p.1301 疫 説文云、疫、〈音役、衣夜美、一云度岐乃介、〉民皆病也、
p.1301 崇神紀、敏逹紀、疫疾、欽明紀、疫氣、皆訓二衣也三一、按衣夜美、言民皆疾レ之、如二發レ役、民皆赴一レ之、故云二衣夜美一、古事記崇神天皇條云、役病多起、役病即衣夜美也、役疫訓レ衣、與二役疫字音一同、然自是皇國古言、非下以二字音一爲上レ訓也、又度岐乃介、即時氣、時氣見二病源候論一、與二疫癘病一甚相類、下文詳レ之、故云二衣夜美、一云度岐乃介一也、所レ引疒部文、原書病作レ疾、釋名、疫、役也、言有レ鬼行レ役也、病源候論疫癘病候云、其病與二時氣温熱等病一相類、皆由二一歳之内、節氣不レ和、寒暑乖一レ候、或有二暴風疾雨、霧露不一レ散、則民多二疾疫一、病無二長少一率皆相似、如二鬼厲之氣一、故云二疫癘病一、又按春應レ暖而寒、夏應レ熱而冷、秋應レ凉而熱、冬應レ寒而温、非二其時一而有二其氣一、是以一歳之中、病無二長少一相似者、此則時行病也、冬時嚴寒、觸二冒之一者乃爲レ傷、即病者爲二傷寒一、不二即病一者、寒毒藏二於肌骨中一、至レ春變爲二温病一、夏變爲二暑病一、暑病者熱重二於温一也、皆見二病源候論一、時行病即時氣、暑病即熱病也、
p.1301 疫〈トキノエ亦エヤミ〉 V 同
p.1301 疫〈エヤミ、亦トシノケ、民皆病也、〉V 同
p.1301 疫病〈ヤクビャゥ〉
p.1301 疫 〈俗正、癘氣、エヤミ、一云トキノケ、〉癘〈疫病、アシキ〉
p.1301 疫( エヤミ) 、 瘧鬼( エヤミ) 、 疫癘( エキレイ) 、
p.1301 此天皇之御世、 役病( エヤミ/○○) 多起、人民死爲レ盡、〈○下略〉
p.1302 役病、役字、舊印本と延佳本とには疫と作り、其正字なり、されど眞福寺本及其餘の本どもにも皆役と作り、下文なる役氣も同じ、凡て此記の書ざまかヽる例多ければ、今は其に依つ、〈疫と作る本は、後にさかしらに攺めつるものなるべし、〉和名抄に、疫、衣夜美、一云、度岐乃介、説文云、民皆病也とあり、〈また瘧、俗云衣夜美、一云和良波夜美とあり、そのかみ瘧をも衣夜美とも云しなるべし〉書紀にも、疫病、疫疾、疾疫、疫氣などみな延夜美と訓り、〈又延能夜麻比と訓る處あり、大鏡に延とのみ云る處もあり、和名抄に、龍膽衣夜美久佐、〉さて然名くる意は、まづ役を延とも延陀知とも云を、〈延陀知は役立なり、なほ役の事は輕島宮段に云べし、〉疫病も、漢籍に民皆病也と云る如く、人毎に病が、彼役に差されて立に似たる故なるべし、〈師は疫を延と云は、もと字音なり、次の文に神氣とある即是なれば、此の疫病をも共にカミノイブキと訓べしと云れき、已も初に思へりしは、役をも疫をも共に延と云を思へば、もと字音を取れるなり、若もとよりの古言ならむには、かく同音の字にて同言なるべきに非ずと思へりしをヽ後になほよく思へば然には非ず、共に固の古言なり、まづ役はおのづから字音と同じきなり、凡て此方の古言と漢字音と、おのづからに似たるも同きも稀にはあることなり、然るに其をも悉く彼を取れるものと思ふは、中々に非なり、さて疫はかの役に似たるから云こと上に云るが如し、疫字も役より出たりと見ゆ、釋名に、疫役也、言有レ鬼行レ役也と云へり、如レ此漢國にても役よりうつりて疫と云る、此はた此方の意とおのづから合へるなり、彼に效へるにはあらず、〉書紀欽明卷にも、國行二疫氣一、民致二夭残一、久而愈多、不レ能二治療一、敏逹卷にも、是時國行二疫疾一、民死者衆、と云ことあり、
p.1302 典藥寮、毎レ歳量合二傷寒、 時氣( ○○) 、瘧、利、傷中、金創、諸雑藥一、以擬二療治一、〈謂(中略)時氣者、時行之病、春時應レ暖而反寒、夏時應レ熱而反冷、秋時應レ凉而反熱、冬時應レ寒而反温、非二其時一有二其氣一、是以一歳之中、病无二長少一、率相似者、此則時行之氣、一名二疫癘一、言陰陽之氣不レ和、致二其病一、譬如レ役レ人、故曰二疫癘一也、○中略〉諸國准レ此、
p.1302 時氣病( ○○○) 諸候 時氣候
時行病者、是春時應レ暖而反寒、夏時應レ熱而反冷、秋時應レ凉而反熱、冬時應レ寒而反温、非二其時一而有二其氣一、是以一歳之中、病無二長少一、率相似者、此則時行之氣也、從二春分後一、其中無二暴大寒一、不二氷雪一、而人有二壯熱爲レ病者一、此則屬二春時陽氣一、發二於冬時一、伏寒變爲二温病一也、從二春分以後一、至二秋分節前一、天有二暴寒一者、皆爲二時行寒疫一也、一名二時行傷寒一、
p.1302 小兒雜病諸候 天行病( ○○○) 發黄候
四時之間、忽有二非節之氣一傷レ人、謂二之天行一、大體似二傷寒一、亦頭痛壯熱、其熱入二於脾胃一、停滯則發レ黄也、脾與レ胃合、倶象レ土、其色黄、而候二於肌肉一、熱氣蘊積、其色蒸發二於外一、故發レ黄也、
p.1303 一南秋卿鬼神論云、今夫時疫之家相傳保レ人、人以爲二鬼神一、信乎、曰斯則非レ鬼也、乃 天行之氣( ○○○○)也云々、 之鬼、聰明無欲、故然也、信有レ鬼乎、斯則非レ鬼也、人之初生必飮二惡汁一云々、
p.1303 時疫( ○○)
時疫又 疫癘( ○○) トモ云ヒ、 温疫( ○○) トモ云ヒ、 温病( ○○) トモ云フ、 流行熱病( ○○○○) ノ事ナリ、此病甚傷寒ニ似タレドモ、實ハ異ナリ、傷寒ハ常ニ天地ノ間ニアル正シキ寒氣ニ感ジテ病ムモノナリ、時疫ハ天地ノ陰陽不順ニテ、既ニ人身ニ入ラザル前ヨリ、天地ノ間ニテ腐リタル穢濁ノ惡氣ト成リ、世界ニ流行スルヲ、其流行スル筋ニ住居スル人々、口鼻ヨリ呼吸ノ氣ニ交ジヘテ、腹中ニ引入ルヽユヘニ病ムナリ、譬ヘバ江河ニ柿澀ヲ流スニ、其澀ノ流レユク筋ニ居ル魚、是ヲ呑テ死スルガ如シ、故ニ時疫ハ一國一郷一村、甚シキハ滿天下ニモ及ブモノアリ、其筋ニサヘ違ヘバ、東村ハ病テモ、西村ハ一人モ病ザル事アリ、時疫大ニ流行スル時、急ニ遠キ國ニ避ケ逃ルレバ、免ルヽコトモアルナリ、饑饉ナドノ後、或ハ戰鬦ナドノ跡ナド、天地ノ氣甚ダ不順穢濁ニナレバ、必疫癘流行スルモノナリ、又至テ輕キハ二三年目ナドニ諸國風邪行レテ、人々皆病ムコトアリ、是モ疫ノ類ニテ輕キナリ、又至テ明白ナルハ、痘瘡麻疹ノ類モ、是疫ノ種類ナリ、故ニ急ニ遠ク避ケ逃ルレバ、不レ患シテ濟ムナリ、傷寒感冒ハ一身ノ腠理毛孔ヨリ入ル邪ナリ、時疫ノ類ハ口鼻ヨリ呼吸ニ從フテ肺臟ニ入ル邪ナリ、是故ニ傷寒感冒ハ太表皮膚ヨリ始リ、時疫ハ半表半裏ヨリ始ル、陽氣弱キ人ハ半表半裏ヨリ直ニ裏ニ進ミ入リ、陽氣實セル人ハ半表半裏ヨリ表ノ方ヘ押シ出サル、此理、呉又可著作ノ温疫論ニ委ク論ゼリ、讀ベシ、時疫ハ流行穢濁ノ氣ナルガユヘニ、愼ミ避レバ免ルヽコトモアルナリ、
p.1304 時疫とは傷寒のことヽいふ説
時疫と傷寒は別の病なるを、一病の異名と心得たる人おほし、これは大成論に、傷寒の證固に、天疫流行して、一時に感ずる所の病、老少となく率相似れる者有とあるによりての謬りなり、是すなはち時疫にて、傷寒にはあらず、此別ちは傷寒論の二卷め、傷寒例第三に分明なり、時疫とは俗に疫病といふ時行病のことにて、いつにても時の不正の氣に感じて病むなり、其邪熱の表裏經絡にあづかる所は、大概傷寒に類するものなり、さて又傷寒は冬の中、寒氣に傷られて、其時に病むを、即病の正傷寒といふ、此うちに陰症陽症のわかちあり、又その寒毒肌膚に藏れて、春夏へもちこして病むを、不即病の傷寒といふ、此うちに春病むを 温病( ○○) といひ、夏病むを 熱病( ○○) といふ、これいづれも陽症なり、さて此陽症の傷寒に、六經の傳變表症裏症半表半裏等の證ありて、其變すべて三百九十七法、〈仲景先生の傷寒論につまびらかなり〉又李東垣の論に別に勞役の傷寒を出せり、 じて傷寒ほどの大病はなき故に、傷寒雜病とて、傷寒に對する時は、一切の病をこと〴〵く雜病と云へり、
p.1304 時疫 瘟疫 大頭瘟瘟瘟 蝦蟆瘟 百合病
時疫瘟疫ノ病ハ、疫癘ノ類ニシテ、一般ニ流行スル熱病ナリ、多ハ温熱ノ邪ニ中リ、或ハ山嵐ノ瘴氣ニ感ズル也〈○中略〉
大頭瘟( ○○○) ノ症ハ、頭腫テ如レ斗、或ハ耳ノ根腫痛シ、頭ニ瓶ナドヲ被タルガ如ク、上カブキニ成テ大熱ヲ發スル也、其脈多ハ浮大ニシテ數ナリ、荆防敗毒散ニ、黄芩黄連牛房子ヲ加テ用テ發シ、或ハ牛房芩連湯ヲ用、共ニ神効アリ、
蝦蟆瘟( カマウン/○○○) ノ症ハ、兩ノ腮ヨリ耳ノ根ニカケテ、頰マデ腫テ、蝦蟆ノ状ノ如ナリテ大熱發ス、今時ノ和俗コレヲ 江戸挾箱( ○○○○) ト云、治法多ハ大頭瘟ニ同ジ、荆荆防敗毒散ニ、牛房子黄連黄芩ヲ加テ用、又ハ牛房芩連湯モ宜シ、或ハ老人、或ハ血虚ノ人、或ハ冬月嚴寒ノ時、血澀テ熱發シ難キ類ハ五積散ニ、牛 房子芩連ヲ加テ用ベシ、神効アリ、此症右ノ藥方ノ類ヲ十貼計用レバ多ハ愈也、〈○中略〉
傷寒百合病( ○○○○○) ト云症アリ、多ハ傷寒瘟疫ノ後、虚勞シテ臟腑不レ平、變ジテ此病トナル、其證寒ニ非ズ熱ニ非ズ、飮食セント欲シテ食セズ、行ント欲シテ不レ行、坐セント欲シテ不レ坐、藥ヲ服スレバ即吐シ、小便赤ク、鬼ヲ見ルガ如クナルヲ百合病ト名ク、茈胡百合湯ヲ用ベシ、其効如レ神、
p.1305 牢死之者之事〈○中略〉
一牢内之病氣とは、皆 牢疫病( ○○○) 也、是は數年人々をこめ置故、自然と人之身之臭氣こもりて、此臭氣を鼻に入れ候ゆへ、皆牢疫病に成ルト云、
p.1305 牢内ニ而毒藥之咄之事
一牢内にて一ふ〱とて、毒藥を呑せ殺し候ハ、此もの存命に候得バ、殊之外障りと成る故殺す由、世間一統之咄しなりといへ共、是ハ跡方もなき虚言にて、牢内に左樣成事決而無レ之、此毒藥有レ之といふ人ハ、實正知らぬものヽ言初めしなりといへども、このそら言當時世間之人しらぬといふものなし、誠に毒藥有と思ひ居る事こそ愚成わざなり、また牢死するもの多きハ、數年來牢内にこもり居て、風も通らぬ處にて、或ハ熱病に死しても、その儘に捨置故、自然と人の息氣、牢内の板にも柱にもうつりてわるぐさく、此臭氣をかぎ候事ハ、牢内一同之事故、初牢の者ハこの臭氣に當りて、疫病と成、是を牢疫病といふ也、この疫病にとりつかれしもの、牢死之時ハ、牢屋敷にて一ふくもられしといふ也、是實説也、疑ふべからず、
p.1305 此天皇之御世、 役病( エヤミ) 多起、人民死爲レ盡、爾天皇愁歎而、坐二神牀一之夜、大物主大神顯二於御夢一曰、是者我之御心、故以二意富多多泥古一而、令レ祭二我御前一者、神氣不レ起、國安平、是以驛使班二于四方一、求下謂二意富多多泥古一人上之時、於二河内之美努村一、見二得其人一貢進、〈○中略〉於レ是、天皇大歡以、詔二之天下平人民榮一、即以二意富多多泥古命一爲二神主一而、於二御諸山一拜二祭意富美和之大神前一、〈○中略〉因レ此而役氣悉息、國家安平也、
p.1306 五年、國内多二疾疫一、民有二死亡者一且大半矣、
十二年三月丁亥、詔、朕初承二天位一、獲レ保二宗廟一、明有レ所レ蔽、德不レ能レ綏、是以陰陽謬錯、寒暑失レ序、 疫病多起( ○○○○) 、百姓蒙レ災、然今解レ罪改レ過、敦禮二神祇一、亦垂レ敎而綏二荒俗一、擧レ兵以討二不服一、是以官無二廢事一、無二逸民一、
p.1306 十三年十月、百濟聖明王遣二西部姫氏逹率奴唎斯致契等一、獻二釋迦佛金銅像一軀、幡蓋若干經論若干卷一、〈○中略〉是日、天皇聞已歡喜踊躍、詔二使者一云、朕從レ昔以來未二曾得一レ聞二如レ是微妙之法一、然朕不二自決一、乃歴二問群臣一曰、西蕃獻レ佛相貌端嚴、全未二曾看一可レ禮以不、蘇我大臣稻目宿禰奏曰、西蕃諸國一皆禮レ之、豊秋日本豈獨背也、物部大連尾輿、中臣連鎌子同奏曰、我國家之王二天下一者、恒以二天地社稷百八十神一、春夏秋冬祭拜爲レ事、方今改拜二蕃神一、恐致二國神之怒一、天皇曰、宜下付二情願人稻目宿禰一試令中禮拜上、大臣跪受而忻悦、安二置小墾田家一、懃修二出レ世業一、爲レ因淨二捨向原家一爲レ寺、於レ後國行二疫氣一、民致二夭殘一、久而愈多、不レ能二治療一、物部大連尾輿、中臣連鎌子同奏曰、昔日不レ須二臣計一、致二斯病死一、今不レ遠而復、必當レ有レ慶、宜三早投棄、懃求二後福一、天皇曰依レ奏、有司乃以二佛像一、流二棄難波堀江一、復縦二火於伽藍一、焼燼更無レ餘、
p.1306 十四年二月壬寅、蘇我大臣馬子宿禰、起二塔於大野丘北一、大會設齋即以二逹等所レ獲舍利一、藏二塔柱頭一、 辛亥、蘇我大臣患疾、問二於卜者一、ト者對言、祟二於父時所レ祭佛神之心一也、大臣即遣二子弟一奏二其占状一、詔曰、宜下依二卜者之言一祭中祠父神上、大臣奉レ詔禮二拜石像一、乞レ延二壽命一、是時國行二疫疾一、民死者衆、 三月丁巳朔、物部弓削守屋大連、與二中臣勝海大夫一奏曰、何故不レ肯二用臣言一、自二考天皇一及二於陛下一、疫疾流行國民可レ絶、豈非四專由三蘇我臣之興二行佛法一歟、詔曰、灼然宜レ斷二佛法一、 丙戌、物部弓削守屋大連、自詣二於寺一踞二坐胡牀一、斫二倒其塔一、縦レ火燔レ之、并燒三佛像與二佛殿一、既而取二所レ燒餘佛像一、令レ棄二難波堀江一、
p.1306 七年、是冬 疫痛( エキレイ) 多發、百姓病死過レ半、
p.1306 元年冬月、天下大疾夭亡之人稍及二過半一、時人以爲二豊浦大臣〈○蘇我馬子〉靈一矣、
p.1306 二年三月丁卯、越後國言、疫、給レ藥救レ之、 四月壬辰、近江紀伊二國疫、給二醫藥一療レ之、 四 年十二月庚午、大倭國疫、賜二醫藥一救レ之、
p.1307 大寶二年二月庚戌一越後國疫、遣二醫藥一療レ之、 六月癸卯、上野國疫、給レ藥救レ之、
p.1307 大寶三年三月戊寅、信濃上野二國疫、給レ藥療レ之、 五月丙午、相摸國疫、給レ藥救レ之、
慶雲元年三月甲寅、信濃國疫、給レ藥療レ之、 十二月辛未、是年夏、伊賀伊豆二國疫、並給二醫藥一療レ之、 二年十二月癸酉、是年諸國二十飢疫、並加二醫藥賑二恤之一、 三年閏正月庚戌、京畿及紀伊、因幡、參河、駿河等國並疫給二醫藥一療レ之、乙丑、勅、令レ禱二祈神祇一、由二天下疫病一也、 四月壬寅、河内、出雲、備前、安藝、淡路、讚岐、伊豫等國、飢疫、遣レ使賑二恤之一、 十二月己卯、是年天下諸國疫疾、百姓多死、始作二土牛一大儺、 四年正月〈○正月恐二月誤〉乙亥、因二諸國疫一遣レ使大祓 四月丙申、天下疫飢、詔加二賑恤一、但丹波、出雲、石見三國尤甚、奉二幣帛於諸社一、又令二京畿及諸國寺讀經一焉、
p.1307 慶雲四年十二月戊辰、伊豫國疫、給レ藥療レ之、
和銅元年二月甲戌、讃岐國疫、給レ藥療レ之、三月乙未、山背、備前二國疫、給レ藥療レ之、 七月丁酉、但馬、伯耆二國疫給レ藥療レ之、 二年正月戊寅、下總國疫、給レ藥療レ之、 六月甲午、上總、越中二國疫、給レ藥療レ之、辛亥、紀伊國疫、給レ藥療レ之、
p.1307 和銅三年二月壬辰、信濃國疫、給レ藥救レ之、 四年五月辛亥、尾張國疫、給二醫藥一療レ之、 五年五月壬申、駿河國疫、給レ藥療レ之、
p.1307 和銅六年二月丙辰、志麾國疫、給レ藥救レ之、四月乙未、大倭國疫、給レ藥救レ之、
p.1307 天平五年十二月辛酉、是年左右京、及諸國飢疫者衆、並加二賑貸一、
p.1307 天平七年八月乙未、勅日、如聞、比日太宰府疫死者多、思欲下救二療疫氣一以濟中民命上、是以奉二幣彼部神祇一、爲レ民禱祈焉、又府大寺、及別國諸寺、讀二金剛般若經一、仍遣下使賑二給疫民一、并加中湯藥上、又其長門以還、諸國守、若介、専齋戒道饗祭祀、 九年六月甲辰朔、廢朝以二百官官人患一レ疫也、 七月丁丑、賑二給大 倭、伊豆、若狹三國飢疫百姓一、 壬午、賑二給伊賀、駿河、長門三國、疫飢之民一、
p.1308 天平十九年四月己未、紀伊國疫旱、賑給、
p.1308 天平寶字四年三月丁亥、伊勢、近江、美濃、若狹、伯耆、石見、播磨、備中、備後、安藝、周防、紀伊、淡路、讃岐、伊豫等一十五國疫、賑一給之一、 四月丁巳、志摩國疫、賑二給之一、 五月戊申、勅如聞、頃者疾疫流行黎元飢苦、宜下天下高年、鰥寡孤獨癈疾、及臥二疫病一者、量加中賑恤上、當道巡察使與二國司一視二問患苦一賑給、若巡察使已過之處者、國司専當賑給、務從二恩旨一、
p.1308 寶龜五年二月壬申、一七日讀二經於天下諸國一、攘二疫氣一也、 四月己卯、勅曰、如聞、天下諸國疾疫者衆、雖レ加二醫療一猶未二平復一、朕君二臨宇宙一、子二育黎元一、興言念レ此、寤寐爲レ勞、其麾訶般若波羅密者、諸佛之母也、天子念レ之、則兵革災害不レ入二國中一、庶人念レ之則疾疫癘鬼不レ入二家内一、思下欲憑二此慈悲一救中彼短折上、宜下告二天下諸國一、不レ論二男女老少一、起坐行歩、咸令上レ念二誦麾訶般若波羅密一、其文武百官、向レ朝赴レ曹道次之上、及公務之餘常必念誦、庶使下陰陽叶レ序、寒温調レ氣、國無二疾疫之災一、人遂中天年之壽上、普告二遐邇一、知二朕意一焉、
p.1308 寶龜十一年三月乙酉、駿河國飢疫、遣レ使賑二給之一、 五月乙亥、伊豆國疫飢、賑二給之一、
p.1308 延暦十年五月乙丑、〈○五日〉天皇以三天下諸國頻苦二旱疫一、詔停二節會一、
p.1308 大同二年十二月戊寅、遣レ使賑二給京中疫者一、 三年正月己丑、遣レ使賑二給京中疫病百姓一、 甲午、遣レ使將二醫藥一治二京中病人一、 乙未、遣レ使埋二斂京中骼胔一、勅、頃者、疫癘方熾、死亡稍多、庶資二恵力一、救一 病苦一、宜レ令三諸大寺及畿内七道諸國、奉二讀大般若經一、又給二京中病民、米並鹽豉等一、 戊申、給二右京遭レ疫者綿一、 二月丙子、御二大極殿一祈二禱名神一、爲二天下疫氣方熾一也、 三月癸未朔、令三天下諸國七日之内共講二仁王經一、爲二疫病一也、 庚寅、内裏及諸司左右京職講二説仁王經一、爲レ濟二疫病一也、
p.1308 大同三年五月己丑、遣レ使療二治左右京病民一、 辛卯、詔曰、朕以二寡昧一、虔嗣二丕基一、履レ薄如レ傷、黔首之隱是恤、馭レ奔若レ厲、紫宸之尊非レ寧、刻レ己思レ治、勵レ精施レ政、而仁無レ被レ物、誠未レ感レ天、自二從君臨一、咎徴斯 應、頃者、天下諸國、飢餒繁興、疫癘相尋、多致二夭折一、朕之不德、眚及二黎元一、撫レ事責レ躬、惄焉疚レ首、或恐政刑乖越、上爽二靈心一渙汗煩苛、下貽二人瘼一、此皆朕之過也、兆庶何辜、靜言念之、無レ忘二監寐一、詩不レ云乎、民亦勞止、汔可二小康一、其畿内七道、言二上飢疫一諸國者、今年之調、宜二咸免除一、仍國司親巡二鄕邑一、醫藥營救、兼令三國分二寺、轉二讀大乘一一七箇日、左右京亦宜三遣レ使普加二振贍一、庶幾爲レ善有レ効、濟二困窮於畝糧一、修レ德不レ虚、返二遊魂於岱録一、務崇二寬惠一、副二朕意一焉、
p.1309 弘仁三年七月丁巳朔、勅、頃者疫旱並行、生民未レ安、静言二于此一、情切二納隍一、但神明之道、轉レ禍爲レ福、庶憑二祐助一、除二此災禍一、宜レ走二幣於天下名神一、 戊午、御二大極殿一、奉二幣於伊勢太神宮一、爲レ救二疫旱一也、
p.1309 弘仁九年九月壬辰、奉二幣帛於伊勢太神宮一、祈レ除二疫疾一也、
p.1309 嵯峨天皇御時、天下に大疫の間、死人道路にみちたりけり、これによりて、天皇みづから金字の心經をかヽせ給ひて、弘法大師にくやうせさせ奉られけり、其効驗ことばをもてのぶべからず、おくに大師記をかヽせ給へり、其御記にいはく、
于レ時、弘仁九年春、天下大疫、爰帝皇自染二黄金於筆端一、握二紺紙於爪掌一、奉レ寫二般若心經一卷一、予範二講經之撰一、綴二經旨之宗一、未レ待二結願之詞一、蘇生族二于途一、夜變日光赫奕、是非二愚身戒德一、金輪御信力所レ爲也、但詣二神舍一輩、奉レ誦二此秘鍵一、昔予陪二鷲峯説法之筵一、親聞二此深文一、豈不レ逹二其儀一而已、 其時の御經、かの御記、嵯峨の大かくじにいまだ有となん、
p.1309 弘仁十四年二月癸丑、是月天下大疫、死亡不レ少☐海道尤甚、 三月癸亥、令下百僧於二東大寺一行中藥師法上、欲レ除二疫疾一也、 八月丁亥、近江國多二病人一、詔且給二穀二千斛一以充二疫料一、
天長二年四月庚辰、詔曰、〈○中略〉如聞、諸國往々疫癘不レ止、又太宰府言上、在二肥後國阿蘇郡一神靈池、遭二旱澇一不二増減一、而無レ故涸渇二十餘丈者、去延暦年中、有二此怪一、當時卜レ之、旱疫告レ咎、前事不レ忘、取二鑑今日一、疑是政術有レ乖、戒以二不祥一歟、昔周文引レ過、消二震地之災一、宋景厲レ精、移二妖星之咎一、乃知、德必勝レ妖、善克除レ患、欲レ攘二
p.1310 天長十年三月丁未、延二百口僧於大極殿一、轉二讀大般若經一、以祈二年穀一兼攘二疫氣一也、普告二天下一禁二斷殺生一、限以二三箇日一、
p.1310 天長十年六月癸亥、是日爲二聖體有一レ間、使二神祇伯正四位下大中臣朝臣淵魚一、奉二幣於賀茂大神一、又命二天下諸國一、修二理寺塔破壊者及神社一、勅曰、如聞、諸國疫癘、夭亡者衆、自レ非二修繕一、何以攘レ災、宜レ令下諸國各請二練行僧大國廿人、上國十七人、中國十四人、下國十人一、三箇日内、晝轉二金剛般若經一、夜修中藥師悔過上、其布施者三寶穀十斛、僧三斛、以二正税一宛行、俾レ致二精進一、
p.1310 承和元年四月丙午、疫癘頗発、疾苦稍多、仍令下京城諸寺、爲二天神地祇一轉二讀大般若經一部、金剛般若經十万卷一、以攘中災氣上也、
p.1310 承和二年四月丁丑、勅曰、如聞、諸國疫癘流行、病苦者衆、其病從二鬼神一來、須下以二祈禱一治上レ之、又般若之力不可思議、宜レ令下十五大寺轉二讀大般若經一、極二夫沈病一兼防中未然上焉、 三年七月癸未、復勅曰、如聞、諸國疫癘間發、夭死者衆、夫銷二災眚一招二福祐一者、唯般若冥助、名神嚴力而已、宜下令三五畿内七道諸國司轉二讀般若一、走中幣名神上、
p.1310 承和三年八月辛酉、延二五十口禪僧於八省院一、轉二讀大般若經一以レ禦二疫氣一、諸司醋食、丙寅、八省院禪僧、轉經竟、布二施布帛及度者各一人一、天皇御二紫宸殿一引二禪僧中慧解者十人一、令二一一論義一、亦施二褂衣并御被一各有レ差、
p.1311 承和四年六月壬子、勅、如聞、疫癘間發、疾苦者衆、天鎖二殃未然一、不レ如二般若之力一、宜レ令下五畿内七道諸國、内行者廿口已下、十口已上於二國分僧寺一、始レ自二七月八日一三箇日、晝讀二金剛般若一、夜修中藥師悔過上、迄二于事竟一、禁二斷殺生一、
p.1311 承和六年閏正月丙午、勅、如聞、諸國疾疫、百姓夭折、宜レ令下天下國分寺限二七ケ日一、轉二讀般若一、兼遣二僧醫一、隨レ道治養上、又令三郷邑毎レ季敬二祀疫神一、
p.1311 齊衡元年二月戊辰、詔二大和國一、修二灌頂經法一、攘二災疫一也、
p.1311 貞觀三年八月十七日戊午、越前國百姓、窮弊飢饉特甚、長門國、去年疫癘、死者尤多、並賑二給之一、
p.1311 貞觀五年三月十五日丁丑、宣二詔五畿七道諸國一云、迺者、陰陽寮勘奏状偁、撿二ト筮一、今 可レ有二 天行之疫( 〇〇〇〇) 一、豫能修レ善、可レ防二將來一者、加以、春雨未レ遍、水泉涸乏、思二民與一レ歳、忘二寢與一レ食、夫鎖レ禍者能仁无上之法、招レ福者大乘不二之德、宜仰二諸國一、以二安居中一、講二説經王一、自二詔到日一、比レ及二秋收一、至心堅固、専念轉讀、庶幾増二神威於自在一、保二寶祚於冥助一、黎民無二疫癘之災一、農功切有二豊稔之喜一、凡功德之道、誠信爲レ本、仍須長官親自撿挍、勤允二叡慮一、必期二靈應一、不レ得二疎略一、 四月三日乙未、先レ是伯耆講師傳燈法師位僧賢永奏言、年來五穀不レ登、百姓窮弊、加之、疫病頻發、死亡者衆、賢永奉二爲國家一、誓二願佛力一、精誠攸レ感、頗知二靈驗一、由レ是割二留供料一、圖二書寫一萬三千佛并觀世音菩薩像及一切經一、貯二穀百斛一、以資二燈炷一、請安二置國分寺一、及付二國司一、其穀毎年出擧、勿レ斷二燈明一、詔許レ之、 五月廿日壬午、於二神泉苑一修二御靈會一、勅、遣二左近衞中將從四位下藤原朝臣基經、右近衞權中將從四位下兼行内藏頭藤原朝臣常行等一、監二會事一、王公卿士、起集共觀、靈座六前設二施几筵一、盛二陳花果一、恭敬薫修、延二律師慧逹一爲二講師一、演二説金光明經一部、般若心經六卷一、命二雅樂寮伶人一作レ樂、以二帝近侍兒童、及良家稚子一爲二舞人一、大唐高麗更出而舞、新伎散樂競盡二其能一、此日宣旨開二苑四門一、聽二都邑人出入縦觀一、所レ謂御靈者、崇道天皇、伊豫親王、藤原夫人、及觀察使橘逸勢、文室宮田 麻呂等是也、並坐レ事被レ誅、寃魂成レ厲、近代以來、疫病繁發、死亡甚衆、天下以爲、此災御靈之所レ生也、始レ自二京畿一、爰及二外國一、毎レ至二夏天秋節一、修二御靈會一、往々不レ斷、或禮レ佛説レ經、或歌且舞、令下里貫之子、靚粧馳射、膂力之士、袒裼相撲、騎射呈レ藝、走馬爭レ勝、倡優嫚戯、遞相誇競上、聚而觀者、莫レ不二塡咽一、遐邇因循、漸成二風俗一、今 春初、咳逆成レ疫、百姓多斃、朝廷爲レ祈、至レ是乃修二此會一、以賽二宿禱一也、
p.1312 貞觀六年七月十一日乙未、加賀、出雲兩國疾疫、 十一月十二日乙未、勅、命二五畿内并山陽、南海兩道預鎭二謝疫癘一、兼轉二讀般若大乘一、以三神祇官奏二言彼諸國可一レ有二天行一也、
p.1312 貞觀七年五月十三日癸巳、延二僧四口於神泉苑一、讀二般若心經一、又僧六口、七條大路行分二配朱雀道東西一、朝夕二時、讀二般若心經一、夜令下佐比寺僧惠照、修二疫神祭一、以防中災疫上、預仰二左右京職一、令下東西九箇條男女、人別輸二一錢一、以充中僧布施供養上、欲レ令下京邑人民賴二功德免中天行上也、
p.1312 貞觀八年二月十四日庚申、神祇官奏言、肥後國阿蘇大神懐二藏怒氣一、由レ是、可下發二疫癘一擾中隣境兵上、勅二國司一潔齋、至誠奉レ幣。并轉二讀金剛般若經千卷、般若心經万卷一、太宰府司於二城山四王院一、轉二讀金剛般若經三千卷、般若心經三万卷一、以奉下謝二神心一消中伏兵疫上、
p.1312 貞觀十三年十二月十四日乙卯、陰陽寮言、明年當レ有二 天行之災一( 〇〇〇〇) 、又古老言、今年衆木冬華、昔有二此異一、天下大疫、勅令二五畿七道諸國一、頒二幣境内諸神一、於二國分二寺一、轉レ經禱二冥助於佛神一、銷二凶札於未萌一、
p.1312 昌泰元年六月廿二日、依二天下疾疫一、遣二宣命使於藤原夫人〈〇桓武夫人吉子〉墳墓一、 七月八日丙子、依二疾疫一停二諸國京上相撲人一、
p.1312 延長六年四月廿八日、四五月間、疾疫最甚、五位已上多亡、 五月廿二日、臨時御讀經、請二百僧紫宸殿一、爲レ消二除都下疾疫一、轉二讀大般若經一、 七年三月、京畿諸國疫癘流行、死者溢レ路、宣旨云、左大臣宣、奉レ勅、傳聞、眞言敎中、有下除二疫死一法上、宜レ令下座主法橋上人位尊意早修二其法一攘中災疫上者、謹依二綸旨一、 率二卅口伴僧一、始レ自二三月廿三日一、於二豊樂院一七箇日、晝夜不斷、修二不動法一、七日之内疫氣已散、沈レ痾之類、擧レ首存レ命、賞賜二度者卅二人一、〈已上傳〉 八年四月、件年春夏疫癘甚盛、
p.1313 延長八年四月廿一日甲寅、自二今日一七箇日、於二豊樂院一、有二灌頂經御修法事一、依二疫癘一也、 五月一日甲子、爲レ祈二疫癘一、臨時奉二幣伊勢太神宮并諸社一、仍廢務、 同十七日庚辰、被レ修二有供無施臨時仁王會一、仍廢務、是爲レ消二除疫癘一也、
p.1313 左弁官〈下二綱所一〉
應下分頭詣二寺社一轉中讀仁王般若經上事
石淸水 權少僧都 僧十口 賀茂上 律師 僧十口 賀茂下 律師 僧十口
松尾 律師 僧十口 平野 權律師 僧十口 大原野 律師 僧十口
稻荷 權少僧都 僧十口 春日 權少僧都 僧十口 大和 律師 僧十口
住吉 權律師 僧十口 比叡 僧正 僧十口
西寺御靈堂 權律師 僧十口 上出雲御靈堂 僧 僧十口 祇薗天神堂 僧 僧十口
右迺者、疾疫多發、死殤遍聞、雖レ修二般若之齋會一、未レ有二病惱之消除一、右大臣宣、奉レ勅、宜下仰二綱所一、命二件僧等一各率二淨行僧十口一、詣二彼寺社一、始レ從二今月廿四日辰二點一、三箇日間、專竭二精誠一、轉二讀件經一、除二愈黎元之病痾一、兼祈中年穀之豊稔上、其料物、石淸水、賀茂上下、松尾、平野、大原野、稻荷等社、西寺、御靈堂、上出雲等御靈堂、祇薗天神堂料、請二山城國一、春日大和兩社料、請二大和國一、住吉社料、請二攝津國一、比叡社料、請二近江國一者、綱所承知、依レ宣行レ之、事在レ攘レ災、不レ得二疎略一、
天德二年五月十七日 大史竹田宿禰
右大弁源朝臣
左弁官〈下二綱所一〉
應レ令三七大東西延暦寺轉二讀大般若經一事
東大寺僧卌口 興福寺卌口 元興寺廿五口 大安寺廿五口
藥師寺卌口 西大寺十五口 法隆寺十五口 東寺廿口
西寺廿口 延暦寺六十口
右左大臣宣、奉レ勅、迺者病患頻發、死殤間聞、救濟之計、尤賴二佛法一、宜仰二綱所一、令下件等寺々、始レ從二今月九日巳二點一、三箇日間、毎レ寺擇二諸僧之中、智行兼備者一、轉中讀件經王上、必致二冥感一、其供養料、七大寺用二大和國正税一、延暦寺用二近江國正税一、東西寺宛二大炊寮米一者、綱所承知、依レ宣行之、庶幾慧風急扇、霧露之痾早除、妖氣自消、都鄙之憂無レ聞、事縁レ攘レ災、不レ可二懈緩一、但供養料米、各可二運送一之状、仰二彼寮國一了、
天德四年四月三日 大史我孫宿禰
中弁藤原朝臣
p.1314 天德四年五月二日庚子、又天下疾疫、夭亡之輩甚繁、給二官符諸國并十五大寺等一、讀經祈二疫癘事一、
p.1314 天德四年六月十四日壬午、請二百僧於南殿淸凉殿一、令レ轉二讀大般若經一、爲レ除二天下疾疫一也、今日於二仁壽殿一、令下大僧都寬空修中不動供上、爲二息災一也、 廿一日己丑、結願、
p.1314 天德五年〈〇應和元年〉四月廿三日乙卯、勅、聞、天下患二疫疾一者巨多、宜下給二官符五畿七道諸國一、奉幣轉經祈禱除一レ災、又令下七大寺、及有供諸寺同讀經、祈中止二疾疫一事上、
p.1314 康保三年七月七日庚午、今日宣二五畿七道一、三箇日於二諸國定額寺一、轉二讀般若經一、禁二斷殺生一、又自二來十日一三箇日、於二諸寺一有二讀經一、七大寺、延暦寺、東西寺、御靈堂、上出雲寺、祇園等也、依二天下疾疫一也、
p.1315 正暦五年三月廿六日戊寅、今日詔、大二赦天下一、大辟以下常赦所レ不レ免者赦除、又免二調庸一、老人賜レ穀、加二賑恤一、依二白鳥恠異、疾疫之患一也、 四月十日辛卯、南殿建禮門朱雀門大祓、爲レ消二疾疫之難一也、
p.1315 正暦五年四月八日己丑、午後權大納言藤原伊周卿、參二著左仗座一、被レ定二行臨時賑給使一、是京中臥レ病乏レ食之輩被レ行也、道路病人連々不レ絶、 十九日庚子、右大臣位祿目録被レ奏、即退出、權中納言伊渉卿、參議懐忠卿、留被レ定二臨時奉幣事一、是疫病之彌盛、來廿七日可レ被レ立二件使一者、
p.1315 正暦五年四月廿四日乙巳、今日左右看督長等被二宣旨一、京中路頭構二借屋一覆二筵薦一、出二置病人一、或乘二空車一、或令三人運二送藥王寺一云々、然而死亡者多滿二路頭一、往還過客、掩レ鼻過レ之、鳥犬飽レ食、骸骨塞レ巷、廿七日戊申、今日伊勢太神宮諸社臨時奉幣日也、有二行幸一、是爲レ祈二疫癘一也、〈〇中略〉諸社幣物、著二左衞門陣外一並立、天皇還御之後、中納言伊渉卿、著二左仗座一、被レ立下石淸水、賀茂上下、松尾、平野、稻荷、春日、大原野、大神、石上、大和、廣瀨、龍田、住吉、梅宮、吉田、天滿天神、又座二大和國一大社一客〈〇客恐言誤〉主、片岡、鴨、穴師、天香山、瞻駒大帶姫命廟、座二河内國一枚岡恩智八幡々々賣、坐〈〇以下七字虫喰缺文〉國夫〈〇夫恐入誤〉依羅、生田、長田、垂水、新屋等社々上、以二中臣氏人一爲レ使給二宣命一、同時被レ立レ使、使人自二敷政門一受二宣命一、一々退出、宣命文云、
天皇〈我〉詔旨〈良万止、〉掛畏〈支〉某太神〈乃〉廣前〈爾〉恐〈美〉恐〈美毛〉申賜〈へと〉申〈久、〉今年〈より〉遠近〈爾〉有二疫癘之聞一〈り〉、仍可レ攘二除此患一之由、祈禱之誠、眷念日久〈天、〉而今外國京畿之間、病死之輩、道路相枕〈セリ、〉門々戸々〈爾毛〉擧レ首〈天〉病臥〈セ利と〉聞食〈天〉、是則人主〈乃〉薄德〈爾天、〉人民〈毛〉有二此患一〈利と〉艱患〈こと〉無レ限、夫人者國本也、若無二人民一〈バ〉依レ誰〈天加〉稱レ君〈ムと〉、古聖主賢王〈毛〉深所二愼懼一〈奈利〉、況朕〈加〉愚昧〈奈留〉未レ知レ攸レ措〈而〉、有二今此疫癘之災一〈をバ〉、只神明之司護給〈なり〉、非二人力之所一レ及〈と〉憑仰〈支〉所念行〈天奈毛〉、故是以、吉日良辰〈乎〉擇定〈天、〉官位姓名〈を〉差使〈天〉、禮代〈乃〉御幣〈ヲ〉奉レ捧給〈布〉、掛畏〈支〉太神、此状〈ヲ〉平〈久〉安〈久〉聞食〈天〉、如レ此之災患〈ヲ〉早攘却給〈と〉、已臥之輩〈ヲバ〉速令レ得二平復一、未レ患之者〈ヲバ〉兼令レ免レ煩言、無レ事〈久〉無レ故〈久〉、安穏泰平〈爾〉、護助 給〈天〉、天皇朝廷寶位無レ動〈久〉、常磐堅磐夜守日守〈爾〉、護幸〈へ〉奉給〈ひ〉、御體如レ意〈爾〉悦令レ有〈め〉給〈へと〉、恐〈み〉恐〈みも〉申賜〈ハ久と〉申、
辭別〈天〉申賜〈ハ久〉、月來天變物怪頻以相示〈壽、〉天文陰陽等道々所二勘申一、咎徴多レ端〈天、〉誠〈と〉至二宸襟無一レ聊之、件變異妖恠等託可レ來〈爾毛〉不祥〈ヲ〉未萌〈爾〉消却給〈ことハ〉、只是天神〈乃〉廣助厚顧〈爾〉可レ依、又去二月〈乃〉比〈ヒ〉、禁中〈二〉兩度有二放火之事一〈り、〉神明〈毛〉人間〈毛〉可レ驚、仍件放火之者〈ヲ〉、近〈ハ〉七日、遠〈ハ〉三月内〈二〉、可二顯出一〈キ〉由〈ヲ〉有レ令二祈申一〈り支〉、而于レ今無二發露一、皇威縦薄〈とも〉、神驗何遅〈からむ〉、大神重〈天此状〈ヲ〉聞食〈天〉、令三天下〈久〇此間恐有二脱字一〉知二驗之掲焉一、
正暦五年四月廿七日
p.1316 正暦五年四月廿四日乙巳、被レ下二宣旨一云、京中路頭病人甚多、宜レ令レ安二置之一、 廿五日丙午、於二八省院東廊一大祓、依二疾疫一被二奉幣一也、 廿七日戊申、奉二幣伊勢以下諸社一、爲レ救二消疾疫一也、天皇行二幸八省院一、 廿八日己酉、御讀經始、依二疾疫一也、 五月三日甲寅、奉レ遣二山陵使一、爲レ救二疾病一也、 十一日壬戌、給下五畿七道諸國可レ修二仁王會一之官符上、爲レ攘疾病一也、
p.1316 正暦五年五月七日戊午、又去二月以後、依二疫癘一病死之輩、不レ知二幾千一、雖レ有二種々祈禱一、似レ無二其應一、路頭死人伏體連々也、 十日辛酉、午後、權大納言藤原伊周卿、中納言同顯光卿、參二著左仗座一、被レ定下以二今月廿日一可レ被レ遣二伊勢、石淸水、賀茂下上、松尾、大神、祇園等社一、臨時奉幣使上、是則爲レ被レ祈二疫癘一也、又此日、從二太宰府一言上解文四枚、其中一枚、去年中冬以後至二于今日一、疫癘已發、府中不レ靜、又以官國人民皆欲二夭亡一、而其災彌倍、病患未レ止、遠近路邊、死人滿塞、一枚、肥前守平朝臣經敏、去三月十三日卒去了者、一枚、前豊前守藤原朝臣經統、去正月九日遭レ喪者、〈母喪而已〉一枚、病患尤盛也、欲レ被レ止二今年相撲人召進事一者、 十一日壬戌、午後、中納言藤原顯光卿、權中納言源伊渉卿、參議藤原懐忠卿、參二著左仗座一、即レ陣覽下給五畿七道諸國可レ修二仁王會官符八枚上、於二結政座一請印、參議懐忠、少納言源朝臣伊賴、少外記多治雅 淸、即二〈〇此間恐有二脱字一〉左少史安部茂忠一、請二配官符一了、其符状云、畿内國々者、以二來十五日一於有レ驗所々一可レ修、至二于遠國一者、官符到來之後、三日内可レ修、由レ是爲レ攘二疫癘之災一也、 十五日丙寅、又關白家、被レ修二百寺之諷誦一、是皆爲レ攘二除疫癘一也、抑大極殿講演之庭、諸司官人、緇素壯老、多以會集、各又手低頭、讃二歎此講式一、垂レ涙云、毎レ手擎二呪願一、口々講二般若經一、雖二理運之災彌定一、有二消除之冥助一歟云々、其願文云々、 十六日丁卯、左京三條南油小路西有二小井一、水濁泥深、尋常不レ用、而或狂夫云、飮二此水一者、皆免二疫癘一云、仍都人士女、擧レ首來汲、男女提二桶瓶一、貴賤貯二匜盥一、偏恐二病死之災一、千万不レ尋二妖宮〈〇宮恐言誤〉之眞僞一者也、近來公家被レ勤二海若祭名山祭等一、是又爲下消二疫癘一攘中病患上也、 廿日辛未、被レ奉二諸社臨時幣帛使一、〈〇中略〉月來之間、疫癘尤盛也、雖レ有二種々祈禱一専無レ止、抑何神之祟哉云々、件等神明祟故者、所レ奉レ遣也、件疫癘猶盛也、即宣命云、〈〇中〉〈略〉廿四日乙亥、疾病不レ止、京中外國、病厄彌盛云々、廿六日丁丑、是日、依二宣旨一諸司諸家修二石塔一、是依二疫癘一也、顯光卿被レ行二天下大赦事一、同依二疾疫事一也、 六月四日甲申、權大納言藤原伊周卿、參二著左仗座一、今日被レ定二行丹生貴布禰兩社祈雨奉幣使一、近來依二疫癘病死之祟彌以盛一也、而又旱魃、仍所レ被二奉遣一也、 十日庚寅、去三月以後、京畿外國疫癘滋、病死無レ際、仍或恐二奇夢一閉レ門、或稱二物怪一不レ仕、如レ此之間、上下無レ勤、 十三日癸巳、午後、權大納言藤原伊周卿參入、著二左仗座一、被レ奉二遣丹生貴布禰兩社祈雨奉幣、并御馬等一、子細、其宣命云、〈〇中略〉 十四日甲午、被レ定二臨時仁王會之事一、〈〇中略〉件仁王會、是疫癘猶盛、而病死不レ止、因レ之爲レ消二除件災一、可レ被レ修也、 十六日丙申、今日妖言、疫神可二横行一、都人士女、不レ可二出行一云々、
p.1317 正暦五年七月廿一日辛未、御讀經始、依二疾疫祈一也、 廿八日戊寅、自二去四月一至二七月一、京師死者過半、五位以上六十七人、八月十日己丑、於二大極殿一以二二百僧一、轉二讀大般若經一、依二疾病一也、 廿一日庚子、奉二幣諸社一、依二天、變恠異霖雨疾病事等一也、 十月十六日甲午、奉レ遣二山陵使一、爲レ攘二病難一也、 十二月廿五日壬寅、今年自二正月一至二十二月一、天下疫癘最盛、起レ自二鎭西一遍二滿七道一、
p.1317 正暦五年自二正月一至二十二月一、天下疫死者尤盛、起レ自二鎭西一及二京師一、四五六七月之間殊盛、死 者過半、五位已上六十餘人也、道路置二死骸一、
p.1318 正暦五年甲午、自二正月一至二十二月一、天下疫癘、起レ自二鎭西一、遍二滿七道一、五位以上七十餘人疫死、 六年、〈〇長德元年〉今年夏比疫癘殊盛、納言以上薨者八人、古今未レ有云々、
p.1318 長德元年四月廿七日癸卯、定、諸國并宇佐宮等、各書二寫大般若經、六觀音像一、可レ攘二疾疫之災一、
p.1318 太政官符、五畿七道諸國司、
應毎國圖二寫供三養陸觀音像大般若經一部一事
右右大臣宣、奉レ勅、比年疫癘延蔓病苦彌盛、京内上下之人、多歸二滓浦一、外國遠近之民、悉泥二瘴煙一、適存二危命一者、頻携二藥石一、而忘二農桑一、纔脱二病惱一者、鎭營二斂葬一、以闕二貢賦一、或比レ首而倶臥、誰致二救療或擧レ家而夭亡、誰敢收藏、況枯旱渉レ歳、五穀不レ登、人物共盡、蓋此時乎、災害之甚、往古未レ聞、夫觀音能救二急難一、尤可二依怙一、般若亦施二威力一、必攘二災孼一、仍普仰二五畿七道諸國一、毎レ國圖寫供養、其料用二正税一、若無二正税一、用二不動穀一、且申二開用一、且以宛行、不動正税、共以用盡、申二請所レ在官物一、將二以裁許一、近國六七月中、圖寫供養、遠國八九月間、開講演説、供養之後、且注二在状一、早以言上、實語勿レ疑、信力無レ違遺民庶、長期二艾安一者、諸國承知、依レ宣行之、符到奉行、
權左中弁源朝臣 右大史坂上大宿禰
長德元年四月廿七日
p.1318 長德元年四月六日、關白道隆依レ病出家、〈十一日薨〉 五月八日、關白右大臣道兼薨、今日左大臣重信同薨歟、四五月之間疫疾殊盛、納言已上薨者八人、關白道隆、道兼、左大臣重信、大納言濟時、朝光、道賴、中納言保光伊渉等也、又四位五位侍臣、并六十餘人、至二于七月一漸散、
p.1318 長德元年七月廿三日丁卯、今年自二四月至二五月一、疾疫殊盛、至二七月一頗散、納言以上薨者 八人、四位七人、五位五十四人、六位以下僧侶等不レ可二勝計一、但不レ及二下人一、
p.1319 其とし〈〇長德元年〉の祭のまへより、よの中きはめてさはがしきに、またのとし、いとヾいみじくなりたりしぞかし、まづは大臣公卿おほくうせ給ひしに、まして四位五位のほどは、かずやはしりし、まづそのとしうせ給へる殿ばらの御かず、閑院大納言殿、三月廿八日、中關白殿、四月六日出家し給ひて、十日うせ給ひぬ、それはよのえにはおはしまさず、たヾおなじをりの、さしあはせたりし事なり、小一條左大將濟時卿は、四月廿三日うせ給ふ、六條左大臣殿重信、粟田右大臣殿道兼、桃園源中納言保光卿、この三人は、五月八日一度にうせ給ふ、山井大納言殿はみちよりと申し、六月十一日ぞかし、御年二十五にて又ありしかし、あがりてのよにもかく大臣公卿七八人、二三月のうちにかきはらひうせ給ふは、けうなりしわざなり、
p.1319 長德元年正月より、世中いとさわがしうなりたちぬれば、のこるべうもおもひたらぬ、いとあはれなり、〈〇中略〉ことしはまづしも人などは、いといみじたヾこのごろのほどにうせはてぬらんとみゆ、四位五位などのなくなるをば、さらにもいはず、いまはかみにあがりぬべしなどいふ、いとおそろしきことかぎりなきに、三月ばかりになりぬれば、くはんはくどの〈〇道隆〉の御なやみもいとたのもしげなくおはしますに、内によのほどまいらせ給て、かくてみだり心ちいたくあしくさぶらへば、このほどのまつりごとは、内大臣〈〇伊周〉をこなふべき宣旨くださせ給へとそうせさせ給へば、げにさばかりくるしうし給はんほどは、などかはとおぼしめして、三月八日のせんじに、くわんはくやまひの間殿上をよび、百官執行とあるよしせんじくだりぬれば、内大臣殿よろづにまつりごち給、かヽるほどに、かんゐんの大なごん〈〇朝光〉よの中心ちわづらひて、三月廿日うせ給ひぬ、あはれにいみじきことなり、あすはしらず、いまはかうなめりとさべきとのばら、むねはしりおそろしうおぼさるヽに、くはんはくどのヽ御心ちいとをもく、 四月六日出家せさせ給ふ、あはれにかなしきことに覺しまどふ、
p.1320 長保二年、今年疫死甚盛、始レ自二鎭西一到二京師一、
p.1320 長保二年六月廿日乙丑、去夕左馬權助親扶朝臣卒去、今月所二卒去一、民部大夫國幹、前因幡守孝忠等也、近日疫癘漸以延蔓、此災年來連々無レ施、昔崇神天皇御宇、七年有レ疫、天下之人大半亡沒、于レ時天皇知二其祟一、忽以解謝、治二馭天下一百餘年也、而今世路之人、皆云、代及二儀末一〈〇儀末恐澆末誤〉災是理運也、予思不レ然、聞最勝説自以相叶、後漢末歳災異重疊、後代之史當時之謠、以爲賞不レ當二其功一、罰不レ當二其罪一、又如二王法論不治一罰二惡人一不レ親二近善人一者、禍胎災孽、何處轉レ之哉、彼濟陰釋鳳巴郡黄龍皆出二訛言一、多爲二妖孽一、今年夏招後堂災、其後不レ幾、應天門壊、皆是怪異之極、有識者、定應レ有二所見一、主上寬仁之君、天暦以後、好文賢皇也、方機餘閑、只廻二叡慮一、所レ期二澄淸也、所二庶幾一者、漢文帝、唐太宗之舊跡也、今當二斯時一災異蜂起、愚暗之人、不レ知二理運之災一、堯水湯旱、難レ免二忽迷一、白日蒼天雖レ訴無レ答者也、
p.1320 長保二年、自二十一月一疫死繁發、始レ自鎭西一坂東逈到二京師一、 同三年七月以後疫死漸止、
p.1320 長保二年十二月、今年冬、疫死甚盛、自二鎭西一來二京師一、
p.1320 長保三年三月廿八日庚子、此日千口僧、於二大極殿一轉二讀新寫金剛壽命經一、爲レ攘二疫疾一交死之怖依レ時定増二壽命一之誓也、予得分五卷之中、手自書二寫一卷一、
p.1320 長保三年辛丑、春月疫死甚盛、鎭西坂東、七道諸國入二京洛一疫癘殊甚、仍三月十八日甲午、行二幸大極殿一、爲レ除二疾疫一、修二大仁王會一、 同廿八日、請二千僧於大極殿一、令レ讀二壽命經一、 五月九日京師諸人、於二紫野一行二御靈會一、道路死骸不レ知二其數一、天下男女夭亡過レ半、七月以後疾疫漸止、
p.1320 長保三年三月十日壬午、於二大極殿一百座仁王講、仍天皇行二幸八省院一、依二疾疫祈一、 十八日庚寅、仁王會竟、 廿八日庚子、於二大極殿一請二千口僧一、讀二壽命經一、依二天下疾疫一也、 四月十二日癸丑、 於二南殿並建禮門朱雀門等一、有二大祓一、依レ攘二疾疫一也、
p.1321 長保三年五月十九日庚寅、今日左府被二參内一、候二御共一諸卿被二參會一、被二定申一可レ攘二除疫病一之事、申刻、有二不斷仁王經御讀經事一、〈右大臣行事〉僧等、不レ具二威儀師觀峯一、依二觸穢一候二陣外一行事云々、次左大臣、於レ陣召レ余令レ奏二諸卿定申一、紀伊守致時朝臣申二請雑事三ケ條一并可レ攘二疫病一事、又神祇官御祈事、召二廿一社司一可レ令二祈申一攘二交由一事令二祈申一、今月内可レ除愈由二神助一有レ感者、奉レ寄二封戸一、并可レ被レ賞二社司一云々、於二十二門一可レ被レ轉二讀大般若經一事、先年已有二其驗一、早可レ被レ行云々、下二知諸國一、令顯二造丈六十一面觀音一所レ令二供養一事、本願殊勝、然則官符下知後六十日内、開眼供養、可レ令二言上一、其由下二知諸國一、永以連者、諸文可レ令二勘會一云、又講讀師國分二寺僧尼等、布施供養事、年中御願國司監臨、慥可レ令レ勤二行於御前一、可レ致レ講二演最勝王經一事、同新絬寫觀音開眼、次可レ令レ講二演於天王寺一、令レ撰二練行僧廿口一、三ケ日間、可レ令レ轉二讀仁王經一事、布施供養、可レ用二本國官物一、大屋寺七ケ日可レ令講二仁王般若經一事、大安寺東院崇道天皇廟、可レ令レ轉二讀千卷金剛般若經一事、供養料、同可レ用二本國官物一、下二知諸國一、慥可レ令レ禁二斷六齋日殺生一事、
仰云、依二定申一可レ令二勤行一之、神祇官并廿一社御神并十二門御讀經日時令二擇申一、又可レ定二申僧名一、
依レ仰令三陰陽寮擇二申御祈日時一、〈神祇官御祈、今月廿一日、諸社御祈、廿四日、〉奉レ之、又依レ召著二陣座一、〈執レ笏〉隨二大臣仰一、言二御讀經僧名一、
p.1321 長保三年五月廿九日庚子、參二左府一參内十二門御讀經也、申刻發願、左大臣率二宰相中將、左大弁源宰相、右中弁等一、毎レ門禮拜爲レ攘二除疫癘一、毎レ門各差二僧綱一、率二廿口一限二三ケ日夜一、轉二讀大般若經一也、其僧亦東面陽明門、前大僧正觀修、少僧都隆圓、待賢門僧正覺慶、權少僧都慶圓、郁芳門權僧正明豪、權律師明救、〈以上延暦寺〉南面美福門權少僧都滑信、朱雀門院大僧都雅慶、權律師淸壽皇嘉門權律師覺縁、〈以上東大寺〉西面談天門權少僧都定澄、權律師平超、藻辟門權律師平傳、殷富門權律師明久、〈已上興福寺〉北面安嘉門權大僧都勝筭、法橋觀敎、偉鑒門大僧都穆筭、權律師尊叡、逹智門權律師院源、〈以上延暦寺〉毎レ門率二用廿 口僧一也、
p.1322 長保三年五月廿九日庚子、於二十二門一有二轉讀大般若經事一、依二疾疫一也、閏十二月廿九日丙申、始レ自二去冬一、至二于今年七月一、天下疫死大盛、道路死骸不レ知二其數一、況於二斂葬之輩一、不レ知二幾万人一、
p.1322 長和四年三月廿七日丁未、天下咳病、又疫癘屢發、死者多矣、 五月十五日甲午、臨時如法仁王會、依二天下疫疾也、 廿六日乙巳、詔大二赦天下一、依二例〈〇例衍字〉天皇不豫、并人間疾疫一也、右少辨資業作二詔書一、 六月廿日戊辰、依二疫神託宣一、立二神殿一奉二崇重一也、 廿三日辛未、臨時仁王會、依二疾疫一也、
p.1322 長和四年六月十一日己未、近日疫死者、不レ可二計盡一、路頭死骸連々不レ絶、五位已上及二十餘人一、亦病輩多有二其聞一、自レ賤及レ貴歟、
p.1322 左弁官〈下二綱所一〉
應レ令下十五大寺延暦寺轉二讀仁王般若經一攘中除災癘上事
東大寺卌口 興福寺卌口 藥師寺卌口 元興寺廿五口 大安寺廿五口
西大寺十五口 法隆寺十五口 法華寺十五口 新藥師寺十五口 本元興寺十五口
招提寺十五口 東寺廿口 西寺廿口 四天王寺十五口 崇福寺十五口
延暦寺六十口
右權大納言源朝臣俊賢宣、奉レ勅、迺者都鄙之間、疫癘滋蔓雖レ致二種々之祈禱一、彌聞二元々之死殤一、欲下賴二仁王之威神一、以助中万民之危命上、般若海中覔二不死之良藥一、實智山上傳二長生之秘方一、仍於二件寺々一、始レ從二今月廿九日申二點一、五箇日間毎レ寺擇二智行兼備之僧一、轉二讀件經王一、消二攘彼疫癘一、但其供料用二本寺物一者、綱所承知、依レ宣行之、事縁レ攘レ災、不レ得二緩怠一、
寬仁元年五月廿五日 少史酒人
少弁源朝臣
p.1323 寬仁元年六月十四日辛巳、於二御殿以二十五口僧一、轉二讀仁王經一、〈九箇日〉依二天下疫癘消除一也、 廿三日庚寅、公家爲レ除二疾疫一、書二寫壽命經一、 二一千口僧一、於二大極殿一、被レ供二養轉三讀之一、又給二度者一人一、〈○一〉〈恐十誤〉四年四月廿二日癸卯、詔、大二赦天下一、大辟以下罪無二輕重一、悉以赦除、但犯二八虐一、故殺、謀殺、私鑄錢、強竊二盗、常赦所レ不レ免者不レ赦、又免二調庸徭役一、依二皰瘡疾疫事一也、
治安元年正月廿八日甲辰、臨時仁王會、爲レ攘二疫病一也、 二月廿五日庚午、依二天下疾疫一、奉二幣廿一社一、内記申レ障、權少外記中原師任、奉二宣命一、但件宣命、兼日大内記菅原忠貞所レ草也、 三月七日壬午、於二大極殿一 二千僧一、轉二讀壽命經一、依二、天下疾疫一也、件經、公鄕以下、諸司以上、分配書レ之、
p.1323 左弁官〈下二綱所一〉
應下分頭詣二諸社一講中演仁王般若經上事
石淸水 權大僧都慶命 僧六口 賀茂上 前權少僧都心譽 僧六口
賀茂下社 權少僧都實誓 僧六口 松尾 律師觀眞 僧六口
平野 律師定基 僧六口 稻荷 桓舜 僧六口
春日 大僧林懐 僧六口 大原野 攝源 僧六口
大神 少僧都扶公 僧六口 住吉 淸祈 僧六口
梅宮 敎圓 僧六口 吉田 永照 僧六口
祇薗 權律師明尊 僧六口 北野 遍救 僧六口
比叡 權僧正院源 僧六口 西寺御靈堂 濟慶 僧六口
右去冬以來、疾疫滋起、夭亡之者多有二其聞一、仍種々祈禱、一々勤修、三寶之冥助難レ及、一天之病患未レ降矣、夫仁王般若者、護國之城塹、斷禍之刀劒也、非レ仰二五力之本誓一、何得レ救二万姓之危命一哉、權中納言藤原朝臣能信宣、奉レ勅、宜丁仰二綱所一、令丙件僧等各率二淨行僧六口一、親詣二社頭一、始レ自二今月廿六日午二點一、三箇日間、 専勵二精誠一、講乙演件經甲者、綱所承知、依レ宣行之、事是攘レ災、不レ得二疏簡一、但其供菜料、石淸水、住吉等、攝津國、賀茂下上、稻荷、祇薗、比叡等社、近江國、松尾、平野、大原野、梅宮等社、丹波國、吉田、北野等社、西寺御靈堂、山城國、春日、大神等社、大和國、早可二運送一之状、下二知件等國々一已了、
治安元年四月廿日 右大史津守
少弁藤原朝臣
p.1324 治安元年四月廿三日戊辰、奉二幣廿一社一、依三祈雨并消二疾疫難一也、 廿六日辛未、自二今日一三箇日、於二石淸水以下十六社一轉二讀仁王經一、依レ除二疾疫一也、六月十六日庚申、奉二幣廿一社一、依レ攘二疾疫之難一也、 廿七日辛未、從二去春一至二此夏一、疾疫死者甚多、 七月十日癸未、於二大極殿一、臨時仁王會、爲レ消二疾疫一也、
p.1324 諸社御讀經
石淸水 權律師融碩 僧六口 賀茂上 權大僧明尊 僧六口
賀茂下 權大僧都定基 僧六口 松尾 權律師經救 僧六口
平野 桓舜 僧六口 稻荷 眞範 僧六口
春日 前大僧都扶公 僧六口 大原野 道讃 僧六口
大神 權律師平能 僧六口 住吉 忠命 僧六口
梅宮 源泉 僧六口 吉田 眞圓 僧六口
祇薗 權少僧都敎圓 僧六口 北野 權少僧都遍救 僧六口
比叡 僧正慶命 僧六口 西寺御靈堂 濟慶 僧六口
長元三年三月廿三日
右中弁藤原朝臣賴任傳宣、右大臣宣、奉レ勅、迺者疾疫即發、須レ求二攘除一、農業漸催、將レ期二豐稔一、轉二災禍一者、無 レ先二佛法一、生二福祚一、亦在レ崇二神明一、仍先消二痾恙於一天一、欲レ充二稼穡於万邦一、故占二靈社之砌一、敬講二護國之敎一、冥助之不レ疑、感應豈其虚哉、宜丁仰二綱所一令丙件僧等、各率二淨行僧六口一、親詣二社頭一、始レ從二來四月六日午刻一、三箇日間講乙演件經甲、綱所宜承知、依レ宣行之、事是攘災、不レ得二疎簡一、但其供菜料、石淸水、住吉、大原野等、攝津國、賀茂下上、稻荷、比叡、近江國、松尾、平野、梅宮、丹波國、吉田、祇薗、和泉國、北野、西寺御靈堂、河内國、春日、大神、大和國、早可二運送一之状、下二知件國々一、已了者、
長元三年三月廿三日 左大史惟宗朝臣義賢〈奉〉
僕奉レ勅、於二左仗一仰二右府一、右府仰二右中弁一、〈賴任〉令レ召二陰陽寮一、并令レ進二文書硯等一、史等進二文書硯一如レ例、右府令三左宰相中將書二僧名等一、右中弁進二日時勘文一、右府加二入定文日時文於筥一、令二右中弁奏一レ之、弁先内二覽關白殿一、次奏レ之、次奉レ下二右府一、則給レ之、於二陣腋一、下二史義賢朝臣一、義賢朝臣書二宣旨一、下二綱所一、兼又可レ運二充供菜料一之由、賜二宣旨於國々一、又可二社頭房装束一之由、令レ仰二便宜國々諸衞等一云々、
p.1325 長元三年五月十九日辛未、請二千僧於大極殿一、令レ讀二壽命經一、公卿以下、依二宣旨一調二進經卷一、以二天台座主慶命一爲二講師一、令レ祈レ消二疾疫之災一、 廿四日丙子、下二知諸國一、圖二繪丈六觀音像一、轉二讀觀音經一、爲レ消二疾疫一也、 六月廿日壬寅、於二大極殿一、有二臨時仁王會一、依二疾疫并宇佐宮神馬焼斃一也、
p.1325 太政官符、五畿内七道請國司、
應レ圖二寫供二養丈六觀世音菩薩像壹體、請觀世音經佰卷一事
右去春以來、疾疫滋蔓、病死儔多、仍寄二託内外一、雖レ致二祈禱一、空經二旬月一、未レ期二休除一、夫觀世音菩薩者、衆生依怙、能施無畏、患二病厄一者、必拔二苦源一、遭二急難一者、乍得二解脱一、就レ中十一面觀世音、有下頂上佛面除二疫病一之願上、請觀世音經、有下毗舍離國救二苦厄一之敎上、旁仰二弘誓一、豈無二冥感一乎、正二位行大納言兼民部卿中宮大夫藤原朝臣齊信宣、奉レ勅、宜下下二知五畿内七道諸國一、圖二寫件菩薩像并經卷一、官符到後、擇二定吉日良辰一、専當二於國分寺一、請二當寺淨行僧十口一、開講供養上矣、即一七日間、轉二讀件經一、但請用之僧、有二如レ不レ法之輩一、尋二訪他寺一、備二 彼員數一、祈以二件事一、必期二靈驗一、又轉讀之間、殊致二潔齋一斷二絶葷腥一、禁二止屠割一、其施供料、用二正税一、若無二正税一、用二所レ在官物一者、諸國宜承知、依レ宣行之、符到奉行、
造大安寺長官正四位下行右大弁兼内藏頭中宮亮源朝臣 從五位下行左大史惟宗朝臣
長元三年五月廿三日
p.1326 長暦四年八月十六日戊戌、此兩三日、京中上下悉以病惱、男女房等不レ候レ内也、藏人只二人所レ候也、〈○中略〉予〈○藤原資房〉參二關白殿一、〈○藤原賴通〉殿下坐二中納言〈○賴通二子通房〉御方一、彼納言、從二昨日一病惱云々、是世間之病歟、〈○中略〉命云、中納言從二昨日一病惱、非二重惱一、近來天下之上下人々、皆以病惱、但不レ經二四五日一云々、家中人皆病惱、不レ見レ來爲二之如一レ何、予申云、大内如レ之、 十七日己亥、參二入關白殿一、命云、家中上下皆悉病惱、無二人駈仕一爲二之如何一、但件病、不レ及二死亡一尤所二悦思一也者、
p.1326 寬德元年疫疾尤盛、死骸滿二道路一、
p.1326 永承七年壬辰正月廿六日癸酉、屈二請千僧於大極殿一、令レ轉二讀觀音經一、自二去冬一疾疫流行、改年已後彌以熾盛、仍爲レ除二其災一也、
p.1326 永承七年五月廿九日、大安寺東寺新造神社行二御靈會一、依下可レ止二疫疾一御示現上也、世名曰二祇園社一、 八月廿五日、今年、疫病流二行天下一、
p.1326 永承七年六月十七日庚寅、 三千口僧於二大極殿一、轉二讀金剛壽命經一、蓋祈二疾疫一也、
p.1326 延久三年正月十六日壬寅、 二千僧於太政官一、被レ供二養轉三讀觀音經一、祈二時疫一也、
p.1326 承保二年十月十九日丁未、 二百僧於大極殿一、三箇日轉二讀大般若經一、祈二民庶頓滅一也、廿一日己酉、大二赦天下一、爲レ消二同厄一也、
p.1326 寬治八年〈○嘉保元年〉六月三日、近曾兼禪巳講入滅云々、薗城寺人老僧也、又故若狭守師基女房〈老年七十七云々〉卒去云々、是故宇治大納言殿第三女也、民部卿并左宰相中將〈能〉籠居、去二日明法博士兼 左衞門尉中原範政卒去、〈年五十七云々〉凡夭亡者不レ可二勝計一、京中路頭河原之邊、近日積二骸骨一、可レ謂二大疫一、
p.1327 天下不レ靜間事
禮記月令日、孟春之月行二秋令一、則民大疫、又曰、季春之月行二夏令一、則民多二疾疫一、
今案、政令違レ節、民有二疾疫一歟、〈○中略〉
漢書曰、柏者鬼之廷也、師古曰、鬼神好二幽闇一、故松柏爲二廷府一也、
正暦五年六月廿七日、被レ安二置疫神於船岡上一、長保三年五月九日、被レ安二置疫神於紫野一、京師衆庶行二御靈會一、件年々天下不レ靜、仍有二此儀一、無量之條、已叶二本文一、鬼神好二幽闇一、神有レ所レ歸者、不レ爲レ厲之故也、風聞紫野今宮、久歴二年序一、漸及二破損一、加之下民之愚、誤伐二樹木一歟、早加二修復一、必有二感應一矣、
右民者國之寶、君之本也、治レ國之道、不レ侮二匹夫一、即近日以降、天下不レ靜、物故之者、往々在焉、因修二明文一、可レ被二計行一、所レ謂一人有レ慶、兆民賴レ之、仍大略注申如レ件、
天承二年閏四月八日 散位中原師元
p.1327 承安二年五月十二日、京中諸人、修二諷誦於六角堂因幡堂一、爲レ免一疫疾一云々、
p.1327 養和元年、今年天下飢饉、道路餓死者充滿、以來未レ有レ如レ此也、
壽永元年、飢饉同二去年一、旱魃疫癘越レ年、死人在二墻壁一、
p.1327 又養和のころかとよ、ひさしくなりてたしかにもおぼえず、二年があひだ、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき、〈○中略〉明くる年は、たらなほるべきかと思ふ程に、あまつさへ えやみ( ○○○) うちそひて、まさるやうに跡方なし、世の人皆うゑ死にければ、日を經つ、窮りゆくさま、少水の魚のたとへに叶へり、終にはかさうちき、足ひきつ、み、身よろしき姿したるもの、ひたすら家ごとに乞ひありく、かくわびしれたるものども、ありくかと見れば、則倒れ伏しぬ、ついひぢのつら、路の頭にうゑ死ねる類は數も知らず、取り捨るわざもなければ、くさき香、世界にみち〳〵て、變り ゆくかたちありさま、目もあてられぬこと多かり、いはんや河原などには、馬車のゆきちがふ道だにもなし、
p.1328 文治三年四月廿四日乙未、親經來仰、院〈○後白河〉宣云、近日 天下有二病患一( ○○○○○) 、又兒女有二諺言一、尤可レ有二御祈事一云々、申云、尤可レ然候、於二諺言一者未二承及一候、病患粗有二其聞一、御祈尤可レ候、但用途事難レ叶、先日可レ被レ付二功國一之由奏聞、此事未無二御沙汰一、依二御定一五六ケ國相計雖二催仰一、敢無二領状之國一、以二別勅定一可レ被二仰下一歟、抑近日可下被レ召二意見一施中德化上之由有二其聞一、其事無レ私被レ行者、祈禱攘災不レ可レ過レ之者、
p.1328 寬喜三年七月十六日、今月天下大飢饉、又二月以來、洛中城外疾疫流布、貴賤多以亡卒云々、
p.1328 禪南院範雅僧都が養父大舍人入道といふものは、そのころ人にしられたる侍也、あるとし天下に 疫病( ○○) はやりて、家ごとにやみけるに、この入道が郞等男、ゆめに數多の武士この家にうちいらんとするに、先陣のともがら、うちをみいれて、かぶとをぬぎて拜していはく、此所には唯識論おはします、狼藉あるべからずとて、やがてみな退出しぬ、夢さめて後翌朝に、入道が家にきたりて此よしをかたる、そも〳〵唯識論とはなに物ぞやといふ、範雅おりふし在京して、かの家に同宿したりければ、このよしをつたへきヽて、くはしくその家をみるに、まろう人井の棚のおくより唯識論第九卷をもとめいだしてけり、此僧者都つねに宿しければ、同朋どもなど取落けるにぞと、
p.1328 去正嘉のころ、疫癘おこりて人おほく病死にけり、其時武藏國與野郷に一人の名主あり、年來念佛信心の人にて、世間の疫癘をのがれんがために、家うちの老少をすヽめて、明日より別時念佛をはじむべきにて、番帳を書て道場におきけり、その夜の夢に異形の者ども如レ霞むらがりて行けるが、此家の門のうちへいらんとしけるを、あるじ出むかひて云、是は家 中の男女心をひとつにして、別時念佛を始べきにて結番して、すでに彼番帳を佛前におきたり、亂入する事なかれといふ、こヽに疫神のいはく、汝がいふことまことにしかり、然ば番帳を披見すべしといふ、主すなはち是を見するに、疫神隨喜せる氣色にて、結衆の名字の下ごとに判形を加てけり、いはく、我一人の息女あり、他所にありといへども、彼名字を書て此念佛にいれんとおもふ、疫神これをゆるさずと見て夢さめぬ、其夜あけて番帳を見れば、實に名字の下ごとに判形あり、いろはの字を書損せるがごとし、其色焼驗をしたるに似たり、夢にたがへず家内の老少いさヽかもつヽがなきに、かの他所にある息女は、此病にて終にけり、此事其聞ありて、彼番帳をば將軍家へめされてけり、是併祇園部類春屬等も、みな融通念佛の結衆にて御坐ば、彼異類異形と申も別のものにあらず、皆祇園部類眷屬どもなれば、元より此念佛衆に入たる疫神也、眞實に深志を致して、道場を莊嚴して番帳をくり、明日より別時念佛を始べき信心の誠、色にあらはれければ、行疫神も番帳に判形を加へ、隨喜して過にけり、
p.1329 康永四年九月十九日、天下依レ有二病事一、被レ行二御祈一例、
文永元年七月上旬以來、咳病流行、 建治參年秋以來、天下病患流布、
p.1329 應永廿七年二月十八日、去年病惱本腹被レ果二立願一云々、抑去年炎旱飢饉之間、諸國貧人上洛、乞食充滿、餓死者不レ知レ數、路頭ニ臥云々、仍自二公方一被レ仰二諸大名一、五條河原ニ立二假屋一引二施行一、受レ食醉死者又千万云々、今春又疫病興盛、万人死去云々、天龍寺相國寺引二施行一、貧人群集云々、明盛法橋自二十一日一受二件病一、以外大事也、不便々々、盛源總罷出、聞知識龍山雖レ被二禁獄一無レ咎之由申披、自レ樓被レ出、追放云々、
p.1329 天文三年二月三日、予歳十七ニ母ヲ送テ、釜口靈山院忌中、三月ノ初、 疫病煩ヒ( ○○○○) 、既ニ死ントス、師英磐ヨリ爲二祈禱一大般若トモ轉讀卷數并赤童子〈蓮成院所持本尊〉下給、前後不レ覺、入レ夜ウッヽ ニ赤童子仰云、汝ニ學文望ナラバ、一切經ノ御廊ニオワセヨトノ玉、サテ前後ニ男女鬼形ヲヽカリキ、赤童子杖ヲ以テ打拂セツルニ、彼鬼ドモ手ヲ合、ワビユト申キ、シカレバヲノレラ、向後此モノニ障ヲ不レ可レ成トアリシニ、無二是非一旨請ヲ申上、悉ク歸ト、タヾチニ見シニ、予伯父ノ坊主敎弘阿闍梨モ長病煩ヒ、氣ソノ砌ノ夢ニ、マノアタリ愚ガ所ヨリ異形ノモノ多ク去ト見ルト、其後本復了、
p.1330 正德四年甲午三月霾蒙して日月光なかりしが、四五月の比、肥前長崎港疫疾大に流行し、比屋病床に臥し死に至る者七千餘に及びし、〈六月官に請て報金を賜はりし〉九州四國中國の方も又疫氣一時に行れ、是に死する者甚多しと聞ゆ、六七月、難波京師に及び、染疫の家に苦しみ愁ふ、泉南尤甚しく、堺の商家死亡數千人なりし、京にて組を定め人形を作り、夜に入數十人金鼓にて疫を送る事喧びすしく、前代未聞の姿なりし、關東も同じ樣にて、我府下中元の前後病に臥し、醫師藥匙をさしをく時なかりし、され共五三日にてやがて本復し、死亡する者は傳へ侍らず、勢江濃三の諸州東都も同じ疫に染ざるはなし、古へにいふ 三日疫病( ○○○○) とはかヽる類にや、
p.1330 天行病
何物語とやらいふ書〈正德享保年間の實録にて、其時にしるせし寫本なり、〉に、正德六年の夏熱を煩ふ病人多く、一ケ月の中に、江武の町々にて死する者八萬餘人に及び、棺をこしらゆる家にても間に合ず、酒の空樽を求めて亡骸を寺院へ葬るに、墓地に埋むる所なければ、宗體に拘らず火葬ならでは不レ納といふ、依レ之荼毘所に送り火葬せんとすれば、棺桶の數限りもなく積かさねて、十日二十日の中には火をかける事ならず、其到來の順々に荼毘すれば、日數をはるかに經といふ、こヽにおゐて貧しき者の亡骸は如何ともすべきやうなく、町所の長たる人々も世話行届かで、公廳へ訴へまうせしかば、夫々の御慈悲を賜り、寺院に仰せつけられて、葬がたき亡骸をば、回向の後、菰に包みて舟に乘 せ、こと〴〵く品川沖へ流し、水葬になさせられしといふ、按ずるに、正德六年は六月二十二日に改元あつて享保元年となれり、彼明暦三年の火災に、十萬八千人の燒は、當時猶言傳へて怖るれど、享保元年の天行病に、數萬人の一時に死亡せしを、後に傳へて言ものなきは、火難と違ひて、書留しもの、鮮き故なるべし、
p.1331 一享保元年丙申夏の初メ以來、諸國疫癘流行して、我尾府は南熱田海邊ことに比屋死亡する者百を以て數ふ、五月の末猶病に臥者一千九十餘人と聞へし也、醫に命じ藥を施さしめましますとかや、
p.1331 享保十八年辛丑十二月、飢饉ノ後、時疫流行セシニヨリ、官ヨリ望月三英、丹羽正伯ニ命ゼラレ、治時疫方ヲ集メ、又凶年ノ時ハ僻地ノ民、雜食シテ毒ニアタルヲ以テ、解食毒方便易ナルヲ撰バシメテ、町奉行所ニテ上木ナサシメ、都鄙ニ頒行セシメタマフ、其方ハ醫説ノ大豆甘草ノ方肘後方ノ蘘荷根ノ方ナド十一首ナリ、其後天明四年甲辰、諸國ニ時疫行ハル、トキ、天保八年丁酉、荒歉ノ後ニモ、再其方ヲ頒タシメラレタリ、國家仁慈ノ政至レリトイハザルベケンヤ、
p.1331 新ニ 冷疫( ○○) ト云ル名目ヲ設ルコト
安永ノ初、長夏流行病アリテ、死亡塗ニ相望メリ、其症種々異同アリトイヘド、ソノ始多惡風肌熱、水瀉嘔吐、不食ニ起リ、煩渇譫語吐衂血ナドニテ、日ヲフルマ、ニ沈重ニ至リ、醫皆手ヲ束ネタリ、一老醫寐ビエヨリ起リタルトテ、張景岳ガ五君子煎ヲ投ジテ、嘔吐不食煩渇譫語ナドヨク除キ、救療尤多ク、遂ニ疫ヲ治スル一良法トセリ、〈人參、白朮、茯苓、干姜、甘草、〉予〈○工藤平助〉モ亦此ニ傚て得ル處多カリシ、陳皮年夏ヲ加テ七賢湯ト名テ施モアリキ、其後ハ稀ニテ久ク廢シテ用ヒザリキ、按ズルニ、ネゼエト云病名ハ、我邦ノ通言ニテ、寢中ニ冷ニ感ゼシハ、腸胃中ニ舍ルナルベシ、是故ニ寒熱腹痛水瀉ヲ以テ、ネビエノ症トセリ、皮表ニ在邪ト異ニシテ、月日ヲ經テ經ニ傳ルトイヘド、イッマデモ 冷ヲ伏シテ熱ニ化スルコトナシ、中塞傷風ト大ニ異ニテ、ネビエト云ル一症アルナリ、何ノ國ニモアルベキヲ、コレニ相當ノ議論名目ヲ見ズ、撿索スベシ、總テネビエトイヘバ、世間皆輕症トノミ思ヒ居レリ、然ルヲ寐冷ヨリ危篤ニ及ヲ發明セルハ卓見ト云ベシ、今ヲ以テ思ニ、安永ノネビエノ症ノ流行セルハ、瘟疫ノ一症ナルベク、ネビエトノミハ云ガタカルベシ、尋常ノネビエハ、年年ニアレドモ、危篤ニ及ブコトナキニテ觀レバ、決定流行疫ノ寝中ヲ犯シテ、腸胃腸間ニ潜伏シテ、惡心不食水瀉赤白痢等ノ症ヲナスナルベシ、
p.1332 疫病
安永二年夏、疫病流行死亡多かりしゆゑ、官より寺院へ御尋ねありしに、疫病十九萬人、蓋し中人以上は、病者稀にして下賤に多かりしと、同三年の冬、嚴寒にて川々氷厚く通船なりがたく、諸品高價、同四年、凶作、同五年麻疹流行、三十以上の人、貴賤となく病まざるはなし、
p.1332 温治騐
寶暦ノ末年、東都 大疫( ○○) アリ、其證自汗壯熱煩渇、小便頻數淋痛短少、大便或ハ秘シ或ハ溏ス、甚者ハ頭眩、嘔逆譫語脈浮緩ナリ、類案ニ羅子ノ説ヲ引テ云、 風溼( ○○) ト名ヅク、傷寒ニアラズトアリテ、五苓散ヲ主トセリ、此説ニ從ヒ五苓散ヲ煎湯トナシ與ヘテ、人ヲ救フコト多シ、
p.1332 温疫轉變ノ記
寶暦ノ末年ヨリ今寬政ニ至ルマデ三四十年來、江戸ノ病人ヲ見ルニ、正傷寒ハ稀ニテ、四時共ニ多クハ温疫ナリ、温度ハ戻氣ナレバ正傷寒ノ第一種ナルノ比ニハアラズ、種々品々ナリ、此故ニ只一症ヲ知得タリトテ、盡セリトハ言ガタシ、予寶暦丑寅ノ頃二十四五歳ノ時ヨリ、專ラ治療ニ苦ミシガ、明和中マデ十二三年ノ後、時行一變シ、寬政ノ始ニ至テ又一變セリ、スベテ時ノ流行ヲヨク知得ズバ、測ラザル變ニ逢テ狼狽スルコト多カルベシ、予麁工ナリト雖モ、犬馬ノ齢幸ニ八 八ノ年ヲ積テ、是マデノ流行ヲ考ルニ、轄變トハイヘド、今ノ流行今ニ始ルニモ非ズ、四十年來ヨリ有キタリタレド、其治ヲ得ザルユヘ、徒ニ過シタルナリ、一般流行トイヘド、種々ノ病症イツトテモ交リオレリ、其内ニサマデ誤治ナリトモ思ハズシテ沈重ニ至ルハ、見シラザル一種ノ症ナルベシ、願クハ予ガ志ヲ嗣デ温疫ノ種類、吾輩ノ知ザルヲ治シ得ルコトアラバ、コレニ績テ救世ノ術ヲ弘メタマヘカシ、
p.1333 時疫ノ流行ハ其理ヲ推知スベカラザルコトアリ、寬政七年ノ三月初旬、大君小金原ニ狩シ玉ヒテ、四五日ノ後ヨリ感冒行レタリ、其患者ノ衣袂ニ必ズ猪鹿ナドノ獸毛アリ、少キハ七八根多キハ掌ニ満ルニ至ル、故ニ時人名ケテ御猪狩風ト云シトゾ、實ハ何ノ故ナルコトヲ審ニセザルナリ、又閑田次筆ニ、享辛酉〈○元年〉ノ歳極月ヨリ壬戌〈○二年〉ノ正月ニ及ビ、疫邪流行ス、荷蘭人ヨリ傳ヘシトモ、去年漂流セシアンポンナドヨリ染シトモ云ヘリ、京師ハ二月廿日頃ヨリ三月廿日頃マヂ行ハレ闔戸ミナ病ム微疫ナリ、其病人袂ノ中ニ必ズ薄赤キ毛アリ、或ハ一條或ハニ三條ヅヽナリ、近江播磨ノ國々皆シカリ、怪キコトナリ、蠻人ヨリ傳ヘシ故ニ、カヽル毛モ生ぜシヤト云ヘリ、意フニコレト同證ナランカ、彼ノ所レ謂羊毛瘟ハ身體ヘ羊毛ノ如キモノヽ生ズルニテ自ラ別病ナリ、
p.1333 辛酉のとし〈○亨和元年〉極月より壬戌〈○亨和二年〉の正月におよび、長崎に疫邪流行す、予が門に遊ぶ人かしこに事ありて、一周年が間族ゐせるも、病たるにつきて、いひこされしは、阿蘭陀人より傳へしとも、又去年漂流せしアンホン、その外蠻人より生ぜしともいふ、往年暹邏人渡來りしより、風邪流行せし例なりときこゆとなん、此邪氣長崎より九州を經て、つひに上方におよび、世間一遍になり、京は二月の廿日餘りより三月廿日ごろにおよび、毎家毎人病ぬものなし、近江わたりもおなじ頃とぞ、風邪に似たれども一種の疫氣な んと、呉又可が温疫論にて思ひ合せ ぬ、療治も凡微疫をもて、藥したるは速に効をえたりと見ゆ、さてあやしきは邪を病ものは、必袂のうちに毛ありといふ、それは脇毛の落たるならんと嘲る人もありしかど、予が近江の親族の者たもとのうちに、薄赤きいろの毛を一すぢ見つけて、家の内のものどもの病るを、人毎に袂を見せしむるに、皆おなじ、あるひは二すぢ三筋にも及ぶが有しといひき、播磨尾張の國々よりいひこせしも同じ、いとあやしきことなり、予が家に病みしは、はやくてさる噂も聞ざりしかば、心もつかずいかヾ有けん、蠻人より傳へしゆゑに、かヽる毛も生ぜしにや、必袂の中より操出せしも奇なり、定理をもては論じがたし、
p.1334 文化丙子夏秋ノ際、都下大ニ疫アリ、其症初起遽ニ少陽ヲ犯テ、熱勢熾盛、二日ナラズシテ精神昏憒スルニ至ル、大抵大小柴胡黄連解毒ノ類ノ擬スベキモノ多ク、正陽明ヲナス者ハ少カリキ、老醫ノ話ヲ聽ニ、先年ハ陰症躁擾スル證多カリシト、先敎諭ノ傷寒ヲ治セラレシヲ視ニ、亦多ク參附ヲ用タマヒシナリ、蓋コノ歳ヨリ以後ノ疫ハ、大略此種ノ證ニシテ陰證ハ至テ稀ナリ、風氣變遷ノ然ラシムルモノナランカ、
p.1334 天保庚寅〈〇元年〉四月ヨリ六七月ニ至ルマデ時疫アリ、患ル者甚多シ、其症多ハ初ヨリ惡寒ナク熱甚ク、脈緊數ニシテ、大便下利、舌上胎ナク水ヲ欲シ、劇キハ赤斑ヲ發シ、或ハ發黄、或ハ衂血大便血、或ハ歯齦出血スルモノアリ、淸熱凉血ノ效ヲ得ルコト多カリシ、サレドモ不治ノ症亦少カラズ、舌胎ト熱候トハ甚相適セザリキ、且其熱ノ解シテ爽快ニ及ブニハ甚日ヲ引タリ、輕症ニテモ一月餘、重キハ二三月ヲ逾ルニ至レリ、邪熱血脈ニ沈漬セシ故ナルベシ、前件ニモ云ヘル如ク、近年ハ攻補温凉トモニ純一ニナシガタキ症多キコトハ、コレ等ニテモ知ルベキナリ、
p.1334 事の序に、先一年の飢饉の事を説ん、天保七年八月、諸國大風雨にて、其年五穀不熟にして、天下大飢饉とぞきこえける、されば諸色の價次第に上りて、同八年には、御藏前の相場は、百 俵に百五十兩ほど、銭百文に白米四合より貮合五勺迄に至りしかば、下賤の者難儀いふばかりなし、火附盗賊多くして、同八年正月廿八日の夜は、江戸中に火災九ケ所ほど有て、日々物さわがしく、其うへ大疫流行して人多く死す、飢にくるしみ道路にたほれ死す者、昨日はこヽ今日はかしこ、幾人といふ數を知ず、
p.1335 天保八丙年四月
大目付〈江〉
時疫流行候節、此藥を用て其煩をのがるべし、
一時役には大つぶなる黒大豆をよくいりて、壹合甘草壹匁水に而せんじ出し、時々呑てよし、右醫渥ニ出ル、
一時疫には茗荷の根と葉をつきくだき、汁をとり多呑てよし、右肘後備急方ニ出ル、
一時疫には午房をつきくだき、汁をしぼり、茶碗半分宛二度飮て、其上桑の葉を一握ほど火にてよくあぶり、きいろになりたる時、茶碗に水四盃入二盃にせんじて、一度飮て汗をかきてよし、若シ桑の葉なくば枝に而もよし、右孫壹人食忌ニ出ル、
一時疫に而熱殊之外つよく、きちがいのごとくさわぎてくるしむには、芭蕉の根をつきくだき、汁をしぼりて飮てよし、右肘後備急方ニ出ル、
一切の食物毒にあたり、又いろ〳〵の草木、きのこ、魚、鳥、獸など喰煩に用ひて其死をのがるべし、
一一切の食物の毒にあたりくるしむには、いりたる鹽をなめ、又はぬるき湯にかきたて飮てよし、
但草木の葉を喰て毒にあたりたるには、いよ〳〵よし、右農政全書ニ出ル、
一一切の食物の毒に當りてくるしく、腹脹痛には、苦參を水にて能せんじ、飮食を吐出してよし、右同斷、
一一切の食物にあたりくるしむに、大麥の粉をこふばしくいりて、さゆに而度々飮てよし、右本草綱目ニ出ル、
一一切の食物にあてられて、口鼻より血出てもだへくるしむには、ねぎをきざみて、壹合水にてよくせんじ、ひやしおきて幾度も飮べし、血出やむまで用てよし、右衞生易簡ニ出ル、
一一切の食物の毒にあたり煩に、大つぶなる黒大豆を水にてせんじ、幾度も用ひてよし、魚にあたりたるにはいよ〳〵よし、
一一切の食物毒にあたり煩に、赤小豆の黒燒を粉にして、はまぐりかひに一ツ程ヅヽ水にて用ゆべし、獸の毒にあたりたるにはいよ〳〵よし、右千金方ニ出ル、
一菌を喰あてられたるに、忍冬の莖葉とも生にてかみ、汁をのみてよし、右夷堅志ニ出ル、
右之藥方、凶年之節、邊土之者、雜食の毒にあたり、又凶年之後、必疫病流行の事あり、其爲に簡便方を撰むべき旨依レ被二仰付一、諸書之内より致二吟味一出也、
享保十八辛丑年十二月 望月三英
丹羽正伯
右は享保十八辛丑年、飢饉之後、時疫流行いたし候處、町奉行所〈江〉板行被二仰付一、御料所村々〈江〉も被レ下候寫、
右は當時諸國村々疫病流行いたし、又は輕きものども、雜食之毒に當り、相煩難儀いたし候趣相聞候、天明四辰年御藥法爲二御救一相觸候處、年久敷事故、村々に而致二遺失一候儀も可レ有レ之候ニ付、此度爲二御救一、右之寫、猶又村々〈江〉領主地頭より可レ被二相觸一候、
右之通可レ被二相觸一候
四月
p.1337 嘉永五年七月以還、築地土州邸瘟疫( ○○) 流行ス、門人黒岩誠道父尚謙、余〈○淺田宗伯〉ヲ延テ療セシム、野々村三内妻及子、一瀨孫之進妻及息、乾守右衞門并男、富永源次郞妻及女、山中常太郞、北村平之進、勝賀瀨助及息善太郞、佐々内藏太及妾、奥村爲右衞門及兒、松井源藏息、國澤善之丞妻、南玄仲後室、鳥池九一郞、林源三郞等、皆危篤ノ域ニ至リ、升陽散火湯、加二附子一、眞武、合生脈散、茯苓四逆湯、既濟湯、烏梅園、呉茱莄湯ニテ救治ス、福永儀助男、谷兎毛妻、森岡彌右衞門、祐祥院僕音吉ノ如キハ、元氣衰脱シ遂ニ治スル能ハズ、此事土州侯工聞へ、留守居廣瀨源之進ヲ以テ其邸ニ出入スルコトヲ許サル、
余前年ノ疫ニ多ク石羔ヲ使用シテ効ヲ奏ス、當年ノ疫大抵附子ニ非レバ救フ能ハズ、疫氣運二屬スル論廢スベカラズ、蓋仲師ノ敎益萬古不易ヲ覺ユ、
p.1337 備後風土記曰、疫隅國社、昔北海坐〈志〉、武塔神、南海神之女子〈乎〉、與波比〈爾〉坐〈爾〉日暮、彼所蘇民將來二人在〈伎〉、兄蘇民將來甚貧窮、弟將來富饒、屋舎一百在〈伎〉、爰塔神借二宿處一、惜而不レ借、兄蘇民將來借奉、既以二粟柄一爲レ座、以二粟飯等一饗奉、饗奉既畢出坐後〈爾〉經レ年率二八柱子一還來〈天〉詔〈久〉、我將奉レ之爲報、答曰、汝子孫其家〈爾〉在哉〈止〉問給、蘇民將來答申〈久〉、己女子與二斯婦一侍〈止〉、申既詔〈久〉以二茅輪一令レ著二於腰上一、隨二詔令一著、既夜〈爾〉蘇民與二女人二人一〈乎〉置〈天〉、皆悉許呂志保呂保志〈天伎〉、既詔〈久〉吾者、速須佐雄能神也後世〈仁〉疫氣在者、汝蘇民將來之子孫〈止〉云〈天〉、以二茅輪一著二腰上一、詔隨二詔令一著、既家在人者將免〈止〉詔〈伎〉、
p.1337 疫神社
此御社、古き村には必立給へり、然れども今は大かたいづこも小き祠にて、いつの頃より祭りしとも尋ねおもふ人なし、こはふるき御社なり、類聚國史に、寶龜二年令三天下諸國祭二疫神一とみ ゆ、此御社には素戔嗚尊を祭るといひ傳へたり、これ古き傳へなり〈然れども素戔嗚尊とのみこヽろうべからず、下にいへるをむかへ見てしるべし〉、此尊岩戸の前よりやらはれて、降り給ひし時、宿を道のべの神に乞給へども、やどし奉る家なくて、雨風いたく吹降といへども、暫くもやすらふ事を得ずして 辛苦艱難( タシナミ) つヽ降り給へり、此時に備後國に巨且といひて〈巨且長者と語傳へたり〉富る者あり、宿を乞給へども、かしまゐらせず、其弟なる蘇民は〈蘇民將來ど語傳へたり〉貧しかれど、いたはり奉りてやどしければ、後に巨且が家に疫神入てあらび、そみが家には入ざりし事など、備後風土記にみゆ、〈此風土記の事は、寓言なりと云人もあれどしからず、此書全くは傳はらで、引たる書によりて、後の人の竄入もみゆれど、事は實にて、今に國人舊跡を傳へて、素戔嗚尊を祭れる御社も近く立給へれば、しふべからず、委しくは備後略記前篇にしるせり〉、しかれば此尊、根の國に降り給ふとある根の國は、山陽山陰兩道をいふと、新居氏〈新居白石先生といふ人〉のいへるがごとし、古は山をねともいへり、富士のね、甲斐がねなどいと多し、されば此尊、備後を通りて、出雲へ降著給へり、くはしき事は備後略記の品治郡の條にいへり、さて此尊は疫をはらひ退け給ふ故、疫神社に祭るといふは、あらめなる説なり、書にも直ちに疫神また行疫神などヽあれば、疫をなす神をいふなり、こは素戔嗚尊のわかくおはせし時、あらび給ひし名残の靈を疫神と申なり、〈しからばかの蘇民が家にて、疫神を防ぎ拂ひ給ひしは、いかにおのれ尊の靈をはらひ給ふ事いぶかしと、いふ人あるべけれど、其時ははや正しき神にておはせば同じ尊の荒靈と別神になり給へればあしき神を拂ひ退け給ひしなり、こヽは大名貴命の、おのれ命の幸魂奇魂と問答し給へりしを見て知べし、尊き神の御上には、しかあることおほきぞかし〉、是を祭るは、御社に鎭まりまして、あらび給はざらむ事を祈りて、みあへ奉るなり、古學する人は、世間の曲事はみな、枉津日命のみしわざにて、疫神と申も此神なりといへども、かたよりなる説なり、古より素戔嗚尊を申といへるはあらめなる事もあれど中々なほき傳なりかし、かくいへば、しからば素戔嗚尊は、邪神なるかといふ人も有べけれど、そはおだやかに考ざるなり、今の世間にも邪神にはあらで、をり〳〵にはあらびます事あるにあらずや、そは邪神の見入にて、正しき神のみしわざにあらずといはむか、そも邪神見入て來ら ば、いづこにも正しき神おはすなれば、など邪神をばほせぎ給はぬにや、されば神の御うへの事は、かたづめてはいはれぬものなり、たヾ常には尊みて幸を祈り、あらび給ふ時はかしこみてしづまり給はむ事を祈るべきなり、これ世の中にもしかする事にて、すなはちなほき御國のならひなりとしるべし、
p.1339 宮城四隅疫神祭〈若應レ祭京城四隅准レ此〉
五色薄絁各一丈六尺、〈等分二四所一、已下准レ此、〉倭文一丈六尺、木綿四斤八兩、麻八斤、庸布八段、鍬十六口、牛皮熊皮鹿皮猪皮各四張、米酒各四斗、稻十六束、鰒鰻堅魚各十六斤、腊二斗、海藻雑海菜各十六斤、鹽二斗、盆四口、坏八口、匏四柄、檞十六把、薦四枚、藁四圍、楉棚四脚、〈各高四尺、長三尺五寸〉、朸一枝、
畿内堺十處疫神祭〈山城與二近江一堺一、山城與二丹波一堺二、山城與二攝津一堺三、山城與二大河一堺五、山城與二伊賀一堺六、大和與二伊賀一堺七、大和與二紀伊一堺八、和泉與二紀伊一堺九、攝津與二播磨一堺十〉、
p.1339 讃岐國女行二冥途一其魂還二付他身一語第十八
今昔、讃岐ノ國山田郡ニ一人ノ女有ケリ姓ハ布敷ノ氏、此女忽ニ身ニ重キ病ヲ受ケタリ、而レバ直ク味ヲ備テ門ノ左右ニ祭テ、疫神ヲ賂テ此ヲ饗ス、
p.1339 疫鬼
洛北一乘
寺村金福禪寺の住僧松宗語られけるは、先年備後國三好鳳源寺にて愚極和尚を招き請ぜり、愚極は梵綱經開板の智識にて有けり、則誥度あり、松宗壯年の頃にて此會座に連り、衆僧と倶に禪室に入、結迦趺座し居たり、衆僧も晝夜の勤行に勞れ、膝突にふら〳〵と眠りぬ、然るに松宗不圖頭をもたげ見れば、垂たる帷幕を押上て、堂内を見とし〳〵する者有、無禮成奴かなと見留れば、八十計りの老人顏色靑ざめ至極瘦衰へ、白髪ふり亂し白髭たれたるは、世にいふ貧乏神ともいふべし、淺間敷樣にて座にもの凄く覺ゆる程也、此者そろ〳〵と結界を越て堂内に入 らんとする氣色なれば、松宗物をもいはず、づか〳〵と走行て押出すに、彼者は是非に入らんとするを、力に任せて押出ば、拍子に連て礑と轉たる音して、其後は見へずなりぬ、靜に座に歸り又元の如く胡座せり、最怪しく思ひながら、人にも語らざりけるに、其夜村の者來りて咄す樣は、近在近郷に疫病流行し、村毎に過半病死す、忝きは此寺に大法會のある故にや、此村に一人も病者なしと賞嘆せり、爰に於て松宗、扨も今日かやう〳〵の事有し、村里にも見ぬ怪しき者來れり、是や疫神といへるものかといふに、一座左にこそあらんと、いよ〳〵修行怠慢なかりしかば、衆僧三百餘人より下部に至る迄、村を限りさらに病患なかりけると也、〈○中略〉是等皆疫鬼也、諸書にいふ所、我國中華倶に同説也、彼 乙( シユキンヲツ) の三字の靈符に恐れて、疫邪の鬼神、川を渡り得ざりしも同じきか、或は又洞家の祖師道元禪師、中華に傳法の頃、山中にして癘鬼に逢れし時一偈あり、左の如し
無位眞人現二面門一 智惠愚痴通二般若一 靈光分明輝二大千一 神鬼何處著二手脚一
と示されたり、妙驗さらに疑ふべからず、今諸國此四句を門戸に貼し、或は右の三字の靈符を書して、疫癘を避るとするも故あるかな、
p.1340 鬼神餘論
世に疫鬼痘鬼といふものあり、疫鬼は俗にいふ疫病神、痘鬼は俗にいふ疱瘡神なり、和名鈔に、瘧鬼、邪鬼、窮鬼等を出せり、窮鬼の人の家にあるを耗といふ、世俗貧乏神といふは是なり、和名鈔に云、瘧鬼、蔡邕獨斷云、昔顓頊有二三子一、亡去而爲二疫鬼一、其一者居二江水一、是爲二瘧鬼一、〈和各衣也美乃加美〉或〈於爾〉邪鬼、日本紀云、邪鬼〈和名安之岐毛乃〉窮鬼、遊仙窟云、窮鬼師説、〈伊岐須太萬〉といへり、みなこれ大陽の毒にて、一時の氣運に乘じて流行す、顓頊の子亡去て疫鬼となるといふものは誕妄のみ、疫癘は冬より發りて春夏の間最も盛なり、その寒に傷らるヽもの、春夏大陽の毒に觸て誘引はる故に、和漢除夜に儺して もて、疫鬼を驅るといふ、我俗これを 疫おとし( ○○○○) といふ、後遂に災厄の厄とするものは誤れり、唐山には立春の日、土牛を造りて農事をすヽむ、天朝亦これに傚ふて、大寒の日夜半に、陰陽寮土牛童子の像を造りて門戸に立、延喜式に、土偶人十二枚〈高各二尺〉土牛十二頭と見えたり、その數一年十二ケ月を表する歟、土牛は靑黄赤白黒なり、春夏秋冬東西南北の色に隨ひてこれを立るとなり、亦水鏡文武紀に、慶雲二年とまうしヽに、世の中こヽちおこりてわづらふ人おほかりしかば、追儺といふ事ははじまりしなりと見え、亦慶雲二年、天下疫癘盛にして、人民多く失しかば、土牛をつくり追儺といふ事始れりと、公事根元にも記されたり、吉田の疫塚これその餘波歟、毎歳節分の夜、吉田神祇官において、庭上に塚を築きこれを疫塚といへり、その塚、正月十九日に至りて解去るを淸祓といふ、亦この日、山城國八幡の社頭に疫神を祭る、亦この月十六日に、伊勢國度會郡山田の郷に獅子頭の神事あり、亦三月十日、高尾の法華會これを安良比花といふ、やすらひ花と鼓うつなりと寂蓮の詠るは是なり、〈この詠草、紫野今宮の社司の家にあり〉、みな是疫神神を驅の義にして、なごしの祓に至て止、なごしは夏越なり、七月に至て陽氣衰ふ故に、秋はこれを禳はず、王充が、鬼は大陽の毒なりといへりしはこの事ならん、かヽれば疫神も又形なし、但一時の氣運に隨て流行するとき、その形在がごとくも、陽衰ふるに至りて、消然として迹なし、譬ば酒食の腐爛するとき、忽然として蠅の聚るに似たり、人その酒飯をすて去れば、蠅も又隨て迹なきが如し、よりて小蠅鳴惡神といへり、しかるに病劇しき時、人往々疫鬼を見ることありといふ、その説ところの形状一定せず、みなこれ陽毒のなす所なり、故いかにとなれば、これを山氣の蒸て雲霧を起すに譬ふべし、山中の人その雲の起るを見れば朦朧たり、山下の人これを見れば別に奇峯を添るが如し、瘟疫の人に逼る熱邪内に蒸して、その毒外に發す、よりて患者その疫鬼を見る、これ山下にして雲氣を瞻望し、是を奇峯とするが如し、人その毒に觸るヽときは亦隨て患む、故に聖王皇天郊土を祀りて、陰 陽その時にたがはざらんことを禱り、世俗春夏に祓禊してもて疫鬼を驅る、驅といへども盡ることなし、凡天下に疫癘の流行せし、漢にいたりてます〳〵盛なり、こヽをもて天仲景氏を生じて、永く疫鬼を驅しむ、
p.1342 送二疫鬼一( ○○○)
日次紀事云、凡疫癘、春初多流行、〈○中略〉而唐土造二紙船一之類乎、按ずるに、紙船の事は、閩書〈風俗志〉云、正月上元十三四五日、各里造二紙船一送二瘟鬼一、〈○中略〉東海談云、享保十八年七月上旬より、東都大に疫癘はやり、上下貴賤、みな此氣に中りて病す、十三日十四日の比は、大路の往來もたえ〴〵なり、是は醫書にいはゆる天行時疫といふ者歟、邑里ともに、藁にて疫神の形を造り、かね太鼓をならして、是を南海へ流しぬなどあり、これ今もなほするわざなり、
p.1342 民間ニ疫癘流行スルコトアレバ、疫病神ヲ送ルト稱シ、又疫病ヲ引ト號シテ、山伏ヲ先ニ立テ螺吹鳴シ物サハガシク、衆人コレニ從ヒ物ヲ驅ルガ如ク爲ルコトアリ、コレ古者方相氏爲レ儺ト云モノニ異ナラズ、サレバ其所爲ニ任ジテ可ナリ、又民間ニ富士講、大師講、又ハ金毘羅、或ハ稻荷ノ流行神ナドイヒテ、人々信仰スルコトナレド、是ハ少皥氏之衰、九黎亂レ德、民神雜糅、家爲二巫史一、民瀆二齊盟一、禍災荐臻、ト云〈國語〉モノニテ、甚不可ナリ、予嘗テ農父タリシトキ、富士講等ヲ禁ジタリシガ、今如何ナリシヤ知ラズ、
p.1342 疫神
嘉永元申年の夏より秋に至り、疫病大に流行なりし處、爰に不思議の一話あり、淺草邊の老女〈名は〉〈失念〉或時物貰體の女と道連になりし處、彼女いふ、私事三四日何も 給( タベ) 申さず、甚た飢におよび申候、何共願兼候得ども一飯御振舞の程願といふ、老女答、夫は氣の毒なれども、折惡敷持合せ無レ之、志かし蕎麥位の貯はあるべし、そばおふるまい申べしとて、蕎麥二椀たべさせける、彼女大きによ ろこび禮を述べ別れしが、 に呼びかけ、扨何がな御禮致すべしと存じ候へ共、差當り何も無レ之、右御禮には我等身分御噺申べし、我等儀者疫神に候、若疫病煩候はヾ早速鯲を食し給へ、速に本復いたすべしと敎へ別れけるよし、右は〈予〉友松井子の噺なり、この趣と同譚の事あり、予實父若かりし時石原町に播磨屋揔七とて、津輕侯の人足の口入なりしが、兩國より歸りがけ、一人の男來り聲をかけ、いづれの方〈江〉參られ候哉と問、揔七答て、我等は石原の方〈江〉歸るものなりといへば、左候はヾ何卒私義御同道下されかし、私義は犬を嫌ひ候故、御召連下されといふ、それなれば我と一所に來れよと同道いたし、石原町入川の處にて右の男、扨々ありがたくぞんじ候、私義は此御屋敷〈江〉參り候、〈向坂といへる御籏本にて千二百石、今は屋敷替に相成候、〉扨申上候、私義は疫神に候、御禮には疫病神入申さヾる致方を可二申上一候、月々三日に小豆の粥を焚候宅〈江〉は、私仲間一統這入申さず候間、是を御禮に申上候といひて、形は消失けるぞふしぎなれ、其日より向坂屋敷中疾病と相成候よし、予が實父〈江〉播磨屋の直ばなしなり、右故予が方にても今に三日には小豆粥致し候、此儀に付ては我等方にても、疫病神をのがれし奇談あり、〈○下略〉
p.1343 今 やく病よけの守リ( ○○○○○○○) トテ、聻ノ字ヲ門戸ニ貼ハ、漢舊儀曰、儺立二滄耳一、注即漸耳也、又通曲ニ、司刀鬼名聻、一名滄耳、五音集韻、聻子役切、音積、人死作レ鬼、鬼死作レ聻、篆二書此一貼レ門、離二鬼祟千里一、又酉陽代醉ナドニ委シ、
p.1343 畏疫
論語曰、郷人儺、朝服而立二於阼階一、孔安國曰儺驅二逐疫鬼一、郊特牲曰郷人禓孔子朝服立二于阼一、在レ室神也、鄭玄曰、禓強鬼也、謂時儺索レ室、毆レ疫逐二強鬼一也、禓或爲レ獻、或爲レ難、音曰禓音傷難或作レ儺、周時既有二畏疫之事一、屠蘇辛盤之屬、皆興二於畏疫一者、於二門戸上一插二種種之物一、西土俗亦同、除日插二鰯魚頭尾於門戸一名曰二 疫案山子( ヤクカヽシ) 一、〈松下見林國朝佳節録曰、今按插二魚頭一者旁磔之義、〉紀貫之土佐日記載、門戸插二 鯔( ナヨシ) 頭枸葉一、蓋昔不三必用二鰯魚一、陳善捫虱 新話曰、予聞關中人不レ識二蟛蟹一、人有下得二一乾蟛蟹一者上、或病則掛二之門一、其病遂愈、沈存中曰、不二但人不一レ識、鬼亦不レ識也、本邦之鬼、亦不レ識二鰯魚一也、〈夢溪筆談曰、關中無二螃蟹一、元豐中予在二峽西一、聞秦州人家、收二得一乾蟹一、土人怖二其形状一、以爲二怪物一、毎下人家有中病レ瘧者上、則借去掛二門戸上一、往〉〈往遂差、不二但人不一レ識、鬼亦不レ識也、〉
p.1344 御尋に付淸次書上之寫
本八丁堀貳丁目半兵衞店淸次申上候、私義奇怪之義申觸 疫病除之札( ○○○○○) 差出候趣相聞江、被二召出一御尋御座候、私義ハ釣船渡世仕、相雇候者無レ之節は自分釣に罷出申候、當五月廿四日にも相雇候者無レ之候付、朝六ツ時分ゟ私壹人にて品川沖下夕之瀨と申所〈江〉船乘候に、きす百程も釣候二付、同日夕八ッ時分、兼々肴責遣候南小田原丁肴屋鐵藏方へ遣可レ申と存、築地本郷丁之前海波除内〈江〉船を留置、船掃除を致罷在候所、何方ゟ參候哉、見事之きすに候間、呉候樣申もの有レ之候故、振向見候へば、面體は不二見留一、丈六尺餘、髪髭逆立栗梅のとろとんの樣にて、唐人の樣成衣類を著し、船の中程に立罷在候に付、無症之樣に相成きす一ツ差出候處、請取給候上、怪敷體に而、私名前相尋候に付、淸次と申候旨相答へ候得ば、自分は疫神に有レ之、我正直成もの故、家内并親類に而釣舟淸次と私名前書記置候バ、其家〈江〉は參間敷旨申候に付、辱旨申候と覺、右之者何方〈江〉か參、正氣付、怪敷候に付、品々南本郷丁河岸〈江〉船を漕付、相殘る肴は右鐵藏方〈江〉賣遣、船乘戻り、奇怪之義に付、右之趣妻子并同店之者〈江〉相咄候庭、同店藤八妻つなと申者疫病相煩候に付、私名前認呉候樣申聞候得共、無筆に而其儀は難レ致旨申候得ば、同店之者釣舟淸次と認め遣候に付、其通認遣候所、つなも快氣仕候故、右之義を同店并近所之者及レ承、認呉候樣相賴候に付、無レ據認遣候得共、聊も禮物等請取候義は無二御座一候、尤私日々渡世に罷出候に付、所々ゟ認貰に參候而は、渡世の邪魔に相成候事故、當時は賴來候而も相斷認遣し不レ申候、御尋に付奉二申上一候、
寬政二年戌六月廿二日 本八丁堀貳丁目半兵衞店
淸次
河内守樣
御番所
疫神といひしやつ、ほどすぎての風説に、大盜人にて、水中を潜ル事魚のごとく、家根など飛こと鳥のごとく、同三年被二召捕一、段々のよし云傳ふ、
p.1345 一疫瘟流行の時は、其家にて初めて疾に染し人の衣服を甑の上に置、蒸遇すれば一家族まぬかる、
p.1345 近世るうだといふ草を、疫疾流行の時、身に帶疫氣を避とて、家に植侍る、〈或はあるは草ともいふ〉凡蠻語物の臭氣あるをるうだと云、此草香あしき故、阿蘭陀人るうだといふ、〈是に不レ限どくだみなんどのごとき臭〉〈氣あるを、皆るうだといふとかや、〉我國久しき呪にて門戸に葱葫の類を懸け侍るも同じ意にや、凡蒜を以て瘴氣を祓ふ事、古事記〈卷の中景行記の條に〉出、日本武尊、足柄山の山神を壓し給ひし故事より起りしと云々、〈賢按、今俗りうだ草といふ、一名蓍婆草ともいふ、〉
○按ズルニ、疫神ノ事ハ、神祇部神祇總載篇ニ在リ、參看スベシ、
p.1345 瘧病 説文云、瘧、〈意虐、俗云 衣夜美( ○○○) 、一云 和良波夜美( ○○○○○) 、〉寒熱並作、二日一發之病也、
p.1345 新撰字鏡、痎訓二衣也三、又 左牟也彌一( ○○○○) 、按、和良波夜美、見二源氏物語若紫卷一、萬安方訓二 於古利也美( ○○○○○) 、又 布留比也美一( ○○○○○) 、今俗呼二 於古利一( ○○○) 、伊澤氏信恬曰、瘧訓二衣夜美一、一訓二和良波夜美一、疫亦訓二衣夜美一、一訓二度岐乃介一、瘧疫其病雖レ有二差別一、並是天行時令之病、一國皆患レ之、故統訓爲二役病一、若柝二言之一、瘧訓一童病一、疫訓二時氣一、時氣者爲二時氣所一レ感、故以爲レ名、童病之名未レ詳、攷二世説注一、俗傳行レ瘧鬼小、多不レ病二巨人一、夢溪補筆談、載三呉道子畫鐘馗有二唐人題記一、其略曰、明皇痁、一夕夢二二鬼一、一大一小、大者捉二其小者一啖レ之、夢覺痁瘳、太平御覽引二録異傳一、嘉興令呉季瘧經二武昌廟一、辭謝、乞レ斷二瘧鬼一、夢下一人縛二取一小 兒一去上、夢覺瘧即斷、又弘父患レ瘧、後至二田舍一瘧發、有三數小兒持二公首脚一、公捉二得一兒一、化成二黄鷁一、縛以還レ家、比レ曉失レ鷁、瘧遂斷、千金方載二治瘧符一、其文中曰、瘧小兒、又曰、今有二一瘧鬼小兒一、則知瘧鬼爲二小兒一、故訓爲二童病一也、〈○中略〉原書疒部云、瘧熱寒休作、按此並當レ作レ休、休字俗作レ 、其字與レ並相似、遂訛也、説文又有二痎字一、云、二日一發瘧也、此似三二日上脱二痎字一、病亦當レ作レ瘧、又按太平御覽、連二引説文瘧痎一、蓋修文殿御覽、兼二擧瘧痎二字一、源君李昉等、從レ彼引レ之、源君所レ見本脱二瘧字一、或後人傳寫誤脱也、按病源候論兼載二瘧病候痎瘧候一並有二日作一、有二間日作一、釋名、瘧酷虐也、凡疾或寒或熱耳、而此疾先寒後熱、兩疾二似酷虐一者也、
p.1346 瘧病〈ワラハヤミ、亦エヤミ、〉 〈ワラハヤミ〉 痁〈同亦名二將軍病一〉
p.1346 瘧鬼 蔡邕獨斷云、昔顓頊有二三子一、亡去而爲二疫鬼一、其一者居二江水一、是爲二瘧鬼一、〈和名衣也美乃加美〉或〈於爾〉
p.1346 獨斷二卷、漢蔡邕撰、原書作二疫神一、帝顓頊有二三子一、生而亡去爲レ鬼、其一者居二江水一、是爲二瘟鬼一、其一者居二若水一、是爲二魍魎一、其一者居二人宮室樞隅處一、善驚二小兒一、按東京賦李善注、引二漢舊儀一曰、昔顓頊氏之有二三子一、亡而爲二疫鬼一、一居二江水一爲二瘧鬼一、其文與二此所レ引獨斷一略同、尾張本、下總本、加美作二於邇一、與二類聚名義抄一合、伊呂波字類抄作二加美一、與二舊及山田本、昌李本、曲直瀨本一合、廣本作二和名衣也美乃加美或於邇一、按、於邇、鬼魅之類、加美、即神靈、瘧鬼謂下使二人病一レ瘧之神上、則可レ訓二衣也美乃加美一、訓二於邇一非レ是、蓋可下謂二鬼魅一爲二レ神、不レ得三謂レ神爲二鬼魅一也、疫神見二日本紀略一、
p.1346 瘧鬼〈エヤミノカミ、顓頊有二三子一已去而爲二疫鬼一、其一者居二江水一、是爲二瘧鬼一、〉
p.1346 わらはやみ 瘧疾也といへり、源氏にみゆ、膏盲二竪の事に本づける訓なるべしといへり、
p.1346 瘧を おこり( ○○○) と云は、時におこり、時に止むの俗語也、源氏若紫の卷には、 わらはやみ( ○○○○○) と 書倶非也、特正字通、引二郝敬髦書一、痎瘧疾、痎亦名レ痁、合二瘧痎一爲レ一、此説極是、而正字通、以レ此爲レ非者、反非也、
p.1347 間日瘧( カンニチギヤク)
俗ニ越期ヲコリノコトカ、病源ニ云、邪氣丙五藏ニセマルトキハ、道トヲク氣フカシ、故ニ其行コト遲ク衞氣トトモニ出ルコトアタハズ、是ヲ以テ日ヘダテヽ作ルト云リ、
p.1347 寬ニ御ス、其ノ人其ノ時ニ若クシテ三位ノ中將ト聞エケルニ、其比<ruby><rb> 瘧病</rb><rt> 弘九年〈○長和元年〉六月八日甲辰、相府御心問二遣江州一、其返事云、昨今不二發給一、今曉度二給御堂一、縁二瘧病之疑一者、今日可レ有二行啓一、而未レ有二其告一、但今日當二重愼日一、仍不レ可レ候二御共一之由、以二資平一令レ觸二皇太后宮女房一、
p.1347 わらはやみ( ○○○○○) にわづらひ給て、ようづにまじなひかぢなどせさせ給へど、志るしなくて、あまたヽびおこり給ひければ、ある人きた山になん、なにがしでらといふ所に、かしこきおこなひびと侍る、こぞの夏もよにおこりて、人々まじなひ、わづらひしを、やがてとヾむるたぐひあまた侍き、
p.1347 わらはやみにひさしうなやみ給て、まじなひなども心やすくせんとてなりけり、修注などはじめて、おこたり給ぬれば、たれも〳〵うれしうおぼすに、れいのめづらしきひまなるをと、聞えかはし給ひて、わりなきさまにて、よな〳〵たいめし給ふ、
p.1347 神名睿實持經者語第卅五
或ル時ニハ心ヲ至シテ經ヲ誦スルニ、一部ヲ誦畢ル時ニ、髣ニ白象來テ聖人ノ前ニ見ユ、經ヲ讀ム音甚ダ貴シ、聞ク人皆涙ヲ流ス、如レ此ク年來行ヒテ後ニハ神明ニ移リ住ヌ、而ル間閑院ノ太政大臣ト申ス人御ケリ、名ヲバ公季ト申ス、九條殿〈○師輔〉ノ十二郞ノ御子也、母ハ延喜ノ天皇ノ御子ニ御ス、其ノ人其ノ時ニ若クシテ三位ノ中將ト聞エケルニ、其比 瘧病( ○○) ト云フ事ヲ重ク惱ミ給ヒ 云、もろこしにても、奴婢病と云、いやしき病なれば、大人は煩はぬ意也續博物志に見えたり、又瘧を愈す藥を截藥といへるは、邪氣と正氣と出逢ふ道を立切ると云意なるべし、
p.1348 治二諸 瘧一方( ワラハヤミ) 第十三
病源論云、夏日傷暑、秋必病レ瘧、瘧其人形痩、皮栗以二月一日一發、當下以二十五日一愈上、設不レ愈月盡解、〈今案、有レ病後瘧載二卷〉〈末一、〉
p.1348 瘧字辨
瘧、古昔以爲二劇疾一、故字从レ虐、此由二古人不一レ透二逹瘧證一故云レ爾、按釋名云、瘧酷虐也、凡疾或寒或熱耳、而此疾先寒後熱、兩疾似レ酷者也、張從政曰、以下夏傷二酷暑一而成中痎瘧上也、瘧常與二酷吏之政一並行、〈儒門事親〉李挺曰、瘧有二凌虐之状病勢如下凌二虐人一之状上、故名レ瘧、〈醫學入門〉孫文胤曰、瘧者殘虐之意也、從レ病從レ虐故名曰レ瘧〈丹臺玉案〉以上皆非也、大凡疾之寒熱倶有者不レ可二擧數一、何獨止レ瘧哉、以レ此爲二酷虐一、則諸病皆可二以稱一レ瘧也耶、如下張云中以レ傷二酷暑一成上レ瘧、其屬二牽強一、況云與二酷吏之政一並行、尤爲レ無レ謂也、此邦泰李百五十年、稱下前古所レ未二嘗有一之至治上、固無二濫刑一、亦無二苛政一、而瘧疾之行、歳歳多有、海内盡然、安在下與二酷政一並行上也、張之妄鑿、不二亦甚一乎、如二李之凌虐、孫之殘虐一、倶就二文字上一爲レ説、亦由レ不レ洞二知瘧之全體一也、又素問作二痎瘧一、痎即瘧也、或一字、或二字、倶無レ異、故素問云、夏傷二於暑一、秋必病レ瘧、〈瘧論〉又云、夏傷二於暑一、秋必痎瘧、〈陰陽應象大論〉又云、夏傷二於暑一、秋爲二痎瘧一〈生氣通天論〉可レ見或單書レ瘧、或連二稱痎瘧一、其皆一同無別如レ此也、後世何爲二紛紛之説一耶、蓋自三説文云二痎二日一發瘧一、而謁來耳、夫二日一發瘧、即間日瘧也、間日瘧、乃瘧疾之正面也、或日日發、或間二二三日一發、乃瘧之變態也、故謂二二日一發瘧一者、非二説文誤一也、二日一發、即間日瘧、乃瘧之正面、則此其痎即瘧、可二以見一也、唯可レ惜説文不三直曰二痎倶㾬一也、爲レ可レ憾耳、 痎( ○) 、 又作レ㾬( ○○○) 、音同義同、原非レ有レ別、甲乙經、多作二㾬瘧一、即痎瘧也、而本草綱目云、老瘧發作無レ時、名二㾬瘧一、〈瘧龜條引二陳藏器一〉正字通、康煕字典、倶引二此説一者、以レ暗醫事一也、〈○中略〉説交云、有二熱瘧一、及正字通、康煕字典引二方書一有二單瘧一、有下一日二日至二十日一瘧上二日一發瘧曰レ痎、多日之瘧曰レ痁、三 ケレバ、所々ノ靈驗所ニ籠テ、止事元キ僧共ヲ以テ加持スト云ヘドモ、露其ノ驗无シ、然レバ此ノ睿實止事无キ法花ノ持者也ト聞エ有テ、其人ニ令レ祈ムト思テ、神明ニ行キ給フニ、例ヨリモ疾ク賀耶河ノ程ニテ其ノ氣付ヌ、神明ハ近ク成ニタレバ、此ヨリ可レ返キニ非ズトテ神明ニ御シ付ヌ、房ノ檐マデ車ヲ曳寄テ、先ヅ其ノ由ヲ云ヒ入サス、持經者ノ云ヒ出ス樣、極テ風ノ重ク候ヘバ、近來蒜ヲ食テナムト、而ルニ只聖人ヲ禮ミ奉ラム、只今ハ可レ返キ樣无ト有レバ、然ラバ入ラセ給ヘトテ、蔀ノ本ノ立タルヲ取去テ、新キ上筵ヲ敷テ可二入給一キ由ヲ申ス、三位ノ中將殿、人ニ懸テ入テ臥給ヌ、持經者ハ水ヲ浴テ暫許有テゾ出來タルヲ見レバ、長高クシテ痩セ枯レタリ、現ニ貴氣ナル事无レ限シ、持經者寄來テ云ク、風病ノ重ク候ヘバ、醫師ノ申スニ隨テ蒜ヲ食テ候ヘドモ、態ト渡ラセ給ヘンバ、何デカハトテ參候也、亦法花經ハ淨不淨ヲ可二撰給一キニモ非ネバ、誦シ奉ラムニ何事候ハムト云テ、念珠ヲ押攤テ寄ル程ニ、糸憑モシク貴シ、三位ノ中將殿ノ臥給ヘル頸、聖人ノ手ヲ人ニ給、膝ニ枕ヲセサセテ、壽量品ヲ打出シテ讀ム音、世ニハ然バカリ貴キ人モ有ケリト思テ、枕ヲ高クシテ聞クニ、貴ク哀ナル事无レ限シ、持經者目ヨリ涙ヲ落シテ泣々ク誦スルニ、其ノ涙病者ノ温タル胷ニ氷ヤカニテ懸ルガ、其レヨリ 氷( コミ) エ弘ゴリテ打チ振ヒ廣々爲ル程ニ、壽量品三返許押シ返シ誦スルニ醒メ給ヌ、心地モ吉ク直リ給ヒヌンバ、返々ス禮テ、後ノ世マデノ契ヲ成シテ返給ヒヌ、其後發ル事无シ、
p.1349 康治二年七月五日庚申、御二幸法勝寺一、如二昨日一、日一、先レ是宇治入道相國〈○忠實〉煩二瘧病一、被レ請二天台座主僧正行玄一、而自身不參、
久安七年等〈○仁平元年〉閏四月十七日丁亥、雨脚滂沱、今日來左大臣〈○藤原賴長〉被レ煩二瘧病一、今日適得二平愈一、法眼靜經施二驗德一云々、
p.1349 やよひの末つかた、わか〳〵しき わらはやみ( ○○○○○) にや、日ませにおこること二たび になりぬ、あやしうしほれはてたる心ちしながら、三たびになるべきあかつきよりおきゐて、佛のおまへにてこヽろを一にしてほくゑきやうをよみつ、そのしるしにや、なごりもなくおちたる、
p.1350 應永廿三年九月廿日、予風氣又萌、大略瘧病歟、以外令二病惱一、抑大敎院大納言律師隆經〈經良卿息〉明日可二傳法灌頂一云々、爲二後記一可レ有二御助成一之由申之間、桃林一頭被二送遣一、〈牛童牽レ之〉畏申紆豐爲堂、童子罷向云々、月見岡松茸新御所椎野以下取レ之、予依二違例一不參、珍曄喝食、〈日野一品子息〉禪門被二相伴一、寺長老弟子也、 廿四日、有二地藏講一、善基參懃如レ例、先齋食、次讀講式、地藏名號、侍臣唱レ之、頭人椎野、舜藏主、女中以下人々也瘧病又發、種々雖レ落無二効驗一、令二計會一、 廿四年九月五日、瘧病發日也、退藏僧有二秘術一之由申令レ落レ之、寅時汲二井水一〈東方〉呑二神符一、以二桃枝一拂レ身、其効驗歟、今日落畢、
永享四年五月十一日、城愛座頭參平家語、此四五年不參、若宮瘧病未レ落、入レ夜猶發、計會也、
p.1350 瘧
府下八九年追レ年テ瘧多ク、寬政三四年、寒暑ノ分モナク、四季共ニ多ク、頒白以上赤子ニモ瘧アリ、赤子ハ思ノ外ニ困セズ、小兒モ順ジク輕ク、中年以上ノ人ノウイ瘧ニハ或ハ絶二粒食一、疲弊シテ起居外候トモニ危篤ニナル人多ク見ユレドモ、必死ニ不レ至、病因考ニ、瘧痢同因ト論ジテ有ヲ、トクト按ズルニ、痢ハ裏ニ入ル故ニ死ニ至リ、瘧ハ表ニ病ム故死セズト見ユ、
p.1350 瘧をおとす方
續博物志二〈七丁ウ〉に、蛇蛻塞二兩耳一治二瘧疾一とあり、
p.1350 治二鬼瘧一方第十四
范汪方治二鬼瘧一
丹書額言、載二九天書臂一言、枹九地書足言、履九江書背言、南有二高山一、上有二大樹一、下有二不レ流之水一、中有二神 虫一、三頭九尾、不レ食二五穀一、但食二瘧鬼一、朝食二三千一暮食二三百一、急々如律令書レ胷、言上二高山一望二海水一、天門亭長捕二瘧鬼一得、便斬勿レ問レ罪、急々如律令、
p.1351 鬼瘧〈 諸瘧中( ○○○) 、 此一種( ○○○) 、 獨可下用二呪術一療上歟( ○○○○○○○) }、
論曰、鬼瘧者外邪之所レ乘也、人眞氣内虚、神守不レ固、則鬼邪投レ間、而入故恍惚、喜怒寒熱更作、若有二所持一而屢發屢止也、治法宜レ禳二去之一、而兼以二祛邪安神之劑一、
p.1351 太政大臣〈信〉爲二中納言一時、久煩二 鬼瘧一( ○○) 、已及二數月一、親王讀二孔雀經一、讀誦之中不二敢發動一、長以平愈
p.1351 僧正延禪童子久惱二 鬼瘧一( ○○) 、延禪申二請施食一與レ之、童子自縛言、我是神狐也、被レ責二護法一不レ知二爲方一、自今以後永去云々、〈○中略〉
p.1351 風氣( カザケ/○○)
p.1351 感冒( カンボウ)
俗ニ云 咳氣( ○○) ノコト也、外邪ノ淺モノ也、ソノ深キモノヲ傷風ト名ヅケ、其イヨ〳〵深シテ時行一般ナルモノヲ瘟疫ト名ヅク、
p.1351 風病證候第一〈○中略〉
病源論云、 中風( ○○) 者、風氣中二於人一也、風是四時之氣、分二布八方一、主長二養万物一、從二其郷一來者、而人少死病、不下從二其郷一來上者人多死病、其爲レ病也、藏二於皮膚之間一、内不レ得レ通、外不レ得レ泄、其入二經脈一行二於五臟一者、各隨二藏府一而生レ病焉、
p.1351 中風感冒
一古書ニ 中風( ○○) ト云ハ、 風ヒキ( ○○○) ノコトニテ、後世ノ醫書ニハ、是ヲ 感冒( ○○) ト云、後世ノ醫書ニ中風ト云ハ、偏枯半身不遂ノ病ニテ、今俗ニモ是ヲ中風ト云、又ハ中氣トモ云、今論ズル處ハ、傷寒論二出ル 中風方彙ナドニ出ル感冒ニテ、俗ニ云フ風ヒキ也、是傷寒ノ輕キニテ、最初ニ惡寒、發熱、頭痛、鼻涕出ルナド、人々知ル處ノ症ナリ、其理ハ皆傷寒ト同理ナリ、
p.1352 天行中風( ○○○○)
中風ハ外感ノ一證ニシテ、流行スルコト傷寒ト同ジ、故ニ張仲景傷寒中風ヲ併論セリ、又半身不遂ノ證ヲモ中風ト謂テ、二病ヲ一名ニテ、一書ノ中ニ擧タルハ可レ疑ニ似タレドモ、愚按ズルニ、後漢ノ時、風邪ノコトヲ中風ト謂ヒ、半身不遂ノ證ヲモ亦中風ト謂タルモノト見ヘテ、東觀漢記ニ曰、光武避二正殿一讀レ䜟、坐二廡下一、淺露中レ風苦レ欬、是即チ今ノ風邪ナリ、前漢書自叙傳曰、班伯道而病二中風一、既至、以二侍中光祿大夫一養レ病、賞賜甚厚、數年未レ起、是即チ半身不遂ノ中風ナリ、仲景世ニ通稱スル所ノ病名ヲ擧テ、別ニ新名ヲ設ケザルナルベシ、然レドモ二病一名ニテハ初學ノ者ハ惑ヒ易キユエ、吾門私カニ風邪ノ中風ヘハ、天行ノ二字ヲ冠シテ、半身不遂ノ中風ニ分ッ、此病ノ流行ハ、必ラズ關西ニ起テ關東ニ至ル、近世流行シタル 阿七( ヲシチ) 風、 琉球( リウキウ) 風、 檀法( ダンボ) 風、薩摩風ノ類、即チ是ナリ、
p.1352 はなたり病( ○○○○○)
台記に日來患二鼻垂疾一、俄身温、また依二鼻垂一不二念珠一、但今日無二温氣一也、また鼻垂後始念珠、〈夜前浴〉など見えたり、風を引きたるをいふと聞ゆ、
p.1352 久安二年七月一日、早旦參二宇治一路間人告、自二一昨日一 御風氣( ○○○) 坐給者、即急參、被レ仰云、今朝温氣散、及レ暗又温氣坐給、三日、令二平愈一給、四日、欲二歸洛一、今曉又有二温氣一由被レ仰、因レ之留、申刻、一條殿此兩三日温氣坐給云々、六日、依下令二平愈一給上、歸洛、便詣二一條殿一、御心地猶不快、六年正月十四日壬辰、今年餘寒難レ耐、 風痾( ○○) 頻侵、而息所參上之間、不レ能二退私一、身侍二禁中一、闕二怠王事一、可レ謂二不忠一、是以相二扶風痾一、憖參二八省一、
p.1352 治承四年二月五日丁亥、基輔自二内裏一退出云、主上〈○高倉〉聊 御風氣( ○○○) 御云々、十五日丁酉、晩頭參 内、〈○中略〉余參二御所一、〈但不二見參一〉謁二女房一、御不豫事猶以不快、然而明日行幸、必可レ然之由叡慮一決了、萬人可二延引一之由雖二計奏一、更以無二御承引一云々、及二亥刻一退出了、廿一日癸卯、此日有二讓位事一、
p.1353 靈元院 疫癘( ○○) 和歌事
享保八年病はやりて、人民多くうせぬ、靈元院の御うたあり、
風ふかば本來空のそらにふけ人にあたりてなんの疫癘
此御製を都鄙き、つたへて、かき志るし、まもりとせしに、やめるものははやく治し、やまざるものは大かたにのがれけりとぞ
p.1353 風病流行( ○○○○)
大久保酉山翁考風病流行之事
享保十八年癸丑六月七月〈七月十二日、長髪并供廻り格別減少にも可二相勤一旨被二仰渡一候〉
十五年目
延享四年丁卯九月十月〈九月廿九日右同斷被二仰渡一候〉
廿六年目
明和六年己丑十月〈十月四日右同斷被二仰渡一候〉
廿七年目
寬政七年乙卯三月四月〈三月廿八日右同斷被二仰渡一候〉
八年目
享保二年壬戌春
p.1353 享保十八丑年六月十七日廻状
一丑七月十日前後より、江戸町中、其後國々在々迄 風邪はやり( ○○○○○) 、同十八十九日比、風神送り、夥敷に 付、同廿日御觸有レ之、
p.1354 延享四年十月上旬より、諸國 風邪流行( ○○○○) 、
p.1354 風邪流行( ○○○○)
不圖思ひ出づる儘、むかしをしのびて記すは、寬政三四年の頃にやありけん、江戸中風邪流行して病ざる家なし、市中商人の家など戸さして、家内風邪に付相休申候と、札を張りたる家所々に見えたり、殿中伺候の面々、供立減少、長髪不レ苦と云ふ令を出だす程なり、此比街歌に、そんれはおそろきお世話へと云ふ童謠はやりし故、此風邪を お世話風( ○○○○) と云へり、其翌春、京傳作、草ざうしの新板に、〈此頃は上下一部紙員十枚なり〉おせはと云ふはやり女郞、深川にありて、客床に入れば、團扇を以てあふぐ、客たちまち襟元ぞつとして風をひき熱に犯され、樣々の事をなす趣向なり、大に世に行はれ、予も幼年所持せり、是も六十年のむかしとなりぬ、
p.1354 明和三年三月初つかたより疫風大に行はる、道中雲助并火消屋敷抱之鳶、ことごとく死す、名付て 雲助風( ○○○) と云、
p.1354 享和二戌年三月
一 風邪流行( ○○○○) に付、長髪に而罷出候儀、并供減候而召連候儀不レ苦候、今日罷出居候もの、風邪之者は勝手次第罷歸候樣、伊豆守殿被二仰渡一候段、神保佐渡守申聞候、
享和二戌年三月
御目付〈江〉
此節病入多候付、御番衆其外に而も例と違、詰切身分弁當之面々は、此砌は御臺所給させ可レ申候、但西丸も同斷
享和二戌年三月
御目付〈江〉
此節一統風邪流行ニ付、御目見以下之者共〈江〉御煎藥被レ下候、諸事明和六丑年之通相心得、可レ被二取計一候事、
但西丸御目付〈江〉も相通、西丸に而も、右之通被レ下候樣に、可レ被二取計一候、
p.1355 予〈○冢田虎〉質性無レ疾、十九憂レ瘧之後、四二十年于今一、未三嘗有二一日寢一レ疾矣、今 壬戌〈○享和二年〉三月、 天行之風疾( ○○○○○) 、都鄙戸々無レ有二不レ寢焉者一、西京大坂及諸國亦同焉云、於レ此門人或曰、先生得レ莫三亦罹二此風邪一乎、予戲レ之曰、一言以蔽レ之、豈可レ有レ受レ邪乎、然而幸竟不レ疾、
p.1355 ダンホ風( ○○○○) 并 お七風( ○○○)
文政四年正月十八日、南風いと烈しく、塵埃掠レ天、往來の人、目を開くことあたはず、芝片門前に火事おこりけるが、二町あまり燒て止りぬ、此日江戸中の家々火事を恐れて、土藏に目塗りし、藏なき者は家財雜具を運びさまよひぬ、午の時ばかりに、芝片門前に火事ありといひさわぎ、未の時には尾張町、申の時には日本橋わたりまで、火きたれりとのヽしりあひしが、皆ねなしごとにて、片門前の火事のみにて事しづまりにき、同二月中旬より彌生のはじめに及まで、疫癘流行、十に八九はこの憂にかヽらざる家なし、ことし今樣の囃に、ダンホサン〳〵とはやすこと流行せり、越後國より起りて、檀方樣といふよし人々いへり、或ナンホサン〳〵ともはやしたり、太田南畝が號をはやしにせし也ともいへり、これより疫癘を名づけてダンホ風といへり、今より十八九年前、お七風といふも流行せり、そは八百お七といふ狂言をノゾキの口説に作りたりしを、世人いひける也、此頃執政靑山野州、土井大炊頭主大久保加州、水野羽州ダンホ風に犯されて出仕したまはず、阿部備中守主一人つヽがなくおはしませりとなん、これに政府命ありて出仕の官人長髪を許さる、
p.1356 交政辛巳〈〇四年〉ノ二月中旬ヨリ、都下 感冒流行( ○○○○) シ、闔家コト〴〵ク枕ニ就ニ至レリ、西國ニテハ去冬ヨリ行レテ、邪氣盛ニシテ久解セザルモノァリト、關東ハ其證初起ハ稍劇ク、加進スベキ勢ナレドモ、〈○中略〉然マ、餘邪留連スル者アリ、動スレバ吐衂血ヲナスモノ多カリシ、蓋近年感冒ノ流行病者ノ夥キコト、是歳ノ如キハ曾テ見及ザルホドノコトナリキ、
p.1356 文政七申年三月
口逹之覺
此節 風邪流行( ○○○○) に付、長髪に而罷出候儀、并供廻り等も格外ニ減ジ召連候而も不レ苦旨、無二急度一御目付〈江〉申渡、大目付〈江〉も、右之趣相逹候樣、是又申渡候事、
p.1356 天保三辰年春寒甚しく、三月岐岨大雪、十一月琉球人來聘、寒氣つよし雪も度々、前月より 疫邪( はやりかぜ/○○) 流行( /○○) 、こヽに至りて止、
p.1356 安永以來の はやり風( ○○○○)
今 は秋のころに至りて、感冒必流行せんか、細人小兒おしなべて 寝々轉々( ネン〳〵コロ〳〵) と謠ふこと、是病臥の兆ならんといへり、果して八九月の頃に至りて、風邪感冒流行して、良賤病臥せざるはなく、輕きは兩三日にしておこたるもありしかど、重さはその症、疫熱に變じたる、三四十日に至るもあり、或は庸醫に愆られて、よみぢ赴くものもありけり、このときのゑせ狂歌に、
はやり風無常の風もまじりけりねん〳〵ころり用心をせよ
かくて病むと、やむ程に、關の八州いへばさらなり、京攝の間まで、脱る、ものなかりしとそ、童謠はいにしへより和漢の歴史に載せられて、應驗あらずといふもの稀なり、〈○中略〉
予が東西をおぼえしころより、大約五十年このかた、時々の感冒に世俗の名を負はせしもの少からず、まづ安永の中葉にはやりし風邪を、 お駒風( ○○○) と名づけたり、こは城木屋お駒とかいふ淫婦 の事を旨として、作り設けたる淨瑠璃のいたく行はれたればなり、又安永の末にはやりし風邪を、 お世話風( ○○○○) と名づけたり、こは大きにお世話、茶でもあがれといふ戯語の流行せしによりてなり、又天明中にはやりし風邪を、 谷風( ○○) と名づけたり、こは谷風梶之助は、當時無雙の 最手( ホテ) なりければ、これに勝るものあること稀なり、谷風嘗て傲言して、とてもかくても土俵の上にて、われを倒さんことは難かり、わが臥たるを見まくほりせば、風をひきたる時に來て見よかしといひしとぞ、この言世上に傳へ聞きて、人々話柄としたる折、件の風邪を谷風がいちはやくひき初めしとて、遂に其名を負せしなり、さればこの時四方山人、送二風神一狂詩あり、録してもてこヽに證とす、
引道( ヒクナラク) 此風號二谷風一、關々痰咳響二西東一、惡寒發熱人無レ色、煎樣如レ常藪有レ功、一片生姜和レ酒飮、半丁豆腐入レ湯空、送レ君四里四方外、千壽品川問屋中、
又文化元年にはやりし風邪を お七風( ○○○) と名づけたり、こは八百屋お七といふゑせ小うたの流行せしによりてなり、又文化五年の秋はやりし風邪を、 ねんころ風( ○○○○○) と名づけたり、そのよしは、上にいへるが如し、又文政四年の春二月の比、いたく流行せし風邪を、 だんほう風( ○○○○○) と名づけたり、こはこのときのはやり小うたに、だんほうさんや〳〵と謠ひしことのあればなり、かくて去年甲申の春二三月の頃、はやりし風邪を 薩摩風( ○○○) と名づけたり、こは西國よりはやり初めて、こヽまでうつり來つればならん、此うち谷風、お七風、ねんころ風、だんほう風は、はげしかりき、家々毎に五人三人枕をならべて、うち臥さぬはなかりけり、西は京攝に至り、東は安房上總、西南は、甲斐伊豆の海邊、北は信濃越後まで、なべて脱るヽものなかりしよし、その折々に友人の郵書にも聞えたり、だんほう風のはやりしとき、何ものかよみたりけん、
みやこから乘せてくるまのだんほ風ひくものもありおすものもあり
いとをかしきや、例の人の癖なるべし、かヽれば此風は京よりはやり來つるにこそ、この他、寬政 享和中にも有りけんを、さる名を負せざりける歟、いふがひもなく忘れたり、抑、この一條は曩に北峯子のしるしつけたる、風の神の圖説の後につけてもいはまほしかるまヽに、伊豆の千わきのわけなし言もて、科戸の風の神やらひしつ、鋭鎌、八重鎌、刈りはらふごと、 禿( チビ) たが筆を走らせしみそぎやのやく體もなき、只是嗚呼のすさみになん、
○按ズルニ、古ク疫病ト稱スルモノヽ中ニハ、流行感冒モ混ジタリ、又次條ノ咳病、傷風、熱氣ナド稱スルモノモ、多クハ感冒ヲ云ヘルナリ、
p.1358 欬嗽 病源論云、欬嗽〈亥走二音、欬字亦作レ咳、 之波不岐( ○○○○) 、〉肺寒則成也、
p.1358 那波本束作レ走、按廣韻、瘶欬瘶、蘇奏切、屬二心母一、走則候切、屬二精母一、雖二其音不一レ同、並在二五十候一、作レ束似レ非レ是、然諸古本皆作レ束、類聚名義抄同、則作レ走者疑係二那波氏校改一、按説文、欬屰氣也、咳小兒笑也、二字不レ同、後人變二欬字欠一從レ口、禮記内則、不二敢噦噫嚏咳欠伸一、莊子漁父篇、幸聞二咳唾之音一、遂混二咳兒字一也、又説文、欶吮也、無二嗽字一、周禮疾醫、冬時有二嗽上氣疾一、蓋借下訓二吮也一之欶字上爲レ之、後從レ口也、故釋文云、嗽本亦作レ欶、集韻同音有二 字一、云レ吮也、依レ訓即欶字變レ欠從レ口者、猶二欬作一レ咳、已借レ欶爲レ嗽、故又以レ 爲レ嗽也、按類聚符宣抄載二天平九年六月太政官符一云、咳 志波不伎、新撰字鏡欬字嗽字、古本喘字、醫心方嗽字咳字並同訓、又之波不岐也美、見【K二源氏物語夕顏卷一、今俗呼二世岐一、〈○中略〉原書咳嗽候、作下咳嗽者肺感二於寒一微者則成中咳嗽上也、釋名、欬刻也、氣奔至出入不二平調一、若レ刻レ物也、曲直瀨本標目作二欬欶一、那波本標目正文皆作二欬嗽一、昌平本正文作二欬 一、按注云、亦作レ 、正文必不【Kレ作レ 、山田本之作【Kレ也、那波本同、似レ是、
p.1358 咳病〈ガイビヤウ〉 咳 〈ガイソウ、咳病名也、〉
p.1358 欬嗽( シハフキ) 〈咳欬同字、嗽瘶同字、〉
p.1358 欬嗽( シハフキ) 咳病( ガイビヤウ) 咳氣( ガイキ/○○) 咳嗽( ガイソウ)
p.1359 風引たるを咳氣といふ事
此わたりの人、ふるくは、風引たることを、 がいき( ○○○) といへりき、宣長がわかヽりしほどまでは、なべていへりし言なるを、今はさいふこと、をさ〳〵きかず、これもふるきこと也、中昔五六百年さきの記録などに、風病をおほく咳氣と志るせり、
p.1359 欬 〈シハフキ、亦作【K二咳欬一、〉咳 【K 咳呻〈已上同〉
p.1359 つねよりもことにきこゆる物
元三の車のおと、鳥の聲、 あかつきの志はぶき( ○○○○○○○○○) 、物のねはさらなり、
p.1359 咳をせくと關東にていふを、關西にてせきをせたぐるといふ、播磨邊にて咳をたぐるといふ、阿波にてはせきをこづくといふ、中國にて咳をこつるといふ、神代卷に、いざなぎの尊たぐりす、金山彦の神となると云々、又東國にて、咳ばらひ、又志やぶきするなどいふは 欬嗽( 志はぶき) のちヾみたる詞にて通稱也、
p.1359 治二 欬嗽( シハブキ) 一方第一
病源論云、欬 者肺感【K二於寒一微者、則成二欬 【K一也、肺主レ氣、合二於皮毛一、耶之初傷、先容二皮毛一、故肺先受レ之、五藏與二六府一爲二表裏一、皆禀二氣於肺一、以二四時一更王、五藏六府皆有二欬 【K一、各以二其時一感二於寒一而受レ病、故欬 形證不レ同、
p.1359 阪南一旅客某者、嘗游學在二于浪華一、通レ刺謁曰、吾嘗有二濕瘡一、百方無レ効、荏苒至レ今、其始也、身疼腰痛四肢不仁、状類二于癱瘓一、不レ能二危坐一、唯趺跏如レ僧、以得二安息一、今又加二咳一證一、其咳不レ輕、依レ之晝夜不レ能二安臥一、醫以爲二勞瘵一、束レ手不レ療、故來請二診治一、先生診レ之曰、此 血咳( ○○) 也、非二勞瘵一也、乃與二桂枝加朮附湯一、服レ湯得レ瘳、其人謝曰、吾嚮委二庸醫一、殆將レ不レ救レ死、幸有二先生一得レ免レ入二于鬼録一矣、
p.1359 痰咳( ○○) の妙藥
痰咳強して、療禱術盡たるに、柊、南天、葉紫蘇葉の陰干を當分に合せ煎じ、湯茶のごとく頻に用れば必驗あり、或は天瓜の實を多く煎じつめて、ねり藥のやうになりたるを頻に用るもよし、されど初一年は奇効あり、次の年はさまでにあらず、三年目にはいと効うすし、四年目に至ては更に能なし、ヘチマの水を煎じつめて用るも、亦右のごとく、自然に効薄くなりて詮なし、唯柊、南天、紫蘇の三種の葉の陰干の煎湯に及ものなし、
p.1360 貞觀五年正月二十七日庚寅、賑二給京師飢病尤甚者一、自二去冬末一至二于是月一、京城及畿内畿外、多患二 咳逆一( ○○) 、死者甚衆矣、
p.1360 貞觀七年四月五日乙卯、是日内裏并諸司、綱所延二名僧一人一、受二十善戒一、讀二般若心經一、僧俗所レ讀經卷數、各別録奉レ進、去年天下患二 咳逆病一( ○○○) 、今年内外疫氣有レ萌、故轉レ經攘レ之、
p.1360 貞觀十四年正月廿日辛卯、是日、京邑 咳逆病( ○○○) 発、死亡者衆、人間言、渤海客來、異土毒氣之令レ然焉、是日大二祓於建禮門一、以厭レ之、 三月七日丁丑、太政大臣〈○良房〉患二 咳逆一( ○○) 、去二月十五日、出レ自二禁中直廬一、在二私第一、是日賚二錢五十萬一、以充二祈禱之費一、
p.1360 或所膳部見二善雄伴大納言靈一語第十一
今昔、 ノ比天下ニ 咳病( ○○) 盛リニ発テ、不レ病ヌ人无ク、上中下ノ人病臥タル比有ケリ、其レニ或ル所ニ膳部シケル男、家内ノ事共皆ナシ畢テケレバ、亥ノ時許ニ人皆靜マリテ後、家ヘ出ケルニ、門ニ赤キ表ノ衣ヲ著、冠シタル人ノ極ク氣高ク怖シ氣ナル指合タリ、見ルニ人ノ體ノ氣高ケレバ、誰トハ不レ知ネドモ、下臈ニハ非ザメリト思テ突居ルニ、此ノ人ノ云ク、汝ヂ我レヲバ知タリヤト、膳部不二知奉一ズト答フレバ、此ノ人亦云ク、我レハ此レ古ヘ此ノ國ニ有リシ、大納言伴ノ善雄ト云シ人也、伊豆ノ國ニ被二配流一テ早ク死ニキ、其レガ行疫流行神ト成テ有ル也、我レハ心ヨリ外ニ公ノ御爲ニ犯ヲ成シテ、重キ罪ヲ蒙レリキト云ヘドモ、公ニ仕ヘテ有シ間、我ガ國ノ恩多カリキ、此 レニ依テ今年天下ニ疾疫発テ、國々ノ人皆可二病死一カリツルヲ、我レ咳病ニ申行ツル也、然レバ世ニ咳病隟元キ也、我レ其ノ事ヲ云聞カセムトテ此ニ立タリツル也、汝ヂ不レ可レ怖ズト云テ、掻消ツ樣ニ失ニケリ、膳部此レヲ聞テ、恐々家ニ返テ語リ傳ヘタル也、其ノ後ヨリナム伴大納言ハ、行疫流行神ニテ有ケリトハ人知ケル、但シ世ニ人多カレドモ、何デ此ノ膳部ニシモ此ノ事ヲ告ケム、其モ樣コソハ有ラメ、此ナム語リ傳ヘタルトヤ、
p.1361 今の帝〈○後一條〉東宮さしつヾきむまれさせ給へりしかば、よをおぼしくづをれて、月ごろ御病もつかせ給ひて、寬弘七年正月廿九日うせさせ給へにしぞかし、御歳三十七とぞ承りし、かぎりの御病とても、いたうくるしがり給ふ事もなかりけり、 御しはぶき病( ○○○○○○) にやなどぞおぼしけるほどに、おもり給ひければ、修法せんとて僧めせど參もなきに、いかヾはせんとて、道雅の君を使にて、入道殿に申給ひにけり、
p.1361 神事なる比は、いとふびんなることヽ思ふ給へ、かしこまりてえまいらぬなり、此曉より しはぶきやみ( ○○○○○○) にや侍らん、かしらいといたくてくるしく侍れば、いとむらいにて聞ゆることなどのたまふ、
p.1361 寬仁二年十二月四日壬辰、自二去二日一心神不レ宜、夜不レ寝、吉平占云、 咳病( ○○) 餘氣之上 風病( ○○) 發動者、
p.1361 久安六年十月廿六日戊辰、近日、咳病蜂起、貴賤上下、敢無二免者一、老者多以夭亡、民庶粗死亡、近年以來第一咳疫也、
p.1361 久安六年十一月廿八日庚子、於二法勝寺一被レ行二如法仁王會一、上卿權大納言公敎卿、權中納言藤忠雅、參議同經宗朝臣、源雅通朝臣等參仕、右中辨光賴、右少史伴爲尚等、行二左方布施事一、右少辨藤資長、左少史淸原宗景等、行二右方布施事一、被レ祈二禱天下 咳疫( ○○) 事一也、今日一院無二御幸一、依二御咳一也、凡近日上下諸人莫一不レ嬰二此病一之者上、禁中及院中巳以無レ人云々、
p.1362 天養元年十一月廿一日戊辰、雨下、臨レ暮晴、光房來云、今上御時、節會未二出御一、依二幼少一也、今度初可二出御一、〈御歳六歳〉左大臣稱レ疾在二仁和寺一、必可レ參者、封曰、夜間所惱得レ減、但 鼻塞聲枯( ○○○○) 、内辨可レ招レ嘲、且又先例參入之人、猶依二 咳病一( ○○) 、免二内辨一退出、 二年十月廿日壬辰、自二今朝一 咳病( ○○) 、有二 温氣一( ○○) 、寝食背レ常、
p.1362 貞永二年〈○天福元年〉二月十七日壬辰、近日 咳病( ○○) 、世俗稱二 夷病( ○○) 一、去比夷狄入京、萬人翫見云々、是極不吉徴也、
p.1362 寬元二年四月廿六日丙申、今度被レ行二四角四堺鬼氣祭一、是近日 咳病温氣( ○○○○) 流布、貴賤上下無レ免之間、將軍并公逹以下御祈禱也、兩君有二此御患一云々、若君于レ今無二御平減一云々、
p.1362 康永四年九月十九日
天下依レ( 病事御祈事) 有二病事一被レ行二御祈一例文永元年七月上旬以來 咳病( ○○) 流布同月廿日、於二内裏一被レ始二行五大虚空藏金輪法一、依二病事井彗星御祈一也、
p.1362 天文四年、難義ナル咳病ハヤリテ皆死申候、
p.1362 一此間、天下庶人、三日疾の咳流布す、今時も一兩日人の病事有、 三日疾( ○○○) といふべきかも、寶永四年の冬、富士山焼し比、三四日の 咳病( ○○) を煩しもの天下に多かりし、
p.1362 傷風( シヤウフウ/○○) 要訣ニ云、傷風、傷寒、俗ニ呼テ 傷寒( ○○) トス、陰陽ノ二氣皆ヨク臟腑ヲ犯ス、故ニ陽氣太陽ヲ犯ストキハ傷風トナル、風ヲ惡テ汗アリ、陰氣太陽ヲ犯ストキハ傷寒トナル、寒ヲ惡テ汗ナシト也、
p.1362 傷寒( シヤウカン)
p.1362 傷寒證候第二十三
病源論云、經云、春氣温和、夏氣暑熱、秋氣淸凉、冬氣氷寒、此則四時正氣之序、冬時嚴寒、万類深藏、君子 固密、則不レ傷二於寒一、夫觸冒者、乃爲レ傷二於四時之氣一皆能爲レ病、而以二傷寒毒一者以三其最爲二殺厲之氣一焉、即病者爲二腹寒一不二即病一者、其寒毒藏二肌骨中一、至レ春變爲二温病一、夏變爲二暑病一、暑病者熱重二於温一也、是以辛苦人、春夏必有二温病一者、皆由二其冬時觸冒之所一レ致、非二時行之氣一也、其時行者、是春時應レ温而返寒、夏時應レ熱而返冷、秋時應レ凉而返熱、冬時應レ寒而返温、非二其時一而有二其氣一、是以一歳之中病無二長少一多相似者、此則時行之氣也、
葛氏方云、 傷寒( ○○) 、 時行( ○○) 、 温疫( ○○) 、 雖レ有二三名一( ○○○○) 、 同一種耳( ○○○○) 、而源本二小異一、其冬月傷二於暴寒一、或疾行力作、汗出得二風冷一、至二春夏一發、名爲二傷寒一、其冬月不二甚寒一、多二暖氣及西南風一、使二人骨節緩隨受一レ耶、至レ春發、名爲二時行一、其年歳月中有二厲氣一、兼挾二鬼毒一相注、名爲二温疫一、如レ此診候並相似、又貴勝雅言、揔名二傷寒一、世俗同號二時行一、道術符初言二五温一、亦復以レ此致二大歸一、終是共途也、
p.1363 傷寒
近時ノ俗( ○○○○) ノ傷寒ト云ハ、多ハ瘟疫ノ病( ○○○○) 、 時行ノ熱病ヲ指テ傷寒ト云ナリ( ○○○○○○○○○○○○○○) 、此症初發ノ時ハ、多ハ感冒ノ治療ニ同ジ、熱甚シク惡寒シ、頭痛裂ガ如ク、腰脊強痛スル者ニハ、九味羗活湯ヲ用ベシ、茈胡蒼朮ヲ加テ其効如レ神、十神湯ヲ用モ可ナリ、
p.1363 傷寒
又寒ニ中リテ即チ不レ病、春ニ至テ變ジテ温病トナリ、夏ニ至リテ變ジテ熱病トナルトアレドモ、然レドモ風寒ノヤブル所、最輕キモノヲ感冒トシ、〈引風ナリ〉重キヲ傷寒トス、感冒ノ一證ハ至テ輕キモノニテサヘ、頭痛身痛、四支抅急、鼻塞聲重、痰嗽喘急、惡寒發熱シテ病ム、人身邪氣ヲ隠シテ容ベキ所ナシ、況ヤ冬時嚴寒ニ傷ラルヽハ輕キ事ニアラズ、夫レガ反テ藏伏シテ時ヲ過テ發センヤ、
p.1363 傷寒
和漢一般ニ、歳暮年頭ヨリ五節句ニ至マデノ儀式ハ、皆疫ヲ除クノ事也、叢桂偶記ニ詳ニセリ、返 ス返スモ仲景何ゾ其多キ疫ヲ置テ、少キ傷寒ヲ以テ論ヲ著センヤ、肘后方曰、傷寒、時行、温疫、三名同一種耳、而源本小異、又貴勝雅言總名二傷寒一、世俗因號爲二時行一ト見ユ、又小品方ニ、傷寒是雅士之辭、云二天下瘟疫一、是田間之號耳、又張果醫説、古今病名不レ同、篇曰、古人經方多雅奥、以レ痢爲二滯下一、以レ蹷爲二脚氣一、以レ淋爲レ癃、以レ實爲レ秘、以二天行一爲二傷寒一、此言可三以發二千載聾瞶一也トアレドモ、疫ト云モノ正名ニク、其ノ外ノ名ハ醫家ニテ名付タル也、如何ドナレバ正史ニ疫ト記ス、是ハ國政ニ過失アレバ、天地ノ氣候其ノ正ヲ不レ得シテ、人民疫疾ヲ患ルニ至ル、人君ヲシテ其ノ過ヲ改メシメンガ爲ニ、史官正ク記スルノ故ニ疫ヲ正名トス、疫ノ字義ハ其ノ流行スルニアマネク、戸々ニ病テ徭役ニアタルガ如クナル故ニ、殳ニ从テ疫トハ云也トミヘタリ、是乃傳染ノ病也、
p.1364 吉川元春石州發向事
晴久〈○尼子〉此由ヲ聞給テ、雲、石、作、并ニ伯耆、備後ハ半國ノ勢、一萬五千餘騎ヲ帥テ發向セントシ給ヒ、先陣ノ本庄、牛尾、湯ナドハ、已ニ赤穴ニ著陣シケレバ、小笠原大ニ競、頓テ元春ヲ追立ント、勇訇リケル所ニ、晴久俄ニ 傷寒( ○○) ヲ煩ヒ、前後不覺也ケル故、醫療ノ術ヲ盡サレテ、石州發向ナドハ噂スル者モナカリケリ、
p.1364 傷寒
天正十七年四月
一八條殿、〈六宮御年八歳式部卿親王〉感冒發熱、初通仙〈瑞策〉驢菴〈瑞慶〉父子療養未レ効、竹田定如法印治レ之時、發班出而熱尚甚、時盛芳院〈淨慶〉牧奄兩人談合シテ御葯進上、早朝ニ御藥進上、晡時惡寒、身冷脈絶、鼻氣冷、時諸醫技已盡、民部卿法印命レ予、病證次第分別、無二用捨一可レ申ト、予曰、見二傷寒四逆之證一也、但寒毒甚カラズ藥毒甚キ故也、四逆湯ヲ可レ用、諸醫可レ然ト申、予藥箱ヲ携ヘテ、竹田驢菴祐乘上池ニ見セテ、民部法印御撿使ニテ、醫林集要ノ四卷ヲ披テ、茯苓四逆湯ヲ可レ與ト申、一人モ無用ト 被レ存候者即可レ被レ申候ト、口ヲ堅メテ調合ス、民部法印自煎シテ與レ之、一服ニシテ御脈微顯、二服ニシテ脈全調二神氣一而四肢温、翌日平安、其後御養生藥進上シテ、十餘日ニシテ本復、于レ時關白大相公秀吉公、御感之餘御馬被レ下、
p.1365 傷寒
一傷寒、寒熱頭痛汗出、四肢節疼、脈弦數、九文ニ加二可刑己芍一、寒熱痛同前、四物ニ加二沒桃膽己杜一、七貼ニ而痛止、
p.1365 者( ヤツレモノ) 〈熱病〉
p.1365 熱病諸候 熱病候
熱病者、傷寒之類也、冬傷二於寒一、至レ春變爲二温病一、夏變爲二暑病一、暑病者、熱重二於温一也、肝熱病者、小便先黄、腹痛多、臥身熱、熱爭則狂言、及二驚脇満痛一、手足躁不二安臥一、庚辛甚、甲乙大汗、氣逆則庚辛死、心熱病者先不レ樂、數日乃熱、熱爭則卒心痛、煩冤善嘔、頭痛面赤無レ汗、至二壬癸一甚、丙丁大汗、氣逆則壬癸死、脾熱病者、先頭重頰痛、煩心欲レ嘔身熱、熱爭則腰痛腹満泄、兩頷痛、甲乙甚、戊巳大汗、氣逆則甲乙死、肺熱病者、先浙然起二毛惡風一、舌上黄身熱、熱爭則喘咳、痺走胷應レ背、不レ得二大息一、頭重不レ堪、汗出而寒、丙丁甚、庚辛大汗、氣逆則丙丁死、〈○下略〉
p.1365 熱病( ネツビヤウ) 傷寒ノ類也、冬寒ニヤブラレテ春ニ至テ變ジテ温トナリ、夏ニ至テ變ジテ熱病トナル、冬寒ニ傷レ其マヽワヅラフヲ傷寒ト云リ、其時行一般ナルモノヲ瘟疫ト云リ、熱病ハ傷寒温病ヨリモ重シト云リ、又暑病トモ云リ、
p.1365 貞觀十八年十一月廿九日壬寅、是日天皇譲二位於皇太子一、〈○陽成〉勅二右大臣從二位兼行左近衞大將藤原朝臣基經一、保二輔幼主一、攝二行天子之政一、如二忠仁公故事一、詔曰、〈○中略〉朕以二薄德一〈天〉天日嗣〈乎〉忝〈之〉賜〈倍利〉、日夜無レ間〈久〉愼畏〈利〉御坐〈須〉、而君臨漸久〈久〉年月改隨〈爾〉、 熱病( ○○) 頻發〈利〉御體疲弱〈之天〉不レ堪レ聽二 朝政一、
p.1366 入道〈○平淸盛〉得レ病附平家可レ亡夢事
二十八日〈○治承五年二月〉ニ、入道重病ヲ受給タリトテ、六波羅京中物騒シ、馬車馳違、僧モ俗モ往還種々ノ祈禱ヲ被レ始、家々ノ醫師藥ヲ勸メケレ共、病付給ケル日ヨリシテ、湯水ヲダニモ喉ヘモ入給ハズ、 身ノ中ノ燃焦ケル事ハ( ○○○○○○○○○○) 、 火ニ入ガ如シ( ○○○○○○) 、臥給ヘル二三間ヘハ人近付ヨル事ナシ、餘ニアツク難レ堪カリケレバ也、叫ビ給ヒケル言トテハ、只アタ〳〵ト許也、此聲門外マデ響テヲビタヾシ、直事トモ不レ覺、貴モ賤モアハシツルゾヤサ見ツル事ヨ〳〵トゾ申ケル、今度モシ存命アラバ、如何ニ本意ナカリナント云者モ、内々ハ有ケルトカヤ、
○按ズルニ、淸盛ノ病ハ其何タルヲ詳ニセザレド、姑ク此ニ收ム、
p.1366 一主計頭ハ至二肥後國熊本一歸城、從二船中一、 熱病( ○○) をうれひ、煩はしく有けれども、家中之大小身共ニ振舞、かぶきを興行し、一興を催し、何れも侍共聞候へ、今度秀賴公家康公御對面之儀を調、天下に名をあげ歸國し、能始終を勤し、某今病相究命之終此時也、十は十一可二相果一、虎藤丸を守立べしとあれば、何れも及二悲歎一、病氣次第々々に重く成り、六月廿三日には、はや身もこがれくろくなられける、家老之者ども召寄、唯今病死す、
p.1366 天保七年夏四月ヨリ日ニ雨降リ、或ハ天陰晴レズ、五月ニ至リ霖雨止時ナシ、菜蔬生ゼズ、七月十八日及八月朔日大風雨屋宇ヲ傷リ、草木ヲ倒シ、山川涌溢シテ民ノ愁苦少ナカラズ、其秋遂ニ不登ニテ、五穀及菜蔬價貴ク、翌八年丁酉ニ至リ、米價沸騰百錢ヲ以、米二合五勺ヲ得、銀拾五錢ヲ以、酒一升ヲ沽ニ至、因テ道路餓莩多シ、幕府佐久間街ニ貧院ヲ設ケ、普ク窮民ヲ救フ、其員凡貳萬餘人ト云、尚縣令三名ニ命ジ、品川、板橋、千住、内藤新宿四驛ニ於テ、貧民ヲ救育セシム、翌春三月ヨリ 貧民熱病行ハレ( ○○○○○○○) 、四方ニ傳播ス、其人壤證多ク、胃實ニ屬スル者絶テ少也、世醫以二穀食一 不足ノ徴トス、其時病人大抵大小柴胡ヨリ導赤各半、升陽散火、參胡芍藥、參胡參白等ノ如キ錯雜ノ症ニ至リ、其甚ダ脱症ニナリテハ、增損理中〈結胸ノ脱症ニ用ユ〉眞武、茯苓、四逆、附子、粳米〈噦逆甚者チ沿ス〉ノ類ニテ救治ヲ得タリ、又參附ヲ與フル後、餘熱煩渇ヲ生ジ、竹葉石羔湯ニテ全治シタルモノ間有レ之、
○按ズルニ、流行熱病ノ事ハ疫病條ニモアリ、
p.1367 熱氣( ネツキ)
p.1367 長和五年四月廿九日壬寅、攝政〈○藤原道長〉温體卒倒、恙氣不レ輕、卿相密語云、可レ被レ愼歟、 卅日癸卯、從二午刻許一 身熱( ○○) 、心神不レ宜、所レ疑若 是風氣之所レ致歟( ○○○○○○○) 、資平來、依レ忌二穢氣一猶不二著座一、通夜大惱、臨レ曉頗宜、
五月十一日甲寅、攝政坐二佛前一、請僧等參二入堂一、攝政命云、從二去三月一、頻飮二漿水一、就レ中近日晝夜多飮、口乾無レ力、但食不レ減、例醫師等云、 熱氣( ○○) 歟、老雖レ不レ服二丹藥一、年來豆汁大豆煎蘇密煎呵梨勒丸等不レ料服レ之、此驗歟、仍服二冷物一、風未レ發、從二今日一服藥、於二客亭一一度飮レ之、兩三度入二簾内一、若飮レ水給歟、命云、今日飮レ水多減、然而太無レ力也、不二讀經念誦一、熱發者、不レ可レ無レ力、而顏色憔悴、身又如レ此、若猶極病歟者、伺二氣力一、容顏頗疲、恙氣掲焉、依二御口乾一持二杏二果一時々嘗レ之、又命云、服二豆汁葛根等一服二柿汁一、定延法師云、柿者熱物不レ可レ服者、仍不レ服、此間被レ談二雜事一、不レ能二具記一、
寬仁二年閏四月十九日辛亥、巳刻許歸來云、乍レ立參入〈穢今日許〉相二逢新中納言一、〈能信〉御病體似二 熱氣一( ○○) 、飮食不二受給一、夜部 邪氣( ○○) 託レ人不レ稱レ名、氣色似二故二條相府靈一、〈道兼〉御修法從二七夜一被レ始二四壇一、
p.1367 康治二年六月廿八日癸丑、女房有二 温氣一( ○○) 、
p.1367 皰瘡 唐韻云、皰、〈防敎反〉面瘡也、類聚國史云、仁壽二年皰瘡流行人民疫死、〈皰瘡、此間云 裳瘡( ○○) 、〉
p.1367 醫心方皰亦訓二爾岐美一、〈○中略〉按廣韻、皰面生レ氣也、又云、靤面瘡、並防敎切、二字似レ不レ同、然説文、皰面生レ氣也無二靤字一、其實靤即皰之俗字耳、又按訓二面瘡一者、謂二面獨生一レ瘡、非二毛加佐一也、〈○中〉〈略〉原書災異部云、仁壽三年二月、京師及畿外、多患二皰瘡一、死者甚多、文德實録所レ載同、此所レ引、其文頗 異、恐源君所二櫽括一、二年當レ作二三年一、蓋傳寫之誤、按肘後方、有下治二時行皰瘡一方上、病源候論時氣皰瘡候云、夫表虚裏實、熱毒内盛、則多發二皰瘡一、重者周二匝遍身一、其状如二火瘡一、若根赤頭白者毒輕、若色紫黒則毒重、其瘡形如二 豆一、亦名二 豆瘡一、又有二傷寒 豆瘡、熱病皰瘡、疫癘皰瘡一、其候略同、其云レ發二皰瘡一者、謂三先發二面瘡一、非丙謂下周二匝遍身一發者上爲乙皰瘡甲後轉謂レ周二匝遍身一亦爲二皰瘡一也、按續日本紀天平七年、自レ夏至レ冬、天下患二豌豆瘡一、俗曰二裳瘡一、九年春、疫瘡大發、延暦九年秋冬、京畿男女、年三十以下者悉發二碗豆瘡一、俗云二裳瘡一、源君不レ引レ之、擧二仁壽三年紀一者、延暦以前皆謂二之豌豆瘡或疫瘡一、未レ有二皰瘡之名一、至二源君之時一、世謂二之皰瘡一、而豌豆瘡之名廢、故不レ引二天平延暦紀一、引二仁壽紀一也、日本紀略延喜十五年、天暦元年、天延二年、寬仁四年、正暦四年條、皆云二皰瘡一、不レ云二豌豆瘡一、知源君之時、豌豆瘡之名廢也、山田本、昌平本、此間作二世間一、昌平本毛加佐作二裳瘡一、那波本同、與二續日本紀一合、按、毛加佐、蓋齋瘡之省也、患二是瘡一者、飮食外多二禁忌一如二齋居人一、故謂爲二齋瘡一、今俗猶謂二痘痕一爲二伊毛一、然則裳亦假借字、非レ有二意義一也、
p.1368 疱〈歩孝反、モカサ、〉V 同
p.1368 皰〈モカサ〉 〈俗〉
p.1368 皰瘡〈 イモカサ( ○○○○) モカサ}V 同
p.1368 皰瘡〈モカサ、亦作レ靤〉
p.1368 もがさ
痘をいふ、續日本紀に、豌豆瘡俗曰二裳瘡一と見えたり、今ノ疱瘡也と見ゆ、垸豆瘡も同じ、一村流行する、裳を曳下るが如し、よて名くるよし、大同類聚方に見えぬ、一説に痘家古へ戸を閉て出ず、父母の喪に居が如し、よてもがさといふともいへり、又いもがさの略、今もいもと稱せり、忌の義、痘家もはら忌事多きをもてなり、東國にてもつかひともいへり、按ずるに、西土は魏朝に發り、我邦は神龜年中に始る、すべて其躬に生ずるの病に非ず、邪崇に抵觸し穢氣に侵され、此病をうくるなり、西土にも痘翁痘使の名あり、疱神は疫鬼の如し、類聚國史にも、仁壽二年皰瘡流行人民疫死と見えたり、出羽の方言に、痘を 疫( ヤク/○) といひ疹を 小疫( コヤク/○○) ともいふよし、無神の論を著すものあり、无稽とい ふべし、主上御皰瘡の時は、山王の猿も必ず痘を病は一奇事也、後光明院崩御の時、坂本の猿かろき皰瘡したり、新帝御醫藥の時、山王の猿もがさ煩ひける、被なんど調せさせて賜ふ、ほどなく猿は死けり、帝は復本あらせたまふ、古書に此事見えず、長崎人は出痘の時を 赤うで( ○○○) といひ、貫膿の時を 白うで( ○○○) といふ、痘の乾くを 畠毛物( ○○○) といひ、やヽ濕るを 田津物( ○○○) といふも、芋といふに据也、琉球山南の人は痘疹を患へず、我邦八丈島の如し、
p.1369 裳瘡
續紀に、天平七年、自レ夏至レ冬、天下患二豌豆瘡一、〈俗曰二裳瘡一〉夭死者多、これ皇國にて裳瘡のはじめか、されどここの記しざまは、はじめてとも聞えざるがごとし、また延暦九年にも、是年秋冬京畿男女年三十巳下者、悉發二垸豆瘡一、〈俗云二裳瘡一〉臥レ疾者多、其甚者死、天下諸國往々而在と見ゆ、垸字は豌を誤れるなるべし、此瘡の名、これより後の書には、皰瘡といへり、皰、疱同じことなり、今の世にも、はうさうといふ、又いもといふ、されば昔もがさといへるは、いもがさの省きか、
p.1369 痘痕( みつちや/○○) 豆瘡、碗豆瘡、疱瘡、皰瘡、和名 裳瘡( モカサ) 、 芋瘡( イミカサ) 訓上略乎、
按、痘根、俗稱二 滅茶一( ミツチヤ) 、一名徧婆レ、〈名義未知二其據一痘愈後痕微窪也、
p.1369 大御室性信、〈○中略〉延久四年秋、東宮〈○白河〉有二御疱瘡事一、 玉顏之上有二其痕一( ○○○○○○○) 、依二令旨一於二本房一修二藥師法一、修中有二御夢想一、有二一高僧一、衣裳染レ香云、自二仁和寺藥師法壇場一來、以二香水一灑二御面一、夢覺之後其痕如レ拭、
p.1369 あばた( ○○○) といふ瘡痕の名〈附 いも( ○○) といふ名義}
世俗の里言に、皰瘡の痕の治りあへぬを、あばたといふは、梵語よりや出けむ、無下に近ごろいひいでためれど、ふと浮屠氏などの呼そめたりしが、普く世間に弘まれるにもあるべし、かく思ひとらるヽ由は、翻譯名義鈔卷ノ二地獄篇に、八寒冰地獄の名を明したる中に、一を 頞浮陁( アブタ) 〈又頞部陀ともあり〉 と名づくと有て、註に、倶舍云レ疱、寒觸二身分一、皆悉生レ皰とある、アブタをアバタと呼ならへるにぞ有べき、〈法苑珠林卷十一地獄部には、何因何縁名二頞浮陀地獄一耶、此諸衆生、所有身形、猶如二泡沫一、是故名爲二頞浮陀地獄一、頞烏割切と見えて、こは異説なり、〉又この痕をいもとも呼ぶは、禁物の省呼なるべし、古來腫物を二禁といふも、相似たる事をおもふべし、但和訓栞にもがさ痘をいふ、續日本紀に、豌豆瘡俗曰二裳瘡一と見えたり、今疱瘡也と見ゆ、垸豆瘡も同じ、一村流行する裳を曳下るが如し、よて名づくるよし、大同類聚方にみえぬ、一説に痘家古へ戸を閉て出ず、父母の喪に居るが如し、よてもがさと云ふともいへり、又いもがさの略、今もいもと稱せり、忌の義、痘家もはら忌事多くあるをもてなり、東國にて、もつかひともいへり云々、〈以上和訓栞〉と見ゆるも、忌の義といへるは似たる如くなれど、諾ひ難く、もがさは必 面瘡( オモガサ) なるべし、〈 裳( モ) 瘡は、國史にみゆれども、只借字なる事明らかなるを、此字に就て説をたてたるは附會なり喪瘡の説は殊にわろし、〉さるは、倭名抄卷〈ノ〉三〈瘡類〉に、唐韻云、皰〈防敎反〉面瘡也、類聚國史云仁壽二年、皰瘡流行、人民疫死、〈皰瘡、此間云二裳瘡一、〉とある面瘡の字面たしかなるべし、猶同篇に、病源論云、飼画、〈和名加須毛〉面皮上有レ 滓( カス) 是也とあるをもおもひ合すべし、〈又同條に、熱沸瘡、和名阿世毛とあるも同義とすべきか考ふべし、〉かヽれば、もがさは 面瘡( オモガサ) にて、あばたは、それが梵語の訛、いもは禁物の省呼としるべし、
p.1370 松皮( マツカハ/○○) 疱瘡( /○○)
俗に物の膚を松皮にたとへていふ事あり、松皮疱瘡などの類是なり、白氏長慶集二〈廿一丁オ〉有木詩八首の其六に、彩翠色如レ柏、鱗皴皮似レ松とある鱗皴の字をマツカハと訓べし、
p.1370 能解以母耶美( ノゲイモヤミ/○○○○○○) 〈 又( /○) 乃岐似毛( ノキイモ/○○○○) 〉
八田藥 乃紀伊蒙〈乃〉半自女奴久味於曾介豆支( ノギイモノハジメヌクミオソキトキ) 、 加味波支( カミハキ) 〈○支一作レ氣〉 之底( シテ) 、 身以多味( ミイタミ) 、 乃支都紀加由久( ノギツキカユク) 、
保呂世阿可美( ホロセアカミ) 、 不久連寸流母( フクレスルモ) 〈 乃( ノ) 、〉 方( ハウ) 、
訶布止禰( カブトネ) 波自伽美( ハジカミ) 多知乃加波( タチノカワ) 紀太支寸( キタキス) 波万爾雅奈( ハマニガナ) 袁介良( ヲケラ) 倭良比乃伽比( ワラヒノカヒ) 阿万支( アマキ)
能介以門差万之( ノゲイモサマシ) 藥 七八日〈 乃( ノ) } 能智( ノチ) 〈 爾( ニ) }、 奴久美寸流古斗( ヌクミスルコト) 、 耶万差留母乃( ヤマザルモノ) 、 乃世里( ノセリ) 師乃禰( シノネ) 以多智久佐( イタチグサ) 夜万久佐( ヤマクサ) 耶麻非良々岐( ヤマヒラヽギ)
○按ズルニ、神遺方ハ、偽書ノ稱アリ、今博覽ノ爲メ此二一節ヲ擧グ、
p.1371 記二疱瘡事一
吾聞、醫家之言曰、疱瘡即痘疹也、其始末大底有二六候一、其初發熱而瘡出曰二報痘一、其次曰二起脹一、其次曰二貫膿一、其次曰二收靨一、其次曰二落痂一、其次曰二還元一、戊戌十一月十日之夕、春信氣宇不レ平而臥、翌日發熱、至二十四日一而瘡見、所レ謂報痘也、〈俗語曰二足 揃( ソラフ) 〉十六日起脹〈俗語曰二水 盛( モル) 一〉十九日貫膿レ、〈俗語曰揚レ山〉 二十一日收靨、〈俗語曰レ 悴( カセル) 〉二十四日將二落痂〈俗語曰二 痂作( フタツクル) 一〉是日浴二酒湯一、此事雖レ不レ見二中華方書一、「然本朝用レ之既久矣、蓋以下其有レ便二於落痂一而氣宇增レ力而還元之速上乎、又聞醫家之言曰、此病未レ詳二其始起時一、或曰漢張騫到二西域一、始罹二此疫一而流二傳於天下一、或曰、馬援征二交趾一、患二虜瘡一而後施二及於中國一、自二宋錢乙一以來、諸方書無レ不レ載レ乏、無レ不レ論レ之、其藥劑不レ可二枚擧一也、誠是一生之大患、不レ隔一貴賤貧富一、不レ限二男女長幼一、而面貌妍 之所レ定、死生壽夭之所レ分也、病レ之者不レ可レ不レ愼焉、治レ之者不レ可レ不レ盡レ心也、本朝上古不レ聞二此患一、然聖武天皇天平七年紀曰、天下患二豌豆瘡一夭死者多矣、俗曰二裳瘡一、經レ年而不レ止、同九年紀曰、疾瘡大發初レ自二筑紫一來、公卿以下天下没死不レ可二勝計一、所レ謂公卿者左大臣藤武智麻呂、及其三弟參議房前、宇合、麻呂、并中納言多治比縣守等也、或挾二外戚之貴一、振二威於當朝一、或擧二遣唐之撰一、播二名於異域一者不レ能レ免焉、其餘雲客大宅大國小野朝老、百濟郞虞、長田王、橘佐爲等亦物故、其外廷臣同羅二此災一、遂至レ廢二朝務一、百官既如レ此、況於二群國之凡民一乎、其謂二之裳瘡一者、痘形似レ芋、故略二其訓一而言レ之、謂二之豌豆瘡一者、亦是以二其相類一也、今俗謂二之豆一者其義一也、想夫登時此災初起、故病者不レ知レ所二以愼レ之、醫者亦不レ能レ通二其治方一、故死亡者如レ此乎、其後鎌倉柳營遭二此患一、飮レ藥而愈、俊寬僧都之幼子以レ是天亡、然則彼以二貴權一盡二其治術一、此以二窮乏一不レ得二其良藥一者乎、雖レ然非二貴者得レ藥而必生、賤者不レ得レ藥而必死一、縱有二良藥一、其病重而愼不レ足則招レ禍、縦不得レ藥者、其病輕而愼不レ怠則得レ福、班 固所レ謂得二中醫一者是也、近年正保先帝當二太李之時一、踐二九五之位一、而不レ能レ駐二其晏駕一、今歳太上女皇、以二寶算之壯一、而得レ回二姑射之春一、其爲二至尊一雖レ不レ異、然有二幸不幸之不レ同者一、痘有二輕重一乎、藥有二中與二不中一乎、其所レ愼之有三餘與二不足一乎、抑命乎、果天乎、〈○中略〉近世有二一種瘡一、自二肥前國一來傳二於諸國一、人々不レ病レ之者鮮矣猶下痘瘡自二筑紫一瀰中蔓於天下上之謂乎、春信誕育以來、常飮二法印元德藥一、而至二成長一、故此度元德日來治レ之、其子野恂亦毎レ日來診焉、春信亦自能愼焉、侍坐者亦不二敢懈一焉、六候移易無二些滯礙一、而漸及二還元一、平復既在レ近也、 中略 戊戌十一月二十五日〉
p.1372 第一階
初日二日三日、是ヲ序熱ト云、俗ニ云ホトホリ、凡痘瘡ノ患ニカ、ヽル小兒多クハ、先 腹痛( ハライタミ) 、 驚搐( ビクツキチ) 、 吐乳( チアマシ) 、 乾嘔( カラエツキ) 、下利</rb><rt> ハラクダリ</rt></ruby> 等種々ノ事有リ、初メハ風ヲ引タルニ似、熱強キハ甚傷寒ニ類シテ、別レ難キモノ也、是ヲ知ルニハ、腹痛ムカ否ヲ問ベシ、 微( スコシ) 腹痛有アモノハ極メテ痘ノ目當ナリ、〈○中略〉
第二階
四日五日、此時ヲ 見點( ケンテン) ト云、俗ニモノバナ見ユルト云、痘序熱三日スミテ、四日ノ朝、其大熱サメテ、諸症コト〴〵ク去り、能食シテ 口角( クチノワキ) 、 天庭( ヒタイ) 、 福堂( マユノハツレ) ノ邊ニ大小等シカラズ、紅活珠顆ノ如ク、五七粒、或ハ二十粒三十粒見ヘテ、數ヘツベキモノ、ハ大々吉也、〈○中略〉
第三階
五日六日、此時ヲ 出齊( シュツセイ) ト云、俗ニ出ソロイト云、凡痘ハ先面部ヨリ出始リ、後ニ手足腹背ニ及ブ、足ノ裏ニ出終ラバ、出齊ト知ルベシ、揔ジテ出齊モ 起脹( キチヤウ) モ 灌濃( クワンノウ) モ落痂モ皆面部ヨリ始り、手足ハ一日モ二日モ遅キモノナリ、〈○中略〉
第四階
六日七日、此時ヲ起脹ト云、俗二云 山アゲ( ○○○) 也、痘日々成長シテ、豌豆ノ如ク、面部手足トモニ 地腫( ヂハレ) 強 ク、常ノ顏ニ一倍シ、食マス〳〵進ミ、微熱氣ヲ帶ビテ、六七分以上ハ眼 腫塞( ハレフサガ) リ、元氣ナワヤカナル者ハ大吉也、六七日目ヨリ黄茋汁ニ轉ズベシ、〈○中略〉
第五階
七日八日、此時ヲ 行漿( コウシヤウ) ト云、俗ニ水モリト云、痘起脹サヘ十分ナレバ、漿ノ 行( メク) ルコトモ手間イラヌモノナリ、其儘黄茋汁用ヒ居ルベシ、〈○中略〉
第六階
九日十日、此時ヲ 灌濃( クワンノゥ) ト云、俗ニ 膿( ウミ) モリト云、痘ニ 行( メク) リタル 漿( ミヅ) 漸々ニ色變リ、始メハ白ク、後ニハ靑黄色ニ成リ、頭圓ク根紅ニ、食益進ミ、聲淸ク、大便秘シ、眼開カザル者大吉也、黄茋汁ニテ内ヲ張リ居ルコトヨシ、漫リニユルムベカラズ、大切ノ場ナリ、〈○中略〉
第七階
十一日十二日、此時ヲ收靨ト云、又結痂トモ云、俗ニカセルト云、痘ニ 皺( シワ) ヨリ、見ヘキタナクナリ、膿先ヅカヽリタル所ヨリ追々ニ結痂ニヲモムク者順也〈○中略〉
第八階
十三日十四日、此時ヲ落痂ト云、俗ニフタ作ルト云、痘ノ皮黒赤ク、 赤小豆( アヅキ) ノ如クニシテ、堅ク厚ク成リ、段々二落チ、眼始テ開キ、熱氣トント去リ盡シ、大小便常ノ如ク、食益進ム毛ノ大吉ナツ、〈○中略〉
第九階
十五日ニテ、痘ノコトハ終ルナツ、格別輕キ症ハザツト風爐ニ入ルベシ、大ニ元氣ヨクナルモノゾ、少シ重キハ十八日目、天氣晴朗ナルヲ見テ風爐ニ入ルベシ、浴後甚風氣らヲ恐ル、愼ムベシ、表裏トモイマダ實セザル時ナレバ、大二風ヒキ易シ、〈○下略〉
p.1373 喜内住家之段
喜内、何の氣も付かず、同じ屋敷奉公ならば、先君〈○鹽谷判官〉のお傍仕へもさせんず物、お家は沒落、我は長病にて行歩叶はず、忰重太郞、何國に吟ひ居事やら、まだしも老の樂しみは、孫の太市、 疱瘡も山上仕廻たれば( ○○○○○○○○○○) 、 大役濟だ( ○○○○) 、出かしたな、見やれ賢い目元でないか、遉侍の子迚、疱瘡の中でも、浦島やお山人形のぬかつた物は大嫌ひ、公〈ン〉平の人形の顏の赤いは出物の藥、遖功の兵に成兼ぬ利口者と、子ゟも孫に余念なき、ヲヽかはいそふに、したが今年は並がよいげな、よい時美しい事仕やつたの、ほんにマアおりゑる樣、此樣な疱瘡子の有のに、毎晩々々よう日參なさんすのふ、又かいな、そんな事、わしや聞たうないと、ひや〳〵思ふ嫂に言損ひの機嫌取、ドレぼん抱てやりましよか、伯母が著物もあつかじやぞや、サア赤いはよいが、しとのないのにこまつたと、疱瘡の禁句、くろめ兼、ぜひも納戸へ連て入、
p.1374 疱瘡善悪輕重兒相
一顏色至て白小兒は重し
是は血枯る色なり、肉太くとも正血にあらず、脱血也、これは水疱とて出るは安く、本膿結痂むづかしく油斷せば危し、常に消毒の藥を用べし、
一同色黒き小兒重し
是は血死色、疱瘡出兼べし、火疱とて小粒なり、皮ぞこに針をうへし如くにて、熱烈く、甚悪症也、常に解毒すべし、〈○中略〉
一同靑き色の小兒重し
是は血締る色なり、山を上ゲ兼る内へ引形也、危し、常に病有小兒也、驚風虫等の用心すべし、一同赤黒色又重し
黒き色同斷にて是も危し
一同紅黄色は輕し
此二色は血の順よき小兒なり、輕しとしるべし、冬春の比、ほうさき桃のごとく紅なるをいふ疱多く出るとも、命にかヽわらず、都て荷の多少は毒氣に有り、此二色は筋よき疱瘡なり、
p.1375 見點三日間の吉凶の心得之事
見點のみへそめには、表裏の虚實を考へ、うかするてだて、かんじんなり、痘人の性として、風寒にて表をとづるもの有、裏の氣のよわきもの有、此外に毒氣をすかして發するも有、是等詳に、辨べく、よき醫師を賴み、家内の介抱如在なく心得る事肝要なり、吉症と云とも、出浮くまでは大切也、風としたる物にさはられて、至て輕き疱瘡にても、出浮かずして變にあひ、又は折角出浮かけて引込もあり、かせ口より出浮がたきを大事とすべし、痘の始終は、全く發熱の時に辨へしるべし、見點頭面より見へ、手足ともにばらりと出て、その色上へ白く根あかくして瘡に光り有て、手にて探れば、さわる度に熱さつはりと覺め、食事すヽみ、大便小便常の如きは吉痘なり、頭面にあまた出るといへども、粒わかれて、肌の地あざやかなれば氣遣ひなし、もしは蚕の種のごとくなるもの、もしは其色白け、肌の色と同じ、やけどの樣なるもの、出るかと思へば隠れ、かくるヽかと思へば顯るヽもの、發熱一二日にして見點し、又は熱なくして見へて、熱出るものは、至て大切なり、始額よりみゆるを吉とす、頤咽の下より見ゆるは必ず出物多し、兩の頰の痘粒分れて出るは吉症なり、いづれ兩の頰はべつたりとして粒たち分れがたきものなり、兩の頰さへたち出れば、跡より多く出ぬものなり、揔じてよひ疱瘡は、むね、腹にはなきものなり、又頭面に見へずして、手足或は腰尻のあたりより見ゆるものは、逆にしてよろしからず、又此時皮ひとへ内にありて出で浮かざるものは、甚だ六ケ敷、是非に狂躁てむしやうになくものなり、介抱の人、隨分と心を附べし、見點三日を出そろひとす、足に出るを云ふ、輕きは足のうらになくても、三日になれば出揃と すべし、疱瘡の三關にて、先二度の關所有て、出浮揃ふを上の關と云、膿水持てかせかヽるを後の關といふ、出でうきかぬるは五日六日の上の關を越へがたし、後の關は十日十一日にあり、乍レ去生れ子の一年にみたぬは、十五日の期を待ずして早くかせるゆへ、其痘の重きものは、八日九日を三四才の十日十一日にあてヽ見るべし、俗に始終を十二日と心得て、神送りするは、疱瘡の吉凶を定むべし、吉痘は是より藥用ゆべからず、又輕といへども餘病を狹むものは、其儘になし置べからず、良醫の指圖を持べきなり、
p.1376 疱瘡血症 或小兒疱瘡發して吐血す、家人大に驚く、衆醫手を束ねて如何ともする事なし、一醫酒を飮ましむ、吐血止む、予が孫三人一度に疱瘡發 衄( ハナヂ) 出づ、何事もなし、又或小兒疱瘡發して吐血す、是も何事もなし、按ずるに、熱に乘じて痘の毒血妄動して上下より溢れ出づるなり、其の本毒血なる故、血いづとも害ある事なし、人の驚き憂ふべき事なる故、是を記す、疑ふ事勿れ、
p.1376 雜話
東羽ノ人、患レ痘者アレバ、生葱ヲ切テ作レ管、鼻孔ニ容レ、面起脹スルトキ、鼻カラスト傳聞ス、又葱ヲ煎服ス痘快發スト、方書中ニ此事ヲ載タリト、影ノ如ニ暗記ス、今再ビ之ヲ閲セントスルニ、何書ナルコトヲ忘却ス、重テ語ラン、
p.1376 蚖虫( くわいちう) をしぼりて、其汁を疱瘡にて、目に星の入たるに用ゆるに、治せずと云事なし、〈予〉屢試みて効を得たり、乍レ併痘後五七十日過ては治せず、はやく入べし、人の臟腑に蛹程のいやしきもの、眼耳鼻手足さへなきむしながら、斯る功は一ツなり、人として無能にして勤めず、世を過すをや、
p.1376 痘瘡之禁忌、有二生人往來者一、醫家未レ解二其義一、按陸游老學庵筆記云、都下買レ婢、謂下未一レ曾入二人家一、 者上、爲二一生人一、喜二其多淳謹一也、此亦謂下疾者未二熟知一之人上也、
p.1377 疱瘡忌レ貝
本朝醫談二編に、類聚符宣抄の、天平九年の太政官符を引て、廿日已後、若欲レ喫二魚宍一、先能煎炙、然後可レ食、但乾鰒堅魚等之類、煎否皆良云々、本文に乾鰒の事あり、世疱瘡に貝類を忌とて、のしあはびを用ひざるは妄なり、痘毒目に入たるに、のしを黒焼にしてさす事、醫療羅合に見えたりとあり、愼言云、のしあはびを忌のみならず、すべての貝つ物を、家の内へいれだにせぬ程にいめり、按ずるに、痘疹傳心録の諸藥性、口訣に、淡菜、味甘鹹、氣微寒、和二肺氣一益二腎氣一、 蛤蜊肉、性冷、煮食潤二五臟一、止二消渇一、開レ胃殊功、 牡蠣、味鹹塞、入二腎經一、消二煩滿一、化二痰凝一、固レ精止レ汗、 石決明、鹹平、入二肝經一、消二障翳一、點二赤膜一、また、外消散、治二陰嚢腫亮一、大黄、牡蠣〈各五錢〉梢硝、〈二錢〉右爲レ末、取二田螺洗淨、以レ水活過一夜、取レ水調二前末一、塗二腫處一即愈、とあるを見ても、貝つ物いまぬを知べし、考ふるに、是は蘇沈良方の、治二痘瘡一無レ瘢の條に、瘡家〈按に、和板伊良子氏千之堂本、及び鮑氏知不足齋本倶に瘡痂に作れり、今程氏六醴齋本に從へり〉、不レ可レ食鶏鴨卵一、食即時盲瞳子如二卵色一、其鷹如レ神、不レ可レ不レ戒也、幻々新書の、瘡疹愛二護面目一門に、熟雞鴨等卵、未レ有二不レ損レ目者一、雖二瘡愈一、宜二數月不一レ食、 痘疹傳心録に、或恣食二諸卵一害レ目など見えて、くひて目しひとなるは、雞鴨等の卵なり、卵をふるくはカヒコといへり、〈日本紀、萬葉集、遊仙窟、和名抄、類聚名義抄、字鏡集、平他字類抄、倭玉篇の卵、又日本靈異記の殼、玉造小町壯衰書の 、類聚名義抄の鷇、伊呂波字類抄、倭玉篇の を皆カヒコとよめり〉、さるを中昔より、かひともいひしかば、後には貝とあやまりたるにや、卵をカヒといひしは、忠見集に、すもりこも出にけるかと見る時はかひなき身さへうらやまれける、又能宣朝臣集に、物申につれなくのみ見ゆる女に、鳥の子をいつヽやるとてすにすめるみをわびつ、も鳥の子をいつかひ有と物をおもはむ、此外、後撰集、拾遉集、輔親卿集蜻蛉日記、空穗物語、大和物語、古今六帖、源氏物語、保憲女集、金葉集、草根集等にあり、竹取物語のつばくらめのこやすがひも、燕卵なりと、河海に史記を引ていへり、近き頃のものには、禰津松鴎軒が鷹記、貞德が油糟等に見えた り、
p.1378 モガサト云病ハ新羅國ヨリオコリタリ、筑紫ノ人ウヲカヒケル船、ハナレテ彼國ニッキテ、ソノ人グツリヤミテキタレリケルトゾ、天平九年官符二、コノ病痢ニナラン時、ニラキヲ煮テ多ククフベシトアリ、後ノ人カクシテシルシアリ、ソレヲ雅忠、熱氣ノホドクヒソメズバ、熱氣サメテ後ナヲイムベシトイヒケリ、サレドクヒテオホクシルシアリトゾ、
p.1378 疱瘡トハモガサ也、順ガ和名ニハ皰瘡ト書ク、是亦疫癘也、本朝ニ疱瘡ヲ病初也、筑紫ノ者、魚ヲ賣リケル船、難風ニ逢テ、新羅國ニ著ク、其人移リ病テ歸リケルガ、次第五畿内ニ及ビ、帝都ニ流布シケル也「其時葱韮ヲ食テ平愈スル者多カリケレバ、明ル九年ノ官府ニ云此病成レ痢時、葱韮ヲ煎ジテ可二多食一云々、其後モ度々葱ヲ食者多ク驗シアリト云ヘリ、但雅忠ガ説ニハ、熱氣ノ間ニ可二食初一、熱醒テ後ハ可レ忌、然共熱醒テ食初ル人モ多ク直リケルト云々、又村上院御宇天暦五年辛亥又京畿ニ大疫アリ、空也上人自カラ八尺ノ十一面ノ像ヲ刻テ、其法ヲ修テ、疫病即止、是今六波羅密寺ノ本尊也、
p.1378 痘瘡
痘瘡諸説、皆云、起二於後漢時一、而原下于馬伏波征二南陽一行卒患二虜瘡一之事上、而後漢書不レ記二此事一、當下以レ出二于肘后方一爲一レ證、肘後之書、雖レ經二後人之手一、猶爲二古書一、〈肘后方曰、比歳有レ時行、仍發レ瘡、頭面及身、須㬰周匝、状如二火瘡一、皆戴二白漿一、隨決隨生、不二即治一、劇者多死、治得レ差後瘡瘢紫黒、彌歳方滅、此悪毒之氣也、人云、永徽四年、此瘡從レ西東流、遍二海中一、煮二葵菜一以二蒜虀一啖レ之郞止、初患、急食レ之少飯下レ菜亦得、以二建武中一、於二南陽一撃レ虜所レ得、仍呼爲二虜瘡一、諸醫參詳作レ治、用レ之有レ効、方取二好蜜一通身上摩、亦可下以レ蜜煎二升麻一數食上レ之、余按、後世升麻葛根湯之所レ祖也〉、本邦痘瘡始二天平七年乙亥時一、醫不レ識二其數法一、公卿多斃二於此病一、醍醐帝、始有二患痘之事一、文德實録曰、仁壽三年二月京師及畿外、多患二皰瘡一、死者甚衆、天平九年及弘仁五年、有二此瘡患一、今年復不レ免二此瘡一、
p.1378 我方痘瘡之患 聖武帝天平七年夏、初自二筑紫一來、大流二天下一、
p.1379 皰瘡事
發年々
天平七年〈始發、然而甚微也、又云。天平九年云々、〉 延暦九年〈自二天平八年一、至二此年一、五十三年、〉 弘仁五年〈自二延暦十年一、至二此年一、廿五年、〉
仁壽三年〈自二弘仁六年一、至二此年一、卅八年、〉 元慶三年〈自二仁壽四年一、至二此年一、廿六年、〉 延喜十五年〈自二元慶四年一、至二此年一、卅六年、〉
天暦元年〈自二延喜十六年一、至二此年一、卅二年、〉 天延二年〈自二天暦二年一、至二此年一、廿七年、〉 正暦四年〈自二天延三年一、至二此年一、十九年、〉
寬仁四年〈自二正暦五年一、至二此年一、廿八年、〉 長元九年〈自二寬仁五年一、至二此年一、十六年、〉
p.1379 天平七年八月丙午、太宰府言、管内諸國、 疫瘡( ○○) 大發、百姓悉臥、今年之間、欲レ停二貢調一、許レ之、閏十一月壬寅、是歳年頗不レ稔、自レ夏至レ冬天下患二 豌豆瘡一( ○○○) 、〈俗曰二 裳瘡一( ○○) 〉夭死者多、 九年四月癸亥、太宰管内諸國、 疾瘡( ○○) 時行、百姓多死、詔奉二幣於部内諸社一、以祈禱焉、又賑二恤貧疫之家一、并給二湯藥一療レ之、六月甲辰朔、廢朝、以二百官官人患一レ疫也。七月丁丑、賑二給大倭、伊豆、若狹三國飢疫百姓一、壬午、賑二給伊賀、駿河、長門三國、疫飢之民一、 十二月丙寅、是年春、疫瘡大發初自二筑紫一來、經レ夏渉レ秋、公卿以下、天下百姓相繼沒死、不レ可二勝計一也、近代以來未二之有一也、
p.1379 按に、 疫瘡( エキサウ) は、 麻疹( アカモガサ) 、 疱瘡( モガサ) 、 水痘( ヤブイモ) などの總名なり、疫は周禮春官占夢の條の注に、疫厲、鬼也、劉煕釋名釋天部に、疫役也、言有レ鬼行レ疫也、説文に、疫民皆疾也、和名抄鬼魅類部に、蔡邕獨斷云、昔顓頊有二三子一、亡去而爲二疫鬼一、其一者居二江水一、是爲二瘧鬼一、和名 衣也美乃加美( エヤミノカミ) 或於爾などみえて、 時行病( ハヤリヤマヒ) の名なり、こヽに疫瘡とあるは赤斑瘡の事をいひしなり、
p.1379 この歌はあめのみかどの御時に、 もがさ( ○○○) といふものおこりて、やみける中にかもうぢなるをんな、ようつの人におとれりけり、さる中に、たヾもがさをなむ、すぐれてやみける、かさのみにもあらず、おほくのやまひをぞしける、からうじてこの歌よりなん、よみがへりける、そのほど冬のはじめ、秋のをはりなりければ、草木もかぜもやう〳〵かれもていく、つ れづれなるまヽに、めづらしきやまひなりとて、このかさのぞやみをかきおければ、やまひさるごとくによくなむ、みんひとゆヽしく、おもひぬべしとて、いさヽかいろにもいださず、〈○中略〉もがさのさかりに、めをさへやみければ、まくらがみに、おもしろきもみぢをひとのおいためりければ、おもひあまりて、
くもりつヽ涙しぐるヽわがめにも猶もみぢばヽあかくみえけり
p.1380 唐可レ學八〈○中略〉
五醫道〈○中略〉
昔者、聖武皇帝天平九年、天下痘疫流行、夏秋之間、參議藤原房前、及麻呂、左大臣武智麻呂、大宰帥宇合並薨、吁嗟哀哉、是時也醫道未レ精、致二此夭札一、愚讀レ史至レ是、未三嘗不二嘆息一矣、唐之醫道不レ可二忽諸一、
p.1380 延暦九年十二月辛酉、是年秋冬、京畿男女年三十已下者、悉發二 豌豆瘡( ○○○) 一、〈俗云二裳瘡一〉臥レ病者多、其甚者死、天下諸國往々而在、
p.1380 仁壽三年二月庚寅、是月京師及畿外多患二皰瘡一、死者甚衆、天平九年及弘仁五年有二此瘡患一、今年復不レ免二此疫一也、 三月壬子、請二名僧百口一、於二大極殿一轉二讀大般若經一、限二三日一訖、攘二災疫一也、 丁巳、以二穀倉院梁鹽一、給下京師患二瘡瘡一者上、 四月庚午、遺下侍從從五位上島江王、神祇大副兼内藏頭從五位上中臣朝臣逸志等、向中伊勢太神宮上、請除二災疫一、 丙戌、詔曰、〈○中略〉朕之不德、撫育乖レ方、憂惕之誡、罔レ知レ所レ濟、月令春夏、下二寬大之令一、頒二德化之政一、以順二天帝一、以救二災變一、有司務修二職任一、欽奉二時訓一、罪疑從レ輕、賞疑從レ重、貴二埋レ胔掩レ骸之仁一、崇二養レ老矜レ孤之德一、其自二今日昧爽一以前、大辟以下、罪無二輕重一、未發覺、已發覺、未結正、已結正、繋囚見徒、咸皆赦除、但八虐、故殺、謀殺、私鑄錢、強竊二盗、常赦所レ不レ免者、不レ在二赦例一、令二天下州郡一、勿レ輸二承和十年以往調庸未進一、優二復百姓一、息二當年傜一十日、其疫病者、長吏親自巡視便給二醫藥一、諸所二振贍一、務令二優速一、庶隱恤之旨、致二感革於上玄一、仁貸之風、蠲二凶札於中壤一、
p.1381 仁壽三年四月以後、疱瘡流行、人民疫死、故停二賀茂祭一、
p.1381 仁壽三年五月庚子、詔二十七箇寺一讀二大般若經一、限二三日一訖、攘二災疫一也、 壬寅、亦詔二太宰府一、於二觀音彌勒兩寺、并四王院、香椎廟、管内國分寺一、讀二大般若經一、 辛亥、詔二美濃國一、出二穀二千一百斛一、給下患二疱瘡一者上、 七月丁未、遣下散位從五位上全世王神祇大副從五位上中臣朝臣逸志、散位從五位下齋部宿禰伴主等、向二伊勢太神宮一、奉レ幣禳中災沴上也、 九月辛丑、詔二太宰府一、出二穀三万八千七百餘石一、賑下給管内患二疱瘡一者上、
p.1381 延喜十五年十月十六日癸卯、巳一點、於二紫宸殿大庭、建禮門、朱雀門等三所一、有二大祓事一、爲レ除二皰瘡一、又依二 仁壽三年( ○○○○) 、 貞觀五年( ○○○○) 例一也、又於二仁壽殿一、 二請智德名僧廿口一、有二御讀經事一戌刻於二建禮門前一、有二鬼氣祭事一、爲下除二皰瘡一、日來主上不豫、民間皰瘡轉發上、 廿六日癸丑、大二赦天下一、大辟以下悉赦除、犯二八虐一云々、常赦所レ不レ免者、不レ在二此限一、又延喜十年以往、調庸未進、在二民身一者咸從二原免一、又復二天下百姓當年半傜一、是依二皰瘡流行之愁一也、
p.1381 延喜十五年秋月、天下疱瘡、都鄙老少無二一免者一、
p.1381 延喜十六年正月一日丙辰、止二朝賀一、依二去年皰瘡之災一也、 廿日、停二内宴一、依二去年皰瘡一也、
p.1381 天暦元年六月、今月以後、皰瘡多發、人庶多殤、有二童謠言一、 八月十四日乙未、日來朱雀院中宮〈○穩子〉太政大臣〈○忠平〉左右大臣家、 二名僧一、或令レ轉二讀大般若經一、或令レ演二説仁王經一、依二皰瘡事一也、是日於二建禮門前一、修二鬼氣祭一、 十五日丙申、爲レ攘二除皰瘡一、於二紫宸殿建禮門朱雀門三箇所一、有二大祓一、去六月間、年卅以下男女煩二小瘡一、今月以後尤熾盛、其瘡爲レ體、或如レ粟、或如レ豆、去延喜十五年有二此瘡一、世俗號曰二皰瘡一云々、 十七日戊戌、請二内印一、是可レ攘二除皰瘡一、諸社奉幣、讀經官符給二五畿七道諸國一也、天皇上皇〈○朱〉〈雀〉共惱二皰瘡一給、 十九日庚子、賑二給各〈○各恐白誤〉米百斛、鹽卅籠於東西京一、是依二皰瘡及赤痢事一也、 九月五日丙辰、大赦、依二皰瘡祈一也、 七日戊午、 二名德僧百口於紫宸綾綺兩殿一、限二三箇日一令レ轉二讀仁王經一、依二 皰瘡之盛一也、
p.1382 天暦二年戊申、有二皰瘡患一、
p.1382 天延二年八月廿八日癸卯、於二紫宸殿前庭建禮門朱雀門一大祓、依二天暦元年八月十五日例一行レ之、是爲レ除二皰瘡災一也、 九月八日癸丑、奉二幣伊勢以下十六社一、依レ拂二皰瘡災一也、
p.1382 天延二年、八九月有二疱瘡患一、
p.1382 天延二年、今年天下有二皰瘡之患一、
p.1382 天延二年、八九月間、有二疱瘡疫一、天下貴賤、夭亡者多矣、
p.1382 ことし〈○天延二年〉はよの中にもがさといふものいできて、よもやまの人、上下やみのの志るに、おほやけわたくし、いといみじきことヽおもへり、やむごとなき男女うせ給ふ、たぐひおほかりときこゆる中にも、前せつしやうどの〈○伊尹〉の前のせう志やう、〈○擧賢〉後せう志やう〈○義孝〉おなじ日うちつヾきうせ給て、はヽきたのかた、あはれにいみじうおぼしなげくことを、よの中のあはれなることのためしには、いひのヽしりたり、
p.1382 正暦四年秋比、天下有二皰瘡疫一、
p.1382 正暦四年、今年皰瘡流行一、
p.1382 正暦四年七月十七日癸卯、中納言藤原顯光卿參入、著二左仗座一、藏人召仰云、雖レ有二今年疱瘡之事一、准天延之例、可レ有二相撲召合並并樂一之由等、召二仰左右近衞府一、 八月十一日丙寅今日定考也、此度停二止宴座一、依二左大臣薨一也、午後内大臣參議藤原安親卿、著二左仗座一、被レ定二臨時仁王會事一、又此日被レ定下依二先例疱瘡一、南殿并建禮朱雀門等前、以二廿一日一可レ被レ行二大祓一事上、 廿一日丙子、中納言源保光卿、參議藤原時光卿、參二著左仗座一、今日未一刻、依二天變并疱瘡等事一、於二紫宸殿并建禮朱雀門三所一、御祓之事、
p.1383 正暦四年八月十一日丙寅、今日詔、大辟以下赦除、常赦所レ不レ免者不レ赦、又免二調庸一、復二半傜一、爲下愼二三合一敗中皰瘡之患上也、 廿一日丙子、紫宸殿建禮門朱雀門大祓、依二天變并皰瘡一也、 廿八日癸未、仁王會、七八月間、有二天台山有兩門徒亂逆一、又有二皰瘡之患一、
p.1383 寬仁四年三月廿一日壬申、近曾以來、上下之道俗男女年七八已下者多病惱、稱二 裳瘡( ○○) 一云々、或間々有二重惱一云々、左大弁五男〈童〉今朝死去云々、
p.1383 寬仁四年三月、此春人民患二疱瘡一、 四月廿二日癸卯、詔、大二赦天下一、大辟以下罪、無二輕重一悉以赦除、但犯二八虐一、故殺、謀殺、私鑄錢、強竊二盜、常赦所レ不レ免者、不レ赦、又免二調庸傜役一、依二皰瘡疾疫事一也〈○中略〉今年自レ春患二皰瘡四月殊甚、
p.1383 はかなくとしもかへりぬ、〈○寬仁四年〉世中いまめかし、ことしはもがさといふ物おこりぬべしとて、つくしのかたにはふるきとしより、やみけりなどいふこときこゆれば、はじめやみけるよりのち、このとしごろになりにければ、はじめやまぬ人のみおほかりける世なれば、おほやけわたくしいとわりなく、おそろしき事におもひさわぎたり、〈○中略〉かくて、このもがさ京にきにたれば、やむ人々おほかり、〈○中略〉世の人たヾいまは、このもがさに事もおぼえぬさまなり、このもがさは、大貳〈○隆家〉の御ともにつくしよりきたるとこそはいふめれ、あさましくさまざまにいみじうわづらひて、なくなるたぐひもおほかり、いみじうあはれなることおほかり、かヽるほどに、故志きぶきやうみや〈○爲平〉のよりさだのさひやうゑのかう、この三月廿よ日にけびいしべつたうかけ給つ、されどこの月ごろ心ちれいにもあらずおはしけるを、いかなるにかと覺しわづらひて、この悦びもいまだ申給はざりけり、ゐん〈○小一條〉のにようご〈○延子〉うせ給にしのち、との〈○顯光〉のいとをしう心ぼそげにおはしければ、このはるほりかはどのにわたり給へれば、おとヾもすこし御けしきよくなりて、めやすかりつるに、かくなやみ給へば、いかに〳〵とおぼ したり、うたてゆヽしきころなれば、ほかへもやなどおぼせど、なほかくてすごし給ほどに、又もがささへねしてなやみ給へば、よもやまのくすしをあつめ、よるひるつくろはせ給へど、むげにあさましうたのみすくなき御ありさまなれば、べつたうじし給つ、くわんばくどのヽうへ〈○賴通妻〉〈隆姫、具平親王女、〉のおほんをぢにおはすれば、よろづにとひきこえ給、ものなどおほくたてまつれさせ給、いみじきことヾもたび〳〵せさせ給ヽへど、いとあべきほどにさへなりぬれば、あはれに心ぼそくおぼさる、六月九日ほうしになり給ぬ、
p.1384 詔、通賢將聖之道、玄德動レ天、堯眉舜目之治、赤心加レ物、朕以二庸昧一、忝繼二洪基一、禁綱彌張、雖レ慕二段朝之一面一、刑鞭無レ措、空慙二周室之多年一、毎レ思二賞罰之不明一、唯懼二咎徴之相示一、頃者、疱瘡作レ災、人庶無レ靜、門戸多連二沈困之枕席一、街巷間抱二夭折之襟懷一、朕之薄德、下民何辜、夫仁山者、禦レ邪之固也、函谷之林慙レ貞、恩波者愈レ病之源也、上池之水讓レ術、宜下施二肆眚之仁恩一、以消中一天之災沴上、今日昧爽以前、大辟以下、已發覺、未發覺、已結正、未結正、罪無二輕重一、悉以救〈○救恐赦誤〉除、但犯二八虐一、故殺、謀殺、私鑄錢、強竊二盜、常赦所レ不レ免者、不レ在二此限一、又寬仁三年以往、調庸未進在二民身一者、咸從二原免一、又復二天下百姓當年半傜一、疾病者、長吏躬親周視、特加二優恤一、令レ得二安存一、布二告遐邇一、明俾二聞知一、主者施行、
寬仁四年四月廿二日
p.1384 万壽二年九月廿八日丁未、自レ夏及レ秋、天下患二皰瘡一、
p.1384 延久四年七月六日、去六月以後疱瘡流行、貴賤不レ免二此厄一、
p.1384 大御室 性信〈○中略〉
延久四〈壬子〉年月日、爲二皇太子〈○白河〉疱瘡御祈一、修二藥師法一、有二効驗一、
p.1384 承保四年八月十六日癸巳、御前御心地同樣御座、後聞、今日公家依二御體不豫并人民皰瘡事等一、被レ行二非常赦一、上卿右衞門督、少内記江通國、作二詔文一、大内記藤敦基、有二故障一不二參仕一替云々、 十七日 甲午、後聞、式部卿敦賢親王、日來惱二疱瘡餘氣一薨逝、年卅九云々、 十九日丙申、後聞、公家依二御體不豫并人民皰瘡等一、被レ奉二幣廿二社一、上卿右衞門督、少内記江通國、作二宣命文一、
p.1385 そのとし もがさ( ○○○) といふことおこりて、ことにわかき人などいみじうやむに、春宮〈○實仁〉おもくわづらはせ給て、應德二年十一月八日にうせさせ給ぬ、あさましくいみじう、ちかくはきこえぬことなりかし、
p.1385 寬治八年〈○嘉保元年〉正月十六日戊子、今夜子時許、陽明門院崩二于鴨院一、〈是依二疱瘡一也、御年八十二、〉廿日壬辰、從二去十一十二月一、及二此正月一、世間有二疱瘡聞一、就レ中近日多二夭命者一云々、十七歳以下、小兒一人不レ殘歟、雖二老者一免二先度一者、復遇二此病一云々、 廿五日丁酉、從二今日一於二祇園寶前一有二公家御祈一、仁王講〈僧三口〉大般若御讀經、〈六口〉是疱瘡御祈也、請僧等、仰二本寺別當定秀一被レ請也、藏人宗佐行事、不レ被レ仰二公卿弁一也、十二月晦日、去年冬天下自疱瘡、引及二此春一、
p.1385 天仁二年四月十日甲申、昨日參院次被レ仰云、もがさの料に、世人賀茂のみたらし河水をあむるよし人申者、仍予〈○忠實〉姫君中將に今日あむす、其儀先例湯をあむして、身をきよめて、次に件湯をあむして、頭をもあらはして、今日許きよまはらせてすへたり、
p.1385 大治元年正月十七日癸未、今日依二疱瘡一被レ行二大赦一、宗光草レ之、
p.1385 康治二年五月六日壬戌、太上皇〈○崇德〉令レ煩二疱瘡一御云々、 十四日庚午、權中納言藤公敎卿參二左仗一、被レ行二非常赦事一、大内記藤令明草二進詔書一、依二天下疱瘡流行事、并臨時御祈一也、御畫日畢、召二中務丞平實重一下二給之一、 十五日辛未、法皇〈○鳥羽〉御逆修結願也、又上皇御二惱疱瘡一之後、御邪氣相加、頗危急云々、廿四日庚辰、自二令夜一主上〈○近衞〉有二御疱瘡事一、 廿五日辛巳、列見也、〈○中略〉無二音樂并插頭事一、依二疱瘡流行一也、 廿七日癸未、主上御疱瘡、未下令レ復二尋常一御上、又待賢門院同令レ煩二疱瘡一給云々、 廿九日乙酉、於二淸凉殿一被レ行二六十口御讀經一、〈大般若〉權大納言藤伊通卿、參二左仗一、定二日時并僧名一、右大弁源俊雅書二定 文一、依二主上御疱瘡一也、 六月廿四日己酉、三品雅仁親王室家夭亡、〈年二十八〉産後煩二疱瘡一之故云々、左相府養爲レ子、所レ配二合親王一也、
p.1386 康治二年五月九日乙丑、北斗拜、〈四月分〉新院〈○崇德〉御疱瘡、〈赤〉温氣由承レ之、 十四日庚午、不二他行一、依二疱瘡、並公家御愼一、有二非常赦一云々、 六月廿四日己酉、雅仁親王夫人薨、産後疱瘡、余哀傷、以二不幸短命一也、
p.1386 安元元年三月五日、主上御疱瘡、近日流二行天下一、被レ行二御祈等一、此日有二奇雲一、天下可レ有二驚事一之由、泰親朝臣申二上之一、
p.1386 安元三年〈○治承元年〉二月廿四日甲子、依二疱瘡天變一被レ立二九社奉幣使一了、伊勢兼康王、中臣能隆、忌部友平、ト部雅樂助兼濟、八幡實綱卿、次官範實、賀茂家通卿、次官懐綱、松尾賴定卿、次官仲賴、平野實宗卿、次官淸定、稻荷淸通朝臣、春日周防守季能朝臣、日吉經家朝臣、祇園顯信朝臣、上卿大納言實房卿、右中弁經房朝臣、
p.1386 治承四年八月廿一日辛丑、早旦歸レ家、自二今旦一大將病惱、及二巳刻一疱瘡出遍レ身云々、仍召二主税頭定長女醫博士經基等一令レ見レ之、共申二疱瘡之由一、〈 俗云ヘナモ( ○○○○○) 云々〉 廿六日丙午、大將疱瘡出調了、温氣散了云々、爲レ悦不レ少、
p.1386 建久三年十二月廿三日辛酉、若公萬壽、此一兩日御不例、今日疱瘡出現給、此事都鄙殊盛、尊卑遍煩云云、
p.1386 承元二年二月三日癸卯、鶴岳宮御神樂如レ例、將軍家〈○源實朝〉依二御疱瘡一無二御出一、前大膳大夫廣元朝臣爲二御使一神拜、 十日庚戌、將軍家御疱瘡、頗令レ惱二心神一給、依レ之近國御家人等群參、 廿九日己巳、將軍家御平愈之間、有二御沐浴一、 三月三日壬申、鶴岳宮一切經會、將軍家依二疱瘡御餘氣一無二御出一、
五年〈○建暦元年〉二月廿二日乙巳、將軍家、御二參鶴岳宮一、朝光役二御劒一、去承元二年巳來、依下令レ憚二御疱瘡之 跡一給上、無二御出一、今日始有二此儀一、
p.1387 安貞元年〈嘉祿三年十月廿日改元、依二疱瘡一也、〉
○今按ズルニ、此ノ時ノ疱瘡、帝王編年記ニハ、赤斑瘡トアリ、
p.1387 嘉禎元年十月廿八日丁巳、自二去夜一主上疱瘡御不豫、凡此事洛湯流布、諸人不レ免云云、十二月十八日丙午、將軍家〈○賴經〉御不例事、御疱瘡有二出現氣一之由、良基朝臣申レ之、今夜又始二行御祈禱等一、及二子刻一平左衞門尉盛綱、爲二武州御使一參二御所一申云、毎日可レ被レ修二御招魂祭一之由云云、仍先七箇夜可二奉仕一之旨、被レ仰二國繼一云云、
p.1387 嘉禎二年正月十七日乙亥、將軍家、依二御庖瘡餘氣一、御股御膝、腫物〈號二押領使一〉廿餘箇處令レ出給、今日女房石山局、召二良基朝臣一、可レ爲二何樣御事一哉之由被二仰合一、不レ可レ有二殊御事一云云、聊奉レ加二療治一、
p.1387 寬元元年五月十九日甲午、奉二幣兩社一〈石、賀〉被レ謝二申行幸延引事一、近日疱瘡滋蔓、小兒等有二此事一云々、
p.1387 康安元年正月十八日、新院〈○崇光〉御惱、爲二御疱瘡一由、醫師和氣廣成朝臣定申、 廿六日、新院御惱増氣、施藥院使篤永朝臣、以二柚針一、奉レ破レ痘間、 内攻( ○○) 云、
p.1387 北朝康安元年〈○南朝正平十六年〉三月廿九日改元、依二疾疫、疱瘡、天災、兵革等一也、
文中三年、自二正月一至二二月一、疱瘡流行、
p.1387 永和三年十月廿一日丙寅、此兩三日、御不豫云々、篤直卿、賴景、兼康、廣成等朝臣、應レ召御疱瘡序分歟之由、篤直申レ之云々、 十一月廿一日丙申、禁裏御疱瘡已御減之間、御湯可レ爲二近日一之由御沙汰、然而日次事、猶不レ決云々、
p.1387 享德元年壬申、此年京洛小兒 イモヤミ( ○○○○) シテ多死、同北陸道癸酉〈翌年〉マデ小兒イモヤミシテ多死、
p.1388 享德三年、天下疱瘡流行、
p.1388 文明三年七月廿一日、主上〈○後土御門〉内々有二御發氣一、大略流風疱瘡歟、
p.1388 大永二年、此年小童 痘( モ) ヲヤム、又 イナスリ( ○○○○) ヲヤム、大概ハツル也、
天文六年、此歳童子共痘ヲ致シ候事限ナシ、 十九年、是春小童ドモ疱ヲヤミ候而、皆々死コト不レ及二言説一、下吉田計ニテ五十人許死申候、餘リノコトニ書付申候、
p.1388 慶長十年十二月十二日、小捨煩由申、 出物( ○○) カト也、 十四日、小捨痘瘡出、爲二見廻一、強飯小瓶遣候、優婆ト沙彌ヲ泊懸ニ遣候、 十五日、小捨彌出物能由申候、
p.1388 慶長十一年正月一日庚午、嫡男鶴光丸、自二昨日一疱瘡、處々令レ見レ形、仍全齊好庵等召遣、令レ胗二脈候一、一藥被レ與、
p.1388 慶長十二丁未、舊冬ヨリ大御所幼息長福主〈○家康子賴宣〉疱瘡煩、長福主疱瘡平愈之間、廿日〈○正〉〈月〉ニ酒湯浴給フ、
p.1388 慶長十二丁未六月五日、夕立ニアラレフル、春夏ホウサウハヤル、揔テ諸病ニ人多死ス
p.1388 慶長十三年二月廿四日、秀賴公疱瘡御沙汰、御祈禱可レ申由、大藏卿局ヨリ文來、昨日日付也、辰刻來了、布施銀子卅枚送給之由也、養源院取次、未刻歟、重而大坂ヨリ銀子持來、辰刻御、撫物ニ左近差遣了、普賢延命護摩、初夜開白、 廿七日、普賢延命護摩、後夜日中兩座相續、天供同兩座、天明時分ニ修畢、大般若轉讀十四口、導師予、銀子三枚爲二布施一遣レ之、札并百座卷數大坂へ進レ之、使大藏卿法橋、 三月十三日、秀賴公御疱瘡驗、今日御湯被レ召之由、仍爲二祈念一大般若轉讀、經衆八口、松橋法印等導師予、御札持進之、
p.1388 慶安三庚寅年十月四日
疱瘡麻疹 藪いも( ○○○) 遠慮之覺
一手前ニ抱置候孫子親類、疱瘡藪いも相煩候ニ付、三度湯かけ候ハヾ御番に出し可レ申候、但屋敷之内を借り罷在候親類縁者、右之煩有レ之時、構を仕切居住候ハヾ不レ苦候、御番に出し可レ申候事、
一自分疱瘡相煩候ハヾ、相見へ候内ゟ七十五日過候ハヾ御番ニ可レ出事、
御目見之者、百日除候事、
一自身疹藪いも相煩候ハヾ、見へ候日ゟ三十五日を過候ハヾ御番ニ出し可レ申事、
御目見之者ハ、七十五日除可レ申候事、
一庖瘡相煩候看病人、見へ候日ゟ五十日御目見不レ仕候ニ付、御供番、右之日數除申候事、
勿論當番之節、御目見不レ仕事、
一疹藪いも相煩候看病人、見へ候日ゟ三十五日御目見不レ仕候ニ付而、御供番之節、御目見不レ仕候
慶安三庚寅年十一月四日
延寶八庚申年
疱瘡疹水痘遠慮之事
一疱瘡病人は、見へ候非ゟ三十五日過候て罷出、御目見可レ仕候、
一看病人は、三番湯掛罷出、御目見可レ仕候、
一病人相果候共、忌明候而罷出、御目見可レ仕候、
一疹病人は三番湯かけ罷出、御目見可レ仕候、
一看病入、右同斷、
一病人相果候ハヾ、疱瘡同前、
一水痘疹同前
右者御側之面々計、外樣之面々者御構無レ之、先日申通候、以上、
十一月廿八日
p.1390 正德四甲午年十一月
覺
一疱瘡麻疹煩候者、死候時者、看病之斷ヲ申立、病人ニ付罷在候者は、病人死候日 廿日過候迄者、御目通〈江〉罷出候儀差扣可レ申候、忌掛候者は、右日數の内ニ、忌明候ハヾ登城いたし、御番をも可二相勤一候、御目通〈江〉は、右之日數過候迄は差扣可レ申事、〈○中略〉
午十一月
右之通可レ被二相心得一候、以上、
p.1390 德廟の時、松平肥後守痘瘡の時、御直の御指圖にて、村上養順被二仰付一、參候節不レ開レ門、依レ之村上乘返す、肥後守樣より詫レ之事、
p.1390 元文五庚申年正月廿九日
板倉佐渡守殿御渡
疱瘡はやり候ニ付、陰陽二血丸可レ被レ下候間、布衣以上御目見以上之者、望之者有レ之候ハヾ、河野仙壽院栗本瑞見方迄相願、拜領可レ仕候、尤勤候者ハ、於二御城一仙壽院瑞見へ申逹候共可レ仕候、
但未疱瘡不レ致子共大勢有レ之、餘計も拜領致し度ものは、子共何人と申儀、兩人方へ申逹可二相願一候、
右之趣、向々〈江〉可レ被二相逹置一候、
正月
延享元甲子年正月廿一日
本多伊豫守殿御渡
疱瘡はやり候ニ付、陰陽二血丸可レ被レ下候間、御目見以上之面々望之者有レ之候ハヾ、元文五申年之通、栗本瑞見方迄相願、拜領可レ仕候、尤出合候者ハ、於二御城一瑞見へ申逹、頂戴致し候共可レ仕候、
〈子〉正月
瑞見方ニ二血丸、願ニ出候節、書付持參候事、
御役名
何之誰
御番名何之誰〈但支配歟〉
何之誰
p.1391 明和八年辛卯春正月
去年冬より庖瘡大ニ流行す、此春わきて甚し、小兒多く死す、
p.1391 文政三辰年二月
寺社奉行〈江〉
右大將樣〈○德川家慶〉被レ遊二御疱瘡一候ニ付、御祈禱料として從二右大將樣一伊勢兩宮〈江〉白銀三十枚宛、内宮〈江〉御供料黄金壹枚、外宮〈江〉大神樂料黄金壹枚被レ遣候、春木大夫、山本大夫〈江〉可レ被二相渡一候、白銀黄金は西丸御納戸に而可レ被二請取一候、御札等差上候儀者、先格之通仕候樣可レ被レ逹候、
二月
文政參辰年十月
寺社奉行〈江〉
楞伽院差僧正
觀理院權僧正
樹 下 日 向
右大將樣御疱瘡御快然被レ遊候爲二御祝儀一、明廿七日御能被二仰付一候間、五ツ時御城〈江〉罷出見物仕候樣可レ被二申渡一候、
十月廿六日
p.1392 文明三年後八月六日、稱下 送二疱瘡之悪神一( ○○○○○○) 之由上、〈珍尼公出來之由、兒女出稱レ之、不可説、〉所々有二囃物一、毎日事也、七日、今日町送二疱瘡之惡神一、有二囃物一、室町殿御前、北小路殿御前等可レ渡レ之、或仁構二棧鋪一招請之間、罷向了、見物不二相應一也、種々有二囃物一云々、
○疱瘡神ノ事ハ、神祇部神祇總載篇ニ在リ、
p.1392 伯耆國人の云く、本國八橋郡束積村に、鷺大明神と云あり、須佐之男命を祭ると云、同村に大森大明神と云あり、大穴持命を祭ると云り、件兩社の神主細谷大和と云、さてその鷺大明神を、疱瘡の守神なりと云て、そのわたりの諸人あふぎ尊みて、小兒の疱瘡の輕からむことを祈る、まづ初に此願を立るときに、此社に詣て、竹皮の笠を一蓋借て歸て、家内に齋ひ置て、その兒疱瘡をことなくしをへぬれば、賽に同じさまの笠を今一蓋添て、初のと共に、かの社に返し納奉る、此笠どもはみな、神の御前に積置を、又後に析かくる者は、一蓋づヽ借て歸るなり、
p.1392 痘瘡〈○中略〉
五雜組曰、韃靼種生無二痘疹一、以レ不レ食二鹽醋一故也、近聞其與二中國一互市間、亦學二中國飮食一、遂時一有レ之、彼人即舁置二深谷中一、任二其生死一、絶レ跡不二敢省視一矣、一云、不レ食二猪肉一故爾、西域聞見録曰、小兒亦出レ痘、輕而易レ過、百中或損レ一、亦從無二回子麻面者一、倘出レ痘者多則避二於深山極寒之地一可レ免、克〈○原昌克〉按、其症之發不レ在二食餌一、 五島八丈島( ○○○○○) 、 亦無二此病( ○○○○) 一、蓋其風土爲レ然、西肥鮮二此患一、人士未レ染者、不レ能下遠離二其地一、含二使命四方一、或于中役 江戸上、裹二足境内一、與二彼禁錮一一般、故聞二長崎及諸方痘瘡流行一、則或往二其地一祈二其傳染一、或行二種痘法一而歸、翁加里亞國亦無レ痘、行商濟一異域一者、先行種痘法一而後航レ海、明和年間、遷二八丈民於下野芳賀郡一、居頃之而老壯患レ痘、寬政八年丙辰五月三日、常陸那珂湊、一船漂著、所レ乘十一人、問レ之、曰伊豆三宅島舟也、去年七月廿二日、載二流徒一送二八丈島一、十月至レ島、今年四月發レ島、遇二西風一至二于此一、當日撿レ之告レ官、令三吏賜二糧食一、内有二八丈島民三人一、曰八丈島自レ古無二痘瘡一、方今一般流行、斃二于此病一者日多二一日一、小民無智、以レ保二一日之命一爲レ幸、奔走竄伏、隱レ山入レ谷、避レ乏猶二寇敵一、耕耨漁樵、一時廢レ業、恐レ令二公田赤地一、村甲伍老、入レ山敎諭、以二痘災未一レ除、惟死之懼、所二保結一官絹、染絲既成、織女竄レ山、或臥レ枕、無二紡績者一、恐致二稽遅一、因報二知之一、具レ状以聞、本島之例、不レ經二八十八夜一、則不レ能二渡海一、蓋避二風濤之災一也、予輩不レ及レ待レ之、故託二三宅島舟一解レ纜、果遇二駭風一漂二流于此一因問二其詳一、曰、寬政乙卯九月廿七日、八丈島船自二伊豆一歸、所レ乘三根村民於二船中一得レ病、十月三日周身發レ紅、不レ知二何病一、醫議曰、痘瘡也、本島從來無二此病一、今有二此症一、恐傳二染外人一、乃區二畫里外一、構二小舍一置レ之、終以不レ起、延及二其家人隣側一、先レ是天明年間、島内樫立村痘疹流行、死者甚多、以レ故人心益不レ安、三根村外十里斷レ路禁二往來一、使二樫立村往年患レ痘者一役二使之一、島吏趣二三根村一看二護之一、死者不レ止、小民棄レ家携二妻子一遁二逃山中一、無レ幾支村稻葉里發レ痘、島吏令三病者悉送二之本村一防レ之、日後患者比々相屬、不レ能二又送一レ之、其死者多係二老壯一、如二幼少一者其病輕、三根村男女千四百餘口、竄レ山者二百餘人、罹レ患者千二百人、死者四百六十人、末吉樫立二村、與二三根村一隔レ山、故禁二村民一不レ得二相交一、客歳晩冬、樫立村有二一人罹レ患者一、速遷二之里外一、往年死二于痘一者三百餘人、今年病者皆是幼童、以レ故死者少、樫立村男女九百餘口、患者百三人、死者二十九人、末吉村去年臈月一人得レ痘、併下其未レ發レ痘之時至二其家一者上遷二之居里外一、不レ得下與二村人一相交會上、人人欲三棄レ家避二山中一、盤二驗之一、無下糧可レ支二數日一者上、仍敎諭就二農桑漁樵一、至二今年正月一、比屋患レ之、末吉村男女八百餘口、皆逃二去山中一、患者五十五人、死者十五人、大賀郷預防レ之、禁下村民與二他村一往來上、客歳季冬有二一人發レ痘者一速遷二之三根村一、郷中驚怖、竄入二山中一、其得レ免二痘死一、亦不レ得レ免レ餓死一、里正等招諭就二産業一、無二一人歸 者一、逃二山中一者得レ痘、又令レ遷二之三根村一、無レ幾患者相次、不レ暇二悉遷一レ之、男女千八百餘口、患者百二十六人、死者四十七人、中之郷不下與二痘村一相通上嚴防レ之、至二今年早春一一人發レ痘、送二之里外一處二草舍一、敎二諭郷中一勸二産業一、又一人得レ痘、郷人謂不レ入レ山、則不レ能レ免與レ死二于痘一寧死二于餓一、一時騷亂、竄入二山中一、不レ日山中發レ痘者多矣、仍有二稍々歸レ家者一、男女千餘口、患者四十人、死者十三人、小島令レ禁二渡海一、故無二痘疾一、小島民來寓二三根村一者二人、罹レ災死、靑島往年地中出二火焰一、焼後八丈人遷居墾田、島人預防二痘災一、然亦終不レ能レ免、男女百五十餘口、患者十九人、死者十三人、
p.1394 痘瘡は、本朝往古なかりしを、筑紫より流行來れりと傳紀に詳なり、これが論は志ばらく閣、いづれも當れり、盡せる故なり、然ども其の初筑紫より流行すといへども、壹岐の國、肥後の天草地續の處は、 肥前の大村領( ○○○○○○) などは、昔より疱瘡を志らず、然といへども邂逅伊勢參宮などするとき、他國に疱瘡流行する期に行合すれば、夫に感じて痘を病なり、左有ときは、同行の連これを恐れて、路傍に打捨行とき、病者旅宿を求保養するなり、類族合壁の者といへども、捨置事如レ斯し、殘忍なる樣なれど、誤て國に歸るときは、合壁より隣村に傳染し、甚敷ときは國中に流行す、然れば容易痘根絶がたく、大にくるしむなり、予が類族、壹州の問丸をす、依て目前見る處なり、是胎毒に依や、先天の慾火によるや、他國の水土に感ぜし者、國中に充るは何んぞや、其所に於て一國一郷痘を知らざるは何ぞや、謝氏の説も又宜なり、
p.1394 黑豆疹( ハシカ)
p.1394 はしか
麻疹をいひ、麥の芒刺をいふ、ともにいら〳〵として苛酷なる義也、下學集に檜をよめるは芒刺の意也、麻疹を糠瘡ともいへり、羅浮子云、細粟如レ麻者呼爲レ麻也、國史には赤班瘡とみゆ、
p.1394 麻
麻 、一名膚疹、一名騷疹、一名糠疹、一名麩疹、一名瘄子、一名痧子、一名赤瘡、〈○中略〉
按、麻如レ麻、痧如レ沙、但大小不レ同耳、所レ謂痘疹、麻疹、痧疹、風疹、隱疹之屬、蓋指二初出赤點一、皆謂二之疹一、疹與レ 古通用、
p.1395 長德四年七月二日戊午、今月天下衆庶煩二疱瘡一、世號二之 稻目瘡一( イナメガサ/○○○) 、又號二 赤疱瘡( ○○○) 一、
p.1395 あかもがさ
日本紀略云、長德四年七月、天下衆庶煩二疱癘一、世號二之稻目瘡一、〈○中略〉稻目瘡と名けたるは、蘇我稻目大臣の事を思ひてなるべし、書紀欽明御卷十三年、疫氣のおこりし事考ふべし、又敏逹御卷に、十四年天皇與二大連一卒患二於瘡一云々、又發レ瘡死者充二盈於國一、其患レ瘡者、言身如二被レ焼被レ打被一レ摧、啼泣而死、老少竊相謂曰、是燒二佛像一之罪矣とあるも、あかもがさにやありけむ、〈○中略〉赤もがさは、今の世にはしかといふ瘡也、
p.1395 麻疹之患、則一條帝長德四年夏初、此瘡流行、國史稱二之赤斑瘡一〈方言阿迦毛加左〉西村玄周、引二數證一云、赤斑瘡之爲二麻疹一也、不レ容レ疑矣、
p.1395 赤斑瘡異名
赤斑瘡〈類聚符宣抄 醫心方 小右記 山槐記 扶桑略記 日本紀略 帝王編年記 百練抄 皇代記 吾妻鏡 拾芥抄 萬安方 頓醫抄 濫觴抄 鶴岡社務記録 關東評定傳 歴代皇紀類聚大補任〉赤斑之瘡〈吾妻鏡脱漏〉赤斑〈吾妻鏡脱漏〉赤疱瘡〈扶桑略記 日本紀略 百練抄 中右記 皇代記歴代皇紀 皇年代略記 倭漢合運〉大疱瘡〈歴代皇紀〉 赤瘡( アカガサ) 〈中右記〉赤疹〈萬安方 永祿板年代記倭漢合運 新撰倭漢合圖〉 赤裳瘡( アカモガサ)〈左經記〉 麻疹( ハシカ) 〈妙法寺記録〉麻疹〈醫學天正記〉 麻豆瘡( ハシカ) 〈萬安方頓醫抄〉麻子瘡〈一代要記拾芥抄〉 疹( ハシカ) 〈萬安方羅山文集 諸疾宜禁集〉 瘡疹( ハシカ) 〈萬安方節用集〉㿀疹( ハシカ) 〈萬安方 醫學天正記〉 疹瘡( ハシカ) 〈頓醫抄〉疹子〈萬安方〉細疹〈頓醫抄〉 稻目( イナメ) 瘡( ガサ) 〈日本紀略〉 瘀( ハシカ) 〈多門院日記〉 黑豆疹( ハシカ) 〈運歩色葉集〉 麩瘡( ハシカ) 〈萬安方頓醫抄〉膚瘡〈頓醫抄〉あかきかさ〈榮花物語〉あかヾさ〈榮花物語〉あかもがさ〈榮花物語〉はしか〈頓醫抄訓 萬安方訓 節用集訓 多門院日記訓 運歩色葉集訓 神明鏡 後奈良〉 〈院宸記〉
p.1396 赤斑瘡誤名
謂誤名者、誤以二疱瘡之稱一、而爲二麻疹之名一也、
斑瘡( ハンサウ) 〈百練抄 萬安方 頓醫抄〉 疱( ハウ) 〈元亨釋書倭漢合運〉 疱癘( ハウレイ) 〈日本紀略倭漢合運〉 疱瘡( ハウサウ) 〈公卿補任 日本紀略 帝王編年記 百練抄 山槐記左經記 中右記 朝野群載 文德實録 水左記 一代要記 皇代記 皇年代略記 濫觴抄眞言傳 元亨釋書 拾芥抄 壒囊抄 日蓮書録外 永祿板年代記 舊事大成經 前々太平記〉もがさ〈榮花物語 壒囊抄賀茂保憲女集〉
p.1396 小兒麻疹
麻疹ハ吾郷黨〈○水戸〉ヨリ適起ルモノニ非ズ、麻疹ノ流行ハ古來ヨリ、何時ニラモ南方ヨリ起リテ、漸次ニ北方ヘ及ブモノナリ、九州ヨリ中國ニ至リ、中國ヨリ京攝ニ至ルモノユエ、前日ニ沙汰ノアリテ來ルモノナレバ、醫者ハ勿論素人ニテモ、一目シテ麻疹ナルコトヲ知ルベシ、決シテ吾郷黨ヨリ卒ニ起ルモノニ非ズ、凡ソ流行病ノ大ニ行ハル、ハ麻疹 モ限ラズ、南方ニ起リテ北方ニ遷延スルモノナリ、於七風、琉球風ノ類モ皆南方ヨリ北方ヘ行ハレタリ、特リ邪氣ノミニ非ズ、陽氣ノ起ルモ南ニ始テ北ニ至ルナリ、庭前ノ草木ヲ熟視スルニ、枝ノ出テ芽ノ生ズルモ、南ハ先ニシテ北ハ後ル、ナリ、
p.1396 近來流行疫ノ病後ニ疹ヲ發セルハ、痘麻ノ如キ一種ノ疹ナルベシ、千金方ニ小兒十蒸八變シテ人トナルコトヲイヘリ、其状痘序ノ如シト見ユ、是レ隋ヨリ唐ニ及テノコトナリ、ソレヨリ漸々ニ痘瘡世ニ行ハル、續テ麻疹世ニ出テ、水痘モ世ニ出タリ、此ヲ以テ見ルニ、痘麻ノ世ニ出ベキ根基ハ、上古ヨリ具足セルナルベシ、ナテ今ノ小兒ニ變蒸アルコトナシ、チエホトリト訓スレド、變蒸ニ似タル者ヲ見ズ、思フニ痘麻世ニ出ベキ漸ニ攣蒸アリ、痘麻世ニ出デ流行ノ疫氣ニ感ジテ、一生一次ニ胎毒ヲ發洩シ盡ス、故ニ變蒸ナキナルベシ、近來ノ疹疫モ亦一種ノ痘麻ノ 如キモノ世ニ出ベキ漸ナラン、痘痲ノ世ニ出ベキ根基ハ既ニ上古ニ具セリ、
p.1397 痲源〈○中略〉
本邦天平延暦之痘毒、隔二數十年一、亦非二天時之命邪之差一、以三一齊流行竭二海内之人一故也、方今痲毒之行、傳染之勢、急二於痘一、然非三其毒暴二於唐山一、非三天時令邪異二於唐山一、是亦人事之所レ使也、何則痘者、嬰兒之患、痲者多枉二壯年一、故逆旅染レ病者、旬日行程、傳二於千里之外一、未レ過二半歳一、流二布于海内一、普竭二其人一而後罷、又隔二數年一傳二來海外之毒氣一則復作二海内之巨害一、故史之所レ記、今之所レ視、莫レ不下必從二西海一流中東海上、是以其流行邇者十餘年、遐者數十年、其期如レ存如レ亡、若夫萬壽承暦之際、隔二五十三年一、亦非一天時令邪之所一レ使、幸不レ傳二外國流行之毒一也、以レ何證レ之、享和癸亥〈○三年〉之痲毒、豆之八丈島獨免焉、是島以レ有二流刑之徒一、嚴禁二舟揖之往來一、是故不レ傳二本邦之毒一也、後歳若傳レ之、則與二萬壽承暦之際一何以異邪、是即所下以謂中 傳染之疾在二人事一而不一レ因二天時一( ○○○○○○○○○○○○)也、嗟毎二此毒行一、絶二世嗣一、殞二骨肉一、天札之夥、非二天行疫疾之可レ比者一也、雖レ然沴氣有形、一種之傳染、非二難レ避疾一、避則必免、不レ避則冒、
p.1397 療二治疱瘡一方〈,見二天平官符一、天平九年六月廿六日下二諸國一官符、○中略〉
惱人〈乃〉背〈仁〉此七字可レ書レ之、 麻子瘡( ○○○) 之種我作云々、
p.1397 太政官符、東海東山北陸山陰山陽南海等道諸國司、
令三臥レ疫之日、治身及禁二食物等一事漆條、
一凡是疫病、名二 赤斑瘡( ○○○) 一、初發之時、既似二瘧疾一、未レ出前、臥レ床之苦、或三四日、或五六日、瘡出之間、亦經二三四日一、支體府藏大熱如レ燒、當二是之時一、欲レ飮二冷水一、〈固忍莫レ飮〉瘡又欲レ愈、熱氣漸息、痢患更發、早不二療治一、遂成二血痢一、〈痢發之間、或前或後、無レ有二定時一、〉其共發之病、亦有二四種一、或咳嗽〈志波不岐〉或嘔逆、〈多麻比〉或吐血、或鼻血、此等之中、痢是最急、宜下知二此意一、能勤中救治上、〈○中略〉
以前、四月以來、京及畿内、悉臥二疫病一、多有二死亡一、明知諸國佰姓、亦遭二此患一、仍條二件状一、國傳送之、至宜二寫取一、 即差二郡司主帳已上一人一宛レ使、早逹二前所一、無レ有二留滯一、其國司巡二行部内一、告二示百姓一、若無二粥饘等料一者、國量宜下賑二給官物一、具状申送上、今便以二官印一印レ之、符到奉行、
正四位下行右大弁紀朝臣〈○男人〉 從六位下守右大史勲十一等壬生使主
天平九年六月廿六日、
○按ズルニ、此宣符ノ病状、麻疹ニシテ痘瘡ニアラザル由、太田覃、及ビ屋代弘賢ノ説アリ、説ハ載セテ醫術篇三、痘科治療條ニ引ク叢桂亭醫事小言ニ在レバ、宜シク參看スベシ、
p.1398 長德元年六七月、赤斑瘡上下老女煩レ之、
p.1398 ことし〈○長德四年〉れいのもがさにはあらで、 いとあかきかさ( ○○○○○○○) のこまかなる、いできて、おいたるわかき、上下わかず、これをやみの、しりて、やがていたづらになるたぐひもあるべし、これをおほやけわたくし、いまのものなげきにして、志づ心なし、
p.1398 長德四年十二月廿九日甲寅、今年天下自レ夏至レ冬疫瘡遍發、六七月間、京師男女死者甚多、下人不レ死、四位以下人妻最甚、謂二之赤斑瘡一、始レ自二主上一至二于庶人一、上下老少無レ免二此瘡一、只前信濃守佐伯公行不レ患、
p.1398 長德四年、是年自レ夏至レ冬、疫瘡遍發、六七月間、京師男女死者甚多、下人不レ死、四位已下人妻最甚、外國不レ死、世謂二之赤斑瘡一、始レ自二天皇一、至二于庶人一、貴賤老少、緇素男女、無下一免二此瘡一者上、但前信濃守公行獨不レ患レ之、
p.1398 長德四年、今年自レ夏至レ冬斑瘡流行、死亡者多、古老未レ見下如二今年一者上、
○麻瘡考ニ云ク、日本紀略ニ疱瘡ヲ煩ト見エタルハ、麻瘡ト疱瘡ノ差別ヲシラズシテ書シモノナリ、扶桑略記ニハ、赤斑瘡ト書シ、百練紗ニハ斑瘡ト書セリ
p.1398 萬壽二年、自レ夏至二秋季一、有二赤疱瘡一、
p.1399 萬壽二年七月廿二日壬寅、始レ自二今日一、以二五口僧一於二承香殿一、五十ケ日、被レ轉二讀大般若經一、余爲二行事一參入、事了退出、近來天下道俗男女、不レ論二老少一、惱二 赤裳瘡( アカモガサ) 一之由云々、仍所レ被レ行也、
p.1399 萬壽二年七月廿九日己酉、春宮大夫賴宗使三左衞門尉顯輔訪二夜部父近事一、藤宰相廣業來謝二夜前不來之事一、又云、從レ昨尚侍二赤斑瘡序病一、今日瘡出、仍止二修法加持一、八月十二日辛酉、宰相兩度來、右兵衞督來、兩人淸談、臨二夜漏一、主上惱二御赤斑瘡一云々、未レ及二披露一、御傍親卿相皆觸穢、十三日壬戌、白米和布黄 瓜等給二悲田一、先令レ問二人數三十餘人一、令レ申レ主、給レ物時多有二未レ知レ之者一、仍相二計其程一、令レ加給、以二堂頭得命師一爲レ使、左中弁經賴消息云、主上自レ昨惱二御赤斑瘡一、瘡所々出御、御惱體不レ重者、世間觸穢交來、乙丙間未二決定一、大略乙歟、仍不レ能二參内一、十四日癸亥、左頭中將公成近曾煩二赤斑瘡一云々、大虚言歟、近日重煩二赤瘡一云々、廿九日戊寅、呼二四位侍從經任一訪二大納言齊信、新中納言長家一、大納言報云、中納言室家重煩二赤斑瘡一、僅平愈、不レ經二幾日一、未レ及二其期一、〈七月〉産臥、赤瘡疾之以來、水漿不レ通、日夜爲二邪氣一被二取入一、不レ可三敢存二悲歎一之間、今有二此消息一者、經任云、痢病只止二万死一生一、
p.1399 かくいふほどに、ことし〈○萬壽二年〉は あかもがさ( ○○○○○) といふものいできて、上中下わかず、やみのヽしるに、はじめのたびやまぬ人の、このたびやむなりけり、内〈○後一條〉東宮〈○後朱雀〉も中ぐう〈○威子〉も、かんのとの〈○嬉子〉など、みなやませ給ふべき御としどもにておはしませば、いとおそろしう、いかに〳〵とおぼしめさる、〈○中略〉よろづよりもかんのとの、このあかもがさいでさせ給て、いとくるしうおぼしめしたりとて、との〈○道長〉にはのヽしりたちて、いみくおぼしあはてさせ給、〈○中略〉東宮〈○後朱雀〉うちには、たヾけしきばかりにておこたらせ給てけり、このかんのとのは、この月などにこそはさおはしますべきに、いと〳〵おそろしき御ことなりとなげかせ給に、御もがさいとおほくいでさせ給て、たいらかにおはしませど、日ごろくるしうおぼされて、いとたへがたげなる御けしきになりつれど、つごもりにはおこたらせ給ぬれば、よにうれしきことにおぼ しよろこびたり、されどまだほどもなければ、御ゆなどもなし、〈○中略〉中なごんどの〈○長家〉のきたのかた〈○齊信女〉も月ごろだにもおはせざりければ、おりあしきかさをいかに〳〵と、大なごんどの〈○齊信〉もおぼしなげき、中なごんもいかにとおぼしつるに、月ごろいみじうほそりやせ、ありし人にもあらめ御ありさまをぞ、いかにおそろしくて、さま〴〵の御いのりをしつくさせ給める、かんのとのヽ御かさかれさせ給つれど、御ものヽけのけしきのいとおそろしくて、まだ御ゆもなし、
p.1400 あめのみかど并裳瘡ぞやみ
この榮花に、あかもがさといへるは、痲疹の事にて、今いふはしか也、ぞやみは今俗に 序病( ジヨヤミ) といひ、又某がぞになりてなどもいへり、序の字音によれる詞也、
p.1400 承暦元年、今年上自二后宮大臣一、下至二庶人一、皆煩二赤斑瘡一、親王公卿已下逝去者多、權右中辨師賢一人免二此難一、
p.1400 承暦元年丁巳、十一月十七日改元、依二 疱瘡( ○○) 旱魃一也、
p.1400 按に、いづれも承暦元年赤斑瘡流行の時の事にて、疱瘡と書るは、れいの通用なり、
p.1400 承保四年八月六日癸未、今上第一皇子敦文親王薨、年僅四歳、上自二一人一下至二庶人一、莫レ不レ患二赤皰瘡一矣、親王公卿五位已上、逝去之者多焉、
p.1400 としかはりぬれば、承保四年、〈○承暦元年〉といふ、〈○中略〉四五月ばかりより、 あかもがさ( ○○○○○)といふこと出きて、世の人やむなど聞ゆるに、六七月になりては、いみじうやみまさりて、のこるなくきこゆ、五十三年にいできたれば、おいたるわかきとなく、おやこもわかず、ひとたびにやみければ、おきたる人すくなくありける、六七十の人は、人のもとにもすくなければ、いといみじくなんありける、むかしなんかヽるもがさいできたりける、かんのとの〈○綏子〉のうせさせ給ひし おりは、いとかくはあらざりけり、三百年ばかりになりたるになんかヽりける、秋ふかくなりては、よき人々やませ給、うち〈○白河〉中ぐう〈○賢子〉みやたちくわんばくどのヽうへ〈○師實至麗子〉大將殿〈○師通〉などみなおなじほど、すこしうちすがひなどしていでさせ給へば、御いのりかずしらず、しおきぶきやうみや〈○敦賢〉うせさせ給ぬ、御むすめにおはしませば、齋宮〈○淳子〉おりさせ給ぬ、八月に故右おほとの〈○賴宗〉の御子、ほりかは中なごん、初〈○賴宗子能季〉右京大夫みちいへ、ひやうゑのすけこれざね、藏人いへざねなくなりぬ、中なごんひやうゑのすけは、うへもなくなり給ぬ、あさましきよにぞ、たじまのかみたかふさ、とうぐう亮経重などなくなりぬ、民部卿〈○俊家〉のきたのかた、たじまのかみのむすめ、たうぐう亮のきたのかたなど、おほかたあさましきころなり、すき〴〵て、うち〈○白河〉の一のみや〈○敦文〉御もがさのなごりなほえおこたらせ給はで、八月六日つゐにうせさせ給ぬ、たれもたれもおぼしなげかせ給ことかぎりなし、うちにも、との〈○師實〉にも、いふかたなくなげかせ給、大なごんどの〈○顯房〉などいかなる御こヽろのうちなりけん、
p.1401 承暦元年、今年上自二后宮大臣一下至二庶人一、皆煩二赤斑瘡一、親王公卿已下逝去者多、權右中辨師賢一人免二此難一、敦賢敦文兩親王依二疱瘡一薨、
p.1401 寬治八年〈○嘉保元年〉十二月晦日、去年、去年冬天下自疱瘡、多天下自疱瘡、引及二此春一、叉今年秋冬赤疱瘡、可レ云二凶年一歟、仍改元、
p.1401 嘉保元年甲戌、十二月十五日壬午、改元、依二疱瘡一也、
p.1401 按に、嘉保元年赤斑瘡流行せし時の事をいへるなり、
p.1401 永久元年正月廿五日、近日赤斑瘡流二`布天下一、
p.1401 永久元年癸巳、七月十參日辛卯改元、依二天變兵革 疾疫一( ○○) 一也、
p.1401 按に、疾疫とあるは概名にて、永久元年赤疱瘡流行の事をいへるなり、
p.1402 大治元年丙午、正月廿二日戊子改元、依二 疱瘡( ○○) 一也、
p.1402 按に、公卿補任にも疱瘡と書たれど、山塊記に赤斑瘡とあるによるべし、
p.1402 康治二年六月廿九日甲寅、季成告送云、入道殿、去廿六日、廿八日、兩度依二女房疱瘡出一、午以後甚重、大將云、二歳令レ疾二赤疱瘡一給事有レ之如何、予云、少人多下似二此瘡一者上、疑非、
p.1402 建永元年〈元久三年四月廿七日改元、依二赤斑瘡一也、〉
p.1402 嘉祿三年〈○安貞元年〉十一月廿三日戊戌、將軍家〈○賴經〉赤斑出現給、仍今日重而無爲御所等被レ行也、神馬被レ奉二鶴岡宮一、又於二御所一七座泰山府君祭被レ行、晴賢、泰貞、重宗、文元、宣賢、親貞、道繼等奉仕之、凡自二去月下旬之比一、赤斑瘡流布、貴賤不レ免、上下皆令レ煩之、京都同前云、今月八日、主上〈○堀後河〉有二御惱一云云、 十二月五日庚戌、將軍家自二卯刻一御咳病之氣、赤斑瘡御減之間、今日可レ有二御沐浴一之由、兼日被レ定之處、依二此事一延引云云、 廿五日庚午、六波羅飛脚到來、持二參改元詔書一、「去十日改二嘉祿三年一爲二安貞元年一云云、今年三合相當之上、赤斑瘡流布、人庶多以病死之間及二此儀一云云、
p.1402 建長八年〈○康元元年〉九月一日戊子、將軍家〈○宗尊〉御惱、赤斑瘡也、若宮別當僧正、參二籠宮寺一、致二御祈禱一、此事當時流布、諸人不レ免レ之、爲二祈禱一、於二諸堂一被レ行二百座仁王講一、淸左衞門尉滿定奉行之、 三日庚寅、又有二御惱御祈等一、松殿法印良基、左大臣法印嚴恵、各修二藥師護摩一、七座泰山府君、宣賢爲親、晴長、廣資、以平、晴憲、晴宗、此外被レ行二七座靈所祓、天曹地府、御當年星、呪咀等祭一、 十日丁酉、於二相州第一、被レ轉二讀大般若經一云云、 十五日壬寅、相州〈○北條時賴〉令レ惱二赤斑瘡一給、 十六日癸卯、及レ晩、相州御不例事、去六月廿六日、當二御衰日一、始令二出仕一給之間、今此御不例、可レ有二其愼一之由、陰陽道勘申之、仍被レ行二泰山府君祭一、又相州女子、有二赤斑瘡一、邪氣相交云云、 十九日丙午、申刻將軍家御沐浴、陰陽少允晴宗、候二御身固一、陰陽醫師權侍醫長世賜レ祿、中御門少將公仲朝臣、取二御衣五單、御劒金作等一、次給二御馬一、式部太郎左衞門尉光政引レ之、於二東屏中門之内一有二此儀一今日武州嫡男〈四歳〉赤斑瘡煩云云、 廿五日壬子、相州御不 例平癒之間、始令レ洗二手足一給、 廿八日乙卯、越後守室、赤斑瘡所勞云云、 廿九日丙辰、相州御沐浴、十月二日己未、六波羅飛脚參著、去月廿七日、四宮〈惟尊親王〉薨御、又廿四日、前將軍三位中將家、御早世之由申云云、
p.1403 康元元年八月廿七日乙酉、近日赤斑瘡流布、上下病惱、 九月五日壬辰、天皇令レ煩二赤斑瘡一御、 十七日甲辰、赤斑瘡御祈等繁多、 廿五日壬子、主上赤斑瘡御惱御落居之後始御沐浴云云、同日、雅尊親王〈院皇子女、院御腹、〉薨、〈依二赤斑瘡一也〉同日、三位中將賴嗣卿薨、〈依二赤斑瘡一也〉 十月五日壬戌、改元、〈改二建長一爲二康元一〉權大納言良敎卿以下參レ之、依二赤斑瘡一也、
p.1403 康永壬午流行、應長元ヨリ參十二年日ナリ、園太暦云、康永四年九月十六日、因二天下疫癘一、左大史小槻淸澄、奏二進改元檮等一、古例三十條云々、改元祈神等の事、前例ニ合考ルニ、蓋麻疹ニ相違なし、南北兩朝已後、交明三年の流行迄、百三十年相隔、文明三ヨリ永正三年迄、三十六年目なり、永正三ヨリ天正十五年丁亥流行迄、入十二年目也、天正十五ヨリ元和二年丙辰流行迄、三十年目也、元和二ヨリ慶安二年己丑流行迄、二十四年日也、慶安二ヨリ元祿三庚午流行迄、四十一年目也、同四辛未二年相續流行ス、元祿四ヨリ寶永五年戊子流行迄、十八年日也、如レ此流行年數遠近あるものは,全く麻毒は世界萬國を周流して、本邦へ傳來する故なり、天時令邪のなす處に非ること明なり、
p.1403 嘉吉元年、天下麻疹流行、
p.1403 文明三年二月ヨリ 赤疹( ○○) 多クハヤリ、人多ク死ス、
p.1403 文明十六年六月三日、自二今春一疱瘡并 瘀( ハシカ) 以外増、七八十歳之物ニ至マデ病レ之、於二小兒一不レ及レ言者也、極老者病氣大事也、他國多以令二死去一、於二當國當所一〈○大和國奈良〉者、依レ瘀死去之物少シ、〈○下略〉
p.1403 按に、痕の字は、字書に麻疹の義なし、倭玉篇に、瘀ナノックンル、また、ツシムヤ マヒ、難字記に、瘀面疒、ウルムテ、又アヲクソ、又ツシム、又アヲイロなどよみたり、
p.1404 文明三年、麻疹流行、
p.1404 永正十年癸酉、此年麻疹世間ニ流行ス、大半ニ過タリ、
p.1404 天文四年十月十一日、今日藤原氏直參二御脈一ハシカヲ勞ニ、御藥進上、脚細ニ、全體ニ好 出云( クヅ) 々、
p.1404 疹
天正六年夏
一竹門樣、〈參宮五歳〉患二㿀疹一、初發熱甚而不レ止、半井驢庵療養、作二傷暑一而治レ之、三日之後一身班紋出、但皮膚之下隱、而不レ能二快發一、驢庵改加二減快發之葯一雖二進上一、尚未レ能レ出、發熱亦未レ退、依二其御葯一斟酌、于レ時竹田定加法印奉レ命加二療養一、經二三五日一斑紋紫色、而遂不二起發一、熱不レ退、故又御葯斟酌ス、又盛方院浄勝法印奉レ命療養、二三日之後忽吐血衂血太出、久不レ止、又大小便倶出血、諸醫技既盡、于レ時予卅歳之時、奉レ命御賑候、診脈畢ニ又吐血二碗許、氣既欲レ絶、先與二至寶丹一、然後 犀牡生芐芍參甘陳之類煎與レ之、二三日之後、吐血下血止、而皮裡之紫斑漸々退、十飴日而平復、
p.1404 慶長十二年
御ひめ はしか( ○○○) いで候よし候へ共はや〳〵よく候べく候よし候まヽまんぞく申候、七十五日のあひだは、どくだちかんようにて候べく候、御ひらのたぐひ、しやうくわんなきやう、しかるべく候、いよ〳〵ゆだんなくせいに入られ候べく候、いつれも人をくだし候て、申參らせ候べく候、めでたく候べく候、
御ち
せうしやう〈參る〉
p.1405 延寶六戊午年二月十九日
今朝土井能登守殿被二仰渡一候者、麻疹病人只今迄 參番湯掛( ○○○○) 候迄者、登城遠慮仕候得共、向後御役は相勤、御成之節は、助を立相勤、御目見無用ニ可レ仕之由被二仰渡一候、以上、
p.1405 元祿四年辛未三月ゟ、夏ニ至リ、諸國ニ麻疹流行せし時、人民不養生をなし、又食毒にあたりて愁ひを見る事、其數を知らず、
靈元院法皇樣、勅詔に依て、名古屋玄醫翁、養生書を撰、普く日本國中に流布なして、諸人をすくふ、其書予が先祖に傳り有に依而、此度彫刻して、再び天下に披露せしむるものなり、
元祿四辛未年〈是より十七年目〉 寶永四丁亥年〈是より二十四ケ年目〉 享保十五庚戌年〈是より廿四年目〉
寶暦二癸酉年〈是より十四年目〉 安永五丙申年〈是より廿八年目〉 享和三癸亥年
六拾餘州津々浦々ニ至迄、麻疹流行する事、前代未聞之事也、
京なはて 叶屋喜太郎板
p.1405 補遺
寶永戊子〈○五年〉ノ秋ヨリ冬ニ至リ、明ル己丑ノ歳ノ春マデ、日本六十餘州ヲシナメテ麻疹流行シテ、男女老少ヲ不レ問、一般ノ疫麻也、貴トナク賤トナク、此患ニテ死スル者多シ、予〈○香月牛山〉京師ノ高倉ノ旅館ニアッテ、此病ヲ治スルコト五百三十餘人也、其内一人モ死スル者ナシ、皆之ヲ治スルノ醫、或ハ寒凉ヲ過シ、或ハ辛熱ヲ用ヒ、或ハ補藥ヲ用テ其害夥シ、予一方ヲ製ス、葛根連翹湯ト名ヅク、葛根、連翹、升麻、白芍藥酒、茈胡酒、黄芩、當歸、桔梗、山查、蘇梗、山梔子、各等分、甘草減半、水煎シ服ス、紅點出ガタキ者ニハ、防風、牛房子ヲ加ヘ、泄痢アル者ニハ、扁豆、砂仁、木通、車前子ヲ加ヘ、咳嗽甚キ者ニハ、桔梗、甘草ヲ倍シ、前胡、桑白皮ヲ加フ、熱甚キニハ、酒黄、栢酒、黄連少許ヲ加ヘ、或ハ淡竹葉ヲ加ヘ、口甚渇スル者ニハ、麥門冬石羔ヲ加ヘ、血乾テ大便秘スルニハ、川芎、生地黄、紅花、大黄少許ヲ 加フ、此方ラ用ユルニ百發百中、奇々妙々、其効不レ可レ言也、
p.1406 享保十五年冬より、翌年春にいたり、麻疹流行、〈身うちへ、白牛洞をぬる〉、
p.1406 寶暦三年四月より九月に至り、麻疹流行人多く死す、
p.1406 安永五年三月末より秋の始まで、麻疹流行人多く死す、
p.1406 安永五年丙申四月、此節より麻疹流行す、
p.1406 天明二寅年五月、大納言樣御麻疹被レ遊候ニ付、
一西丸へ爲レ伺二御機嫌一、明十九日五時前總出仕、夫ゟ御本丸へも御容體御輕、恐悦之旨にて可レ有二登城一事、
一病氣幼少之面々者、御本丸月番之老中豊後守へ使者可二差越一事、
一在國在邑之面々者、飛札可二差越一事、
一在江戸隱居之面々よりは、御本丸月番之老中豊後守へ使者可二差越一事、
一在國在邑之隱居よりも、飛札可二差越一事、
一明十九日ゟ御酒湯被レ爲レ召候迄者、毎日豊後守迄使者可二差越一事、
右之通可レ被二相觸一候
五月十八日
p.1406 ことし、〈○享和三年〉はしかといふえやみおこりて、高きいやしきみなやみのヽしる、卯月ばかりよりの事にて、五月みなづき、家々おちずやみつヾけたり、この病は、生る限にたヾ一たびわづらふ事にて、二十年餘、物へだてヽおこる事也、さきの度には、おのれ〈○石原正明〉もわづらひつるを、まだをさなきほどにて、はか〴〵しうおぼえねど、世にしらずくるしかりしとばかりは猶わすられず、それは安永五年の事也といへば、廿八年さきの事也、さやうにまれ〳〵にのみあるも のなれば、くすしなども物なれずて、たど〳〵しうのみあめり、さきの度にもはら療治せしは、此比老しれて、物の用にたつは少く、此ごろむねと療治するは、さきの度はまた書生にて、りの術をよくもおぼえず、されば藥もよくもあたらぬにやあらむ、人のおほくしぬめるは、せんかたなく悲しき事也、ふみ月のほどは、たヾ死にしにて、のべの烟も天雲とたなびくばかりなりし、世の常なきは今にはじめぬ事ながら、これはたヾわかくさかりなる人のかぎりわづらふ病なれば、いと悲しき事のみおほくて、世もかくて盡ぬるにやとおぼゆかし、おのれが親しきあたりにも、かなしき事どもおほかり、加藤淡路守殿の北方うせ給ふ、ぞの比たき物まいらせてつヽみ紙に、
魂をかへす香のりれならで夜半の煙やおもかげに立
久留金之助殿の御りひ臥も、ふみ月ばかりよりわづらひて、葉月長月やう〳〵よわりもてゆきて、神浄無月のはじめになむうせ給ひし、五七日は霜月十日ばかり也、金之助殿の母君、後の御いとなみし給ふをとぶらひきこえて、
衣手のかはく世やなきかきくれし時雨は雪と日數ふれども、とよみてまゐらせつ、又先生〈○塙〉のをさない君、これはまだ二ツにてうつくしうつぶ〳〵とこえて、此ころ何となき物語し、高やかに打わらひなどして、らうたき事かぎりなし、をのこはこれひとつにてさへあれば、よるひかる玉とこりもてかしづきしか、行末はおのれちからを盡して、箕裘ときこゆるわざも、すべて何事も點つかるまじく、うしろみたてむとおもひつるに、雜熱などいへば、心さわぎして、いかでこたみつヽがなくなどいのらぬ神も佛もなし、ゆヽしき御大事ぞなど、くすしどもの打かたぶけば、いとおそろしけれど、さりともことなる事あらじと、神佛をたけきものにおもひつるに、三日ばかりありて、たヾきえにきえ入たまへば、心地ほれ〳〵として、おもひわくかたこりなかりしか、此時はあまりのかなしさに、歌などもいでこず、
p.1408 享和三年癸亥四月より、江戸麻疹大に流行、貴賤多く是を患ふ、予が外孫内藤義一郎十三歳、吾家にて養ひけるが、五月十三日曉より頭痛發熱し、面部手足麻疹一面に出、少し重き麻疹と見えけり、其日近隣組屋敷、鐵砲稽古日に有けるに、見物に行き度よし望に付、よからぬ事とは思ひながら、病人の事、其意に任せ差遣しけり、自分にも玉數二十二丸放し、夕方歸る所、麻疹過半癒たり、家内の者大に驚き、土間といひ冷たるにより内攻と思ひ、我にも心痛せしが、氣分よく食事も常體、何事も平素に替らざれば、少しは安堵しけるが、即日に癒ける故、心を痛めしが、如何ともせんすべもなく、其日を過しけり、十四日朝、全く癒ていさヽか障もなし、鐵砲自分も放ち、玉音を多く聞ゆる故に、氣を替へ、たヾ一日にして癒けり、〈○中略〉義一郎荊妻兩人は、思ひ設けずして早速に全快せし也、顯道此度の麻疹病、四月廿一日より、七月朔日迄、他の病人百廿三人、親族家僕十九人、養生所病人の内十六入、都て百五十八人、内に孕婦九人あり、百五十八人、死せし者一人もなし、義一郎がごとき、一日に癒し者も、只一人なし、
p.1408 癸亥〈○享和三年〉ノ三月初旬、荻野台州ヨリ先君子へ書ヲ贈テイヘラク、朝鮮地方ニテ麻疹大ニ行レ、藥物ヲ對州へ乞來ルノヨシ、前月季傳聞セリ、此事虚誕ノヤウニモキコヘズ、往年ノ流行ハ時モ、朝鮮地方ヨリ對馬ニ至リ、長門ニ傳へ、夫ヨリ東西一般ニナリシト承リシト、癸亥ノ麻疫ハ、都下ハ四月中マデ病モノ猶少カリシガ、端午ノ日未牌ヨリ酉牌後ニ至ルマデ、白氣一道アリテ天ヲ亘リシガ、爾後俄ニ多ク行レ、沿門皆病ニイタル、丙申〈○安永五年〉ノ疫ノ前ニモカカルコトアリシト聞リト、錦城先生ノ話ナリ、
p.1408 </rt></ruby> 文政癸未〈○五年〉霜月ノ頃ヨリ、西國ニ麻疹流行ノ風聞アリシニ、都下モ臘月ノ末ニハ、芝邊ニテ患ルモノアリ、甲申〈○六年〉正月初旬ヨリ漸々流行シテ、二月ニ至テハ滿城皆コレヲ病ミ、三月マデニテ止ニケリ、大抵ハ輕症ニシアテ、藥セズシテ愈ル者、亦少ナカラズ、
p.1409 乙未〈○天保六年〉臘月中旬ヨリ、都下 風 ( ○●) 大ニ行ハル、其初寒熱甚ク、ソレヨリ周身赤癮ヲ發シ、恰麻疹ノ如ク、不食咽痛殆ド麻疹ニ似タリ、輕ハ一二日、重キモ四五日ニシテ快復セリ、俗呼デ 三日ハシカ( ○○○○○) 、又 ハシカカゼ( ○○○○○) ト稱セリ、翌年正月中ハ最盛ニテ、貴賤モ患ザルハナク、三月中マデモ發スルモノアリ、安永己亥〈○八年〉ニモカヽルコトアリ、其時モ三日ハシカ、又 オセワカゼ( ○○○○○) ナドト呼リト、老人ノ話ナリ、〈鶴陵ノ保嬰須知ニモ論ゼリ〉是歳ノ疫ニハ、大抵輕ハ葉氏眞武湯ヲ用ヒ、熱稍甚キハ柴葛解肌湯ニテ大略ハ愈タリ、尤劇キニ石膏ヲ用タリ、桂麻ニテ邪氣纏綿セシモノ、間コレヲ見タリ、
p.1409 天保七申年十月
大目付〈江〉
内府樣〈○德川家慶〉御麻疹被レ遊候ニ付、西九〈江〉爲レ伺二御機嫌一、「明廿二日總出仕、夫ゟ御本丸〈江〉も御樣體御輕、恐悦之旨に而可レ有二登城一候事、
一病氣幼少之面々者、月番之老中備後守〈江〉使者可二差越一候事、
一在國在邑之面々者、飛札可二差越一候事、
一在江戸隱居之面々よりは、月番之老中備後守〈江〉使者可二差越一候事、
一在國在邑之隱居よりも、飛札可二差越一候事、
一明廿二日ゟ御酒湯被レ爲レ召候迄者、毎日備後守迄使者可二差越一候事、
右之通可レ被二相觸一候
十月廿一日
天保七申年十一月
寺社奉行〈江〉
内府樣御麻疹御快然、御酒湯被レ爲レ召候付、明十三日、山王〈江〉御名代以二西丸御側衆一御備物有レ之候間、可レ被レ得二其意一候、
十一月十二日
p.1410 文久二年六月、炎旱數旬に及べり、夏の半より 麻疹( アカモガサ/ハシカ) 世に行れ、七月の半に至りては彌蔓延し、良賤男女、この病痾に罹らざる家なし、此病夙齡の輩に多く、〈天保七年の麻疹に、かヽらざる輩なり、〉強年の人には稀なり、凡男は輕く女は重し、それが中に、妊娠にして命を全ふせるもの甚少し、産後もこれに亞ぐ、後に聞けば二月の頃、西洋の舶 崎陽( ナガサキ) に泊してこの病を傳へ、次第に京大坂に弘り、三四月の頃より行れける由、江戸に肇りしは、小石川某寺の所化何がし二人、中國より江戸に來りし旅中に煩ひて、四月の頃、病中寺内へ入、闔山の所化に傳染しけるが、夫より五月の末に至り、少しく行れ、六月の末よりは次第に熾にして、衆庶枕を並べて臥したり、文政天保の度にかはり、こたびは殊に劇して、良醫も猥に藥餌を施す事あたはず、或は吐し、咳嗽を生じ、手足厥冷に及ぶ、烏犀角は内攻を防ぐの藥なれど、用ふる事度に過れば、逆上して正氣を失ふに至るとぞ、固より熱氣甚しく、狂を發して水を飮んとしては駈出し、河溝へ身を投じ、亦は井の中へ入て死るもありし、醫師は巧拙をいはずして、東西に奔走し、藥舖は藥種を擇ばずして、售ふに遑なく、高價を貧れるも多かるべし、しかるに醫生も藥舖も、又續て同病に罹れるも尠からず、製藥店招牌をかヽげて售ふもあれど、症分によりては應驗等しからざるもあるべし、七月より別て盛にもて、命を失ふ者幾千人なりや量るべからず、三昧の寺院去る午年、暴瀉病洗行の時に倍して、 公驗( キツテ/○○) を以( /○○) て日を約し、荼毗の烟とはなしぬ、故に寺院は葬式を行ふにいとまなく、日本橋上には一日棺の渡る事、貳百に曁る日もありしとぞ、又七月の半よりは、暴瀉の病にまさりし急症やむ者多くこれあり、こは老少をいはず即時兆し、吐瀉甚しく、片時の間に取詰て、救藥すべからず、死後總身赤くなる もの多し、その中には麻疹の後、食養生懈りて再感せるもありしとか、又鶴亂の類もありと聞り、〈麻疹鳥獸にも迨して、牛馬鷄犬の斃たるもあり〉、錢湯風呂屋 箟頭鋪( カモユヒドコ) 更に客なし、花街の娼妓各煩ひて、來客を迎へざる家多かりし、七月九日十日淺草寺千日詣參る人少く、十六日閻魔參又同じ、少年の 走百病( ヤブイリ) これなきが故なり、兩國橋畔の夜舖、七月半は更に燈燭を點する事なく、納凉避暑の輩かつてなし、相州大山に登るもの又稀にして、道中より煩ひて歸りたるもありけり、八月の半より町々木戸に 齋( イモ) 竹を立、軒に奉燈の挑灯を釣り、鎭守神輿獅子頭をわたし、神樂所をしつちへて神をいさめ、この禍を攘ふといへり、後には次第に長じて、大なる 車樂( ダシ) を曳渡し、 伎踊邌物( ヲドリネリモノ) を催して街頭をわたす、此風俗一般になり、又諸所の神社にも臨時の祭執行せしもこれあり、
p.1411 ことし文久二年壬戌、夏のはじめより、京都、大坂、麻疹流行せしが、漸尾張に傳播し、六月七月に至て、病勢熾に、府下病ざる者少し、今年の麻疹、熱病疫癘のごとく、輕き者も病苦は甚しといふ、江戸其外諸國一般に傳播して、皆同じ症也とぞ、八月末に至て、漸く歇む、夏秋の際前後きく所を雑記する事右のごとし、
六月の末より七月に至て、家々の病人夥しく、醫者は晝夜を分たず、四方に奔走し〈はやる醫者は夜中眠るひま〉〈なしと云〉藥舖に藥を買ふ者、晝夜店に滿つ、〈犀角、テリアカ、葛根湯の藥劑等、おびたヾしく賣れたりといふ、〉官より熱田の祠人に囑して、神前に祈禱を行ひ、府下の市人に、神符を頒ち賜ひ、各街に祭らしめらる、各街七日の間神湯を獻じ、夜は篝火を焼き、燈を、張り、竹枝に燈をかけて、軒にたて、夜景爛々として、遠望星のごとし、然れども病者多きゆへ、この美觀を出て觀る者なしと云、
小兒はすべて輕し、十六七歳よう三十歳前後の者、病苦殊に甚しく、死亡の者も多し、四十己上は又甚輕し、病ざる者も間あり、然れども大老の者に病む者もたま〳〵ありと云、
婦人懷妊中にて麻疹にかヽりたるは、多くは重症なり、子は多くは流産す、死亡の者も多し、或は 子焼たるごとくになりて生れ、母は命助るもあり、子生れ恙なくして母死するもあり〈産後の麻疹も、重症なりとぞ、〉
p.1412 按に、 疫瘡( エキサウ) は、 麻疹( アカモガサ) 、 庖瘡( モガサ) 、 水痘( ヤブイモ) などの總名なり、
p.1412 麻
夫世俗所レ謂水痘、以二毎歳一被レ行、痘瘡三年、麻 三七二十一年、率爲二定期一、然而其間有二遲速傳染之異一、是皆歳氣順逆所レ致、故未參始必有二定期一也、寶暦壬申夏、列國麻疹大行、時余〈○池田瑞仙〉壯年在レ郷、初療二數十人一、余亦患レ之、疹後餘毒變レ痢、裏急後重最甚、殆爲二鬼奴一、乃用二聶氏導滯湯一、而全平復、又安永丙申、客二于藝州嚴島一、是歳群國又大流布、於レ此益勉療レ之、餘二數百人一、又享和癸亥、自レ春至レ秋、王公士庶、嬰二麻厄一者、不レ可二勝數一、當時余在二 地一、理療不レ下二數千餘人一、自レ壯至レ老、得三親驗二此厄一者三焉、古人有レ言、三折レ肱、豈此之謂乎、因今攟二摭古人之方一、以爲二治疹之的一、登二之於痘科之尾一、其方論皆平生所二躬試一、而非二捕レ風撃レ影之類一、讀者察レ諸、
p.1412 慶安三庚寅年十月四日
疱瘡麻疹藪いも遠慮之覺〈○中略〉
一自身疹、 藪いも( ○○○) 相煩候はヾ、見へ候日ゟ三十五日を過候はヾ、御番ニ出し可レ申事、〈○中略〉
一疹、藪いも相煩候看病人、見へ候日診三十五日御目見不レ仕候ニ付而、御供番之節御目見不レ仕候、
慶安三庚寅年十一月四日
p.1412 正德四甲午年十一月
覺〈○中略〉
一水痘煩候者、死候時は、看病之斷を申立、病人ニ付罷在候者は、病人死候日ゟ七日過候迄は、御目通〈江〉罷出候儀、差扣可レ申候、忌掛候者は、右日數之内ニ忌明候ハヾ登城いたし、御番等も可二`相勤一 候、
御目通〈江〉者、右之日數過候迄者、差扣可レ申事、
〈午〉十一月
右之通可レ被二相心得一候、以上、
p.1413 寬政十二申年九月
大目付〈江〉
西丸〈江〉、水痘病人向後不レ及二差扣一候間、寄々可レ被レ逹候、
九月
p.1413 痢( ○) 釋名云、痢、〈音利、 久曾比理及夜萬比( ○○○○○○○○) 、〉言出漏之利也、
p.1413 按、久曾比里乃夜萬比、放レ糞病之義、久曾比流、見二落窪物語一、謂レ放爲二比留一者、與二放屁訓二倍比留一同語、新撰字鏡、疶、利病也、尻布利、原書作下泄利言二其出漏泄而利一也上、按説文無二痢字一、古單用二利字一故原書作二泄利一源君從二俗寫一耳、玉篇痢、瀉痢也、廣韻、痢病也、
p.1413 㿃( ○) 釋名云、痢赤白日レ㿃、〈音帶、 赤痢( ○○) 、 知久曾( ○○○) 、 白痢( ○○) 、 奈女( ○○) 、〉言滯而難レ出也、葛氏方云、 重下( ○○) 、〈俗云、 之利於毛( ○○○○) 、〉今所レ謂赤白痢也、言令二下部疼重一、故以名レ之、
p.1413 昌平本、下總本、赤痢上有二和名二字一、病源候論、有二赤自痢、赤痢、血痢、白滯痢候一、按知久曾、血糞、奈女、滑也、原書作二下重而赤白日レ䐭言厲䐭而難也一、玄應音義引作二痢下重赤白日レ㿃言厲䐭而難レ差也一、按㿃䐭皆説文所レ無、當二皆滯俗字一、現在書日録云、葛氏方九卷、今無二傳本一、有二葛洪肘後備急方八卷一、所レ引文無レ載、外臺秘要引二葛氏方一云、此即赤自痢下也、令二人下部疼重一、故名二重下一、與二此所一レ引文略同、
p.1413 赤痢〈チクソ、チマルヤマヒ、〉
p.1413 痢〈クソヒル〉 瀉〈同〉
p.1413 㿃〈赤白痢也〉
p.1413 癘 〈アシキヤマヒ、亦作レ痢、惡疾也、〉
p.1414 荒痢( クワウリ/○○) 黄痢( ワウリ/○○)
p.1414 くそひりのやまひ 赤痢をちくそ、白痢をなめ、重下をしりおもとよむ、後重也、
p.1414 痢病
此病名につきて故よし有る事なり、内經にては 腸辟( ウチヘキ) といひしを、仲景は下痢といへり、是今の痢病にて有るべしといへども、符合せざる所あり、しからばその比まではあまり多からぬ病と見ゆ、漢の末比より世に多く有るやらん、療治藥方もさま〴〵あれども、寄がたき所あり、本朝には此病多く有りしやらん却てよく療治も仕覺えしとしられ元り、道三の製せし九昧和中湯其驗あり、または丹水翁の逆挽湯もよし、
p.1414 梅雪〈○伊勢氏〉又話ス、暑月ノ暴痢ヲ薩州ニテ シヤリ( ○○○) ト稱ス、慶長中、明人郭安國トイフ醫、歸化セシコトアリ、シヤリノ名ハ安國ノイヒ出セシナリ、痧痢ニテァルベシ、安國ハ良工ニク治驗モ存セリ、其子孫今ニ仕官セリトゾ、
p.1414 一赤痢病者
法家説者、月水可レ爲二同前一之由、雖レ令二勘答一、神宮之法、血氣止、中二日之後可二參宮一也、地體忌二同宿同火一者也、
p.1414 治二赤利一方第廿二
病源論云、腸胃虚弱、爲二風耶所一レ傷、則挾レ熱 乘二( アマス) 於血一、血流滲入レ腹與レ利相雜下、故爲二赤利一〈○中略〉
治二 重( シリヲモ) 下一方第卅一
葛氏方云、重下、此謂今赤白㿃下也、今下部疼重、故名二重下一、去二膿血一如二鶏子白一、日夜數十行、
p.1414 痢病( リヒヤウ) 俗ニ云 シブリハラ( ○○○○○) ナリ、丹溪ノ日、痢赤キハ血ニ屬ス、小腸ヨリ來ル、白キハ氣 ニ屬ス、大腸ヨリ來ル、戴元禮ノ云、痢疾古ヘハ滯下ト名ク、氣滯テ積ヲナシ、積痢ヲナスヲ以テナリ、五色ヲ以テ五臟ニ屬ス、
p.1415 一 疫痢( ○○) トテ、一郷スベテ痢ヲ患ルコトアリ、和俗是ヲ 腹疫病( ○○○) トイフ、黄蓮陳倉米ヲ加テ、倉廩散ト名付、コレヲ用テ奇効アリ、 噤口痢( ○○○) ニハ右蓮肉粳米ヲ加テ奇効アリ、痢後手足痛ムニハ、木瓜梹榔ヲ加テ甚効アリ、〈啓益〉按ズルニ、世醫ノ倉廩散ヲ用ユル、只疫痢熱痢、或ハ冬月ノ痢風濕ニ感ジテ發シ、或ハ噤口痢ノ類ヲ治スルコトヲ知テ、虚脱ノ痢、及ビ行度多キノ痢ニ用テ効アルコトヲ知ラズ、凡痢病ノ行度八九十度ヨリ百餘度ニ至テ、元氣虚脱スル者ニ、人參ヲ倍シ、コレヲ用ユベシ、諸ノ風藥ハ元氣ヲ升提スル故ニ、下陷ノ氣ヲ升シテ行度少シ減ジ、元氣自ラ生ズルナリ、必ズ赤白痢ヲ問ハズ、度數ノ多キ者ニ是ヲ用ユベシ、奇々妙々、其効アゲテ言ヒ難シ、
p.1415 痢 泄瀉
痢ハ古名ニ非ズ、滯下ト云ト有レドモ、左ニモ非ズ、素問ニ 腸澼( ○○) ト見ユ、難經ニ 大瘕( ○○) ト云モノ痢ナリト云、既ニ金匱ニ下利篇アリ、桃花湯、白頭翁湯ヲ見ルベシ、夫痢ノ字ハ、ニ便ノ下ルヲ利ト唱テアルヲ、後世疒ヲ加ヘテ、大便ノ下ル病ニ用ルコトニナリテケルト見タリ、腹ノ下ルノ名種々ニシテ、不レ暇レ辨、裏急後重シテ赤白ノ物ヲ下スヲ痢トシ、熱多キハ皆舌上黄白、或ハ黒胎ニモナル、引レ渇モアリ、讝語嘔逆自汗ナド有、是ヲ 疫痢( ○○) ト云、只サツト下ルヲ 泄瀉( ○○) ト云、如レ水ニ下ルヲ 水瀉( ○○) ト云、コトノ外、過分ニ下ルヲ 洞泄( ○○) ト云、不斷ニ腹ノ惡イヲ腸滑トモ、又 鴨瀉( ○○) トモ云、左傳ニ河魚腹疾ト云モ、腹ノ下ル病ノ事也ト云、曉ニ及テ腹ノ冷タル樣ニ便心ヲ催シ、夜々下ルヲ 五更瀉( ○○○) 、或ハ脾腎瀉トモ云、是ハ虚損ノ人、或ハ老人ハ不治ニナル、古人モイヤガリシ也、其久シキハ腫ニ變ジテ、足ナドカラ催ス故ニ、時々心ヲ付テ見ルベシ、書籍ニ赤ハ熱、白ハ寒ニ屬ストテ、痢病ニ寒熱ノ見分樣アリ、然レドモ赤白皆熱ナリ、サテ又白キバカリモ赤キバカリモ無シ、赤白雜下ス、
p.1416 貞觀三年八月廿九日庚午、又患二 赤痢一( ○○) 者衆、十歳已下男女兒、染二苦此病一、死者衆矣、
p.1416 長和五年六月八日庚辰、資平云、諸國旱損殊甚、忽有二疫癘之愁一、造宮之期可二延廻一歟、是攝政之氣色也者、成算師云、右大臣〈○藤原顯光〉日來被レ勞二 痢病一( ○○) 、減平之間、從二一昨日一身熱惱苦云々、廿八日庚子、大納言〈○藤原道綱〉病惱更無レ減者、又呼二季寧朝臣一問二案内一爲二 赤痢病一( ○○○) 、去夜廿餘ケ度云々、古無力也者、日次不レ宜、不レ能二詣向一之由相示之、 卅日壬寅、大納言所レ惱無レ減者、呼二季寧朝臣一問二案内一云、無二増減一 赤痢( ○○) 數々若可レ被レ愼歟、明旦可レ被移二中弁定賴宅一、今夕有下欲二相逢一之氣上者、壬寅者問二病見病一重忌乏日也、仍猶豫耳、萬壽二年八月八日丁巳、資高赤班瘡今日當二七ケ日一瘡氣漸消云々、心神無レ減、飮食不受、痢病發動、亦爲云々、諸人相同、此病目胸鼻血及 赤白等痢( ○○○○) 相加云々、先年如レ此、 九日戊午、四位侍從經任、日來煩二赤班瘡一平愈、彼痢病重發云々、兩度問遣、今夕候宜者、 宰相云、參二法興院一、上逹部會合、彼是談之、禪閤還二住法成寺一、可レ有二思出事一、猶不レ可レ居二近邊一、可レ隠二居北山邊一長谷石藏普門寺間歟、廿一日庚午、宰相來云、資房病腹無レ極、去夜痢廿餘度、臨レ昏宰相以二兼成朝臣一言送云、資房病腹不レ体、欲レ令レ服レ韮、今日坎日、明日服藥不レ宜爲レ之如何、答云、昨熱氣散、今日服レ韮、若可レ乖乎、問二兩參陰陽師一隨レ占可レ服レ多、是時疫之所レ致也、暫愼過何如、 廿三日壬申、宰相資房痢頗宜、痛腹無レ隙、令レ食レ韮何、答云、急爲時不レ可レ擇二善惡日一、就レ中韮是非レ合二貴藥一藥有二何事一乎、宰相云、資房今日服レ韮、似レ有レ驗、所勞頗減者、四年十一月廿一日丁巳、義光云、禪室彌以無レ力、痢病無數、絶食已絶、入レ夜中將從二禪門一〈○藤原道長〉來云、從レ時被一危急一、無レカ殊甚、痢病無レ度、悉皆腫物發動、不レ受二醫療一、左右多危、可レ難レ難レ待二得行幸日一之由、家子所レ談、
p.1416 承保四年八月九日丙戌、自二去夜一 下痢( ○○) 如レ流レ水、辛苦無レ極、今日殊無レ力、惘然臥、依二皰瘡一去天平九年六月被レ下二諸國一官符云、及レ痢之時、煮二韮葱一可二多食一者、就二此交一欲レ服レ之處、雅忠朝臣誡云、雖レ見二官符文一、熱氣間不二服始一者、熱散後有二禁忌者、仍予熱間依レ不二服始一、日來不レ服、而人々云、近日遇二此妖一有二痢患之輩一、雖二或熱間服始或不レ服者一、皆服二韮葱一、痢已李愈、誠相二叶官符文一、其驗顯然也、只可レ服者、今朝遂服レ之、
p.1417 天養元年十月十七日甲午、巳刻詣二上皇〈○崇德〉御所一、自レ曉痢病、〈○藤原賴長〉而作日、上皇詔命難レ背、仍扶レ病強參也、
p.1417 近頃ぶさたの知了房といふものありけり、能書にてなん侍ける、ある人古今を書うつしてたべとて、あつらへたりけるを、受取ながらおほかたかヽざりければ、主、しかねて今はたヾかヽずともかへし給ふべしといひければ、知了房こたへけるは、過にし比痢病をつかうまつりしに、紙おほく入候にしに、術つきてさりとてはとて、その古今の料紙をみなもちゐて候なりといひければ、ぬしいふばかりなくおぼえて、料紙こそさやうにもし給ひたらめ、本は候はん、それを返し給らんといへば、知了房其事に候、其本をも紙みそうづにみなつかうまつりて候をば、いかヾして候べきといへりけり、
p.1417 建長八年十一月三日庚寅、相州〈○北條時賴〉令レ煩二 赤痢病一( ○○○) 給、
p.1417 正元二年〈○文應元年〉八月七日壬寅、將軍家〈○宗尊親王〉煩二赤痢病一御、仍爲二相摸太郞殿沙汰一、被レ行二如法泰山府君祭一、爲親朝臣奉仕之、御使狩野四郞左衞門尉、
p.1417 正應二年八月、將軍家〈○久明親王〉赤痢病危急、仍放生會無二御出一、武藏守長時爲二御代官一、舍弟義政并宗政供奉、行方、景賴、基政、師連、長泰參二回廊一、御惱平愈之後、良辨法師任二權僧正一、長世朝臣叙二從四位上一、
p.1417 應永廿七年五月廿二日、菊第新亞相息女〈五歳〉今朝死去云々、大納言も痢病再發無二憑式一云々、家門滅亡時節歟、言語道斷事也、神慮之外無レ取レ憑歟、
p.1417 石州川上之松山落城事
爰ニ藝州佐藤ノ住人、福島三郞左衞門光貞トテ、數箇度ノ戰功ニ勇名ヲ顯シタル兵アリ、日和ノ城攻ラレシ時、赤痢ヲ煩テ死生ヲ不レ分ケル故、催促ニ不レ應ケリ、然ルヲ元就朝臣、如何思給ヒケン、 福島殿ハ煩ヨナト、戯言ノ樣ニ宣ツルヲ聞傳ヘテ、諸人口號ニ、福島殿ハ煩ヨナト云ケレバ、福島、扨ハ吾虚病ヲ作テ軍ノ勝負ヲ窺也トゾ思給ラン、二心有ハ臆病ニモ勝リテ、義人志士ノ所レ恥也、一人ノ手ヲ以テ萬人ノ口ヲ掩難ケレバ、此群疑晴スベキ樣モナシ、所詮病平愈セバ、石州ヘ越、戰死セント思究メテ在シガ、今朝馳來リ物具イツヨリモ花ヤカニヨロヒナシテ、元就朝臣ノ面前ヘ出仕セシカバ、元就、病氣ハ本復シツルヤト宣ケルニ、福島頓首シテ涙ヲ波亂々々ト流シテ退出シタリシヲ覽給テ、福島ハ今日討死スベキ體ニ見エタリ、可レ惜兵ヲト宣ケルガ、果然トシテ三吉ガ備ヨリ六七町先立テ切岸ニ馳上リ、藝州、佐藤ノ住人、福島三郞左衞門光貞生年四十三、今日ノ先陣也トゾ名乘タル、
p.1418 抑今度松任ヘ謙信取詰玉ヒケル、其晩ヨリ 疫痢( ○○) ト云惡病、城内ニ時花十人ニ七八人煩、其中二人三人ハ三日ヲ不レ過シテ忽死ス、依レ之長勇兵タリト云ヘドモ、防戰不レ叶所存,シテ早々落城ス、是ヲ上方筋ニ於テ、散々沙汰申誤リ、謙信ノ働キ玉フ處ハ、諸人惱ミ敵スルコトヲ不レ得、唯人ニテアラズトゾ取沙汰アリ、
p.1418 文政壬午〈○五年〉ノ秋末冬初、浪華ニ 三日コロリ( ○○○○○) ト稱スル病流行セリ、初ハ鎭西ヨリ起リテ〈九洲ニハサノミ多カラズ、絶テ行ザル處モアリシト、〉中國ニ至リ〈藝州ナド尤甚トイヘリ〉浪華ニ及ボシ、京師ニモ偶ハ病モノアリト、其證初起卒ニ惡寒シ、續テ吐瀉甚ク、或ハ胸膈ヘ迫リテ、急ナルハ日ヲ出ズ、緩ナルハ三日許ニシテ斃ルユエ、カクハ名ケシト、浪華ニテハ甚多ク、沿門闔戸死亡スルモノアリトキケリ、導水瑣言ニイヘル三日坊ノ類ナルベシトイヘリ、何レ霍亂ノ一種ニテモアルベキカ、百百漢陰ハ増損理中丸ノ證ナリトイヽ送リタリ、ゲニモ然ルベシ、
p.1418 文政五年〈紀元二千四百八十二年〉八月、虎列剌病始メテ我日本ニ流行シ、先ヅ西國山陰山陽ノ兩道ニ發シ、傳播ノ速カナル僅カニ一日ヲ經ク、既ニ畿内ニ蔓莚シ、病勢甚ダ猛 劇ニシテ、毎戸殆ンド其慘害ヲ蒙ラザルハナク、擧家一人モ餘サズシテ悉ク死亡シタルモノアリ、當時其病ノ何ニ屬スルヲ知ラズ、狼狽其措置ヲ失ス、桂川甫周、大槻玄澤、其證候ヲ考ヘ、斷ジテ眞性亞細亞虎列剌ナリトセリ、時ニ長崎出島ノ和蘭製作所長ジヤンコツク、フロンホツフ、蘭醫ボウイールノ、虎列剌新治法ノ一小冊子ヲ、我政府ニ捧呈セリ、宇田川榕庵直ニ之ヲ邦語ニ譯述シテ、之ヲ世ニ頒ツ、名ケテ虎列剌 沒爾爸斯説( モルピユス) ト云、是ニ於テ世間始テ本病ノ治法據ル所アルヲ知ル、
p.1419 此病〈○暴瀉〉令ヲ距ルコト三十七八年前〈○文政中〉三日コロリト稱シテ、對州ヨリ京師ノ間ニ流行スト云、江戸ハ未ダ行ハルヽヲ聞カズ、掛川老侯〈太田道順〉曰、寬延年間 大霍亂( ○○○) ト稱シテ江戸大ニ行ハレ、死亡夥ク、官水葬ノ令ヲ下シ、貧窮ノ民皆死體ヲ海中ニ棄ト云、未其出典ヲ詳カニセズ、醫入亦之ヲ論ズルモノナシ、西洋ニテハ一千八百二十一年〈文政辛巳、是歳六月此病浪華尤甚ト云、〉東印度ニ始リ、四大洲ニ蔓延スルコト勃微爾ノ書ニ見ユ、明年壬午西舶始テ此書ヲ齎シ來リ、宇田川氏之ヲ譯シテ以災ニ備フト云、今也文運大ニ闢ケ成著陸續出ヅ、先上梓スルモノ 母私篤( モスト) コレラ病論〈新宮義愼、同義〉〈建、大村共同譯、〉虎狼痢治準〈緒方洪庵譯述〉疫毒預防説〈杉田玄端譯、洋書調所析、〉天行病論〈周防長松行文忠著、〉霍亂治略〈尾臺榕堂〉其他一書越中門人九鬼秀逹ヨリ贈ル、今其書名ヲ遺忘ス、最世上ニ早ク傳播スルモノハ松本良順、蘭醫 朋百( ポンベ)〈甫謨百トモ書ス〉ニ口授スル處ノ手記トス、其説ニ云、七八月ノ間、治ヲ施スコト凡ソ一千八百餘人、救活極テ多ト、後長崎ノ商賈江都ニ來リ言、當年流行病朋百ノ療治ニテ一人モ治スルモノナシ、反テ漢科ノ醫ニテ治タリ、其方多ハ五苓散、生姜瀉心湯ト云、又前橋保岡元吉ノ話ニ、同藩金子誠之助、長崎留學中此病ニ嬰リ、直ニ治療ヲ在館ノ蘭醫ニ托スルニ効ナクシテ死ス、同學ノ徒大ニ失望悔恨セリト、夫醫書治術ニ體驗ナケレバ反テ人ヲ害ス、儒可三以兼二天下一、醫可三以利二濟新人一、トハ是ヲ謂フナリ、
p.1420 古呂利考
按ニ古呂利は、萬病回春、霍亂の一名虎狼病ト云より出たりと云、又西洋所レ謂虎列剌ノ轉語と云説あれども、皆附會信ずるに足らず、古呂利は、本皇國の俗語にて、卒倒の義を云て、古より早く病に稱し來ることなり、元正間記云、元祿十二年の頃、江戸にて古呂利と云病はやり、今月流行す、早く南天の實と梅干を煎じて呑ば、其病を受けず、左もなければ、そろりと煩ひて、古呂利と死すとて、江戸中、南天の實と梅干を煎じて飮しと云、此事申出せしは、神田須田町の八百屋揔左衞門と云者、去年大坂より、多く梅干を仕込置し處、今年上方の梅干きれて一向に下らず、これに依て、我梅干を高直にして賣らんとて、かヽることを言出しけるに、遂に官に聞えて八丈島へ流されしと云、又古老の話に、昔古呂利にて、數万人死して葬ること能はず、官因て水葬の令を下すと云、閑窻瑣譚云、正德享保の年間の實録を記せし書に、正德六年の夏、熱を煩ふ病人多く、一ケ月の中に、江戸町々にて死する者八万餘人に及び、棺をこしらへる家にても間に合はず、酒の空樽を求て、亡骸を寺院へ葬する、墓地埋む所なければ、宗體に拘らず、火葬ならでは不レ納と云、依て荼毘所々に火葬せんとすれば、棺桶の數退りもなく積重て、十日二十日の中には、火をかけることならず、其到來の順に荼毘すれば、日數をはるかに經ざれば爲すこと能はず、是に於て貧者の亡骸は如何ともすべきやうなく、町所の長なる入々も、世話行屆兼て、公廳へ訴へ申せしかば、夫々の御慈悲を賜はり、寺院に仰付られ、葬り難き亡骸は、回向の後、菰に包み、舟に乘せて、悉く品川の沖へ流し、水葬になさせられしと云、考ふるに、正德六年は、六月廿二日に改元ありて、享保元年となれり、彼の明暦三年の火災、に十萬八千人の燒亡、當時猶言傳へて怖るれど、享保元年の天行病に、數萬人の一時の死亡せしは、後に傳て言者のなきは、火難と違ひて書留し事のなきにやと云々、又此疾正德年間鎭西に起りて、小兒の感冒最多く、漸次 流轉して尾州の地に及び、大人も適感ずる者あり、人呼で 早手( ○○) と云、之を颶風の猝然として至るに比する也、爾後筑の前後年々行ると云こと、今時醫談、及筑人鷹取遜葊の小兒暴痢新考に詳に見えたり、其後甚く行はれしを文政壬午の秋とす、瘟疫論發揮云、壬午之疫、其初自二朝鮮一傳二于吾西州一、歴二山陰一迨二浪華一、無レ論二老少強弱一、闔戸傳染如二破竹一、死者日三四百人、好生緒言云、壬午癸未間、西州天行病、水瀉二三行而目陷鼻尖云々是なり、
p.1421 初冬得二大坂齋藤方策書一、曰、今 〈○文政五年〉八月、山陰、山陽二道、厲氣流行、至二九月一益盛、覃及二畿内一、或闔戸傳染、甚至レ滅レ門、其症與二尋常疫厲一逈別、其初起、忽然腹痛如レ刳、已而嘔吐下痢齊起、湯藥不レ下レ咽、絶賑轉筋、四肢厥冷、眼匝陷凹、直視天吊、惡候百出、重者三時許而斃、輕者亦不レ出二三日一、醫家見解不レ到、疑怯亂レ内、妄投錯施、更加二失活一、其死者雖レ以二大坂繁庶一、通二一月一計レ之、率不レ下二數千人一、
p.1421 安政五年八月廿七日、 暴瀉病( ○○○) 流行ニ就キ、療治ノ方ヲ逹ス、
此日暴瀉病療治觸逹有レ之と雖ども、其療治方爰に洩る、暴瀉病七月下旬より天下普く流行、阿蘭陀國にてはコレラと云よし、兩三度も暴瀉すれば更に治し難し、故に是をコロリ病と通言する也、八月中、江戸中町屋計り病死人一万二千五百九十三人と云ふ、全流行始終七月廿日頃より九月十日頃迄、凡五十日の間、武家及寺院町方等人別書上に洩れし者共大概差加へ、凡三万人程の死亡と云、
p.1421 其爲レ症、卒然吐瀉如レ傾、或有二一二日違和而後吐瀉頓發者一、吐レ之先吐二其最後所レ食物一、爾後吐二水液粘液及胆液一、其色或黄、或縁緑、味則若苦、若辛酸、如二其量及度數一、則多寡各不レ同、又或有二乾嘔者一、當二此時一也、暴瀉頻發、其液無レ含二些少胆汁一、唯稀粘之水液、恰如二米煎汁一、而上面浮二白色雲翳一、如二其量一、則毎瀉一升、或二三升、至二三五度一而後、量漸減少、不レ過二半時若一二時一、而五七行、或十餘行、或有下及二二三十行一者上、其脈則忽沈弱微細、而殆如二欲レ絶者一、或有下異二左右一者上、或有二結代者一、生力亦頓沈衰虚憊、手足 及顏面唇舌厥冷、冷徹如レ氷、冷汗淋漓、其色蒼白、而皮膚失二張力一、十指生二皮雛一、下肢痙攣轉筋、或有下及二腹若全身一者上、或有下先轉筋痙攣、若麻痺而後發二吐瀉一者上、而腹痛多是不レ甚、小便閉止、或淋滴、或筋惕肉瞤、加レ之吃逆乾嘔、或聲音嗄弱、呼吸不利、苦悶煩躁、顏色憔悴、眼上陷凹、半眼上竄、或手足變二黯紫色一、或屍臭撲レ鼻、或人事不省等、遂以至レ斃、如二其經過一、則有下一日或及二數日一者上、若夫就二治癒一者、則其症之稍輕易而且當二其病初一、得二應症治術之宜一而療レ之者也、
p.1422 此節流行之病症にて、死亡人多く、市中一統恐縮之餘り、中には祈禱と唱、手遊之神輿或は獅子頭等、夜中町内持歩行候哉之趣、畢竟邪氣除候儀と、輕き者共心得違ニ而、右樣之所業致間敷とも難レ申、穩に、祈禱等致し候儀者格別、多人數集り候樣子にては、平日と違、此節柄火之用心者勿論、都而物騷敷儀無レ之樣、兼而申渡置候に付、相愼可二罷在一儀、右體心得違有レ之間敷、全く風聞迄之義と相聞へ候得共、御中陰中、萬一心得違之者有レ之候はヾ、當人者不レ及二申ニ一、町役人共迄急度可レ及二沙汰一候條、其旨町中不レ洩樣可二觸知一もの也、
午〈○安政五年〉九月
p.1422 是歳〈○安政五年〉六月、肥前崎陽暴瀉流行シ、西國ヲ經テ浪華京師ニ及ビ、七月下浣ニ迨テ江戸ニ流轉ス、其病ニ傳染スル者箭ヲ射スルガ如ク、即時目陷リ、鼻尖リ、忽鬼籙ニ上ル者、男女併セテ、武家二萬二千五百五十四人、町家壹萬八千六百八十人ト云、余家族門弟子幸ニ其病ヲ免ル、書夜奔走人ヲ救濟ス、九月上旬ニ至リテ始テ病根絶ス、其治療ノ如キ、余治瘟編及暴瀉須知ヲ著ス、故ニ爰ニ贅セズ、余友南園ノ詩ニ、奇禍秋來滿二四隣一、城中誰肯祝二佳辰一、我家何幸黄花酒、不三復團欒少二一人一、實録ト云ベシ、
p.1422 安政五年八月二日、將軍家病、〈○中略〉八日將軍家定公薨、〈○中略〉
巷説、御内實七月六日薨御と云ふ、其御病症くさ〴〵の風説あれ共、實は暴瀉病なりと、然れども 暴瀉病我國流行の最初故、醫師初め病症譯り難し、且流言を釀せし者ありて、ます〳〵奔馬に鞭打が如く、虚説盛なりと雖ども、後日暴瀉病彌流行、是が爲に江戸死亡人二萬八千餘人に及ぶ、此時に至り、醫師熟考すれば、先の譯り難き病症は則暴瀉なりと、
p.1423 八月〈○安政五年〉朔日より晦日まで、日々書上に相成候死人の員數、
朔日 百十二人 二日 百七人 三日 百五十五人 四日 百七十二人 五日 二百十七人 六日 三百五十人 七日 四百六人 八日 四百十五人 九日 五百六十五人十日 五百五十九人 十一日 五百七人 十二日 五百七十九人 十三日 六百二十六人 十四日 五百八十八人 十五日 五百八人 十六日 六百二十二人 十七日 六百八十一人 十八日 五百六十一人 十九日 五百九十七人 二十日 四百六十九人 二十一日 三百九十二人 二十二日 三百六十三人 二十三日 三百七十人 二十四日三百七十九人 二十五日 四百十四人 二十六日 三百九十七人 二十七日 四百十六人 二十入日 四百三十五人 二十九日 四百四十七人 晦日 三百三十三人
〆一万貳千四百九十貳人 程有レ之候由
此分全書上、此外に、人別なしの者數一万八千七百三十七人、
九月に至りては大きに減じ、三四日頃は五六十人に相成、夫よりははたと相止、通例に相成申候、
或院主の談話に曰く、八月一ケ月に送禮數凡一ケ年分も來りし故、平日は飯焚門番老爺、又門前の無業人を雇ひ、大概世話敷成たりとも、事欠ことはなかりしが、此度は、 石工定日雇( いしやしごとし) も皆々懸りて間に合かね、 井戸堀職人( いどやしよくにん) を賴みたるにて、漸く安堵をなしたりとなん、
p.1423 流行時疫 〈異國名〉コレラ
一薄羅紗又はうこん木綿、或はもんぱの類にて、晝夜とも腹を二重ほどまき置べし、
一桶に湯をいれ、からしの粉を五勺計り其中に加へて、折々兩脚の三里の邊まで浸すべし、
一家の内に、何にても炷ものをなして、濕氣を除くべし、
一一切の菓類を多く食ふべからず
同 治法
一此病をうけたりと知らば、熱き茶の中へ、其茶の三分一焼酎を入れ、砂糖すこしを加へてのむべし、又座敷をたてこめて風にあたらぬやうになし、其上羅紗のきれ又はもんぱに焼酎をつけて、揔身を殘る方なくこすりてよし、
但し手足又は腹などへよく意をつけ、ひえるところあらば、温鐵或は温石をあたヽめ、布につヽみ浴湯せしほどの心持になるまで摩擦べし、
于レ時安政第五戊午年八月 施印
p.1424 安政八年十月廿一日、流行之暴瀉病ニ而死亡候者、取置候寺院より屆之義に付、申上候書付御屆、
先般流行之病症に而、死亡候者、格外多輩之趣に相聞候間、去月中、右病に而死亡之者取置候分、身分并男女に不レ抱、員數御府内寺院銘々より書出し候樣、諸宗觸頭共へ申逹處、追而屆出候に付、揔人數取調候處、左之通御座候身分并男女に不レ拘、總人數二万八千四百二十一人、内土葬九千九百廿三人、右は此程迄に、追々屆出候分に而、いまだ屆後に相成候分も可レ有レ之候得共、凡取調入二御聽一置申候、
p.1424 文久二年七月の半よりは、暴瀉の病にまさりし急症やむ者多くこれあり、こは老少をいはず即時兆し、吐瀉甚しく、片時の間に取詰て、救藥すべからず、死後總身赤くなるもの多 し、
p.1425 暴瀉病
病名
先ヅ霍亂ト云ガ穩也、尋常ノ霍亂ノ、其邪中焦ニアリテ、吐瀉齊ク發スルノミ異也、尋常ナルハ腹痛アルニ、コレハ腹痛モセズ、腹痛スルモアレド、中ノ一ナリ、泄瀉數行ノ後、倐忽ノ間ニ、陽氣虚脱シ、毒氣上攻ス、
治法
三附トイヘド、回挽シガタキアリ、早ク用フレバヨシ、遅ケレバ激ス、半夏黄連ヲ組合セテヨロシキコトアリ、
病家心得
腹鳴水瀉アレバ、一行ニテモ衣被ヲ厚ク覆ヒ、炒鹽ニテ腹中ヲ熨シ、重キハ手足ヲ温石ナドニテ温メ、熱粥ヲ喫セシメ、微發熱微發汗スレバ、氣宇舒暢、瀉從テ減ジ、吐ヲ發スルニ至ラズシテ愈ユ、若飮食動作、常ノ如キヲ以テ輕視スレバ、瞬息ノ間、惡症蜂起、上工モ手ヲ束ヌルニ至ル、
以上、山田昌榮ノ説也、
p.1425 我尾府下の小兒暴瀉の症に懸り、急に死する者多し、〈夏は尤甚し〉諸醫大概手を束て治療の法なきがごとし、食厥氣厥の類示多は暴瀉に混じ、見分る事を誤るもの少からず、去年我府に來る朝鮮の醫官奇斗文に府下の醫某是を問、彼曰、此症温熱を解するを専らとす、宜く寒冷の藥を以て療すべしと、我國専ら温補する者と大に反せり、彼此病を慥に不レ知かと言しに、長崎より來り住せる醫者が曰、彼誤るべからず、水土に依て療治方等しからず、そは西國には暴瀉氣厥の症有事少也、其治方多くは寒冷を以てす、當國の水土を考ふるに、土氣甚薄く水氣漏安し、是に感 じて生ずる人なれば、脾胃の氣薄くして漏泄し安き歟、産後脱血脱氣して暴死するもの、此國のみ多く聞ゆ、人氣を受る事薄く侍る故なるべし、此を以て寒冷の藥多く害ありて、温補の治療相應ずるにや、されど京師難波及び東都、今人參の大劑時めき侍る、是に依て又害をなす事多し、今日我人温劑になれ、寒冷の藥を用ゆる事を恐るヽゆへ、あたらぬ事間々ありと見ゆといへり、
p.1426 小兒暴瀉し頻に死するもの多し、府下の庸醫は ハヤテ( ○○○) といふにや、諸藥驗なく見へし、然るに醫家必讀曰、
漿水散〈治暴瀉如レ水一身盡冷汗出、尤脈弱氣少不レ能レ言、甚者嘔吐此爲二急病一、〉 半夏〈一兩蘭製〉 良姜〈二匁五分〉 乾姜〈炮〉 内桂〈各五匁〉 甘草〈炙五匁〉 附子〈炮五匁〉
右細末して、毎服〈四匁〉水二鐘煮二一鐘一服云々、
p.1426 鎭西諸州ニハ、夏月、小兒ノ暴利多ク行ルトキケリ、筑前ハ其證最夥シ、余〈○多紀元堅〉彼藩ノ醫靑木春澤ニ乞テ其概略ヲ録セシム、今コヽニ掲出スト云フ、暴利ハ多ク六月頃ヨリ八九月頃マデアリ、就レ中中元後稍凉氣ヲ催ス時節最多シ、
p.1426 天保八年七月十四日夜、麻布狸穴旗下士坪田氏ノ兒生テ三歳、暴ニ發熱シ、翌十五日朝ニ至リ吐利甚、賑弦數、身熱焼ガ如ク、時ニ心下ニ撞キ、顏色靑慘、眼閉テ開能ハズ、煩渇飮ヲ引、形體頗ル脱ス、余謾ニ認テ厥陰寒熱錯雜ノ證トシ、乾姜黄芩黄連人參湯ヲ與フ、無レ効而死ス、此證俗間稱シテ 早手( ○○) ト云、蓋迅速ニシテ死スルノ意ト云、後南溟問答ヲ讀ニ、 西國ノ地此病尤多シ( ○○○○○○○○○) 、 名テ暴瀉病ト云( ○○○○○○○) 、又大神活庵治痢軌範云、余以二攻利一爲レ本、大凡無レ不レ治、人不レ知二暴熱利一、故世醫往々誤治、當爲長大息也、余因悔、早ク大承氣湯ヲ與テ之ヲ下サヾルコトヲ、書シテ以後鑒トス、
尾陽村瀨白石曰、 ハヤテ( ○○○) ノ病他邦ニ無處ニシテ、吾尾ノミニ限レリ、醫亦其名ヲ知ラズ、徒ニ呼デ急症トス、延享ノ頃加藤玄順、平安ヨリ來リ、治痢經驗ヲ著シ、文化年間大鶴活庵治痢軌範ヲ著ス モ、其所以ヲ知ラズト説ケリ、森蘭齊ノ颶説ニ至テハ其説詳ナレドモ、未盡ザルニ似テ痧病ニアラズ、吾邦風土一種ノ厲氣ニシテ、時氣ト食物トノ二ッニアリ、而後多クハ痢トナルモノ也、時氣ノミノ者ハ泄瀉シ、或ハ痢ヲ發シ、食毒ノミノ者ハ霍亂ヲナス、故ニ未食物セズ、只乳哺ノミノ者ハ此症ヲ發セズ、嬰兒二三歳ヨリ八九歳マデ尤多、大人ニ稀也、此症ノ發スルヤ俄ニ大熱ヲ發シ、或ハ惡寒手足冷、或ハ發驚搐搦シ、天吊直視、咬牙噤急ヲ發シ、或ハ腹痛嘔吐、呵欠困悶シ、或ハ泄瀉シ、或ハ洞瀉シ、下痢惡臭也、其發スル時、發驚吐瀉一齊ニ來ル毛ノ、俗ニ三拍子揃フト云テ、不治ノ症トス、若三症具ルトモ、其勢緩ナルモノハ治セズト云ベカラズ、大熱下痢、驚ヲ挾ムモノ葛芩連、昏睡シテ不レ醒者ハ重症トス、劇ク下痢スルモ亦葛芩連ナリ、緩ナルハ葛根湯、加二黄連一、大下痢、脈沈微ニシテ昏睡ハ、利多キニ因ル也、桂枝人參湯、加二黄連一、或ハ黄連理中湯、手足厥冷シテ覺ザル者ハ附子、理中、或ハ四逆加二人參湯一也、
p.1427 近聞極北蝦 之地、罹二于 病百二( ハウソウペスト) 病之害一、夷類大減二戸数一、是全因レ不レ得二其治術一也、今夫有二其治術一、不レ傳二之於人一、徒使三生類爲二異物一、是豈仁者之心哉、如二彼種痘方一、世間不レ乏二其書一、故爲翻二譯此一篇一、名以二濟世一方一、願俾下自二都府一以至二幽遠無醫之地一、戸々豫傳二習其方一、以得一レ免二不虞之大禍一矣、蓋雖レ有二奇方一、藥品乏、則不レ能施二其術一、雖レ有二奇術一、關二係醫之巧拙一、則亦不レ能三以行二其技一、若二塗油之一方一、則不レ假二醫家之力一、雖レ使二五尺之童行一レ之、不レ誤二其處置一、則其術簡易、而其所レ及、博且大矣、其治術與二源因一、載在二譯説一、看官其諦焉、安政三年丙辰臈月、仙臺府學蘭學局總裁小野寺將順序、
p.1427 病性
百斯杜( ペスト) ハ惡性ニシテ甚危險ナル疾也、毎々疾速ニ死亡ニ傾キ、其疾ノ性質ハ熱病樣ニシテ衰弱甚シク、生活力減損シ、 熱疽登斑( ○○○○) 等ノ如キ各部ノ諸傍症ヲ兼發ス、若其發斑他ノ諸傍症ト兼發スルトキハ、百斯杜ノ著シキ諸徴也、或ハ他ノ諸傍症各自ニ發顯スルカ、或ハ他病ニ兼發スル時ハ、 惡性ニシテ危險ノ疾也、雖レ然是ニ因テ百斯杜ト名クルコト能ハズ、只百斯杜質ノ病ト稱ス、此疾元來亞細亞洲ヨリ由來シ、歐羅巴洲ニ擴充シ、當今東方ニ傳染ス、其疾ヲ他ノ百斯杜質ノ疾ト、分別スル爲ニ、 東國百斯杜( ○○○○○) 、又 列反杜( レハント/○○○) 百斯杜( /○○○) ト稱ス、
p.1428 天德三年、今年人民頸腫、世號二 福來病( ○○○) 一、
p.1428 長元二年十月、自二去月一至二今月一、京中人病二頸腫一、世謂二之 福來病( ○○○) 一、
p.1428 流行病は、種々の名をおはする物なり、日本紀略、天德三年、人民頸腫、世號二福來病一、長元二年にも此事あり、ふくれやまひなるべし、〈○下略〉
p.1428 福來病
日本紀略天德三年の條に、今年人民頸腫、世號二福來病一云々、同長元二年十月の條に、自二去月一至二今月一、京中人病二頸腫一、世謂二之福來病一云々、倭漢合運長元二年の段に、京人腫、世謂二福來病一云々、按に、玉勝間三の卷に、頸のふくらかなるよりかくいひなせし成べしといへり、こは世にいふ腹ふくれの金持などいふやうに心得たる説にて、ひがこと也、福來はフクレの語にかり用し字にて、やがてフクレ病といふ事なり、福來病、フクレヤマヒと訓べし、
p.1428 久壽元年四月廿九日辛亥自二去廿一日一兼長病惱〈温氣〉昨今有レ増、近日此病充二滿京師一、或稱二 中宮病( ○○○) 一或稱二虚子病一、
p.1428 承安元年十月廿三日、近日稱二 羊病( ○○) 一、貴賤上下煩二病患一、羊三頭在二仙洞一、人傳、承暦之比、有二此事一、件羊返二却之一、
p.1428 治承三年六月廿日、近日天下上下病惱、號二之 錢病( ○○) 一、
p.1428 元暦二年五月廿八日庚戌、自二去廿三日一、基輔有二所勞一、存二風病之由一浴湯、其後増氣、若近日之病歟、〈世稱二 入海病( ○○○) 一云々、〉今日汗出云々、
p.1429 寬元二年五月六日、主上御不豫、近日天下貴賤、兩三日病惱、一人不レ漏レ之、世以號二 内竹房( ○○○) 一、
p.1429 寬元二年五月十八日丁巳、前大納言家并新將軍〈○藤原賴嗣〉御不例御心神殊違亂云云、此外二位殿、三位殿、同令レ煩給、凡近日毎レ人有二此病事一、俗號二之 三日病( ○○○) 一云云、
p.1429 應永卅五年四月十八日、頃日、天下疾疫、世俗稱二三日病一、凡無二遺漏一、古來未曾有云、
p.1429 嘗記、安永己亥年〈○八年〉秋末至二庚子春一、有二一種疫疾一、其證大抵、初起頭痛發熱惡寒、嗣發二疹子一、而或痒或否、或目赤或咽痛、或齒齦腫痛、或頭面脹起、而六七日若十餘日、而乃痊、其脈浮數弦緊、滿城能免者幾希、俗呼稱二 三日痳( ○○○) 一、概與二消毒葛根湯、化斑湯之類一、則疹没而諸證隨安、雖二是毒氣所一レ致、其邪甚輕淺、顧其不レ藥、亦必自愈也、
天明甲辰〈○四年〉春、都下人民、患二頭痛壯熱一、脈洪大數急、而嘔吐不レ止者尤多矣、其證候頗劇、殆有二入レ裏之勢一、然余治レ之、先與二葛根加半夏湯一、繼以二小柴胡湯等一、而取レ效者凡七八人、如二其嘔一、或二三日、或四五日而止、歴胃二十餘日一、諸症漸平、
p.1429 享保十五年十一月、 鍋かふり( ○○○○) といふ疾はやる、鼻より上黒くなる、
p.1429 疹疫ノ事蹟
寬保ノ頃、 ナベカブリ( ○○○○○) トイヘルハヤリ風有テ、死亡甚多カリキ、予八歳ノ時此病ニ罹レリ、快復ノ比ノ事ノミウス〳〵覺タリ、眉ヨリ上腦後髪際に至ルマデ黑色ニナリテ、鍋ヲ冠リタル如シ、色深モノハ多ハ救ヒガタノ、予モヤ、正黑ニ近カリンヨシ、既ニ解スルノ後、其色ウスク殘リテ、其黑所ニ小疹出デ、少シ水泡有テ、カジケタリト覺タリ、其後似タルモノモナシ、今考ルニ寶暦明和ノ頃、水痘ノ類ノ水痘ニモアラズ、又一種ノ發疹一般ニ流行センコトアリ、其發前全ク温疫ニテ未ダ疹ヲ發セズシテ救ハザル者ハ、醫モ疹序ナルヲ知ラズ、時疫トノミ思ヒテスマシタルコト 多シ、辛クシテ死ヲ免ルヽ時、總身ニ疹ヲ發セリ、發セル後ハ事ナクシテ平安ナリ、此疹發セネバ、多クハ救ガタシ、救得レバオソカレトカレ發疹セザルハナシ、水痘ノ如ク少シ水疱アルモアリ、ナキモ有、人々ニシテ少ヅヽ差別有、小大顆粒トヽノフラザル疹ニテ、サノミ稠密ニモアラザリシ、私ニ名ヅケテ疹疫トイヘリ、鍋冠モ此類ノ毒深キモノカト思ハル、其以來一切見及バヌ時疫ナリ、此症ノ治方ハ全ク時疫ノ法ニテ、別ニ手覺ノコトモナシ、予其頃ハワキテ疎漏ナリケレバ、的方モ定メカネタリ、時有テ經ニ傳テ陽症モ陰症モ現ハセリ、盛熱ノ内ニ發疹スルハ即チ解シテ平安ナリ、升麻葛根湯ナド應ぜリ、スベテ葛根芍藥ノ類ヨク應ズ、傳經ニ至レバ經ニ從テ治ヲナセリ、天明ノ頃ハ此症ハアラザレド、葛根葱白湯ナド諸症ニ通テ相當セリ、麻黄桂枝ノ症ナキユヘ、本方葛根湯ハ却テ功ヲナシガタシ、正傷寒ナラヌ温疫ナル故ナルベシ、ソノ頃ノ脚氣腫衝心ニモ葛根葱白湯ナドニテ功ヲ成セリ、皆是時行ノ氣ニ感ジテ熱病ニモ脚氣腫ニモ變ズレバナリ、〈○下略〉
p.1430 德道聖人始建二長谷寺一語第卅一
今昔、世ノ中ニ大水出タリケル時、近江ノ國高島ノ郡ノ前ニ大ナル木流テ出寄タリケリ、郷ノ人有テ、其木ノ端ヲ伐取タルニ人ノ家燒ヌ、亦其家ヨリ始テ郷村ニ病發テ死ヌル病多カリ、是ニ依テ家々其祟ヲ令レ占ルニ、只此ノ木ノ故也ト占ヘバ、其後ハ世ノ人皆其木ノ傍ニ寄ル者一人モ无シ、然ル間ニ大和國葛木ノ下ノ郡ニ住ム人、自然ラ要事有テ彼ノ木ノ有ル郷ニ至ルニ、其人此ノ木ノ故ヲ聞テ、心ノ内ニ願ヲ發ケル樣、我レ此木ヲ以テ十一面觀世音ノ像ヲ造奉ラムト思フ、然レドモ此ノ木ノ輙ク我ガ本ノ栖カヘ可二持亘一キ便无ケレバ、本ノ郷ニ返ヌ、其後其人ノ爲ニ示ス事有テ、其人饗ヲ儲ケ人ヲ伴ヒテ、亦彼ノ木ノ所ニ行テ見ルニ、尚人乏テ徒ニ歸ナムト爲ルニ、試ニ縄ヲ付テ曳見ムト思テ曳ニ、輕ク曳ルレバ喜テ曳ニ、道行ク人カヲ加ヘテ共ニ曳ク程ニ、大和 國葛木ノ下ノ郡ノ當麻ノ郷ニ曳付ッ、然レドモ心ノ内ノ願ヲ不レ遂シテ、其木ヲ久ク置タル間ニ其人死ヌ、然レバ此ノ木亦其所ニシテ徒ニ八十餘年ヲ經タリ、其程其郷ニ病發テ、 首ヲ擧テ病ミ痛ム者多カリ( ○○○○○○○○○○○○) 、是ニ依テ亦此ノ木ノ故也ト云テ、郡司郷司等集テ云ク、故某ガ无レ由キ木ヲ他國ヨリ曳來テ、其ニ依テ病發レル也、然レバ其子宮丸ヲ召出テ勘責スト云ヘドモ、宮丸一人シテ此木ヲ難二取棄一シ、更ニ可レ爲キ樣无レバ思ヒ煩ヒテ、其郡ノ人ヲ催シ集メテ、此木ヲ敷ノ上郡ノ長谷川ノ邊ニ曳棄ッ、
p.1431 丁亥〈○文政十年〉ノ春、羽州庄内ニ 一種ノ疫( ○○○○) アリ、其證恰モ脱疽ノ如ク、足指黑腫シテ腐脱ス、或ハ一指或ハ二指三指ニ及ブ、必斫斷シテ愈タリ、甚キハ踝骨上マデ及スモノアリキ、亦コレヲ斫テ死スルモノハ一人モナカリキト、又イカナルコトニカ、蒼蠅ヲ擦傅シテ効ヲ得タリシコトモアリト、其藩ノ大山侗甫ノ話ナリ、靑腿牙疳ノ類ニモアルベキカ、