラズヤ、親家ノ童蒙強テ日ヲ撰ブニ、若ハ事ニ害アランコトヲ恐ル、仍テ書シテ暦ノ主 意ヲ知ラシメントナリ、
p.0311 陰陽寮 頭一人掌二(中略)暦數一〈(中略)暦數者、計二日月之度數一而造レ暦授レ時也、〉
p.0311 九流〈○中略〉 無二欽天監一、造二暦日一係二陰陽挨里由吉一、春夏秋冬四季、十二月建、六十甲子、歳月相同、月大月小、間有二差訛一、是以大隅、并前後豐州、薩摩州、與二琉球一連レ界、毎年得二大明暦日一、擇二選吉凶一用レ事、歳漸通行、邇來大小月分可レ得レ正矣、暦日名曰二果搖密一(コヨミ)、命士名曰二法葢手一(ハカセ)、
p.0311 推二歩盈虚一、〈謂歩猶レ尋也、推二歩弦望晦朔一、以爲レ暦是也、盈虚者、日月行度之盈縮、及時序節候之進退也、〉窮レ理精密、爲二暦師(○○)之最一、
p.0311 陰陽寮〈○中略〉 暦博士一人掌三造レ暦及敎二暦生等一
p.0311 陰陽寮〈○中略〉 暦博士、〈權、相當從七位上、唐名司暦、或司暦正保、〉暦道任レ之、近代五位已上任レ之、
p.0311 十四年六月遣二内臣一〈闕名〉使二於百濟一、〈○中略〉別勅、醫博士、易博士暦博士(○○○)等、宜レ依二番上下一、今上件色人、正當相代年月、宜下付二還使一相代上、 十五年二月、百濟遣二下部扞率將軍三貴、上部奈率物部烏等一乞二救兵一、〈○中略〉別奉レ勅、貢二〈○中略〉暦博士固德王保孫一、
p.0311 且成下可レ建二王城一議上、其記文云、王城可レ建二下總國之亭南一、兼以二檥橋一〈○檥橋、今昔物語作二磯津橋一、〉號爲二京山崎一、以二相馬郡大井津一號爲二京大津一、便左右大臣、納言、參議、文武百官、六辨、八史、皆以點定、内印、外印、可レ鑄寸法、古文正字定了、但孤疑者(○○○○)、暦日博士而已(○○○○○○)、
p.0311 長保二年九月廿六日庚午、又申、陰陽頭正邦宿禰、今朝所二來示一御暦造送之期已過、是彼道申二博士未レ任之由一、不レ進之間、奏進之期漸以近々、若依二彼道之懈怠一更蒙二其責一歟、仍豫所レ申也、命云、早歸參令 レ奏二此旨一、暦博士除目之次可レ任、然而依二日次不一レ宜、于レ今未レ被レ行二京官召一、今日以後無二吉日一、仰二參入上卿一可レ被レ任、即參入、令二則隆奏一、還告云、以二此由一可レ仰二民部卿藤原朝臣一〈○懷忠〉者、〈○中略〉即到レ陣仰二民部卿一、民部卿於二壁後一有レ召被レ示、宰相不レ候、辨官雖二非參議一、候レ座執筆例也、可レ候二其役一、申下可レ被二奏行一之由上、即上卿令三則隆奏二暦博士除目一、依二宰相不一レ候、以二右大辨行成朝臣一令二奉仕一、〈是先例也〉仰云、依レ例可レ行、即上卿就二南座一、余被レ召就レ座、外記奉二硯除目書折堺一、上卿納二之筥一〈豫召二外記一令レ獻レ筥〉給二外記一、參二御所一被レ奏、予猶レ在レ座、上卿復座之後揖、起座而退、
p.0312 長和四年七月八日乙卯、暦博士守道申二請仁統法師一、相倶可レ作二進暦一之由、是故仁宗法師例者、〈仁宗與二父光榮一相倶作進之例也〉 九日丙辰、頭中將資平來云、暦博士守道申請文、昨日覽二左相府一、命云、復任後可レ申者、
p.0312 元禄甲申〈○十七年、即寶永元年、〉三月十三日、勘ケ由小路在富卿ハ、信長ヨリ前ノ人也、此人マデニテ、暦博士ハ絶申候、其子孫ハ、備中國ヘ沈落、家無レ之ニ付、土御門有修ヘ暦被二仰付一候ナリ、加茂友親モ、モハヤ五代暦被レ切候、 右ハ土御門殿御状ニ有レ之ナリ
p.0312 太政官符 應レ定二博士職田一事 合博士廿人、應レ給職田七十三町、〈内五十二町、外廿一町、○中略〉 暦博士職田(○○○○○)三町 山背國二町〈久世郡〉 右圖籍注二暦博士職田一 近江國壹町〈野洲郡元位田〉 右今改二置暦博士職田一〈○中略〉 延暦十年二月十八日
p.0313 陰陽寮〈○中略〉 暦生十人掌レ習レ暦
p.0313 學生卅人、〈陰陽生十人、暦生十人(○○○○)、天文生十人、〉其得業生(○○○)陰陽三人、暦二人(○○○)、天文二人、並取二生内人一、 右得業生選二性識聰慧一令レ專二精學一、其名申レ官給二衣食一、成業年限依レ令、未成業者不レ得レ趁二入他色一、若未レ終レ業、其師(○)遷二外官一者、從レ之終レ業、
p.0313 陰陽寮、〈○中略〉直丁三人、〈天平二年三月廿七日、奏陰陽得業生三人、暦得業生二人(○○○○○○)、並准二大學生一、〉
p.0313 天平二年三月辛亥、太政官奏偁、〈○中略〉陰陽、醫術、及七曜、頒暦等類、國家要道、不レ得二廢闕一、但見二諸博士一、年齒衰老、若不二敎授一、恐致二絶業一、望仰吉田連宜、大津連首、御立連淸道、難波連吉成、山口忌寸田主、私部首石村、志斐連三田次等七人、各取二弟子一、將レ令レ習レ業、其時服食料亦准二大學生一、其生徒陰陽、醫術各三人、曜暦各二人(○○○○○)、〈○中略〉詔並許レ之、
p.0313 天平寶字二年八月庚子朔、其大學生〈○中略〉暦算生、〈○中略〉廿五已上授二位一階一、
p.0313 請レ補二得業生一事 學生正六位上〈某〉姓朝臣〈某〉名 讀書 長慶宣明暦壹部 開元大衍暦壹部 牒、件〈某〉情操聰敏、勤學匪レ懈、望請補二得業生〈某〉姓〈某〉名年限之替一、將レ令レ遂二其業一、以牒、 保安 年 月 日 暦博士二人連署
p.0313 暦師之事 大經師内匠書付指出候趣左ニ記レ之 一幸德井宮内大輔者、陰陽助に而暦を考、毎年霜月に暦獻上いたし、勘文其外御用承レ之候、暦之料紙(○○○○) 者、悉大經師役に而拵遣候、 一宮内住宅南都、御用有レ之節者、出京いたし候、塔之壇幸神町に屋敷致二所持一候、知行者三十石被レ下候由、 一澀川右門は天文者に而、七曜暦考寫本、毎年指出候、寺社奉行衆より、所司代〈江〉被レ遣、宮内内匠〈江〉被二仰付一、板行大經師方に而致候、 一大經師内匠者、暦之寫本、宮内方より請取、板行仕、六月に、江戸(○○)、奥州會津(○○○○)、伊豆三島(○○○○)、勢州山田(○○○○)、南都(○○)、右五個所暦師(○○○○○○)〈江〉板行之寫、本暦二十一卷、所司代〈江〉差上申候、所司代より、寺社奉行衆〈江〉被二指越一候、所司代在府中者、兩奉行所より指下し申候、於二江戸一、澀川右門〈江〉暦爲レ改、其已後寺社奉行衆より、右五所之奉行所〈江〉被二指越一候暦師共〈江〉、相渡致二板行一候、 一大經師板行之暦、毎年霜月に、禁裏、院御所、關東〈江〉、致二獻上一候、御所方下部迄、暦遣申候、且又御所方御殿之障子張替役、年中相務申候、 一内匠知行高、十壹石二斗餘被二下置一、諸役御免許、前々者、綸旨頂戴、所司代下知状相渡り候得共、親内匠より不二相渡一候由、
p.0314 頒暦調所〈又測量所と云○中略〉 諸國暦師(○○○○)及賣暦人(○○○)左のごとし〈日本國中暦面板行五十種あり〉 伊勢内宮(○○○○)暦師〈大板小板壹面宛所持〉 佐藤伊織 同(○) 外宮(○○)暦師 飛鳥帶刀 外宮拾四人、各小板壹面宛、大板は三面之板名字入替相用、内一統折暦、右校合暦三十卷、山田奉 行より來、不レ殘賦暦にて、賣暦にては是なし、〈○以下十三人姓名略〉 伊勢丹生(○○○○)〈折暦一面、校合暦、紀州御城町より、〉 〈暦師〉賀茂杉大夫 三島(○○)〈綴暦一面、校合暦、當人出府差出、〉 〈暦師〉河合龍節 會津諏訪宮(○○○○○)大祝部 近江守從五位下神人方親 同 佐久祝 上總介從五位下神方廣 同 祝 笠原幸之丞勝滿 右綴暦一面宛各賦暦 屬諏方板 〈賣暦〉菊地庄左衞門 右校合暦四卷、會津留守居持參、 會津に限り、寫本暦も留守居呼出相渡、 南都(○○)行暦 〈陰陽師〉中尾主膳 三面綴暦ニ而賦暦 山村左門 藤木左門 小板賣暦壹面宛 中尾主膳 山村左門 右五卷校合暦、奈良奉行より來、外異暦壹通、 京都大經師(○○○○○)〈卷暦大小板貳面、賣暦六通、〉 蜂屋内匠 同(○) 院經師(○○○)〈折暦大板二面、小板壹面、賣暦、〉 菊澤藤藏 右校合暦五卷、京都町奉行より來、 江戸暦問屋(○○○○○)拾壹軒 鶴屋喜右衞門 江戸暦問屋共折暦壹面、綴暦大小二面所持、名前入レ賣暦す、尤賣出之事は、天文方に而申渡有之、〈○以下十人姓名略〉 右校合暦、都合四拾九卷、
p.0316 十四年六月、遣二内臣一〈闕名〉使二於百濟一、〈○中略〉卜書暦本種々藥物可二付送一、
p.0316 十年十月、百濟僧觀勒來之、仍貢二暦本及天文地理書、并遁甲方術之書一也、
p.0316 天文地理 推古天皇十年〈壬戌〉十月、百濟國僧觀勒來貢二暦本、天文、地理、遁甲、方術之書一、或曰庚申年云々、具在レ上、年記相違可レ勘之、
p.0316 暦 〈本朝事始云、推古天皇十二年 甲子 正月 戊戌(戊戌原作戊子據日本書紀改) 朔用二暦日一、〉
p.0316 同日〈○十一月朔日〉中務省奏二御暦一事〈○中略〉 儒傳云、以二小治田朝〈○推古〉十二年歳次甲子正月戊戌〈○戊戌、原作二戊申一、據二日本書紀一改、〉朔一、始用二暦日一、右官史記云、太上天皇〈持統〉元年正月、頒二暦諸司一、
p.0316 我國神代伊弉諾尊、測二日之三天一、雖下考二春秋一定中歳時上、其詳不レ可二得而聞一矣、神武天皇建レ正、始用二三陽之月一、序二歳時月日一、崇神天皇以二遠荒之人猶不一レ受二正朔一、遣二將軍一平レ之、王者之重二正朔一也可二以見一焉、推古天皇之時、雖レ曰三百濟國貢二暦本一、不レ知二何書一也、持統天皇四年、有レ勅始用二西地之暦一(○○○○○○)、此元嘉儀鳳二暦也、
p.0316 倭漢古今歴代暦譜〈上〉 古暦之法不レ可レ不レ知焉、歴代取捨豈可レ不レ考乎、新舊互有二得失一、倭漢素有二里差一、測量之實、推歩之權、共無レ逸二於此一矣、謹案、太昊伏羲氏以二木德一王二於天下一、作二甲暦一、定二歳時一、暦法自レ是起矣、本邦太古有二三大暦法一(○○○○○○○○○)、其法、表二象三筒一以測二日之三天一、考二春秋一定二歳月一、神武天皇建レ正用二人統一、崇神天皇有下夷狄不レ受二正朔一者上、遣二將軍一征レ之、推古天皇時、百濟國貢二暦書一、由レ是觀レ之、本邦自レ古有二暦法一、以重二正朔一既甄然、然其書不レ傳、其術無レ可レ考矣、〈○中略〉
p.0317 三天暦 國史曰、陽神左旋、陰神右旋、分巡二國柱一、同會二一面一、〈臣○土御門泰邦〉謹案、國柱者即地也、太陽常左旋、大陰常右行會二一面一、則合朔之理可レ知也、又曰、表筒男命、中筒男命、底筒男命、〈臣〉謹案、表上也、夏至之日道、中平分也、春秋二分之日道、底下也、冬至之日道、故先儒謂二之日道三天一也、筒者圓々之貌、男者盛陽之稱也、暦家之法、端二二至二分一、則其餘從而自正矣、開レ之則三天三道、約レ之則一天一日、包二羅六合一、照二映萬物一、夫萬世之暦法、無レ不レ本二於爰一而已、
p.0317 そも〳〵上の件のごと、季(トキ)のはじめなども、きはやかにはあらず、月次も日次もなく、又かの天の月による月は有しかども、別事にてありつるなど、すべて事たらはぬに似たれ共、然思ふは、よろづこまやかにこちたきをよきにする、後の世の心にこそあれ、上つ代は、人の心も何もたゞひろく大らかになむ有ければ、さて事はたり、〈○註略〉またかの空なる月による月と、年の來經(キヘ)とをしひてひとつに合すわざなどもなくて、たゞ天地のあるがまゝにてなむ有ける、此二方を、暦に一つに合せたるは、いと宜しきに似たれども、まことは天地のありかたにはあらず、もししか一つなるべきことわりなりせば、もとよりおのづからひとつなるべきに、さはあらで、おくれさきだち行たがふは、必別事にて有ぬべきことわりあることなるべし、〈○中略〉 これぞこの天地のはじめの時に、皇祖神の造らして、萬の國に授けおき給へる天地のおのづからの暦にして、もろこしの國などのごと、人の巧みて作れるにあらざれば、八百萬千萬年を經ゆけども、いさゝかもたがふふしなく、あらたむるいたづきもなき、たふときめでたき眞の暦には有ける、
p.0317 日本紀年暦考 眞暦考に、〈○中略〉もろこしの國のこよみの皇國に渡り來つるは、まづ師木島宮の御世〈欽明〉の十四年に、暦博士また暦本をたてまつれと百濟國に勅ありて、同十五年に、暦博士固德王保孫といへる人まうで來つる事見えたり、これや始なりけむ、されどいまだ世には行はれざりしを、又小治田宮〈推古〉の御世の十年に、百濟の僧觀勒といふがまうで來て暦本を獻りしを、陽胡史の祖玉陳といふ人、この僧に暦法をならひて、事なれりとは見えたれども、此時もまさしくこれを用ひて、世におこなひはじめ給へりし事は見えず、政事要略に、此御世の十二年正月朔より始て、暦日を用ひ給ひしよし見えたり、さもあるべしといはれたり、これにつきてなほ考ふるに、件の欽明紀十四年の度には、六月遣二内臣一使二於百濟一云々、別勅醫博士、易博士、暦博士等宜二依レ番上下一、令二上件色人正當相代一、年月宜下付二還使一相代上、又卜書、暦本、種々藥物可二上送一、とみえたるをよくおもふに、はやく神功皇后の韓國を征給ひ、其國の御政せさせ給ふにあはせては、かの國にて用ふる文字をも朝廷にて知食し、彼が奉れる書どもを讀しめ給ひ、またこなたよりも詔詞書せて賜ふべく、又上古よりありこしまゝにて、神ながらなるおほらかなる御政のみにては、新しく臣服來れるこちたき韓國人を治め給ふ御政には、備はらぬかたもありぬべきを、さらに其韓人の情を知召して治め給はむには、便よきかたもあるべく、又かの國より奏せる事などをも記しおかしめ給ふべく、そのほかよろづに便よかるべければ、その文字の義をもこなたにて知召し、なべて便よからむかたには、こなたの事にかけても、かつ〴〵用ひさせ給ひたるべく、〈この文字の皇國にうつり來り、其を普く世に用ふる事となり、つひにもろこし籍を召上げて、其國風の事を學びとらせ給ひつる趣の本末の考は、中外經緯傳に論へり、〉またかの國にて用ひ來れる年月日次の定を知召さずては、八十艘の調貢船の往還などを正さるべき便よろしかるまじく、はたこなたにてもさる定あらむに、かれとこなたとしるしあはするに便よきわざなれば、かた〴〵かの國にて用ふる暦の、一年一月の日數の定などを、年々に召 上て用ひ給ひたりしなるべし、〈もろこしにて外の國々を懷けなどして、おのが國の暦を授け用ひさせて、其を正朔を授くなどいひて、わが臣國なりと稱ひて、われたけく誇りをるとは、いたくしな殊にて、そのかみ皇國にしては、ことに暦といふべき事をしたゝめて用ひ給へることはあらず、おのづから其定ありて、よろづにたゝひたりつれど、から國を治め給ふとして、かの國にて用ひ居れる正朔を獻らしめて、取用ひ給ひたりしことわりなり、〉さてその欽明天皇の御世におよびては、その暦をまたく用ひ給はむとして、其道の博士を召上て、常に交替仕奉るべく詔ひつけ給ひ、暦法の書をも奉らしめ、其趣を聞召し、臣たちの中をゑらびてかつ〴〵學ばせ給ひたりしなるべし、かくて〈敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇の御世を歴て、〉推古天皇の御世におよびて、紀に、十年冬十月、百濟觀勒來之、仍貢二暦本及天文地理書云云書一也、是時云云、陽胡史祖玉陳習二暦法一、大友村主高聡學二天文遁甲一云云、皆學以成レ業とみえたり、かくて同十二年より其暦を用ひ給ひ、始て天下に頒行はせ給ひたりしなり、其は政事要略廿五卷に、儒傳云、以二小治田朝十二年歳次甲子正月戊戌朔一始用二暦日一、〈伊呂波字類抄に引載たる本朝事始にも如レ此いへり〉とみえたる是なり、書紀には、是日に始賜二冠位於諸臣一各有レ差と見えて、始用二暦日一の事みえず、かゝる重事を記洩さるべきにはあらざめるを、既く寫脱せる本の、今の世に傳はれるものなるべし、〈さて又今も法隆寺に在る釋迦佛光後銘文に、法興元卅一年、歳次辛巳十二月云云、明年二月廿一日癸酉云云、とある辛巳年は、推古天皇二十九年に當り、また其下文に癸未年三月中、如願敬造釋迦尊像、と記せる癸未年は、同三十一年に當りて、此佛像を造りて、すなはち彫りたる文なり、かの始て暦日を用ひ給へる十二年より、二十年の後に當れり、そのかみ既に暦日を用ひ給ひ、年にも日にも干支を當て行ひ給ひたりし證とすべし、然るに伊豫風土記に載たる、大分速見湯の碑文に、法興六年歳在二丙辰一とみえたるは、同天皇の四年に當れば、此は彼暦日を用始め給へる十二年より、十二年前なれど、此は後に定めたまへる暦日を遡せて作るものとすべし、さていはゆる法興は年號ながら、後の御世のとは其趣同じからず、すべて上古の年號年立の事は長柄山風の附録年號論の中にいへり互に考合すべし、〉其のち持統天皇の御世におよびて、〈政事要略に、右官史記云、太上天皇(持統)元年正月頒二暦諸司一とみえたるは、前の頒暦の例の外に、別に諸司ごとに暦を頒賜ふ事を始給へる由なるべし、この事書紀には見えず、さて此右官史記は持統天皇の御世の事を、太上天皇元年と記せるをおもへば、文武天皇の御世の右大史の記なるべし、〉紀に、四年〈庚寅〉十一月甲申、勅始行三元嘉暦與二儀鳳暦一とみえたり、〈中根元圭の皇和通暦に、件の兩暦を推算して、この御世の五年より、元嘉暦を用ひ給ひ、文武天皇元年より、儀鳳暦を用ひ給ひしものなりといへり、此元圭といへるは、暦道に卓れて精しき人ときこゆれば、きはめて然ることなりしなるべし、〉かくて皇和通暦に、持統天皇遡至二神武天皇一、 歳月支干、昭然可レ見、而推二諸異邦諸暦一、率多二牴牾一、伏稽、崇神天皇時、遠荒不レ奉二正朔一、遣二六師一討レ之、載有二明文一、則知三吾邦神聖開レ基、自有二若レ天授レ民之敎一焉、世多憾二歴古杳邈湮滅不一レ傳也、今特因二史籍支干朔望之所一レ在、推而求レ之、則其法具存矣、蓋千三百有餘年間三更二斗憲一、神武天皇東征甲寅以至二仁德天皇十年壬午一、凡九百八十九年、一法今號曰二上古暦一、同十一年癸未以至二皇極天皇元年壬寅一、凡三百二十年、一法今號曰二中古暦一、同二年癸卯以至二持統天皇五年辛卯一、凡四十九年、一法今號曰二晩古暦一といひて、持統天皇以前不レ知レ用二何暦一、則又不レ知レ用二何建一といへり、〈此考説の中に、晩古暦を至二持統天皇五年辛卯一といへるは意得がたし、さるは四年庚寅の十一月に、勅始行云云暦とみえたるは、改暦せさせ給ふ詔にて、翌る五年正月より其暦を頒行ひ給ひたりしなるべければ、至二四年庚寅凡四十八年と書べきを、ふと書錯りたりとみゆ、又いはゆる上古、中古、晩古の三暦を、神聖開基若天授民之敎といへるは、そのかみの國史を熟く讀て、世のさまを稽へわきまへざりつるが故に、暦法の異なるに惑ひ、書紀の崇神天皇の御世に、遠荒不レ奉二正朔一、と記されたる、此紀の例の漢文の潤飾の正朔の語に泥めるにて、かたはらいたき説なり、〉さてこの推算暦法によりて、今おのれが考に當て推考ふるに、おほよそ神功皇后の御世のころより、〈そのかみ韓國にて、はやくよりもろこしざまの暦を用ひたりとは決く聞ゆれど、その國にてさらに作れるにか、又もろこしより得て用ひたるにか、神功皇后の御世のはじめつかたは、もろこしは後漢の獻帝が世のころにて、はやく夏の定めの如く、今の正月を正月として在こしなり、〉仁德天皇の十年壬午まで、百濟の暦日を用ひ給ひ、そのほど其國人などに命せて、其暦法によりて上世に遡て年紀を製らしめ置て、さて韓國御征のはじめより、御政にあづかることゞもをもはら記さしめ給ひ、又上古より語繼來れる古事をもかつがつ記さしめ給ひたりしなるべし、〈これまでいはゆる上古暦の間なり〉かくて仁德十一年癸未よりは、〈もろこしは、西晉の明帝が世に當れり、〉かの國にて改たりけむ暦日を用ひ給へるほど、上にも論へる如く、欽明天皇の御世におよびて、百濟より暦博士をめさせて、其趣をきこしめし、その暦法を習はし試みて、こなたにて暦本作らしめ給んとせさせ給ひたりけんが、業ならでやみたりしに、推古天皇の御世の十年に、さらに玉陳に命せて、百濟僧觀勒に暦法を習はしめ給ひ、業成てければ、始てその暦本を作らしめ給ひ、十二年甲子より天下に頒行し給ひ、〈いはゆる中古暦なり、是年もろこしは、隋の文帝が世仁壽四年にて元嘉暦を用ひ たりけむを、元主が考に、其暦法ならずといへば、そのかみ百濟の改法なりしなるべし、〉又皇極天皇二年癸卯より暦法を改め給ひ、〈いはゆる晩古暦なり、但しこれも又百濟改暦の法なりしか、又はこなたにて改させ給へるか、考ふべき由なし、もろこしは唐の太宗が世の貞觀十七年にて、なほ元嘉暦を用ひたりけむ、〉持統天皇五年より元嘉暦を用ひ給ひ、〈元嘉は劉宋の文帝が世の年號なり、允恭天皇の御世に當れり、〉文武天皇元年より儀鳳暦を用ひたりしなり、〈儀鳳は唐の高宗が世の年號にて、天武天皇の御世に當れり、さて此後の改暦の事もくはしく通暦に記したれど、こゝにはいたづらなれば云はず、〉
p.0321 此卷朔策、自二前卷神武天皇東征甲寅歳一、至二此卷末孝安天皇四十一年十月一、三百十六年間、先天暦(○○○)也、是以後(○○○)、用二後天之朔策一(○○○○○○)、 神武天皇元辛酉年 正小 壬寅 庚辰 寅三 二大 癸卯 己酉 申六 三小 甲辰 己卯 卯初 四大 乙巳 戊申 酉四 五小 丙午 戊寅 卯七 六大 丁未 丁未 戌二 雨水 丙戌 申初 七日 春分 丁巳 丑三 九日 穀雨 丁亥 午五 九日 小滿 戊午 亥七 十一日 夏至 戊子 巳初 十一日 大暑 己未 戌三 十三日 〈朱書〉正月庚辰朔 七小 戊申 丁丑 辰五 八大 己酉 丙午 戌八 九小 庚戌 丙子 巳二 十大 辛亥 乙巳 亥五 十一小 壬子 乙亥 巳八 十二大 癸丑 甲辰 子三 處暑 己丑 卯丑 十三日 秋分 庚申 申七 十五日 霜降 庚寅 寅初 十五日 小雪 辛酉 未三 十七日 冬至 辛卯 子五 十七日 大寒 辛酉 巳七 十八日
p.0321 授時暦翼解序〈○中略〉 本朝天武帝以前、未レ知レ用二何暦一、持統帝四年始用二元嘉暦一(○○○)、後用二儀鳳暦一(○○○)、廢帝〈○淳仁〉改二儀鳳暦一而用二大衍暦一(○○○)、文德帝用二五紀暦一(○○○)、淸和帝貞觀三年停二大衍暦一而用二宣明暦一(○○○)、宣明暦之行二於本邦一、因循久矣、迄二乎貞享元年一、既歴二八百二十三年一、其差忒寢甚矣、幸今逢二聖明之時一、嘗有レ詔改レ暦、順二大統暦之法一而微損二益之一、造二 貞享暦一(○○○)、以立二一代之法一、天下家誦戸行、豈非二盛事一乎、
p.0322 高祖受二隋禪一、傳仁均首陳二七事一、言、戊寅歳時正得二上元之首一、宜下定二新暦一以符中禪代上、繇レ是造二戊寅暦一(○○○)、祖孝孫李淳風立レ理駁レ之、仁均條答甚詳、故法行二於貞觀之世一、高宗時、太史奏、舊暦加時寢差、宜レ有二改定一、乃詔二李淳風一造二麟德暦一(○○○)、初隋末劉焯造二皇極暦一(○○○)、其道不レ行、淳風約レ之爲レ法、時稱二精密一、天后時、瞿曇羅造二光宅暦一(○○○)、中宗時、南宮説造二景龍暦一(○○○)、皆舊法之所レ棄者、復取用レ之、徒云二革易一、寧造二深微一、尋亦不レ行、開元中、僧一行、精二諸家暦法一、言、麟德暦行用既久、晷緯漸差、宰相張説言レ之、玄宗召見、令レ造二新暦一、遂與二星官梁令瓚一先造二黄道游儀圖一、孝二校七曜行度一、準二周易大衍之數一(○○○○○○○)、別成二一法一(○○○○)、行用垂二五十年一、肅宗時、韓頴造二至德暦一(○○○)、代宗時、郭獻之造二五紀暦一(○○○)、德宗時、徐承嗣造二正元暦一(○○○)、憲宗時、徐昻造二觀象暦一(○○○)、其法令存、而无下計二蔀章一之數上、或異二前經一、而察二歛啓閉之期一、何殊二舊法一、至レ論二徴驗一、罕レ及二研精一、綿代流行、示二存經法一耳、前史取二傅仁均、李淳風、南宮説、一行四家暦經一爲二暦志四卷一、近代精レ數者、皆以淳風一行之法、歴二千古一而無レ差、後人更レ之、要立レ異耳、無レ踰二其精密一也、
p.0322 本朝用暦〈付〉改暦事 日本往古何レノ暦法ナリシコト未レ詳、唐土モ漢朝以前ノ暦ハ不レ詳、漢太初暦法、粗史記漢書ニ志セルヨリ聯綿トシテ不レ絶、本朝應神帝ノ御宇、儒書初メテ朝ニ入テ漢字ニ通ゼリ、此ノ時既ニ用暦ナクンバアルベカラズ、按ズルニ漢暦ヲ用ヒラレシナランカ、四十一代持統天皇ノ御時、南宋ノ元嘉暦ヲ用ヒラレタリ、聖武天皇ノ御時唐ノ儀鳳暦行レ、廢帝天皇ノ御時、唐ノ一行禪師ノ大衍暦用ラレ、淸和天皇ノ御代、唐ノ徐昻ガ造レル宣明暦ヲ用ヒ給ヒシヨリ以來、貞享元年甲子ニ至ツテ、皇家六十七世ヲ經テ、八百貳拾五年ニ及ブマデ、終ニ改暦ノ事ナカリシ、唐土ニ於テハ宣明暦ノ後崇玄、欽天、應天ノ數暦、其外改暦代トシテ無レ之ハナシ、皆其暦久シキ時ハ、天ト暦ト差フ事アリテナリ、蓋造暦當時ノ天度ニ密合ストイヘ共、天行不盡ノ差アルニ依テ、年ヲ積コト久シ キトキハ、造暦差ナキコト不レ能、此故ニ宣明暦今時ノ天度ニ後ルヽコト、當暦ニ較ルニ氣節二日餘後レ、合朔或ハ一日ノ違ヒアリシ、是ニ依テカ朝廷暦家ニ勅アリテ、貞享二年宣明暦ヲ止メテ今暦ヲ行ハル、貞享暦ト號ス、今淸朝ノ時憲暦ニ較ベ考フルニ、朔望ハ凡違ヒナシトイヘ共、清暦ノ氣節、冬至後ハ和暦ニ先ダツコト一日、或ハ二日、夏至後ハ和暦ニ後ルヽコト一日、又ハ二日ナリ、此故ニ閏月又一二月ノ先後アリ、此兩暦孰カ正法ナルコト未レ知、暦世ノ後ニ於テ天度ニ差フコト少キヲ以テ善暦トスベシ、豫メ是非ヲ論ズルニ詮ナシ、
p.0323 本朝暦法沿革之事 抑本朝暦法の起原は、推古天皇の御時、百濟國僧觀勒始貢二暦術一云こと、三代實録に見へたり、〈日本紀不レ見〉又政事要略曰、以二小墾田朝十三年歳次甲子正月戊申朔一始用二暦日一云々、 按、此時百濟國僧觀勒暦日のことを貢せしと云のみにて、測量暦法の事、且本朝にてその暦法を習學せし人等のこと不レ詳、以來文武天皇の朝に至まで、暦日のこと所見なし、されば唯暦日をもちひられたることのみとみへたり、 持統(四十一代)天皇四年十二月甲申、奉レ勅始行三元嘉暦(○○○)與二儀鳳暦一(○○○)云々、 是時より至二廢帝天皇天平寶字七年一、其年間凡七十二ケ年の間、此二暦の法を用ひられたるなり、元嘉暦は、宋文帝元嘉年中、何承天作二進之一、儀鳳暦は、諸史傳に暦名不レ詳、若しくは唐高宗儀鳳年中に、唐朝より傳來するものか、朝にては二法ならべ用ひらるゝなり、 廢帝天皇天平寶字七年八月、停三元嘉暦與二儀鳳暦一、而用二開元大衍暦一(○○○○○)、 是時より至二淸和天皇貞觀二年一、其年間凡九十八ケ年なり、大衍暦は唐玄宗開元年中、詔二僧一行一令レ作レ之、本朝にては、 文德天皇齊衡三年、有二五紀暦(○○○)之法一、而與二大衍暦一併行也、 是時より至二淸和天皇貞觀二年一、其年間凡六ケ年なり、五紀暦は唐代宗詔二郭獻之等一令レ作レ之、 本朝にては、寶龜十一年に、遣唐使録事故從五位下行内藥正羽栗臣翼貢二寶應五紀暦一と云へり、 淸和天皇貞觀三年六月十六日、停二大衍暦及五紀暦一、用二長慶宣明暦一(○○○○○)矣、 是時より至二靈元天皇貞享元年一、其年間凡八百有二十四年なり、〈二十四年、一本二十三年とす、〉宣明暦は、唐穆宗の長慶年中詔二徐昻一令レ作レ之、本朝にては、貞觀元年、渤海國大使馬孝愼新貢二長慶宣明暦一、大春日朝臣眞野麻呂試加二覆勘一、理當固然、仍以二新暦一比校、大衍暦五紀暦等兩經、且察二天文一、且參二時候一、兩經術漸以麤疏、令朔節氣候既有レ差云々、此奏によりて暦法改まりたるなり、 靈元(百十三代)天皇貞享元年、停二長慶宣明暦一、而用二貞享暦一(○○○)、 是時より至二桃園天皇寶暦四年一、其年間凡七十一ケ年なり、貞享暦は元の授時暦法と、明の大統暦法合せ考へて、本朝の算學者保井算哲作二進之一、元の授時暦本朝へ間(ヒマ)の仇ありて渡來、故ありて明到來なしと云へり、大統暦は明の高帝洪武年中詔二元統一造レ之、 桃園天皇寶暦四年十一月、停二貞享暦一而用二寶暦甲戌元暦一(○○○○○○)矣、 是時より至二今年寬政九年十一月一、其年間凡四十四年なり、甲戌元暦者、靈元天皇の詔を蒙て、土御門陰陽頭安部泰邦卿、算學士等を會し集て作進あり、實本朝測量の術法なり、 今上(百廿代)天皇〈○光格〉寬政九年十一月、停二寶暦甲戌元暦一、而明年正月より新暦法(○○○)の改暦頒行るゝの事公命あり、 今年より以往萬々年 改暦法のこと、元嘉暦儀鳳暦に起て、及二今年一凡六ケ度なり、其暦法の名義は凡八ケ數なり、今是を捷見せしめん爲に、左に其名目を注す、 持統天皇の朝、四年十一月より、 元嘉暦 二法兼用らる 儀鳳暦 廢帝天皇の朝、天平寶字七年八月より、 大衍暦 文德天皇の朝、齊衡三年、 五紀暦 併せ用ひらる、但五紀暦の法は小に六ケ年なり、 淸和天皇の朝、貞觀三年六月より、 長慶宣命暦 靈元天皇の朝、貞享元年、 貞享暦 桃園天皇の朝、寶暦四年十一月より、 寶暦甲戌元暦 今上、寬政九年十一月より、 新暦法 以上 寬政九年十一月廿一日 橘嘉樹
p.0325 頒暦調所〈又測量所と云〉 按に、本朝にて暦を造らしめられしは、古代よりの事なれど、古くは皆唐國の暦法を用られしなり、本朝の暦法行はれしは、安井算哲〈今の澀川助左衞門が先祖なり、元は碁所にて安井算哲といひしが、後暦學に依て登庸せられ、祿三百俵を賜はり、その後氏名を改めて澀川助左衞門と稱す、〉が撰びし貞享暦(○○○)を始とす、其後六十餘年を歴て、佐々木文次郎(○○○○○○)と云者、〈今の吉田勇太 郎が先祖なり、後年氏を吉田と改む、〉暦法に達せるを以て、召出されて改暦をなすもの寶暦暦(○○○)也、その後又四十四年にして、改暦ありしより、其術最密を極めて、天度の違なきに至るといへり、寬政改暦(○○○○)の時は、高橋作左衞門(○○○○○○)〈今の作左衞門の父なり〉を登庸ありて、是を司らしめらるといへり、
p.0326 四年十一月甲申、奉レ勅始行三元嘉暦(○○○)與二儀鳳暦一(○○○)、
p.0326 元嘉儀鳳暦〈○中略〉 〈臣〉謹按、〈○中略〉蓋元嘉暦者、劉宋元嘉二十年何承天所レ造(○○○○○)、而日法七百五十二、其術與二古暦一大率無レ異矣、儀鳳暦者、唐高宗時、太史李淳風所レ造(○○○○○)、而日法一千三百四十、其術大異二於古暦一、而不レ用二蔀章元紀之數一、定二四大三小之法一、與二元嘉暦一懸隔、又一起二氣於雨水一、一求二數於冬至一、彼有二朔元之弊一、此無二歳差之法一、如レ斯兩暦之術已齟齬、況二暦相去二百三十餘年者乎、何便可二兼用一焉、由レ是推レ之、則二暦不二同行一必矣、疑四年行二元嘉一、六年行二儀鳳一者歟、
p.0326 神武天皇東征七箇年の紀年を初として、次々二三四五の卷々を經て、是六卷持統天皇十一年といふ丁酉歳まで、一千三百六十四年にて、日本書紀に載させ給へる紀年暦日、みな擧げ盡せるに就て、こゝに論ひ結むべき事なむ有る、そは右天皇四年庚寅歳の紀文に、十一月甲戌朔甲申、奉レ勅始行三元嘉暦與二儀鳳暦一と有るは、元嘉にまれ、儀鳳にまれ、一暦を純用せず、二暦を相兼ねて用ふる由なり、〈下に出す淸和天皇紀なる大春日朝臣眞野麻呂の上言に、齊衡三年に大衍暦と五紀暦とを相兼用ひて、偏用せざれと詔ひ出たるよし見えたるは、此を先例となし給へるにぞ有るべき、〉さて紀文に、斯の如く四年の十一月より、右の二暦を行ふとは有れど、こは實には然らず、其は上第三十一葉の表、天武天皇十一年の所に、標記せる如く、是年の六月壬戌朔より、子初刻に起る策を用給へるが、持統天皇六年といふ壬辰歳の十月まで、百二十九月の間なる朔、御紀に百二十出たると、盡に符合せり、〈また此百二十九月の中に、四閏月あるに、是また一ツも違はざれば、氣朔もまた符合せるなり、〉然て此次第に推下れば、此天皇六年といふ年の十一月は小にて、壬辰朔なるに、 御紀に、九月癸巳朔、十月壬戌朔、十一月辛卯朔とあれば、九月十月は朔の干支こそ古暦と合へ、連小の月なるは、後暦の法にて、古暦に都て無き事なれば、紀文の四年は、六年の誤かとも思はるれば、此は姑くさし措て、其十二月より同十一年丁酉歳の閏十二月まで、六十三月を比校するに、御紀に、此朔五十七出たる中に、十年丙申歳の十二月と、十一年丁酉歳の四月と、たゞ二朔合ざる耳にて、其餘五十五朔みな符合せり、故其五十七朔を元嘉暦と比校するに、六年の十一月、十年の十二月、十一年の四月、八月と、凡て四朔合はず、儀鳳暦と比校すれば、六年の三月、五月、九月、七年の十二月、八年の五月、九年の七月、八月、十年の三月、五月、十月、十一年の二月、六月と、都て十二朔合はず、〈此元嘉儀鳳二暦の比校は、既く中根璋が皇和通暦に比校せるに依て云なり、〉故考ふるに、御紀に、四年十一月より始行ふと有れど、此は澀川氏の長暦に、其六年の所に、右の紀文を引きて、五年之支干、皆據二古暦一、是歳九月、十月、比月小始二于此一と云る如く、四年十一月にしか詔ひ出ては有つれど、五年を經て、六年九月までは、其二暦を用ひず、仍古暦を用ひしこと論ひなし、〈然るを皇和通暦に、右御紀の全文を引つゝ、其四年と五年とをおきて、六年壬辰歳より以下を論じたるは、麤略なる事なり、〉斯て此六年と云ふ壬辰歳に至りて、實に始めて二暦の法を用ひて、九月の素より小なるに、十月をも小と爲して、比月の小を始め、十一月は小壬辰朔なるを、大辛卯に改め給へり、然れど其はたゞ是十一月のみこそ有れ、其十二月大辛酉朔よりして、復元の古暦の儘にて、十年と云ふ丙申歳の十一月小己亥朔まで四十九月、連大の所在も、何も古暦なれば、此四年の間も、かの二暦法を用ひられざること炳焉なり、〈澀川翁の長暦に、自二六年一用二儀鳳暦一と云へるを、通暦に論ひて、源春海以爲、壬辰以距二天平寶字七年癸卯一、通七十二年、用二儀鳳暦一とて、其説を斥せるは、然る事なれど、三代實録なる、眞野麻呂の言に、始用二元嘉暦一、次用二儀鳳暦一とあるに據りて、此六年の間、元嘉暦を用ひ給へりと爲たるは、攷究なほ委からず、其は次に云ふを見て知べし、〉然て此丙申歳の十二月は、大戊辰朔なるを、小己巳朔となし、丁酉歳の正月小戊戌朔と比べて、連小となし、二月三月は連大なるを、大小と爲して、四月小丁卯朔なるを、大丙寅朔となし、八月乙丑朔は古暦と合へど、此は書紀こそ有れ、續紀に は八月甲子朔とあり、然れば七月八月また連小なり、かく打合せて攷ふれば、其十年といふ丙申歳の十一月より、古暦を廢して、再更にかの二暦をかね用ひ給へるなり、故是を以て、此丁酉歳ごろの御紀なる暦日は、元嘉にても、儀鳳にても、全くは合ひ難くぞ有ける、〈然るを皇和通暦に、按此丁酉如從二元嘉一、則四月八月十二月之朔不レ合、且閏在二十月一、從二儀鳳一、則唯二月六月之朔不レ合耳、故今斷以二丁酉一爲下用二儀鳳暦一之始上、其國史之有レ所レ不下與二暦法一相合上者、蓋縁二當時司暦失算一焉耳と云へるは、信がたし、其は此比校にても、元嘉にて合ざるが、儀鳳に合ひ、儀鳳にて合ざるが、元嘉に合ふを以ても、兼用せること著明なり、唯そが中に、儀鳳を專と取りて、元嘉を次に爲たらむと思はるゝ事ども多かり、〉斯て此より年經て、いつと無く、元嘉暦を兼用ふる事を停めて、儀鳳暦のみ純用ひられし故に、天平寶字七年の紀文に、廢二儀鳳暦一とのみ見えて、元嘉暦の事は無きなり、扨是より後は、皇朝固有の古暦をば、一向に廢果まして、次々に異邦の諸暦を用ひ給ふ事と成ぬ、
p.0328 天平寶字七年八月戊子、廢二儀鳳暦一用二大衍暦一(○○○)、
p.0328 一日 奏二御暦一事〈○中略〉 天平寶字七年、眞野麿祖父船主造二進四種暦一以降、交蝕合レ度、時候不レ 、國家須用、于レ今相續、
p.0328 大衍暦 唐玄宗開元十六年、僧一行造レ之(○○○○○)、推二大衍數一立レ術以應レ之、較二經史所一レ書、氣朔日名宿度可レ考者皆合、十五年草成、而一行卒、詔二特進張説一、與二暦官陳玄景等一、次爲二暦術七篇、略例一篇、暦議十篇一、玄宗顧二訪者一則稱二制旨一、明年説表上レ之、越十七年頒二于有司一、時善算瞿曇譔者、怨レ不レ得レ預二改暦事一、二十一年與二玄景一奏二大衍暦、九執暦一、其術未レ盡、太子右司衞、率南宮説亦非レ之、詔二侍御史李麟太史令桓執圭一、較二靈臺候簿一、大衍十得二七八一、麟德纔三四、九執一二焉、乃罪二説等一而是否決、自二太初一至二麟德一、暦有二二十三家一、與レ天雖レ近而未レ密也、至二一行一密(○○○○)矣、其倚數立法固無二以易一也、後世雖レ有二改作者一依倣而已、故詳録レ之、略例所三以明二述作本旨一也、暦議所三以考二古今得失一也、其説皆足三以爲二將來折衷一、先レ是雖レ有二麟德經緯暦、則天聖 暦、光宅暦、神龍乙巳暦一、而皆不レ行、又玄宗開元六年、以二西域九執暦一、令三太史監瞿曇悉達翻二譯之一、故有二大衍參九執之説一、開元大衍暦演二紀上元閼逢困敦之歳一、距二開元十二年甲子一、積九千六百九十六萬一千七百四十、算一日歩中朔術通法三千四十、策實百一十一萬三百四十三、揲法八萬九千七百七十三、減法九萬一千二百、策餘萬五千九百四十三、用差萬七千一百二十四、卦限八萬七千一十八三、元之策十五餘六百六十四秒七四、象之策二十九餘千六百二十三、中盈分千三百二十八秒十四、朔虗分千四百二十七、象統二十四行、三十四年而先二於五紀暦一十二刻也、
p.0329 僧一行、姓張氏、先名遂、魏州昌樂人、襄州都督郯國公公謹之孫也、父擅武功令、一行少聰敏、博覽二經史一、尤精二暦象陰陽五行之學一、時道士尹崇、博學先達、素多二墳籍一、一行詣レ崇借二楊雄太玄經一、將歸讀レ之、數日復詣レ崇還二其書一、崇曰、此書意指稍深、吾尋レ之積年、尚不レ能レ曉、吾子試更研求、何遽見レ還也、一行曰、究二其義一矣、因出二所レ撰大行玄圖及義決一卷一以示レ崇、崇大驚、因與二一行一談二其奧賾一、甚嗟二伏之一、謂レ人曰、此後世顏子也、一行由レ是大知レ名、武三思慕二其學行一、就請與結レ交、一行逃匿以避レ之、尋出家爲レ僧、隱二於嵩山一、師二事沙門普寂一、睿宗即レ位、勅二東都留守韋安石一、以レ禮徴二一行一、固辭以レ疾不レ應レ命、後歩往二荊州當陽山一、依二沙門悟眞一以習二梵律一、〈○中略〉一行尤明二著述一、〈○中略〉時麟德暦經推歩漸疎、勅二一行一考二前代諸家暦法一、改造二新暦一、又令下率府長史梁令瓚等與二工人一創二造黄道遊儀一、以考二七曜行度一、互相證明上、於レ是一行推二周易大衍之數一、立レ衍以應レ之、故撰二開元大衍暦經一、至二十五年一〈○開元〉卒、年四十五、
p.0329 天安元年〈○齊衡四年〉正月丙辰、〈○十七日〉先レ是暦博士大春日朝臣眞野麿、上請以二開元大衍暦經一造暦年久、而今撿二大唐開成四年大中三年兩年暦一、注二月大小一頗有二相謬一、覆二審其由一、依二五紀暦(○○○)經一造レ之、望請依二件經術一將二造進一、今日仍許レ之、眞野麻呂暦術獨歩、能襲二祖業一、相二傳此道一、于レ今五世也、
p.0329 五紀暦 三代實録眞野麻呂奏言曰、寶龜十一年遣唐使録事故從五位下行内藥正羽栗臣翼貢二寶應五紀 暦經一云、大唐今停二大衍暦一、唯用二此經一、天應元年有レ勅、令下據二彼經一造中暦日上、無二人習學一、不レ得レ傳レ業、猶用二大衍暦經一已及二百年一、眞野麻呂去齊衡三年申請、用二彼五紀暦一、朝廷議云、國家據二大衍經一造二暦日一尚矣、去レ聖已遠、義貴二兩存一、宜二暫相兼一、不レ得二偏用一、由レ是撿レ之、五紀在二頒行列一可レ知也、臣〈○土御門泰邦〉按、自二上元甲子一距二今年一積年二十七萬九百七十、日法一千三百四十、自二文德天皇齊衡三年丙子一、至二貞觀四年壬午一、與二大衍暦一兼行七年(○○○○○○○○)也、
p.0330 五紀暦 唐肅宗寶應元年壬寅、司天臺官屬郭獻造レ之、〈○中略〉臣按、唐書暦志曰、唐終始二百九十餘年而暦八改、初曰二戊寅元暦一、曰二麟德甲子元暦一、曰二開元大衍暦一、曰二寶應五紀暦一、曰二建中正元暦一、曰二元和觀象暦一、曰二長慶宣明暦一、曰二景福崇玄暦一而止矣、
p.0330 太政官符 應レ用二長慶宣明暦(○○○○○)經一事 右陰陽頭從五位下兼行暦博士大春日朝臣眞野麻呂解状偁、謹撿二古記一、豐御食炊屋姫天皇〈○推古〉十年壬戌冬十月、百濟僧觀勒來貢二暦術一、而未レ行二於世一、高天原廣野姫天皇〈○皇極〉四年庚寅冬十二月、有レ勅始用二元嘉暦一、次用二儀鳳暦一、高野姫天皇〈○孝謙〉天平寶字七年八月、停二儀鳳暦一用二開元大衍暦一、厥後寶龜十一年、遣唐録事内藥正從五位下羽栗臣翼貢二寶應五紀暦經一、申云、大唐今停二大衍暦一唯用二件經一者、天應元年、有レ勅令下據二件經一造上レ暦、無二人習學一、不レ得二講成一、猶據二大衍暦經一勘二造暦日一、已及二百年一、眞野麻呂去齊衡三年、申乙請可下以二五紀暦一作上レ暦之状甲、而太政官四年正月十七日符偁、國家據二大衍經一作レ暦尚矣、去レ聖已遠、義貴二兩存一、宜暫相副令二作進一者、依二件符旨一、大衍五紀相副作進二箇年也、去貞觀元年、渤海大使馬孝愼新貢二長慶宣明暦經一言、是大唐新用經也、眞野麻呂試加二覆勘一、理當二固然一、仍以二件新經一比二校大衍五紀等兩經一、且察二天文一、且參二時候一、兩經之術漸似二麤疎一、合朔節氣既有二相差一、又勘二大唐開成四年大中十二年等暦一、 不下復與二彼新暦一相違上、暦議曰、陰陽之運隨レ動而差、差而不レ已、遂與レ暦錯者、方今大唐開元以來三改二暦術一、而我國家天平以降猶用二一經一、靜言二事理一、實不レ可レ然、望請停レ舊用レ新、欽若二天歩一、謹請二官裁一者、右大臣宣、奉レ勅依レ請、 貞觀三年六月十六日〈○又見二三代實録一〉
p.0331 宣明暦 淸和天皇貞觀三年辛巳、眞野麻呂用レ之、〈○中略〉臣〈○土御門泰邦〉以爲、眞野麻呂者、本朝暦法鼻祖也、故春海長暦序曰、千載下、數千載上、則恐不レ能レ無レ差也、將來若二大春日眞野麻呂、安倍淸明一者出、有二以正一レ之、則著明云爾、臣今讀二此奏言一、達二歳差之法一精二陰陽之理一、但疑大唐開成四年、即唐文宗己未年、値二本朝仁明天皇承和六年一、此時本邦用二大衍暦一、唐已用二宣明暦一、又天平十二年者、聖武天皇治世庚辰年、即値二唐玄宗開元二十八年一、溯二回於天平十二年一、凡九十九年、此時唐用二大衍暦一、本邦用二元嘉儀鳳暦一、而未レ用二五紀大衍一也、若考レ此、天平之號於二異邦一、則東魏孝靜帝元年甲寅號、而上去二數百年一也、固未レ關レ有二五紀大衍之論一也、又疑、奏言前曰以二彼新暦一比二校大衍五紀一、兩經之術麤疎、節氣有レ差、後曰、勘二開成天平之暦一、不下復與二彼新暦一相違上、是文辭前後不二相首尾一、恐不字衍歟、積年七百七萬一千七十、日法八千四百、自二貞觀四年一至二貞享元年一、行八百二十三年、後二於天一二日有奇也、
p.0331 宣明暦 唐穆宗長慶二年壬寅、司天徐昻造レ之(○○○○)、上元七曜起二赤道虚九度一、其氣朔發歛日躔月離、皆因二大衍舊術一、晷漏交會、則稍增二損之一、更立二新數一、以歩二五星一、後世日蝕之精數、無レ不レ據二于此一、
p.0331 暦日異同〈○中略〉 古暦書曰、〈上略〉建仁年中、大外記賴業、以レ金誂二遣唐使一渡二暦書一、號二宋開禧暦本一、吾朝用二宣明暦一、而以二此開禧暦一(○○○)欲レ破二宣明暦一、於レ是暦博士等失レ色之處、開禧有二一日相違一、仍被レ捨レ之(○○○○)、
p.0332 請レ革レ暦表 〈臣〉保井〈算哲、〉誠惶誠恐、頓首再拜言、治レ暦明レ時、人皇以來立二日官一、而平二暦數一、頒二諸四海一、以授二人時一、其爲レ德也大矣哉、欽惟、方今矜二育黎庶一、制レ法設レ度、復無レ不レ足、可レ謂二海内治平道義之秋一也、而暦學獨不レ顯、暗昧無レ聽、妄以傳レ妄、謬以承レ謬尚矣、實昭代之一缺事也、〈臣〉聞、暦數一差、寒暑過レ候、耕種失レ時、農桑無レ利者矣、是以、唐堯正二暦象一、周公測二日景一、前聖之所レ重焉、本朝五改レ暦矣、〈臣〉曾受二星學於岡野井〈玄貞一、〉而後累年立レ表測レ晷、正知所二頒行一之宣明暦(○○○)、後二於天一二日矣(○○○○○○)、今精二于天文一、則陰陽頭安倍泰福踰二千古一矣、有二松田〈順承〉者一、審二於暦數一矣、伏按、與下達二天文暦學一者上議レ之、正二暦象一、節氣朔望無レ差、則風雨時、天人和、澤被二天下一、永施二後世一乎、〈臣〉逢二聖明之時一、得レ列二于厩馬之後一、實大幸也、竊恐、一日犬馬齒盡、塡二國恩之萬一一亦不レ可レ得、獻芹之私志、眷々不レ已、越レ位上言、敢陳一區々一、垂レ仁採納焉、抗レ表、實惶誠恐頓首々々、 天和三年十一月冬至日、〈臣〉保井〈算哲〉源〈春海〉謹奉、
p.0332 貞享元年四月廿九日、新暦(○○)頒行被二仰出一、
p.0332 貞享暦引 權右中辨藤原朝臣韶光傳宣、左大臣宣奉レ勅、貞觀以降所レ被レ用暦、及二數百年一、依二天推歩差一、停二宣明暦一、可レ用二大統暦一(○○○)、仰二陰陽暦道等博士一者、 貞享元年三月三日修理東大寺大佛長官主殿頭兼左大史算博士小槻宿禰判〈奉〉 改暦陣儀次第 上卿著二仗座一、次職事來レ軾仰二仰詞一退、〈其詞、貞觀以降所レ被レ用暦及二數百年一、依二天推歩差一、停二宣明暦一、可レ用二大統暦一、仰二陰陽暦道等博土一、〉次上卿召レ辨、仰二仰詞一、事如二職事一、次職事來レ軾仰二詔書事一退、〈其詞、貞觀以降所レ被レ用暦、及二數百年一依二天推歩差一、停二宣明暦一可レ用二大統暦一、令レ作二詔書一、〉次上卿召二大内記一進二詔書事一、〈仰詞如二職事一〉次内記進二詔書草一、次上卿招二職事一、奏二聞詔書草一歸出、仰下可レ令二淸書一由上、次上卿奏二詔書淸書一、奏聞畢返給、次上卿召二中務一仰二施行事一、次上卿退出、 上卿近衞左大臣、〈○基熙〉職事淸閑寺大納言、〈○熙房〉詔書唐橋、〈○在庸〉
p.0333 大統暦 明太祖洪武十七年甲子、漏刻博士元統造レ之、不レ用二消長之法一、洪武甲子爲二元歳一、實三百六十五萬二千四百二十五分、氣應五十五萬零三百七十五、日周一萬行二百六十年、至二順治三年丙戌一、先二於時憲暦一十二刻也、〈臣○土御門泰邦〉謂、元統原非二知レ暦之屬一也、夫此暦假若出二於授時之前一、而未レ得レ免二其譏一、況出二于郭氏之後一乎、當時雖レ有二李德芳之器一、而不三遂得二其志一、一朝因循、塗下元統所レ謂借二聽于聾一、求中道于盲上、堪レ可レ笑矣、
p.0333 貞享元年十一月廿八日、貞享新暦(○○○○)を定めらる、〈是元の授時暦に據て作られし也〉
p.0333 貞享暦引 左中辨兼中宮大進藤原朝臣俊方傳宣、右大臣宣奉レ勅、依レ改レ暦、去春可レ被レ用二大統暦一由雖レ被二宣下一、止二大統暦一(○○○○)、用二新暦一、可レ號二貞享暦一(○○○)、仰二陰陽暦道博士一者、 貞享元年十月二十九日、修理東大寺大佛長官主殿頭兼左大史算博士小槻宿禰判、〈奉〉
p.0333 貞享暦〈寶暦暦〉 貞享暦ノ末ニ、貞觀以降、用二宣明暦一、既及二數百年一、推歩與レ天差、方今停二舊暦一、頒二新暦於天下一、因改正而刊行焉、 貞享元年きのえね十二月大三十日せつぶん 右瀨名氏にて寫レ之
p.0333 貞享元年甲子、先生〈年四十六〉春三月三日己巳、遂有二改暦之宣下一、上卿近衞左大臣、〈藤基熙公〉別宣旨有レ之、詔行二大統暦一、先生於レ斯復上表曰、大統暦、西土之所レ用、而殊無二百年消長一、一之法則、將來可二以有一レ差也、夫暦依レ地而起レ法、立レ術而合レ天、今日出日沒、異域則不レ能レ無二里差一、爰足二以用一レ之哉、其言確實切誠、 孔有レ理、自レ此帝城之西南梅小路立二八尺鐵表一、而與二泰福一共測二晷影一、又造二星臺一、以二渾天儀一窺二七政之運行一、先生所レ造之新術、與レ天密合、無二毫差一、〈貞享暦書曰、貞享元年攺暦之後、三年之間、與二泰福一共窺二天運一測二日行一云々、〉泰福詳奏三其術踰二千古一、〈是時先生已言二泰福于北辰三天九道之秘、及三種之活體等一、泰福甚善レ之奇レ之、乃以二此秘訣一密達二天聽一、天意感賞、勅下不二人皇以來之一人一哉上、且陰詔賜二都々茂利之號於春海先生一云、〉於レ是、同冬十月廿九日辛酉、有二宣下一、〈靈元帝〉遂用二先生所レ修之新暦一、則勅賜レ名、曰二貞享暦一、〈有二書題之勅許一、止日本書紀與二貞享暦一也、〉上卿鷹司右大臣、〈藤兼熙公〉別宣旨有レ之、先生欣躍甚、叩頭拜二謝勅宣之辱一、則欲下以二翌二年乙丑一頒中新暦上、便令二院經師蜂屋内匠急刊一レ之、刻成、〈○下略〉
p.0334 元祿甲申〈○十七年〉三月十一日、先年中村的齋ヲ訪フ、的齋授時ノ私考ヲ出シ、我ニ授ケテ曰、我授時ニ志アルコト年久シ、然レドモトクト成就セズ、君宜シク成就シ王フベシ、サテ此授時モイマダトクト不レ合、消長一分トアルモ、二分ニテヨシトイヘリ、我其時ハ何トテ二分ト云事ヲシラズ、其後、會津中將殿思召ニ、兎角宣明ニテハナシ、授時可レ然ト仰ラレ、御家來安藤市兵衞、島田覺左衞門ト申兩數者ニ命ジ、數年授時暦ノ工夫イタシ候ヘト仰ラレ、年ヲ歴テ其功ナル、サテ改暦ニ御志有レ之、右兩人ニ算サセ、拙者ト山崎翁兩人ニ承リ候樣ニト有レ之、毎日立會見申候、尤授時ノ通ニ別儀ナク候、然ドモ至元十八年ヲ元ニ立候事、元ハ日本ヲ侵シ候敵國ニ候ヘバ、如何ト申事ニ有レ之、サラバ當年ヲ元ニシテ作リ直シ可レ然ト仰ラレ、ソレニナリ候、夫ヨリ至元十八年ノ歳實ヲ置、四分消シテ歳實トイタシ、誠ニ難ナク見ヘ候、此消申候歳實ニテ立カヘリ、至元十八ノ冬至ヲ求メ候ニ不レ合候故、イロ〳〵ト致シ見候ヘ共不二合申一、ソコデ我等フト合點イタシ、四百年以後ヲ以テ至元ニイタシ申候時ハ、四分消ザルハアタリマヘナリ、又四分消シ、合テ八分消シテ、コレヲ立元ノ歳實ト定メ置テ、サテ立返リ、至元十八冬至ヲ求ベケレバ、四分長シテ求レバ、授時ノ冬至合ヒ、上下齊々妙不レ可レ言事也、如レ此發明ス、先生及安藤氏モ皆々心服シテ、中將殿ヘ申上候、然所中將殿、御死期一兩日前ニ、交食有レ之候處、宣明ハ合ハズ、授時ハ合候ニヨリ、辱クモ中將殿、稻葉美 濃守殿ヘ御遺言ナサレ、改暦ノ事、算哲〈○保井〉ヘ被二仰付一候樣ニト有レ之候、依レ之雅樂頭〈○酒井〉殿ヘ被二仰合一候處、又其比五月ノ食ヲ授時ニハ食ナシト申上候處ニ、三分計リ有レ之候、宣明ハ合候ニヨリ、雅樂殿、何トモ算哲ガ申分トモ不レ被レ存候ト仰ラレ、改暦ノ沙汰ハヤミ申候(○○○○○○○○○○)ソレヨリ累年優劣ヲ考申候所、授時ニテモ十分不レ合、ソロ〳〵ト只今ノ法ニナリ候、誠ニ雅樂殿御イソギ不レ被レ成候故ニ、如レ此ニナリ申候、 貞享暦ト申名ハ、一條關白殿御物數奇ナサレ勅許ナリ、〈○中略〉 十三日、延寶三年乙卯五月戊子朔日、日食一分、申五刻甚シク、此食ニ付テ、授時ヲ行フ事ヤミ申候故、肥後守殿〈○保科〉御遺言ニテ、改暦可レ有レ之候處、此食授時立分不レ叶候、授時暦ニハ食無レ之ト雅樂殿ヘ申上候處、思之外宣明之通ニ食有レ之候故、雅樂殿仰ラレ候ハ、算哲ガ申分、合モアリ、不合モアリ、先改暦ノ事ハ無用ト有レ之、其後イロ〳〵工夫イタシ、今ノ暦ニ成候、此食授時ノ算違ヒ候ハ、此時夏至ノ時分故、縮減ニ授時ナリ申候後ニ、貞享ニ成テ、又盈差三十ホド有レ之、加ヘ申候故、食一分四十秒ニナリ候、ケ樣ノ所ヨリ、盈縮ヲ改申候哉、〈○中略〉 貞享二年乙丑五月甲戌望、丑ノ初刻ニ虧初ム、コレ改暦ヨリ初テノ食也、此時水戸殿〈○德川綱條〉ノ天文學者川勝六右衞門ト云者難ジテ曰、此食授時暦ニ初虧子ノ四刻ナリ、然ルニ新暦ニハ丑ノ一刻初虧ト付タリ、扨々オカシキコトカナ、我等算哲ニ問候ヘバ、里差ヲ加ヘ申候ハヾ、此後十一月十五日ノ食、授時ト刻限合候ハイカヾ、〈十一月望ノ食、授時ノ刻ト貞享ト同ジ、故ニシカイヘリ、〉其實ハ、算哲事、授時カラガ得トユカヌト見ヘ候ナドト、甚ダ惡口申候、其夜中山大納言篤親卿ノ所ニテ、祈禱有レ之、出雲路玄仙ト、彼川勝、其外大勢參リ候、川勝、衆中ニ向ヒテ申候ハ、今夜ノ食ニテ、新暦ノ合候哉御覽候ヘ、授時ノ食ハ子刻也ト申ス、サテ九ツノ鐘打候ヘバ、イヅレモ庭上ヘ御出ナサレ候ヘトテ、出デヽ窺ヒ見候ヘドモ、不レ食、九ツ半マデハ子ノ刻ナレバ、御覽候ヘト申候ヘドモ、中々不レ食候故、アマリニ笑止ニナリテ、一人ハヅシ、二人ハヅシ、ニゲ申候、其後漸々八ツ打申候時、初虧申候、コレヲ無念ニ存ジ、六右衞門ハ、其後老病ト號シ、暦算ヲ止メ申候、
p.0336 日躔總論〈○中略〉 如二本邦撰造之貞享寶暦甲戌元暦等一、倶因二循郭守敬之法一、故亦不レ能レ出二於授時之模範一、
p.0336 天和四年〈○貞享元年〉十二月十九日、今度安井算哲奉レ表テ改暦アリ、〈○中略〉 〈新暦〉授時暦加二里差一(○○○○○○)、元ノ世祖ニアタル歟、今改テ貞享暦ト云、
p.0336 古之爲レ暦者、不レ恃二其法一、臨レ時測驗、以求二其合一、後之爲レ暦者、恃レ法而略二於測驗一、恃レ法故務精レ之間或有レ差、則以二法未一レ精、愈益攻レ之、自二晉何承天、唐僧一行一、孰謂レ不レ盡二精微一乎、至二於元郭守敬一、集二諸家之説一大成焉、精而又精也、授時暦(○○○)之作、殆無二遺法一、所レ謂千歳之日至、可二坐而致一者、其在レ斯哉、然法者一定不易者也、
p.0336 十三年〈○至元〉平レ宋、遂詔二前中書左丞許衡、太子賛善王恂、都水少監郭守敬一、改治二新暦一、衡等以爲、金雖レ改レ暦、止以二宋紀元暦一微加二增益一、實未三嘗測二驗於天一、乃與二南北日官陳鼎臣、鄧元麟、毛鵬翼、劉臣淵、王素、岳鉉、高敬等一、參二攷累代暦法一、復測二候日月星辰消息運行之變一、參二別同異一、酌二取中數一、以爲二暦本一、十七年冬至暦成、詔賜レ名曰二授時暦一(○○○)、十八年頒二行天下一、二十年詔二太子諭德李謙一爲二暦議一、發二明新暦順天求合之微一、攷二證前代人爲附會之失一、誠可三以貽二之永久一、自レ古及レ今、其推驗之精、蓋未レ有下出二於此一者上也、今衡恂守敬等所レ撰暦經、及謙暦議故存、皆可二攷據一、是用具著二于篇一、惟萬年暦不二復傳一、而庚午元暦雖レ未二嘗頒用一、其爲レ書猶在、
p.0336 郭守敬、字若思、順德邢臺人、生有二異操一、不レ爲二嬉戯一、事二大父榮一、通二五經一、精二於算數水利一、時劉秉忠、張文謙、張易、王恂、同學二於州西紫金山一、榮使下守敬從二秉忠一學上、中統三年、文謙薦二守敬一習二水利一、巧思絶レ人、〈○中略〉十三年、〈○至元〉江左既平、帝〈○世祖〉思用二其言一、遂以二守敬一與二王恂一率二南北日官一、分掌二測驗推歩於下一、而命二文謙一與二樞密張易一爲二之主領一、裁二奏於上一、左丞許衡參二預其事一、守敬首言、暦之本在二於測驗一、而測驗之器莫レ先二儀表一、今司天渾儀、宋皇祐中、汴京所レ造、不下與二此處天度一相符上、比二量南北二極一、紀差二四度一、 表石年深、亦復欹側、守敬乃盡考二其失一而移二置之一、既又別圖二高爽地一、以レ木爲二重棚一、創二作簡儀高表一、用相比覆、〈○中略〉遂設二監候官一十四員一、分レ道而出、東至二高麗一、西極二滇池一、南踰二朱崖一、北盡二鐵勒一、四海測驗、凡二十七所、十七年新暦告レ成、〈○中略〉七年〈○大德〉詔、内外官年及二七十一並聽二致仕一、獨守敬不レ許二其請一、自レ是翰林太史司天官不二致仕一、定著爲レ令、延祐三年卒、年八十六、
p.0337 延享二年十月十四日、貞享暦違ひ有レ之に依て、補暦の事、西川忠次郎〈江〉被二仰付一、〈公潜邸より既に英意を天文暦算に用ひさせられ、即位の始、寄合建部彦次郎へ親問せられ、又京の銀座中根文右衞門へも下問あり、紀州良工加藤某へ大渾天儀を作らしめらる、享保三年御製作の測午表を吹上御表へ設けられ、同年西川如見を長崎より召て其著述を呈進せしめ、延享元年、簡天儀を御親制あり、是年神田佐久間町へ天文臺を設け、簡天儀を置る、又此補暦寬延二年に到て事なり、土御門泰邦へ挍合せしめらる、惜哉公薨御、其事中頃熄に近く、神田天文臺も寶暦七年に廢したり、〉
p.0337 やがて、暦法をあらため玉はんの御心なりしに、顧問に備ふべき建部彦次郎賢弘、不幸にしてうせければ、しばらくその人を求めさせ玉ひしに、そのころ長崎にて、天文の學を講じたる西川如見忠英が子に、忠次郎正休といへるあり、よく家學をつぎて、其術は精微に至りしが、家産おとろへ、たづきなかりしかば、江戸に來り、天經或問を講じ、口を糊して有しを聞召及ばれ、浦上彌五左衞門直方をして、御糺しありしに、其術衆にすぐれしかば、吹上の園にめされて測量せしめ玉ひしに、忠次郎が申す所、盛慮に暗合せしかば、天文方になされ、神田佐久間町に司天の所を設けて、測量の調度ども、のこりなくかしこにうつさる、故の天文方澀川助左衞門春海が子六藏則休、〈後圖書〉忠次郎と共に、主管して測量しけるに、改暦の事大かたとゝのひしがば、二人仰を承りて、京にのぼり、土御門三位泰邦卿に、改暦の事をはかりしに、泰邦卿申けるは、このこと容易ならねば、京にて再三試たるうへならでは定めがたしといふ、さらばとて、梅小路に測量所を設け、その費用は、年毎に金千二百兩、米九百俵を賜りぬ、しかるに櫻町院崩ぜられしかば、しばし改暦の事をのべられ、翌年〈○寶暦元年〉仰出さるべしと定られしに、公〈○德川吉宗〉また大漸に いたり玉ひしかば、此事遂に盛意のごとく行はれずしてやみぬるは、まことにをしむべく、なげくべきのかぎりなりけり、
p.0338 寬延三庚午年十二月 御勘定奉行〈江〉 澀川圖書 右暦補之御用相勤候内、如二父時一加扶持七人扶持被レ下候間、被レ得二其意一可レ被二相渡一候、 十月
p.0338 寶暦二壬申年十一月 御勘定奉行〈江〉 暦測量ニ付、改暦相濟候迄、土御門家〈江〉年々現米千石宛、石壹兩之積りを以、御金に而被レ下候、當年分は、先達而米に而相渡候間、右賣渡候直段に而、石壹兩之積りを以、差引不足之分、御金に而相渡候間、可レ被レ得二其意一候、 十一月
p.0338 撰述暦理本末 爲二暦學一者不レ明二於數理一、不レ精二於候測一、而能有レ至焉者不也、雖レ有二明理精測之力一、又不レ得二儀器之整齊一、不レ能レ窮二其精一、故暦家必先整二齊儀器一、而後撿二多年積候一以定二其精一焉、是爲二造暦基本一、造暦之事豈易レ言焉哉、自三持統天皇用二漢暦一、至二貞享一一千二百年、改憲僅四、皆承二用漢法一而已、有德大君、〈○德川吉宗〉夙察二漢法之未一レ精、延享之末、下二内旨於〈先臣則休〉西川〈正休一、〉據二崇禎暦書(○○○○)及時憲書一(○○○)、令レ議二改憲一、無レ幾遭レ有二不諱一而遂不レ果(○○○)、
p.0338 欽命山東布政使司右參政李天經督修 遠西 會士羅雅谷譔〈○中略〉 暦學改革〈第十五章○中略〉 中華自レ漢迄レ元、雖三造暦者至二七十餘輩一、然立法不レ過二十有三家一、且皆各有二乖違一、歴代互自改レ憲、所レ謂天縡幽玄、豈其一家一測遽得歟、西國于二此學一門臚而曹習、其所二以人自爲一レ家者、則又指不レ勝レ傴也、然究厥靑逾レ藍、而寒逾レ氷、爲二後學首一所二推重一、則有二四門一、曰多祿某、曰亞而封所、曰歌自泥、曰第谷、此四家著 述既繁、測驗愈密、立レ法致レ用、靡レ不二精詳一、至レ今言レ天者、皆不レ出二其範圍一、共相二師法之一、〈○中略〉跡二其大端一、猶不レ過下損二益分數一、竄中易名目上耳雖レ使三僅合二一時一、詎得レ施二行久遠後一、惟授時暦庶二乎稱一レ善、然亦本二于大明一、今大統則悉以二授時一爲レ本、而移二歳差及四應數刻一、又若二回回暦一者、乃其本方所レ用、曩縁二奉レ命繙譯一、以備二稽參一、但其暦元爲二西域所一レ定、以レ故非下大統暦先推中太陽躔度至二春分一之日上、則亦復茫然、無レ據下以得二支干一以合中于中國所レ用歳月上矣、今新法咸取二太西治暦名家諸紀一、採二其精詳一、究二其沈奧一、審二今測一以廣證二古測一、稽二年代一必互攷二中西一、其名例半仍二大統之舊一、合レ異歸レ同、會通成レ書、務求二明簡一、或亦可三以質二諸來 一、顧何敢斤斤自詡然、政足レ彰二昭代車書之盛一云耳、 暦元〈第十六章○中略〉 新法以三崇禎元年戊辰前太陽過二天正冬至後第一子正一爲二暦元一、其日干則己卯也、
p.0339 雍正八年六月二十八日、欽天監監正〈臣〉明圖謹奏、竊惟、日月行度、積久漸差、法須三旋改始能脗二合天行一、〈臣〉等欽遵二御製暦象考成一、推二算時憲七政一(○○○○)、頒二行天下一、玆據二〈臣〉監一、監正戴進賢、監副徐懋德、推測校勘、覺レ有二微差一、蓋暦象考成原按二新法暦書一纂定、而新法暦書用レ之已久、是以二日月行度、差之微芒一、漸成二分秒一、若不二修理一、恐愈久愈差、〈臣〉圖愚昧未レ經二考驗一、不二敢遽奏一、今於二雍正八年六月初一日一日食、〈臣〉等公同在レ臺、敬謹觀下候實測之與二推算分數一不上レ合、伏念、暦法關係緊要、〈臣〉監職所二專司一、不三敢壅二於上聞一、謹繕摺具奏、伏乞二皇上睿監一、勅下二戴進賢徐懋德一、挑二選熟練人買一、詳加二校定一、修二理細數一、繕二寫條目一、進二呈御覽一、爲レ此謹奏請レ旨、奉レ旨准二其重修一、欽レ此、〈○中略〉 乾隆二年四月十八日、協辨吏部尚書事〈臣〉顧琮謹奏、竊査二七政時憲書一(○○○○○)、本用下前明徐光啓所レ譯西洋之法所レ爲二新法暦書一者上、其書非レ出二於一人之筆一、故圖與レ表不レ合、而解多二隱晦難一レ曉、欽惟、聖祖仁皇帝、特命二諸臣一、詳攷二古法一、研レ精闡レ微、俾下圖與二數表一脗合無上レ遺、賜二名暦象考成一、世祖憲皇帝御レ極、繼レ志述レ事、刊刻頒行、實屬二盡善一、但新法暦書之表、出レ自二西洋一、積レ年既多、表漸不レ準、推二算交食分數一、間有レ不レ合、是以又允二 監臣之請一、纂二修日躔月離二表一、以推二日月交食、并交宮過度、晦朔弦望、晝夜永短一、以及二凌犯一、共三十九員、續二于暦象考成諸表之末一、但此表並無二解説一、亦無二推算之法一、査作二此表一者、係二監正加禮部侍郎銜西洋人戴進賢一、能用二此表一者、惟監副西洋人徐懋德與二食員外郎俸五官正明安圖一、此三人外、別無二解者一、若不二增修明白一、何以垂二示將來一、則後人無レ可二推尋究一、與レ未レ經二修纂一無レ異二可否一、令下戴進賢爲二總裁一、以二徐懋德明安圖一爲中副總裁上、令三其盡レ心攷騐增二補圖説一、務期レ可レ垂二永久一、如三暦象考成内、倘有二酌改之處一、亦令二其悉レ心改正一、至二推算較對繕寫之人一、於二欽天監人員内一、酌量選用、其修二書紙一張二公費一、仍照二暦書處之例一支給、凡一應二事宜一、及レ告二成刊刻一、均令二禮部兼理一、速爲レ告レ竣、則制法愈密、推算愈精、我朝敬授二人時一、可三以垂二諸萬年一矣、伏乞二皇上睿監一、謹奏、奉レ旨、即著二顧琮專管一、欽レ此、
p.0340 日躔總論〈○中略〉 淸暦象考成、始依二西土之法一、其上下編刪二定明崇禎暦書一者、次後復專採二西土刻白爾 西尼等之創法一述二後編一、其法稍精密矣、
p.0340 寶暦三年十一月八日冬至、京都土御門三位安倍泰邦、梅小路館に於て立表測景推歩規式を行はる、江戸ゟ天文方澀川圖書、西川忠次郎〈如見男〉上京、〈澀川家遠祖は安井算哲と申基方相勤罷在候所、天文暦算功者に仕候段、憲庿達二御聞一、貞享元年十二月朔日、基方被レ成二御免一、天文方被二仰付一、貞享暦法選述被二仰付一、始而御頒行に相成候、西川如見は長崎へ歸府被二仰付一候、〉 寶暦四年十一月新暦頒行、
p.0340 十三年〈○寶暦〉九月朔、日食スルコト五分、頒暦之ヲ注サズ、改暦アリテ、却テ此大事ヲ闕クハ何故ゾヤ、〈○中略〉 去年冬十二月、土州ノ算士川谷貞六、明年九月朔日食スルヲ推算シ、乃チ官暦ヲ難シ、上言シテ曰、來年九月朔日食スルコト五分半トス、又薩州ノ算士磯永孫四郎推算シテ四分トス、京師ノ算士西村遠里、亦測テ四分半トス、遠里之ヲ所司代阿部伊豫守ニ告グ、〈○中略〉日食辰刻ヨ リ虧ケ始メテ、巳刻ニ至テ終リヌ、食甚五分ヲ見ル、朝野愕然、衆口囂々タリ、京師ノ暦門公議シテ之ヲ關東ニ問フ、正休圖書等答辭甚ダ澀濁ニシテ遁辭多シ、其文左ノ如シ、 抑御改暦被二仰出一、於二京都江戸一測量相勤、書數相改候内、蝕之算法未二決定一、右之譯は、七八分之蝕、兩三度實測、且皆既之日蝕一度測量無レ之候ては、蝕之算法難レ決、然るに御改暦被二仰出一以後、五分以上之食一度も無レ之、依レ之御改暦難二相濟一候處、此七八分之食、皆既之食を快測候事、此上年數相懸り候故、土御門三位殿存念を以て、先御改暦御規式被レ行、此上日月食之測量全備之上、御暦書相占め可二申上一旨、關東へ被レ伺候處、被レ任二其意一、去る甲戌年より、新暦頒行之事、右之趣故、測量全備之上、日蝕算法相定り候迄、澀川圖書、山路彌左衞門宅にて、毎日晷測星測、并日月蝕測量相勤候樣、堀田相摸守殿より、被二仰渡一候事、但日月食算法相定候迄も、三分以下之食は、不レ注レ暦事、公裁之上決定也、右之趣御座候處、當朔日食は、五分程虧申候、推算之表は、二分六十秒故、不二暦註一、然るに實測二分半程齟齬之事は、此已後共、暦法全備之上迄は、勿論之事御座候、當年薩州暦には、九月朔日食四分と出させ、差て推歩を失し候譯にては無二御座一候、以上、 未〈○寶暦十三年〉九月 暦職連名
p.0341 寬政九年十一月十八日、改暦宣下の旨被二仰出一、〈寶暦甲戌暦差錯有レ之に付、來午年の新暦頒行、本朝攺暦流布の順三大暦、儀鳳暦、大衍暦、〈天平實字頃用也〉宣明暦〈此暦貞觀の比より、天和四年まで、八百年餘用也〉、貞享暦、〈貞享元年改暦〉寶暦暦〈寶暦四年改暦〉續録略〈甲戌の補暦也〉寬政暦〈九年丁巳改暦也〉〉
p.0341 寬政九年十月十九日、天皇〈○光格〉詔改レ暦、先レ是公〈○德川家齊〉憂二時暦蹐駁一、聞三大阪人高橋至時長二推歩一、擢爲二暦吏一、與二源秀升、平德風、間重富等一、開レ局校訂參攷、撰二新暦一獻レ之、命頒二行天下一、賜二八丈絹十純于老中松平信明、五純于若年寄堀田正敦一、並賞二總裁之功一也、
p.0341 一同年〈○寬政九年〉十一月十八日 兵部少輔殿御渡 寶暦甲戌暦差錯有レ之(○○○○○○○○○)付而、今度於二京都一改頒宣下有レ之、來午年ヨリ新暦頒行之事、 右之通可レ被二相觸一候 伊勢御師、例年祓配ニ間ニ合不レ申候斷ニ及、月迫漸々出來、配り出す、
p.0342 靈元帝時、保井春海新造二暦法一獻レ之、是爲二貞享暦一、暦學至レ此大明、後七十年頒二行寶暦甲戌元暦一、予祖秀長以二推歩一蒙レ辟職二司暦一校二訂甲戌元暦一、予父秀升克承二祖業一、嘗獲レ覽二秘府所レ藏律暦淵源一、其中暦象考成上下編(○○○○○○○)、上説二其理一、下録二其法一、是書也、改二正崇禎暦法一、而其術精要、又有二考成後編(○○○○)者一、於二前下編中一、訂レ舊增レ新、更構二一色一、夷二考彼邦暦術一無レ有下能出二於其右一者上、於レ是請下援二據其法一而再有中改暦之擧上、乃蒙二官准一、遂與二同僚一制爲二一法一獻レ之、賜二名寬政暦一(○○○○○)、即今時所レ用者是也、
p.0342 頒暦調所〈又測量所と云○中略〉 又いにしへ七政暦あり、中古より此法廢れたりしを、新にかうがへて七曜暦を作りて奉りければ、是より永式とはなりける、暦博士幸德井友親よく學暦の吉凶を考へけるも、此頃友親東へ下り、算哲に其術を學びたりしより、かならず算哲が校合を得て頒行せらるべき由命ありけるとぞ、其後六十餘年を歴て(○○○○○○○)、〈○寶暦年中〉又違ひ有けれども、こたびは改暦の事も聞へず、此時佐々木文次郎といふ人、所縁の家、小日向赤城明神の傍に寓居したりけるが、此人、天文暦數に委しければ、ひそかに憂ひ、執政某の邸へ至りて、此事を啓し、且いふ、我言葉を疑ひおぼさば、今年某月朔日蝕すべくして、頒行の暦に日蝕のことを載せず、此日を待てわがことばの妄ならざる事を驗みたまへと、果してその日蝕するをもて登庸せられ、改暦の事に預る、是寶暦甲戌暦(○○○○○○)なり、後四十四年にして、〈○寬政年中〉又改暦有て、暦數の術本朝の隆盛を極めて、天度の違なき、此時より過るはあらじ、
p.0342 天保十三年三月十九日、改暦之儀被二仰出一、〈貞享暦、寶暦甲戌之暦と各編者之自序有レ之、寬政暦は暦文無レ之、總旨有レ之候、右は體裁不 レ宜被二思召一候間、新暦序文之義、此度は土御門家え被二仰付一、則別書差越候旨可レ被レ達候、〉十月六日新暦頒行、〈寬政暦差錯有レ之に付、今度於二京都一改暦宣下遂行、新暦號二天保壬寅元暦一と被レ定、〉
p.0343 天保十三寅年十月十日 寬政暦差錯有レ之付而、今度於二京都一改暦宣下、暦辨定陣儀被二遂行一、新暦號二天保壬寅元暦一(○○○○○○)旨被レ定候、依レ之來々辰年ゟ新暦頒行之事に候、 右之通、向々〈江〉可レ被二相觸一候、
p.0343 伊勢度會郡山田 瀨川舍人 今まで暦ち行れし寬政暦は違へる事のあるをもて、更に改暦の命あり、遂に天保十三年新暦成に及び、詔して名を天保壬寅元暦と賜ふ、 抑元文五年庚申、寶暦五年乙亥の暦にことわる如く、一晝夜を云は、今曉九時を始とし、今夜九時を終とす、然れども是まで頒ち行れし暦には、毎月節氣、中氣、土用、日月食の時刻をいふもの、皆晝夜を平等して記すが故、其時刻、時の鐘とまゝ遲速の違あり、今改る所は、四時日夜の長短に隨ひ、其時を量り記し、世俗に違ふ事なからしむ、今より後此例に從ふ、
p.0343 卯〈○天保十四年〉九月廿日來ル、即日ヒレ付いたし差出ス、 書面、改暦序文之儀は、元文寶暦寬政度之振合にも有レ之候義に付、彫刻之義被二御聞置一可レ然哉 に奉レ存候、 卯九月 北市中取締掛 來辰暦、〈○天保十五年〉御前文書入之儀申出候趣申上候書付、 館市右衞門 來辰暦板行被二仰付一候拾壹人總代 小兵衞〈外壹人〉 書物掛 小網町名主 伊兵衞 右申立候ハ、今般御下被二成下一候來辰御寫本暦之儀、御改暦御前文有レ之、右ハ元文、寶暦、寬政度、何れも御前文共板刻仕候ニ付、此度も右例ニ隨ひ、御前文入、開板仕候心得ニ有レ之、則古暦三通相添、來辰暦雛形奉下入二御覽一置上候段申出候、 但雛形、綴暦ニ有レ之、猶折本は格好見計可二書入一旨、 右則差出候 一元文五申年綴暦壹册 一寶暦六子年暦折本一册 一寬政十午年綴暦壹冊 并今般草稿且爲二御見合一、平年板行當卯暦折本、綴暦、大形、小形とも壹通宛、差上申候、 右之通御座候、先例有レ之上は、右申立之趣、御聞置被二成下一可レ然哉と奉レ存候、依レ之此段申上候、以上、 卯九月 館市右衞門 ヒレ付 書面、向方元締掛ゟ申上候通ニ而可レ然哉ニ奉レ存候、 卯九月廿日 南市中取締掛
p.0344 太陰暦ヲ太陽曆(○○○)ニ改ラルノ事 壬申十一月九日、第三百三十七號御布告、 今般改暦ノ儀、別紙詔書ノ通被二仰出一候條、此旨相達候事、 詔書 朕惟フニ、我邦通行ノ暦タル、太陰ノ朔望ヲ以テ月ヲ立テ、太陽ノ躔度ニ合ス、故ニ二三年間必 ズ閏月ヲ置カザルヲ得ズ、置閏ノ前後、時ニ季候ノ早晩アリ、終ニ推歩ノ差ヲ生ズルニ至ル、殊ニ中下段ニ掲ル所ノ如キハ、率子妄誕無稽ニ屬シ、人知ノ開達ヲ妨ルモノ少シトセズ、蓋シ太陽暦ハ太陽ノ躔度ニ從テ月ヲ立ツ、日子多少ノ異アリト雖モ、季候早晩ノ變ナク、四歳毎ニ一日ノ閏ヲ置キ、七千年ノ後、僅ニ一日ノ差ヲ生ズルニ過ギズ、之ヲ太陰暦ニ比スレバ最モ精密ニシテ、其便不便モ固リ論ヲ俟タザルナリ、依テ自今舊暦ヲ廢シ、太陽暦ヲ用ヒ、天下永世之ヲ遵行セシメン、百官有司其レ斯旨ヲ體セヨ、 一今般太陰暦ヲ廢シ、太陽暦御頒行相成候ニ付、來ル十二月三日ヲ以テ、明治六年一月一日ト被レ定候事、 但新暦鏤板出來次第頒布候事 一一ケ年三百六十五日、十二ケ月ニ分チ、四年毎ニ一日ノ閏ヲ置候事、〈○中略〉 一諸祭典等、舊暦月日ヲ新暦月日ニ相當シ施行可レ致事、 太陽暦 一年三百六十五日 閏年三百六十六日〈四年毎ニ置レ之〉 一月大 三十一日 其一日 即舊暦壬申 十二月三日 二月小 二十八日〈閏年二十九日〉其一日 同 癸酉 正月四日 三月大 三十一日 其一日 同 二月三日 四月小 三十日 其一日 同 三月五日 五月大 三十一日 其一日 同 四月五日 六月小 三十日 其一日 同 五月七日 七月大 三十一日 其一日 同 六月七日 八月大 三十一日 其一日 同 閏六月九日 九月小 三十日 其一日 同 七月十日 十月大 三十一日 其一日 同 八月十日 十一月小三十日 其一日 同 九月十二日 十二月大三十一日 其一日 同 十月十二日 大小毎年替ルコトナシ
p.0346 故迄二元享年中一、驗二七政一、紀二其躔度一、而其術今亡矣、所レ傳僅宣明之氣朔交食、而其陰暦陽暦(○○○○)則無二知レ之者一、故其所レ起方位不レ得レ稽レ之、
p.0346 起原〈○中略〉 吾邦、神武建正以降、至二貞享元年甲子一、凡七改レ暦、雖レ然其元嘉、儀鳳、大衍、五紀、宣明、共異域之法、而未レ識レ有レ索二里差一(○○)、况於二宣明一距二八百年一用二一暦一者乎、故眞野麻呂云、靜言二事理一、實不レ可レ然、春海云、暦學獨不レ顯、暗昧無レ聽、妄以傳レ妄、謬以承レ謬尚矣、實昭代之一闕事也、〈臣○土御門泰邦〉曰、貞觀無二眞野麻呂一、則兆民不レ當レ辨二春秋一、貞享春海不レ出、則百姓詎得レ聊レ業哉、嗚呼天運不レ虗、造化素嚴也、至元貞享新降二此奇才一、共遡二往代一洎二當時一、其術如レ神、或不レ取二演紀迂元一、因二實測一以求レ易、又不レ用二畸零臆算一、擧二萬分一以得レ簡、或逐レ年施二消長一、又求二暦應妙率一、可レ謂二滑疑之曜於レ是明一矣、夫一行、淳風徐昻忠輔交治而有二所レ未レ盡者一、郭氏發レ之、郭氏有二所レ未レ終者一、春海致レ之、各明レ理精レ數、能研二覈百氏一、篲二淸古今一矣、後世適有二元統者一、猥廢二歳實消長之法一(○○○○○○)、既至レ將レ昏二弊天理一、時李德芳上疏爭レ之云、今元統改作二洪武甲子暦一、不レ用二消長之法一、以考下魯獻公十五年戊寅歳、距二至元辛巳一二千一百六十三年上、以二辛巳一爲二暦元一(○○)、推得二天正冬至一、在二甲寅日夜子初三刻一、與二當時實測數一相合、若以二洪武甲子一爲レ元、上距二獻公戊寅年一二千二百六十六年、推得二天正冬至一、在二己未日午正三刻一、比レ之差四日六時五刻、今當下復用二辛巳一爲レ元及中消長之法上、時元統辨二大祖一、以下驗二七政交會一行度無レ差之言上可レ閔、此時君臣共 暦法一、無二一箇可一レ匡レ之、而黮然遂蠱焉、本邦天和貞享交蝕數不レ驗、氣候甚錯、於レ是朝議欲三 改レ之用二大統暦一、時泰福春海等不レ肯レ之、上疏云、雖二大統暦一、因二授時一立レ法、而不レ用二歳實消長之法一、是譬猶三射行失二的歸一、夫無二消長一者、將來必差多矣、遂修二新暦一以聞、賜レ名曰二貞享暦一也、當時如二常範一如二正意一、庸學之徒頻出、以沮二春海一、而或編二圖解一、或撰二私暦一、皆刻レ鵠畫レ虎之類也、又享保中、璋元圭編二暦術數卷一、以抑二常範一、其説猶不レ過下以二五十歩一笑中百歩上耳、又有二春海日本長暦一(○○○○)、上起二神武甲寅歳一、下至二貞享丙寅歳一、各以二時暦法一推二求之一、其得失疎密、據二國史及家々策牘一悉訂レ之、其全篇大作レ一小作レ―、便覽最簡易也、其書藏二于春海及〈臣〉之家一而秘不レ出焉、名家邂逅有レ之、亦各秘而珍奇矣、嘗元圭竊寫二得之一、改號曰二皇和通暦一(○○○○)、竟僞爲二己之作一、梓二行于世一以欺二衆庶一、又有二慶安者一、造二三天儀一、其制地北低南高、而自曰、一天下南方熱、北方寒、日輪在レ北則高、在レ南則低、北極之星辰、人悉見レ之、南極之星辰、人無レ見レ之、是皆以二地勢北低南高一故也、古人未レ通二曉此理一、而以爲二北高南低一者非也、仍今制二此儀象一、述二其説一、名曰二本朝天文一(○○○○)、又有二長郡者一、編二日東通暦一(○○○○)、其説云、貞享暦其所レ編推歩術數科目繁夥、初學之徒不レ能レ無レ惑、〈臣〉一日閲二那書一、呵呵大笑不レ止也、夫有二律暦一以降、迄二時憲暦一、歴代之志莫レ簡二易於授時貞享一、若以二此二暦一爲二繁夥一、則術皆可レ闕而不レ筆レ之歟、大抵志二于暦術一之士、豈有下不二熟讀玩味一之者上乎、今若長郡以下未レ入二食限一者上、却書二食愆一、合朔辰刻猥求二大小一、竊膳二膺前人之圖説一、以重出之類、初學之徒亦無レ如二之何一矣、如レ此譃譚妄傳、鬆々 々、鏤二行于民間一者不レ可二勝計一矣、粤有二無賴西川正休者一、出レ自二肥州長崎一而浪二泊于武江一、嘗其父如見在二崎濱一、常會二於蠻夷之來舶至一、竟與二紅毛一相親、而談以二天文之事一矣、紅毛素通二萬國一、家二滄海一以交易、故日行星度風雲氣象無レ不レ撿二索之一也、如見憑レ之學二天文一、果以爲レ名、時寬保中、東議有レ將レ咨二索隱之方一、因求二四方天學之士一、一召二如見一、如見辭稱レ耋、薦以二正休一、而公聽レ之、即擡擧以二進士一、使下之與二天文生則休一同上レ職也、〈臣〉聞レ之、竊謂、如見本學二於紅毛一、紅毛之所レ稽、只方度變象耳、何足レ知二暦數一耶、嘗寬保革命歳、築二觀臺於東府一、専修二暦攷之事一、令二正休管一レ之、起二延享丁卯八月乙亥一、至二寬延庚午正月壬申一、正休告レ公云、測量考驗粗成矣、於レ是營中有二議評一、而命レ〈臣〉校二正之一、遣二天文生則休、西川正休、及屬役等於京師一、以附二于安門一、此時朝廷有二事故一止レ之、衆皆東歸、既而終二期月一、 明年辛未二月、東議再營レ之、遣二天文生等一屬二于安家一、猶二前年一也、〈臣〉蒙二東命一新開二私第東南隅地方十丈一、而爲二測量之所一、其東築二露臺一、其西植二土圭一、經營三月而成、因整二儀象一備二法律一、揆二躔離一候二星辰一、實測一年、至二寶暦壬申春分一比校正二推測之術一、漸定レ時知二正休之往年所レ測日景星辰皆無レ實不一レ足二照應一、况於二推考一乎、蓋正休之所レ編新暦書、或以二巧臆一猥改二舊率之精數一、或無二明據一、徒更二諸應之名目一、唯誑レ衆惑レ俗、譎詐姦謀耳、適用レ意者、概出二於賢弘之授時和譯一、於レ是人始愕然矣、〈臣〉頻詰レ之曰、汝之暦書所レ載、京師北極出地三十五度四十三分、是因レ何擧二此數一耶、抑汝往年所レ測者、唯東地耳、京師測量未レ聞レ有レ之也、自二前年辛未二月一、至二今年壬申二月一、愚所レ測者大抵三十五度半強、復據二表影所一レ求三十五度六十三分半、由レ此撿レ之、則汝所レ謂三十五度四十三分、不レ合二今之實測一、又據二表影一無レ驗焉、其暦書、載二虚數一必矣、况於下不レ載二武江之測量一者上乎、蓋不レ用二往來消長一、是承二大統暦之謬妄一歟、抑未レ察二古今歳實強弱之微妙一歟、凡無二消長一者、上推二往古一不レ能レ辨二斗分一、下驗二將來一無レ合二實測之數一、假如下神武天皇元年辛酉距二寶暦二年壬申一、二千四百十一年、不レ用二消長一推上レ之、則天正冬至在二庚寅日酉初一刻一、後二於天五日一八十一刻也、又用二消長一推レ之、則冬至在二於甲申日亥初三刻一、合二于實測之數一、兩術相較果無二消長一可乎、又汝暦書、以二寶暦二年壬申一爲レ元、而其所レ載諸應皆以二辛未歳數一、是據レ元則錯レ數、據レ數則失レ元、堪レ可レ笑也、又廢二四餘一却用二卦法一、是何意耶、夫四餘者見二變象一徴一、卦法者探二變數一端一、共吉凶悔否之占、而五日一候亦然矣、若信レ之則宜二兩存一焉、若巫レ之則宜二共廢一焉、擧レ之無レ害、捨レ之無レ弊、今汝所レ撰皆可否殽駁、又諸數中、其誤甚者不レ可二勝論一矣、噫日躔不レ原二盈縮一、月離不レ要二遲望一、暦法何以立、夫暦者百王不易之典、導レ民更レ俗、上不レ悖二日月之明一、下不レ失二山川之精一、喘耎肖翹無レ不レ由二此感一、而今汝擢二紊舊律一煽二惑良民一、胡得レ無レ辠耶、是蓋非レ譴二責汝一也、冀下上翼二君之仁政一下濟中民之荒蕪上、〈臣〉之微忠也、汝若有二分敎一則遄陳レ之、復若無二明辨一則白二其状一、毖以勿レ慢矣、時正休目睜口呆、敢罔レ所レ答、唯偸眼飾レ辭欲下讓二罪於左右一託中過於眊瞖上耳、〈臣〉謂、正休如レ此蚩々悾々、不レ辨二菽麥一、豈足レ關二改暦事一乎、仍洩二其事於東營一、東營具瞻保衡商議糺明、遂止二正休之職一、廢二其暦法一、果命レ〈臣〉新掌二測量及改暦之事務一、〈臣〉 承二其命一、自二寶暦壬申夏至一、至二同甲戌夏至一、凡三年、更度二日月星辰一、整二推歩立成一、以制二作此暦一、嘗氣應歳實等數者、尚宜下因二後年之査照一以訂上レ之、
p.0349 古測交食校上 貞享以降、毎レ有二修暦之議一、依三時暦與二新編法一、算下試國史所レ載及各改憲前後所二實驗一日月食上、徴二其疎密一、是爲二恆例一、今亦循レ例、依三寶暦甲戌元暦續録與二本編交食歩法一、推下校貞享以來暦書所二纂輯一、國史之食、及各改憲前後實驗者上、且其諸暦所レ遺而適獲二於諸書一者、逐二年次一補二入之一、或素所二現存一者而別有二測レ之者一、則取爲二之補註一、唯依二本編法一推二算之一、以並三列其實驗與二推得之兩數一、便二於比校觀覽一如レ左、 推古天皇三十六年戊子歳三月戊申二日、有レ蝕盡之、〈日本書紀〉 續録 三月戊申、日食七分一十六秒、食甚辰三刻、 寬政暦 三月戊申、日食九分五十秒、食甚巳三刻、〈○下略〉
p.0349 暦元(○○) 夫暦必立レ元以爲二治日法一、天度自レ是格致、古今皆然矣、至二元郭守敬一、始不レ用二積年日法一、〈臣〉按二暦法一、以二起算之端一、是謂二暦元一也、舊法逆二遡大古一、取二演紀上元一、延以及レ今、其術區々有二異同一、自二漢大初暦一至二今重修大明暦一、皆所レ用積年是也、授時暦避二其臆説一、巧算去二其迂遠虚率一、而直以二至元辛巳歳一爲レ元矣、本朝貞享暦專信二此法一、而以二貞享元年甲子一爲レ元也、梅文鼎所レ謂截算之元是也、
p.0349 論二暦元一 問、造レ暦者必先立レ元、元正然後定二日法一、法立然後度二周天一、古暦數十家皆同二此術一、至二授時一獨不レ用二積年日法一何與、曰、造暦者必有二起算之端一、是謂二暦元一、然暦元之法有レ二、其一遠遡二初古一、爲二七曜齊元之元一、自二漢大初一至二金重修大明暦一、各所レ用之積年是也、其一爲二截算之元一、自二元授時一不レ用二積年日法一、直以二至元辛巳一爲レ元、而今西法亦以二崇禎戊辰一爲レ元是也、二者不レ同、然以レ是爲二起算之端一一而已矣、然則二者無二 優劣一乎、曰、授時優、夫所レ謂七曜齊元者、謂下上古之時、歳月日時、皆會二甲子一、而又日月如二合璧一、五星如中連珠上、故取以爲二造暦之根數一也、使二其果然一、雖二萬世遵用一可矣、乃今廿一史中所レ載、諸家暦元無二一同一者、是其積年之久近、皆非レ有レ所レ受二之於前一、直以二巧算一取レ之而已、然謂三其一無レ所レ據而出二于胸臆一則又非也、當二其立法之初一、亦皆有レ所レ驗二于近事一、然後本三其時之所二實測一、以旁二證於書傳之所一レ傳、約二其合者一、既有二數端一、遂援レ之以立レ術、于レ是溯而上レ之、至二于數千萬年之遠一、庶幾各率可二以齊同一、積年之法所二由立一也、然既欲三其上合二暦元一、又欲二其不一レ違二近測一、畸零分秒之數、必不レ能レ齊、勢不レ能レ不下稍爲二整頓一以求中巧合上、其始也據二近測一以求二積年一、其既也且將下因二積年一而改中近測上矣、又安得三以爲二定法一乎、授時暦知二其然一、故一以二實測一爲レ憑、而不レ用二積年虚率、上考下求一、即以二至元十八年辛巳歳前天正冬至一爲レ元、其見卓矣、
p.0350 氣盈朔虚并閏月 日天一周三百六十五日二十五刻、是ヲ一歳ト云、暦書ノ歳實(○○)ト云ハ是也、此ノ歳實ヲ二十四氣ニ分テ、一氣ヲ十五日二十一刻八十七分半トス、全日十五日ヲ去ルトキハ、餘分二十一刻有奇ヲ一氣ノ盈トス、此ノ盈ヲ二十四積ムトキハ、五日二十五刻也、是則チ一歳ノ氣盈(○○)也、又月ノ一年ノ日數、三百五十四日三十七刻ヲ十二月ニ分レバ、一月ノ日數二十九日五十三刻有奇也、一月ノ常數三十日ニタラザルコト、四十六刻九十四分有奇也、是一月ノ虚分ニテ、十二月ヲ積デ、五日六十三刻有奇、是即チ一年ノ朔虚(○○)也、此朔虚ト右ノ氣盈トヲ合スレバ、十日八十八刻餘ル也、是ヲ一年ノ閏餘(○○)ト云、此閏餘三歳ヲ重テ、一月ノ日數ニ餘ル也、故ニ三年ニ一閏月ヲ置テ、其年ハ十三月トス、此ノ如クニ、三年或ハ五年目ニ、二閏月ヲ置テ、段々凡十九年ニ七閏月ヲ置ノ間、或ハ餘リ、或ハ不足有リト雖ドモ、十九年七閏ニ至テ、過不及ノ差分盡テ平々トナル、是ヲ暦ノ一章ト號ス、一章終テ又始ル、是唐土日本ノ暦法也、外國ノ暦法ハ是異ナリ、
p.0350 問、蠻暦モ、華暦モ、古暦モ、今暦モ、皆日月五星ノ行度ヲ考ヘ測テ立タル者ニ非ズヤ、 華蠻古今共ニ一天地一日月ナリ、差ヒ精粗何レノ處ヨリ生ズルヤ、 曰、七曜行度ノ天暦ハ、世界古今無レ差トイヘドモ、其考測ノ製法ニ依テ、人暦不同アリ、況ヤ華戎蠻、水土風俗、好惡別ナル事有テ、暦法律度各有レ異者也、暦ハ人事ノ用ニ備ヘンガ爲ナリ、四時ノ氣候、萬物ノ氣質、各方土ニ從テ有二差別一、是ヲ以暦各其國ニ從フ者也、況ヤ又古今ノ異有テ、造暦粗精ノ不同アリ、古暦ハ粗ニシテ今暦ハ精シ、中華ト云ドモ古暦ハ粗ニシテ、天度歳實皆三百六十五度四分ノ一ヲ用テ、日輪盈縮ノ差ヲ不レ立、月行ノ遲疾ヲ不レ算、只平行分ヲ以算レ之、故ニ經朔經望ノ法而已有テ、定朔定望ヲ不レ立、故ニ多ク月朔ヲ誤リテ日食ヲ失シ、望ヲ誤リテ月食ヲ失ス、是皆暦術ノ未ダ簡略ナリシ故也、自レ夫已來數千歳ヲ經タル故、漸ク暦法精密ニ成テ、今暦ノ度分三百六十五日二十四刻二十五分ヲ用ヒ、歳差ノ法ヲ立テ、盈縮遲疾ヲ詳ニシ、定朔ヲ求メ定ム、是ヲ以日月ノ兩食誤ル事無シ、是暦法ノ大成也、何ゾ古法ノ簡略ニ復ランヤ、況ヤ戎蠻疎略ノ暦術ヲヤ、大明ノ初メ、回回國ノ暦法中華ニ入テ、大統暦ト並ビ試ラレシカドモ、其法不レ密、故ニ終ニ用ラレズト云リ、回回暦ハ中華ノ暦法ニ近シト云リ、此等無レ用、況ヤ蠻暦ヲヤ、
p.0351 好尚云、またの稿に、日月星辰復始二甲寅元一とは、歳月を甲寅に起せる耳に非ず、日時の元をも甲寅より始めしこと更に論ひ無き物にて、謂ゆる作暦の元年は、甲寅歳の甲寅月の朔旦立春やがて甲寅日にて、其晨寅時をやがて甲寅に定めしこと疑無くなむ、〈其は日月星辰と有る星は、即歳星を云ひ、辰は即時をいひ、月とは孟春正月に云ひ、日とは其朔旦立春を云る語なるを以て知べし、若然らずとしては、日月星辰復始二甲寅元一と云こと、總て意なき語とぞ成るめる、〉日行一度而歳有奇四分之一は、既に上に説たるが如し、故四歳而云々とは、四歳の日數、すべて千四百六十日と、彼八分づゝ四を合すれば、四八三十二分にて一日なる故に、千四百六十一日にて餘分なし、之を復合とは云り、故舍八十歳而復故とは、まづ八十歳は四歳を二十合せたるにて、舍とは歳星の舍りを云ひ、八十舍して八十歳を爲すが故にかく云り、此日數凡二萬九千二百日と、かの八分 づゝの餘分六百四十分あり、此をまた日に直せば、二十日にて餘分なし、此を復故とは云り、然れば一紀七十六歳と定めしは、是八十歳の四歳を減じたる數なるが、即四歳づゝ十九を積みて定たるにて、是ぞ古暦法の大要なりける、〈此に就て按ふに、既く見たりし天地二球用法記、また近頃見たる遠西觀象圖説など云ふ物は、共に西洋の天文書を譯せる物なるが、其書等に據るに、彼國邊に用ふる暦法二樣あり、其古なるは、我が崇神天皇の五十三年丙子歳に當りて、郎摩國に由利安と云へる首の在しが立たる法にて、一年を三百六十五日と餘分六時とせり、其六時と云ふは、彼國にては、一日を二十四時に立たれば、一晝夜の四分一にて、晝夜を十二時と立たる諸越の暦法に四分日之一と稱する八分に當れり、斯て其法、三百六十五日六時のうち六時を除きて、全日三百六十五日を一歳として之を平年と云ひ、其餘數の六時を積こと四年にして一日と成るを、第四年の日數に加へて三百六十六日となし、其年を閏年と云ふ、是を以て第四年に必ず閏年あり、故は由利安が始めし暦法なる故に由利安年と稱して、千六百餘年がほど行はれき、是古法なり、然に我が天正十一年癸未歳に當りて、宜禮碁利と云ふ者ありて、其暦法を攺めて新法を立たり、其は詳に天度を測り年月を推歩するに、太易の躔度、暦面の節氣に先だつこと千六百年餘の間に、十餘日の差を生ぜり、是に因りて太易の躔度に巨細に測れば、三百六十五日六時四十九分あり、六時四十九分の六時は、既に云ふ如く、諸越の暦法に謂ゆる四分日之一にて八分なり、四十九分は、西洋の一日を二十四にせる一時を六十分とせる四十九分なれば、諸越また皇國の一時の半時足ずなり、然るに其三百六十五日を平年としては、其餘數を積こと四字にして一日に滿ざる故に、千六百年餘を經る間に十餘日の不足を生たり、是に依て、四年一閏の法を止めて四百年めに一日になほ半時餘り足ざる時刻を強ひて一日に立て、閏年と爲たり、此法に據ときは七千二百年にして、一日の不足を生ずれども、由利安の暦法一千六百年にして十餘日の不足をなすに比すれば、歳實を失ふこと少し、於蘭陀にては此暦法を用ひて、宜禮碁利年と稱する由見えたり、此由利安が暦法いと能く今の古暦に似たるは、其もと同く太古に神眞の傳へし古法なるべし、此に比べては、宜禮碁利が暦法は精に似て却りて迂なり、蘭學をまた無き物に好まむ人など、此等の言を聞むには、決めて訝しみ思ふべけれど、我には尚深く思ひ得たる定説有れば如此は云ふなり、〉
p.0352 論下梵暦漸二入支那一大較上 暦學疑問補一云、隋以前西暦未レ入二中國一、〈此義已前批〉其見二於史一者在レ唐爲二九執暦一、在レ元爲二萬年暦一、在レ明爲二回回暦一、在二本朝一爲二西洋暦一(○○○○○○○)、
p.0352 後世法勝二於古一、而屢改益密者、惟暦爲二最著一、〈○中略〉崇禎中、議用二西洋新法一、命二閣臣徐光啓光祿卿李天經一、先後董二其事一、成二暦書一百三十餘卷一、多發二古人所一レ未レ發、時布衣魏文魁上疏排レ之、詔立二兩局一推驗、累年校測、新法獨密、然亦未レ及二頒行一、由レ是觀レ之、暦固未レ有レ行レ之、久而不レ差者、烏可レ不下隨レ時修 改、以求上レ合レ天哉、今采下各家論説有レ裨二暦法一者上著二於篇端一、而大統暦則述二立法之原一、以補二元志之未一レ備、回回暦始終隷二於欽天監一、與二大統一參用、亦附録焉、
p.0353 論二中西之異一 問、今純用二西法一矣、若二子〈○梅文鼎〉之言一、但兼二用其長一耳、豈西法亦有下大異二于吾一而不上レ可二全用一、抑吾之用レ之者、猶レ有レ未レ盡與、曰、西法亦有二必不レ可レ用者一、則正朔是也、中法以二夏正一爲二歳首一、是萬世通行、而無レ弊者也、西之正朔、則以三太陽會二恒星一爲レ歳、其正月一日定二于太陽躔斗四度之日一、而恒星既東行、以生二歳差一、則其正月一日、亦屢變無レ定故在二今時之正月一日一、定二于冬至後十一日一、溯而上レ之、可二七百年一、則其正月一日在二冬至日一矣、又溯而上レ之七百年、又在二冬至前十日一矣、由二今日一順推、至二後七百年一、則又在二冬至後二十日一矣、如レ是不レ定、安可二以通行一乎、此徐文定公造二暦書一之時、棄レ之不レ用、而亦略不二言及一也、然則自二正朔一外、其餘盡同乎、曰、正朔其大者也、餘不レ同者尚多、試略擧レ之、中法歩二月離一始二于朔一、而西法始二于望一、一也、中法論レ日始二子半一、而西法始二午中一、二也、中法立二閏月一、而西法不レ立二閏月一、惟立二閏日一、三也、黄道十二象與二二十八舍一不レ同、四也、餘星四十八象與二中法星名一無二一同者一、五也、中法紀レ日以二甲子六十日一而周、西法紀レ日以二七曜一、凡七日而周、六也、中法紀レ歳以二甲子六十年一而周、西法紀レ年以二總積六千餘年一爲レ數、七也、中法節氣起二冬至一、而西法起二春分一、八也、以上數端、皆今暦所レ未レ用、徐文定公所レ謂鎔二西算一以入二大統之型模一、蓋謂レ此也、〈就レ中惟閏日用二之於恒表積數一、而不レ廢二閏月一、猶弗レ用也、其總積之年暦指中偶一擧レ之、而不二以紀一レ歳、〉
p.0353 西法行二陽暦一、以二太陽一爲レ歳、自二今歳冬至一至二明歳冬至一、三百六十五日、分二十二月一、三十日或三十一日爲二一月一也、所レ餘四分度之日爲二三時一、積一四年一而爲二一日一、故毎二四年一閏一日、有二閏日之月一、無二閏月之年一、中國以二太陰一爲レ暦、故有二盈虚一、以レ月爲レ主、而太陽節氣、反分二注于月之下一、太陽暦則以二節氣一爲レ主、而朔望分二紀于節氣下一矣、
p.0353 問フ、中華、戎蠻、共ニ天文ヲ精ク攻ムル事ハ、其暦ヲ正クシ、天下ノ時ヲ明カニ爲ルノ 用ニ非ズ哉、然ルニ中華、日本ノ暦ハ、氣盈朔虚閏餘ノ算法、甚ダ煩勞ニシテ、動モスレバ天ニ後レ、天ニ先テ差生ズ、差生ズレバ、暦法ノ算數ヲ改ム、自レ古至レ今、改暦不レ可二勝計一、甚紛冗ナリ、然ルニ戎蠻紅毛等ノ暦ヲ尋ルニ、簡易ニシテ永世不レ改ノ暦法也、其法日ヲ表トシ、月ヲ裏トス、日ヲ表トスト云ハ、日輪南至ノ時ヲ以テ歳ノ首メトシ、其一日其二日其三日ト次第シテ、一月三十一日ノ月アリ、三十日ノ月アリ、二十八日ノ月アリテ、共ニ十二月ヲ立テ一年トス、十二箇月ノ内、二十八日ノ月ヲ以テ、四年ニ一度、是ヲ二十九日ノ月ト爲テ、其年ヲ閏ノ年トス、四年ニ一日ノ閏ノ外ハ、別ニ閏月ヲ置ク事ナシ、其氣節ハ某月ノ某日ト、毎ニ入節氣ノ定日アル如ク、二月ノ日數ヲ立テタリ、是レ日ヲ表トシタル也、月ノ盈虚朔望弦晦ハ、各其月ノ裏ニ附記ス、某日ハ朔、某日ハ望、某日ニ初月見ハルトシテ、無二定日一、是レ月ヲ裏トシタル者也、此法甚ダ簡易ニシテ、民用足レリ、恐クハ中華ノ暦法ニ勝レル者歟、如何、 曰フ、〈○中略〉戎蠻ノ暦ハ、周暦ニ似タリト云ヘドモ、日ヲ表トシテ閏法無ク、二十八日ノ月ヲ立テ、四年ニ一日ヲ益シテ、定月トシ、氣節定日有テ、分秒ヲ不レ竭、粗ニシテ精キ法ニハ非ズ、最モ彼國ニテハ可ナラン、唐土、日本、數千歳以來、朔望ノ法ヲ表トシ、節氣ヲ其中ニ附タルノ暦ニテ、人用正ク、時ヲ失フ事ナシ、況ヤ朔望ハ日月交合正對ノ時ニテ、陰陽ノ氣壯ンナル事、氣節ノ交替ヨリモ強ク、日月ノ行モ、朔望ハ進ム、況ヤ月行疾速ニシテ、潮水ノ往來盈涸、盛ニ萬物ノ氣強キ時也、疾病ノ療養、草木ノ種植、皆朔望弦晦ノ氣ヲ專ラニ考ヘズンバ有ルベカラズ、何ゾ唯氣節ノミヲ先トセンヤ、然ラバ月ヲ表トスルノ暦又最ナラズヤ、
p.0354 皇國上古未レ聞レ有下審二天文暦數一之術者上也、然神代以來以下能勤二農政一之國俗上、無レ有下誤二人時一之失上云、及レ至二中古一、傳二漢土暦法一、而有二暦博士、天文博士等官一、以各掌二其事一、所レ謂漢土暦者、史記暦書、及暦代史書、律暦志所レ載者、而元郭守敬所レ著授時暦、最其選者也、近及二西洋人、利瑪竇、芥儒略、湯若望等、來 傳二西洋暦法一、漢土暦法益加二精密一、後光明天皇御宇、淸人作二時憲暦一、即用二西洋暦一而所二改正一也、此暦法亦傳二皇國一、靈元天皇元年改二正暦法一、作二新暦一、號二貞享暦一、是爲二皇國暦書之始一也、其後西洋天文暦數之書入貢者頗多、而暦數推算極精矣、後桃園天皇寬政十年、改二正暦法一、作二寬政暦一始用二大地轉回之説一、總以二西洋暦術之精微一也、愚老玆審二西洋諸國天文暦術精微之基原一、其學發二端於阨日(エジツト)多國一、所レ謂阨日多國者亞弗利加洲中、東北境之一大邦、而此國太古以來、絶無レ有二雲霧雨雪等一、而毎日天氣淸朗也、是以天文星暦之學究二其精密一云、其古説曰、日輪者在二大圓之中央一、而無レ有二移動一、大地及星月、皆常旋二回其外圓一者也、是地動説之濫觴也、又歐邏巴洲天文暦術者、其説與二漢土一同、而以二大地一爲レ在二六合正中一、而日月星辰皆旋二回大地一之法也、然我邦孝安天皇御宇、歐邏巴洲、厄勒祭亞(ギリシヤ)國、沙莫斯(サモス)人、龐廸我刺私(ヒタゴラス)者、游二于阨日多國一七年、學二得地動之暦法一而歸、弘二之於厄勒祭亞國一、于レ時厄勒祭亞國大家亞利斯多的列思(アリストテレス)者、惡三其反二戻古傳一、切勉排斥焉、所レ謂此亞利斯多的列思者、以二西洋總主亞歴吉山德兒(アレキサンデル)帝之大師一也、歐邏巴洲中、無下信二地動説一者上、徒其風説之遺耳矣、或云、開化天皇三十八年、池中海樂得斯(ロツテス)島人、必巴兒古斯(ヒツパルクス)者、精二究天學一、講二明衆術一撰二衆生距度密邇者二三星、或五七星、或數十星一、像二于活物器械等之形状一、而爲二一隊一、始定二恒星一千零二十二座之星象一也、且分二黄道三百六十度一爲二十二宮一、毎二一宮一各三十度、以紀二日輪行環之經度一、所レ謂十二宮名號即如二上説一、白羊、金牛、雙兄、巨蟹、獅子、室女、天秤、天蝎、人馬、磨羯、寶瓶、雙魚是也、乃以二白羊宮初度一、爲二春分之日躔一也、即是西洋暦法之起元、而西洋諸國至レ今用二此法一也、而彼稱二白羊星一者、即此稱二婁宿一者也、由レ是觀レ之、則當時春分日躔、當レ在二婁初度一也、然而至二今時一、則春分日躔遙東移悉入二于他宮一、而及下距二婁明星一三十餘度上、因而以二衆星毎一年五十一秒東移之法一推二算之一、則距レ今二千一百餘年前也、然則雖四一書云三十二宮名號成二于開化天皇三十八年一、而尚一百四十餘年以前之事、而當二孝靈天皇御宇一也、且又此十二宮名出二于不空三藏宿曜經一、因按天竺諸國亦當レ用二此必巴兒古斯(ヒツパルクス)之暦法一也、
p.0356 六年〈○寬政〉甲寅十一月、大槻玄澤始テ新元會ヲ開キ、同學諸子ヲ會シテ、陽暦元朔ヲ祝ス、世人之ヲ和蘭正月ト稱ス、以後毎歳以テ例トス、
p.0356 是編何爲而著也、厥故蓋有レ三焉、欲下顯二揚聖説之天地一而破二諸邪説一以護中正法上、一也、欲レ示下諸邦暦術因二循梵暦一(○○)而得中其法始備上、二也、欲レ補下以二梵暦不一レ傳二吾邦一爲中瑜珈者之闕典上、三也、〈○中略〉 維時文化七龍集上章敦牂大呂日、圓通書二于平安東森積善敎院一、
p.0356 論下支那暦術資二印度法一而後始周備上 要レ之梵暦之法、先曉三二曜有二高卑之行一、〈後當レ出二其義一〉以レ日爲レ日、以レ月爲レ月、七曜暦、九執暦等即是、唐已前日月並紀二平行度一用二平朔一、至二李淳風法一異二于此一、蓋取二之於印度一故也、何以知レ之、淳風出二瞿曇謙甲子元辰暦之後一而依二傚其法一、〈已見二于上註一〉及與二瞿曇羅一同レ時、繼爲二太史令一、是時朝廷專徴二暦士於印度一、則淳風蓋多與レ之交、其承二梵暦一者可二推而知一也、淳風之後嵩陽大衍暦出、而支那暦道始大備焉、故唐書暦志十七上云、自二漢太初一至二麟德暦一有二二十三家一、與レ天雖レ近而不レ密也、至二一行一密矣、後世雖レ有二改作者一、皆依倣而已、
p.0356 聞、近日有二一僧一、講二釋佛國暦一、其説以二佛所レ謂須彌四州一爲レ主、以駁二漢以降之天文家一、且以謂二天地之形不一レ圓、予謂、凡物自レ内見レ之而不レ可レ知二其外形何如一、〈○下略〉
p.0356 本朝梵暦ノ起源ヲ勘ルニ、文化以前ハ之レヲ云フ者ナカリキ、或ハ之レヲ云フモ、一箇ノ私見ヲ以テスルノミニシテ、吾佛ノ須彌説ニヨリテ、之レガ確論ヲ立テザルユエニ、別ニ一家ヲナスモノナシト、然ルニ文化年間ニ至リ、普門律師ナルモノアリ、西洋天文地理ノ説ノ、後來佛敎ニ巨害ヲナサンコトヲ測リ、大藏ヲ閲スルコト殆ンド卅年、是ニ於テ日月橫旋、四洲異二四時一ノ論ヲ立テ、數書ヲ著ハセリ、暦象編、實驗須彌界説、須彌山儀銘、及和解須彌界暦書等ハ、皆師ガ述作ニ係ル、其大意ハ下ニ至リテ略論スベシ、師ハ寶暦四年ニ生ル、因幡國ノ士族山田某ノ子ナリ、七歳ニシテ出家シ、戒ヲ豪潮阿闍 ニ受ケ、諱ハ圓通、字ハ珂月、無外子ト 號ス、成年ノ後、洛東積善院ニ住シ、晩ニ東都ニ至リ、三縁山内ノ惠照院ニ住ス、天保五年九月四日寂ス、時ニ年八十一ナリ、師ガ所立ハ、大藏中ヨリ、阿毘曇論日月行品ヲ選出シ、須彌四洲異二四時一ノ説ヲ立テ、日月橫旋ノ義、并ニ縮象展象ノ理ヲ談ズ、其展象ニ於テハ、日月橫旋ニシテ、須彌ハ中央ニ卓立シ、日月ソノ半腹ヲ繞ルトイヘドモ、是レハ天眼ノ所見ニシテ、肉眼ニ應ゼズ、肉眼ノ所見ハ、縮象ニシテ、日月地下ニ出入ノ象ヲ見ル、故ニ數ハ展象ニ原クトイヘドモ、眼見ニ相應セシメンガ爲メニ、種々ノ表ヲ設ケ、遂ニ須彌暦等ヲ述作セリ、具サニハ其書ニ就テ見ルベシ、概スルニ事創業ニ係ルヲ以テ、爲メニ數理モ甚ダ詳カナラズト雖モ、無數ノ艱苦ヲ歴テ、文政四年、遂ニ官許ヲ經テ、佛暦授與自由ノ權ヲ得ルニ至レリ、
p.0357 故司天門下都講小島君墓表〈在二繩手三條養福寺一〉 貫名苞撰君、名好謙、字牧卿、稱二典膳一、號二濤山一、阿波德島人、〈○中略〉最精二象緯暦數學一、司天安公擢爲二都講一、僧珂月佛國暦象編之出、勿レ論二緇徒一、雖二儒士一 二暦學一者、往々眩惑、至下謂二官暦一爲二邪法一弗上レ顧、君慨然爲著二痒妄非一斥レ之、庚寅秋、地大震、洛中洶々至二或避一レ地、君爲著二地震攷一以定二衆心一、
p.0357 十年十月、百濟僧觀勒來之、仍貢二暦本(○○○)及天文地理書、并遁甲方術之書一也、是時選二書生三四人一、以俾レ學二習於觀勒一矣、陽胡史祖玉陳習二暦法一(○○○)、〈○中略〉皆學以成レ業、
p.0357 大寶三年十月甲戌、僧隆觀還俗、本姓金、名財、沙門幸甚子也、頗渉二藝術一、兼知二算暦一、
p.0357 公爲レ人温雅備二於諸事一、〈○中略〉當二此時一〈○中略〉暦笇有二山口忌寸田主、志紀連大道、私石村、志斐連三田次等一、
p.0357 吉備入唐間事 吉備大臣入唐習道之間、諸道藝能博達聰慧也、唐土人頗有二耻氣一、〈○中略〉鬼云、令二聞得一哉、如何、吉備云、聞畢、若舊暦十餘卷被二求與一乎ト云ニ、鬼受レ約、與二暦十卷一、即持來、吉備得レ之、文選上帙一卷ヲ、端端三四枚 ヅヽ令レ書〈天〉持ルニ、歴二一兩日一〈天〉誦ヲ皆悉成ス、持レ夫シテ、食物荷セテ、文選ヲ令レ送レ樓、
p.0358 天長十年十二月甲子、陰陽寮進二御暦并頒暦一也、恒例在二十一月朔一、而暦博士外從五位下刀伎直淨濱卒後、忽无二相繼之人一、遣下召〈○遣召、原作二遺言一、據二一本一攺、〉識二暦術一者遠江介正六位上大春日良棟上、乃令レ造レ之、所以于レ今延引、
p.0358 承和元年二月辛未、是日授二正六位上大春日朝臣良棟從五位下一、褒二造レ暦之才一也、
p.0358 永延元年、安倍晴明是時人也、掌二天文暦數事一、昔者一家兼二兩道一、而賀茂保憲以二暦道一傳二其子光榮一、以二天文道一傳二弟子晴明一、自レ此已後兩道相分、
p.0358 長保二年七月九日甲申、依レ勅召二大炊頭光榮一、仰下可レ令三前内藏允光國習二傳暦道一之事上、申云、當道事者、以二光榮子息一可レ令二習繼一、但光國者、尤可レ被二採用一、陰暦助若博士有レ闕之時可レ被二拜任一歟、
p.0358 持統天皇六年以來襲二用異域之暦一殆一千年、而暦日後レ天三日、纖月見二晦朔一矣、方二此時一、吾祖新蘆翁、〈○澀川春海〉覃二思斯道一頗究二蘊奧一、於レ是創二造新法一(○○○○)以聞、遂編頒行、子孫繼レ緒既已九世、余承レ職以來、恆冀二斯道之隆一、〈○中略〉 弘化四年丁未冬日 司天官 澀川景祐誌
p.0358 是年〈○元祿十四年〉春三月、幸德井友親(○○○○○)來二於東武一、至二於先生之邸一、滯二留別室一傳二受暦術一、學二貞享暦法一頗得、而冬十一月歸京、於高家之官僚、來二於關東一學習也、近代所レ不二曾有一、正是豐原時秋以來之事歟、人無レ不レ驚二稱之一矣、蓋友親賀茂姓胤、世以二暦博士一爲二任官一、古今所レ記之草暦之吉凶日等、是幸德井家之傳文、而毎歳遣二自考之暦稿於東武一、受二先生之校正一、由レ此始也、先生之家暦、毎二月以三交食節氣之暦草與二七曜暦稿一、委二于官所一贈二賀家一、幸德井據二其暦草一而摸二草暦一、録二家傳之卜例等一、與二先生之七曜暦一併令二之彫刻一、〈大經師蜂屋内匠刊レ之〉刊成、而夏六月呈二東武之官所一、頒行如二前説一、今專用二此例一也、
p.0358 日外預二御状一過分至ニ候、如レ仰未レ得二御意一候、今度者御子息杉大夫殿、久々在京に而、暦 學傳授申候、新暦未御本淸書相濟不レ申候間、半傳授申候、授時大統兩部は皆相傳申候、如何樣以レ折可レ得二御意一候、恐々謹言、 袖書 猶々貞享暦秘傳甚御座候、安家には神文書被二指上一候、其樣子杉大夫殿御物語申候條、不レ能レ詳、 以上、 八月七日 保井算哲 春海花押 賀茂豐前樣
p.0359 祭二澀川先生一文〈乙未十月六日卒七十九歳〉 嗚呼哀哉、先生之於レ天兮、我國開闢以來其一人歟、何其割レ符離二合日月一、指レ掌低二昻星辰一也邪、神代伊奘諾尊立二春秋一、以分二表中底之天一、人世神武天皇興二暦法一、乃成二十二月之年一、神聖之蘊薇乎淵矣、爾來千載、斯道莫レ傳、眞野麿名二乎暦術一兮、左二袒徐昻一、知二其學之疎一、晴明也妙二乎天象一兮、推歩之策則不レ免二闕如一、夫星宿之在レ天、如二城邑之列一レ地、有二古存而今亡者一、有二古隱而今示者一、先生皆能識別而字レ之、日月之會同在レ天有二定期一、淳風虚進徒爲二參差一、郭氏乘除猶未二明備一、先生創二行差之術一、兩曜正合二乎天一矣、日行之盈縮限以二冬夏至一、入氣之忒先生始試、南斗之初、東井之四、古今交食、豪釐不レ貳、歳旦奏二七曜暦一、至二元亨一無二廢絶一、干戈侵尋、推歩滅裂、貞和三星之變、當時有二恠而記一レ之、降而至レ于二近世一、莫レ識二其光芒之髣髴一、先生之明、毫分縷別、張子信積候、郭守敬細行、游二刃於肯綮一、五緯得二其列一、偉哉貞亨朝儀復レ式、其他日月地之近遠、陰陽暦之強弱、前二乎千歳一之古暦、後二乎千歳一之改暦、言レ之析二乎絲髪一、莫レ不二爬梳抉剔一、著レ書數千言、一一合二符契一、蓋自レ非二星辰降而化一レ人、何以如レ此之明白也哉、嗚呼哀哉、吾神道之統遠出二乎天一、伊奘諾尊以レ是傳二之天照大神一、天照大神以レ是傳二之瓊々杵尊一、列聖相承未二嘗失隕一、兒屋、太玉、猿田彦、内外相守如二一身一、中古以 來其道分崩、卜部伊勢各自立レ家、雜レ佛混レ儒、伐レ異黨レ同、如レ此凡數百載、學者無レ所二折衷一、近時垂加社出障二百川一而東レ之、風水風葉之作、似レ續二藤森之功一、然而一時門人亦未レ有レ升二其堂一、懿哉先生、圯上取レ履、到底根究、旁及二百氏一、蚤見二乎天柱國柱之卓一、晩登二乎神籬磐境之巋一、蓋先生之於二垂加門墻一也、實靑二於藍一、而寒二於水一者矣、嗚呼哀哉、重遠事二先生一二二十歳于玆一、於二先生家學一庶三乎不二 然一、晩以二禁錮一廢二講問一、日日馳二想東海天一、天暦妙籌、神道秘奧、北斗仰望、胤子之賢、惟天難レ諶、胤子先逝、先生老病、悲涙懸レ泉、未レ滿二七月一、先生亦沒、既無二庶孼一亦無レ孫、遺傳忽雲散、東岱前後煙、不レ知何世有二楊子雲一、嗚呼哀哉、重遠録レ天名二壬癸一、傳レ神號二鹽土一、師説萬一以謀二不腐一、奈何天南海北猶未レ及レ乞二郢斧一、擧二一世一莫レ可二質訂一、此恨緜緜徹二千古一、嗚呼哀哉、噫先生之魂、豈與二醯鷄甕裏者一同乎哉、將下沿二東海一兮、浮中遊八極上乎、抑攀二富山一兮、御レ氣排レ空也、必其爲二列星一爲二明神一、後レ天後レ地、以欲レ觀二造物人鬼之所一レ窮焉、顧二彼塵世之利名禍福一兮、野馬杯水曾何足レ掛二齒牙一也、然則重遠等區々奉レ觴、恣嗟悲泣兮、寧莫下爲二先生一所中嘲侮上也耶、嗚呼哀哉、尚饗、
p.0360 土州ニテ、暦學ヲ始テセシハ、谷丹三郎(○○○○)〈(重遠)新蘆面命ヲカキシ男ナリ〉也、コレハ東都ノ天文生澀川氏ニ學ブト也、谷氏ノ門人ニ川谷貞六(○○○○)ト云人アリ、此人、南海暦談、授時改旋暦書等ヲ著シ、又起元演段ト云筭書ヲ著ス、其門人片岡武次郎、則細川生ノ師也、武次郎、傍通暦、五緯暦、天元筭法等ヲ著ス、又私習暦書ヲ著ス、凡五十卷、未業ヲ卒ヘズ、今四十卷ハ出來セシト也、
p.0360 數學は、寄合建部彦次郎賢弘(○○○○○○○)とて、名譽の算學者ありしを、小納戸浦上彌五左衞門直方薦め申ければ、しば〳〵御垂問あり、ほどなく精微をきはめ玉ひ、さらに聖慮をくはへ玉ひしことゞもありしかば、誠に神明の御方略、凡慮の及ぶ所にあらずと、彦次郎賢弘もふかく感服し、後にはかへりて御敎諭を蒙りしとなり、しかるに天文暦術は、民に時を授るの要務なればとて、これにも専ら御心を用ひ玉ひ、和漢の暦書はさらなり、阿蘭の説までもひろく御穿鑿有けるが、當時用ひらるゝ貞享の暦法は、疎脱多く、誤も又少からざるにやと、天文方澀川助 左衞門春海が弟子、猪飼文次郎某に御尋ありしに、文次郎其わざにいたりふかゝらざれば、答へ奉る事あたはず、かさねて彦次郎賢弘にとはせ玉ひしに、彦次郎賢弘、京の銀工中根條右衞門玄圭(○○○○○○○○)といふを推擧せり、よりて條右衞門玄圭を府に召れ、御質問どもありしに、かれが申所ことごとく明白なりければ、大に御旨にかなひ、そのころ唐船に、暦算全書といへる書をもたらし來りしを、條右衞門玄圭に譯すべしと命ぜられしに、やがて譯本一通を進らせける、しかるにこの書は、別に全書ありし其中より抄録したるものなれば、其全書をみざらんには、本意は明辨しがたしと玄圭申しければ、やがて其全書をもち來るべきよし、長崎の奉行萩原伯耆守美雅もて唐商に令せらる、はたして暦算全書は、西洋暦經のうちより抄録せしものなりしかば、西洋暦經の書本をもて參りぬ、これをも條右衞門玄圭にみることをゆるされしに、これにたよりて、律襲暦〈一名白山屠〉をつくりて奉れり、その頃條右衞門玄圭、凡暦術は唐土の法みな疎漏にして用ひがたく、明の時に、西洋の暦學はじめて唐土に入し後、明らかになりし事少からず、本邦には耶蘇宗を嚴しく禁じ玉ふにより、天主または李瑪竇などの文字ある書は、こと〴〵く長崎にて燒捨るおきてなれば、暦學のたよりとする書甚だ乏し、本邦の暦學を精微にいたらしめんとの御旨ならば、まづこの嚴禁をゆるべ玉ふべしと、建議せしといへり、
p.0361 是歳、〈○正德六年〉建部賢弘ニ命ジテ、暦算全書ヲ校セシム、賢弘譯語ヲ撰ス、〈通航一覽〉
p.0361 亡友間大業(○○○)、碑銘叙〈○中略〉 君諱重富、間氏號二長涯一、晩自號二耕雲主人一、大業其字、間氏之祖出二於淡海蒲生氏一、元和中、有下遷二津國西成郡鷺島莊一者上、寬永之初、來家二浪速一業二典鋪一、迨レ君凡六世、襲稱十一屋五郎兵衞、考諱重光、妣中野氏、有二七男一女一、君其第六子、兄弟皆夭、君嗣、君幼容止凝重、嶷如二成人一、年甫十二、見二渾天圖一反覆翫レ之、後數日手自揉二輪竹木一造二一儀器一、不二少差一、人皆驚、頃二十七八一學二算法一、既弱冠始志二星象之學一、遍求二古今暦書一讀レ之、夙 夜覃思研鑽、至二寢食倶廢一者數年、後知二洋暦之爲レ精不一レ可レ易也、乃耑攻レ之、自三洋暦之入二於漢土一、而依二其法一成レ書者、明崇禎已還有二若干種一、不レ如三淸乾隆所レ定暦象考成後編之爲二最精一、君得レ之益有レ所レ發、時有二豐後人麻田剛立(○○○○)者一、居二浪速一、以二暦學一聞、因執レ贄往見、剛立嘗有レ疑二於緯星周天之數一、後雖レ得二其術一、而未レ究三其所二以然一、君乃闡二天行方數諸曜歸一之理一、録以示レ之、剛立宿疑忽釋、嘆曰、窮理入レ微、海内惟有二一間氏一而已、蓋方數之説、既著在二洋書一、而其書當時猶未二舶載一、本邦固所レ未レ言、漢土亦無二及レ此者一、然剛立始能得二其術一、而其理則待レ君而發レ之云、君嘗剏二遠鏡加衡視心差之法一、又其所レ製儀器不レ下二十數一、而尤其有レ用者曰二垂搖球儀一、曰二測食定分儀一、曰二測食定方儀一、常食二工人於家一、凡有レ所レ作、必面喩指畫使レ無二差謬一、君於二算數一亦著二算法弧矢索隱一編一、又考二索尺度一、辨二其古今同異一、皆出二於暦學之緒餘一、至二寬政中一、官有二改暦之擧一、七年乙卯、君見レ徴赴二江都一、留在二暦局一與二其事一焉、暦成蒙二優賞一、賜二白金及禀食宅地一、許下稱二姓氏一及旅次非常時佩上レ刀、留レ府凡三年、賜二休暇一、仍令二在レ郷測候一、享和二年四月、奉レ旨赴二長崎一査二驗食限一、且測二量邊海里程一、至二文化紀元正月日一、官高橋君東岡(○○○○○)歿、因復召レ君、東岡嘗奉レ命譯二述西洋新法暦書一未レ成、嗣子觀巣續二成之一、而君亦與焉、留レ府六年乞レ假暫歸、無レ幾而罹レ病荏苒經レ年、遂歿二於家一、實文化丙子三月二十四日也、
p.0362 混天新語序 聖人明二天道一察二民故一、而禮樂作焉、其要歸四於順レ天而民可三以得二久安一耳、暦家驗二天象一會二衆智一而法術變焉、其要歸四於合レ天而時可三以得二永明一耳、是故苟順レ天而安二乎民一、則舊愆不レ可レ不レ替焉、苟合レ天而明二乎時一、則新術不レ可レ不レ興焉、新術可レ興、則夷夏又奚擇、蓋夫暦法自二漢大統一迄二元授時一而大備焉、而西法入レ彼者、亦自レ唐至レ明有二九執萬年回々數書一、而明崇禎之間、又有二西人鄭谷之説一、西術是爲二大備者一、而後有二其弟子刻白爾、及利酌理 西尼等一、益加二精密一、近亦傳入二本邦一(○○○○○○)、而往々爲三識者所二採取一矣、河野通禮(○○○○)字子典、精二通暦算一、而以授二其徒一、而若下西説乏レ書、毎費中指畫上、頃乃著二混天新語二卷一(○○○○○○)、〈○中略〉加以二圖象一、請二余序一、〈○中略〉於レ是乎題、文化紀元甲子孟冬、
p.0363 貞觀二年閏十月廿三日己巳、勅二從四位下行文章博士兼播磨權守菅原朝臣是善、正五位下守權左中辨兼行式部少輔大枝朝臣音人、正五位下守右中辨藤原朝臣冬緒、從五位上行大學博士大春日朝臣雄繼、從五位下守主計頭兼行木工助算博士有宗宿禰益門等一曰、今年一章十九年、准二據先例一、當レ有二朔旦冬至一(○○○○)、而暦博士眞野麻呂等所レ上暦日、冬至在二十一月二日一、若於二經史一有下可二進退一之理上乎、宜二議而奏一レ之、是善等議曰、謹案、眞野麻呂所レ執、以爲依二日分小餘不足一、不レ得二合朔一、論二之暦術一、理若レ當レ然、但案二暦經注一云、月行遲疾、暦則有二六大六小一、以二日行盈縮一增二損之一云々、當下察二加時早晩一、隨二其所一レ近、而進二退之一、使上レ不レ過二六大六小一、其正月朔、若有二交加一時正見者、消二息前後一兩月一、以定二大小一、令二虧在一レ晦者、以レ此言レ之既有二進退之理一、而今當年暦八月大、九月小、十月大、閏十月小、然則以二一小月一爲レ大、自得二朔旦冬至一、夫朔旦冬至者、暦數之所レ始、帝王之休祥、既云避レ凶而在レ晦、何不二逐レ吉以退一レ朔、昔唐太宗貞觀十四年有二閏十月一、即得二朔旦冬至一、太史令傳仁均以二癸亥一爲二朔旦冬至一、而宣義郎李淳風案二古暦分日一、以爲甲子宜レ在二朔旦一、詔下二公卿及諸有識一、於レ是國子祭酒孔頴達等十有四人、尚書八座請從二淳風議一、有レ詔可レ之、雖レ然至二於後年一不レ見二晷耀之愆一、爰知一日進退未レ足レ爲レ妨、又尚書百釋云、頻大消レ之、案二其意義一、毎レ至二章蔀之歳一、必欲レ令レ得二朔旦冬至一、故頻置二大月一至二於三四一、夫六大六小者、暦術之常法、況今唯置二七〈○七、類聚國史作レ二、〉大一、既得二合朔一乎、又勅二從五位下行暦博士兼備後介大春日朝臣眞野麻呂、外從五位下行陰陽助兼權陰陽博士笠朝臣名高等一曰、今諸有識、等僉議云、今年可レ置二朔旦冬至一、若依二此説一、逐レ吉置レ朔(○○○○)者、於二後年暦一得三節氣不二錯繆一歟、眞野麻呂等奏言、謹撿二術法一無二依レ吉進退之文一、仍今年不レ置二朔旦冬至一、但依二群臣議一置レ之、可レ無二弦望晦〈○晦、原作レ朔、據二政事要略一攺、〉之差一、於レ是詔從二是善等之議一焉、 廿五日辛未、宣二詔百官及五畿七道諸國一云、今年當レ有二朔旦冬至一、而暦家偏依二日分不足一置二於二日一、今稽二之故實一、既有二改定之理一、宜下改二閏十月一爲レ大、即以二十一月二日丁丑一爲中朔旦冬至上、
p.0363 延喜十七年〈二月廿日己亥、兵衞志多治有行、與二暦博士等一、論下可レ无二朔旦冬至一之由上、〉
p.0364 保元元年十月十八日、諸卿定二申朔旦暦論事一、件事暦道造二進暦一、而算博士行康難申、仍被レ下二勘諸道一也、 廿六日、以二十月卅日戊辰一爲二十一月朔一、以二冬至一置二二日一、兼又除二十二月卅日丁卯一、以二廿九日丙寅一、可レ爲二晦日一宣下事、
p.0364 嘉吉元年十月廿九日壬戌、今月御暦之面大月也、朔旦冬至臨時出來、而先日及二改暦宣下一、今月廿九日晦日也、以二卅日一爲二十一月一日一、以二十二月一爲レ大也、 十一月一日癸亥、黄鐘初律幸甚、今日御暦所レ載、十月卅日癸亥也、明日十一月一日甲子朔旦冬至也、然依二臨時朔旦冬至一可二改暦一之由被二宣下一、以二十月一爲レ小、以二今日一爲二十一月朔一、以二冬至一爲二十一月二日一、仍今日朔日也、此事去月十六日有二陣定一、群卿及二議奏一、予〈○藤原時房〉并隆遠卿申下可レ被レ用二朔旦冬至一之由上、其外内大臣〈○藤原公名〉已下申下可レ被二改暦一之由上、被レ從二衆議一歟、紀傳明經勘文皆存二改暦之義一也、但愚存委見二定文申詞一也、非レ無二所存一者歟、
p.0364 文明十一年十月廿九日、抑來月一日爲二冬至一、就二旬之儀一依レ難レ被レ行、可レ有二改暦宣旨一哉否事、先日被レ仰二付頭中將一、〈實興朝臣〉仰詞其趣尋レ之副二官外記勘例一、 朔旦冬至事、旬之儀、如二平座一、猶以難レ被レ行、可レ有二改暦宣下一否事可二計申一云々、 禪閤 二條前關白 關白等尋申 禪閤申詞 今年天正冬至事、任二推歩之術一、置二中氣於朔旦一歟、雖レ然不レ當二章蔀之期一、爭被レ行二賀瑞之禮一哉、依レ是有二改暦之宣下一、可レ謂二保元元延慶元等例一也、但去應仁二年雖レ丁二一章之運一、依二天下擾亂一、不レ及二其沙汰一者無レ力次第也、當年已有二中間之朔旦一、任二先規一被レ改二御暦一之條何事有哉、然則以二今月卅日壬午一爲二十一月朔一、被レ退二冬至日二日一、以二十一月廿九日辛亥一、可レ爲二晦日一之由被二宣下一者、不レ可レ違二先例一者哉、 二條前關白不レ載二申詞一、改暦可レ然云々、 關白 朔旦冬至事、去應仁二年相二當章歳一歟、然者今年爲二臨時朔旦一間、任二保元以來之舊蹤一、改暦事可レ被二宣下一哉、此上事宜レ在二時宜一矣、 官外記勘例〈但外記不レ得二所見一、無二文書一也、〉 朔旦冬至、當時如二平座一、猶以難レ被レ行、雖レ爲二幽玄儀一、可レ有二改暦宣下一哉、一向不レ及二御沙汰一條如何事、 一延暦三年、爲二本朝朔旦冬至一始被レ行レ之、其以後數十箇度也、近者寶德元年被レ行二旬儀一、應仁二年同相二當朔旦冬至一、依レ亂無二被レ行之儀一、 一臨時朔旦冬至事 文永七年庚午、相二當此節一、經二奏聞一之處、算術之所レ至勘申之趣、尤雖レ有二其謂一、保元有二沙汰一、已被レ略了、任二先例一可レ被二停止一之由被二仰下一之間、以二十月大一爲レ小、以二十二月小一爲レ大、令レ造二進御暦一訖、 延慶元年戊申、相二當此節一、宣旨云、今年十一月朔丙戌置二冬至一、而算博士三善遠衡朝臣勘申非二章蔀期一、無二中間會一、由レ是任二保元元年十一月退朔例一、以二今月卅日乙酉一爲二十一月朔一、以二冬至一可レ置二二日一、以二十二月卅日甲申一可レ爲レ晦、宜レ下二知百官一者、 朔旦冬至者、一章十九年間、必有二此節一、於二臨時朔旦冬至一者、不レ待二章蔀歳一、相二當十一月一日一、去應仁二年爲二章歳一、然者當年爲二臨時朔旦一歟、暦道輩令二勘奏一哉、改暦之條先規也、 右注進如レ件 文明十一年十月廿九日 左大史小槻雅久〈上〉 今度宣下之樣、頭中將相尋之間、如レ注レ左仰レ之、 文明十一年十月廿四日宣旨 今年十一月朔癸未、置二冬至一、而非二章蔀期一、無二中間會一、由レ是任二保元延慶例一、以二今月卅日壬午一爲二十一月朔一、退二冬至於二日一、以二十一月廿九日辛亥一可レ爲二晦日一、宜レ下二知五畿七道并百官一者、 藏人頭右近衞權中將藤原實興〈奉〉 此趣歟、但可レ尋二申禪閤一之由仰レ之、 仰云、宜レ下二知五畿七道百官一、且仰二暦博士等一令レ進二御暦一者、如レ此可レ然之由有レ仰云々、予所存已可レ下二知百官一之由仰レ之上者、何別仰二暦博士一哉、不審也、
p.0366 承和三年七月戊辰朔、是月元據二頒暦一爲二小月一、而更據二七耀暦一改爲二大月一、又八月大改爲二小月一、九月小改爲レ大、十月大改爲レ小、時有二暦博士二人一、其執見不レ同也、議者討論以二七耀之説一爲レ得、故改從レ之、
p.0366 大治四年六月二日、於二仙院一暦道算道相二論月大小一、有二議定一、
p.0366 大治四年六月二日、頭辨〈○藤原忠宗〉被レ下二文書一、一々披見之、大法師源算進二申文一云、今年閏七月小、八月大、暦道誤也、算勘之所レ至、八月大、閏八月小也、仍被レ問二暦道一之處、家榮朝臣、宗憲保榮等、陳状已及二二ケ度一、其趣雖レ多、大切所レ被レ尋二二ケ條一、八月朔丙子、日月之行合度事、延暦以後、朔旦冬至之後四年、閏月廿六七日也、未レ及二八月一條注申事也、以二家榮朝臣申旨一、以二頭辨一先被レ問二源算一之處、八月朔丙子非二合度一之由所レ申也、今合度之由申條、此事不二知給一、只算術以レ所レ及申上許也、又朔旦以後四年内、閏月不レ及二八月一條、尤可レ然、於二今年一者可レ及二八月一由所レ存也、又被レ問二家榮一處、申云、八月合度之事、所レ傳之秘説口傳也、不レ可二披申一也、大略注申了、朔旦以後四年内、閏月毎六七月也、今年何可レ及二八月一哉、以二此旨一先被レ奏二兩院一、〈家榮源算各召令レ候二下侍邊一也、〉人々可二定申一者、源宰相〈○源師賴〉發語云、兩人申旨大略如レ承者、各立二意趣一、但宿耀(○○)之事可レ被レ用二源算一也、造暦之事可レ被レ用二家榮説一也、右衞門督〈○藤原實行〉定申云、月々大小度々如レ此論出來時、多被レ用二暦道之説一也、然者可レ被レ用二暦道之説一歟、但算術之不審殘者、召二算博士爲康一一旦可レ被レ問歟、予〈○藤原宗忠〉定申云、件事依レ爲下不レ知二子細一道上、忽難レ申二左右一、但諸道雖レ有二本書一、必有二秘説口傳一、暦道累葉家定有二秘説一歟、就レ中家榮已申下有二秘説一之由上、仍可レ被レ用二暦道説一歟、度々如レ此論出來之時、依二他家之申一不レ被レ改二御暦一也、内大臣 〈○有源仁〉殿下大略同二此定一、以二頭辨一被レ申二兩院一、仰云、然者召二算博士一可レ被レ問歟、可下隨二攝政令一申給上也、殿下又被二問合一、一同申云、可レ被レ問二算博士一者、可レ被レ問二明經記傳一歟、各有二天文星宿之本書一故也、但縱諸道注申可レ被レ背二暦道之説一、甚難レ有事也、仍只雖レ不レ被レ尋二他道一、被レ用二暦道説一可レ宜歟、此旨重被レ奏之處、仰云、令レ申旨最可レ然者、如レ本可レ用二暦道説一之由可レ被二仰下一者、午時許退出、
p.0367 大治四年六月二日己酉、源算大法師與二暦博士等一、相二論今年御暦相違事一、於二新院殿上一有二公卿僉議一、御暦閏七月小、源算申旨七月大、閏八月小云々、各進二勘文一二度三度、内大臣仰レ官被レ問二暦道一、次度源算内奏、〈院〉別當奉行不レ奏者、直問二陰陽頭家榮朝臣一、以二件後勘文一當座被レ下、於二本勘文一内大臣相具被レ參、淸撰有レ限、應レ召人五人、攝政内大臣、權大納言宗忠、別當實行、參議師賴卿等也、各著二直衣一、源算被レ召候二藏人所一、陰陽頭家榮朝臣助宗憲等候二新院北面一、以二暦道陳状一被レ問二源算一、〈頭辨雅兼朝臣問レ之、〉申旨不レ詳、唯號レ有二奏状一、又問二家榮一、陳下源算迷二口傳一之由上、諸卿見二申文一不二讀擧一、又不レ被レ書二定文一、源相公〈○師賴〉發語云、須レ問二算道一也、然而彼是披陳之旨大略其理盡了、但於二御暦一付二暦家説一、可レ被レ用二於宿曜一事、宜レ被レ用二源算説一歟、千羊皮不レ若二一狐腋一、源算申旨雖二其説多一、不レ可レ及二家榮一言一歟、諸卿同レ之、上皇又如レ此、仍被レ仰二下其由一云々、後聞源算博士爲康同意上奏、同博士大夫史正重宿曜師珍也同意、又助敎信俊同二暦家一云々、是承二新院仰一大略記者也、後聞源算重申文、家榮重陳状、別當於レ座奉二攝政一、於二本解一内大臣自二懷中一取出奉二攝政一給云云、 三日庚戌、大夫史政重來、召二問暦論事一、答云、源算申旨雖二一端理一、似レ不レ知二口傳一、暦博士等申旨相二合先跡一、但傍儒爲康立二申源算理之由一、若被二尋仰一ましかば、算道勘文定意趣相違歟、
p.0367 承平六年十月十一日、權暦博士葛木茂經申下請被丙給二官符一毀乙暦博士大春日弘範造進來承平七年謬暦甲事上、 七年十月二日辛巳、右大臣〈○恒佐〉著二左仗一、召二暦博士二人一、勘下問所レ論來年暦事所レ申不レ同由上、
p.0367 長暦二年十一月廿七日己未、巳時許參二關白殿一、〈○藤原賴通、中略、〉被レ仰云、暦博士道平所二作進一之暦、月大 小并雜注等與二證照暦一多有二相違一、至二證照一雖レ蒙二造暦之宣旨一、依レ僧不レ加二署名一、年來道平相共所二作進一也、證照道平已以違背、仍與二證照一共不レ作云々、今證照所二作出一之暦也、相違也、事尤不便事也、早可レ召二問道平一之由奏二事由一、可レ仰二右大臣一、〈○藤原實資〉隨二彼道平申文一、又可レ被レ問二證照法師一也者、予即參内奏二此由一、早可二仰下一者、 十二月一日癸亥、巳時許參二右府一、命云、暦博士道平申云、件暦、年來證照法師相共所二作進一也、而彼法師依二慮外事一向背、仍不レ見二證照暦一、見二給彼暦一之後、有二相違一者、可レ進二勘文一者、此由可二奏聞一者、予參二督殿一、即參二關白殿一令レ申二此由一、命云、道平并證照暦相共校合、有二相違一者、各可レ進二勘文一之由奏二事由一、可レ仰二右大臣一者、〈○中略〉 十五日丁丑、未時許、參二關白殿一、於二門外一令レ申云、右大臣被レ申云、暦博士道平申云、不レ能レ進二勘文一者、若可レ令レ進二其由申文一歟如何、可レ隨二處分一者、被レ仰云、不レ進二勘文一事太奇恠事也、猶可レ進之由可レ仰、遂不レ進者可レ被レ用二證照暦一歟者、予即退出、參二御堂一、相二遇師房卿一、仰二繁貞免除由一畢、即參内、奏二道平事一、早可二仰下一者、
p.0368 長暦三年五月廿三日、諸卿定下申暦博士道平與二僧證昭一暦論事上、可レ用二道平暦一之由被レ宣二下之一、
p.0368 長暦三年十月一日戊午、今曉月耀不二出見一之由万人所レ見、今日是證昭晦日也、太有レ興、 二日己未、今日已陰、不レ見二月出否一、但一咋日月見、昨日不レ見、證昭晦是仍不レ見歟、 三日庚申、日景沒了、只暫之、微月在二西天一、避二山頂二丈許、細二於鈎一、已非二三日月一、今日似二初出一云々、今日證昭二日也、彼説相叶歟、尤有レ興事也、
p.0368 應仁二年正月十二日癸酉、天文博士所レ制之新暦、以二十月一爲レ閏、邊邦所レ出之暦、以二十二月一爲レ閏、不レ識何善、正二其眞一以爲レ數也、余以二順九逆五之數一校焉、則十月爲レ宜、 閏十月一日丁巳、南京暦(○○○)〈○奈良幸德井〉錯失二律數一、以二十二月一爲レ閏、不レ可レ取焉、