p.0561 人ノ身體、骨格、面貌、手足等ヲ觀テ、其人ノ禍福ヲ卜スルヲ觀相ト云ヒ、此ニ從事スルモノヲ相工又ハ相人、相者ナドトモ云ヘリ、支那ニ在リテハ、戰國ヨリ秦漢ヲ經テ有名ノ人輩出シ、我國ニ在リテモ、上古ヨリ既ニ其法アリシガ如シ、 地相ノ説モ、亦夙ニ支那ヨリ傳來シテ、陰陽寮ノ陰陽師ハ、占筮、卜相ト共ニ斯ニ從事シタリ、墓相ハ墓地ノ吉凶ヲ相スルモノニテ、子孫ノ富貴榮達ヲ圖ルニ外ナラズ、家相ハ家屋ノ位置、及ビ其周圍ノ形状、并ニ移轉ノ方角ヲ相シテ、其吉凶ヲ卜スル法ナリ、此法後世特ニ盛ニ行ハレタリ、劍相ハ刀劍ノ吉凶ヲ判ジテ、其人ノ禍福ヲ占スル法ニシテ、德川氏ノ中世、一時大ニ行ハレシト云フ、夢占ハ、ユメアハセナリ、古ク夢解(ユメトキ)トモ稱シ、後世ハ夢判(ユメハンジ)ナドモ云ヘリ、夢ヲ占ヒテ、其事ノ吉凶ヲ判ズルヲ云フ、字占ハ一ニ相字トモ拆字トモ云フ、文字ノ偏傍ヲ分拆シテ、以テ吉凶ヲ判スルヲ云フ、墨色ハ其人ノ寫ス所ノ字畫ノ墨色ニ就テ、其濃淡妍醜ヲ相シテ、人ノ禍ヲ知ル法ナリ、又花押、印判等ノ字畫ニ依リテ、其人ノ吉凶ヲ判ズル法アリ、是亦字占墨色ノ類ナリ、
p.0561 相工(○○) 史記云、長安中、有二相工田文者一、〈相工俗云相人、相音去聲、〉丙丞相、韋丞相、魏丞相微賤時、會二於客宇一、田文曰、此君皆丞相也、其後三人竟爲二丞相一也、
p.0562 相工〈サウコウ相人也〉
p.0562 世間に愚俗を惑はす道具、あらまし左のごとし、 家相 人相 墨色 字畫の占 金神及び佛神の祟 劒相 日取星轉 附物 呪禁 不成就日 辻占 死靈、生靈、
p.0562 相學てふものは、いにしへよりもある事にて、もと五行生尅よりして、ことわりつめたるものなり、かの水中のおもては水上の人、鏡中の人は鏡外の人にて、おのづからなる道理なり、すこし文字まなぶものは、ことにそしるぞかし、世の中にあるとある事、みな道理いちじるしき事はなきなり、かまへてその理を窮めんとすれば、無益の事にて勞するなり、只吉凶の相あらはるゝとも、敬怠の二字にけつすべし、
p.0562 相、古之人無レ有也、學者不レ道也、古者有二姑布子卿一、今之世梁有二唐擧一、相二人之形状顏色一、而知二其吉凶妖祥一、世俗稱レ之、古之人無レ有也、學者不レ道也、故相レ形不レ如レ論レ心、論レ心不レ如レ擇レ術、形不レ勝レ心、心不レ勝レ術、術正而心順、則形相雖レ惡、而心術善、無レ害レ爲二君子一也、形相雖レ善、而心術惡、而無レ害レ爲二小人一也、君子之謂レ吉、小人之謂レ凶、故長短小大善惡形相、非二吉凶一也、古之人無レ有也、學者不レ道也、蓋帝堯長、帝舜短、文王長、周公短、仲尼長、子弓短、昔者衞靈公有レ臣、曰二公孫呂一、身長七尺、面長三尺焉、廣三寸、鼻目耳具而名動二天下一、楚之孫叔敖、期思之鄙人也、突禿長左、軒較之下、而以レ楚霸、葉公子高、微小短瘠、行若レ將レ不レ勝二其衣一、然白公之亂也、令尹子西、司馬子期皆死焉、葉公子高入據レ楚、誅二白公一、定二楚國一、如レ反レ手耳、仁義功名善二於後世一、故士不レ揣レ長、不レ揳レ大、不レ權二輕重一、亦將志乎心耳、長短小大美惡形相豈論也哉、且徐偃王之状、目可レ瞻レ馬、仲尼之状、面如レ蒙レ倛、周公之状、身如二斷菑一、皐陶之状、色如二削瓜一、閎夭之状、面無二見膚一、傳説之状、身如二植鰭一、伊尹之状、面無二須麋一、禹跳、湯偏、堯舜、參牟子、從者將論二志意一、比二類文學一邪、直將下差二長短一、辨二善惡一、而相欺傲上邪、
p.0563 閻羅王使鬼得二所レ召人之賂一以免縁第廿四 楢磐島者、諾樂左京六條五坊人也、居二住于大安寺之西里一、聖武天皇世、借二其大安寺修多羅分錢卅貫一、以往二於越前之都魯鹿津一而交易、以レ之運超、載レ船將二來家一之時、忽然得レ病、思二留レ船單獨來一レ家、借レ馬乘來、至二于近江高島郡磯鹿辛前一而睠之者、三人追來、後程一町許、至二于山代宇治椅一之時、近追附、共副往、磐島問之、何往人耶、答言曰、閻羅王闕召二楢磐島一之往使也、〈○中略〉三鬼之中一鬼議言、汝何年耶、磐島答云、我年戊寅也、鬼云、我聞率川社許相八卦(○○○)讀、與レ汝同有二戊寅年之人一、宜二汝替一者、召二將彼人一、
p.0563 相レ人振古有焉、今世猶傳二其法一者、相二人之面目骨相一、以言二其吉凶殃祥一、有レ中有レ不レ中、然無レ益二乎學者一、但唐一行嘗語レ人曰、吾得二古人相法一、相レ人之法、以二洪範五福六極一爲レ主、觀二其所一レ由、察二其所一レ安、可レ得二大 一、若其人忠孝仁義、所レ作所レ爲、言行相應、顚沛造次、必歸二於善一者、吉人也、若不忠不孝、不仁不義、言行不二相應一、顚沛造次、必歸二於惡一者、凶人也、吉人必獲二五福之報一、凶人必獲二六極之刑一、不レ于二其身一、必于二其子孫一、若但於二風骨氣色中一、料二其前程休咎一、豈能悉中也、宋錢世昭、錢氏私誌載、予謂、此一行之言、可レ謂二相法之至一矣、荀卿非相、王充骨相、皆偏而不レ切也、
p.0563 世に相者(○○)といふ者あり、其傳一派ならず、〈○中略〉今の相者、或は人の面を三十六禽になぞらへ、虎に似たるは虎の性を以一生を説、鼠に似たるは鼠の陰なる性を一代へあてゝ説類、半猫半鼠とて、額は猫に見たて、往事を猫にて説、向後の事を鼠にて説など、又は福壽貧夭の四十二相を圖せしものありて、是にて考ふるもあり、
p.0563 相人之用 先人を相する時は、安座して、其體の天地人を正敷備へて、七息、又心を氣海に居して、六根を遠ざけ、而して後、心六根をゆるして以て相を辨ず、〈○中略〉 先人を相する時は、第一行往座臥の間におゐて、其こゝろを相して後、神氣の強きよわきを相し、 次に忠孝のこゝろざしあるか無きかを相し、次に陰德の志を相し、次に意動き不レ動を相し、次に始末のなるならざることを相し、又視聽言動の間に相して後、骨格血色流年によつて、こと〴〵く善惡を相する事、專一にして可也、
p.0564 相説 大凡觀二人之相貌一、先觀二骨格一、次觀二五行一、量二三停之長短一、察二面部之盈虧一、觀二眉目之淸秀一、看二神氣之榮枯一、取二手足之厚薄一、觀二鬚髮之疎濁一、量二身材之長短一、取二五官之有一レ成、看二六府之有一レ就、取二五岳之歸朝一、看二倉庫之豐滿一、觀二陰陽之盛衰一、看二威儀之有無一、辨二形容之敦厚一、觀二氣色之喜滯一、看二體膚之細膩一、觀二頭之方圓、頂之平搨、骨之貴賤、肉之粗流、氣之短促、聲之響喨、心田之好歹一、倶依二部位流年一而判、推二骨格形局一而斷、不レ可順レ時趨奉、有レ玷二家傳一、但於二富貴貧賤壽夭窮通榮枯得失星宿流年休咎一、備皆週密、所レ相二於人一萬無二一失一、學者亦宜二參詳推求眞妙一、不レ可二忽諸一、
p.0564 相人 許負 康擧 蔡澤 京房 管輅 左慈 圭孟 董興 朱平 胡嫗 樊英 李南 陶隱〈已上唐十三家〉 滿洞 皐通 淸河 觀睿 笠景 睿登 盧平 洞昭〈一云調昭〉 睿聖 義舜 日暗 忠壽敎光 浄藏 磐上 重恒 説云、唐人張滿洞、々々傳二周皐通一、皐通傳二淸河大臣一、大臣傳二觀睿律師一、律師傳二睿公一睿公傳二義舜一、自餘隨二舜公并目暗一者、洞昭之後也、敎光〈橘高明大臣〉淨藏〈善相公第八男〉磐上別當、
p.0564 相形事 抑相者、洽浩五天之雲洪、携二九州之風一、五行結レ氣、成レ膚成レ形、四相禀レ運、保レ壽保レ神、依レ之月氏映光、敎主釋尊、屢應二其言一、日域傳景、太子上宮、剰顯二其證一、一行禪師者、漢家三密之大祖、圓輸滿月床傍、審二一百廿之篇章一、延昌僧正者、我朝一宗之先賢、界如三千之窻内、省二七十餘家之施設一、内外共厲二此術一、凡聖同弘二斯 業一、ナジカハ違ベキ、サレバ昔登乘ト申相人アリキ、帥内大臣伊周ヲバ、流罪相御坐ト相タリケルガ、彼伊周公ノ類ナク通給ケル女房ノ許ヘ、寬平法皇ノ忍テ御幸成ケルヲ驚シ進セントテ、蟇目ヲ以テ射奉リタリケレバ、被二流罪一給ヘリ、又太政大臣賴通、宇治殿、太政大臣敎通、大二條殿、二所ナガラ御命八十、共ニ三代ノ關白ト相シ奉タリケルモ、少モ不レ違ケリ、又聖德太子ハ御叔父崇峻天皇ヲ橫死ニ合給ベキ御相御座ト仰ケルニ、馬子ノ大臣ニ被レ殺給ケリ、又太政大臣兼家、東三條殿四男ニ、粟田關白道兼ノ不例ノ事オハシケルニ、小野宮ノ太政大臣實賴御訪ニ御座タリケレバ、御簾越ニ見參シ給テ、久世ヲ治給ベキ由被レ仰ケルニ、風ノ御簾ヲ吹揚タリケル間ヨリ奉レ見給テ、只今失給ベキ人ト被レ仰タリケルモ不レ違ケリ、又御堂馬頭顯信ヲ民部卿齊信ノ聟ニトリ給ヘト人申ケレバ、此人近ク出家ノ相アリ、爲レ我爲レ人イカヾハト被レ申タリケルガ、終ニ十九ノ御年出家アリテ、比叡山ニ籠ラセ給ニケリ、又六條右大臣ハ、白川院ヲ見進テ、御命ハ長ク渡ラセ給ベキガ、頓死御相御坐ト申タリケルモ違ハザリケリ、サモ然ベキ人々ハ必相人トシモナケレ共、皆カク眼カシコクゾ御座ケル、况ヤ此少納言惟長モ、目出キ相人ニテ、露見損ズル事ナシ、サレバ異名ニ、相少納言トコソイハレケルニ、高倉宮ヲバ何ト見進タリケルヤラン、位ニ即給ベシト申タリケルガ、今角ナラセ給ヌルコソ、然ベキ事ト申ナガラ、相少納言誤ニケリト申ケリ、
p.0565 自序〈○中略〉 夏殷之間不レ分二醫相一(○○○○○○○○)、周大王相二歴昌一、史逸相二穀難一、叔服得二識鑑之譽一、皆震旦觀察之權輿也、阿私陀仙相二釋迦文一、耆婆醫携二藥王樹一、又月氏相レ人之元始也、上宮太子相二崇峻天皇一、鈴鹿老翁相二天武帝一、是日域風鑒之明證也、鎌足、淸行、廉平、維長等、亦本朝水鏡之達人也、扶桑與二梵漢一、雖下數踰二千祀一、地隔中萬里上、其言不レ異、如レ合二符節一、〈○中略〉宗朝麻衣老祖、蚤研二究百家一、廣發二揮相法一、然知二妙道不一レ可レ授二凡庸一、終隱二於華山石室一、能盡二其學一者、陳希夷先生而已、觀察精妙、超二于許郭一、道學之卓見、高二於老莊一、眞相家之中興也、明初、袁氏父 子出、復潤二色斯術一、神相全編至二于玆一大成、其爲レ書、玄機明透、更無二餘蘊一矣、〈○中略〉乃命二家童一正レ之、授二剞劂一公レ之、〈○中略〉 時文化二乙丑年五月端之天 東都雲臺觀石龍子法眼藤原相明謹撰
p.0566 相者龍袋 龍袋は、赤塚氏なれども、幼より他家を繼で、中村を稱す、名重治、通名孫兵衞といへども、號をもてしらる、爲レ人世務に疎く、家の有無を心とせず、相道に長じ、門人も亦多し、相者は多く既往を知て、將來に昧きに、此人つねに門人に會して、其血色を見て曰く、子明日は花見に遊ばんとするや、また一人にはいふ、暮なば靑樓に登らんとおもへるやなど、其言一つもたがはず、あるとき一人を制して出入をとゞむ、いかなる故ともしらざりしに、後に或る家婦に淫せり、其しれるもの、翁に問て、もし此ことにや、然れども其時はさることなかりしにはいぶかしといふ、翁云、血道既に動たり、それも諫てとゞむべきなれば、事に先だちてとゞむべし、諫の及ざるを决するゆゑに、交を斷りと、又博奕にふけりしものも、かくのごとくなりしなど、其門人話せり、凡、人を相するに、必心術を説て曰く、相善なりといへども、志不レ善なれば益なし、相の不レ善も亦能志行をもて勝べしと、又曰、相を見る人は世に多し、相を行ふ人は稀なり、吾は孤相なり、孤なれば必ず貧なり、孤に居て貧を安ずべしと、其家を然るべき人に讓り、一子新次郞といへるも、他の嗣とす、妻ははやく失ひたれば、獨身にて、食あれば喰ひ、盡る時は不レ食、後また知己門人等に別を告て曰、我餓死の相あり、徒に生て他の施を費べからずと、是より門戸を閉、出入を禁じて不レ食、數日の後逝せり、齡五十有七也、
p.0566 相學者に、神谷登とて、京都より下りて、殊の外江府に鳴たり、卜筮者に平澤左内と云もの出で、是も世擧てもてはやしたり、今も市中の筮者の看板に平澤が號を出せるあり、
p.0567 崇峻天皇元年三月、天皇密召二太子一曰、人言汝有二神通之意一、復能相レ人(○○○)、汝相二朕之體一、勿レ有二形跡一、太子奏曰、陛下玉體、實有二仁君之相一、然恐非命忽至、伏請能守二左右一、勿レ容二姦人一、天皇問レ之、何以知レ之、太子曰、赤文貫二眸子一、爲二傷害之相一、天皇引レ鏡而視レ之大驚、太子謂二左右一曰、陛下之相、不レ可二相博一、是過去之因也、若崇二三寶一、遊二魂般若一者、万分之一、庶幾免矣、即命二群臣左右一、能衞二護陛下一、近習之間、宿寤相易、〈○又見二扶桑略記一〉
p.0567 淡海朝大友皇子二首 皇太子者、淡海帝之長子也、魁岸奇偉、風範弘深、眼中精耀、顧盻煒燁、唐使劉德高見而異曰、此皇子、風骨不レ似二世間人一(○○○○○○○)、實非二此國之分一、〈○中略〉 大津皇子四首 皇子者、淨御原帝之長子也、状貌魁梧、器宇峻遠、幼年好レ學、博覽而能屬レ文、及レ壯愛レ武、多力而能擊レ劒、性頗放蕩、不レ拘二法度一、降レ節禮レ士、由レ是人多附託、時有二新羅僧行心一、解二天文卜筮一、詔二皇子一曰、太子骨法、不二是人臣之相一、以レ此久在二下位一、恐不レ全レ身、因進二逆謀一、迷此詿誤、遂圖二不軌一、嗚呼惜哉、
p.0567 その大臣〈○惠美〉のむすめおはしき、色かたちめでたく、世にならぶ人なかりき、鑒眞和尚の、此人千人のおとこにあひ給ふ相おはすとのたまはせしを、たゞうちあるほどの人にもおはせず、一二人のほどだにも、いかでかと思ひしに、ちゝの大臣うちとられし日、みかたのいくさ千人、こと〴〵くにこの人をおかしてき、相はおそろしき事にぞはべる、
p.0567 嘉祥三年五月辛巳、嵯峨太皇太后崩、〈○中略〉太皇太后姓橘氏、諱嘉智子、父淸友少而沈厚、渉二獵書記一、身長六尺二寸、眉目如レ畫、擧止甚都、寶龜八年、高麗國遣レ使修レ聘、淸友、年在二弱冠一、以二家良子姿儀魁偉一、接二對遣客一、高麗大使獻可、大夫史都蒙見レ之而器レ之、問二通事舍人山於野山一云、彼一少年爲二何人一乎、野山對、是京洛一白面耳、都蒙明二於相法一、語二野上一云、此人毛骨、非二常子孫大貴一、野上云、請二問命之長短一、 都蒙云、三十二有レ厄、過レ此無レ恙、其後淸友娶二田口氏女一生レ后、延暦五年爲二内舍人一、八年病終二於家一、時年卅二、驗レ之果如二都蒙之言一、后爲レ人寬和、風容絶異、手過二於膝一、髮委二於地一、觀者皆驚、〈○中略〉初法華寺有二苦行尼一、名曰二禪雲一、見二后未一レ笄、就把二其臂一云、君後當レ爲二天子及皇后之母一、戸 記レ之、遂生二仁明天皇及淳和太皇太后一、后追二想尼言一、訪二其所在一、尼時既亡、
p.0568 貞觀十年二月十八日壬午、參議正四位下行右衞門督兼太皇太后宮大夫藤原朝臣良繩卒、良繩字朝台、左大臣内麻呂朝臣孫、而正五位下備前守大津之子也、良繩風容閑雅、擧止詳審、興福寺僧圓壹好相レ人、見二良繩状貌一云、必登二卿相一、榮寵无レ比、退語二同志一云、嗟呼於レ命獨有レ可レ惜矣、
p.0568 天皇諱時康、仁明天皇第三之皇子也、〈○中略〉嘉祥二年、渤海國入覲、大使王文姫、望下見天皇在二諸親王中一、拜起之儀上、謂二所親一曰、此公子有二至貴之相一、其登二天位一必矣、後有二善相者藤原仲直一、其弟宗直侍二奉藩宮一、仲直戒レ之曰、君王骨法(○○○○)、當レ爲二天子一、汝勉事二君王一焉、
p.0568 さても〳〵しげきが年かぞへさせたまへ、たゞなるよりは、としをしり侍らぬがくちおしきにといへば、さふらひいで〳〵とて、十三にておほき大殿にまいりきとのたまへば、とをばかりにて、陽成院おりさせ給ふ年はいますかりけるにこそ、これにてをし思ふに、あのよつぎの主は、今十餘年がおとゝにこそあめれば、百七十にはすこしあまり、八十にもをよばれにたるべしなど、手をおりかぞへて、いとかばかりのみとしどもは、相人などに相ぜられやせしととへば、させる人にも見え侍らざりき、たゞこまうど〈○高麗人〉のもとに二人つれてまかりたりしかば、二人長命と申しかど、いとかばかりまで候べしとはおもひがけ候べきことか、こと〴〵とはんとおもひたまへしほどに、昭宣公の君達三人おはしましにしかば、え申さずなりにき、それぞかし、時平のおとゞをば御かたちすぐれ、心たましゐかしこく、日本のかためともちゐんにあまらせ給へりと申、びはどの仲平をばあまり御心うるはしくすなほにて、へつらひかざりたる日本の小 國にはおはせぬ相なりと申、貞信公をばあはれ日本のかためやな、かくよをつぎかどをひらく事、たゞこのとのと申たれば、われをあるが中にさえなくてんごくなりとかくいふ、はづかしきことゝおほせられけるは、されどその儀にたがはず、かどをひろげ榮花をひらかせ給へば、なをいみじかりけりと思ひ侍りて、又まかりたりしに、小野宮殿おはしましゝかば、え申さずなりにき、ことさらにあやしき姿をつくりて、下臈のなかに遠くゐさせ給へりしを、おほかりし人のうへよりのびあがり見奉りて、およびをさして物を申しかば、なに事ならんと思ひ給へしを、のちにうけたまはりしかば、貴臣よと申けるなり、さるはいとわかくおはします程なりかしな、
p.0569 そのころ、こまうどのまいれるがなかに、かしこきさうにん(○○○○)ありけるを、きこしめして、宮のうちにめさんことは、うだのみかどの御いましめあれば、いみじうしのびて、このみこ〈○源氏〉を、鴻臚館につかはしたり、御うしろみだちてつかうまつる、右大辨のこのやうにおもはせて、ゐてたてまつる、相人おどろきて、あまたゝびかたぶきあやしぶ、くにのおやと成て、帝王のかみなきくらゐにのぼるべき相おはします人の、そなたにてみれば、みだれうれふることやあらん、おほやけのかためとなりて、天下をたすくるかたにてみれば、またその相たがふべしといふ、〈○中略〉みかどかしこき御心に、やまとさう(○○○○○)をおほせて、おぼしよりにけるすぢなれば、いまゝでこのきみを、みこにもなさせ給はざりけるを、相人はまことにかしこかりけりと覺しあはせて、無品親王の外戚のよせなきにてはたゞよはさじ、わが御世もいとさだめなきを、たゞ人にておほやけの御うしろみをするなん、行さきもたのもしげなることゝおぼしさだめて、いよ〳〵みちみちのざえをならはさせ給ふ、
p.0569 やまとさう 藤原仲直が光孝天皇を相したてまつり、廉平が、高明公を相せしは、みなやまとさう也、
p.0570 延喜御時、狛人相者參來、天皇御二于簾中一、奉レ聞二御聲一云、此人爲二國主一歟、多レ上少レ下之聲也、叶二國體一云々、天皇耻給、不二出給一云々、次先坊〈保明太子〉左大臣〈時平〉右大臣〈菅家○道眞〉三人列座、依レ勅令レ相、云第一人〈先坊〉容貌過レ國、第二〈時平〉賢慮過レ國、第三〈菅家〉才能過レ國、各不レ叶二此國一、不レ可レ久歟云々、爰貞信公〈○藤原忠平〉爲二淺臈公卿一、遙離レ列候給、相者遮申云、彼候人、才能心操形容、旁叶二國定一、久奉公歟、寬平法皇聞二食此事一、被レ仰云、三人事不レ及二於貞信公一、向後必可レ善之由所レ見也云々、因レ之以二第一女王一、於二朱雀院西對一、有二嫁聚之儀一、于レ時貞信公大辨參議云々、法皇同御二於東對一云々、又貞信公云、吾賢慮之條、雖レ兄不レ可レ劣二申左大臣一、於二他事一者更不レ可レ及、今相者所レ見尤所レ爲レ恥也云々、
p.0570 貞信公、太政大臣ニ成給テノ給ヒケル、我カタジケナク人臣ノ位ヲキハム、コノカミ時平大臣ヲ太政大臣ニナサルベキヨシ、前皇オホセラレケルニ、カノオトヾ奏シテ申サク、弟忠平必此官ニイタルベシ、一門ニ二人イルベカラズトテ、勅命ヲウケズトイヒキ、コレヒガ事ナリ、タヾシ三善文君ガ宮内卿靈託宣シテ云ク、冥途宮中ニ、金籍ノ銘ニ太政大臣從一位トシルセリト云テ、其時此事ヲウタガヒキ、今ムナシカラズ、又故大江玉淵朝臣、我ヲ相シテ官位ヲキハムベシト云キ、ハタシテ相カナヘリトゾノ給ヒケル、〈○中略〉 西宮左大臣〈○源高明〉日クレテ、内ヨリマカリ出給ケルニ、二條大宮ノ辻ヲスグルニ、神泉苑ノ丑寅ノ角、冷泉院ノ未申ノ角ノツイヂノ内ニ、ムネツイヂノ覆ニアタルホドニ、タケタカキモノ三人タチテ、大臣サキオフ聲ヲキヽテハ、ウツブシ、オハヌ時ハ、サシ出ケリ、大臣其心ヲ得テ、シキリニサキヲヲハシム、ツイヂヲスグルホドニ、大臣ノ名ヲヨブ、其後ホドナク大事出キテ、左遷セラレケリ、神泉ノ競馬ノ時、陰陽識神ヲ啒シテウヅメルヲ、今ニ解除セズ、其靈アリトナンイヒツタヘタル、今モスグベカラズトゾ、アリユキトイフ陰陽師ハ申ケル、コノオトヾ行幸ニツカマツラレタリケルヲ、伴別當廉平ト云相人見テ、イマダカヽル人ミズトホメケルガ、スギ給テ後、ウシロヲミ テ、背ニ吉相ナカリケリ、オソラクハ遷謫ノ事アラムト云ケル、ハタシテ其詞ノ如シ、
p.0571 一條院御時、伴別當ト云相人アリケリ、帥内大臣〈○藤原伊周〉遠行ヲモ兼テ相申タリケリ、件者物ヘ行ケル道ニ、橘馬允賴經ト云武者、騎馬シテ下人七八人許具シテ逢タリケルヲ、此相人見テ、往過後喚返云、是ハ某ト申相人ニ侍リ、如レ此事令レ申ハ有レ憚事侍レド、又爲二冥加一不レ可レ不レ申、今夜中及二御命一、可レ令レ愼、中レ矢給御相、令二顯現一給也、早令レ歸給、可レ令二祈禱一云々、爰賴經驚云、何樣ノ祈禱ヲシテカ、可レ免二其難一哉、相者云、取二其身一難レ去大事ニ令レ思給者ヲ不レ論二妻子一殺ナンドシテゾ、若令レ轉給事モ可レ侍云々、賴經忽打歸テ、路スガラ案樣、大葦毛トテ持タル馬コソ妻子ニモ過テ惜物ナレ、ソレヲ殺ト思ケリ、歸ヤオソキト、 居ノ前ニ一疋別ニ立飼ケレバ、カリマタヲハゲテ、馬ニ向テツル引タルニ、蒭ウチクヒテ立タルガ、主ヲ見テ何心ナクイナヽキタリケルニ、射殺之心地モセデ、美麗ナル妻ノ不レ思氣色ニテ、大ナル皮籠ニ寄懸テ、苧ト云物ウミテ居タル方ヘ、引タル弓ヲヒネリムケテ射レ之、中ヲ射串テ皮籠ニ射立畢、妻ハ矢ニ付テ死畢、而此皮籠ノ内ヨリ血流出、皮籠動ケレバ成レ奇、開見之處、法師ノ腰刀拔テ持タルガ、尻ニ矢ヲ被二射立一テ死ナントテ動ナリケリ、賴經付レ寢之後コロサセントテ、密夫ノ法師ヲ皮籠ノ内ニ隱置タリケル也、件相人非二直之人一歟、
p.0571 中關白〈○藤原道隆〉高内侍に忍てかよひ給ひけるを、父成忠卿うけぬ事に思ひけるに、或時出給ひけるをうかゞひみて、かならず大臣にいたるべき人なりと相して、その後ゆるし奉てけり、
p.0571 故女院〈○東三條院藤原詮子〉の御修法して、飯室權僧正のおはしまし候はん僧にて、相人の候しを、女房どものよびて相せられけるついでに、内の大炊殿〈○道隆〉はいかゞおはするととふに、いとかしこうおはします、中宮大夫殿〈○道長〉こそいみじくおはしませといふ、又あはた殿〈○道兼〉をとひたてまつれば、それもいとかしこうおはします、大臣の相おはします、又あはれ中宮大夫殿にこ そいみじうおはしませといふ、また權大納言殿〈○伊周〉をとひ奉れば、それもいとやむごとなくおはします、いかづちの相おはしますと申ければ、いかづちはいかなるぞととふに、ひときはゝいとたかくなれど、のちどものなきなり、されば御すゑいかゞおはしまさんと見えたり、中宮大夫殿こそ、かぎりなくきはなくはおはしませとこそ、人をとひたてまつるたびには、此入道殿をかならずひきそへ奉りてほめ申、いかにおはすれば、かくたびごとにはきこえ給ふぞといへば、第一の相には、虎子如レ渡二深山峯一なりと申たるに、いさゝかもたがはせ給はねば、かく申侍るなり、このたとひは、とらの子のけはしき山のみねをわたるがごとしと申なり、御かたちようて、いはゞ毘沙門のいきほひ見たてまつるがやうにおはします、御さうかくのごとしといへば、たれよりもすぐれ給へりとこそ申けれ、いみじかりける上ずかな、あてたがはせ給へる事やはおはしますめる、帥のおとゞは大臣まですがやかになり給へりしを、はじめよしとはいひけるなめり、いかづちはおちぬれど又もあがる物を、ほしのおちていしとなるにぞたとふべきにや、それこそかへりあがることなけれ、
p.0572 今の衞門のかみ〈○實成〉ぞ、とくよりこの君〈○右馬頭顯信〉は出家の相こそおはすれとの給ひて、中宮大夫殿〈○能信〉のうへに御せうそこきこえさせ給ひけれど、さるさうある人をばいかでかとて、後に此大夫殿をばとりたてまつり給へるなり、正月にうちよりいで給ひて、この衞門督馬頭の物よりさしいでたりつるこそ、むげに出家の相ちかくなりて見えつれ、いくつぞよとのたまひければ、頭中將〈○能信〉十九にこそなり給ふらめと申給ひければ、さてはことしぞし給はんとありけるに、かくときゝてこそ、さればよとのたまひけれ、相人ならねどよき人はものを見給ふなり、
p.0572 土御門右大臣〈○具平親王子源師房〉ムマレテ二歳ノトキ、後中書王〈○具平親王〉ノ給ケル、コノチ ゴ將軍ノ相アリ、カナラズ大將ニナルベシ、入道〈○藤原道長〉コノ事ヲキヽ給ヒケリ、ハタシテカナヘリ、
p.0573 平中納言時望相二一條左大臣一事 故右大辨時範談云、一條左大臣〈○源雅信〉年少之時、故平中納言時望、到二其父式部卿敦實親王一、召二出雅信一、令二時望相一レ之、時望相云、必至二從一位左大臣一歟、下官子孫若有二申觸事一者、可レ有三必擧二用之一也、數刻感歎云云、時望卒後、一條左大臣感二彼知己之言一、惟仲肥後之公文間、殊施二芳心一、惟仲者、是時望孫、珍材男云々、是故平宰相〈○親信〉之説也、彼家傳語之由、時範所レ談也、
p.0573 珍材朝臣從二美作一上道之路、寄二宿備後國上治郡一、召二郡司女一、令レ打レ腰之間懷孕畢、後其兒〈○平惟仲〉至二七歳一之時、郡司相具前二立之一、參二珍材之許一述二子細一、珍材思二出件事一涕泣、珍材者極相人也、仍見二此兒一、可レ至二二位中納言一之相アリト云テ養育、果如二父相一云々、
p.0573 又平家自二往昔一累代傳二相人之事一、又惟仲中納言其母讃岐國人也、珍材爲二讃岐介一之時、所レ生子也、而去レ任之後尋二來珍材一、召人相レ之云、汝必至二大納言一歟、但依二貪心一頗有二其妨一、可レ愼レ之也云々、後果至二中納言大宰帥一、件時宇佐宮第三寶殿付レ封之、依二件事一被二停任一之、是往年先親所二傳語一也云々、
p.0573 大納言道明到レ市買レ物事 被レ命云、往代人多到レ市自買レ物、道明與レ妻同車、到レ市買レ物、市中有二一嫗一、見二大納言妻一曰、君必爲二大納言妻一、次見二道明一曰、此人之力歟云々、
p.0573 江帥者極相人也、淸隆卿因幡守之時、爲二院御使一到二江帥之許一、入二持佛堂一念誦之間也、仍御使ヲ縁ニ居エテ、隔二明障子一謁レ之、淸隆卿御使也、奇怪事哉ト乍レ思、數刻問答事畢、歸參之時、障子ヲ細目ニアケテ喚返テ云、ソコハ官ハ正二位中納言、命ハ六十六ゾヨト云々、果如レ言、
p.0573 僧登照相レ倒二朱雀門一語第二十一 今昔、登照ト云僧有ケリ、諸ノ形ヲ見、音ヲ聞キ、翔ヲ知テ、命ノ長短ヲ相シ、身ノ貧富ヲ敎ヘ、官位ノ高下ヲ令レ知ム、如レ此相スルニ、敢テ違フ事无カリケレバ、京中ノ道俗男女、此登照ガ房ニ集ル事无二限リ一、而ルニ登照物ヘ行ケルニ、朱雀門ノ前ヲ渡ケリ、其門ノ下ニ男女ノ老少ノ人、多ク居テ休ケルヲ、登照見ルニ、此門ノ下ニ有ル者共、皆只今可レ死キ相有リ、此ハ何ナル事ゾト思テ、立留テ吉ク見ルニ、尚其相現也、登照此ヲ思ヒ廻スニ、〈○中略〉若シ此門ノ只今倒レナムズルカ、然ラバゾ被二打壓一テ忽皆可レ死キト思ヒ得テ、門ノ下ニ並居タル者共ニ向テ、其レ見ヨ其ノ門倒レヌルニ、被二打壓一テ皆死ナムトス、疾出ヨト音ヲ高ク擧テ云ケレバ、居タル者共此ヲ聞テ、迷テハラ〳〵ト出タリ、登照モ遠ク去テ立リケルニ、風モ不レ吹、地震モ不二振ハ一、塵許門喎(ユガミ)タル事モ无キニ、俄ニ門只傾キニ傾キ倒レヌ、然レバ急ギ走リ出タル者共ハ命ヲ存シヌ、其中ニ顏強クテ、遲ク出ケル者共ハ、少々被二打壓一テ死ニケリ、其後登照人ニ會テ、此事ヲ語ケレバ、此ヲ聞ク人、尚登照ガ相奇異也トゾ讃メ感ジケル、
p.0574 洞昭側見二俊賢卿一云、哀目ヤアレヲモテ相セサセバヤト云々、件卿サル者ニハ見エヌヨシトテ年來不レ被レ見云々、 西方院座主〈院源〉向二洞昭一云、弟子良因ハ何月日可レ補二阿闍梨一哉、答下全無二其相一之由上、座主ワラヒテ云、御房ノ相ニコノコトコソヲカシケレ、一々毛孔ニモ成ヌベキ闇梨也、如何々々、洞昭出レ房之後、對二他人一云、命アラバコソ、有職ニモ僧綱ニモ成ト云々、而果如レ所レ言、即卒去畢、生年廿五云々、極拔萃之人也、
p.0574 丹波守貞嗣、北山ニ詣、百寺ノ金鼓ウチケルニ、洞照トイフ相人イフヤウ、君ノ顏色アシヽ、ヲソラクハ鬼神ノ爲ニヲカサレタル歟、貞嗣、心地タガフコトナシ、ツネノゴトシト云フ、洞照トクカヘルベキヨシヲ云ホドニ、貞嗣俄ニタエ入テ、ヨミガヘリテ家ニカヘリテ、モノヽ氣 アラハレテ云ク、別ノ事ナシ、ワレラ遊ツル前ヲトヲリツレバ、胸ヲフミタルナリトゾ云ケル、天狗ノシワザナリ、サテ三日アリテ死ニケリ、洞照ガ相、神ノ如シ、
p.0575 洞照參二入道殿〈御堂○藤原道長〉御前一、乍レ臥令レ謁給、于レ時宇治殿〈内大臣○道長子賴通〉令レ參給、暫アリテ入二母上御方一給之後、洞昭申云、此君本自無レ止御坐而重、可レ貴之御相已ニ顯給云々、入道殿忽驚起給ヒ被レ仰云、可レ讓二攝籙一之由、只今心中所レ案也云々、
p.0575 此兄弟〈○源俊房、顯房、〉のおほいどの少將におはしけるとき、隆俊治部卿、御むこにとり申さんと思ひて、其時めしひたる相人(○○○○○○○)有けるに、かの二人、いかゞさうし奉たると問れければ、ともによくおはします、みな大臣にいたり給べき人也と云けるを、いづれか世にはあひ給ふべきととはれけるに、弟は末ひろく、みかど一の人も出き給ふべきさうおはすと申ければ、六條殿〈○顯房〉をとり申たるとぞきゝ侍し、其かひ有て、みかど關白も其御末より出き給へり、
p.0575 堀川左大臣〈○源俊房〉始テ舞人セラレケル時、閑院春宮大夫能信(○○○○○○○○)、父ノ大納言ニツゲラレケル、コノ人ヤムゴトナキ相アリ、必大臣ニイタルベシトゾ、フルキ人々云トコロ、ミナムナシカラヌ事也、
p.0575 野々宮左府〈○藤原公繼〉おさなくおはしける時、母儀〈○上西門院女房備後〉さまをやつして、ぐし奉りて、播磨の相人(○○○○○)とて、めいよの者ありけるに行て、相を見せさせられけり、相人よく〳〵見申て、必一にいたり給べきよしを申けり、母儀あらがひて、是はさ程の位にいたるべき人にあらず、さぶらひ程の者の子にて侍なりとの給ひければ、相人申けるは、まことに侍にておはしまさば、撿非違使などに成給べきにや、いかにも大臣の相おはします物をと申けり、後德大寺左大臣〈○藤原實定〉の末の子にておはしけるが、このかみ、みなうせ給て、家をつぎて、大將をへて、左右大臣一位にいたりて、天下の權をとり給ける、ゆゝしく相し申たりける也、此事をおとゞ聞たもち給て、 相をならひて、目出たくし給ひけるとぞ、わが壽限などをも、かゞみを見て相して、かねてしり給たりけるとぞ、
p.0576 六條右大臣殿〈○源顯房〉ハ相人也、奉レ相二白川院一曰、御壽命可下令レ至二八十一給上、但頓死相難二遁御一歟云々、院令レ及二暮年一給後被レ仰云、右府相相叶已及二八十一、頓死事彌有二其憚一云々、 又大外記信俊生年八歳之時、相二具兄囚獄正家俊一參二彼殿一次ニ、自二屏風之上一御二覽之一、又令レ申二北方一給云、此童可レ繼二家業一者也、北方被レ仰云、兄家俊容體太優、何不レ繼レ家哉、大臣不レ被レ仰二左右一云々、 又令レ參二故中宮一〈賢子〉給退出之時、令レ申二北方一給云、イミジキ態哉、心憂目ヲ見ムズルハ、此宮今一兩年ノ内之人也云々、北方被レ仰云、マガ〳〵シク、爭如レ此被レ申哉、全無二衰邁氣一御座スル物ヲ、大臣被レ仰云、不レ可レ依二美麗一也、無二生氣一成給タル物ヲ、不レ可レ過二今明年一人也云々、果然云々、 正家朝臣又相人也、息男右少辨〈左衞門權佐〉俊信ヲ相云、爲二辨靭負佐一官位已至、然而無下可レ著二正家服一之相上、口惜態哉云々、其言果不レ違、又奉レ相二白川院一、可レ令レ及二八旬一之由稱レ之、仍件日久我太政大臣無二執奏一云々、〈○中略〉 宗通卿子息兩人、〈兄伊通公、弟季通朝臣、〉童稚之時、參二一條殿御許一、〈御母准后人也〉忽被レ居二折敷饌一、各食了退出之後、尼上〈○藤原忠實母〉云、此兄兒者可レ至二大臣一之人也、弟者凡卑也、不レ至二卿相一也云々、果如二彼言一、
p.0576 九條大相國〈○藤原伊通〉淺位の時、なにとなく后町の井を立よりて、底をのぞき給ける程に、丞相の相見へける、うれしくおぼして、歸りて鏡をとりて見給ければその相なし、いかなることにかとおぼつかなくて、又大内にまいりて、彼井をのぞき給ふに、さきのごとく此相見へけり、其後しづかにあんじ給に、かゞみにてちかくみるにはその相なし、井にて遠くみるには其相あり、此事大臣にならんずる事とほかるべし、つゐにむなしからんと思ひ給けり、はたしてはるかに程へて成給にけり、此おとゞはゆゝしき相人にておはしましけり、宇治のおとゞもわざ と相せられさせ給けるとかや、
p.0577 遍敎僧都、慶命座主ノ童ナリケルヲエテ、母ニイフヤウ、今日大僧都ヲナムエタル、母火ヲトモシテミテ云、大僧正ナリ、ハタシテ大僧正ニイタル、母ノ相、遍敎ニマサレリケリ、
p.0577 久安六年七月二十日甲午、早旦禪閤〈○藤原忠實〉召二相者盛正一、令レ相レ余、〈○賴長〉曰、壽及二七十一、福不レ可レ言、職主二執政一、三ケ年之内、必有二大慶一、又三十二三五有レ慶矣、
p.0577 信西出家由來并南都落附最後事 去程ニ、通憲入道ヲ被レ尋ケレ共、行衞ヲ更ニ不レ知ケリ、彼信西ト申ハ、南家博士長門守高階經俊ガ猶子也、大業モ不レ遂、儒官ニモ不レ被レ入、重代ニアラザル也トテ、辨官ニモナラズ、日向守通憲トテ、何トナク御前ニテ被二召仕一ケルガ、出家シケル故ハ、御所ヘ參ラントテ鬢ヲカキケルニ、鬢水ニ面像ヲ見レバ、寸ノ首劒ノ前ニ懸テ空シクナルト云面相アリ、驚キ思ケル比、宿願有ニ依テ熊野ヘ參リケリ、切目王子ノ御前ニテ、相人ニ行逢タリ、通憲ヲ見テ相シテ曰、御邊ハ諸道ノ才人哉、但寸首劒ノ先ニ懸テ露命ヲ草上ニサラスト云相ノ有ハ如何ニト云テ、一々ニ相シケルガ、行末ハ不レ知、コシカタハ何事モ不レ違ケレバ、通憲モ左思ゾトテ歎ケルガ、ソレヲバ如何ニシテ可レ遁ト云ニ、イザ出家シテヤ遁レンズラン、ソレモ七旬ニ餘ラバ如何アラントゾ云、扨コソ下向シテ御前ヘ參、出家ノ志候ガ、日向入道トヨバレンハ、無下ニウタテシウ覺候、少納言ヲ御許シ蒙リ候ハヾヤト申ケレバ、少納言ハ一ノ人モ成ナドシテ、無二左右一トリ下サヌ官也、如何アラント被レ仰ケルヲ、ヤウヤウニ申テ御許サレヲ蒙リ、軈出家シテ少納言入道信西トゾ云ケル、
p.0577 明雲八條宮人々被レ討附信西相二明雲一事 天台座主明雲大僧正ハ、馬ニメサントシ給ヒケルヲ、楯六郞親忠、能引テ放矢ニ、御腰ノ骨ヲ射サセテ、眞逆ニ落給ヒ、立モアガリ給ハザリケルヲ、親忠ガ郞等落重ナツテ、御頸ヲトル、〈○中略〉後白河 院御登山ノ時、少納言入道信西、御伴ニ候ケリ、前唐院ノ重寶、衆徒存知ナカリケレ共、信西才覺吐ナドシタリケリ、其次ニ、明雲僧正我ニイカナル相カ有ト御尋アリ、信西三千ノ貫首、一天ノ明匠ニ御座ス上ハ、子細不レ及レ申ト答、重タル仰ニ、我ニ兵定ノ相アリヤト尋給ケレバ、世俗ノ家ヲ出テ、慈悲ノ室ニ入御坐ス、災夭何ノ恐カ有ベキナレ共、兵定ノ相アリヤノ御詞怪ク侍テ、是即兵死ノ御相ナラント申タリケルガ、ハタシテ角成給ヒケルコソ哀ナレ、或陰陽師ノ申ケルハ、一山ノ貫長、顯密ノ法燈ニ御座ス上ハ、僧家ノ棟梁イミジケレ共、御名コソ誤付セ給ヒタリケレバ、日月ノ文字ヲ並ベテ、下ニ雲ヲ覆ヘリ、日月ハ明ニ照スベキヲ、雲ニサヘラルヽ難アリ、カヽレバコノ災ニモアヒ給フニヤ、
p.0578 元暦元年二月廿五日甲申、召二範源阿闍梨一、〈山法師相者〉令レ見二大將〈○良通〉中將〈○良經〉等一、各申下有二高運相一之由上、官福共富、壽命又長遠也云々、
p.0578 明雲座主、相者にあひ給ひて、をのれもし兵仗の難や有と尋給ひければ、相人まことに其相おはしますと申、いかなる相ぞと尋給ひければ、傷害のおそれおはしますまじき御身にて、かりにもかくおぼしよりてたづね給ふ、是すでに其あやふみのきざしなりと申けり、はたして矢にあたりてうせ給ひにけり、
p.0578 御隨身秦重躬、北面の下野入道信願を落馬の相(○○○○)ある人なり、能々つゝしみ給へといひけるを、いとまことしからず思ひけるに、信願馬よりおちて死にゝけり、道に長じぬる一言、神のごとしと人思へり、さていかなる相ぞと、人のとひければ、きはめて桃じりにして、沛艾の馬をこのみしかば、此相をおほせ侍りき、いつかは申あやまりたるとぞいひける、
p.0578 散説〈○中略〉 初月潭、〈○赤松則村〉微時、與二寶覺禪師一邂二逅途中一、禪師好相レ人(○○○)、見二月潭状貌一、謂レ之曰、必貴、月潭乃謝而曰、誠如二 師言一、不二敢忘一レ德、及二其貴一、不レ知二禪師處一、是時禪師年尚壯、懷二南遊求法之志一、附二海舶一入二太宋一、留者二十年矣、月潭慕二禪師德一、以待二其東歸一、然而年久、不レ可レ記二其面一、故路置二且過堂一、問二僧往來一、果得二禪師一、於レ是剏二法雲寺一、敦請二禪師一、爲二開山始祖一、其後自天建二法林寺一、追二崇禪師一、復爲二之開山祖一、
p.0579 内膳〈○氏家〉事、初メテ秀賴公ノ御近習トナル時、祿一萬石ト成リ、京極修理亮、朽木兵部少輔ナドヽ官祿モ同ジカリシ時、相州小田原進發ノ時、京極、氏家、朽木、三人同道ニテ關東ヘ下リケルニ、江州草津ノ驛ニテ、宿ノ者ヲ呼ンデ、酒ヲ呑セテ戯ムレテ、此三人ノ内何レガ殿下ノ御意ニ叶ヒ立身スベキヤト、其方目利シテ盃ヲサスベシト云シニ、亭主初メハ辭退シケルニ、三人頻リニ望ミシカバ、其時内膳ガ前ニ盃ヲ出シテ申ケルハ、近キ内ニ貴公樣、御主人ノ御氣ニ叶ヒ、必桑名ノ御城主ニ成リ給フベシトテ盃ヲサシケル、案ノ如ク小田原陣中ニテ、太閤ヨリ桑名ノ城ヲ内膳ニ給ハリ、五萬石ヲ御加恩セラレシト也、
p.0579 盧一官といふ唐人の子、長崎町人にて年行事也、是がいひしは、父の所へ唐人共の來りし時、天草の四郞が十二三にて、唐人の供に雇はれ來りしを、唐人の中にて相をつく〴〵と見て、名を問ひ父を問ふ、濱の町といふ所の者の子也、通事不審に思ひて尋しに、彼唐人云、日本は心得ぬ所也、あの如くなる者、あのごとくなる賤役を執てある也、彼子は天下に望のある者也、されど運はやき程に、望は成就すまじき歟といふ、程なく有馬の戰の事おこりたる也と、
p.0579 熊澤伯繼〈○中略〉 嘗至二某侯一、及レ入見二一士人威儀特秀骨體非常一、相與張レ目注視良久、遂不レ交二一言一、見レ侯曰、余今見二一士一、不レ知仕臣乎、將處士邪、侯曰、渠爲レ吾講二兵書一、處士由井民部助者也、〈名正雪〉蕃山正レ色曰、余熟視二其貌一以察二其意一、君勿三復近二如レ彼士一、他日正雪亦來見レ侯曰、前日比二退朝一、見二其衣其形人一、未レ知其爲レ誰、侯曰、渠説レ吾以二經書一、岡山臣熊澤次郞八者也、正雪正レ色曰、余熟視二其貌一以察二其意一、君勿三復近二如レ彼士一、
p.0580 洛の七條に淨味七郞兵衞といふ釜師あり、家富さかえて、多くの人を仕ひけるころ、伏見に人相をよくするものありて、ある時、淨味を見ていひけるは、御身今は何ひとつ不足なけれども、五十歳を超えて後には、かならず乞食ともなるべきほどのあしき相あり、つゝしみ給へといふによりて、淨味予〈○柳澤里恭〉に問けるは、人相はしかとしたる書にも出侍ることにやといへるに、予答ていふ、人相の書くさ〴〵ありて、その理かならずあることなり、〈○中略〉されば御もとも、人相をみせられしところ、則乞食の相をまうけ出したるなれば、果したまへといふに、淨味は頭をふりて、身の持やうによるべし、相を果すなどゝは、その意を得ざることなりとて歸りぬ、それより淨味は、四十五六のとしよりして、おひ〳〵よからぬことゞもありて、そのみつひに零落におよび、八年がほど過て、淸水坂に乞食となりゐたるを見し人ありとかたりぬ、淨味七郞兵衞は、阿彌陀堂といふ釜をはじめて摸せし釜師の上手なりき、
p.0580 相學奇談 ある人語りけるは、淺草邊の町家に居ける人、甚相術に妙を得たり、予友人も、其相を見せけるに、不思議に未前を云當けるが、爰に麴町邊に有德なる町家にて、幼年より召仕手代にて、取立、店の事も呑込、實體に勤ける故、相應に元手金をも渡し、不レ遠別株に致させんと心掛しに、或日彼手代、相人の方ヘ來りて相を見せけるに、相人の云く、御身は生涯の善惡を見る沙汰にあらず、氣の毒なる事には、來年の六月の頃にて、果て死んと云ければ、彼もの大に驚き、猶又右相人委細見屆、兎角死相ありと申ければ、強て實事共思はねど、禮謝して歸けるが、兎角に心にかゝりて、鬱々としてたのしまず、律義なる心より、一途に來年は死んものと觀じて、親方へいとまを願ひける、親方大におどろき、いか成譯有てと尋ければ、さしたる譯も無れど、只出家の心あれば、平に暇を給るべしと望し故、しからば心懸置し金子も可レ遣と云ければ、元より世を捨る心なれば、若入用あら ば可レ願とて、一錢も不レ請、貯置し衣類など賣拂ひ、小家をもとめ、或は托鉢し、又は神社佛閣に詣、誠に其日限の身と、明暮命終を待くらしける、或日兩國橋朝とく渡りけるに、年頃貳拾歳計なる女、身を沈んと、欄干に上り、手を合居しに、彼手代見付引下し、いか成譯にて、死を極めしやと尋ければ、我身は越後國高田在の百姓の娘にて、親も相應にくらしけるが、近きあたりの者と密通し、在所を立退、江戸表へ出、五六年も夫婦暮しけるが、右男よからぬ生れにて、身上も持崩し、かつ〳〵の暮しの上、夫なるもの煩て身まかりぬ、然るに店賃其外借用多く、つくのふべき手段なければ、我が親元は相應なると聞て、家賃其外借金たまり、日々責られ、若氣にて一旦國元を立退たれば、今更親元へ顏も向難く、死を極めし也、ゆるして給へと、泣々語りければ、右新道心も、かゝる哀を聞すてんも不便也、右借財の譯も細かに聞けるに、わづかの金子故、立歸り親方へかく〳〵の事也、兼て可レ給金子の内、我身入用有レ之事故、かし給へと歎きければ、親方も哀に思ひ、右金子の内五兩かし遣しければ、右の金にて諸拂致し、店を仕廻はせ、近所の者に賴みて、親元へ委細の譯を認、書状添送らせければ、右親元越後なる百姓は、身元厚く近鄕にて長ともいへるもの故、娘の再度歸り來りし事を歡び、勘當をゆるし、送りし人をもあつく禮謝し、右新同心の元へも禮状等厚くなしけると也、是は扨置、來る年の春も過、夏も六月に至り、水無月祓も濟けれど、新道心の身に聊煩はしき事もなく、中々死期の可レ來とも思はれねば、さては相人の口に欺れける口惜さよと、親方へも始終有の儘に咄しければ、親方も大におどろき、汝が律義にて、欺れしは是非もなし、彼相人の害をなせる憎さよと、我彼ものゝ所へ行、責ては耻辱を與へ、以來外々の見こらしにせんとて、道心を連て相人のもとへ至り、右道心をば門口格子の先に殘し、さあらぬ體にて案内を乞、相人に對面し、相を見て貰んため來りしと申ければ、相人得と其相を見て、御身の相、何もかはる事なし、されど御身は相を見せに來り給ふにあらず、外に子細有て來り給ふなるべしと、席を立て 表の方を見、右新道心の格子の元に居しを見て、さて〳〵不思議なる事哉、此方へ入給へと、右同心の樣子を微細に見て、御身は去年の冬、我等相を見けるが、當夏までにはかならず死し給はんと云し人也、命めでたく來り給ふ事、我が相學の違ならんか、内へ入給へと座敷へ伴ひ、天眼鏡にうつし、得と考、去年見しにさして違ふことなきが、御身は人の命か、又ものゝ命を助け給へる事有べし、具に語り給へと云ければ、主從大に驚き、兩國にて女を助しこと、夫よりの始終、くわしく語ければ、全右の慈心が相を改候也、此上命恙なしと、橫手を打て感心しける、主人も大によろこび、右手代還俗させ、越後へ送りし女をもらひ、夫婦となし、今まのあたり榮へ暮しけると也、
p.0582 元永元年八月七日、今夕前雜色源實俊來云々、此次予問云、明年五宿曜、勘文云、壽限也、如何、實俊答云、聞二言談聲一、已六十四五以後也、明年強不レ可レ有歟、又欲レ見二手足一(○○○○)者、令レ見二左右手左足一(○○○○○○○)之處、答云、先此官厥終事、全不レ可レ候、今又可二昇進一也、以レ之推レ之、及二六十四五一後、可レ有二命恐一、聞二此事一、可二悅思一也、件實俊自レ本相人也、天下衆人、皆信受云々、予又問云、關白殿今明年御愼重者如何、答云、自レ本年來候二彼殿一、能々奉レ見之處、貴相第一也、御壽命餘二六十一給之後、可レ有レ恐歟、同此事心中所二欣悅一也、件二ケ條、依レ爲二大事一、所二問尋一也、
p.0582 論レ手 夫手者、其用所二以執持一、其情所二以取捨一也、故纎長者、性慈而好レ施、短厚者、性鄙而好レ取、手垂過レ膝者、蓋世英賢、手不レ過レ腰者、一生貧賤、身小而手大者福祿、身大而手小者淸貧、手薄削者貧手端厚者富、手粗硬者下賤、手軟細者淸貴、手香煖者榮華、手臭汚者獨下、指纎而長者聰儁、指短而窄者愚賤、指柔而密者蓄積、指硬而疎者破財、指如二春笋一者淸貴、指如二鼓槌一者愚頑、指圓如レ剝レ葱者食祿、指粗如二竹節一者貧賤、手薄硬而如二雞足一者無レ智而貧、手掘強如二豬蹄一者愚鹵而賤、手軟滑如二錦囊一者至富、手皮連如二鵞足一者至貴、掌長而厚者貴、掌短而薄者賤、掌硬而圓者愚、掌軟而方者福、四畔豐起而中窪者富有、 四畔肉薄而中平者財散、掌潤澤者富貴、掌乾枯者貧窮、掌紅如レ噀レ血者榮貴、掌黄如レ拂レ土者卑賤、靑色者貧苦、白色者寒賤、掌中當レ心生二黑子一者智而富、掌中四畔有二橫理一者愚而貧、多二縱理一者慧性、無二紋理一者愚劣、五指内要二立理一、五指背要二橫紋一、倶主二福壽一、是相レ掌之大要也、
p.0583 手理有レ稱二弓箭理一、世俗傳言、有二弓箭理一者、不レ得二其死然一、水戸義公、幼而有二所レ謂弓箭理一、傳姆侍女、皆悲レ之曰、斷レ之可也、公曰、武將之子、手有二弓箭一、固所レ願也、是天之賜也、豈可レ失レ之乎、
p.0583 五行家〈九百十九卷 呪禁 符印 五行 六壬 雷公 私略之 太一 易 遁甲 式 相 仙術〉 仙相經一卷 新撰相人經一 相書七 許眉相男女經三
p.0583 山海經十三篇、國朝七卷、宮宅地形二十卷、相人二十四卷 相寶劒刀二十卷、相六畜三十八卷、 右形法六家百二十二卷
p.0583 相書 晉書束晢傳、汲冢有二琑語十一篇一、諸國卜夢妖怪相書也、按、漢書藝文志、有二相人二十四卷、相寶劒刀二十卷、相六畜二十八卷一、摠得レ謂二之相書一、今相レ畜者寥々、相二器物一則成二絶響一矣、
p.0583 僧登照相倒朱雀門語第廿一 今昔、登照ト云僧有ケリ、〈○中略〉登照ガ房ハ一條ノ邊ニ有ケレバ、春比雨靜ニ降ケル夜、其房ノ前ノ大路ヲ笛ヲ吹テ渡ル者有ケリ、登照此ヲ聞テ、弟子ノ僧ヲ呼テ云ク、此笛吹テ通ル者ハ誰トハ不レ知ドモ、命極テ殘リ无キ音コソ聞ユレ、彼レニ告ゲバヤト云ケレドモ、雨ハ痛ク降ルニ、笛吹ク者只過ニ過タレバ、不レ云シテ止ヌ、明ル日ハ雨止ヌ、其ノ夕暮ニ、夜前ノ笛吹キ、亦笛ヲ吹テ返ケルヲ、登照聞テ、此ノ笛ヲ吹テ通ル者ハ、夜前ノ者ニコソ有ヌレ、其ガ奇異ナル事ノ有也ト云ケレバ、弟子然ニコソ侍ヌレ、何事ノ侍ルゾト問、登照彼ノ笛吹ク者呼テ來ト云ケレバ、弟子走行テ呼テ將來タリ、見レバ若キ男也、侍ナメリト見ユ、登照前ニ呼ビ居エテ云ク、其ヲ呼ビ聞エツル事ハ、夜前 笛ヲ吹テ過ギ給ヒシニ、命今明ニ終ナムズル相、其笛ノ音ニ聞エシカバ、其事告申サムト思ヒシニ、雨ノ痛ク降シニ、只過ギニ過ギ給ヒニシカバ、否不二告申一テ、極テ糸惜ト思ヒ聞エシニ、今夜其笛ノ音ヲ聞ケバ、遙ニ命延給ヒニケリ、今夜何ナル勤カ有ツルト、侍ノ云ク、己今夜指ル勤メ不二候ハ一、只此東ニ川崎ト申ス所ニ、人ノ普賢講行ヒ候ツル伽陀ニ付テ、笛ヲゾ終夜吹キ候ツルト、登照此ヲ聞クニ、定メテ普賢講ノ笛ヲ吹テ、其ノ結縁ノ功德ニ依テ、忽ニ罪ヲ滅シテ、命延ニケリト思フニ、哀レニ悲クテ、泣々ナム男ヲ禮ケル、侍モ喜ビ貴ビテ返ニケリ、此近キ事也、此ル新タニ微妙キ相人ナム有ケルトナム、語リ傳ヘタルトヤ、
p.0584 就レ中、山三郞〈○名古屋〉ハ容色モ殊絶シ、勇氣モ勝レ、十三歳ノ時ニ武功アリ、十七歳ノ時ニ氏鄕卒シ、浪人トナリ、父ノ許ニ歸リ、京洛ニ在リテ衣服刀劍ニ、珠璣錦繢ヲ施シ、華靡侈麗ヲ窮極シテ寺觀ニ游跋セシガ、高貴ノ婦人ニ眷戀セラレ、屢姦亂ヲナス、其臭聲世ニ布タレバ、勇名ハ有ナガラ、聘シテ臣トスル公侯モナク、久シク沈淪セシガ、森忠政ニ仕ヘテ三左衞門ト改メ、三千石ノ祿ヲ食メリ、頃之シテ井戸理兵衞ト云者ノ打手ニ向テ、反擊ニ遭テ無名ノ死ヲ爲セリ、相家ノ説(○○○○)ニ、多ク婦女ヲ犯セルモノハ、姦淫ナラザルモ令レ終ナシト云ヘリ、謂レアル事ナラン、
p.0584 人相(○○)に、當世ホクロ(○○○)の論、相者の中、やかましきといへども、唐より傳來の相書になし、 地相
p.0584 陰陽寮〈○中略〉 陰陽師六人、掌二占筮相地一(○○)〈(中略)相者視也〉
p.0584 四年、是歳命二卜者一、占三海部王家地與二絲井王家地一、卜便襲吉、遂營二宮於譯語田一、是謂二幸玉宮一、
p.0585 十三年二月庚辰、遣二淨廣肆廣瀨王、小錦中大伴連安麻呂、及判官、録事、陰陽師、工匠等於畿内一、令レ視二占應レ都之地一、
p.0585 和銅元年二月戊寅、詔曰、〈○中略〉往古已降、至二于近代一、揆レ日瞻レ星(○○○○)、起二宮室之基一、卜レ世相レ土(○○○○)、建二帝皇之邑一、〈○中略〉方今平城之地、四禽叶レ圖(○○○○)、三山作レ鎭、龜筮並從、宜レ建二都邑一、
p.0585 嘉祿元年十月十九日丙午、於二武州〈○北條泰時〉御亭一、相州〈○北條時房〉已下、有二御所御地定一、小路〈宇津宮辻〉東西間、何方可レ被レ用哉之事、人々意見區々、爰地相人(○○○)淨法師申云、右大將家法華堂下御所地、四神相應(○○○○)、最上地(○○○)也、何可レ被レ移二他所一哉、然彼御所西方之地被レ廣、可レ有二御造作一也者、兩國司直令二問答一給、依レ之彌御不審出來之間、未二治定一、御占可レ被レ行云々、
p.0585 四神相應地事 地相ニ四神具足ト云フハ、四神體ナニモノゾ、北斗ノ曼荼羅貪狼星ヲ圖スルニハ、四方ニ四神ヲ書ケリ、朱雀ニハ赤キ雀ヲ書キナラハセリ、其名ヲ思フニハ、スヾメ相違ナシ、但書中ニ四神ヲ明スニハ、朱鳥ハ鳳也ト釋セリ、雀ノ字ヲバ鳥ノ 名ト釋シタル事アリ、又雀ヲ鳳也ト云ヘル事モアリ、銅雀ト書ルハ、アカヾネノ鳳凰也、サレバ今ノ朱雀モ、實ニハ朱鳳ニテアルベキニヤ、朱雀錦ト云フニシキモ鳳錦也、鳳凰ヲ紋ニヲリツケタル物也、雀ヲ鳳トスル事其例一ニアラズ、朱雀一ノ名ハ長離也、離ハ南ナレバ南ニ長ジタル神ト云心ニテ、長離トハ云フニコソ、前朱雀ト云ハ、前ハ南ナリ、南ハ火方ナレバ陽ノ鳥ニアタル、鳳ハ火ノ精ナル故ニ、南方ノ神也、雀ハ卑劣ノ小鳥ニテ火ノ方ノ神トスルニタラザル歟、雀ヲ圖スル事ハ道理覺束無シ、後玄武ト云ハ、後ハ北方也、又玄冥ト云フ黑色也、玄武神ハ龜也、但シ龜ト蛇ト交ヲ玄武トストモイヘリ、左靑龍ト云ハ、東方ノ靑キ色也、又靑潤ト名ク、靑色ノ龍也、右ヲバ白虎トス、西ハ白色也、一名ハ索威、索ト云ハ白也、威ト云ハ猛虎ノ威也、四方ハ四季ニカタドレリ、四季ニ各一德アリテ萬物ヲ長ズ、春ノ德ハ雨也、草木 等ヲ生ズル源ナリ、龍ハ雨ヲ司ドル故也、夏ノ德ハ暑也、アツキニヨリテ萬物滋長ス、陽長是ヲ司ドルベシ、秋ノ德ハ風也、風ハ物ヲ堅スル力アリ、虎ハ又風ノ主也、虎嘯テ風起ルト云フ本文アキラカナリ、冬ノ德ハ寒也、寒ニヨリテ其地味ヲ增、北方ハ陰ニシテ寒ヲイタス、玄武ノ龜水方ニ居シテ、能ク陰ヲツカサドル、 陰ノ長也、是ヲ合セテ四神ノ德トス、
p.0586 先地判形之事 東低西高靑龍地、文、 此屋敷木性屋敷可二心得一 南低北高赤龍地、文、 此屋敷火性屋敷可二心得一 北低南高黑龍地、文、 此屋敷水性屋敷可二心得一 西低東高白龍地、文、 此屋敷金性屋敷可二心得一 中低方高黄龍地、文、 此屋敷土性屋敷可二心得一 方低中高四龍地、文、 此四龍地ヲバ無主之地共云 靑龍地者木性貧、此意木木相加故凶也、 火性人富者、木性火ト相生ズル故ニ富貴也、 土性人病ト者、木剋土剋スル故ニ惡ナリ、 金性人災ト者、金剋土ト剋スル故ニ云レ爾也、 火性人榮ト者、水性木ト相生ズル故ニ大吉也、以下推レ之可レ知也、
p.0586 傳云、吉相此地國之秀、〈文〉 陰陽書曰、左靑龍者、從レ東水南へ流也、前朱雀者、南池溝在レ之也、右白虎者、西大道有也、後玄武者、後山岳在レ之、凡東下南下西北高大吉也、此云二四神具足地一(○○○○○)也云々、
p.0586 四神相應地 左靑龍、〈東〉 右白虎、〈西〉 前朱雀、〈南〉 後玄武、〈北、朱子曰、玄武謂二龜蛇一也、位在二北方一、故曰レ玄、身有二鱗甲一、故曰レ武、居家必用曰、宅欲三左有二流水一、謂二之靑龍一、右有二長道一、謂二之白虎一、前有二汙池一、謂二之朱雀一、後有二丘陵一、謂二之玄武一、爲二最貴地一、〉
p.0586 或人問て曰、近き比さる所に、藏をこぼちて座敷を建ければ、愚盲なる陰陽者の樣なる ものゝいふには、藏は土を主とし、家は木を主とす、しかれば木剋土の剋にあたりて、主人に祟りてあしきといふ、此義いかにや、予〈○新井白蛾〉答て曰、それは能々文盲なる人こそ聞受申べし、少しにても學問せし人などは、齒にかけていふ事も耻づべし、一向に取に不レ足事ながら、一寸辯じて見れば、先づ相剋する所と、其人のいふ所と相違す、木は盛勢にて、土は剋を受て衰ふ時、建たる家は、ます〳〵盛にして、藏は剋にあたりてこぼたれたるは、相應の事ならずや、家を毀て藏を建てたらば、木剋土の剋にてあしきともいふべし、是は取にたらぬ中の又取に足らぬ事の辯なり、右底の事をいふても間にあふべきは、田舍舍などの地面も廣く空地も有所にて、愚盲なるぢゝばゝの悅ぶべき事なり、三ケ津などの繁昌至極の大都會にては、間にあはぬ事なり、都にては、家を毀て藏を建、または藏を除きて家を建て、住居勝手の好やうにして住が善なり、或人又問ふて曰、居宅より、戌亥の方に隱居家を建るは甚だあしゝ、且又主人に祟るなり、それも本宅ならば宜しといふ、是又如何、予答ふ、これも又大痴癡なり、夫先天の方位、乾の父は西南に位し、坤の母は東北に位す、代を讓りて隱居するに、乾の位に離を置、坤の位には坎を移し置て、父の乾は西北の間戌亥に隱居し、母の坤は南西の間未申に退く、是後天の易位なり、即ち乾をいぬゐと訓するに非ずや、是も戯れにいはゞ、本家を建るはあしけれども、隱居には善といふべしと笑ぬ、
p.0587 家相大に流行し、都鄙賢愚これに著する人多し、按るに、劉琦が釋名に宅托也、人之倚處也とて、必竟人の入物、或は外箱などゝおなじく、又刀劒の鞘柄のごとく、何程外飾見事に金銀を鏤たりとも、身鈍刀ならば、何の用にか立んや、〈○中略〉爰に予〈○田宮宣〉遊歴中に、おかしき話有、和州龍田なる一商賈、家相を改んと、態々浪花より家相者を招き、差圖を請て宅を造作し、十分の吉相となして、兩三ケ年の間、福今や來らんと待うちに、身上不如意になり、剩逐轉し、家斷絶に及びぬ、又予が寓せし隣村に、同く家相者に指圖を受て、門を建變、土藏を挽きて、相者の意に任せ、吉相滿りと 悅びしに、翌年の春、全家温疫を病み、其上相續とすべき盛仁の嫡子を失ひ、普請に散財し、先祖傳來の住居を變じたり、其大不幸何によつてか避ることなきや、然共其惑いよ〳〵解ず、益家相を淫し、人にも勸む、其男は予が知れる百姓にて、村長をも勤め怜悧なる男なり、
p.0588 第一 金神家相の論 近世、家宅の相を撰事行れて、萬家多くは此所爲に泥、其道に通達せる徒に付て、一向に居家の安全を秤、然ば貴賤と雅俗を不レ論、宅相の吉凶に依て、身上に祥と不祥を現然に得ると云徒不レ少、於レ是方位家相を卜するの徒、禍福當祟を囂く云募、八方金神の祟、本命的殺の論嘈々たり、既に家相の禁忌なくとも、暦道に二十四方位の方角なんど、無量吉凶、日取の善惡多くして、撰除事不二容易一、是乍レ併、我朝古代の風にはあらず、昔唐土にて、道士等が祭初たる事にして、靑龍、白虎、朱雀、玄武の稱を弘む、是なん世に知る四神の名目、東西南北に配當なせる方色にて、靑白赤黑の形を表するのみ、
p.0588 家相談 近年我邦も、亦家相の學行はれて、病難を救ひ、火難を免かれ、其術に心服する者少からず、衆人の歸する所、其功驗なきにしも非ず、余是をある人に聞けるに、曰、嘗て松永宗因、藥研堀にて、家宅を買ひ求めて移らんとす、其日濱町會田七郞宅にて、金蘭に邂逅して、家相の談に及び、其言に服し其判斷を請ふ、金蘭一見して、家に死骨有り、此に住む者必ず病死之由申す、宗因畏愼て其家に移らす、直に人に讓りけり、女隱居の其家を買ひて移りたる者、一月餘にして病死せり、其後醫生有り、其家を買ひて此に住みけり、程なく是も亦病死せり、金蘭又久松町河岸へ行きて、其長家の、病氣長屋の由を申し、聞直すべき由申す、然處其言にも從はずして、後果して如レ之、〈○中略〉 乙酉〈○文政八年〉五月朔 中井乾齋誌
p.0589 墳墓ノ占 凡ソ人死テ墳墓ヲ占ニ、體卦ヲ主トシ、用卦ヲ墳墓トスルナリ、體ヨリ用ヲ剋スレバ葬ルニヨロシ、用ヨリ體ヲ剋スレバ必ズ葬リテ凶シ、體ヨリ用ヲ生ズレバ葬ルニ凶シ、強テ葬レバ後、人ヲ損ズル事アリ、用ヨリ體ヲ生ズレバ葬リテ吉ナリ、家ヲ興シ、進デ後ノ世嗣ニ利益アリ、體用比和スレバ、是ヲ吉地トス、葬リテ大ニ吉昌ナリ、
p.0589 五姓墓圖一卷〈梁有二冢書黄帝葬山圖各四卷、五音相墓書五巻、五音圖墓書九十一卷、五姓圖山龍、及科墓葬不傳各一卷、雜相墓書四十五巻一、亡、〉
p.0589 呂才、博州淸平人、〈○中略〉帝〈○太宗〉病下陰陽家所レ傳書、多二謬僞淺惡一、世益抱上レ畏、命レ才與二宿學老師一、刪二落煩訛一、掇二可レ用者一、爲二五十三篇一、合二舊書四十七一凡百篇、詔頒二天下一、才於二特議一、儒而不レ俚、以二經誼一推二處其驗術一、諸家共訶二短之一、又擧世相惑以二禍福一、終莫レ悟云、才之言不二甚文一、要欲下救二俗失一、切二時事一、俾上レ易レ曉也、故剟二其三篇一、〈○中略〉葬篇曰、易稱、古之葬者、衣レ之以レ薪、不レ封不レ樹、喪期無レ數、後世聖人、易レ之以二棺槨一、蓋取二諸大過一、經曰、葬者藏也、欲二人之弗一レ得レ見也、又曰、卜二其宅兆一、而安二厝之一、以レ是爲二感慕之所一也、魂神之宅也、朝市貿遷不レ可レ知、石泉頽齧不レ可レ常、是其謀及二卜筮一、庶無二後艱一、斯則備二於愼レ終之禮一也、後代葬説、出二于巫史一、一物有レ失、便謂レ災、及二死生一多爲二妨禁一、以售二其術一、附レ妄憑レ妖、至二其書一、乃有二百二十家一、春秋、王者七日而殯、七月而葬、諸侯五日而殯、五月而葬、大夫三月、士庶人逾レ月而已、貴賤不レ同、禮亦異レ數、此直爲二赴弔一、遠近之期、量レ事制レ法、故先レ期而葬、謂二之不懷一也、後レ期不葬、謂二之殆禮一也、此則葬有二定期一、不レ擇二年與一レ月一也、又曰、丁巳葬二定公一、雨不レ克レ葬、至二于戊午一襄レ事、君子善レ之、禮卜先二遠日一者、自レ未而進、避二不懷一也、今法、己亥日用レ葬最凶、春秋、是日葬者二十餘族、此葬不レ擇レ日二也、禮、周尚レ赤、大事用レ旦、殷尚レ白、大事用二日中一、夏尚レ黑、大事用レ昏、大事者何、喪禮也、此直取二當代所一レ尚、而不レ擇二時早晩一也、鄭卿子産、及子太叔、葬二簡公一、於レ是司墓大夫室、當二柩路一、若壞二其室一、即平旦而堋、不レ壞二其室一、即日中而堋、子産不レ欲レ壞レ室、欲レ待二日中一、子太叔曰、若日中而堋、恐久勞二諸侯大夫來會葬者一、然子産太叔、不レ問二時之得失一、惟論二人事可否一而 已、曾子曰、葬逢二日蝕一、舍二於路左一、待レ明而行、所三以備二非常一也、按レ法、葬家多取二乾艮二時一、乃近二夜半一、文與レ禮乖、此葬不レ擇レ時三也、經曰、立レ身行レ道、揚二名於後世一、以顯二父母一、易謂、聖人之大寶曰レ位、何以守レ位、曰仁、而法曰、官爵富貴、葬可レ致也、年壽脩促、子姓蕃衍、葬可レ招也、夫日愼二一日一、澤及二無疆一、德則不レ建、而祚乃無レ永、臧孫有レ後二于魯一、不レ聞二于魯一、不レ聞二葬得一レ吉也、若敖絶二嗣於荊一、不レ聞二葬得一レ凶也、此葬有二吉凶一、不レ可レ信四也、今法皆據二五姓一爲レ之、古之葬並在二國都之北一、趙氏之葬在二九原一、漢家山陵、或散二處諸域一、又何上利下利、大墓小墓爲哉、然劉之子孫、本支不レ絶、趙後與二六國一等王、此則葬用二五姓一、不レ可レ信五也、且人有二初賤而後貴、始泰而終否者一、子文爲二令尹一、三仕三已、展禽三點二於士師一、彼冢墓已定而不レ改、此名位不常何也、故知榮辱升降事、關二諸人一而不レ由二於葬一六也、世之人爲レ葬、巫所レ欺、忘二擗踴荼毒一、以期二徼幸一、由レ是相二塋隴一希二官爵一、擇二日時一規二財利一、謂二辰日不一レ哭、欣然而受レ弔、謂二同屬不一レ得レ臨レ壙、吉服避レ送二其親一、詭二斁禮俗一、不レ可二以法一七也、
p.0590 葬經〈○中略〉 百年幻化、離レ形歸レ眞、精神入レ門、骨骸反レ根、吉炁感應、鬼福及レ人、東山吐レ燄、西山起レ雲、穴吉而温、富貴綿延、其或反レ是、子孫孤貧、 此原葬法之蔭注也、蓋人生百年歸二幻化一、幻化之道、雜二其形體一、歸二乎本眞一、魂升二于天一、魄降二于地一、此葬理之義所二由起一、而擇レ地以藏レ之者、其理爲レ不レ謬也、若葬得二其法一、而能乘二乎地中之生炁一、則亡者神魂得レ安、自然以二一炁之故一、感二發乎生人一、而生人必以二昌盛一應レ之矣、人以二亡靈之炁一、感而昌盛、則昌盛之福、非二人之自福一、鬼福之所レ及也、蓋父祖子孫、本一炁之相關者、故有二如レ是之感應一也、觀二其東山吐レ燄、西山起一レ雲、此感彼應、而人鬼之迹可レ知矣、故穴得二其吉一、而人棺爲レ之温和、則子孫受レ蔭、而富貴爲レ之不レ替、其或反レ是、而穴不レ得レ吉、則主二子孫孤而且貧一矣、此自然之應也、
p.0590 宅兆 唐子西曰、古人建二都邑一、立二室家一、未レ有二不レ擇レ地者一、如下書達二觀新邑一、營二卜瀍澗之東西一、詩升レ虚望レ楚、降觀二于桑一、度二其隰原一觀中其流上、蓋自二三代時一已然矣、今凡通都會府、山水固皆翕聚、至二於百家之邑、十室之市一、亦必倚レ山帶レ溪、氣象回合、若風氣虧疏、山水飛走、則必無二人煙起聚一、是誠不レ可レ不レ擇也、乃若レ葬者藏也、藏者欲二人之不一レ得レ見也、古人之所レ謂、卜二其宅兆一者、乃孝子慈孫之心、謹重二親之遺體一、使二他日不一レ爲二城邑道路溝渠一耳、借曰二精擇一、亦不レ過レ欲三其山水回合、草木茂盛、使二親之遺體得一レ安耳、豈藉レ此以求二福利一乎、郭璞謂、本體乘レ氣、遺體受レ蔭、夫銅山西崩、靈鐘東應、木花於レ山、栗牙於レ室、此皆生氣相感也、若二死者一豈能與二生者一相感以致二禍福一耶、世人惑二其説一、有二十數年不レ葬レ親者一、有二既葬而 レ之、至レ三至レ四者一、有二因レ地致レ訟、棺未レ入レ土、而家巳蕭條者一、有下骨肉他爲二仇讐一者上、皆璞之書爲レ之也、且人生貧富貴賤天壽謂二之天命一、不レ可レ改也、如二璞之説一、上帝之命、反制二於一杯之土一矣、楊誠齋嘗言、璞宜下妙レ選二吉地一、以福二其身一、利中其子孫上、乃身不レ免二刑戮一、而子孫卒以衰微、則是其説已不レ驗二於其身一、而後世方且誦二其遺書一、而尊二信之一、不二亦惑一乎、今之術者言、墳墓若在二席 山一、子孫必爲二侍從官一、蓋以二侍從重戴一故也、然唐時席 、乃擧子所レ戴、故有二席 何時得レ離レ身之句一、本朝都二大梁一、地勢平曠、毎二風起一則塵砂撲レ面、故侍從跨レ馬、許二重戴以障一レ塵、夫自レ有二宇宙一、則有二此山一、何賤二於唐一而貴二於今一耶、近時京丞相仲遠、豫章人也、掘二起寒微一、祖父皆火化無二墳墓一、毎二寒食一則野祭而已、是豈因二風水一而貴哉、
p.0591 嘉祿元年十月廿日丁未、相州〈○北條義時〉武州〈○北條泰時〉等令二參會一給、御所地事、重有二御沙汰一、可レ決二卜筮一之由云々、仍國道朝臣以下七人被レ召、陰陽師以二法華堂下一爲二初一一、以二若宮大路一爲二第二一、而兩所之間、可レ被レ用二何地一哉之由、可二占申一之旨、被二仰含一之處、國道朝臣申云、可レ被レ引二移御所於他方一之由、當道勘申畢、然於二一二御占一、若可レ付二第一一之趣有二占文一者、申状既似レ有二兩樣一歟、難レ及二一二之御占一云云、珍譽法眼申云、法華堂前御地、不レ可レ然之處也、西方岳上、安二右幕下御廟一、其親墓高而居レ下、子孫無レ之由、見二本文一、幕下御子孫不二御座一(○○○○○○○○)、忽令二符合一歟、若宮大路者、四神相應勝地也、西大道南行、東有レ河、北有二鶴岳一、南湛二海水一、 可レ准二池沼一云云、依二此地一可レ被レ用之旨、治定畢、但東西之事被レ聞二食御占一、西方最可レ爲レ吉之由、面々申レ之、信賢一人、不レ同申之、東西共不吉也云云、
p.0592 祐天大僧正小山田與淸を呵す 先年墓相の説を主張して、支那の陰陽五行家の書より抄録して、門人どもに墓相小言を作らせ、また束脩已上の門人には、別に口訣をさづくるよし、口訣もさだめて圍墓書などの説を書きぬきにして、人に示すならんが、唐土の墓相家説に、しか〴〵の相の墓は、子孫かならず公卿を出だし封侯を出だすなどゝあれども、吾朝の人にそのまゝ示す事は、禁を犯すにちかしといふべし、それは太平二百餘年の今、公卿は公卿の分、封侯二千石は封侯二千石の分あることにて、おのが子孫をして、公卿封侯たらしめんとおもふは、士庶の分をしらざる亂賊の人なる故、たとへいかなる美相ありとも、大聲にはいはれぬことなり、その方も官途の事をしらざる者ならねば、かの口傳の卷物にも、さだめし明々地には書かざるならん、然れども住居より北の方の墓がよしなどゝ、小言にいひしはいかなることぞ、わが本山などは、芝から品川あたりの者ならでは、北方にあたらず、されども格別南西の旦方のあしきといふ説を聞きたることもなし、これらはなはだ禁忌に拘はることなるをしらずや、しかるにその方が説にまどはされて、改葬せしもの少からず、大きに難澀したるものもありしよし、これらはなはだ天下の害なり、當時寺院おほく、旦方おほきによりて、金一升の土地、墓相のよき樣に、好みだてをすることは、列侯貴人か、田舍ならでは出來ぬことにて、たとひその方が口訣を得ても、わづかに田樂石の一本も立つるばかりの庶人は、改葬せんにも地面はせまし、さりとて打すておく時に、家に不祥のことあるか、病人夭折、火災盜難あるときは、さればこそ墓相のよからぬ故なれと氣にかけて、彌々衰亡するもおほし、全體ちかごろは、堪輿家相の説はやりて、勝手のわるき所へ窻をあけたり、戸をふさぎたり、不勝手に することをよしと心得るものおほく、つひには家作に氣をもむために、身上も不勝手となる者ことに多し、これらさへ歎息のかぎりなるを、又候その方がために、墓地にまでまごつきて、住持に難儀さするものまゝあるよし、わが末徒どもゝ迷惑することなり、それほど墓相にくはしきその方、何しに子を先立つるやうの逆ありしぞ、もとより穢土に住する如二夢幻泡影一の身として、吾子の夭折することさへしらず、たゞ書面の墓相説をあげて、口傳などゝのぶること、人はみな書をよまぬものにしたる自許の所爲、はなはだすまぬことなり、ことにこれは、太田錦城が世上の家相方位の説をなすものゝ流行をうらやみ、種々の家相書を著述して、愚人をたぶらかしたる術計をぬすんで、利を射んと欲せるにて、その方すこぶる黄金家にてありながら、尚卑劣なる金まうけしたがる癖あるは、つひに死して有財餓鬼とならんことうたがひなし、
p.0593 近世有二家相工者一、相二人之屋室戸牖一、以言二吉凶妖祥一、世俗或惑二乎其言一、而改二造牖戸一、更作二井竈一者、亦不レ鮮也、不祥有レ五、東益不レ與焉、聖人之諭如レ是矣、而俗人不レ知焉故也、昔日伊奈大夫、大信二相工之言一、而其第宅廐庫、悉改二造之一、後不二一年一、而患害起二於蕭牆中一、終亡二數世家祿一矣、又予所レ知之人、私有二此惑一、以變二更其牖戸庖厨一、工成之日、乃遭二祝融之災一、災後特受二相工之敎一、而築作之法、專隨二其指揮一焉、落成未レ幾、又復罹レ災、盡爲二灰塵一矣、於レ是其人初寤焉、
p.0593 地形志八十卷、〈庾季才撰○中略〉宅吉凶論三卷、相宅圖八卷、
p.0593 錦城先生、經ヲ窮ルノ暇、カタハラ家相ノ術(○○○○)ニ通ジ、其書許多卷アリ、文政辛巳ノ年、先生京師ヨリ歸リ、病ノタメニ經ヲ廢ルノ暇、悉ク其書ヲ我ニ傳フ、一日余ニ告曰、夫東張南張ハ、色難持前ナリ、北張巽張ニモ、色情ノ禍ヲ云、北欠西欠ニモ、色情破敗アリ、西張乾張ニハ、二金ノ間ニ離火ヲ生ジテ、二金ノ體ヲ燒キ亡スノ形アリ、離火ハ酒色ナリ、花麗ナリ、汰侈淫佚ノ本ナリ、酒色華美ノ奢侈ヲ以テ、金銀ヲ費耗スルハ、離火ノ二金ヲ燒キ亡スノ形ナリ、登リ龍ノ降リ龍ト變ズ ルモ、必定此禍ニアリ、唐ノ玄宗ノ事ヲ見テモ知ルベシ、サレバ家相ニテ極上吉祥ノ瑞相ト言モノモ、色情花美ヲ嚴制セザレバ、其効驗ノナキノミニハ非ズシテ、瑞相ノ内ヨリ凶相ヲ發シテ、必ズ禍殃ヲ蒙ラザルハナシ、所レ謂諸吉相ト言モノ、色情花美ヲ帶ビザルハナク、又色情花美ニ破ラレザルハナシ、先哲ノ巽張ノ條ニ、色情ノ氣立ツト言タルハ、一隅ヲ擧テ三隅ヲ反スルノ法ナリ、家相ヲ改正セント欲スルモノハ、先ヅ心相ヲ改正シテ、色情花美汰侈淫佚ヲ嚴制スルヲ始トス、家相ノ學ハ、君子脩身ノ要術ナリ、東張南張木生火ノ吉相ヲ知ルベシ、是ハ最上ノ吉相ナリ、サレドモ色情汰侈淫佚ヲ愼マザレバ、國家ヲ敗亡スルマデモナク、我性命ヲ失ナフベシ、木ハ火ヲ生ジテ其勢盛ナレドモ、幾程モナク薪盡テ火滅ス、木火共ニ灰ニナルノミ、腎虚火動シテ性命ヲ空シクスル、是レ此象ナリ、先哲三五續ノ條ニ、大凶眼前ニアリト云タルハ、一旦ノ發達升進榮華隆昌ノ福ヨリ、身家ノ敗亡ヲ生ズルヲ云、サレバ家相ノ吉祥ヲ得ントニハ、恭儉謙讓降挹退托ノ人ニシテ、周易ノ愼メバ無レ害也ノ一語ヲ拳々服膺セザレバ、其吉祥ヲ承當スル事不レ能モノナリ、故ニ東南巽乾ノ張モ、家作地面十分ノ一モ、張レルヲ吉相トス、大ニ張リ滿タルハ、災殃ヲ招クノ相ナリ、吉相方ニ張レルハ、少シク張レ、欠クハ少シク欠ケト言二語ハ、家相極傳ノ秘密藏ナリ、余聽ヲ傾テ賛嘆ス、今ナヲ其言耳ニ在リ、家相ヲ改正セント欲ル者ハ、ヨク此意ヲ解了スベシ、今玆丙戌ノ春、書肆玉嚴堂、予ニ師説ヲ録セン事ヲ請フ、因テ疊數判斷一部ヲ著ス、此書也、其源流ハ天地ノ秘ヲ洩テ、羲文ヨツテ以テ卦ヲ畫シ、禹箕因テモツテ演疇スルヲ本トス、其理ハ至精、其用ハ至博ナリ、區々タル理數ノ書ニ異ナルガ故ニ、龍背發秘ト號シ、其請ニ應ジ、亦先生ノ妙説ヲ書テ、以テ此書ノ序トナス、 文政九丙戌九月晴湖荒井繇行堯民識
p.0594 家相全書序 大坂長岡生、善二相宅之術一、自言、其源出レ自二魏石申一、嘗自著二其術之所一レ由、以爲二一書一、名曰二家相全書一、癸亥冬、特來レ京請レ謁、而乞レ序二其書一、余本不レ喜二諸相術一、況序二其書一乎、然生請甚殷、因姑書三余所二嘗論一焉、蓋凡物有レ形則有レ數、有レ數有レ常、故有二相レ之之術一出焉、是以人物牛馬豕羊家宅器用、自レ古皆有レ言二相レ之之道一、而相有二吉凶一、乃又有下言二祈禳轉易之術一者上興焉、雖レ然五行家之所レ可、堪輿家不レ可、建除家不吉、叢辰家大凶、暦家小凶、天人家小吉、太一家大吉、漢武以爲、人取二於五行一者也、以二五行一爲レ主、則所レ謂吉凶、亦因レ家異レ説、本無レ有レ可レ定耳、雖レ然物已有レ形有レ數、則概レ之曰レ無二吉凶一則不レ可、然則吉凶孰由、蓋天地之道、據レ故則定、而民者信二乎其故一者也、有レ疑則不レ可二以定一レ物、唯信可三以決二其疑一、則凡相之術、要レ之唯有下本二乎故一者上、爲レ近レ是矣、長岡生之果原レ自二魏石申一、則是亦其術本二乎故一者也、其或足レ信乎、
p.0595 家相の事は、俗本の占ひ書に、八卦蓬萊抄といふものに始て述たり、是を種として文盲なる者ども、樣々妄説を僞作して、衆俗を誑らかし惑はす事也、家相はむつかしき事なし、住居勝手好、氣のぬけ過ぬ樣に、又闇く陰の過ぬやうに造りて足ることなり、今家相者といふものに溺化誘るゝ事なかれ、家相を信じ、家を建直して後、間もなく賣家に出したる人も多し、
p.0595 凶宅事 居所ニ惡所ト云事アルハ實證ナキニ非ズ、サルコト無ト云説如何、 惡所ト名ルニ二ノ別アリ、一ニハ鬼神等其ノ家ニ住シテ、人ヲ損シ種々ノ形ヲ現ズルニ依テ是ヲスツ、善相公ノ鬼殿ニ行テ異形ノ者共ヲ見ケルガ如シ、是ハ實證目ニ顯ルヽ上ハ勿論也、二ニハサルコトハ無シテ、住スル人、物惡ク衰ヘヤミナドスルヲ打續スレバ、是ヲ家ノタヽリト思テ、惡所ト名テ人不レ居、是ニ不實ノ疑有ルベキ也、樂天ノ詩ニ作リテヲロカナル事ニノ玉ヘル、此篇ニ付テ僻心得ノ有ル故也、居ル主ノ打續キ其身ニ災アリ、物惡カルベキ運ノアラムハ、全ク家ノ所爲、所ノ妭ニハ非ザルヲ押付テ、推シテ思ナシニ是ヲ居所ノトガト云ナシテ、人運ノ衰ヘ物ノ惡アルベキ故ノ自然ニ相 續スル道理ヲバ、思入レヌ事ヲ愚也トハ云也、彼ノ凶宅ノ詩ニハ、人疑不二敢買一、日毀二土木功一、嗟々俗人心、甚矣其愚蒙、但懼二災將一レ至、不レ思二禍所一レ從、我今題二此詩一、欲レ寤二迷者胸一、云ヘリ、終ノ詞ニハ、寄レ言家與二國人一、凶非二宅凶一、ト仰ラレタリ、江相公對策ニモ、安舞二吉凶一トコソ書タレ、同ジ心ニヤ、
p.0596 惟二月既望越六日乙未、王朝歩レ自レ周、則至二于豐一、惟太保先二周公一相レ宅、越若來三月、惟丙午朏、越三日戊申、太保朝至二于洛一卜レ宅、厥既得レ卜則經營、
p.0596 八宅 論衡詰術篇引二圖宅術一曰、宅有二八術一、以二六甲之名數一而第レ之、第定名立、宮商殊別、宅有二五音一、姓有二五聲一、宅不レ宜二其姓一、姓與レ宅相賊、則犯レ罪遇レ禍、按、今相陽宅所レ云八宅、即八術也、其兼二五聲五姓一之説、久置不レ談、
p.0596 劒相家相事 ちかき比、劒相といふこと、世にはやり、人のもたる刀をみて、貴賤貧富吉凶などの事をいふ、またそのうち家相とて、家のつくりかたをみて、同じく吉凶をのぶ、大かたにいひあつることもあれども、さのみたしかならず、ふるき書に劒を相すとあるは、劒の利鈍をみることなり、いまより劒のめきゝすといふにあたれり、家相のことは、異國にて三才圖會、本朝にては吉日考秘傳などに、敷地のかたちにつき吉凶あり、あるは山にむかひ、水により、淵にのぞむのたぐひ、いはれあり、いまいふ家相にはことかはれり、いかゞや、又馬うしを相することは、ふるく沙汰あるやうなり、
p.0596 醫官某劒相并七ツ目の支象を難ず いつの頃にや、相劒の法行はれ、諸侯大夫も、その相者を近けて、帶劒の吉凶を相せしめ給ひ、列士庶人に至るまで、縁を需て腰刀の禍福を試むるに、善惡悔吝、憂喜進退を告る事、略驗あるもの少からざれば、武家の要道と、日毎に其門に群をなすに及べり、
p.0596 近年劒相とて、刀の燒刃を見て、是は吉劒、是は凶劒と名付て、俗人をまどはす奸巧妄曲 の徒所々に多し、其劒相をいふは、後天の八卦を より順にわり付け、八卦の當る所、疵にても地あれにてもあれば、凶といひ、無疵なれば吉とす、譬ば、坎の所に疵あれば住所の障り、震の所に疵有ば宗領に祟る、兌は妻の不縁といふ也、扨此輩、もとより刀の目利しるにもあらず、右のごときもの故、しなひ疵などは夢にもしらず、只燒出しよく、地あれもなければ、大韌有て、一向益にたゝぬ刀にても、右の吉劒の合紋さへ宜しければ、譽立て高直に賣付る惡徒有、尤道具屋と相組て賣付るとなん、
p.0597 兵部卿邦賴親王相レ劒事 兵部卿邦賴親王〈○伏見宮〉は、ことに劒をこのまれ、よく利鈍および銘の眞僞をわかち、無名の劒のうちてを察せらる、又いまの世にはやる劒相(○○)をもならひ得てのべらるとぞ、廣橋前大納言伊光卿も、ちか比兩方ともこのみて見らるゝよし、吉凶なども、あたるよしきゝ侍りし、
p.0597 夢解(○○) 世兒(ヨチゴ) 世千成(ヨチナリ) 院讃 都々 橫頭
p.0597 ゆめあはせ(○○○○○) 日本紀に相夢(○○)をよめり、漢に原夢又圓夢と見えたり、山谷詩に茶夢小僧圓(アハス)と是也、眞名伊勢物語に合すと書り、拾遺集に、夢よりぞ戀しき人を見そめつる今はあはする人もあらなん、
p.0597 夢合、周禮に占夢(○○)の官ありて、六夢の吉凶を占ふ、〈六夢は、一に正夢、二に靈夢、三に思夢、四に寢夢、五に喜夢、六に 夢なり、〉王達が筆疇に、夢者非二自レ外致一也、日之所レ爲也、日之所レ爲有二善惡一、夜之所レ夢有二吉凶一云々、然則夢者所三以驗二吾善惡之進退一者乎、こゝにも日本紀には、ゆめあはせを相夢とあり、夢解といふもの有て吉凶を占へり、源氏、〈螢〉夢見給ひて、いとよくあはする物めして合せ給ひける、枕草子、うれしき物、夢をみておそろしとむねつぶるゝに、ことにもあらずあはせなどしたる、古事談、伴善男の條に、汝 高相の夢みてけり、然れどもよしなき人に語りてけり、〈わろく合すれば吉夢もよからずといひならへりとみゆ、〉江談に兼家公いまだ納言たりし時、夢に逢坂の關路に雪のふりたる處をみて云々、夢解を召て合せらるゝ、〈小注に〉此夢解盲人也、名は月となり、取かへばや、吉野の宮をいふ處、世の人のしとすることかたかたのさゑ、おんみやう、天文、いめとき、さう人などいふことまで、道きはめたるさゑどもなり、
p.0598 占夢 占夢は、いひしへ夢解といひ、近來夢判といへり、占夢の事、夢經万寶全書など、諸書おほかれど、明人陣士元が夢占逸旨八卷、藝海珠塵子部、五行家類の中に收て、大成の書なり、
p.0598 占夢書三卷、〈京房撰〉占夢書一卷、〈崔元撰〉竭伽仙人占夢書一卷、占夢書一卷、〈周宣可撰〉新撰占夢書十七卷、〈并目録○中略〉雜占夢書一卷、〈梁有二師曠占五卷、東方朔占七卷一、〉
p.0598 圓夢 黄帝夢二大風一而得二風后一、夢二人執レ弩驅一レ羊而得二力牧一、此夢兆之徴二於人事一者、其後遂有二占夢之術一、周禮大卜、掌二三夢之法一、一曰致夢、二曰觭夢、三曰咸陟、鄭氏以爲二致夢夏后氏所レ作、觭夢商人所一レ作、咸陟者言夢レ之、皆得二周人作一焉、而占夢專爲二一官一、以二日月星辰一、占二六夢之吉凶一、曰生、曰靈、曰思、曰寤、曰喜、曰懼、季冬聘二王夢一獻二吉夢於王一、王拜而受レ之、乃舍二萌〈釋菜〉於四方一、以贈二惡夢一、毛詩亦有下訊二之占夢一之語上、左傳城濮之戰、晉侯夢與二楚子一搏、楚子伏レ己而鹽二其腦一、子犯曰、吉、我得レ天、楚伏二其罪一、我且柔レ之矣、鄢陵之戰、呂錡夢、射レ月中レ之、退入二於泥一、占レ之曰、姫姓日也、異姓月也、必楚王也、射而中レ之、退入二於泥一、亦必死矣、果射二楚共王一中レ目、錡亦爲二養由基射一死、此占夢之最騐者也、漢藝文志、七略雜占十八家、以二黄帝長柳占夢十一卷、甘德長柳占夢二十卷一爲レ首、其説曰、雜占者、記二百家之象一、候二善惡之徴一、衆占非レ一、而占夢爲レ大、可レ見古人以レ夢爲レ重、後漢書梁王暢傳、王數有二惡夢一、從官卞忌、善占レ夢、王數使二卜筮一、是東漢時、尚有二占夢之人一、乃後世無二復以レ此爲レ業者一、郞瑛謂自二樂廣因想之説興一、而夢之理明矣、其理明則不二必占一也、〈○中 略〉又有二梅溪子者一、姓宇文氏、精二于太乙數一、且善二圖夢一、以レ術授二樂平人汪經一、近世圓夢之術、蓋本二諸此一、
p.0599 圓夢 浩然齋視聽鈔、圓夢出二南唐近事一、憑僎擧二進士一時、有二徐文幼一能圓二其夢一、按、占夢事最古、漢藝文士載二黄帝長柳占夢十一卷一、周禮司寤掌二王六夢一、蓋其大略也、其謂二之圓夢一、亦非レ始二于南唐一、李德裕載二明皇十七事一云、或毀下黄幡綽在二賊中一、與二大逆一圓レ夢、皆順二其情一、而忘中陛下積年之恩寵上、已見二此圓字一矣、
p.0599 四十八年正月戊子、天皇勅二豐城命、活目尊一曰、汝等二子、慈愛共齊、不レ知二曷爲一レ嗣、各宜レ夢、朕以レ夢占レ之、二皇子於レ是被レ命、淨沐而祈寐、各得レ夢也、會明、兄豐城命、以二夢辭一奏二于天皇一曰、自登二御諸山一、向レ東而八廻弄槍、八廻擊刀、弟活目尊、以二夢辭一奏言、自登二御諸山之嶺一、繩絙二四方一、逐二食レ粟雀一、則天皇相夢(イメノアハセシテ/○○)、謂二二子一曰、兄則一片向レ東、當レ治二東國一、弟是悉臨二四方一、宜レ繼二朕位一、
p.0599 むかし、世心づける女、いかで心なさけあらん男に、あひみてしがなと思へど、いひ出んもたよりなきに、誠ならぬ夢がたりをす、子三人をよびて、かたりけり、ふたりの子は、なさけなくいらへてやみぬ、さぶらうなりける子なん、よき御男ぞいでこんとあはするに、此女けしきいとよし、こと人はいとなさけなし、いかでこの在五中將にあはせてしがなと思ふ心有、かりしありきけるに、いきあひて、道にて馬の口を取て、かう〳〵なん思ふといひければ、哀がりて、きてねにけり、
p.0599 大入道殿夢想事 大入道殿〈兼家〉爲二納言一之時、夢過二合坂關一、雪降關路悉白〈ト〉令レ見給〈天、〉大令レ驚〈天、〉雪ハ凶夢也〈ト〉思〈天、〉召二夢解一(○○)欲レ令レ謝テ、令レ語給ニ、夢解申云、此御夢想極吉夢也、慥以不レ可レ有レ恐、其故ハ、人必可レ令レ進二斑牛一、即人令レ進二斑牛一、夢解預二纏頭一也、大江匡衡令レ參、此由有二御物語一、匡衡大驚テ、纏頭可二召返一、合坂關者、關白之關字也、雪者白字也、必可レ令レ到二關白一、大令レ感給、其明年〈○正暦元年〉令レ蒙二關白宣旨一給也、
p.0600 伴大納言本縁事 被レ談云、伴大納言者、先祖被レ知乎、答云、伴氏文大略見候哉、被レ談云、氏文ニハ違事ヲ傳聞侍也、伴大納言者、本佐渡國百姓也、彼國郡司ニ從テゾ侍ケル、其後國ニテ、善男夢ニ見樣、西大寺ト東大寺トニ跨テ立タリト見テ、妻女ニ語二此由一、妻云、ミル所ノ夢ハ、胯ヲサカレヌト合ル、善男驚テ無レ由事ヲ語リヌト恐思テ、主ノ郡司ノ宅ニ行向フニ、伴ノ郡司、極タル相人ニテゾアリケルガ、年來ハサナキニ、俄ニ夢ノ後朝行タルニ、取二圓座一テ出向テ、事ノ外ニ饗應シテ、召昇セケレバ、善男成レ怪テ、又恐樣、我ヲ賺シテ後、此女ノ云ツルヤウニ、無レ由事ニ付、胯サカムズルニヤト、思程ニ、郡司談云、汝ハ高名ノ夢想見テケリ、然ヲ無レ由人ニ語ケレバ、必大位ニ至ルトモ、定其徴故ニ、不慮ノ外事出來テ、坐ス事歟ト云ケリ、然間善男付レ縁テ、京上シテアリケル程ニ、七年ト云ニ、大納言ニ至ケル程ニ、彼夢合タル徴ニテ、配二流伊豆國一云々、此事祖父所レ被二傳語一也、又其後〈爾、〉廣俊、父ノ俊貞モ、彼國ノ住人語ヒシナリトテ、語リキト云々、
p.0600 天養元年七月九日戊午、去七日寅刻夢、吉凶問二占夢者一(○○○○)、〈下女人也、俗一呼二鳴夢説一、〉曰大吉也、
p.0600 天文博士弓削是雄占レ夢語第十四 今昔ト云フ者有ケリ、榖藏院ノ使トシテ、其封戸ヲ徴ラムガ故ニ東國ノ方ニ行テ、日來ヲ經テ返上ル間、近江國ノ勢多ノ驛ニ宿ス、其時ニ其國ノ司ト云フ人、館ニ有テ、陰陽師天文博士弓削是雄ト云フ者ヲ請ジ下シテ、大屬星ヲ令レ敬ムト爲ル間、是雄彼ノト同宿シヌ、是雄ニ問テ云ク、汝何レノ所ヨリ來ルゾト、答テ云ク、我レ榖藏院ノ封戸ヲ徴ラムガ爲ニ、東國ニ下テ今返上レル也ト、如レ此互ニ談ズル間、夜ニ臨テ皆寢入ヌ、而ルニ忽ニ惡相ヲ見テ、覺テ後是雄ニ云ク、我レ今夜惡相ヲ見ツ、而ルニ我レ幸ニ君ト同宿セリ、此夢ノ吉凶ヲ占ヒ可レ給シト、是雄占テ云ク、汝ヂ明日家ニ返ル事无カレ、汝ヲ害セムト爲ル者、汝ガ家ニ有リト、ガ云ク、我レ 日來東國ニ在テ、疾ク家ニ返ラム事ヲ願フニ、今此ニ來テ、又此ニテ徒ニ亦數日ヲ可レ過キニ非ズ、又數ノ公物私物其員アリ、何カ此ニ留ラムヤ、但シ何ニシテカ彼ノ難ヲバ可レ遁キト、是雄ガ云ク、汝ヂ尚強ニ明日家ニ返ラムト思ハヾ、汝ヲ殺害セムト爲ル者ハ、家ノ丑寅ノ角ナル所ニ隱レ居タル也、然レバ汝ヂ先ヅ家ニ行キ著テ、物共ヲバ皆取置セテ後、汝ヂ一人弓ニ箭ヲ番テ、丑寅ノ角ニ然樣ノ者ノ隱居ヌベカラム所ニ向テ、弓ヲ引テ押宛テ云ハム樣ハ、己レ我ガ東國ヨリ返上ルヲ待テ、今日我ヲ殺害セムト爲ル事ヲ兼テ知レリ、早ク罷リ出ヨ、不レ出バ速ニ射殺シテムト云ヘ、然ラバ法術ヲ以テ不レ顯ト云フトモ、自然ラ事顯レナムト敎ヘツ、其敎ヘヲ得テ、明ル日京ニ急返ヌ、家ニ行著タレバ、家ノ人御坐タリト云テ、騷ギ喤ル事无二限リ一、一人ハ不レ入シテ、物共ヲバ皆取置セテ、ハ弓ニ箭ヲ番テ、丑寅ノ角ノ方ヲ廻テ見ルニ、一間ナル所ニ薦ヲ懸タリ、此ナメリト思テ、弓ヲ引テ矢ヲ差宛テ云ク、己レ我ガ上ルヲ待テ、今日我ヲ殺害セムトス、其由ヲ兼テ知タリ、早ク罷出ヨ、不レ出バ射殺シテムト云フ、其時ニ薦ノ中ヨリ法師一人出タリ、即從者ヲ呼テ、此ヲ搦テ問ニ、法師暫クハ此彼云テ、不強ニ問ケレバ、遂ニ落テ云ク、隱シ可レ申キ事ニモ非ズ、己ガ主ノ御房ノ、年來此殿ノ上ニ棲奉リ給ツルニ、今日上給フ由ヲ聞キ給テ、其ヲ待テ必ズ殺シ奉レト、此殿ノ上ノ被レ仰ツレバ、罷隱レテ候ツルニ、兼テ知ラセ給ヒニケレバト此ヲ聞キテ、我宿報賢クシテ、彼是雄ト同宿シテ、命ヲ存スル事ヲ喜ブ、亦是雄ガ此ク占ヘハ實ナル事ヲ感ジテ、先ヅ是雄ガ方ニ向テ拜シケリ、其後法師ヲバ檢非違使ニ取セテケリ、妻ヲバ永ク不レ棲成ニケリ、此ヲ思フニ、年來ノ妻也ト云ドモ、心ハ不レ可レ緩、女ノ心ハ此ル者モ有ル也、亦是雄ガ占不可思議也、昔ハ此ク新タナル陰陽師ノ有ケル也トナム、語リ傳ヘタルトヤ、
p.0601 むかし、備中國に郡司ありけり、それが子に、ひきのまき人といふ有けり、わかき男にてありけるとき、夢をみたりければ、あはせさせんとて、夢ときの女(○○○○○)のもとに行て、夢あは せてのち、物語してゐたるほどに、人々あまたこゑしてくなり、國守の御子の太郞君のおはするなりけり、年は十七八ばかりの男にておはしけり、心ばへはしらず、かたちはきよげなり、人四五人ばかりぐしたり、これや夢ときの女のもとゝとへば、御ともの侍、これにて候といひてくれば、まき人は、上の方の内に入て、部屋のあるに入て、あなよりのぞきみれば、この君入行て夢をしかじか見つるなり、いかなるぞとてかたりきかす、女きゝて、よにいみじき夢なり、かならず大臣までなりあがり給べきなり、返々めでたく御覽じて候、あなかしこ〳〵、人にかたり給なと申ければ、この君うれしげにて、衣をぬぎて、女にとらせてかへりぬ、そのをり、まき人、部屋より出で、女にいふやう、夢はとるといふ事のあるなり、この君の御夢、われらにとらせたまへ、國守は四年過ぬれば、かへりのぼりぬ、われはくに人なれば、いつもながらへてあらんずるうへに、郡司の子にてあれば、我をこそ大事に思はめといへば、女のたまはんまゝに侍べし、さらばおはしつる君のごとくにして、入給て、そのかたられつる夢を、つゆもたがはずかたりたまへといへば、まき人よろこびて、かの君のありつるやうにいりきて、夢がたりをしたれば、女おなじやうにいふ、まき人いとうれしく思て、衣をぬぎてとらせてさりぬ、そのゝち文をならひよみたれば、たゞとほりにとほりて、才ある人になりぬ、大やけきこしめして、心みらるゝに、まことに才ふかくありければ、もろこしへ物よく〳〵ならへとてつかはして、久しくもろこしにありて、さま〴〵の事どもならひつたへて歸りたりければ、御門かしこきものにおぼしめして、次第になしあげ給て、大臣までになされにけり、されば夢とることは、げにかしこき事なり、かの夢とられたりし備中守の子は、司もなきものにてやみにけり、夢をとられざらましかば、大臣までも成なまし、さればゆめを人にきかすまじきなりと、いひつたへけり、
p.0602 ときまさがむすめの事 またかのときまさにむすめ三人あり、ひとりはせんばらにて二十一なり、二三はたうばらにて十九十七にぞなりにける、なかにもせんばら二十一は、びじんのきこえあり、ことにちゝふびんに思ひければ、いもうと二人よりは、すぐれてぞおもひける、さる程に、そのころ十九のきみ、ふしぎのゆめをぞ見たりける、たとへばいづくともなくたかきみねに上り、月日をさうのたもとにおさめ、たち花の三つなりたるえだをかざすと見ておもひけるは、おのこゝの身なりとも、みづからが月日をとらん事あるまじ、ましてや女の身として、思ひもよらず、まことにふしぎのゆめなり、あねごはしらせ給ふべし、とひたてまつらんとぞ、いそぎあさ日ごぜんのかたにうつり、こまごまとかたりたまふ、 たちばなの事 さてもこの二十一のきみ、女しやうながら、さいかく人にすぐれしかば、〈○中略〉このゆめをいひおどして、かいとらばやとおもひければ、このゆめかへす〴〵おそろしきゆめなり、よきゆめをみては、三とせは、かたらずし、あしきゆめをみては、七日のうちにかたりぬれば、おほきなるつゝしみあり、いかゞすべきとぞおどしける、十九の君は、いつはりとは思ひもよらで、さてはいかゞせん、よきにはからひてたびてんやと、大きにおそれけり、さればかやうにあしきゆめをば、てんじかへて、なんをのがるゝとこそ、きゝてさふらへ、てんずるとは、なにとする事ぞや、みづからこゝろへがたし、はからひたまへとありければ、さらばうりかふといへば、のがるゝなり、うり給へといふ、かうものゝありてこそうられ候へ、めにもみえず、手にもとられぬゆめのあと、うつゝにたれかかうべしと思ひわづらふいろみえぬ、さらばこのゆめをば、わらはかひとりて、御身のなんをのぞきたてまつらんといふ、みづからがもとよりぬしあしくとてもうらみなし、御ためあしくば、いかゞといひければ、さればこそうりかふといへば、てんずるにて、ぬしも、みづからも、くる しかるまじと、まことしやかにこしらへければ、さらばとよろこびて、うりわたしける、そのゝちに、くやしくはおぼえける、このことばにつきて二十一のきみ、なにゝてか、かひたてまつらん、もとよりしよまうのものなればとて、ほうでうのいへにつたはる、からのかゞみをとりいだし、からあやのこそで一かさねそへわたされけり、十九のきみ、なのめならずによろこびて、わがかたにかへり、日ごろのしよまうかなひぬ、此かゞみのぬしになりぬと、よろこびけるぞおろかなる、
p.0604 異邦、拆字を以て吉凶を説を相字と云、瑞桂堂暇録、及び高文虎蓼花洲間録等の小説に見えたり、我國、今花押を相して吉凶を云は、もと相字より起れり、〈賢按、是今世墨色考(○○○)といふものなり、〉
p.0604 聞、我方京師、昔有二字占(○○)翁者一、使三人隨意書二一字一、相レ之以善占二其吉凶禍福一、予〈○冢田虎〉伯兄兵馬、嘗善二其字占一、屢能善中二其人事一、頃讀二宋高文虎蓼花洲間録一云、謝石成都人、宣和間至二京師一、以二相字一言二人禍福一、求レ相者隨意書二一字一、即就二其字一、離拆而言、無下不二奇中一者上、名聞二九重一、上皇因書二一朝字一、令二中貴人持往試一レ之、石見レ字、即端二視中貴人一、曰、此非二觀察所一レ書也、然謝石賤術、今日遭遇、即因二此字一、點配遠行、亦此字也、但未二敢遽言一レ之耳、中貴人愕然、且謂レ之曰、但有レ所レ據、盡言無レ懼也、石以レ手加レ額曰、朝字離レ之、爲二十月十日字一非二此月此日所レ生之天人一、當二誰書一也、一座盡驚、中貴馳奏、翌日召至二後苑一、令二左右及宮嬪書一レ字示レ之、皆據レ字論二説禍福一、倶有二精理一云々、
p.0604 字畫の占(○○○○)といふは、百家名書といふ書の中に、謝氏が相字法と云書有、其占ひ樣は、占を乞來る人に、何といふ字にても、向ふの人のおもひ出の字をかゝせ、其字の偏傍又は踏冠を或は增或は減じ、種々活を用て、それ〴〵に判斷するなり、占ひし例は、書に詳に見へたり、 按ずるに、此事も、ふるく我朝に傳へ翫びしにや、雜々拾遺などにも見へたる雜占なり、
p.0604 墨色〈拆字 測字 破字 相字 相印 相手板 相笏〉 相字破字の疑は、もと陰陽五行家のいひいでたることにて、西土より傳播したることは、いふも さらなり、明崔紫虚の相字心經〈百家名書、格致叢書などにも入、〉胡文煥の錢塘副墨など、そのすぢをかけるものなり、欽定四庫全書總目に、神機相字法〈術數存目〉一卷あり、撰人未詳といへり、舶來有りやいまだしらず、錢遵王讀書敏求記卷三、相法の條に、相字心易一卷をのせたり、是も撰者しれず、錢大昕が恒言録卷六に、拆字、隋書經籍志、有二破字要訣一卷一、顏氏家訓書證篇云、拭卜破字經、及鮑昭謎字、皆取二會流俗一、盧召弓云、破字即今之柝字也、と有るにて、拆字破字おなじことなるをさとるべし、又程省以三〈時代未考〉の測字秘牒といふものあり、此書破字卜法を詳にしるす、〈漢鏡齊四種ノ一ナリ、淸道光甲申程芝雲ノ序アリ、コノ人ノ同宗カ、猶ヨク考フベシ、〉隋志〈五行〉相手板經六卷、〈梁ノ相手板經、受版圖韋氏ノ相板印法指略鈔、魏征東將軍程申伯ノ相印法各一卷、亡、〉とみえ、魏志卷九注に、魏氏春秋を載せて、允善二相印一、將レ拜、以二印不善一、使二更刻一レ之、如レ此者三、允曰、印雖二始成一、而已被レ辱、問二送レ印者一、果懷レ之、而墜二於廁一、相印書曰、相印法、本出二陳長文一、以語二韋仲將一、印工楊利從二仲將一受レ法、以語二許士宗利一、以二法術一占二吉凶一、十中可二八九一、仲將問二長文一、從レ誰得レ法、長文曰本出二漢世一、有二相印相笏經一云々、とあるなどをみれば、漢の比よりはやくいひいでたることゝおもはる、 雜々拾遺卷一〈此書、元祿八乙亥刊本、六卷也、其後古今拾遺著聞集と題號を改め、弘化三年藤原行定自序あり、〉 〈安倍有宗判うらなひ、付明の大宗の事、〉安倍晴明十五代の後胤從三位有宗入道は、天文博士にて、兼好が友人なり、ことに判形を見て吉凶をいふに、ひとつもあやまらず、人みな歸依しけり、もろこしにも此ためしあり、異國の書には、字を分つ者とあり、みな判うらなひの事也、明朝の大祖いまだ只人の時行末の安否きかまほしくて、字をわかつ人の方へゆき、案内して庭に立ながら、しか〴〵の事をたづねらるゝに、あるじ立出て、何にても文字をかきてみせ給へといふ、大祖持たる杖にて土上に一文をかき給ふ、あるじおどろきて、さてもめでたき御事なりと拜伏す、とてものついでに今一字をみ侍らむといふ、大祖何ごゝろなく、又問の字を書きてみせらる、いよ〳〵うたがふ所なく天子の御器量あり、土のうへに一文字を加ふれば、王の字なり、後の問の字をわ かつ時は、左につけても、右に付ても、君の字なり、たのもしくおぼしめさるべし云々、大明の史傳に書きのせたり、
p.0606 拆字説二吉凶一 客曰、中華拆レ字説二吉凶一、其説如何、 答紹興中、張九萬以二拆字一説二吉凶一、秦檜一日獨二坐書閣一、召二九萬一至、以二扇柄一、就レ地畫二一字一、問曰如何、九萬賀曰、相公當レ加二官爵一、檜曰、我位爲二丞相一、爵爲二國公一、復何所レ加、九萬曰、土上一畫非レ王而何、當レ享二眞王之貴一、其後竟封二郡王一、又封二申王一、〈瑞桂堂暇録〉
p.0606 拆字 二老堂雜志、謝石善二拆字一、徽宗特補二承信郞一、按、通志藝文略、有二相字書一、即拆字也、其術不レ始二于謝一、而謝名爲二最著一、
p.0606 字訓詩〈于レ時嘉祥九年秋〉 淸原眞友 禾失曾知レ秩、中心豈忘レ忠、里魚穿レ浪鯉、江鳥度レ秋鴻、火盡仍爲レ燼、山高自作レ嵩、色絲辭不レ絶、凡虫泣二寒風一、 字訓詩 源順 周禾致レ瑞稠、人壽與レ仙儔、加レ馬馳二高駕一、求レ衣擁二善裘一、夏香蓮綻馥、秋木葉落楸、官舍飽二門館一、三刀幾二九州一、
p.0606 上東門院〈○藤原彰子〉被レ奉レ生二後一條院一、御産之時、事外有レ煩ケレバ、入道殿〈○藤原道長〉サワガセ給テ、自二御所一令二走出一給テ、御産事外令レ澀給、コハイカヾスベキ、御誦經ナドカサネテ可レ行ヤト被レ仰之間、御言未レ了ニ、有國申云、御産ハ已成候ヌル也、不レ可レ及二重御誦經一ト申程ニ、女房走參テ、御産已成候ヌト申ケリ、事落居之後、有國ヲ召テ、イカニシテ御産成ヌトハ知ツルゾト御尋アリケレバ、御障子ヲ引アケテ出給ツレバ、障子ハ子ヲ障ト書テ候ニ、廣アキ候ヌレバ、御産成ヌト存候ツル也ト申ケリ、
p.0607 上東門院御帳門犬出來事 上東門院爲二一條院女御一之時、帳中ニ犬子不慮之外ニ入〈天〉有〈遠〉見付給、大ニ奇恐被レ申二入道殿一、〈道長〉入道殿召二匡衡一テ密々令レ語二此事一給ニ、匡衡申云、極御慶賀也〈土〉申〈仁、〉入道殿何故哉〈土〉被レ仰〈仁、〉匡衡申云、皇子可下令二出來一給上之徴也、犬ノ字ハ是點ヲ大ノ字ノ下ニ付バ太ノ字也、上ニ付レバ天ノ字也、以レ之謂レ之、皇子可二出來給一、サテ立二太子一、次ニ至二天子一給歟、入道殿大令二感悅一給之間、有二御懷姙一、令レ奉レ産二後朱雀院天皇一也、此事秘事也、退席之後、匡衡私令レ勘二件字一〈天〉令レ傳レ家云々、
p.0607 寬弘九年〈○長和元年〉五月十一日戊寅、乘レ月式部大輔匡衡來、談二雜事一次云、一日應レ召早參、行二立后事并除目事一、極所二感思一、所レ言太多、不レ可二敢記一、其次語二除書間蜈蚣事一、會二釋蜈蚣一云、吴字者天載レ口、公字者三公也、出レ自二天口一可レ爲二三公一歟、吴者期、十二月可レ無レ疑、彼日甲子物始、被レ行二除目一、可レ謂二事始一也、亦初行二皇后宮除目一、皇者御門也、后者きさき、帝后相兼、除目有事、相二示大夫一、名名二隆家一、訓讀云二伊部乎佐加也加寸一、尤有レ興事也、又云、周公并吴公也、彼家周公也、予家吴公也、左右思慮、昇二三公一可レ有レ近者、識者言爲二後鑒一、聊所二記置一、件匡衡月來不食有レ恙、而隱夜所レ來也者、
p.0607 主上御夢事附楠事 元弘元年八月廿七日、主上〈○後醍醐〉笠置ヘ臨幸成テ、本堂ヲ皇居トナサル、〈○中略〉少シ御マドロミ有ケル御夢ニ、所ハ紫宸殿ノ庭前ト覺タル地ニ大ナル常盤木アリ、綠ノ陰茂テ南ヘ指タル枝殊ニ榮ヘ蔓レリ、其下ニ三公百官位ニ依テ列座ス、南ヘ向タル上座ニ、御座ノ疊ヲ高ク敷、未ダ座シタル人ハナシ、主上御夢心地ニ、誰ヲ設ケン爲ノ座席ヤラント、怪シク思食テ立セ給タル處ニ、鬟結タル童子二人忽然トシテ來テ、主上ノ御前ニ跪キ、泪ヲ袖ニ掛テ、一天下ノ間ニ、暫モ御身ヲ可レ被レ隱所ナシ、但アノ樹ノ陰ニ南ヘ向ヘル座席アリ、是御爲ニ設タル玉扆ニテ候ヘバ、暫ク此ニ御座候ヘト申テ、童子ハ遙ノ天ニ上リ去ヌト御覽ジテ、御夢ハヤガテ覺ニケリ、主上是ハ天ノ朕ニ告玉 ヘル所ノ夢也ト思食テ、文字ニ付テ御料簡アルニ、木ニ南ト書タルハ楠ト云字也、其陰ニ南ニ向テ坐セヨト、二人ノ童子ノ敎ツルハ、朕再ビ南面ノ德ヲ治テ、天下ノ士ヲ朝セシメンズル處ヲ、日光月光ノ被レ示ケルヨト、自ラ御夢ヲ被レ合テ、憑敷コソ被二思食一ケレ、夜明ケレバ當寺ノ衆徒成就房律師ヲ被レ召、若此邊ニ楠ト被レ云武士ヤ有ト御尋有ケレバ、近キ傍ニ左樣ノ名字付タル者アリトモ未二承及一候、河内國金剛山ノ西ニコソ、楠多門兵衞正成トテ、弓矢取テ名ヲ得タル者ハ候ナレ、〈○中略〉稚名ヲ多門トハ申候也トゾ答申ケル、主上サテハ今夜ノ夢ノ告是也ト思食テ、頓テ是ヲ召セト被二仰下一ケレバ、藤房卿勅ヲ奉テ、急ギ楠正成ヲゾ被レ召ケル、
p.0608 天文二年〈○中略〉公〈○德川家康父親氏〉嘗夢有レ文、在二其握一、曰レ是、旦而咨レ衆、無二能解者一、浮屠橫外、以二拆字一占レ之曰、是字爲二日下人一、日下一人而握レ之、大柄在レ手也、吉莫レ大レ焉、然握而未レ啓、不レ在二其身一、或在二後嗣一也、公大悅、爲創二龍海禪寺一、
p.0608 墨色、是も雜占なり、聖賢の法はなし、只墨の淸み濁る所を以て、それに因て吉凶をいふ、一文字をかゝせて見るも有、或は圓をかゝせて吉凶を述る也、其法八卦を割付て、それに因て斷るなり、又圓にても、一にても、筆の始あしければ、病氣なれば首の病ひといひ、筆の止りあしければ、痔の病ひ有といふ、童蒙の取扱ふ重寶記などにも、墨色の事有、學者の取あぐる事にもあらず、花押の墨色も、大概同樣の事也、
p.0608 判兵庫星占之事附長坂長閑無二面目一仕合之事 永祿十二年己巳の歳より、翌年午七月まで、天に煙の出る星出たり、信玄公三十一歳の御時より召置るゝ江州石山寺の博士、むかしの晴明が流れにて易者也、中にも判を能占(○○○○)に依て、判の兵庫と號す、占をも正法に仕、内典ともにたづさはり、邪氣聊もなければ、信州水内郡におひて百貫の知行、永代宛行るゝ朱印、彼兵庫に被二成下一、
p.0609 一予判を占ひ、名乘字の善惡を考、其外家の住居々々の恰合により吉凶、大戸口の建樣等、品々土御門兵部少輔家來に、花形六左衞門と申候てあり、昔予近付に成申候比、六十歳計に相みへ申候、此六左衞門、右陰陽道に妙を得たるものにて候、若輩より勤仕して、よく習得たり、此六左衞門に傳授いたし候、然ども終に考ふる事もなく打過候、先年於二護國寺一、住持の判をすへ爲レ見被レ申候處に、追付位進可レ被レ申候、但し先を折判形に候間、末は宜かる間敷候條、御愼可レ有レ之候と申候處に、護持院の住持職に被二仰付一、大僧正に被二仰付一候、夫より隱居、其上にも結構成樣子に候處に、當御代〈家宣公〉に成て、公儀表惡敷、逼塞一命を御助け置被レ遊迄之首尾に成候、亦護國寺の役者の内、普門院右住持大僧正に成申を見て、予を信仰にて判をして見せ申候、殊之外能判にて、寺領有レ之寺〈江〉居り可レ申と判申候へば、國は何方にて可レ有レ之と、狂言に尋申候故、則江戸の地にて候、此墨薄き點が當地と察申候、さあらば土地は一方に山、一方に海道を請て、片さがりなる土地にて候、前には流有て、後は地つまり可レ申候、靑龍白虎朱雀玄武の理に叶ひ、四神相應の寺地に居はり可レ被レ申と判じ候へば、普門院喜悅之處、總出家中、先祝をいたし候へとて、吸物酒など、普門院に出させ、予も打まじり、なぐさみ申候、然處無レ程一位樣〈○桂昌院、德川綱吉生母、〉の御寺、日下窪の藥王寺後往に被二仰付一候、寺領武州六鄕にて百石御寄附、予が判じ申如く、土地の體相違無レ之候、後はつまり候へども、門前百間有レ之候、何かに福有の寺にて候、右兩樣の判よく考合申候故、護國寺護持院の出家中は、予を信仰にて候、
p.0609 草名吉凶 講習餘筆に花押のことを説て、さて其畫間の空穴の數にて、吉凶を云、其生の性に叶へりの叶はざるのと云る附會の説共をなせり、これらは陰陽占卜家のする所にて從べからず、