p.0949 沈痾自哀文 山上憶良作〈○中略〉
志怪記云、廣平前大守、北海徐玄方之女、年十八歳而死、其靈謂二馮馬子一曰、案我生錄當二壽八十餘歳一、今爲三 鬼所二枉殺一、已經二四年一、此過二馮馬子一、乃得二更活一、是也、内敎云、贍浮洲人壽百二十歳、謹案、此數非二必不一レ得レ過レ此、故壽延經云、有二比丘一名曰二難逹一、臨二命終時一、詣レ佛請三壽則延二十八年一、但善爲者天地相畢、其壽夭者、業報所レ招、隨二其修短一而爲レ半也、未レ盈二斯算一而遄死去、故曰未レ半也、任微君曰、 病從レ口入( ○○○○) 、故君子節二其飮食一、由レ斯言レ之、人遇二疾病一不二必 鬼一、夫醫方諸家之廣説、飮食禁忌之厚訓、知易行難之鈍情、三者盈レ目滿レ耳、由來久矣、抱朴子曰、人但不レ知二其當レ死之日一、故不レ憂耳、若誠知羽翮可レ得レ延レ期者、必將爲レ之、以レ此而觀、乃知我病蓋斯 飮食所レ招( ○○○○) 、而不レ能二自治一者乎、
p.0949 諸病不治證第二
醫門方云、論曰、夫人 有レ病皆起二於藏( ○○○○○○) 府一、生死之候乃見二於容色一、猶如二影響報應一、必不二差違一、
p.0949 治病大體第一〈○中略〉
大素經云、黄帝問二於岐伯一曰、醫之治レ病也、一病而治各不レ同皆愈何也、岐伯曰、 地勢( ○○) 使レ然、故東方之域、天地之法始生也、魚鹽之地、濱海傍水、其民食レ魚而嗜レ醎、魚者使二人熱中一、鹽者勝レ血、故其民皆黑色疎理、故其病爲二癕瘍一、其治宜二 石一、 石者亦出レ從二東方一來、 西方者、金玉之域、沙石之處也、天地之所二收引一也、其 民陵居而多レ風、水土剛強、其民不レ衣而疊レ篇、其民窄食脂肥故耶、不レ能レ傷二其形體一、其病皆生二於内一、其治宜二毒藥一、毒藥從二西方一來、
p.0950 一疥癩治方〈○中略〉
凡 病有二六種一( ○○○○) 、第一次第不調、第二飮食不調、第三座禪不調、第四業病、第五魔病、第六鬼病、
右六種之中、魔、鬼ノ二病ハ、以二神呪一治レ之、非二法威力一者不レ能レ治レ之、座禪一病者、還依二座禪一治レ之、業病ハ、以二罪障懺悔之力一治レ之、四大不調、飮食不調者、醫師所レ治也、但除二業病一、是四大各有二百一病一、合成二四百四病一、此則莫下不レ發二五藏一者上、四大不調者、地水火風也、
p.0950 又病因を、 物の怪( ○○○) のやうにいへるは、佛學世に行はれて、釋氏鬼病の説の、世上に弘まりたるにあらず、總てまじなひ祈禱して、本復する症は、皆鬼病なり、其外は多く飮食より起る病なり、故に唐土の古人も、病因に鬼食をいへり、〈左傳醫和曰、非レ鬼非レ食、〉萬葉集に、病從レ口入、故君子節二其飮食一、人遇二疾病一不二必妖鬼一といへるは、よく病因を説といふべし、〈物怪のくすり、女傳集に出づ、〉
p.0950 夫人ハ天地陰陽ヲウケテ生ズ、蓋天ニ六氣アリ、故ニ人ニ三陰三陽アリテコレニ應ズ、地ニ五行アリ、人ニ五臟五府アリ、コレニ應ズ、コヽニ或ハ四百四病ト名ケ、或ハ萬病ト稱ス、其ウチ巢元方病源論ニハ、千八百ノ門ヲタテヽ、一門ノシタニ各衆病ヲアカセリ、シカリトイヘドモ、病萬差ニシテ、ナホツクスコトアタハズ、コヽニ陳言無擇ガ三因方ニ、三ノ因ヲタテ、萬病ヲオサムルニ、病トシテツキズト云コトナシ、其 三因( ○○) ト云ハ、一ニハ 内因( ○○) 、二ニハ 外因( ○○) 、三ニハ 不内外因( ○○○○)コレナリ、内因ト云ハ、 七氣ノ病( ○○○○) ナリ、イハク、喜、怒、憂、思、悲、恐、驚ノ七ノ氣ハ内心ヨリ生ズル病ナルユヘニ、内因ト名ヅク、
p.0950 宮方怨靈會二六本杉一事附醫師評定事
足利左兵衞督ノ北方相勞ル事有テ、和氣丹波ノ兩流ノ博士、本道、外科、一代ノ名醫數十人被二招請一 テ脈ヲ取ラセルヽニ、或ハ御勞リ、風ヨリ起テ候ヘバ、風ヲ治スル藥ニハ、牛黄金虎丹、辰沙天麻圓ヲ合セテ御療治候ベシト申ス、或ハ 諸病ハ氣ヨリ起ル( ○○○○○○○) 事ニテ候ヘバ、氣ヲ收ル藥ニハ、兪山人降氣湯、神仙沈麝圓ヲ合セテマイリ候ベシト申、或ハ此御勞ハ、腹ノ御病ニテ候ヘバ、腹病ヲ治スル藥ニハ、金鎖正元丹、秘傳玉鎖圓ヲ合テ、御療治候ベシトゾ申ケル、斯ル處ニ施藥院師嗣成、少シ遲參シテ脈ヲ取進セケルガ、何ナル病トモ不レ辨、病多シトイヘ共、束テ 四種( ○○) ヲ不レ出、雖レ然混散ノ中ニ於テ致二料簡ヲ一ケレ共、更ニ何レノ病トモ不レ見、心中ニ不審ヲ成處ニ、天狗共ノ仁和寺ノ六本杉ニテ評定シケル事ヲ、屹ト思出シテ、是御懷姙ノ御脈ニテ候ケル、シカモ男子ニテ御渡候ベシトゾサヽヤキケル、
p.0951 素問ノ擧痛論ニ、 百病生二於氣一( ○○○○○) 、怒則氣上、恐則氣下、喜則氣緩、悲則氣消、思則氣結、驚則氣亂、寒則氣收、炅則氣泄、勞則氣耗、トモ有ル如ク、諸病モ此ヨリ生ズルデゴザル、〈○中略〉然レバコレ程ヤンゴトナキ大事ノ處ユエ、醫書ト云フ醫書ハ本ヨリノコト、諸道諸業、何レモコヽヘ氣ヲタヽミ蓄ヘルコトヲサトシ、マヅ天竺デハ、釋迦ヨリモ遙マヘヨリ學ビ來ツタル、婆羅門ノ修行モ治心ト云テ、心ヲコヽニ治ムルノ修行、マタ釋迦ノ修シタル處モ、コレニ外ナラズ、サレバ諸宗ノ安心モ、云モテ行ケバ、ミナ同ジ意ニ歸スルコトデゴザル、又諸越ノ神仙ノ道ヲ傳ヘタト云フ道家ノ輩ノ修行スル處モコレデ、皆コヽニ氣ガ聚マレバ無病ニナリ、無病ジヤニ依テ長壽ヲ保ツト云ノ義デ、此修行ヲ不老不死ノ術ナドヽ云タ物デゴザル、氣海ノ下ノ空處ヲ丹田ト云モ、其不老不死ノ丹藥を蓄ヘタル田ト云フノ義ヲ以テ名ケタ物ジヤト見エルデゴザル、
p.0951 集善説
論二 傳尸一( ○○) 者、須レ知二、 三尸九虫一( ○○○○) 可也、三尸者名在二後論一、九虫者蛔虫、寸白、胃虫、人皆可レ治レ之、其餘六虫有二六代一、 形在レ後、人若受二一虫一、此人死後、兄弟子孫、骨肉親屬、綿々相傳、以至レ滅レ族、凡疾始覺、精神不レ美、氣候不レ調、切須下戒二愼酒色一調中節飮食上、如或不レ然、委二信邪師一、或言二鬼祟一、以至レ不レ起、愼レ之戒レ之、
p.0952 夫勞瘵一證、爲二人之大患一、凡受二此病一者、傳變不レ一、積年疰易、甚至レ滅レ門、可二勝嘆一哉、大抵合向言レ之曰二 傳尸一( ○○) 、別而言レ之、曰二骨蒸、殗殜、復連屍疰、勞疰、蠱疰、毒疰、熱疰、冷疰、食疰、鬼疰一是也、夫疰者注也、自レ上注レ下、病源無レ異、是謂二之疰一、又其變則有二二十二種、或三十六種、或九十九種一、又有二所レ謂 五尸( ○○) 者一、曰蜚尸、遁尸、寒尸、喪尸、尸疰是也、其名不レ同、傳變尤不レ一、感二此疰一獲レ安者十無二一二一也、治法先須レ去レ根、次須二攝養調治一、亦有下早灸二膏盲及四花一得レ愈者上、若待二其根深固蔕一而治レ之、則無レ及矣、
p.0952 後藤逹、〈字有成、艮山ト號ス、京師ノ人、〉別ニ一家言ヲ建テ、始メテ 順氣説( ○○○) ヲ唱フ、曰、太平百年、風俗日遷二汰侈一、遊惰之民、嗜欲外訌、心氣内勞、是以、腹裏悉結二癥疝一、内傷諸疾、因レ斯而起、振レ之之方、莫レ最二于灸一、濟レ急亨レ屯、莫レ如二熊胆一、經澀血瘀、久滯深痼、宜下浴二温泉一以取中活暢上、血淸虚乏、宜下厚二餌食一以助中温養上、外犯邪氣、則用レ藥爲レ主、百病生二于一氣之留滯一、故以二順氣一爲二治療之綱要一、又曰、凡欲レ學レ醫者、宜丁先察下疱犧始二于羲皇一、菜穀出中于神農上、知丙養レ精偏在二穀肉一、攻レ疾乃籍乙藥石甲、〈宋後ノ醫風ハ、凡テ温補ト唱エ、藥石ヲ以テ身體ヲ補益スル者ト云ヘリ、後藤翁ハ之ヲ駁セシナリ、〉然後取二法於靈素八十一難之正語一、捨二其空論雜説及文義難レ通者一、渉二獵張機〈漢ノ張仲景傷寒論ヲ著ハス〉葛洪〈晉代ノ人、肘後備急方八卷ヲ著ス、〉巢元方〈隋代ノ人、諸病源候總論五十卷ヲ著ス、〉孫思邈〈唐代ノ人、千金方三十卷ヲ撰ス、〉王燾〈唐代ノ人、外臺秘要四卷ヲ撰ス、〉等諸書一、不レ惑二宋後諸家陰陽旺相府藏分配區々之辯一、而能識三百病生二于一氣之留滯一、則思過レ半矣ト、病因考ヲ著ハシ、順氣説ヲ主張ス、
p.0952 一或問曰、後世の醫に問ふに、 病毒( ○○) 盡くは去らぬものなりといふ、當家にては、ことごとく去といへり、いかん、
答曰、病毒は生れて後、生じたるものゆゑ、毒藥にて取去らるヽものなり、其證據は、大病を療治して、快氣の後再びおこらず、又やはらかなる藥にて氣を補ひ、體を養ふといふ、醫者は、大毒の藥を 恐て用ざる故、毒の去る道理なし、然れども彼療治にて、病の治する事あり、是は實に治したるにあらず、自然と毒の靜りて、快氣したるなり、其證據には、又重ておこる、それゆゑ毒こと〴〵くは去らぬものといふなり、疾醫は盡く去る、それゆゑ重て發る事なし、
p.0953 病因
後世以二病因一爲二治本一也、曰、不レ知レ之、焉得レ治、予嘗學二其道一、恍惚不レ可レ分、雖二聖人一難レ知レ之已、然非レ謂レ無レ之也、言レ知レ之、皆想像也、以二想像一爲二治本一、吾斯之未レ能レ信矣、故先生以二見證一爲二治本一、不レ抅レ因也、卽仲景之法也、今擧二一二一而徴焉、中風頭痛、發熱汗出者、下利後、頭痛發熱汗出者、皆桂枝湯主レ之、傷寒寒熱往來、胸脇苦滿中風寒熱往來、胸脇苦滿、或瘧或腹痛、或熱入二血室一、有二前證一則皆小柴胡湯主レ之、傷寒大煩渇中熱大煩渇、皆白虎湯主レ之、是雖レ異二其因一、而方則同矣可レ見仲景從レ證不レ抅レ因也、若不レ得レ止論レ之、則有レ二矣、 飮食( ○○) 、 外邪( ○○)是也、雖レ然入レ口者、不レ出二飮食一、蓋留滯則爲レ毒、百病繫焉、諸證出焉、在二心下一爲レ痞、在レ腹爲レ脹、在レ胸爲レ冒、在レ頭爲レ痛、在レ目爲レ翳、在レ耳爲レ聾、在レ背爲二抅急一、在レ腰爲二痿躄一、在レ脛爲二強直一、在レ足爲二脚氣一、千變萬怪、不レ可二名状一矣、邪雖二自レ外來一、其無レ毒者不レ入、假如天行疫氣、間有二不レ病者一、天非レ私、人非レ不レ居二氣中一、是無毒也、然則一也、故仲景隨二毒所在一而處レ方、由レ是觀レ之、雖レ曰レ無レ因、亦可、是以吾黨不レ言レ因、恐眩レ因失レ治矣、後世論レ因、其言多端、不レ勝二煩雜一、徒以惑レ人、不レ可レ從焉、
p.0953 四百年前、人の引こもりし時、濕熱の病とも見えずと云ふ事あり、 濕熱( ○○) といふ事は、宋人よりいひ出して、丹溪に至て、其説大に行はる、唐土の古人は、萬病皆 風寒( ○○) より起ると心得たり、傷寒論も其意なり、されば病人十に七八温熱の劑を用ふ、丹溪の發揮せし局方の藥も、宋の時初て作りしにもあらず、古人乳石を服する餘意なり、乳石は魏晉六朝より、唐まで流行して、服する人寒食冷飮して、其熱毒を解すに至る、其禍を蒙るもの少からず、こヽに於て、宋の諸老病の因は、風寒は少く、濕熱多しといふ説を立しなり、是説おこらざりせば、五石散の害、今の世までも傳るべ し、斯邦にも、仁明帝、自ら五石を煉給ひし事あり、三條院金液丹をめしたり、其藥くひたる人は目をやむと、大鏡にみえたり、平相國の身火のやうになりたるも、已に富貴きはめつ、若くは欲にあかずして、乳石の劑を服せられし歟、夫唐土の州域は、南北甚廣し、北上の病風寒によるなれば、熱藥よろしかるべけれど、南土の人は、風寒の病少く濕熱の因多し、これによりて、南北經驗の説出たり、大成論には、病門每に暑濕をもいひて、風寒の二因ばかりにかヽはらず、我邦は、唐土の南土に近く、人民卉服して、喪服せず、されば風寒の病少く、濕熱の病おほかるべきなり、〈天文醫按、春の末より秋の末まで、熱氣なり、しはぶき出すヽはな出れば、風を引候やうに、こヽろへられ候、大にひが事に候、冬に候はヾせめてなり、又あつき物を好候ものも、煩によりて熱氣にも其分候、當世は、寒の者百人の内一二人もなく候、是は風寒濕の因をとらず、病は皆熱とせし説也、〉
p.0954 斷毒論序
昔日、吾門人山本寬之患二血證一、予屢視レ之、而觸二其氣一、喀然吐レ血、於レ是始悟二凡百之病莫一レ不二 傳染一( ○○) 、時告二諸吾徒一、莫二信レ之者一、後門人倉士寬、又患二血證一、其妻與二其父之妾一看二護之一、亦同吐レ血、至レ此始服二予言之驗一矣、予因語レ之曰、百病無二傳染之理一、則痘痲黴疥何可二傳染一乎、痘痲黴疥已有二傳染之理一、則凡百之病何不レ可二傳染一乎、是事理之最易レ知者、而世人不レ察耳、甲斐醫生橋本伯壽使三其子力作、來從二學予一、且請レ序二其所レ著斷毒論一、予閲レ之、則能言二 百病傳染之理一( ○○○○○○) 、與二予所一レ見暗合、而冥契可レ謂レ奇矣、其論二百病一、 屬二諸外氣一者( ○○○○○) 、 其言精矣( ○○○○) 、〈○中略〉要レ之伯壽在二草澤之間一、奮二其獨見一、而不レ倚二他人之門牆一則是醫中之一偉人、所レ謂鐵中錚々、傭中佼々者也、黨同伐レ異、恒人之情、世之醫流、或驚二其言之異一、群論而聚二訟之一、則此書藏二之名山一、傳二之通邑大都一、均是待二後世之子雲一耳、
文化辛未〈○八年〉閏二月望 吉田儒員加賀大田元貞公幹撰
p.0954 總論
經曰、夫二儀之内、惟人最靈、禀二天地精英之氣一、故與二天地一相參、蓋與二天地一相參之故、與二天地一一也、與二天地一 一也之故、能感二天地之氣一、能感二天地之氣一之故、又有レ感二天地之邪毒一、邪毒者、何也、是又氣也、氣者何也、是陰陽也、陰陽沴亂、爲レ邪爲レ毒、毒者何也、體レ物而有レ形、邪者何也、因レ氣而無レ形、其邪也毒也、有二區別一焉、譬猶乙百花之異二芬芳一、百藥之殊甲二能毒一也、邪毒不レ一、有二萬不同一、故感而傷レ人、能成二萬状之疾一、疾雖二萬状一、其本二也、曰 内因( ○○) 、曰 外因( ○○) 、所レ謂外因者、傷寒、痘痲疥之類、是也、内因者癥癖狂癇勞極之屬是也、内因者陰陽内亂而應二于外一、外因者、陰陽外亂而感二于内一、皆陰陽之沴氣、合湊而成レ疾、經所レ謂氣合有形者也、寔變化之父母、生殺之本始、不レ可レ不二審察一也、但外因中、若二傷寒一者、無形之邪、時行二于冥冥之中一、不レ可レ視、不レ可レ察、故曰非二君子固密一、則難レ避矣、若二痘痲 疥一者、有形之毒、可レ視、可レ察、是以雖二常人一易レ避矣、何者觸レ之則疾、不レ觸則不レ疾焉、
p.0955 病源論〈并病名考〉
神ながら 興言( コトアゲ) せぬは古の習なれば、ましてかヽるわざは、何ともいはでやみなましと思へど、古書傳らざれば、據なきまヽに、漢籍をみれば、徒に穿鑿たる説のみ多くして、いと信がたくなん、さらばたヾに過んとすれば、習癖つきたるにか、其病源を論〈ハ〉ねば、さすがにあかぬ心ちぞせらるヽ、故考るに、 病源となる物三( ○○○○○○○) あり、一には 神氣( ○○) 也、神氣と云は、大己貴命の御心より疫起り、本牟智和氣御子言問まさず、崇道天皇の靈より咳逆起り、倭建命、伊服山にて白猪に逢て御足腫たまひ、桓武天皇の、石上神の祟にて病たまひ、神武天皇の御軍、熊野にて神毒氣にて皆瘁し類、國神の荒にて、其國人病む等、いとも畏は、仲哀天皇の、天照大神の勅を信まさずして崩給し類也、〈○中略〉二には 自然成( ○○○) 也、自然成とは、自事を犯にもあらず、物に傷るヽにも非、端なく惡事起り、其惡事の終には因と成て、其身にしては病となり、或は不祥子を生、或は子孫の血脈に傳て、種々の病となる類を云也、其ゆくりなく禍事の起れるは、准へむも畏こかれど、伊弉冉命の、火神を生ましヽに依て崩ましヽ類也、其惡事の因と成て不祥子の生るヽは、二神天之御柱を廻ます時、女言先立て、不レ良し によりて、御子蛭子淡島を生まし、伊弉諾命、黄泉の穢を祓はんとて、禊ます時、御衣の穢よりは煩大人命、御身の穢よりは禍津日神、生ましヽ類也、まして人代と成て、過又は穢なきこと能ざれば、其身其毒に惱めるのみならず、子孫に傳るも常の事にて、病あれば、子も其に同き病ある事、誰も見て知べき也、世にいはゆる、胎毒と云物是也、其體にあれば、 驚風( ヤハクサ) 、 疳( カイ) 、 疱瘡( モガサ) 、 麻疹( ハシカ) 、 蚘蟲( ムシ) 、 疝( アタハラ) 、 積聚( ムネムシ) 、 留飮( ムネミヅ) 、 盲( メシヒ) 、 聾( ミヽ) 、 瘡毒( シヒカサ) 、 痔( シリノヤマヒ) 、 癇( カゼ) 、 勞瘵( ツカリ) 、 亂心( タプレ) 、 癲癇( クツキ) 、 中風( カタカゼ) 、 癘( アシキヤマヒ) など、形こそ異なれ、皆其毒の年へつヽ、長り老となるに隨て、種々に化也、猶其變ゆくさま多かれど、此に擧に暇あらず、中にも著きは、勞瘵、中風、癘等ある家には、血脈に彌て、代々同産に絶ざる類也、三には、 自身爲( ○○○) 也、自身爲と云は、行あしくて、自病を造釀を云也、
p.0956 一病源藥性之説 近日醫師に、 病は一氣の留滯より生ず( ○○○○○○○○○○○) といふはさもあらん、魚は水に生じて水に養はれ、人は氣に生じて氣にやしなはるればなり、此説につヾきて 萬病一毒( ○○○○)といふ者あり、これは通じがたきにや、たとへば胎毒結毒は人にあり、魚毒菌毒は物にあり、風毒陰陽毒は氣にかヽる、これ皆毒とも云ふべし、打撲顛躓にてわづらひ、火傷水溺にて死に至り、刀劒の傷よりして命を殞し、過食にていたむは、抑何の毒なるか、米麥もと毒なけれども、多食より病をひき、梃刃もと毒なけれども、傷より患ふるなれば、毒といはんか、さらば河豚烏喙の類、其ものにたくはへし毒とは一にあらず、病を生ずるものをさして皆毒といはヾ、萬病一病といひても可なり、また藥に寒温なしと云ふ説ありて、試に水をあげて、汝が性いかにととはヾ、水こたへて冷といはん、沸湯にしてとはヾ、熱といはんなどヽいへり、今試みに酒を擧げてとはヾ、温といはんか、冷といはんか、大抵はやく人を驚かし、門戸をたてんとおもふ人は、必かヽることある者なり、獨儒者のみにあらず、さりとて其人愚昧なるにもあらず、亦信ずべきこともまヽあるべし、かヽる不稽の説ありとて、悉くもすつべからず、予香川氏の行餘醫言藥選などをよみて、その卓 識に服せしことも多けれども、また疎漏の説もあり、後藤吉益等の書は、いまだ讀まざれども佳説もあるべし、〈○註略〉病は丙の字なりといふ説、輟耕錄に見えて妙なり、今こと〴〵く記せず、人は一氣の陽もて生存す、この陽常ならざれば病なり、強人さむくして振ふも、弱人の寒になやむも、皆陽氣の變にて、證に寒熱といふは枝葉の論なり、療治にいたりて、或は温、或は凉、或は發散し、或は收濇するは、療治の手段にて、こヽにいふをまたず、
p.0957 余江漢曰く、人薄弱にしてつねに寒風にいたむものあり、愈身を掩うて養ふ者益感ず、 氣を張りて病内に入らず( ○○○○○○○○○○○) 、旅中必病者少し、氣の充つる故なり、
p.0957 神心内守
本藩平岡氏、世傳二兵術一、其祖八左衞門、術尤稱二神捷一、嘗語レ人曰、吾中年後、兵術差進、而無二它可一レ證、但不三復得二外感之病一、蓋此心機警守無二少弛縱一、故然也、素問曰、恬澹虚無、眞氣從レ之、 神心内守( ○○○○) 、 病安從來( ○○○○) 、平岡氏之謂也、或曰、兵士逹者、自有二道機一、蓋所レ謂進二於技一之類歟、
p.0957 當時〈○天保弘化〉又京師ニ廣瀨元恭アリ、大坂ニ緖方洪庵アリ、并ニ洋學醫術ヲ以テ鳴ル、元恭ハ甲斐ノ人、京師ニ帷ヲ垂レ、大ニ究理學ヲ講ジ、徒ヲ聚メテ敎授ス、我國物理學及ビ 生理學( ○○○) ノ興ルヤ、元恭最モ力アリト云、元恭大ニ著書ニ富ム、乃チ理學提要、究理對問、人身究理、牛痘奇方、知生論、及ビ三物名義、地理誌、諸器圖解、炮術新書、解剖詳辨、病理正解、養生俗辨、外科指南、西洋馬術説等アリ、洪庵〈諱ハ章、字ハ公裁、〉ハ備中ノ人、江戸ニ到リテ坪井信道ニ從學シ、傍ラ宇田川玄眞ニ就テ疑ヲ質ス、後又長崎ニ遊ビ、學就テ大坂ニ徙リ、始メテ業ヲ開ク、名聲籍甚、生徒雲集、治ヲ乞フ者門ニ塡ツ、弘化四年〈紀元二千五百七年〉病學通論ヲ譯述シテ、病因病證ヲ説ク、之ヲ 病理學ノ首唱( ○○○○○○) トス、又扶氏經驗遺訓ヲ譯シテ、大ニ醫學ノ功ヲ進ム、
p.0957 山脇東洋〈○中略〉
東洋以二寶曆甲戌歳一、〈○四年〉請レ官解二斬市者死屍一觀二其臟一、作レ文祭レ之、明辨二舊説一著二臟志一、按觀臟之擧、宋有二歐陽範五臟圖一、元有二王好古臟説考一、於二吾邦一未曾有之者、或難レ之曰、醫爲二仁術一、雖二死屍一屠レ之觀二其腑臟一、毋二寧甚一乎、診レ脈察レ症、投レ藥與レ劑、有二資而得一レ效、何必觀レ臟之爲、東洋笑曰、欲レ善二其術一不レ能三講究不二多端一、斯擧蓋出レ不レ得レ已、不二更與較一、壬午〈○十二年〉歳再請レ官又觀レ臟、自レ是以後、越前半井伯玄有二臟覽一、長崎吉見南岡有二五臟明辨一、皆以二東洋一爲二之嚆矢一、長門瀧鶴臺作二臟志序一曰、相傳本藩昔年有レ獲二姦賊於城中一、侍醫請剮二剝之一、使二畫工卽圖一焉、其圖秘而不レ出、曰此圖一出則醫籍盡廢、近竊覽レ之、如二志所一レ載、分毫不レ差矣、於レ是乎益知下素靈難經明堂銅人等諸書、説二五臟六腑一者爲中妄誕上也、夫苟不レ明二臟腑所レ位、關節所レ束、水穀所レ輸、氣血所一レ運則安能得下知二癥結所一レ在而治上レ之乎、而上下千餘年、容レ欺不レ疑、執レ迷不レ返、衞生之道淪胥窮矣、豈非二生民之不幸一耶、君憫二其如一レ斯、奮然發レ志、撥二千古瞇蒙一、掲二濟世標準一、以傳二于其人於將來一、其功大且遠矣哉、
p.0958 醫學修業次序〈七則〉 森立之〈○中略〉
解剖三 吾邦解剖ヲ創造スルヤ、寶曆中、醫官山脇東洋〈道作〉西京ニ於テ、寶曆四甲戌年閏二月七日、京兆尹酒井若州侯ニ請テ、死刑ノ罪人ノ屍ヲ獄中ニ解ク、其後明和庚寅〈○七年〉四月二十五日、又西京ノ郊外ニ於テ、荻野台洲門人古河醫官河口信任ヲシテコレヲ解シム、共ニ皆書ヲ作テ刊行ス、臟志〈山脇〉解屍編〈河口〉是ナリ、其後享和壬戌〈○二年〉初冬、荻野ノ門人中逹若村ノ二氏、官ニ請テ解視ス、其他天明癸卯ノ、橘南溪解ク所、寬政丁巳〈○九年〉ノ、柚木太淳、同戊壬ノ、小石解ク所、皆成書アリ、爾後小森桃塢、文化壬申、〈○九年〉文政辛巳、〈○四年〉兩度解ク、亦圖説アリ、解臟圖譜ト名ク、文化文政ノ間、東京ニ在テ、毎冬月千住小塚原ニ於テ無宿人ノ刑屍ヲ其手ヨリ買得テ、社ヲ結テ解剖セシ事アリ、當時桂川ノ門派ニテ最盛ニ行ハレ、余モ此席ニ臨ミシ事數々ナリシ、西洋一千七百三十一年〈我ガ享保六年辛丑、淸ノ康熙六十年也、〉大醫學 與般亞單( ヨハンアダム) 〈姓〉 闕兒武思( キユルムス) 〈名〉ノ撰スル所ノ、 打係縷亞那都米( ダーフルアナトミー)ト云フ書ヲ以テ、解剖書ノ大成セル者トス、此書ヲ譯シテ、漢文ニ綴レルハ、杉田玄 白ノ解體新書ナリ、解剖譯書ハ此ヲ以テ嚆矢トナス、爾後今日ニ至テハ、譯書陸續イヨ〳〵精密ヲ究ム、今此等譯書ヲ以テ、素靈ノ奧義ヲ説解スルトキハ、啻燃犀ノミナラズ、殆ンド顯微鏡ノ微ヲ顯ハスニ伴シモノアリ、
此闕兒武思ノ時〈享保六年辛丑〉ヨリ、僅ニ三十三年ヲ經テ、山脇東洋〈寶曆四年甲戌〉ノ臟志成リ、又二十年ヲ經テ杉田玄白〈安政三年甲午〉ニ解體新書刊行セリ、當時文運ノ駸々タル亦想像スベシトス、
p.0959 余家世以二瘍醫一仕二本衙一、祖父受二術於紅夷一、先父紹レ之、余不肖弱離憂、過庭之訓不レ可レ得レ終也已、余曩遊二長崎一、事二栗崎道意翁一、留學積年、翁善二南蠻醫方一、蓋其術不レ原二素靈一、不レ據二診候一、而望レ色察レ證、專以二刳破湔浣縫令傳膏一行レ之、亦專門而特見二活人之手段一焉、固兪跗華元化之流乎、然至二於觀レ表識疾之所在、洞見不レ惑之妙一、則獨賢哲所レ能、我輩駑下、豈所二庶幾一哉、夫升レ堂者自レ階、窮レ源者必遡、須先讀二經籍一習二脈家言一、乃讀二素靈一、而及二骨空本踰諸篇一、所レ述系脈絡兪、辭簡旨深未レ易二通曉一、旁攻二諸群書一、異説紛然、不レ知レ所レ從、疑慮塞二于胸中一爾、明和己丑冬、本衙受二太政一、入鎭二京師一、余得三陪レ駕而入二京師一、既聞三醫流之傑、特有二台州荻先生者一、乃投レ刺受二業其家塾一、先生爲レ人、温厚能容、兼以二該博宏才一、余以二宿疑一扣、則應レ之影響猶遲、數年之疑一旦瞭然也、偶論及二解藏之事一、問曰、抉脈導筳之法、余家有レ傅、然未レ驗二之屍一、則膠レ古而不レ得、師心亦不レ穩、與二其積一レ疑也、不レ如屠而釋レ之、我且請二戮餘之屍一、荻先生曰、非レ謂レ莫レ爲、恐レ害二於名敎一矣、若使二戮餘之屍一、其爲レ人一也、以レ人暴レ人、君子不レ爲也、然解二一屍體一、以有レ裨二益治術於千萬人一、則亦爲二道之爲一也、誰敢怪レ之、余曰不レ疑則已、疑而不レ爲不レ恕二於道一也、假負二不仁之名一、以二斯道一食二斯祿一、如或解レ惑、卽答レ恩之義也、且靈樞曰、其死也、可二解剖而視一レ之、古時尚爾、我何傷乎、遂因二本衙一請二諸政府一、君侯固知三斯擧爲二濟世之方一也、准行之命、朝而下矣、明和庚寅夏四月廿五日、行二刑於西郊一、請獲二首一級、無レ首骸二屍一、余手執レ刀解レ之、同學諸生、矢玄明、及某々與焉、荻先生莅焉、傍觀寫レ之隨解隨辨、遂置二之卓上一而並觀、考二諸華説一則背、照二諸夷圖一則近、始信二夷圖眞而華説未一レ盡、顧古之賢聖、體レ仁躬レ愛、不レ忍レ行二剮剝一、推レ理立レ論、以示二後世一、乃精微未レ盡、固其 所也、然論二大綱一、卒不レ能レ越二範圍一、適足三以知二聖功之難一レ測焉矣、今視二内外系表裏無一レ二、治レ外者必攻二諸内一、故治レ外輘難二于治一レ内、滄溟李氏亦云、宜哉、古時醫師、兼通二内外一也、斯圖也、五綵分色、肉理洴血、亳亦不レ遺、觀者殆厭レ穢、蓋畫之眞者耶、乃編爲二一册一、命レ之曰二解屍編一、
明和辛卯仲冬 古河 醫學 河口信任 撰
p.0960 解剝圖跋
明和八年辛卯冬十二月、京城有二女子受レ刑者一、大府醫官法眼橘陶、乞二得其屍一、率二其子弟數十人一之二牢獄院一、令二解剝一以觀二其臟腑及子宮等状一、命二畫工菅原誠意者一、卽悉作二之圖一、傅レ彩爲二一卷一、藏二之其家一、以備二醫事之稽攷一、中島孫信、以下其與二橘陶一交善、且好中圖畫上也、請命二菅原誠意一作二之副本一、又請二橘法眼一書二題記其圖一、亦以藏二之其家一、既又請レ予作二之跋尾一、孫信之藏二圖書一固甚富矣、然而人惡知三其家亦乃能藏二斯圖一者乎、安永甲午冬十二月朔日、皆川愿題、
p.0960 抑、頃は三月三日の夜と覺へたり、時の町奉行、曲淵甲斐守殿の家士、得能萬兵衞といふ男より、手紙もて知らせ越せしは、明日手醫師何某といへる者、千住骨ケ原にて、腑分いたせるよしなり、御望あらば、彼方へ罷り越れよかしと言文をこしたり、兼て同僚小杉玄適といふもの、其以前、京師の山脇東洋先生の門に遊び、彼地に在し時、先生の企にて、觀臟の事ありしに、此男に從ひ行て親しく視たるに、古人諸説皆空言にて、信じがたき事のみなり、上古は九臟と稱せり、今五臟六腑の目を分ちたるは、後人の杜撰なりなんどいへる事の話もありし、其時東洋先生臟志といふ著書をも出給ひたり、翁〈○杉田玄白〉其書をも見し上の事なれば、よき折あらば、翁も自ら觀臟してよと思ひ居たりし、此時和蘭解剖の書も、初て手に入し事なれば、照し視て、何れか其實否を試むべしと、喜び一かたならぬ、幸の時至れりと、彼處へ罷る心にて、殊に飛揚せり、扨斯る幸を得し事を、獨り見るべき事にもあらず、朋友の内にも、家業に厚き同志の人々へは、知らせ遣はし、同 じく視て、事業の益には相互になしたきものと思ひ量りて、先同僚中川淳庵を初、某誰と知らせ遣はせし中かに、良澤〈○前野〉へも知らせ越したり、〈○中略〉其翌朝とく支度整ひ、彼所に至りしに、良澤參り合、其餘の朋友も、皆々參會し出迎たり、時に良澤、一つの蘭書を懷中より出し、披き示して曰く、これは是ターヘルアナトミアといふ、和蘭解剖の書なり、先年長崎へ行きたりし時、求め得て歸り、家藏せしものなりといふ、これを見れば、卽ち翁が此頃手に入りし蘭書と同書同版なり、是れ誠に奇遇なりとて、互に手をうちて感ぜり、〈○中略〉これより各打連立て、骨ケ原の設け置し、觀臟の場へ至れり、扨腑分の事は、穢多の虎松といへるもの此事に功者のよしにて、兼て約し置しよし、此日も其者に刀を下さすべしと定めたるに、その日其者俄に病氣のよしにて、其祖父なりといふ老屠、齡九十歳なりと云る者、代りとして出たり、健なる老者なりき、彼奴は、若きより、腑分けは度々手にかけ、數人を解たりと語りぬ、其日より、前迄の腑分といへるは、穢多に任せ、彼が某所をさして、肺なりと敎へ、これは腎なりと切り分け示せり、夫を行き視し人々、看過して歸り、我々は直に内景を見究めしなど、いひしまでの事にてありしとなり、固より臟腑に、其名の書記してあるものならねば、屠者の指し示すを見て、落著せしことにて、其頃までのならひなるよしなり、其日も彼老屠が、彼れの此れのと指し示し、心肝膽胃の外に、其名なきものをさして、名は知らねども、己れ若きより數人を手にかけ、解き分けしに、何れの腹内を見ても、此處にかやうの物あり、かしこに此物ありと示し見せたり、圖によりて考れば、後に分明を得し、動血脈の二幹、又小腎などにてありたり、老屠又曰、只今まで、腑分の度々、其醫師がたに、品々をさし示したれども、誰一人某は何、此は何々なりと疑れ候御方もなかりしといへり、良澤相倶に携へ行し和蘭圖に照し合せ見しに、一として、いさゝか違ふ事なき品々なり、古來醫經に説たる所の、肺の六葉兩耳、肝の左三葉右四葉などいへる分ちもなく、腸胃の位置形狀も、大に古説と異なり、官醫岡田養仙老藤本 立泉老などは、其ころまで、七八度も腑分し給ひし由なれども、皆千古の説と違ひしゆへ、毎度毎度疑惑して、不審開けず、其度々に、異状と見しものを寫し置れ、つら〳〵思へば、華夷人物違ありやなど著述せられし書を見たる事もありしは、これが爲なるべし、扨其日の解剖事終り、とてもの事に骨骸の形をも見るべしと、刑場に野ざらしになりし骨共を拾ひとりて、かず〳〵見しに、舊説とは相違にして、只和蘭圖に差へる所なきに、皆驚嘆せるのみなり、
p.0962 刻二解體新書一序
阿蘭之國精二乎技術一也、凡人之殫二心力一盡二智巧一而所レ爲者、宇宙無下出二于其右一者上也、故上自二天文醫術一、下至二器械衣服一、其精妙工緻、無レ不レ使三觀者爽然生二奇想一焉、於レ是乎、舶二厥琦貸一互二市乎四海一、日月所レ照、霜露所レ落、皆無レ所レ不レ至焉、雖二則造化之大一豈弗レ奇哉、我東方召レ彼者、于レ今數百年矣、其來鬻レ我也、官構二邸於崎陽一而館レ之、爲置二譯官一、協レ辭逹レ志、通欲レ成レ利、以二歳三月一謁二官於東都一獻二方物一也、由レ是我就二譯家一、而學彼天文醫術一者固爲レ不レ少焉、然彼之所レ傳書之與レ言、我耳目之所レ不レ慣、率不レ易二暁解一也、或好二名高一之徒曰、吾好二蘭書一雖三一二叩二諸譯家一、其終也徒以爲二孟浪一、不二中道而廢一者亦固不レ少焉、或從二譯家一而學二其術一、雖二習レ之久一、爲レ之熟二臨書之與一レ言、則眴若二看過一者、復固爲レ不レ少焉、余生二乎譯家一、繼二箕裘一、自二丱兮一習二於其事一、左右取レ之、將レ逢二其原一、然至二其事理之窔奧、彼精工而所レ進者一、雖レ余不レ易二窮詰一也、先レ是中津官醫前君良澤者、問二余乎崎陽一、余視レ之、豪傑士也、其學レ之也、黽勉孜々、終晷不レ倦、余感二其篤好一、盡レ所レ蘊而傳焉、爾後出藍之器不レ啻焉、及三其辭而歸二乎東都一、與二一二同好士一益鑽厲不レ止云、余毎與二蘭人一來二乎東都一、輒就レ館而謀、且引二同好士一懽二於余宿留之際一、對晤以爲レ常、歸則千里書致二殷勤一也、余乃謂、東都人物淵藪也、然都下之俗、固好二浮華矜夸一、多釣レ名牟レ利者也、今也余於二前君一雖二舊相識一、其他是行路也、然則徒申二殷勤一者、恐不レ允也、吾豈心慊レ之哉、漫不二之省一者數年矣、今茲癸巳之春復與二蘭人一來二於東都一、前君亦引二同好士一而問レ余、殷勤如レ故、中有二鄀郟官醫杉君玄白者一、出二其所レ著解體新書一、示レ余旦謂曰、翼也從二良澤氏一、遙辱承二先生之餘敎一、乃就二蘭書中一、取二其解 體之書一讀レ之從而解、從而譯、遂得三以臻二虖斯一也、不二亦悅一乎、伏願、一得レ歴二先生之電覽一而質二其疑一、則死且不レ朽、余受而讀レ之詳覈明鬯、其事言校二諸彼一無二一差忒一焉、乃感二其篤好如一レ斯、不レ覺泫然涙下、遂喟然廢レ書而歎曰、嗟乎至哉斯擧也、我東方召レ彼數百年矣、其際學者何限、然學者不レ能レ成レ譯、譯者亦拙二於文一、是以未下嘗有中條理而能弘二斯道乎世一者上也、今二君以二豪傑之質、篤好之志一、盡二其心力智巧一而臻二虖斯一矣、由レ此以往世醫之有志者、因以知下倮物之所二生毓一百骸之所上レ在、而施二厥術一、則上自二王候一下至二蒸庶一、凡有二生氣一者、庶幾將レ不レ夭二其天年一也、且後之志レ斯者、自レ此而讀レ彼、則勤思過レ半矣、嗟乎至哉二君之有レ功二于斯一也、實天下後世之德也、今而後、我東方之人、始知三蘭人之精二於醫一、大有レ益二乎人一也、嗟乎至哉斯擧也、千古以來未レ有下如二二君一者上也、吁向者以爲二釣レ名牟一レ利者、吾過矣吾過矣、二君上勉レ旃、二君再拜曰、是非二我功一也、誠先生之德也、敢請得二先生之一言一而辨二卷首一、永以爲レ榮也、余謝曰、章也惰夫、幸以二諸君之疆一爲二曹丘生一、於レ我得レ與二斯盛擧一也、深以慙恧如下以二鄙辭一形中穢其側上、章何敢、況斯書之行掲二日月一、則天下自知二其貴重一也、章何得而以光二價斯書一乎、二君不レ可、遂記下余所三以識二二君一之由上以爲レ序、
安永二年癸巳之春三月 阿蘭譯官西肥 吉雄永章 撰
p.0963 几例
一斯書譯二和蘭人 與般亞覃闕兒武思( ヨハンアタンキユルムス) 所レ著 打係縷亞那都米( ターヘルアナトミイ) 者一也、斯方二百年來、召二和蘭人一就受二厥醫術一者多矣、然僅一二學二其療法一、以爲二糊レ口之資一焉、豈至下讀二其書一修中其業上乎哉、蓋和蘭之國精二乎技術一、知巧之所レ及、無二不レ致者一矣、而速有レ德二乎四海一者醫爲レ最焉、唯以二其言語侏離、文字曲釘、作用異一レ常、雖レ有二善書良法一、天下靡二得而稱一焉、我家世傳而業二厥瘍醫一也、復藏二其邦書一矣、余繼二箕裘一、自二童丱一習二慣其事一、因得レ窺二其書一也、然素罕覯之書、至二乎其艱奧難レ解者一、竟無レ由二質訪一焉、望々焉似二瞽師之索レ相者一矣、於レ是乎、幡然別取二漢土古今之醫籍一而讀レ之、回復鑽味茲年矣、尋究二其療方論説一、則穿鑿附會、牽強疎鹵、欲レ晰レ之彌暗欲レ匡レ之彌謬、無レ可三一以寓二諸庸一焉、芒々乎若二邯鄲之學レ步者一矣、蓋蘭書之所レ難レ解者、不レ過二十之七一、 而漢説之所レ可レ采者、則不レ過二十之一一耳、遂又專二精乎家學一、而不レ問二厥它一也、迄二乎近時余之術行一、而疾人索レ治日盛、重有レ概二乎夫二者一也、乃旁求獲二一二知己一焉、於レ是乎、稍々取二其方書一優柔厭飫、相諏相咨、玩二愒居諸一之際、正得二以氷釋理順一焉、而后嘗二試諸事之與一レ物、則左右取レ之能逢二其原一、章々乎明如レ觀レ火矣、因取二解體之書一、依二其成説一、解割而視、則無二一所一レ失焉、臟府竅關骨髓脈絡、始得レ識二其位置整列一、豈不二婾快一乎、以レ是觀二漢説一、則其前者近二于是一、而後者不レ遠二于非一也、唯靈樞中、有二解剖而視之語一、則漢人古必有二其法一焉、後人不レ得二其傳一、徒信二糟粕一而爲二無稽之言一、數千年來、竟不レ識二其面目一、豈不レ哀哉、按、解體瘍科之要、不レ可レ不レ知焉、諸證之所レ在、外レ此而無レ可レ知焉、蘭人之致二精巧一、亦昉二乎斯一、故欲三能進二于醫一焉者、苟非レ淵二源于此一、則決弗レ能也、而我方之醫恬不二之省一者、果何心哉、宜矣、其不レ成二刮骨之功一也、余〈○杉田玄白〉故於二蘭書之中一、特拔レ是爲二翻譯一、範二初學一、塗轍一定、聰明以生、過レ此以往、生レ死肉レ骨之玅、庶可二得而至一焉、嗚乎余業之及二于斯一、實藉二天之寵靈一也、豈人力之所二能致一乎哉、天下之有レ心二乎斯道一者、則我竊自比二郭隗一矣、如三以レ是受二四方之譏一、所レ不レ辭也、〈○下略〉
p.0964 一通り譯書出來たれども、其頃は、蘭説といふ事、少しにても聞及び聞知る人絶てなく、世に公にせし後は、漢説のみ主張する人は、其精粗を辨ぜず、これ胡説なりと、驚き怪みて見る人もなかるべしと思ひ、先づ解體約圖と云ものを開版して、世に示せり、是は俗間にいふ、報帖同樣のものにてありたり、〈此業江戸にて首唱し、二三年も過しころ、年々拜禮に參向する阿蘭陀便にて、長崎にも聞傳へ、蘭學といふ事、江戸にて大に開けしといふこと、通詞家などにては、忌み憎みしよし、左もあるべし、如何さま其ころまでは、彼家々は、通詞迄の事にて、書物讀みて翻譯する抔といふこともなかりし時節にて、冷めしをさむめしといひ、一部一篇とも譯すべきエーンデールといふ語を、一のわかれ二の分れと和解し、通じ合ひて、事濟む樣なる事にてありしと見へたり、尤醫説内景抔の事に至りては、誰一人知る人なき筈なり、或る一譯士、此約圖を見て、ゲールといふものは、身體中にはなし、ガルの誤なるべし、ガルは卽ち膽なりと不審せしとなり、但此前後よりして、翁が輩、關東にて創業の一擧ありしにより、其根元たる、西肥の通詞輩の志をも大に引立しこと知るゝなり、〉
p.0964 小石元俊〈子元瑞〉
小石元俊、名道、字有素、號二大愚一、若狹人也、〈○中略〉元俊乃負二笈京師一、時杉田玄白、以二和蘭醫方一、鳴二于當世一、創譯二解剖新書一、初元俊謂、陰陽五行之舊説、不レ足二株守一、及レ讀二解剖新書一、乃歎曰、醫理之精密、莫一レ若二蘭人一以三其得二諸實驗一也、吾不レ明二此學一、則不レ足三以主二張吾説一、於レ是介二博士柴栗山一、寄二書玄白一、往復討論、後玄白、從二小濱侯一入レ京、則日詣二其僑居一、益究二其説一、既而喪レ妻、乃託二子元瑞於外家一、遂赴二江戸一、寓二大槻玄澤家一、與二玄澤玄白及前野良澤等一結レ交、講レ學歳餘、歸レ京試レ技、東洋嘗解二剖刑屍一著二臟志一編一、聞三元俊所レ説有二異同一、遣二弟子數十人一論難、元俊隨レ間辯析、又乞二于官一解二視刑屍一以徴レ之、一々符合、東洋等皆感服、從レ此關西醫家概信二和蘭醫説之精一云、
p.0965 醫黌所レ藏全骨、藝州醫星野良悅所レ造也、初藝州瘍醫田中道長者、目不レ識二一丁一、以二手術精妙一、大行二于時一、良悅伯母、患二落下請頦一、衆醫束レ手、乃請二道長一、道長方レ療レ之、延二病者於室隅一、相與冒二大布袱一不レ便三人觀二其手法一、一術卽治、良悅心憤レ之、以爲若證非レ知二内景一、不レ可レ下レ手、内景非二親解剖一、不レ能レ極二其詳一、乃請レ藩得二刑屍一、 親解剖以撿レ之( ○○○○○○) 、然骨肉之際會、經脈之連屬、仍不レ能二分明一、遂再購二刑屍一、往二海濱一、節々炙レ之、而後支分體解、始得二其實一、於レ是創意作二全骨一、居數年、杉田玄伯、唱二蘭學於江戸一、乃携來徴二之於元伯所レ著解體新書一、 毫無二差謬( ○○○○) 一、醫官堀本一甫、桂川甫周獻二之於大府一云、
p.0965 福井醫學所〈○中略〉
解剖記事 文化二年十一月、處刑ノ者一名アリ、腑分觀臟ヲ許可ス、先例ヲ照シ、小山谷佛所ニ於テ執行ス、〈先例詳ナラズ、此擧觀臟ノ第二回ナリ〉、執刀者等姓名詳ナラズ、文政十一年九月、處刑ノ者男女二名アリ、腑分觀臟ノ許可ヲ得テ、小山谷佛所ニ於テ執行ス、執刀者等詳ナラズ、 天保十年十月、處刑ノ者一名アリ、小山谷佛所ニ於テ觀臟ヲ執行ス、總管ハ山本正伯、半井仲庵、田代万貞、細井玄篤、學監ハ妻木陸叟ナリ、其他督務四名、主解四名、助刀十一名、書記四名ヲ命ズ、
p.0965 各務文獻〈○中略〉
文獻之解二視屍體一也、乘レ夜拉レ妻間行赴二葭洲刑場一、收二其棄屍一、夫妻舁レ之而歸、陰置二牀下一、且剖且檢、日以爲レ常、葭洲在二安治川下流一、距レ市數里、白晝人尚憚二經過一、而文獻乃獨如レ此、聞者僉捲レ舌驚服焉、
p.0966 解二剖藏府一
朱載堉律學新節云、岐伯曰、夫八尺之士、皮肉在レ此、外可二度量切循而得一レ之、其死可二解剖而視一レ之、蓋太古時、風俗淳朴、死則棄二之於野一、初無二衣衾棺槨之葬一、故使下爲二醫術一者可上レ得二剖而視一レ之、亦無レ所レ禁、後世聖人取二諸太過之象一、始製二棺槨一、由レ是之後、國有下殘二毀屍體一之禁上、無二敢剖而視レ之者一、以レ此推レ之、知二彼醫經其來之遠一、又奚止二於三代而已一、此説非也、趙與時賓退錄云、廣西戮二歐希範及其黨一、凡二日、剖二五十有六腹一、宜州推官靈簡、皆詳視レ之爲レ圖、以傳二于世一、王莽誅二翟義之黨一、使下太醫尚方與二巧屠一共刳二剝之一、量二度五藏一、以二竹筳一導二其脈一、知上レ所二始終一、云可二以治一レ病、然其説今不レ傳、又晁公武郡齋讀書志、載存二眞圖一卷一、皇朝楊介編、崇寧間、泗州刑二賊於市一、郡守李夷行遣二醫并畫工一往視、决レ膜摘二膏肓一、曲折圖レ之、盡得二纎悉一、介校以二古書一、無二少異者一、比二歐希範五臟圖一、過レ之遠矣、實有レ益二醫家一也、又聞見後錄載、無爲軍醫張濟能解レ人、而視二其經絡一、則無レ不レ精、因二歳饑疫人相食一、凡視二一百七十人一以行レ針、無レ不二立驗一、按二明程式一、亦嘗解二倭人一、撿二視藏府一、詳見二其醫彀中一、近世斯邦醫家亦好二剖解一、驗以二荷蘭内景書一、頗極二精微一、然有レ益二於外科一、而無レ裨二内科一矣、
p.0966 和藥使主
出レ自二呉國主照淵孫智聽一也、欽明天皇御世、隨二使大伴佐氏比古一、持二内外典藥書、 明堂圖( ○○○) 等百六十四卷、佛像一軀、伎樂調度一具等一入朝、男善那使主、孝德天皇御世、依レ獻二牛乳一、賜二姓和藥使主一、奉レ度二本方書一百卅卷、明堂圖一卷藥臼一、及伎樂一具一、今在二大寺一也、○明堂圖ノ事ハ、醫學校及ビ醫書ノ條ニアリ、參看スベシ、
p.0966 典藥寮明堂圖ハ靈物也、雅康、寮御時、本寮破レテ、ステヲキテ、ヨロヅノ人ミケ リ、カヤウノ累代ノ寶物、今ハ一モノコル物ナシ、
p.0967 明堂三人圖第一〈仰人十四門、伏人十門、側人六門、○中略〉
若依二明堂正經一、人是七尺六寸四分之身、今半レ之爲レ圖、人身長三尺八寸二分、其孔穴相去亦皆半レ之、以二五分一爲レ寸、其尺用二夏家古尺一、司馬六尺爲レ步、卽江淮呉越所レ用、八寸小尺是也、其十二經脈、五色作レ之、奇經八脈、以二綠色一爲レ之、三人孔穴、共六百五十穴、圖二之於後一、亦覩レ之、便令レ了耳、仰人、二百八十二穴、背人一百九十四穴、側人一百七十四穴、穴名共三百四十九、單穴四十八名、雙穴、三百一名、
p.0967 天聖鍼經
五年〈○唐天聖〉十月壬辰、醫官院上二所レ鑄腧穴銅人式二一、詔一置二醫官院一、一置二大相國寺仁濟殿一、先レ是上以二砭之法傳述不一レ同、命二尚藥奉御王惟一一、考二明堂氣穴經絡之會一、鑄二銅人式一、又纂二集舊聞一、訂二正訛謬一、爲二銅人腧穴針灸圖經一、〈三卷〉至レ是上レ之、〈摹印頒行〉
p.0967 木骨考
藝州廣島町醫師星野良悅、醫學館へ罷出候義伺書、
藝州廣島町醫師 星野良悅
右良悅義、工夫にて人骨全形細工に仕候品持參仕、當時は當地に罷在候處、近々歸國仕候由、右細工、眞に逼り、骨節機關の樣子、一覽仕置候へば、有益の筋も可レ有レ之候につき、於二醫學館一、御醫師一同へ爲レ見申度奉レ存候、然る處、右取立、當人不レ仕候ては出來兼候間、右細工物に差添、良悅義、醫學館へ罷出候て不レ苦候哉、此段奉二伺上一候、
十月〈○寬政十二年〉 多紀永壽院〈○元孝〉
多紀永壽院差上候書面被レ成二御下ゲ一候に付、一覽仕候處、〈○中略〉伺之通、醫學館へ差出候ても不レ苦旨被二仰渡一可レ然哉奉レ存候、私共評議仕候處、書面の通に御座候、則御下ゲ被レ成候書面返上仕候、以上、
十一月 矢部廣五郎
小長谷和泉守〈○中略〉
以二手紙一得二御意一候、然者各務相二細工の人骨、明二十八日四ツ時過、相二御同道、醫學館へ獻納可レ然と存候、依レ之此段得二御意一度、如レ此御座候、以上、
二月廿七日
依レ之中山へ相談、義兵衞へ懸合、夫々支度相調、持夫等、深川にて取扱、つり臺持にいたし、少仙に而は、麻上下著用、供召連れ、私は平服にて罷越候、當朝原澤文仲も參り、差添可レ參故之義申聞候に付、愚意も有レ之候に付、召連罷越候上、學館俗事役へ對面申談候は、此度大坂より罷下り候、相二門人、爲二組立一、今日召連候外に、御當地に罷在候、右門人原澤文仲と申者、追々右木骨御組立等の義に付、爲二御用召一不レ苦候はゞ、右の者も、御座敷へ差出可レ申哉と聞合候處、差支無レ之旨に付、同人義も、十德著用、私被二相通一候處へ、兩人并に同席差扣、右二箱并被二相添一候御著書〈○整骨新書〉此度の御小冊、共に右俗事役大野茂三郎と申仁へ差出、宜敷御取計被レ下度旨申し、委細承知の旨にて、早速講席と申廣き座敷へ持出し、直組立にいたし候樣申候に付、私付添候少仙組立、文仲手傳も致し、大體相濟候處にて、多紀氏御詰所へ、私被二召出一、面會にて御座候、其上にて、組立の處被レ致二一覽一、尚又右組立傳受置候樣、外御醫師中へ被二申渡一、右掛り一兩人被レ出、段々少仙より被二傳受一、其上にて、取仕舞まで被二習受一候、夫より相扣居候處、私共三人へ、晝支度被二相出一候、九半頃至、杉本法眼御出に付、此節御講席御用に相成、於二別御座敷一御傳申候、御醫師中、一兩人少仙差添被二組立一、尤私付添罷在相濟候處、杉本氏御出御見分、宜出來之旨、殊の外被レ致二稱美一候、其上にて、御當人内々私へ被二申聞一候は、今日無レ滯獻納相濟候段、向々へ可レ被レ成二御屆一、尤右爲二手當一、御金被二下置一候、御取調兼而有レ之候處、御金藏御渡日に無レ之候ては、辨兼候間、來月中旬迄は、相譯り申間敷、尤貴樣御呼出、御渡申事に候共、彼地より參候者、 心得にも可二相成一、内々御通置候旨御座候、右相濟、勝手次第引取可レ申筈に付、直樣退散少仙同道〈此節〉〈正藏とかりに改名爲レ致候〉杉本多紀兩御氏へ、首尾能相濟、難レ有仕合と申趣意を以て、御禮廻り、御著書一部づつ、相二より差上度旨を以て差出置申候、當日御詰合の醫中、大勢被レ致二一覽一、皆々感心、先年星野良悅獻備の品とは大に勝り候樣、口々評判致され、誠に御本望御同慶の御事に御座候、〈○中略〉
一一昨十一日、左の寫の通封状到來、〈○中略〉
御逹申義有レ之候に付、明十二日五ツ時過、醫學館へ御出席可レ被レ成候、以上、
三月十一日 多紀安長
杉本忠温
大槻玄澤樣
依レ之昨朝内々正藏召連、御同處へ罷出候處、杉本多紀兩御氏御列座被二申渡一候者、其許門人、各務相二製作の木骨、醫學館へ獻納仕候につき、爲二御手當一、此金二十兩被二下置一候、此段可二相逹一旨被レ申候、〈○下略〉
p.0969 典藥寮
醫師十人、掌下療二諸疾病一及診候上、
p.0969 内藥司
侍醫四人、掌レ供二奉診候一、〈謂診驗也、候望也、言診二驗血脈一候二望顔色一也、此診驗者、與二醫疾令所レ謂診候一、其意少異也、〉
p.0969 診候法( ウカゞフワザ)
凡病状を察んには、脈を候ふを主とすれば、誰も最精くせではならぬわざなるを、漢にて難經、脈經等に虚説を記たるを初として、名だゝる人々多けれど、各少の異こそあれ、大方は同義にて、寸、關、尺、三部、九候など云名を立て、天地人、五臟、六腑、陰陽、五行抔配當て、理深げには云めれど、誰もえ 詳にせざめり、此にても其訛を傳て、殊に脈學を主とする者は、深く泥て實事には愈疎くて、大方の醫は、謾に病人の手を按て、知がほにしなしつヽ過めれど、實には知難き物と思定て、是を明めんとする人を、却て愚かなるが如にさへ云めるは、いとも〳〵歎はしきわざかな、抑精神を助て、渾身の活動をなす物は、氣と血と也、氣血同物にて、氣は血中に起り、血は氣裏に成て、各後れ先だゝず、起居ること、雲と雨との如く、軀を循環ときは、血其體にて、血の脈に流るゝこと、猶川の水有が如し、〈○中略〉若いさゝかも病有時は、其源異なりといへども、皆血に關らざるはなく、既に血に關れば、血卽病體となる也、其病體を候んとするには、其血の動靜と、其血の色とを見に如はなし、其血の動靜を候は脈也、其血色を相は舌唇也、血は形にして、脈舌は影也、形影相離ざる物なれば、其影を見て其體を知、是より邇はなし、〈○中略〉さて舌唇は、喜怒の顏に形はるゝが如、腹臟の表なれば、腹内を穿見たらんよりは著かりなん、譬ば舌唇は肉の如、邪氣は火の如、其赤肉を一炙れば白く、二炙れば黄に、三炙れば黑くなるが如し、又痼疾は脊に著て蟠れるものなれば、其脊の方より、腹へかけて、形のあらはるれば、病所在を知んには、其本なる脊を候に如はなし、我脊を相るわざを 發明( アカシ) えて物するに、其益少からず、然か眼前其活人の相を徴として、活る病を治るわざにしあれば、さてこそ取もあへず神ながら自然なる術にて、皇國外國古今の學にも論にも及ばず、かばかり實事に捷逕はなけれ、熟く此義を得れば、我住庵の邊に生たる草木を採ても、萬病は治得べし、
p.0970 七種ノ死脈トハ何ゾ 彈石脈 解索脈 雀啄脈 屋漏脈 蝦遊脈 魚翔脈 釜沸脈
是ヲ七種ノ惡脈ト云也、此等ノ死脈ヲバ、必ズ少シモ可二心得一事トナン申メリ、爲レ我若シハ看病ノタメ可二存知一事ト云々、
p.0970 論疾診尺篇第七十四〈○中略〉
目赤色者、病在レ心、白在レ肺、靑在レ肝、黄在レ脾、黑在レ腎、黄色不レ可レ名者、病在二胷中一、診二目痛一、赤脈從レ上下者太陽病、從レ下上者陽明病、從レ外走レ内者少陽病、診二寒熱一、赤脈上下至二瞳子一、見二一脈一一歳死、見二一脈半一一歳半死、見二二脈一二歳死、見二二脈半一、二歳半死、見二三脈一、三歳死、〈○下略〉
p.0971 扁鵲者、勃海郡鄭人也、姓秦氏、名越人、少時爲二人舍長一、舍客長桑君過、扁鵲獨奇レ之、常謹遇レ之、長桑君亦知三扁鵲非二常人一也、出入十餘年、乃呼二扁鵲一、私坐間、與語曰、我有二禁方一、年老欲レ傳二與公一、公毋レ泄、扁鵲曰敬諾、乃出二其懷中藥一予二扁鵲一、飮レ是以二上池之水一、三十日當レ知レ物矣、乃悉取二其禁方書一盡與二扁鵲一、忽然不レ見、殆非レ人也、扁鵲以二其言一飮藥三十日、視二見垣一方人一、以レ此視レ病、盡見二五藏癥結一、特 以二診脈一爲レ名( ○○○○○) 耳、爲レ醫或在レ齊、或在レ趙、在レ趙者名二扁鵲一、
p.0971 辨脈法第一
問曰、脈有二陰陽一者何謂也、答曰、凡脈大浮數動滑此名レ陽也、脈沈濇弱弦微、此名レ陰也、凡陰病見二陽脈一者生、陽病見二陰脈一、者死、 問曰、脈有二陽結陰結者一何以別レ之答曰、其脈浮而數能食、不二大便一者此爲レ實、名曰二陽結一也、期十七日當レ劇、其脈沈而遲、不レ能レ食、身體重、大便反鞕、名曰二陰結一也、期十四日當レ劇、
p.0971 周明〈○周明恐同朋誤〉監寺云、人ハ平生醫師ニ近付テ、脈ヲ取ラスベシ、平脈取覺ツレバ、違例ノ時脈又分明也、又病氣大事ナリトモ、日比令二療治一醫師ヲ左右ナク改レ之事然ベカラズ、但無雙ノ名醫師來ラバ可二談合一云々、〈○中略〉
應永廿七〈庚子〉五月廿三日 宣守〈在判〉
p.0971 意足軒説
聽レ聲而知、視レ色而知、 診レ脈而後知( ○○○○○) 焉、是所三以醫之有二 上中下三品( ○○○○○) 一也、今也診而知者鮮矣、況求二之聲色之間一哉、難矣醫乎、藤貞繼平居游二扁倉之藝一者也、徴二余名一レ軒、余卒書二意足二字一贈焉、
p.0971 脈候
人心之不レ同如二其面一也、脈亦然、古人以二體肥痩性緩急等一爲二之規則一、然此説二其大抵一耳、豈得二人人而同一乎、醫謂人身之有レ脈、猶三地之有二經水一也、知二平生之脈一、病脈稍可レ知也、而知二其平生之脈一者十之一二耳、是以、先生之敎、先レ證而不レ先レ脈、先レ腹而不レ先レ證也、扁鵲曰、越人之爲レ方也、不レ待二切レ脈望レ色聽レ聲寫一レ形、言二病之所在一、可二以見一已、且如二留飮家脈一、千状萬形、或無或有、不可二得而詳一矣、夫脈之不レ足二以證一也、如レ此、然謂三五動或五十動、候二五藏之氣一者、妄甚矣、如二其浮沈遲數滑濇一、僅可二辨知一耳、三指擧按之間、焉能辨二所レ謂二十七脈者一哉、世有下隱二其病一使三醫診二其脈一、以試レ之者上、乃恥二其不レ知之似一レ拙、以レ意推度、言二其髣髴一、欲二以中一レ之、自欺之甚矣、醫其思レ諸、
p.0972 診候〈○中略〉 切脈〈○中略〉
凡論レ脈者、甚詳則失二之鑿一、甚略則失二之疎一、自レ古醫人之爲二病論醫按一也、其言レ脈大過二細微一、反可二大疑一、 故吾門常謂、( ○○○○○) 脈得二大較一爲レ佳( ○○○○○○) 、與三其失二于詳一、寧失二于略一、古今二千年來、醫人之多、醫書之夥、不レ言レ脈者獨 明戴思恭( ○○○○)而已矣、其證治要訣 一書( ○○) 、 全篇無二脈字一( ○○○○○) 、初大怪レ之、未レ得二意旨一、後沈思熟二想之一、乃知三彼非二不レ知レ脈者一、但其方寸有レ疑二于脈一、以謂寧直據二證状一爲レ治而足焉、不レ可下以二有レ疑者一筆中之于書上也、宜乎戴也、雖レ然亦可レ謂レ失二于疎一矣、今陳二脈大略一以示二梗槩一、其餘可二思而得一レ之也、
p.0972 脈論〈○中略〉
近來ノ流行ニテ、脈ナドノ事ニ骨ヲ折レバ、見識ノナキヤフニ成タルハ、 古方家以來ノ弊( ○○○○○○○) ナルベシ、初學ノ輩ハ、精神ヲコラシテ、工夫ヲナスベシ、サレドモ脈バカリミテ、他候ニカマワヌ醫者アリ、夫レデモ知レルナラバ勿論ナレドモ、恐クハ知レカネルナラン、
p.0972 此邦にて、艮山後藤氏、一見解を立て、内經を看破し、右の如き迂怪の説共を駁せんとする爲にや、一向に經絡は無用の物と覺悟せられしは、千古の卓識と稱すべし、其門人香川氏、これに繼ぎ起り、師業を唱へ、自己の見を加へ、一家を爲せり、又其に續ぎ、山脇君出給ひ、是等の事に 心付れしにや、自ら觀臟して、從來の舊説を改め、古書によりて、九臟の目を唱へ、古今の大誤を正し給へるとて、藏志を著し給へども、是又確實の所に至らず、聊か實に就て基本を明にすべしといふの端を發せられしといふまでなり、又吉益氏抔は、近時の豪傑なれども、基とすべき醫書なき故、纔に傷寒論一書に精力を盡されしか共、是も錯簡の書にて、的實の所少く、取る所多からずとて、己が心に徹せし方論ばかりを取り、詰る所、脈などは用なきものなり、偏に腹候にありと、門人に敎へられしよし、是已事を得ざるより出たるなるべし、愚老が家、世々醫を以て我君に仕ふる身なれば、逃れても逃れ得ざる業なり、殊に不レ好道にもあらず、故に幼きより和漢の醫書の端端を窺ひ見しに、生得不才にして、何書を讀ても、是非を分たず、他人は能も解し得る事と、只我不才を恥、歳月を經しまでなり、春秋甫二十二歳の時、同僚小杉玄適といへる男、京師の遊學より歸り來り、彼の地にて、初て古方家といふ事を唱ふるの徒出づ、其中に、山脇東洋先生抔、專ら此事を主張し、自ら刑屍を解て、觀臟し、千古説所の臟象大に異なる事を知られたりと聞く、其頃、松原吉益抔いへる輩、相共に復古の業を興すのよし、其諸論説を聞得て、扨々羨しきことなり、疾醫家にては、已に豪傑興りて、旌旗を關西に建たり、我其尾に附んは、口惜しく、幸に、瘍醫の家に生れし身なれば、是業を以て、一家を起すべしと、勃然と志は立たれど、何を目當、何を力に事を謀るべき事を辨へず、徒に思慮を勞するまでなりし、〈○中略〉かくありて後、初て眞の醫理は、遠西阿蘭にあることを知りたり、夫醫術の本源は、人身平素の形體、内外の機會を精細に知り究るを以て、此道の大要となすと、かの國に立ればなり、凡そ病を療するに、此に精しからざれば、決て的中の治療はならざるの理なり、こゝに一二を擧て證す、少しく惡言に似たれ共、世上の醫者の、病家へ招れ、初に脈を診し、浮沈遲數の指下に應ずるは知れども、其動靜をなすものは、皮下に在て、何物なることを知らず、血共、氣とも辨へず、只脈といふものなりと覺へたるものと見ゆるなり、餘りに淺猿し き事ならずや、〈○中略〉總て、脈と稱するものは、血の通ふ管なり、其始を爲すは、心の臟にて、其心に連なる大管より、血を注き出して、諸部へ周流すること間斷なし、特り血の和不和を察するは、脈を切にして、其運動を候ふより著實なるはなし、東洞翁、胗脈をなすは、用なきものと敎られしは、恐は疎漏の至りといふべき歟、〈○下略〉
p.0974 瑞策〈(中略)平信長公、豐臣秀吉公、寵遇異レ他、又或時、有レ人診脈、雖レ無二常病一有二 必死之脈一( ○○○○) 云、人皆怪レ之、明日果死二弓箭一、時人其妙二工之妙一矣、〉
p.0974 應永三十二年七月廿七日甲子、入道内相府三箇度令二參内一給、御惱之間可レ座二相國寺一、〈○中略〉或人云、吐氣令二出來御一、又御咳氣御座各御惡相之由醫師申云々、今日 御脈( ○○) 六動云々、當時參入之醫師非二本道輩一、號二壽阿彌一自二入道内相府一被二召進一也、自二去々年御惱之時一、奉二療治一之者也、
p.0974 永享二年四月八日、將軍〈○足利義敎〉 御虚氣御脈( ○○○○○) 在レ之歟由、醫師三位申入也、仍虚氣符事、花頂僧正相傳之由被二聞食及一也、可二書進一由、以二三位一被レ仰間、即申遣了、彼僧正申樣、此符事、聊傍傳子細在レ之、雖レ然未レ書二此符一也、初可二書進上一條、尤其憚多端之由、再三辭申入也、不レ及二披露一、只可二書進一由加二問答一了、
p.0974 長祿三年六月二十七日戊寅、使丙龍子詣下號二醫師板坂一者上求乙其救甲、又問二松井大進子一、 診レ脈( ○○) 曰、病候輕二於疇日一、莫レ爲レ意云、乃 領二前胡湯十五服一( ○○○○○○○) 、
p.0974 同〈○明應八年三月〉七日ノ曉キ、御自脈ヲウカヾヒ玉ヒテノ玉ヒケルハ、アラ嬉シヤ違フ所アリ、往生ハチカヅキヌ、〈○中略〉醫師藤左衞門御脈ヲ伺ヒ奉ルニ、誠ニ胃ノ氣ノ御脈違フ所アリト申上シカバ、上人サゾト覺ヘタリト仰ラレキ、〈○下略〉
p.0974 享保十六年五月十日參候、滋井入道殿參ラレ、御前ニテ、〈拙エ〉仰ラレケルハ、醫書ニ、鉤脈ト云事アル由、脈状病形イカヤウナルモノニヤト、〈拙〉答テ申シ上グ、弦鉤毛石ハ、四時ノ定脈ニシテ病脈ニ非ズ、鉤ハ夏ノ平脈ニシテ前曲リ、後直ク、帶鉤ヲトル如クトコソ申セト申シ上シニ、ソ ノ帶鉤ノ形ガ、石帶ニイル事故也ト仰ラレシホドニ、内經已來、難經ノ鉤脈ノ處ノ諸註ヲソヘテ、書テ差上グ、
p.0975 腹候( ○○)
腹者有生之本、故百病根二於此一焉、是以、診レ病必候二其腹一、外證次レ之、蓋有下主二腹状一焉者上、有下主二外證一焉者上、因二其所一レ主、各殊二治法一、扁鵲曰、病應レ見二於大表一、仲景曰、隨レ證而治レ之、宜下取二古法一而求中其要上矣、
p.0975 腹診書( ○○○)
腹診書二卷、堀井元仙源直茂著、〈寬保二年壬戌の序あり〉嘗聞、延寶天和年間、京師ニ一隱醫アリ、是ニ習熟シテ、始テ腹診ノ號ヲナセリ、是其濫觴也ト、然モ其源ヲ推トキハ、醫家流ヨリ出テ、彼隱醫ニ至テ、其譽ヲ得タル乎云々、〈予細川侯醫樋口元良方にて、此書を見たり、〉
p.0975 診腹之法( ○○○○) 、唐山久無二其説一、五雲子之於二此術一、豈宿有二獨得一、抑歸化之後、觀二我醫之伎一、就有二發明一乎、茲編、余獲二之于養春後人雲悦一、又獲二之于兒醫人見元德一、二本稍有二異同一、仍互參繕訂、以附二于奇侅之後一、庶足二相輔而行一、乙巳歳修禊日、三松齊記、〈堅〉○按ズルニ、本書ノ首ニ、此書森養春院雲仙傳トアリ、雲仙ハ五雲子ノ名ナル歟、
p.0975 瀨丘長圭 多賀谷安貞
瀨丘珽、字長圭、江戸人、吉益爲則稱爲二東方一人一、珽察レ疾專用二功腹診一、常曰腹候與二外證一相二爲表裏一、然外證多而易レ惑、腹候一而不レ爽、故腹候爲レ先、又曰、醫有二三極一、曰方極、證極、診極、診極謂二腹診一也、因名レ所レ著曰二診極圖説一、其法及治驗詳二于書一、珽術未レ及二大行一、中年卒、
多賀谷安貞、字源藏、〈號二樂山一〉上野人、父安命善レ醫、安貞傳二其術一、尤精二腹診一、然不レ喜レ業レ醫、逢三親朋有レ疾與二貧困不一レ能レ請レ醫、則爲療レ之、他有二求レ治者一皆辭、仕二幕府一爲二銃隊與力一、安貞晩得レ疾、自知レ不レ起、力レ疾著二腹診秘訣一卷一以遺二後人一、腹候之法其起久矣、天正慶長間竹田定加始唱レ之、松岡意齋、北山道長、〈著二診腹法一〉堀井直茂、〈通稱〉 〈元仙一、著腹診書一、〉淺井惟寅、〈著二診脈秘傳一、又有二内証診法一、子正路所レ著、〉高村良務〈著二腹診秘傳一〉等皆善道レ之、然槪局二臟腑配當左右分位一、未レ免二牽湊附會一、如二香川修德、吉益爲則一、直卽二硬輭弛張、及跳動拘急塊磊等狀一、辨二之虚實死生一、法極簡捷、至レ珽益闡二發其微旨一、殆無二餘薀一、後稻葉克、〈字文禮、著二腹證奇覽一、〉和久田寅、〈字意仲、著二腹證奇覽翼一、〉各有レ所二論述一、皆祖レ珽云、蓋腹診於二察病一最爲二切要一、然西土不レ聞レ有二是法一、其腫脹腹滿及童稚傷食、乃按二其腹一求レ之、亦不レ過二形色堅輭一而已、他如二癥瘕痞塊一、傒三病者自言二其狀一從爲二之治一、其術已疎矣、我邦醫術卓二越于西人一此亦一徴矣、
p.0976 亮〈○今村〉按ズルニ、〈○中略〉爲則〈○吉益〉ト時ヲ同シテ、江戸人瀨丘長圭ト云ル者アリ、頗ル 腹診ノ學( ○○○○) ニ精シ、〈○中略〉夫レ腹診ノ法タルヤ、仲景之ヲ言フコト切實ナリ、然レドモ晉隋唐宋以來、歷代ノ方書、之ヲ明言スル者ナシ、其ノ此ヲ四診外視スルヲ以テノ故カ、豈ニ闕典ニ非ズヤ、
p.0976 診候〈○中略〉 按腹
吾門以二按腹一爲二六診( ○○○○○○○○) 〈○望形、間證、聞聲、切脈、按腹、視背、〉 之要務一( ○○○) 、何則大槩按二診腹部一可三以辨二人之強弱一、也、
p.0976 井上交泰院〈曾孫俊良〉
井上玄徹、〈號二靈史一〉周防山口人、本姓田谷、出爲二廣島井上氏嗣一、從二曲直瀨正紹一受二其術一、〈○中略〉後水尾上皇、後西院上皇屢召候レ脈、玄徹勤レ業不レ避二寒暑一、又善敎二育子弟一、門人以レ千數、聲稱籍甚、列侯宗室無レ不二延請一、 自レ古一診之報有レ以二銀三千枚一者( ○○○○○○○○○○○○○) 、 玄徹及井關常甫二人耳( ○○○○○○○○○○) 、常甫通稱玄悅、近江人、嚴廟時以二名醫一辟、叙二法眼一、
p.0976 凡療病養生之術非レ一者歟、身上按摩、口中飮食、并藥湯、針、灸、雖二其品多一、雜熱、小瘡對治之樣不レ如二於 蛭飼一( ○○) 、中風、脚氣、療養之法莫レ勝二於 温泉一( ○○) 矣、
p.0976 攻補( ○○)
醫之於レ術也、攻而已、無レ有レ補矣、藥者一二乎攻一焉者也、攻二擊疾病一已、内經曰、攻レ病以二毒藥一、此古之法也、故曰 攻而已、精氣者、人之所二以生一也、可二養以持一焉、養二持之一者、穀肉果菜耳、内經曰、養レ精以二穀肉果菜一、不レ曰二之補一而曰レ養、古之言也、蓋雖二穀肉果菜一乎、猶且難レ補レ之、而況藥乎、豈人力之所レ能也哉、故曰無レ有レ補矣、後世並二論攻補一、岐レ藥二レ之、專爲二補氣之説一、曰、病輕則攻レ之、重則補二元氣一、若強攻レ之、元氣渇死、夫藥者一二乎攻一焉、豈得二能補一レ之哉、元氣果可レ補、則人焉死、妄誕特甚矣、
p.0977 治療之道二端、曰 持重( ○○) 、曰 逐機( ○○) 、所レ謂持重者、病深則治一、非二迂遠而過一レ日也、所レ謂逐機者、證移則輒隨、非二迷惑而轉一レ方也、持重者常也、逐機者變也、勿下能二逐機一而失中於持重上焉、勿下務二持重一而忽中於逐機上、焉、
p.0977 艮山〈○後藤〉治レ疾、多 用二温泉( ○○○) 、 熊膽( ○○) 、 艾灸一( ○○) 、故人呼曰二湯熊灸庵一、門人香川修庵、亦喜二 艾灸一( ○○) 、山脇東洋、專使二 石膏一( ○○) 、一時嘲曰二香烙山磔一、此與二西土嚴附子、陳石膏、張熟地之稱一、殆相肖、
p.0977 古林見宜療二紀州熊野農夫水腫一、服藥良久無レ効、乃加二靑芋於方中一、又敎爲二朝夕食一而愈、蓋其人生二於山中一、每以二其物一爲二常饌一、及レ旅二食浪華一、歷二試諸藥一、禁忌極嚴、故 脾胃失レ度( ○○○○) 、 藥力不レ能レ逹( ○○○○○) 、所三以用二方宜之術一也、
p.0977 艮山子謂、百年以來游惰之人、腹裡結二癥瘕一、余徴二之都邑市朝之人一、比々皆然、蓋太平日久、民庶藩息、金錢虚耗、奢佚日盛、則知巧之民不レ免レ病レ氣勢也、醫人施レ治之日、從二這處一下二工夫一、則大有二裨益一矣、
p.0977 都門日有下稱二原芸菴一者上、學非レ博、業非レ精、唯其爲レ人、瓌偉倜儻、大得二聲譽一、一富家之室女、患二鬱證一使二芸診一レ之、芸曰、是 氣滯( ○○) 也、治方、宜下用二戯場散一而可上矣、不レ須レ與二余藥一也、父母問二戯場散之義一、芸曰、未也、丑也、旦也、淨也、能治二室女之氣滯一、父母大笑、女亦微笑、芸指レ女曰、戯場散之効、一話而見二室女莞爾一也、況於レ用レ之乎、豈不レ治哉、父母遂頷焉、自レ是後如二芸言一、病經レ月愈、
p.0977 一或問曰、先生は用る藥の故もなきに、半年も一年も、藥方をかへざる事いかん、 答曰、是病を治する事の、手に入たる人にあらざれば、爲事かたし、病に名をつけて、病因を論ずるは、もと臆見ゆゑに、十日も、其藥方の効なき時は、心に疑ひおこりて、方をかゆるなり、扁鵲のごとき疾醫は、病毒を見定、此毒は、此藥にて治するといふ事に決定するゆゑ、たとひ藥の効なきとても、病の治する迄は、藥方をかへざるなり、其内に、自然と病毒の動時あり、動ときは、大に瞑眩して、病治するものなり、病治したるあとにて見れば、其藥方かはりては、治せぬ事知るヽなり、又其病に中るあたらざるをしらず、唯方をかへぬ事を自慢して、人を惑すものあり、是は無法者のする事なり、必惑べからず、是を糺さんと思はヾ、其病人の治しやうを問べし、
p.0978 治法
治有レ四( ○○○) 、 汗( ○) 、 吐( ○) 、 下( ○) 、 和( ○) 是也、其爲レ法也、隨二毒所在一、各異二處方一、用レ之瞑眩其毒從去、是仲景之爲也、如下其論中所レ載、初服微煩復服汗出、如二冒狀一、及如二醉狀一得レ吐、如三蟲行二皮中一、或血如二豚肝一、尿如二皂汁一、吐レ濃瀉出之類上、是皆得二其肯綮一然焉者也、尚書曰、若藥弗二瞑眩一、厥疾弗レ廖、可レ觀仲景之術、三代遺法也、今履二其轍一、而嘗二試之一、果無レ有二不レ然焉者一也、於レ是乎吾知二其不一レ欺レ我矣、然世人、畏二瞑眩一如二斧鉞一、保二疾病一如二子孫一、吁其何疾之除哉、甚矣其惑レ之也、
p.0978 治法
汗( ○) 、 吐( ○) 、 下( ○) 、 和( ○) 、 四法( ○○) 者、乃治疾之鈐鍵也、故量二夫賊邪輕重上下表裏一、所レ用レ得レ當、効誠若二鼓應一レ桴矣、然是皆治二實邪一之法、而非レ所三以補二益其眞元一也、余在二長崎一治二一人一、積年腹痛、用二倒倉法一、良己一老者、亦有二此患一、私傳二其法一、自行レ之、隔宿亡レ故忽亡矣、故經不レ云乎、不レ治二其虚一、安問二其餘一、蓋嘗竊觀二仲景之治一其於二正氣一致レ慮者往々不レ少、顧粗鹵者弗レ察耳、哀哉、
p.0978 劉元素〈張從正○中略〉
張從正、字子和、睢州考城人、精二於醫業一、貫二穿難素之學一、起レ疾、救レ死、多レ所レ取レ効、世傳、黄帝岐伯所レ爲書、有二 汗下吐三法一、各有二經絡脈理一、亦有二不レ當レ汗不レ當レ下不レ當レ吐者一、汗與レ下二吐之一則死、惟從正用レ之最精、 號二張子和汗下吐法一( ○○○○○○○○) 、妄庸淺術、習二其方劑一、不レ知二察レ脈原一レ病、往々殺レ人、此庸醫所三以失二其傳一之過也、其所レ著見レ行二于世一、有二六門二法之目一、
p.0979 治病大體第一〈○中略〉
又〈○針灸經〉云大法、 春宜レ吐( ○○○) 、 凡諸病在二胷中一者宜レ吐レ之、凡服レ湯吐中病便止、不二必盡劑一、須レ吐者、虐及傷寒、胷中滿及積、淡乾嘔、又胷隔淡熱轉嗽、及肺 吐膿等、並宜レ吐レ之、 凡宿食在二胃管一、當二吐下一レ之、 又云、諸四逆者不レ可レ吐レ之、凡諸虚羸者不レ可レ吐レ之、 凡新産者不レ可レ吐レ之、凡脚氣上衝心者不レ宜レ吐レ之、凡病者惡寒而不レ欲レ近レ衣不レ可レ吐レ之、 又云、大法、 秋宜レ下( ○○○) 、凡服レ湯下中、病便止、不レ可二盡劑一、 凡病發作レ汗多、急下レ之、凡病五日六日、腹滿不二大便一急下レ之、 凡大下後六七日、不二大便一、煩不レ解、腹痛而滿、此有二 屎一所二以然一者、本有二宿食一、宜二蒸氣湯下一レ之、〈方在レ下〉 凡病者、小便不利、大便乍難乍易、時有二微熱一、沸レ胃不レ能レ臥、此有二 屎一故也、宜レ下レ之、 凡可レ下者、湯勝レ丸、脇下偏痛發レ熱、此寒也、當下以二温藥一下上、其寒脹須レ下、 凡諸病、大便澀、諸傷寒腹滿、瘧腹滿、鼓脹、水脹、大便不通須レ利、小便者、黄病水病淋病發汗後、不レ解腹滿、或痛宜レ下レ之、
p.0979 正中二年三月三日癸丑、今日、親王、〈○中略〉有二腹痛一、 五月十六日乙丑、今日有二醫師評定一、長直、全成、尚忠、仲成等、各申レ議、前右府、覺圓僧正候二御前一、〈此僧正、殊有二醫骨一之故也、〉可レ進二 寫藥一( ○○) 之由一同、又御灸事同申レ之、然而先下痢後可レ有レ灸之由治定了、
p.0979 醫學〈○中略〉
山脇〈○東洋〉ノ門人ニ、永富鳳介ト云人出テ、赤馬關獨嘯庵ト號ス、京師ノ俚言ニ、人心ノ儘ニ任セズ、モトレル人ヲ廣ク指テ、毒性ト呼ブ、蓋其唱ノ同ジキヲ以テ、如レ此ハ號セリヤ、此人越前ニテ、奧村良筑ト云人ニ從テ、吐流ヲ受テ上京シ、東洋先生ニ語レバ、先生大ニ嘉シ、嫡子東門先生ヲ、遙ニ越前ヘ下シ、吐方ヲ學バシム、良筑敎テ曰、吾子コソ可レ吐證候具セリト云ヨリ、徒ニ上京シテ、東洋先 生ニ其候ヲ告ゲ、又越前ニ下向シテ、吐藥ヲ試タリ、 本邦ニテ、上古ハ知ラズ、 吐流ハ( ○○○) 、 此良筑翁ヨリ創タリ( ○○○○○○○○○)、一代ノ内ニ一人モ藥ヲ乞モノ無ク、絶タルコト兩度アリト、サレドモ泰然トシテ、吐ヲ以テ名醫ト呼レル事、其人物ヲ思フベシ、
p.0980 田中適所
本朝八十九年前、越前有二奧村良筑者一、始闡二吐方一、而其門人永富鳳介著二吐方考一、荻野元凱、著二吐方編一、田中信藏、著二醫事談一、皆紹二述師説一、所二裨補一不レ爲レ鮮矣、
p.0980 余〈○永富鳳介〉生二於長門之西鄙一、〈○中略〉年甫十一、東遊二於京師一、〈○中略〉年十七、奉二家君之命一、西歸二於赤關一、性狂狷不下爲二郷曲一容上、去再遊二於萩府一、復學二于周南先生一、益有二厭レ醫心一、及レ歸開二講肆一講二六經一、有二同僚安逹某者一、歸レ自二京師一、見レ余謂曰、子醫生而講二儒業一、無三乃害二於名分一乎、余曰、余修二醫方之書一五年、徧參二攻時師一、知二其無一レ益二於人之性命一、故將レ厭二棄之一、某者笑曰、子徒知下無レ益二於人一之醫上、未レ知下有レ益二於人一之醫上也、余曰、有レ益二於人一之醫爲レ誰、曰有二香川秀庵、山脇東洋者一、皆在二于輦轂之下一、開レ門待二四方之土一久矣、子盍二一見一レ諸、余於レ是再東入二於京師一、有二同僚栗山文仲者一、先在二于東洋先生之門下一、引レ余見二先生一、先生容貌雄偉、神彩射レ人、睨レ余謂曰、漢唐以下數千年、中華無二寧謐之日一、割據試擧、可三以逞二豪傑之爪牙一、誰拘拘乎爲二方技之徒一、宜哉其無二離倫之才一、幸有二長沙氏之書一、雖二其人不一レ可レ知、周漢之遺術備存焉、和華古今之醫、莫レ有下知二其條理一而施二之術一者上、生民死二于養榮益氣之説一非二一日一也、吾子豈冠二漢高溲溺之餘一快二於心一乎、寧佐二吾志一闢二二千年來之沈滯一乎、唯子之所レ擇也、夫子貢貨殖、子路負レ米、何必講レ書授レ句而後爲レ士乎、學レ道志也、行レ醫業也、何相妨之有、其言未レ畢、余舌擧不レ下、汗流浹レ背、生涯之趣向始定焉、乃留二學其塾中一一年、與聞二其道一、傍視下先生之决二死生一摧中沈痼上、大異二平昔之所一レ學、以爲古醫道之妙至矣盡矣、天下無二不レ可レ治之病一、其明年西歸二於赤關一、又遊二於浪華一、郷曲之人來乞レ治者日數十人、待レ之以下所レ聞二於先生一汗下之方上、巴豆甘遂、輕粉烏頭、無レ所レ不レ至、或忽治忽發、或初快後危、或長服無レ益二於病一、或經レ久發二其害一、於レ是乎始知丁爲レ醫有二開闔離合之 機一與丙雖二扁倉一亦有乙不レ可レ治之病甲矣、然此時血氣之欲未レ定、好レ貨好レ色、學レ醫之志不レ純、汎然過日三年、年二十一、聞下前越有二奧邨翁者一能中吐方上、與二山仲陶一同往而見、受二其法一、翁方面大耳、鬚髮如レ銀、其爲レ人厚重不レ可レ移、余留學六十日、與レ翁討論數次、臨レ將レ歸、謂レ余曰、吾子學二東洋氏一非二一日一、其論非レ不レ高、其旨非レ不レ遠、而高論遠旨、自非二聖賢一、則遽施レ之多違、吾子自レ此以往、歴事多年、志業始習熟而已、去歸二於京師一、授下所レ受二奧村翁一者於東洋先生上、再西歸二於赤關一、 而後汗吐下之三法始備( ○○○○○○○○○○) 焉、余乃以二三法一試二諸難治之病一三年、而後始知二爲レ醫之難一矣、就レ中遇二時不利一窘急具至、一切絶二飮博亡賴之交一、雉髮浮二沈閭里一、爲レ醫之志始一矣、爾後又二三年、能知下不レ可レ治之病與中可レ治之病上、所レ謂其不レ可レ治者、非二時醫之所レ謂不レ可レ治者一也、所レ謂其可レ治者、非二時醫之所レ謂可レ治者一也、而又 深識丙所レ謂古醫道者非下用二汗吐下之古方一之( ○○○○○○○○○○○○○○○○○) 謂上、而在乙所二以不一レ得レ不レ用二汗吐下之古方一之謂甲焉矣、年二十九、因レ病離レ家、漫遊將養、西經二肥筑一、東過二藝備一、來復客二于浪華一、其間診二沈固滯廃之病一、無慮數千人、嗚乎診レ病年多、爲レ技年拙、益知究レ理易、應レ事難矣、
p.0981 汗吐下並行、古之道也、今能二汗下一不レ能レ吐、其於レ能也不二亦難一乎、今知二可レ吐之病一、不レ知下可二汗下一之病上、其於レ知也不二亦危一乎、日本古方書之學興、汗下之術敷二于四方一十數年、至二于吐方一、難澀不レ行、夫汗吐下異レ途同レ歸、學者冥二會其機一、吐豈特難乎、余幼見三事洛東洋氏與二越奧村氏一有レ所レ學試レ之十年、粗知二其利病一、故聊述二鄙見一、告二同好之士一云焉、〈○中略〉
張子和、汗吐下齊行、是鋭意欲レ奪レ病之蔽也、夫病初發則雖レ重易レ治、經レ久則雖レ輕難レ治、苟不レ知二其條理一而施レ之、則雖二百汗吐下齊行一難レ奈二此何一、學者取二其果決之行一、而莫レ眩二其切迫之見一矣、盛夏嚴冬之毒レ人不レ爲レ少、羸弱之人雖レ無レ病宜レ謹二其修養一、況吐下之方避二其時一可也、雖レ然不レ得レ已則用レ之、用二吐方一之時、既吐則須レ飮二白湯一、飮則須レ吐、吐レ之宜二揬吐一、揬吐促二其間一也、連日連夜虚二竭元氣一、紅夷俗、能二汗吐下一、其言曰、病者在二牀蓐一不レ宜レ吐、是自初學之繩墨、
吐後三五日、當下調二飮食一省中思慮上、不レ可レ風、不レ可レ酒、不レ可レ内、不レ可二勞動一、
古曰、病在二膈上一者吐レ之、是用二吐方一之大表也、而其變不レ可二勝數一、沈硏不レ久、經レ事不レ多、則難二得而窮詰一、〈○中略〉下工之醫、積レ思焦レ心三年、可レ爲二中工一、中工之資既成、構レ思不レ休、積久忘レ者、猶二佝僂丈人於一レ蜩、遽然逢二其源一、則汗吐下皆中二肯綮一、是上工也、上而難レ遇焉、余受二汗吐下之方一、試二之於顛癇、勞瘵、喘息、鼓脹、膈噎之類一數年、功不レ蓋レ科、技不レ允二於人一、雖レ然沈硏感刻、忘二思於榮辱一、積年之久、經事之多、知二死者不治者一徐明、知二死者不治者一徐明、而治者不死者在二于目中一、始信下古人之技、不レ在二既病一在中未病上矣、
p.0982 和蘭之醫、善二汗吐下一、寶暦壬午春、余西游到二長崎一、就二譯師吉雄氏一得レ聞二彼醫法一、其治術峻劇纎巧、難三遽用二於邦人一、然而至二汗吐下之機用一、則一々與二吾古醫道一符矣、夫中華聖人之邦、失二其道一一千年、特於二蠻貊一得レ之者、不二亦異一乎、且其國不レ禁レ解二人屍一、其民亦不レ屑二屠レ腸絶レ筋之慘一、是以人病死、其病源不レ明、則刳剝視レ之、以爲二後圖一者、數二千年于一レ今、其書鬱然存焉、有志之士、考證玩索、可三以獎二助志業一矣、
p.0982 杉田成卿〈諱ハ信、梅里ト號ス、〉ハ、立卿ノ子ナリ、警敏ニシテ夙ニ家學ヲ傳ヘ、更ニ坪井信道ニ從フテ益々其學ヲ修ム、依テ和蘭ノ文法ニ精通シ、橫行ノ文章ニ巧ナリ、天保十二年〈紀元二千五百一年〉飜譯局ノ譯員ニ擧ラレ、蘭米ノ圖書飜譯ノ命ヲ奉ジ、又海上砲術全書ヲ譯ス、後更ニ蕃書調所ノ敎授職トナリ、安政六年〈紀元二千五百十九年〉四十二歳ニシテ沒ス、成卿洽聞博識、其學獨リ和蘭ニ止マラズ、嘗テ獨逸原書ニ就テ、濟生三方ヲ譯出シ、 刺絡( ○○) 、 阿片( ○○) 、 吐劑ノ三方( ○○○○○) ヲ説ク、其書大ニ行ハレ、天下ノ醫家一本ヲ藏セザルモノナシト云、其他濟生備考、治痘眞訣、内醫手術、解剖刀式、砲術訓蒙等編著十餘種アリ、
p.0982 惠美三白〈子貞璋〉
惠美三白、〈號二寧固一〉廣島人、仕二本府一、三白恒謂、百病生二于停食一、故其施レ治喜用二吐方一得二其妙一、〈○中略〉嘗閲二佛書一、見丙其言下四百四種病以二宿食一爲中根本上、〈淨心誡觀〉又言乙治レ病用二 斷食法一( ○○○) 、或三日或四五日甲、〈南海寄歸傳〉大悅、引以爲レ證、益唱二其説一曰、人謂色欲害レ身、不レ知丙飮食之欲害レ人、更有乙甚二於色一者甲、故其自奉淡泊、居常唯食二麥飯裙帶菜一、病 者問二餌食何宜一、亦擧二二品一而答、
p.0983 斷食して服藥の事、釋迦如來の病を療る方也、七ケ日斷食にて藥を飮み、七ケ日後は生死によらず藥を用ひずと、佛經に説給ふとかや、今世も律僧の正しき人は、長病なれば、七ケ日服藥し、八日目一日休藥して又服藥す、七日々々に一日づヽ休み藥用するよしを聞り、此斷食して服藥の方、藥治より萬病に最上の藥也、痢病、食傷、蟲症、泄瀉、腹痛、積聚、嘔吐の類の病には、別して驗し多し、既に大七氣湯などは、絶食にして用ゆべしと古人も云り、予しば〳〵效驗を得たる事なり、疑ふべからず、然るを俗人は喰さへすれば、全快なるものと心得て、不食の病人に強てすヽむ、わけて婦人は無理無體に飯せしむ、これを介抱と思ふ、甚しきひが事ぞかし、又世俗は水を望む病人に、水をあたへざるが多し、これも食をすヽむるにひとし、食をすヽめ却てこれが為に命を失ふもの少なからじ、卑賤の者には水ばかり飮みて、醫藥におよばず全快するもの多くあり、醫法の祖たる張仲景曰く、水を望む病にはあたふべしと、又却温經に曰く、水をのぞむ病に水を飮すべしと説玉ふ、また新汲水は天然の白虎湯なり、藥にあつべしと本草に見へたり、是等の語を見て忌むべからざる事をさとし、少しもいとはず飮すべし、釋尊仲景の敎ある事を知らず、歎しき事也、是にかぎらず俗人の私智のならはしには實要をうしなひ、忌べき事を返て養生になると思ふの間違のみありて、害となる事多し、歎くに餘れり、
p.0983 減飮絶粒( ○○○○)
荻野台州著二減飮論一、和田東郭治二澼囊一、極節二飮食一、太田無聲曰、凡療二膈曀反胃一、量二其人強弱虚實一、當下以二絶粒一爲上レ先、各有レ所レ見、〈○中略〉按、素問怒狂病、有下岐伯奪二其食一之言上、然則聖人亦有二此法一乎、
p.0983 古林見宜
古林正温、通稱見宜、〈號二桂庵、又壽仙房一、〉播磨飾磨人、赤松氏則之裔、〈○中略〉正温與二福岡太侯一〈如水〉有レ舊、侯延而爲レ客、 筑士有下患二冷疾一三年上、夏天重裘、擁レ爐而坐、火氣熏レ面、狀如二癩痂一、正温視レ之曰、是伏熱也、治法 用二灌水一( ○○○) 、經所レ謂行水漬レ之和二其中外一者、昔徐嗣伯用レ之治二房伯玉疾一、冬天猶可、況夏時乎、速命設レ水、親戚私議曰、太冷之人入レ水、氣卽絶矣、病者聽レ之、顫慄不レ肯レ進、正温叱曰、汝何怯、是小盤水、乃爾畏縮、他日臨レ陣豈能了レ事、可レ惜爾君以二五百石粟一養二汝無用之徒一、病者大怒、決起赴レ槽、灌頂可二半時一、問何如、病者曰温和、快不レ可レ言、吾不レ欲レ離レ水、正温曰可矣、乃出二於槽一、調以二藥劑一、二旬而愈、又博多郷民病レ熱悶亂、正温亦洒レ水、自レ昬逹レ旦而解、
p.0984 五常政大論第七十二篇〈○中略〉
岐伯曰、西北之氣散而寒レ之、東南之氣收而温レ之、所レ謂同病異治也、故曰、 氣寒氣凉治以二寒凉一行水漬レ之( ○○○○○○○○○○○○)、氣温氣熱治以二温熱一、強二其内守一、必同二其氣一、可レ使レ平也、假者反レ之、
p.0984 太倉公者、齊太倉長臨菑人也、〈○中略〉菑川王病、召二臣意一診レ脈曰、蹶上爲レ重、頭痛身熱、使二人煩懣一、臣意、卽以二寒水一拊二其頭一、刺二足陽明脈一左右各三所、病旋已、病得二之沐髮未レ乾而臥一、診如レ前、所二以蹶頭熱至一レ肩、
p.0984 華佗字元化、〈○中略〉精二方藥一、其療レ疾、合湯不レ過二數種一、〈(中略)佗別傳曰、(中略)又有二婦人一、長病經レ年、世謂寒熱注レ病者、冬十一〉〈月中、佗令レ坐二石槽中一、平旦用二寒水一汲灌云、當レ滿レ百、始七八灌、會戰欲レ死、灌者懼欲レ止、佗令レ滿レ數、將レ至二八十灌一、熱氣乃蒸出、囂々高二三尺、滿二百灌一、侘乃使レ然レ火、温牀厚覆、良久汗洽出、著レ粉汗燥、便愈、〉
p.0984 うち〈○後朱雀〉の 御にきみ( ○○○○) のこと、なをおこたらせ給はねば、いかにとむづかしうおぼしめす、御いたちのありさまなど、おなじことなり、日ごろのすぐるまヽに、なを みづなどいさせ給( ○○○○○○○○)てやよからんと申せば、そのさほうの御しつらひして、いたてまつる、いとさむきころ、たえがたげにみえさせ給、
p.0984 後朱雀院カサヲヤミ給ケルニ、典藥頭相成、ヨロシク成給ヘリ、水トヾムベキヨシ申ケルヲ、雅忠、イマダワカヽリケルガ、ミタテマツリテ、コノ御瘡、イツ水トヾムベシトモミエズ ト申ケリ、其後、嵯峨ノ瀧殿ノ阿闍梨重源ト云モノハ、重秀ガ孫ナリ、ソレヲ召テミセ給ケレバ、雅忠ガ申ヤウニ申テマカリイヅトテ、故資仲、帥ノ五位藏人ナリケルニアヒテ、コノ御瘡、イツ愈給ベシト云事ミエズ、雅忠心エタル醫師也、明日御胸ヤミ給バ、大事ナルベシト申ケリ、マコトニ御胸ヤミテウセ給ヒニケリ、カサヤム人、胸ヤムハヲハリノ事也トナム、○按ズルニ重癰ニ水ヲ灌ギテ之ヲ治スル事ハ、外科治療條ニモアリ、
p.0985 源大納言師忠卿室家者、修理大夫俊綱之女也、久臥二病席一、熱氣如レ湯、親王授レ戒以二香水一灑レ之、其所二點著一隨レ手淸冷也、更洒二遍身一、忽以平愈、
p.0985 大治二年四月廿六日、此十餘日、右腰下有二堅根一、遠行之間、有二更發一レ音、召二醫師成世一、令レ見之處、其熱頗大、雖レ無レ恐、早以レ蓮可レ射之由所レ申也、 五月七日、從二今日一堅根以レ柳洗、依二成世申一也、
p.0985 奧村良筑
奧村良筑、〈號二南山一〉越前府中人、〈○中略〉初奉二張子和一、因以遡二古道一、極二其變化一、灌水治レ疾古人多用レ之、然 至二麻疹之灌浴一( ○○○○○○) 、 前古所レ未レ聞( ○○○○○) 、良筑實發二明之一、是類甚多、生平足跡未三嘗出二郷關一、其術皆數十年、仰思俯求之所二獨得一、
p.0985 食物能毒の心得を説〈○中略〉
産後の眩運に、冷水の奇効あること、坐婆心研にくはしく其説を記たれども、今此編婦人須知の卷にほヾこれを述て、俗家に示べし、其外、熱病の危篤證に、灌水得効ある辨、痘疹、驚癇、及癇疾、癲癇、狂癇諸症、痱、痿、諸患、又は瘈狗傷てより、精神錯亂もの、或は頭熱經久止ざる、或は惡寒歳を累て愈ず、或は久瘧諸治効なき類、及癩病初發、癆瘵初起に、 灌水( ○○) 、 浴水( ○○) 、 拊水( ○○) 及 瀑布泉( ○○○) を用る差別、其佗の諸病に、冷水内服辨別など、予〈○平野重誠〉が多年の試驗は、皆治術のうへのことにて、醫も其人にあらざれば、妄に説諭がたく、況俗家の理解し難ことのみ多ければ、此には具論ぜざるなり、
p.0986 痘瘡のこゝろえをとく〈○中略〉
痘瘡の序熱に、搐搦、上弔、不レ省二人事一にいたるものに、拊水術の一法を施には、冷水を手巾に浸て、兒の頭上を頻に灌洗、面部をもあらひ、その水、やゝぬるむときには、再冷ものに換て、灌こと八九十遍にいたり、頭面の肌膚冷て、氷のごとくなるに至て止、もし醒覺こと遲ものは、冷水一盞を内服せしめて、治することあり、いづれも見はからひのあること也、〈○中略〉痘瘡序熱、卒厥を發するものに、この術を活用して、其急を救、且起脹灌膿の期に至て、巨利を得ことあるは、予が發明、多年經驗の事にして、其必効あるものを認て施行こと、世人もやヽ知るものあれども、かの守杭刻舟之醫は、まゝ首肯せざることなれば、俗家は、唯其効あるを信じて用ふべし、
p.0986 黴毒の心得を説〈○中略〉
又最懼べきは癩病にて、古人の天刑病といひしも宜なり、然はあれども、其身體既に潰爛腐蝕たるものも、能灌水治法に委れば、偉功を奏ことあり、これ予〈○平野重誠〉が創意の歷驗にて、古人のいまだ言及ざることなり、
p.0986 鍼灸
鍼灸之用、一旦馳二逐其病一非レ無レ驗也、唯除レ本斷レ根爲レ難而已、如二痼毒一灸之則動、動而後攻レ之易レ治、故鍼灸亦爲二一具一、而不二必専用一、亦不レ拘二經絡分數一、毒之所レ在、灸レ之刺レ之、是已、
p.0986 蛭飼考證
ちかき世の人、小き瘡をなやめるには、蛭をつけて、その瘡をすひとらすることをするを、西洋の醫書より得たるわざといへり、此事は我國、いにしへ人も、 ひるかひ( ○○○○) といひて、せしことなるを、いつしか世に絶て、後には蛭かひといふ詞だに、しる人なくなれるからに、今はじめて、こと國のわざをならひ傳へて、する事とのみ思へり、此わざいにしへぶみに、はやくみえたりとおぼゆれど、 たゆき心のおこたりに、しるしもとめざりしかど、おろ〳〵かいつけおけるもあれば、其かぎりをしるすべし、こはもろこしの、隋のころにも、おもひよりてせしことにて、そのかみのくすしのふみにも見ゆと聞つれど、そはのちに考へていふべし、今はまづ、こゝにふるく見えたるところを記すのみなり、菅はらの夏蔭、
p.0987 蛭をつけて血をとる事
今世に、蛭をつけて、惡血をとる療治あり、是を皆人、蘭法といふめれど、肥後の阿蘇あたりの山家にて、腫物の膿血をとるにしかする事あり、こは醫にもよらず、たゞ山奧の民どもの、昔よりおのづから傳へ來りてするわざなれば、皇國の古法なるべし、
p.0987 治 疽方
本草拾遺云、水蛭、人患二 疽毒腫一、取二十餘枚一令レ 、病處無レ不レ差者、〈今案、經心方云、以二水蛭一食二去惡血一、〉
p.0987 水蛭 本草云、水蛭、〈音質、和名比流、〉
p.0987 蛭〈ヒル水蛭〉 水蛭〈同在二水中一〉
p.0987 寬治四年五月廿六日庚寅、余煩二二公一、〈○中略〉令レ飡レ蛭〈○中略〉當日出仕不便、然而王事靡レ盬以二奉公節一、 廿八日壬辰、典藥頭來臨、二公重以飡レ蛭、
p.0987 元永二年六月十四日、近日依二堅根一有二蛭飼事一、
p.0987 大治二年四月廿六日、此十餘日、右腰下有二堅根一、 卅日、今日施藥院使重基、并成世等來、見二此堅根一、令レ飼二蛭五六十許一了、 五月九日、今日依二醫師敎一、又飼蛭三十餘了、已及一三箇度一也、雖レ有二減氣一、誠身力屈了、 二十九日、〈戌申凶會〉右腰下堅根平愈了、從二去月二十六日一、更發、以二蓮柳一洗レ之四箇度、飼蛭療治之間也、及二一月一親老之身神心屈了、
p.0987 寬喜二年五月十日辛丑、昨日猶有二熱氣一、仍齒飼蛭、
p.0988 勘申
御蛭飡吉日
今月廿六日己卯 人神在二胸中一 來月十二日甲午 人神在二左乳一
右御蛭飡吉日、勘申如レ件、
康平四年四月廿四日 權醫博士和氣相秀
p.0988 温石( ヲンジヤク)
p.0988 美濃 温石( ヲンジヤク) 出羽 温石( ヲンジヤク)
p.0988 温石
山東通志曰、出二掖縣一色兼二靑白一、潤膩如レ玉、味甘無レ毒、可レ備二藥物一、日本ニ温石ト云物アリ、白クシテ少靑シ、ヤハラカナリ、是山東通志ニシルセル中華〈ノ〉温石ト同物ナルベシ、冬ハ弓ノ弦折レ易シ、温石ノ末ヲ指ニツケ、弦ヲシゴクニ柔靭ナル事夏月ノ如シ、是温石ノ性熱ナル事可レ知、他石ノ末ヲ用レバ不レ然、温石燒テ鹽水ヲソヽギ、布ニ包ミ痛處ヲ熨スニ尤ヨシ、又腹中ノ積滯ヲ散ズ、燒テ温熱ヲトランタメニハ、他ノ堅石モ可也、サレドモ、温石ノヨキハシカラズ、本草綱目ニ温石ヲノセズ、然レドモ古磚ヲヤク事アリ、是亦温石ナリ、證類本草云、久患二下部冷久痢腹傷一下二白膿一燒二塼并温石一熨及坐レ之並瘥、但取二堅石一燒暖用レ之、非三別有二温石一也、今按、諸本草ニ、日本所レ産ノ温石ヲ不レ載、
p.0988 温石〈天文本和多鈔云、温石温音如レ運、康賴本草に滑石、和名御之也、久とあるはうけがたし。〉延喜式諸國貢藥中に、紀伊國温石、一百二十斤とあり、今名草郡天野莊藤白峠の産上品なり、那賀郡小倉莊上三毛村の産下品なり、〈一説に、温石に熨病の用ありて服餌の方なし、本草和名に滑石出二紀伊國一とあるをみれば、温は滑の誤なるべしといへり、按ずるに、漢土にて温石といふは、一石の名にあらず、唐陳藏器本草拾遣に、久患二下部冷久痢腸腹一下二白膿一燒レ塼并温レ石、熨及坐レ之、並差、但取二堅石一、燒暖用レ之非三別有二温石一也といへり、又本草和名に、温石今燒レ火熨二人腰脚一者也といへるも、拾遺の温石を引るなり、是に據てみれば、温は滑の誤といふ説可なるに似たり、然れども本國にて滑石の産する所いまだ詳ならず、温石は今に多く産して、式に載 するをもて名品とす、若滑の字の誤とするときは、此石を温石といひ始しは、何れの頃か考ふべからず、又一説に式の温石は、此石火に燒き病を熨するに効あれば、拾遺の温石の名を借りて、一名の名となしヽものならんといへり、猶考ふべし、〉
p.0989 温石( ヲンジヤク)
熱海ヨリ出ヅルヲ最トス、自然ニ鹹味ヲ具ス、增、是レ鑛泉中ノ加爾基曹逹等凝結シテ石ニ化シタル也、 之ヲ以テ腹痛、積聚等ヲ熨シテ效アリ、
p.0989 北の方は、かの典藥の事により、起まして部屋の戸引き開けて見たまふに、うつぶしふして、いみじう泣く、いといたしや、などかくはの給ふぞといへば、 胸のいたく侍れば( ○○○○○○○○) と息の下にいふ、あないとをし、物の積かとも、典藥のぬしくすしなり、かいさぐらせ給へといふに、類なくにくし、何か風にこそ侍らめ、くすし入るべき心地しはべらずといへば、〈○中略〉 御燒石( ○○○) あてさせ給はんやと聞ゆれば、よか〈ン〉なりとの給へば、あこぎ典藥にぬしをこそ今は賴み聞えめ、御燒石覓めて奉り給へ、皆人も寐靜まりてあこぎがいはんによもとらせじ、これにてこそ志のありなし見えはじめ給はめといへば、典藥うち笑ひて、さなり殘りの齡少くとも、一すぢに賴み給はヾつかうまつらん、いわ山をもと恩へば、まして燒石はいとやすし、思ひにさし燒きてんといへば、同じくは疾くとせめられてぞ往ににける、
p.0989 湯( タウ) 治
p.0989 幸二于伊豫温湯宮一
〈伊豫國風土記曰、湯郡、大穴持命、見二悔恥一而宿奈毗古那命欲レ活、而大分速見湯自二下樋一持度來、以二宿奈毗古奈命一而浴二瀆者一、蹔間有二活起居一、然詠曰、眞蹔寢哉、踐健跡處、今在二湯中石上一也、 凡湯之貴奇不二( ○○○○○○) 神世時耳一( ○○○○) 、 於二今世一染二疹痾一( ○○○○○○) 、 萬生爲二除病存身要藥一也( ○○○○○○○○○○) 、天皇等於湯幸行降坐五度也、以下大帶日子天皇與二大后八坂入姫命一二軀上爲二一度一也、以下帶中日子天皇與二大后息長帶姫命一二軀上爲二一度也、以二上宮聖德皇一爲二一度一、及侍高麗惠總葛城臣等也、于レ時立二湯岡側碑一、文記云、法興六年十月歳在二丙辰一、我法王大王與二惠總法師、及葛城臣一逍二遙夷與村一、正觀二神井一歎二世妙驗一、欲レ叙レ意聊作二碑文一首一、〉
○按ズルニ、各地温泉場ノ事ハ、地理部温泉篇ニ詳ナリ、今此ニハ只温泉浴法ノ濫觴ヲ示セル ノミ、
p.0990 三津鄕、郡家西南廿五里、大神大穴持命御子、阿遲須枳高日子命、御須髮八握于生、晝夜哭坐之辭不レ通、爾時、祖命、御子乘レ船而、率二巡八十島一宇良加志給鞆、猶不レ止レ哭之、大神夢願給、告二御子之哭由一、夢爾願坐、則夜夢見坐之、御子之辭通、則寤問給、爾時御津申、爾時何處然云問給、卽御祖前立去出坐而、石川度坂上至留申二是處一也、爾時、其津水沼於而 御身沐浴坐( ○○○○○) 故國造神吉事奏、參二向朝延一時、其水沼出而用初也、依レ此、今産婦、彼村稻不レ食、若有二食者一、所レ生子不レ云也、
p.0990 忌部神戸、郡家正西廿一里二百六十歩、國造、神吉詞奏參二向朝廷一時、御沐之忌里、故云二忌部一、即川邊出湯、出湯所レ在、兼二海陸一、仍男女老少、或道路駱驛、或海中沚洲、日集成レ市、繽紛燕樂、一濯則形容端正、再浴則 萬病悉除( ○○○○) 、自レ古至レ今、無レ不レ得レ驗、故俗人曰二神湯一也、
p.0990 幸二于津國有間温湯一
〈攝津國風土記曰、有馬郡又有二鹽之原山一、此近在二 鹽湯一( ○○) 、此邊因以爲レ名、久牟知川、右因レ山爲レ名、山本名二功地山一、昔難波長樂豐前宮御宇天皇世、爲三車駕幸二湯泉一、作二行宮於湯泉一之、于レ時採二材木於久牟和山一、其材木美麗、於レ是勅云、此山有レ功之山、因號二功地山一、俗人彌誤曰二久牟知山一、又曰、始得レ見二鹽湯等一云々、土人云、不レ知二時世之號名一、但知二島大臣蘇我馬子時一耳、〉
p.0990 太政官符 大宰府
應レ聽二往還一某姓某丸向二某國温泉一事
右得二某人解一偁、云々者、某宣、奉レ勅依レ請者、府宜二承知依レ宣施行一、符到奉行、
辨 史
年月日
p.0990 行基菩薩もろ〳〵の病人をたすけんがために、有馬の温泉にむかひ玉ふに、武庫山の中に、壹人の病者ふしたり、上人あはれみをたれて、とひ玉ふやう、汝なにヽよりてか、此山の中にふしたる、病者答ていはく、病身をたすけんために、温泉へむかひ侍る、筋力絶盡て、前途逹 しがたくして、山中にとヾまる、
p.0991 應安七年二月十五日、赴二管領甲第一、領二問政事之要一、余曰、凡政事當二先賞而後罰一、不レ爲二人憂一、則可レ謂二善政一矣、仍乞二 湯醫( ○○) 之暇一、入レ府亦七七日爲二湯醫一、往二熱海一宿二山崖家一、
p.0991 香川修庵〈從子主善〉
香川修德、字太冲、以レ字稱、〈○中略〉於レ是厲レ志專レ精講求、累年著二藥選行餘醫言等書一、以推二衍師説一、醫道益闢、而於二 温泉( ○○) 及灸炳治効一最致レ詳、
p.0991 香川氏曰、温泉不レ熱者無レ益三于病一者、可レ謂二夏虫之見一矣、藝州佐伯群有レ泉曰二水内一、治二腰脚不隨者一有二寄効一、其泉頗冷、秋冬難レ浴、
p.0991 近頃、京都の後藤左一の門人香川太冲のあらはすところの藥選といへる書を見侍りしに、その續編に温泉のことを論じて、温泉、硫黄にて沸くといふ説をうけがはず、稻若水の説を引ておもへらく、地中に水の筋あり、火の筋あり、その火の筋、水筋に出會へば、温泉となるといへり、その説是なることは是なり、しかれ共甚疎なり、まして是游子六の説を拾ひしものにして、若水はじめて唱へし説にはあらず、しかし天經或問は、近頃渡りし書なれば、若水は、萬一これを見ずして、偶その説の暗合せしもしれざれ共、太冲の游子六の説なることをしらずして、若水初て唱へられし説なりとおもへるは、深く考へざるあやまりなり、又太冲の説に、硫黄といふものは、温泉によつて生ずるものなり、硫黄はすなはち是湧泉の發する滓なりといへるは、是又あやまりなり、右にいふごとく、温泉も地中の陽火にて湧き、硫黄も地中の陽火、土中の膏液を蒸しこらすものゆへに、硫黄と温泉とつれそふことはつれそふ理なれ共、必竟ずるところ、温泉は温泉、硫黄は硫黄、たとへば地中の火は母にして、温泉と硫黄は兄弟なるがごとし、故に硫黄温泉を生ずといへるは、もとより非なり、又温泉硫黄を生ずといへるもあやまりなり、それゆへ温泉ある所、硫 黄のなき所もあり、硫黄のある所、温泉のなき所もあり、又いづくにても、海底の泥おほくは硫黄の臭氣をなす、温泉の滓なりとはいわれぬことを知るべし、〈○中略〉
扨温泉のあまり熱きはよろしからず、又ぬるきはもとよりよろしからず、たゞ温柔和煦なるをよしとす、香川太冲の説に、温泉は極熱のものをよしとす、極熱の熱勢、人の元氣を助け、元氣を滾動して、沈痾を起し、癈痼を發すといへるは、笑ふべきの甚しきなり、元氣を助け、元氣を滾動すといへる字を下す事の笑ふべきのみならず、いまだかつて元氣の字義をしらざればなり、しかし元氣の論は、あながちに此書の主とする所にあらざる故に、その説のつまびらかなることはここに略す、温泉の能毒のわかるゝは、あつきとぬるきとによることにあらず、湯筋の差別によることなり、故に極熱の湯にも寒冷の性をそなへし温泉あるべし、煎湯は熱湯にても、石膏の煎湯は寒性なるがごとし、又さまで極熱にてなく共、外の物にそまず、たゞ純陽硫黄の氣ばかりを土中にて觸そゝぎて出來たる温泉ならば、その性温にしてよろしかるべし、故に温泉をゑらぶは、たゞ異氣に染むかそまぬかをとくと吟味し、自然天然うぶのまゝなる水筋の湯硫黄の氣ばかりにふれそゝぎて出來る湯のあつからずぬるからず、身にふれて、温柔和煦既に浴して後、腹藏肌膚、表裏内外、煦々温暖の氣やゝしばしやまざる湯を極上々の良湯とおもふべきなり、筑前の貝原篤信も、熱湯には浴すべからず、温なるをよしとすといへり、此ことはよしとすべし、
p.0992 山村通庵〈○中略〉
重高通稱右一郎、〈號二通庵一〉伊勢松阪人、重高以二灼艾一門師説巳備一、已更欲レ試二温泉之効一、遍二歴諸州一、親驗二其氣味主能一、既曰、但馬城崎、上野草津、其功相敵、均爲二天下第一湯一、但路程悠遠、或有二難レ往者一、於レ是 剏レ意製レ湯( ○○○○) 、方用二潮水五斗硫黄六百錢糠一斗一囊盛、先以二潮水二斗一煎レ糠、以二糠赤色一爲レ度、去レ滓内二硫黄一、浴日三、漸内二潮水一、冬月旬餘一改、夏月四五日傾二去上水一、更加二新潮一、用二硫黄糠本量之半一、無二潮水一則以二鹽五升一和レ水、 湯成而試、 効功不レ異二二泉一( ○○○○○○) 、
p.0993 鹽湯治( ○○○) 同村〈○大野〉海音寺西北の方に當る海濱は、巖石多くありて、暑氣の頃は遠近の諸人、此海濱に出で、潮水に浴し、しかしては又巖上に憇ひなど、終日に幾度も出没する事、五日七日する時は、あらゆる諸病を治す、是を世に大野の鹽湯治といふ、かく暑月には、浴湯する群集夥しくて、數多の旅亭、家ごとに二百人三百人を宿し、他の温泉も、かくまで諸人の輻湊するを聞ず、又中人以上は、旅館に此海潮を汲とらせ、再び湧して浴するもあり、しかれども、其効海中に身を涵せるには少し劣れりとぞ、又浴湯の暇には、此海中にて捕る所の鮮魚を、飽までに食しつゝ、枯腸を潤し、虚弱を補ふも、又治療の一助なるよし、猶此濱に溢れたるは、東浦、其外所々に浴するあれば、其繁昌推て知るべし、
p.0993 <ruby><rb> 風呂〈○中略〉藥のためにする湯は、病者發汗せむとて湯に入ることあり、榮花物語、〈本雫〉〈卷〉御風にやとて、ゆでさせ給ひて云々、此外の卷にも見えたり、〈字鏡に、煠以レ菜入レ湯云々、奈由豆とあり、其ごとく入しむをいふ、〉庭訓に、五木八草湯治風呂、是は本草に見えたる 藥湯( ○○) なり、貞德文集、霜月の文に、貴殿御望み桑風呂焚可レ申候、狂言咄〈五〉、八瀨の釜風呂は、都がたの人わづらひ有もの、絶えず入侍り、極て効あり、黑木という物をふすべける次でに、釜ぶろをたつるに、生木を燒て、その氣をうくる、誠に人身に藥なるべし、
p.0993 大將殿〈○藤原賴通〉日比、御心ちなやましくおぼさる、 御風( ○○) などにやとて、 御ゆゆで( ○○○○) せさせ給、ほをきこしめし、御讀經の僧ども、番かゝずつかうまつるべくの給はせ、〈○下略〉
p.0993 ゆゆで
榮花物語月宴に、九條殿なやましうおぼされて、御かぜなどいひて、おほむゆゆでなどして、くすりきこしめして云々、此風のこゝちに、ゆゆでするといへるは、いかさまにするにか、醫法に ある事にや、尋ぬべし、源氏物語などにはなき詞なり、狹衣に、雪やけに、あしもはれてなやましうおぼさるれば、ゆでつくろひなどして、あるきなどもし給はずと云々、これは足の痛に、湯でする事、今もする事なり、杉をせんじてする事もあるべし、
p.0994 天永三年十月二日、今日大宮右大臣殿御忌日也、仍於二一條堂一被レ行二講説一、予俄 病レ胸湯治( ○○○○) 之間不二行向一也、
p.0994 嘉應三年〈○承安元年〉二月十八日癸亥、醫師定成來問二湯治事等一、明日雖二吉日一黄帝之死日也、是重忌レ之、來二十五日爲二上吉日一、然而及二彼日一者有二懈怠之咎一、仍尚自二明日一始二 水湯( ○○) 一、至二二十五日一可レ始二 潮湯一( ○○) 云々、二十四日己巳、定成來、問二湯治事一、所勞之體、尚脚氣風病令レ然歟、試二今一兩日一可レ始二水湯一、自二來月二三日之間一可レ浴二潮湯一云々、
p.0994 康永三年十月八日、予自二今日一浴二潮湯一、仰二鳥養牧雜掌良兼法師一令レ汲也、
p.0994 三月二十六日、讃岐國鹽飽の地頭駿河權守高階保遠入道西忍が館につき給ひにけり、〈○中略〉上人〈○法然〉入御ありければ、この事なりけりと思ひあはせけり、 藥湯( ○○) をまふけ、美膳をとゝのへ、さま〴〵にもてなしたてまつる、
p.0994 杉湯〈○中略〉
續門葉集〈雜上〉云、大藏卿隆博、藥湯のために、杉の葉をこひ侍りける返事にそへ侍りける、法印公紹、君がとふしるしとも又なりにけり杉のみたてる秋の山本、又按ずるに、藥湯のためにとあれば、これも脚氣ゆでん料にや、
p.0994 大齋院〈○選子内親王〉御あしなやませ給を、 すぎのゆ( ○○○○) にてゆでさせ給べきよし申ければ、ゆでさせ給へどしるしも見えざりければ、 齋院宰相
あしひきのやまひもやまずみゆる哉しるしの杉とたれかいひけん
p.0995 脚氣に、杉の洗藥は、蘇敬に初り、丹溪も用ひき、證によりて効なき事もあるべし、
p.0995 くこの湯( ○○○○) あむる日
正月二日 二月三日 三月六日 四月四日 五月一日 六月二十一日 七月七日 八月八日 九月二十日 十月八日 十一月二十日 十二月三十日
この日ごとに、くこをゆに入てあむれば、色あはひよくなりて、おいにやまひせず、
p.0995 又〈○南留別志〉源氏物語をみれば、病に藥用る事はすくなくて、大形は祈禱をのみしたるやうなり、今も田舍のものはかくの如し、鬼を尊べる風俗の弊なるべしと有、延喜式、政事要略などをみるに、むかしとても病には必醫藥をもはらにせし事なり、源氏物語をふとうちよみて、藥を用る事なしとはいひ難し、葵卷に、いざや聞えまほしき事いと多かれど、またいとたゆげにおぼしためればとて、 御ゆ( ○○) まゐれなどさへあつかひ聞え給ふを云々、柏木の卷に、宮はさばかりひはつなる御さまにて、いとむくつけう、ならはぬ事のおそろしうおぼされけるに、 御ゆ( ○○) などもきこしめさず、身の心うき事を、かゝるにつけてもおぼしいれば、さばれ此ついでにもしなばやとおぼすとある、御ゆは藥なり、これ卷々に多かり、そのかみは驗者のいのりにて病の癒し事なれば、鬼を尚べる弊風俗ともいひがたし、畢竟は醫といふもまじなひ也、毉といふ字の巫に從へるはまじなひなる故なり、丹波康世の毉鍼法をみるに、多く千金方によりて、方ごとに呪文有、令にも典藥寮に、呪禁師、呪禁博士、呪禁生ありて、まじなひて病を療す、此呪禁は、唐書百官志にも有、皇國のみ鬼を尚ぶ弊風なるにはあらず、
p.0995 服藥節度第三〈○中略〉
本草經云、治レ寒以二熱藥一、治レ熱以二寒藥一、飮食不レ消、以二吐下藥一、鬼注蠱毒以二毒藥一、癰腫瘡瘤以二瘡藥一、風濕以二風濕藥一、各隨二其所一レ宜、 又云、病在二胸膈以上一者、先レ食後二服藥一、病在二心腹以下一、先二服藥一而後レ食、病在二四支血脈一 者、宜二空腹而在一レ旦、病在二骨髓一者、宜二飽滿而在一レ夜、
p.0996 一週
今俗病之劇愈、藥之驗否、皆預期以二七日一、謂二之一週一、按二郞仁寶七修類藁一云、天之所二以爲一レ天、不レ過三二氣五行化二生萬物一、名曰二七政一、人之所二以爲一レ生亦不レ過下陰陽五常之氣行於二六脈一見上レ之、名曰二七情一、天之道惟七、而氣至二六日一有レ餘、〈氣盈朔虚推二算時刻一〉則爲二一候一、故天道七日來復、人身之氣惟七、六日而行二十二經一〈一日行二兩經一〉有レ餘、故人之疾、至二七日一輕重判焉、
p.0996 斷食して服藥の事、釋迦如來の病を療る方也、七ケ日斷食にて藥を飮み、七ケ日後は生死によらず藥を用ひずと、佛經に説給ふとかや、今世も、律僧の正しき人は、長病なれば、七ケ日服藥し、八日目一日休藥して、又服藥す、七日々々に一日づゝ休み、藥用するよしを聞り、此斷食して服藥の方、藥治より萬病に最上の藥なり、痢病食傷、蟲症、泄瀉、腹痛、積聚、嘔吐の類の病には、別して驗し多し、既に大七氣湯などは、絶食にして用ゆべしと古人も云へり、予〈○小川顯道〉しば〳〵効驗を得たる事なり、疑ふべからず、
p.0996 針灸服藥吉凶日第七
服藥頌 新羅法師方云、凡服藥呪曰、
南无東方藥師瑠璃光佛、藥王藥上菩薩、耆婆醫王、雪山童子、惠レ施阿竭以療者邪氣消除、善神扶助、五藏平和、六府調順、七十萬脈、自然通張、四體強健、壽命延長、行住座臥、諸天衞護、莎訶〈向レ東誦一遍、乃服レ藥、〉
p.0996 服藥法第十
藥ヲ服スル時ノ呪
南無東方藥師瑠璃光佛、藥王、藥上、耆婆醫王、雪山童子云々、東向テ一返誦テ、後藥ヲ服スベシ、
又云、凡藥ヲ服スルモノハ、必ズ意ヲ正シ、信ヲ深クシテ、疑ヲ成、他念ヲ成事勿レ、但其藥ノ口ニ入 テ、痛病ヲ消コトハ、沸湯ヲ氷雪ニ 沃( イル) ガ如ト思フベシ、如レ此信ズル者ハ、其病立處ニ愈ズト云コトナシト云也、
p.0997 針灸服藥吉凶日第七
合服醫忌日 大淸經云、正月亥、二月寅、三月巳、四月亥、〈一日申〉五月亥、六月寅、七月巳、八月申、九月亥、十月寅、十一月巳、〈一日申〉十二月申、 右日常不レ可レ和二長生藥一、
又云六絶日、正月辰、二月卯、三月寅、四月丑、五月子、六月亥、七月戌、八月酉、九月申、十月未、十一月午、十二月巳、 右日不レ可二服藥治病一
p.0997 針灸服藥吉凶日第七
今案、凡甲子、丙子、戊子、壬子、丙午、庚午、壬午、甲戌、丙戌、壬戌、乙巳、丁巳、乙亥、丁丑、辛亥、己丑、辛丑、癸丑、癸卯、
今撿件日 避二諸禁一( ○○○) 、 合藥服藥針灸治病( ○○○○○○○○) 皆吉、但 可レ避二( ○○) 節氣月忌、并 生年衰日等一( ○○○○○) 、
p.0997 衰病日、〈初六、中八、下四九、六日、十八日、廿四、廿九、〉此日不二服藥一、
p.0997 養和二年〈○壽永元年〉正月一日壬申、例講、師忠云、律師 依レ爲二喪家之内一( ○○○○○○) 、不レ見レ鏡、 不レ服レ藥( ○○○) 、依二長元元年經賴記一也、
p.0997 凡造二御膳一、誤犯二食禁一者、典膳徒三年、〈謂造二御膳一者皆依二食經一、經有二禁忌一、不レ得二輙造一、若乾脯不レ得レ入二黍米中一、莧菜不レ得レ和二鼈肉一之類、有レ所レ犯者、典膳徒三年、〉
p.0997 服藥禁第十一
凡藥ヲ服テハ、諸ノ滑物、及油物、冷物、酢物ヲ不レ可レ食、 又云、蒜猪肉魚膾ヲ不レ可レ食、 又云、産婦淹穢事ヲ忌ベシ、 又云、石榴ヲ不レ可レ食、房室ヲ絶ヲ爲レ上、 又云、蘘荷ヲ不レ可レ食、藥ノ勢ヲ損ズ、 又云、鹿肉不レ可レ食、藥ヲ服スルニ不レ得レ力、鹿ハ恒ニ毒ヲ解ク草ヲ食、以レ此故ニ、能諸藥ヲ制散ス、
p.0997 徂徠が病中
荻生茂卿が病中に、松岡玄逹成章といふくすしより、藥を贈る時の包紙に、調合進申芍藥湯、生姜一片煎如レ常、平生食物肝要事、唯許三牛旁與二大根一とかきたり、おもしろき詩なり、初句と結句とを代ふれば、いづれの病、何の藥にも用ひらるべき詩なり、
p.0998 産家の禁食
産婦は、總て産前より産後を謹むべし、〈○中略〉貝原氏も、産後に藷蕷を食はする事を忌むと云、余試るに、果して血を崩して死を致す、是れに因て考るに、藷蕷は本と山生の物にて、何ほどの堅き土の底までも深く入りて、每年新根を生じ、舊根は朽るも、百年を經て枯盡る事なし、其蔓も數丈を引て、水旱の難をいとはず、是れ本より性氣強き草故なり、是れを以て、山藥とて、癆瘵等の補益の效あり、其性氣強き者を、弱き腹中に食すれば、益なふして返て損する事しかり、其味淡く軟虚なるを以て與ふ、本が性分強き效ありて、返て血崩する理を考ふる人なし、必しも多く與ふる事なかれ、又朝鮮の婦人、長崎に來て産す、即椎菌三斤を請ふ、是を日々産婦に與ふ、朝鮮の國風皆しかりと云、本國に在て、自由なれば、尚又五斤も與へたしと云、余嘗て云く、凡菌類は濕熱裏蒸して、無形より有形の物となる、故に濕物にて、病家尤忌むべき者なり、余隅州の霧島山に行て、椎の木を切て、菌を作る所に至て見るに、男女老弱の別なく、皆黴瘡を患ふ、皆傳染にあらず、山氣にて、自然に發すと云、山氣もあれども、朝夕の食物に、此菌を食す、是れ内に濕氣を貯ふ故に、此瘡を生ず、此山民に、其故を尋るに、菌の故にあらずと云、其朝鮮の婦人、此濕物を、産後に數斤を服するは、皆後患になるべし、越後の鱅の如し、是等は理外にて、理を以て論ずべからず、只土風のしからしむるは、敎への及ぶ所にあらず、其毒に中りて死す、其毒に非ず、天命とす、肥前の島原の人、一日に三度河豚を食す、一度食せざれば、勢氣大に減じたりと云、しかれども此等は其毒を爲して、後患となる事は希なり、都下の人の如きは、日々過食して、日に疾病となる、天年の數を縮る事をしらず、此 人に限て、無益に日を送る、酒中の仙と云人には至らずとも、酒德を樂で、酒毒に苦しめらるゝ事なかれ、
p.0999 天文四年十月十三日辛丑、氏直御脈參、聊得レ減、〈 藥代給レ之( ○○○○) 〉
p.0999 余〈○永富鳳介〉嘗問二山東洋一曰、吾事レ君三年、技不レ進何故、山子曰、吾子須三多讀二古書一、與二古人一晤言、以蕩二除胸間之汚穢一、余當時汎然聞レ之、未三甚得二其意一、爾後十餘年周二游海内一、以試二斯技一、始知三榮辱悲歡之心妨二診候處療之機一、因意先輩任誕橫逸、不レ屑二世紛一者、蓋有レ故、今録二其三四一焉、中古有二隱士德本者一、甲斐人也、常驅二使峻劇之藥一、未二嘗誤一レ人、頸掛二一囊一周二流諸州一、應二病者一賣レ藥、取レ價 每貼十八錢( ○○○○○) 、台廟〈○德川秀忠〉有レ病、徴治得レ痊、乃亦乞二定價於政府一而去、
p.0999 渡邊大隅守、江戸町奉行ノ時、醫師ト、ライ病人ノ論有、醫師云ニハ、金五兩ニテ、ライ病ノ療治ヲ請合テ直シ候ヘドモ、未ダ金子渡シ申サズト、ライ病人云ニハ、金五兩ニテ療治ハ賴ミ候ヘドモ、全快ノ上、金子渡スベキ約定ニ候、然ニ、ヨキ方ニハ相成候ヘドモ、未ダ全快ハ仕ラズ候ニ付、金子渡シ申サズト云、大隅守、其者ノ面體ヲ見ラルヽニ、腐レ爛レテハ有ラザレド、中々全快トハ見ヘザレバ、其方、未ダ全快ハ仕ラズトイヘド、醫者申ニハ、直シタリト云、然ラバ約定通リ、金子相渡スベシト云、ライ病人答テ、醫師直シタリト申トモ、又全快仕候ニモセヨ、久々病氣ニテ、家業モ相休ミ居リ候ヘバ、只今、至テ困窮仕リ居リ候ニ付、金子ノ儀ハ、中々デキ申サズ候ト云、大隅守、久々煩ヒ、家業相休、困窮ニ及ビ、金子デキズト云ハ、至極尤ナレド、約定ノ事ナレバ、渡サザル時ハ、僞リニ成リ候ニ付、相濟ズ候間、其方、奉公住ミ致シ、其給金ヲ以、醫師ノ藥禮追々ニ成トモ皆濟セ申ベシト云、ライ病人答テ、カ樣ナ病有ル者、誰カ抱ヘ申サント云、大隅守、醫師ニ向テ、其方此者ノ惡病ヲ直シ候ト申カラハ、金子ヲ受取ラズハ、承知ハスベカラジ、サレド困窮ニ及ビ、金子デキズト申ケレバ、其方、此者ノ請人ニ立、何方ヘ成リトモ、奉公ニ遣ハシ、其給金ヲ藥禮ノ代リニ、追 追ニ、其方受取申ベシト云、醫師答テ、カヽル穢ハ敷面體ノ者、召仕フ人、何方ニモ有ベカラジト云、此時大隅守、醫師ヲハツタト白眼テ、其方、最初ハ、ライ病ヲ直シタリト云ヒ、今又カヽル穢ハ敷面體ト云事、其意ヲ得ズ、直セシ者ナラバ、ケガラハ敷ハ見ヘザルベシ、ケガラハ敷見ユレバ、直セシニハ有ラザルベシ、其方心底ハ、病人、追々困窮ニ成ルヲ見テ、早ク金子ヲ取テ仕舞ント思ヒ、未ダ直シキラザルニ、直シタリトシテ、金子ヲ取ント思ヒシヨリ、カク奉行所ヘ訴ヘ出シナルベシ、醫師ヲ業トシナガラ醫師ノ本意ニ違ヘル不屆者メ、強ヒテ申立ルニ於テハ、急度申付方有ルゾト叱リテ、名主五人組ヘ預ケ歸サレケル、
p.1000 養生方
久行傷レ筋 久立傷レ節 久聽傷レ聰 久視傷レ目 久語 レ氣 大驚傷レ魂 高枕勿レ唾 〈大小便時勿レ瞻二曜宿一〉
正勿レ向レ西 正勿レ向レ北 臥勿二燈明一 脱レ衣勿レ汗 冬可レ凍レ聰 亦可レ温レ足 〈春與レ秋則首足倶凍〉 〈好勿二竭レ精觸二若女膚一〉
晨勿二歌嘯一 眠勿二大語一 臥勿レ覆レ頭 臥勿レ開レ口 夜勿レ説レ夢 夜行鳴レ齒 大便勿レ呼 少便勿レ怒
不レ進三陰物 猪與二 胎( ホンタイ) 鹿茸水銀一 亦勿レ食レ蕨 勿レ食二鼠殘一 臥眠時不レ得二歌詠一
〈凡旦起、恒言二善事一者、天自與レ福、冬凍レ聰温レ足、春秋首足倶凍、此聖人之常法也、〉
p.1000 養生 かくふるまへば、病なく命ながし、
人は、いたくやすらかなるべからず、つねに物をすべし、またいたくくるしくは思ふべからず、いづれもあし、つねにかゞみをみよ、たゞしかたちをあひすべからず、あつきをりにありきをして水にむかふべからず、おほきにあせにあへたらば、身にはうにをぬるべし、あせにぬれたらんきぬをばとくきかへよ、あしにあせあへたらば、水になさしいれそ、冬はあしをあたゝかにして、かしらをすゞしくすべし、春秋はかしらもともにすゞしくすべし、
p.1000 大體第一
千金方云、夫養生也者、欲レ使二習以レ性成一成自爲レ善、不レ習無レ利也、性既自善、内外百病皆悉不レ生、禍亂災害亦無レ由レ作、此其養生之大經也、蓋養性者、時則治二未レ病之病一其義也、故養性者不二但餌レ藥喰一レ霞、其在レ兼二於百行一、百行周備、雖レ絶二藥餌一足二以遐年一、德行不レ充、縱玉酒金丹未レ能レ延レ壽、故老子曰、善攝レ生者、陸行不レ畏二虎兕一、此則道德之祐也、豈假二服餌一而祈二遐年一哉、 文子云、太上養レ神、其次養レ形、神淸意平、百節皆寧養生之本也、肥肌膚充、腹傷開二嗜欲一養生之末也、
p.1001 服藥節度第三〈○中略〉
養生要集云、張仲景曰、人體平和、唯好自 將養勿二妄服一レ藥( ○○○○○○) 、藥勢偏有レ所レ助、則令二人藏氣不一レ平、易レ受二外患一、唯斷レ穀者可二恒將一レ藥耳、
p.1001 隨身要驗方〈件方本朝所レ抄也、七卷云々、〉
思邈論曰、人年卌以上、勿レ服二寫藥一、恒用二補藥一、 敬二佛道諸王天上之主一治十或百、或不レ爲二十惡一、此即永无二萬病一、〈出二耆婆一〉 凡人无レ問二有レ事无一レ事、恒須四日別一度、遣三人踏二背及四支頭頂一、若令レ熱蹋二風氣一、時行不レ能レ著レ人、此大要妙不レ可二具論一、
p.1001 上古の人は無爲無事にして、自然に養生の道に合す、中古にいたりて人の智慧盛にして、善惡をわかち名利を專とし、衣服をかざり、酒色をこのみ、形神を勞す、故に天年をつくさずしてはやくほろぶ、黄帝の時さへかくのごとし、いはんや今の世をや、道に入といひて、あながち山林に入、世を離るのみにあらず、朝夕世俗にまじはりても、言行さへ道にかなひぬれば、すなはち道に入人なり、少壯の時より常に道をきかば、いかでか道にいたらざらむ、しかるに養生の道、ひろく云ば千言萬句、約していゑば惟これ三事のみ、養二神氣一、遠二色慾一、節二飮食一也、此事易簡なれども人これをきかず、もし聞人あれども其身に行ふことなし、少壯の時血氣盛實なるゆへに、酒色を恣にし身心を勞しても、たち所に病にいたらざるによて、壽算の損減するをしらず、中年の後漸お ぼえて命をのべん事を求む、日暮て道をいそぐにことならず、人の壽をいふに、天元六十、地元六十、人元六十、三六百八十年の壽を生れ得るといへども、攝養道にたがひぬれば、日々月々に損減して夭枉をいたす、精氣かたからざるものは天元の壽減ず、起居時あらず喜怒常ならざる者は地元の壽減ず、飮食節あらざる者は人元の壽減ず、故に保養の道少より壯にいたり、壯より老にいたるまでかくべからず、聖人治二未亂一而不レ治二已亂一、治二未病一而不レ治二已病一云々、既に病となりて後は、よく醫療すといへども、全くいゆる事かたし、未病の時治療するを養生者といふべし、孫眞人云、人年四十以後、美藥當レ不レ離二於身一云々、誠に中年の後は、氣血をやしなふ藥常にもちふべし、但平補の藥食を用べし、峻補を用ふべからず、又強て補藥をこのむべからず、藥は邪をせめ、かたぶく所を平にする者也、生れづかざる氣力を藥にて生ずる事、風なきに波を起すなるべし、洞神眞經曰、養生以二不損一爲二延年之術一云々、補陽の劑を過し用れば、眞陰耗減して、瘡瘍淋湯の疾生ず、補陰の劑を過し用れば、胃の氣虚冷して飮食消しがたく、大小便たもちがかし、又衆病積聚起二於虚一云々、中下焦虚するによて、心腹滿悶する事あり、しかるに虫を殺し積を消す事、藥お用て重て中氣を耗損す、又すこし風寒の邪に感じて、發散の藥お服する事度々に及べば、腠理空疎にして、自汗盜汗出て、外邪いよ〳〵入やすし、又をもく邪に感ぜば、皮膚にある時はやく藥を服して汗を發すべきに、其時怠て病骨髓に入て後藥を求む、十に一も愈事なし、扁鵲桓公の故事思あはすべし、只邪の輕重をわかたん事を要とす、
p.1002 養生の術は、先己が身をそこなふ物を去べし、身をそこなふ物は、内慾と外邪となり、内慾とは、飮食の慾、好色の慾、睡の慾、言語をほしゐまゝにするの慾と、喜怒憂思悲恐驚の七情の慾を云、外邪とは、天の四氣なり、風寒暑濕を云、内慾をこらゑてすくなくし、外邪をおそれてふせぐ、是を以元氣をそこなはず、病なくして、天年を永くたもつべし、
p.1003 或人曰く、城の白河の山裏に、巖居せる者あり、世人是を名けて白幽先生と云ふ、〈○中略〉予則ち禮を盡して、苦ろに病因を告げ、且ツ救ひを請ふ、少焉幽眼を開ひて熟々視て、徐々として告げて曰く、〈○中略〉夫觀は無觀を以て正觀とす、多觀の者を邪觀とす、向きに公多觀を以て、此重症を見る、今是を救ふに無觀を以てす、また可ならずや、公若し心炎意火を收めて、丹田及び足心の間におかば、胸膈自然に淸凉にして、一點の計較思想なく、一滴の識浪情波なけん、是眞觀淸淨觀なり、云ふ事なかれ、しばらく禪觀を 下せんと、佛の言はく、心を足心におさめて、能く百一の病を治すと、阿含に酥を用るの法あり、心の勞疲を救ふ事尤妙なり、天台の摩訶止觀に、病因を論ずる事甚だ盡せり、治法を説く事も、亦甚だ精密なり、十二種の息あり、よく衆病を治す、臍輪を縁して豆子を見るの法あり、其大意心火を降下して、丹田及び足心に收るを以て至要とす、但病を治するのみにあらず、大ひに禪觀を助すく、蓋し繫縁締眞の二止あり、締眞は實相の圓觀、繫縁は心氣を臍輪氣海丹田の間に收め守るを以て第一とす、行者是を用るに大ひに利あり、古しへ永平の開祖師大宋に入て、如淨を天童に拜す、師一日密室に入て益を請ふ、淨曰く元子坐禪の時き、心を左の掌の上におくべしと、是即ち顗師の謂ゆる繫縁止の大略なり、顗師初め此の繫縁内觀の秘訣を敎へて、其家兄鎭愼が重痾を萬死の中に助け救ひたまふ事は、精しくは小止觀の中に説けり、また白雲和尚曰く、我つねに心をして腔子の中に充たしむ、徒を匡し衆を領し、賓を接し、機に應じ、及び小參普説七縱八橫の間において、是を用ひてつくる事なし、老來殊に利益多き事を覺ふと、寔に貴ぶべし、是蓋し素問にみゆる、恬澹虚無なれば、眞氣是にしたがふ、精神内に守らば、病何れより來らむといふ語に本づき給ふ者ならむか、且ツ夫内に守るの要、元氣をして一身の中に充塞せしめ、三百六十の骨節、八萬四千の毛竅、一毫髮ばかりも欠缺の處なからしめん事を要す、これ生を養ふ至要なる事を知るべし、彭祖が曰く、和神導氣の法、當さに深く密室を鎖ざし、牀 を案じ、席を煖め、枕の高かさ二寸半、正身偃臥し瞑目して、心氣を胸膈の中に閉ざし、鴻毛を以て鼻上につけて、動かざる事三百息を經て、耳聞處なく、目見る處なく、斯の如くなる則は、寒暑も侵かす事能はず、蜂蠆も毒する事能はず、壽き三百六十歳、是眞人に近かしと、又蘇内翰が曰く、已に飢へて、方に食し、未だ飽ずして先止む、散歩逍遙して務めて腹をして空からしめ、腹の空なる時に當て、即ち靜室に入り、端坐默然して出入の息を數へよ、一息よりかぞへて十に到り、十より數へて百に至り、百ゟ數へ放ち、去て千に至りて、此身兀然として、此心寂然たる事、虚空と等し、斯のごとくなる事久ふして一息おのづから止まる、出でず入らざる時、此息八萬四千の毛竅の中より雲蒸し、霧起るが如く、無始刧來の諸病自ら除き、諸障自然に除滅する事を明悟せん、譬へば盲人の忽然として眼を開くが如けん、此時人に尋ねて、路頭を指す事を用ひず、只要す、尋常言語を省略して、爾ぢの元氣を長養せん事を、是故に云ふ、目力を養ふ者は常に瞑し、耳根を養ふ者は常に飽き、心氣を養ふ者は常に默すと、予が曰く、酥を用るの法得て聞ひつべしや、幽が曰く、行者定中四大調和せず、身心ともに勞疲する事を覺せば、心を起して應さに此想を成すべし、譬へば色香淸淨の輭蘇鴨卵の大ひさの如くなる者、頂上に頓在せんに、其氣味微妙にして、遍く頭顱の間をうるをし、浸々として潤下し來て、兩肩及び雙臂兩乳胸膈の間、肺肝腸胃脊梁臀骨次第に沾注し、將ち去る、此時に當て胸中の五積六聚疝癖、塊痛、心に隨て降下する事、水の下につくがごとく、瀝々として聲あり、遍身を周流し、雙脚を温潤し、足心に至て即ち止む、行者再び應さに此觀を成すべし、彼の浸々として潤下する所の餘流積もり湛へて暖め蘸す事、恰も世の良醫の種々妙香の藥物を集め、是を煎湯して浴盤の中に盛り湛へて、我が臍輪已下を漬け蘸すが如し、此觀をなすとき、唯心所現の故に鼻根乍ち希有の香氣を聞き、身根俄かに妙好の輭觸を受く、身心調適なる事、二三十歳の時には遙かに勝れり、此時に當て積聚を消融し、腸胃を調和し、覺へず肌膚光澤 を生ず、若し其勤めて怠らずんば、何れの病か治せざらむ、何れの德かつまざらん、何れの仙か成せざる、何れの道か成せざる、其功驗の遲速は、行人の進修の精麁によるらくのみ、〈○下略〉
p.1005 古人之用レ藥治レ病、惟用二一藥一、或用二二三味一、品數不レ多、故治レ病專一有レ功、病去則捨レ藥不レ用、唯穀肉菜果保二養之一而已矣、是於二攝生之理一爲レ得レ宜、夫藥物皆是偏勝之氣、雖二參茋朮甘一、無レ病則不レ可レ用、況其餘麁糲剛烈之物乎、後世用二藥品一數多、每至二十五六味一、攻補兼用、寒温雜施、故藥力不レ專、治レ病少レ效、少レ效則用レ藥日久、其偏勝之氣積久、而傷二胃氣一不レ少、不レ知二不レ用レ藥之爲一レ勝也、
p.1005 服藥駐老驗記〈善家異記〉
竹田千繼者、山城國愛宕郡人也、寶龜初歳、十七入二典藥一爲二醫生一、讀二本草經一至二于枸杞駐レ老延レ齡之文一、深以誦憶、將レ試二其徴驗一、乃買二地二段一多種二此藥一、春夏服二其藥一、秋冬食二其根一、又常煮二莖根一取レ汁釀レ酒而飮レ之、每有二沐浴一必用二其水一、如レ此七十餘年、未二嘗懈倦一、顏色服壯、猶如二少年一、齊衡二年、文德天皇忽患二疲羸一、衆醫供二石決明酒一、時侍臣或奏下千繼服二枸杞一駐レ老之状上、天皇大駭、即時召見、問云、汝生年幾許、千繼奏云、天平寶字九年歳次庚子生、至二今年一九十七天皇大恠、令三侍臣驗二視其形一、鬢髮黑、肌膚肥澤、耳目聰明、齒牙无レ蠧、天皇感服擢爲二典藥允一、即勅藥園多種二枸杞一、令二千繼掌一レ事、〈○中略〉
寬平年中、有二外從五位下春海貞吉一、舊是唐儛師也、次爲二雅樂助一、遂預二五品一、屢到二余舍一展二話中懷一、底裏披露無レ有レ所レ隱、時余年四十有五、白髮滿頭、貞吉深有二助憂之色一、語曰、何不レ服二枸杞一、招二此衰羸一、余答云、枸杞駐老之驗具在二醫方一、然而丘未レ逹、不二敢嘗一レ之、乞略二陳其方一、貞吉答云、僕昔者年廿六、大同元年以二由基所風俗儛勞一爲二左近衞一、其後依二醫人語一播二植枸杞方一町之地一、無レ有二他種一、水漿食飮必合二此藥一、盟洗沐浴常用二其水一、故今年一百十六歳、猶有二少容一、亦説二其養生之法一、事多不レ載、貞吉寬平九年夏訪二問親知疫病一遭二染注一、俄卒、時年百十九、又致仕大納言藤原冬緖、服二 露蜂房一( ○○○) 兼呑二槐子一、年過二八十一頭髮無レ白、不レ斷二房室一、寬平二年薨、時年八十四、近代有二宮内卿十世王一、二品長野親王之男也、臨レ老無レ齒不レ能レ啖二蕗菜一、唯以レ漿飮二 送乾石決明屑一、氣色服壯鬢髮無レ白、延喜十六年夏薨、時年八十五、東宮學士大藏善行、舊是國子進士也、仕二歴顯職一、爵至二四品一、常服二鐘乳丸一、一日一丸、年滿二九十一猶有二壯容一、耳目聰明、行歩輕健、家蓄二多婦一不レ斷二房室一、年八十有七、生二一男兒一、
p.1006 嘉祥三年三月癸卯、帝〈○仁明〉從二少小一聖體尫羸、然而負 之年既登二十八一、仙齡之算亦踰二四十一求二諸中古一應レ无二慙德一、蓋由二 修レ善行レ仁( ○○○○) 、 服食( ○○) 、 補養之力一( ○○○○) 者歟、
p.1006 江村專齋〈○中略〉
專齋自二少壯一務爲二修養一、齒過二九十一、視聽不レ衰、無下與二少壯時一異上矣、後水尾上皇聞レ之、召見問二修養之術一、專齋奏曰、臣固無二他術一、平生唯 持二一些字一耳( ○○○○○) 、上皇問レ故、曰喫レ食些、思慮些、養レ生亦些耳、上皇大感二賞之一、
p.1006 徂徠先生甚重レ生、自二飮食居處一以至二出入動止、賓客應接之事一、苟可二以傷一レ生者斷弗レ爲也、然其所二以病死一者、乃以二 思慮過度一( ○○○○) 也、蓋先生有レ志二于功名一、自レ少以二著述一爲レ事、年過二六十一、舊痾數發、而猶不レ能二淸心靜養一、遂致二篤疾一而死、謝在杭云、思慮之害レ人、甚レ與二酒色一誠矣、
p.1006 余〈○太宰春臺〉平日、於二都下一有レ故、與二俗人惡客一對坐終日、或侍二坐於諸侯貴人一半日、則小腹痛引二陰囊道一不レ利、歸レ宿乃已、蓋氣病也、及レ遊二秩父一踐二履山川一旬有五日、日行五六十里、至二一百里一勞矣、然微恙不レ作、身體康健、有レ異二於常一、氣和也、是知二 人之氣不一レ可レ鬱( ○○○○○○) 、而體以二運動一和( ○○○○○) 也、世之逸居者、宜乎善病、古人謂、宴安 毒誠哉、
p.1006 太宰大監大伴宿禰百代等贈驛使歌〈○中略〉
以二歬天平二年庚午夏六月一、帥大伴卿忽生二瘡脚疾一、苦二枕席一、因レ此馳レ驛上奏、望請、庶弟稻公、姪胡麻呂欲レ語二遺言一者、勅右兵庫助大伴宿禰稻公、治部少丞大伴宿禰胡麻呂、兩人給レ驛發遣、 令レ看二卿病一( ○○○○) 、而 二數旬一幸得二平復一、于レ時稻公等以二病既療一、發レ府上京、於レ是大監大伴宿禰百代、少典山口忌寸若麻呂、及卿男家持等相二送驛使一、共到二夷守驛家一、聊飮悲別、乃作二此歌一、〈○歌略〉
p.1007 天平九年十二月丙寅、是日、皇太夫人藤原氏〈○聖武生母宮子娘〉就二皇后宮一〈○宮子娘妹安宿娘〉見二僧正玄昉法師一、天皇亦幸二皇后宮一、皇太夫人爲下沈二幽憂一久廢中人事上、自レ誕二天皇一未二曾相見一、法師一看、惠然開晤、至レ是適與二天皇一相見、天下莫レ不二慶賀一、
p.1007 文武藤原皇后、諱宮子娘、〈○中略〉生二聖武帝一、〈○中略〉聖武帝即位、尊曰二皇太夫人一、〈○中略〉九年〈○天平〉十二月、皇太夫人就二皇后宮一、見二僧玄昉一、聖武帝亦造焉、皇太夫人誕レ帝之後、久不下與二玄昉一相見上、沈憂廢レ事、是日一見、惠然開晤、適與レ帝相見、天下莫レ不二慶賀一
○按ズルニ、續日本紀ノ舊點ニ、自レ誕二天皇一、未三嘗相二見法師一、一看惠然開晤トアルヨリ、大日本史ハ是ニ據リテ右ノ如ク記セリ、サレドコハ誤ニシテ一看ハ看病ノ事ナリ、
p.1007 瞻病制〈僧祇律云、有二比丘一久病、佛因按行見、躬與二阿難一爲洗二身及衣一曬二臥具一訖、又爲二説法一、佛問、汝曾看病否、答不レ曾、佛言、汝既不レ看、誰當レ看レ汝、乃制戒自レ今後應レ看二病〉〈比丘一、若欲レ供二養我一、應レ供二養病人一、〉
p.1007 天平勝寶八歳五月丙子、勅、禪師法榮、立性潔、持戒第一、甚能 看病( ○○) 、由レ此請二於邊地一、令レ侍二醫藥一、太上天皇得レ驗多レ數、信重過レ人、不レ用二他醫一、爾其閲水難レ留、鸞輿晏駕、 丁丑、勅、奉二爲先帝陛下一屈二請 看病( ○○) 禪師一百二十六人者一、宜レ免二當戸課役一、
p.1007 弘仁三年四月癸卯、勅僧尼之制、事明二令條一、男女之別、非レ無二禮法一、〈○中略〉其病者可二就レ寺治レ疾、及請レ僧看病一者、經二僧綱若講師一、聽二其處分一、
p.1007 文德天皇天安二年、西三條女御嬰二重病一、殆及二死門一、右大臣頻馳二書信一、丁寧被レ請二和尚一、慈覺大師曰、八福田中、看病第一、結縁之内、師檀尤深、件閤下身代令レ度上人一深、憑二祈念之力一、當二此急難一、稱レ守二本願一、不レ趣二彼請一、一違二利生之意一、一背二知恩之旨一、早可二參下一矣、大師命雖レ不レ竟二一十二年一、參二於彼殿一、山々寺々名僧、有智有驗僧綱凡僧、滿レ堂溢レ席、側レ肩促レ膝、和尚不レ整二衣裳一、只著二麁布一、皆見二裝儀之麁簡一、各懷二下劣之思惟一、和尚謙下不レ上二殿中一、遙坐二廂簷一而誦レ呪、未レ幾呪二縛其靈一、彼此雷同、未レ知二誰驗一、 暫而擲出、自二几帳上一過二度於衆人之中一、如レ飛到二於和尚之前一、躄踊昇降、高聲叫二喚和尚一、宜下行可レ還二本處一由上、亦如レ飛還二於帳裏一、數刻之後、其聲漸下、所レ著靈氣陳二屈伏之詞一、種々雜語、不レ可二勝計一、大臣感激歡喜云、我師斯在、豈有二何思一哉、滿堂緇素瞿然皆瞻二和尚一、是則顯驗之最初也、
p.1008 伊勢國飯高郡老嫗往生語第五十一
今昔、伊勢ノ國飯高ノ郡ノ鄕ニ一人ノ老タル嫗有ケリ、〈○中略〉此ノ嫗忽ニ身ニ病ヲ受ケ日來惱ミ煩ヒケル間、子孫ヲ初メトシテ、家ノ從者等皆此ヲ歎テ、飮食勸メ病ヲ扶ケント爲ルニ、嫗俄ニ起居ヌ、本著タリツル所ノ衣ハ自然ラ脱落ヌ、看病ノ者此レヲ恠ムデ見レバ、嫗右ノ手ニ一葉ノ蓮花ヲ持タリ、葩ノ廣サ七八寸許ニシテ、光リ鮮ヤカニ、色微妙クシテ香馥バシキ事无レ限シ、更ニ此ノ世ノ花ト不レ見エズ、看病ノ輩此レヲ見テ奇異也ト思テ、病者ニ問テ云ク、其ノ持給ヘル花ハ何コニ有ツル花ゾ、亦誰人ノ持來テ與ヘタルゾト、病者答テ云ク、此ノ花ハ輙ク人持來テ得サスル花ニモ非ズ、只我レヲ迎フル人ノ持來テ與ヘタル也ト、此レヲ聞ク看病ノ輩奇異也ト思テ貴ブ間、病者居乍ラ失ニケリ、
p.1008 上人之女父之看病事
坂東ノ或山寺ノ別當、學生ニテ上人ナリケレバ、弟子門徒オホカリケレドモ、年タケテ後中風シテ病ノ床ニ臥シテ、身ハ合期セズナガラ、命ハナガラヘテ、年月ヲフルマヽニ、弟子共看病シツカレテ、イトコマヤカナラザルニ、イヅクヨリトモナク、女人一人出デ來、御看病申サン事イカニトイヘバ、弟子共シカルベシトテユルシツ、エモイハズネンゴロニ看病シケリ、イカナル人ゾト問ヘドモ、マドヒ者ニテ侍リ、人ニシラレマイラスベキ者ニテアラズトイフ、アマリニアリガタク看病シ、月日モ歴ニケレバ、コノ病人申ケルハ、佛法世法ノ恩ヲカブレル、弟子ダニモ打ステヽ侍ニ、コレホドネンゴロニオハスル事、シカルベキ先世ノ契ニコソトマデ、アマリニアリガタク思 給ニ、イタクカクシ給コソイブセケレ、ソモ〳〵何ナル人ニテ御坐ルゾト、アナガチニ問ケレバ、誠ニ今ハ申侍ラン、コレハソノカミ思ガケヌ縁ニアハセ給テ、思ノ外ナル御事ノ候ケル某ト申者ノムスメニテ侍ナリ、ソレニハカクトモ知セ給ハネドモ、母ニテ侍シモノヽ、ナンヂハカヽル事ニテト、ツゲシラセテ後ハ、心バカリハ御女ト思ツヽ、アハレ見モマイラセ見ヘモマイラセバヤト、年來思ナガラ、カヽル御身ニハ、ヨロヅハヾカリ有テ、ムナシク年月ヲ、ヲクリ侍リツルニ、此御病ニ、御看病ノ人モツカレテ、コトカケタルヨシ、ツタヘ承テ、御孝養ニ心ヤスクアツカヒマイラセント、思タチテナン、マイリテ候ト、ナク〳〵カタリケレバ、マメヤカニ、志ノ程哀ニ覺テ、涙モカキアヘズ、シカルベキ親子ノチギリコソ哀ナレトテ、タガヒニナツカシク、ヘダテナキ事ニテ、ツイニ最後マデ看病シ、心ヤスクシテヲハリニケリ、至孝ノ志コソアリガタクオボヘ侍レ、
p.1009 九御方夫、右近衞醫師和氣明治也、毒藥之道分別、術方之計無レ極、 看病療疾( ○○○○) 之佛也、遺針灸治之神也、知二六腑五臟之胗脈一、探二四百四病之根源一、順レ方治レ病、任レ術療レ疾、擣簁合藥搗抺㕮咀之上手也、
p.1009 同〈○慶長九年〉夏ニ至御積痛〈○忠興〉差重リ、御大切に御煩ニ付、忠利君を御家督に被レ成度旨、御願之通被レ蒙レ仰候、自レ是先、御介病として、忠利君御暇賜リ、豐前ヘ御下向被レ成候、
p.1009 享保二壬戌年七月廿九日
看病斷ノ儀ニ付逹
看病斷之儀、父母妻子之外ハ、斷不二相立一候、乍レ然兄弟姉妹伯叔父母、其外近續之者、難二見放一體ニ而、外に可レ致二看病一者も無レ之族は、其節相逹候上之儀たるべく候、
右之趣、寄々可レ被二相逹置一候、
p.1009 寬政四子年七月
大目付〈江〉
疱瘡麻疹水痘病人、 看病人( ○○○) 、若君樣御座所〈江〉不二罷出一所、
一疱瘡病人は、見へ候日より三十五日過候はゞ、肥立次第罷出可二相勤一候、
一麻疹水痘病人は、三番湯掛り候はゞ、御番等可二相勤一候、
一疱瘡麻疹水痘之看病人は、三番湯掛り候はゞ、罷出御番等可二相勤一候、
但病家棟隔看病不レ致候はゞ不レ及二遠慮一、同棟之者看病不レ致候とも遠慮可レ仕候、〈○中略〉
右之通、向々〈江〉可レ被レ逹候、
七月
p.1010 文化二丑年
一筆啓上仕候、私曾祖父兵庫頭義、去月中旬ゟ持病之痰積發、其上時候相障、折々差塞、食事等通兼候旨、追々申越候、老年之義にも御座候間、甚無二覺束一奉レ存候、可二相成一義御座候はゞ、出府仕、濱町下屋敷へ罷越、 看病( ○○) 仕、療養手當等申付度奉レ願候、可レ然樣被レ成二御差圖一可レ被レ下候、依レ之捧二愚札一候、恐惶謹言、十一月廿一日 大岡主膳正〈書判〉
戸采女正樣 牧備前守樣 土大炊頭樣 靑下野守樣〈參人々御中〉
p.1010 看病人の意得をとく〈○中略〉
第三等は、病勢既に進て、氣力衰耗、飮啖も減じ、坐臥に、人の扶を賴ものは、藥の力を待べきこと、固然なれども、看侍者の用意の可と否とにて、懸に隔のあることなり、醫者三分、看病七分と、諺には言習ども、看護をよく領知たる人は少にて、無には如ざるもの多、故如何となれば、食事にも與べき時あり、藥にも用べき度ありて、頻藥を服しめ、強て食を與ては、病者の腹力、それに耐がたく、藥も食も泥滯て、下降がたきが故に、皆適害とはなるとも、効あることはなきなり、〈○中略〉凡常に忍らるヽことも、病ありては、堪がたきものなれば、其氣候に應じ、病人の體に適やうにして、其側に在 看病人も、爽快ほどが、患者にも可ものなり、病人なればとて、頻温暖て、良ものと思は、愚昧なることなり、とかくに其平素に背たるは、必害あり、貴賤貧富、其分に從て、病者の處置は異とも、唯其身に習慣まゝなるを佳とす、近屬或僻邑にて、丐嫗の、痘兒の灌膿の旹なるを負て、村里に食を乞たるを、一富豪之を視て、憐愍なることに思ひ、竈厦の旁に、子舍のありしに入しめて、飯など與、醫を招て藥を服しめ、痘の收までは、此に居てとらせんとて、懇切なるを、丐嫗も、嬉てありしに、其夜中に、さしも盛に膿たる痘、忽に沒て、苦悶に驚躁、醫を乞て診せしむれば、此醫師、やゝ儇利たるものにやありけん、是は全寒風霜雪をも避ず、慣きたりしものが、卒に室中にて、鬱閉たるが故に、如レ玆變證も發たるならん、試に露地へ出おきてみるべしといひて、夜中に、戸外へ藁莚を延て、乞子の母子を出し居、さて詰旦てみれば、豆瘡再快發し、膿も十分に灌て、それより微の惱もなく收靨たりと聞り、是其常に背て、初の變證も發たるなれば、これらのことにても、病あればとて、蒼卒に其素習に異なるは、宜からぬ理をも推知すべし、
p.1011 醫書
大同類聚方百卷〈安部眞直、出雲廣貞等奉レ勅撰、〉 撰攝養決廿卷〈物部廣貞撰〉 金蘭方五十卷〈菅原峯嗣奉レ勅與二諸名醫一撰〉 掌中方一卷〈輔仁撰〉 醫心方卅卷〈丹波雅忠撰、或康賴撰、〉 倭名本草〈大醫博士深輔仁奉レ勅撰〉 難經開委一卷〈廣貞撰〉 集注大素卅卷〈小野藏根撰〉 養生抄七卷〈輔仁撰〉 養生秘抄一卷
p.1011 本朝醫書目録
治瘡記 一卷 大村直福撰
攝養要決 二十卷 物部廣泉撰
金蘭方 五十卷 菅原岑嗣撰
藥經 和氣廣世撰
醫心方 三十卷 丹波康賴撰
集註大素經 三十卷 小野藏根撰
大同類聚方 百卷 〈安倍眞直出雲廣貞〉撰
難經開委 一卷 出雲廣貞撰
養生鈔 七卷 源輔仁撰
掌中方 一卷 同 撰
倭名本草 同 撰
萬安方 梶原性全撰
頓醫法 十卷 同 撰
靈蘭集 細川勝元撰
愚按、右端之書册、今纔存二二三部一、嗚呼惜哉、聊擧二其名於玆一、以備二他日考索之便一耳、
p.1012 醫經類
素問經 大素經 難經 明堂經〈以上四部〉 銅人經 資生經 華佗臟經 醫説 千金方 千金翼方 千金要方 外臺方 聖惠方 風科集驗方 和劑方 蘇沈良方 三因方 御藥院方 肘後方 經驗方 靈苑方 聖濟總録 選歌方 萬金方 醫學全書 簡易方 易簡方 〈新刊〉同方 易簡糾繆方 醫方集成方 婦人大全良方 百一方 錢氏小兒方 得効方 頓醫抄 醫心方 傳濟方
p.1012 醫方家〈千三百九卷 醫針 合藥 私略之 仙方〉
黄帝素問十六〈金元起注〉 素問音訓并音義五 素問改錯二 素女問十 黄帝甲乙經十二〈玄晏先生撰〉 甲乙注四 甲乙義宗十 甲乙經私記二 黄帝八十一難經九〈揚玄操撰〉 八十 一難音義一〈同撰〉 大淸經十二〈玄超撰〉 大淸二〈上下〉 大淸諸草木方集要一 大淸神丹經上篇一 大淸神丹經一 大淸金腋丹經一 藥薗三〈甄立玄撰〉 藥辨決一 藥方草本八十卷 藥石一 仙藥方一 仙藥合方一 神仙服藥食方經一 五岳仙藥方一 五岳芝藥方一 神藥方一 雜藥方一 神仙新藥方一 神仙入山服藥方一 桐君藥録二 平昌丸方面口雜藥方一 雜藥方〈中尉王榮撰〉 雜藥方一〈徐文伯撰〉 雜藥方一〈姚大夫撰〉
雜單藥方一 採藥圖二 雜藥論一 雜藥方十八卷 雜藥圖二 新撰方一 神仙服藥經一 老子神仙服藥經一 雜藥四 印法一 方集廿九〈尺僧深撰〉 雜要酒方八作酒方一 五茄酒方一 要方十二 集驗方十二〈 僧垣撰〉 集驗方方決一 開元廣濟方五卷〈御製〉 葛氏肘後方十 葛氏肘後方三〈陶弘景撰〉 葛氏百方九 葛氏方九 胡洽方三 張仲景方九 通玄方十 通玄十 新録單要方五〈魏孝澄撰〉 鑒上人秘方一
徐太山隨平方一 張家方一 樣要方十 新修諸要太淸秘方十二 惟方四 老子孔子枕中雜方一 大淸治方八 千金方卅一〈孫思邈撰〉 千金方抄一 治 疽方七
五金作方一 調氣道引方一 道引法圖一 新修大淸秘經方十二 石流丹方一
治婦人方三 諸香方一 雜丸方一 朱沙丸方一 腎氣丸方一 雜療一 神仙法方一 太一神丹精治方一 龍樹菩薩和香方一 經心録方六 延年秘録方四
練石方一 養性方一〈許先生撰〉 生髮膏方一 苟杞乾煎方一 治㳙渇方一 治馬病方一 治馬法六 治馬病書六 小品十二 耆婆茯苓散方一 疽論一 黄帝服經決十二〈王升和新撰〉 耆婆脈決十二〈釋羅升注〉 脈經音一〈揚玄操撰〉 新修本草廿卷〈孔玄抱撰〉 神農本草七〈陶隱居撰〉 本草音七〈李君撰〉 雜注本草十〈蔣孝琬加注〉 本草圖廿七 新修本草音義一〈仁捐撰〉本草音義三〈甄立言撰〉 本草音義一〈殷子嚴撰〉 本草夾注音一〈陶隱居撰〉 本草注音一〈揚玄撰〉 注 本草表序一〈陶隱居撰〉 食療本草〈孟記撰〉 老子敎人服藥循常住仙經一 神仙芝草圖一卷
仙草圖五 芝草圖二〈上下〉 黄帝鍼經九 鍼經音一〈揚玄操撰〉 類聚方經百廿 黄帝内經明堂〈揚上善撰〉 明堂音義二〈揚玄操撰〉 食經三〈馬琓撰〉 食經一〈同撰〉 食經四〈崔禹錫撰〉 新撰食經七食禁一 食注一〈御注〉 集驗十二〈 大夫撰〉 古今集驗五十〈甄立言撰〉 古今録驗五十 龍樹菩薩眼經一 脚氣論一〈周禮撰集〉 産經十二〈德貞常撰〉 産經圖三 黄帝針灸經一 黄帝三部灸經音義一〈李議忠撰〉 玉遺針經一〈甄立言撰〉 荊繁論十〈謝玄泰〉 劉㳙子十一〈龍慶宣撰〉 内經大素卅〈揚上撰〉 如意方十 攝養要決廿二 練皮煎一 病家雜書十九 丹決一 杏丹方一 徐文伯一 染蘇方法一 赤松子試一 八史術一 八素八〈董暹注〉 老子道精經一 五藏論一 病源論五十〈巢元方撰〉 素女經一 禁法九 靈奇奧秘術一〈陶隱居撰〉
龍樹菩薩印法一 龍樹菩薩馬鳴菩薩秘法一〈沙門菩提造〉 軒轅皇帝録集十二 鬼名一
三五禁法八 三五神禁治病圖一 八史神圖
p.1014 黄帝素問九卷〈梁八卷〉 黄帝甲乙經十卷〈音一卷、梁十二卷、〉 黄帝八十一難二卷〈梁有二黄帝衆難經一卷呂博望注一亡〉 黄帝鍼經九卷〈梁有二黄帝鍼灸經十二卷、徐悅龍銜素鍼、并孔穴蝦蟇圖三卷、雜鍼經四卷、程天祚鍼經六卷、灸經五卷、曹氏灸方七卷、秦承祖偃側雜鍼灸經三卷一、〉
徐叔嚮鍼灸要抄一卷 玉匱鍼經一卷 赤烏神鍼經一卷 岐伯經十卷 脈經十卷〈王叔和撰〉 脈經二卷〈梁脈經十四卷、又脈生死要訣二卷、又脈經六卷、黄公興撰脈經六卷、秦承祖撰脈經十卷、康普思撰、亡、〉 黄帝流注脈經一卷〈梁有二明堂流注六卷一、亡、〉 明堂孔穴五卷〈梁明堂孔穴二卷、新撰鍼灸穴一卷、亡、〉 明堂孔穴圖三卷 明堂孔穴圖三卷〈梁有二偃側圖八卷、又偃側圖二卷一、〉 神農本草八卷〈梁有二神農本草五卷、神農本草屬物二卷、神農明堂圖一卷、蔡邕本草七卷、華佗弟子呉普本草六卷、陶隱居本草十卷、隋費本草九卷、秦承祖本草六卷、王季璞本草經三卷、李譡之本草經談、道術本草經鈔各一卷、宋大將軍參軍徐叔嚮本草病源合藥要鈔五卷、徐叔嚮等四家體療雜病本草要鈔十卷、王末鈔小兒用藥本草二卷、甘濬之 疽耳眼本草要鈔九卷、陶弘景本草經集注七卷、趙賛本草經一卷、本草經輕行、本草經利用各一卷、亡、○中略〉 神農本草經三卷 本草經四卷〈蔡英撰〉 藥目要用二卷 本草經略一卷 本草二卷〈徐大山撰〉 本草經類用三卷 本草音義三卷〈姚最撰〉 本草音義七卷〈甄立言撰〉
本草集録二卷〈○中略〉 小品方十二卷〈陳延之撰○中略〉 扁鵲偃側鍼灸圖三卷 流注鍼經一卷 曹氏灸經一卷 偃側人經二卷〈秦承祖撰○中略〉 龍樹菩薩藥方四卷 西域諸仙所説藥方二十三卷〈目一卷、本〉〈二十五卷、〉 香山仙人藥方十卷 西録波羅仙人方三卷 西域名醫所集要方四卷〈本十二卷〉 波羅門諸仙藥方二十卷 婆羅門藥方五卷 耆婆所述仙人命論方二卷〈目一卷、本三卷、○中略〉 龍樹菩薩和香法二卷〈○下略〉
p.1015 大同三年五月甲申、先レ是詔二衞門佐從五位下兼左大舍人助相摸介安倍朝臣眞直、外從五位下侍醫兼典藥助但馬權掾出雲連廣貞等一、撰一 大同類聚方一( ○○○○○) 、其功既畢、乃於二朝堂一拜表曰、臣聞長桑妙術必須二陽艾之治一、太一秘結、猶資二鍼石之療一、莫不藥力逈助、拯二殘魂於阽厄一、醫方所レ鐘遺命於斷雖下一二貫典墳一澄中心頤上、猶復降二懷醫家一、汎觀二攝生一、乃詔二右大臣一宜レ令下侍醫出雲連廣貞等依二所レ出藥一撰中集其方上、臣等奉レ宣修在二尋詳一、愚情所レ及靡二敢漏一、成二一百卷一、名曰二大同類聚方一、宜校始訖、謹以奉進、
p.1015 承和二年九月丁亥、丹波國人右近衞醫師外從五位下大村直福吉、及其同族并五人賜二姓紀宿禰一焉、武内宿禰之枝別也、福吉妙二得療瘡之術一、當時諸醫不レ得二間然一、天皇〈○仁明〉寵愛至レ賜二宅居一、遂據二其口訣一令レ撰二 治瘡記一( ○○○) 、
p.1015 貞觀十二年三月三十日壬午、散位從五位上菅原朝臣峯嗣卒、峯嗣者、〈○中略〉嘗奉レ勅與二諸名醫一共撰二定 金蘭方一( ○○○) 、又針艾之所レ加多方注之外、後進之備至レ今稱レ妙焉、
p.1015 天元五年壬申、針博士丹波宿禰康賴撰二 醫心方( ○○○) 三十卷一、
p.1015 刻二醫心方一序
醫心方卅卷、每卷首題二從五位下行鍼博士兼丹波介丹波宿禰康賴撰一、謹按、臣等遠祖康賴撰二進是書一、實爲二圓融帝永觀二年十一月廿八日一、家牒所レ記與二本書延慶舊抄册子本後記一合可レ徴也、後在二正親町 帝時一、嘗出以賜二典藥頭半井氏一云、豈即遠祖所レ進之本歟、抑別有二抄本一也、意者秘府所レ藏、人間莫二得而窺一焉、加之保平以還、兵燹相踵、是書在二若存若亡之間一者、蓋數百有餘年矣、寬政初載先大君文恭公方表二章遺文一、命二臣等曾祖臣元悳一、使下以二仁和王府所レ藏抄本一謄寫儲中之醫學上、當時稱爲二希覯一、顧其爲レ書殘脱居レ半、學者仍憾不レ得レ窺二其全豹一焉、恭惟、今大君、仁洽二寰宇一、孝存二繼述一、最深軫二念醫藥一、訪知三今典藥頭半井氏有二斯書全帙一、乃命二執政一傳二旨其家一、俾レ送二致之醫學一、使四臣等得三繙二閲之一、既而又命二臣等一使下遵二依原本一摸刻、以布中之海内上、〈○中略〉安政元年十二月朔、侍醫尚藥醫學敎諭法印臣多紀元堅、侍醫醫學敎諭兼督務法眼臣多紀元昕頓首拜識、
p.1016 夫病源之候、其流不レ一、療治之方、其趣旁 〈○ 恐分〉諸家傳論、先賢撰集、漢家本朝、斯彙蓋多、或卷軸既繁、有レ煩二披閲一、或部 相混、難レ支二厄急一、仍爲レ遣二卒爾之疾類一、聊抽二諸方之簡要一、抄不三敢顧二時俗之嘲一、只爲レ省二暗質之惑一也、于レ時永保辛酉之年三月七日、侍醫丹波雅忠撰レ之、
p.1016 承安三年四月十五日丁丑、今日憲基呼レ前仰二醫書之事等一、有二 千金秘膸方( ○○○○○) 云書一、令レ見レ之、憲基申二未レ見由一、此中有レ云、年月日神事、件事於二月神一者一切無レ之由、丹家之輩所レ申也、而定成貞時等申二有レ爲レ神之由一、而今此書有二月神一、仍問二憲基一頗有二不審之氣一、尤有レ興事也、
p.1016 建保二年二月四日己亥、將軍家聊御病惱、諸人奔走、但無二殊御事一、是若去夜、御淵醉餘氣歟、爰葉上僧正候二御加持一之處、聞二此事一稱二良藥一、自二本寺一召二進茶一盞一、而 相二副一卷書一令レ獻レ之( ○○○○○○○○) 、所レ譽二茶德一之書也、將軍家及二御感悅一云々、
p.1016 入唐前權僧正法印大和尚位榮西録
茶也養生之仙藥也、延齡之妙術也、山谷生レ之、其地神靈也、人倫採レ之、其人長命也、天竺唐土同貴二重之一、我朝日本曾嗜愛矣、古今奇特仙藥也、不レ可レ不レ摘乎、謂劫初人與二天人一同、今人漸下漸弱、四大五藏如レ朽、然者針灸並傷、湯治又不レ應乎、若如レ此治方者漸弱漸竭、不レ可レ不レ怕者歟、昔醫方不二添削一、而治二今人一斟酌 寡者歟、伏惟天造二萬像一、造レ人以爲レ貴也、人保二一期一、守レ命以爲レ賢也、其保二一期一之源、在二于養生一、其示二養生之術一、可レ安二五藏一、五藏中、心藏爲レ主乎、建二立心藏一之方、喫茶是妙術也、厥心藏弱、則五藏皆生レ病、寔印土耆婆往而二千餘年、末世之血脈誰診乎、漢家神農隱而三千餘歳、近代之藥味詎理乎、然則無レ人三于詢二病相一、徒患徒危也、有レ悞三于請二治方一、空灸空損也、偸聞今世之醫術、則含レ藥而損二心地一、病與レ藥乖故也、帶レ灸而夭二身命一、脈與レ灸戰故也、不レ如訪二大國之風一、示二近代治方一乎、仍立二二門一、示二末世病相一、留賜二後昆一、共利二群生一矣、于レ時建保二〈甲戌〉戌春正月日謹叙、
p.1017 獻二 萬安方一( ○○○) 序
初〈臣壽品〉高祖〈宗什、〉世居二平安一家レ醫、見レ推二博洽一、書籍藏過二五車一、藏中有二梶原性全萬安方一、傳以尊信、殊加二韞匵一、〈○中略〉侍醫〈臣〉望〈三英、〉有レ志二古方一、與〈レ臣〉相善、〈○中略〉既而〈臣英〉遂奉二狗監之對一、乃得レ蒙二凌雲之譽一、前奉二敎命一、當二謄寫進獻一、因圖レ防二朽蠧一、特賜二剪春羅紙五千張一、於レ是與二〈英〉等一共倶校正、周歳而成、凡六十二卷、原闕二本、目次一本、總計五十九册也、獨以レ經二五百年一、蠹簡誤字、衍文錯簡、尚猶不レ尠、悉仍二舊貫一不レ改二一字一、所二以存一レ古也、既以進獻焉、謹按、性全者、不レ知二何人一、相傳云、以レ醫仕二足利氏鹿苑公一、〈○足利義滿〉恒懸二藥囊一、時稱二名醫一、嘉暦之間著二此書一、鹿苑公嘉二其志一、爲記二花押二一、今見在二此書中一、性全博覽強識、自言所レ見方書凡貳百有餘部、二千有餘卷、亦皆漢魏唐宋經驗之方、及自所二試効一莫レ不二集載一、嗚乎古方之損益、以レ今見レ之、亡レ彼存レ此、而其引用亦獨在二此書一、則可レ謂二海内無雙古方書一也、今也藏二之秘府一、則使三彼性全之業再垂二不朽一、〈臣〉亦與顯二祖先十襲之功一、豈不レ幸哉、〈○中略〉
延享二年乙丑冬十二月 啓廸院法眼 岡本〈玄治〉謹上
朱印
p.1017 右 萬安方( ○○○) 六十二卷
花園帝正和中、梶原性全所レ撰、博採二群籍一、搜二抉秘僻一、妙論靈劑不レ遑二枚擧一、所レ援諸書今亡佚者數十家、洵 本邦經方之最者也、性全不レ詳二何許人一、自言、和氣末孫、而跋語中間、及二建長圓覺寺等事一、則知三其居二鎌倉一也、或以二鹿苑相公押字一爲レ仕二鹿苑相公一、今推二之年代一、性全若在二鹿苑一時、則年當二百十餘歳一、此恐不レ爾也、蓋斯書當時秘而不レ出、人罕二覯者一、性全又有二 頓醫抄( ○○○) 五十卷一、竹田月海冒以二此書名一、是以世傳爲二萬安方一者、率皆頓醫抄耳、豈月海素二此書一而不レ得、渇仰之至、姑以レ此稱レ彼乎、閲二野卜幽東見記一、此書國初以前、收在二建仁寺大統庵一、啓廸院法印〈○岡本〉酬以二白金十苞一得レ之、此本即舊出二岡本氏一、辛亥夏五家大人、從二秘府一而借命二家弟及門人一、謄二寫之一、周載始完、爲二架橐重寶一矣、其第八卷、第十八卷、闕佚已久、無レ由二補抄一、殊可レ恨也、寬政癸丑春正月二十有七日、丹波元簡書、
p.1018 梶原性全、日本醫師、 萬安方( ○○○) 五十册作、鹿苑院義滿袖判在焉、建仁寺大統庵有二此醫書一、或時醫玄治法印、買二取銀十枚一、性全又作二 頓醫抄一( ○○○) 在二江城公方御文庫一、煩字ノ訓、ホトヲルト付ルモ此人也、
p.1018 靈蘭集( ○○○) 叙〈京兆源君請〉
古人曰、逹則願レ爲二良相一、不レ逹則願レ爲二良醫一、又曰、爲レ政之道與レ爲レ醫同、誠哉此論、惟我日本國管領公〈○細川勝〉〈元〉爲レ政之暇、旁游二於醫一矣、務在レ活レ人而已、於レ是乎、古今醫書奧方隱籙此秘未レ覩者、扶二其華一括二其要一、晝鈔夜纂、門分類聚、雜以二倭字一、便二於觀覽一、裒成二一集一、名曰二靈蘭一、蓋取二神農室名一也、命レ予爲レ叙、按本草、上藥爲レ君以應レ天、中藥爲レ臣以應レ人、下藥爲二佐使一以應レ地、而蘭者君藥也、殺二蠱毒一辟二不祥一、久服長年不老、以通二神明一、以至下仲尼鼓二琴乎魯一屈子紐中佩乎楚上、或山林或階庭惟德惟馨、蘭之爲レ靈、昭々矣哉、源公、德兼二三才一、威被二四海一、其叙二世系一、侯王將相、其醫二國家一也、君臣佐使定二社稷之安危一、問二民之疾苦一、抑天下之所三以爲二天下一、皆源公之力也、豈不レ盛乎、相與レ醫逹與二不逹一、不レ足レ論焉、於戯、蘭百草靈也、人萬物之靈也、神農榜レ室、源公名レ集、可二併按一焉、昔惠日雅禪師著二禪本草一、有レ謂曰、佛祖以二此藥一療二一切衆生病一、號二大醫王一、源公平日參禪學道、雖レ云二唐裴相國、宋張無盡一、不二敢多讓一也、然則靈蘭集與二禪本草一、相與表裏以行二于世一、所レ謂大醫王非二源公一而誰也耶、文明四年歳在壬辰臈吉日、橫川景三、
p.1019 我邦、以二濟生業一厥世者、唯和丹兩家而已矣、近世旁支橫派、爭レ道而出、和家久少レ聞二其傳一、丹家一脈亦落如二曉星一矣、爰有二梶原淨觀公一、師二承丹家一、而居二其右一、其我邦秦越人乎、有二萬安、頓醫兩方一、萬安秘而弗レ傳、頓醫今行二于世一矣、厥後曰二道全一、亦英レ時士也、猶嫌二我邦之鮮一レ書、附レ舶南遊、其業益大、其觀改焉、自レ全四傳、而有レ人曰二長淳一、淳浮屠氏也、韜晦以婆二娑於世一、然而才德所レ薰、莫三以加二其臭一焉、雖三醫術集二成于玆一、而論二於之才悳一、則蓋其緖餘土苴焉耳、我友中川公、以二俊逸頴悟之質一、依レ淳而學、自方論脈訣藥性鍼灸呪咀劑和之書、未レ有二聞而不レ求而觀不一レ買、箕裘不レ遂、咄々迫焉、公痛念二近代醫家者流一、學術腐二于内一、聲聞過二于外一、韓氏肥瘠病否之説不レ知、而濟生无レ澤、惘然選二方兩卷一、 目曰二捧心一( ○○○○) 一病之下必有二病證一、有二脈證一、載方必取下自得二其効一者上、語必述二古方一、私弗三以措二一辭一焉、其述而不レ作也、夫子之意乎、其精撰拔萃也、其便二於易簡一也、方必取下得二其効一者上也、此豈得レ非二以是齊王碩危亦林之遺音一、乎哉、蓋此書作也、鼻祖淨觀公萬安方之標準也、〈○中略〉寶德辛未仲秋日翫月叟序、
p.1019 一世ニ行ハルヽ 梅花無盡藏( ○○○○○) ハ、其繁雜、後世家ノ書ノ如ク、 十九方( ○○○) ハ、其簡略、古方家ノ書ノ如シ、獨リ此篇、繁ナラズ、簡ナラズシテ、其用藥ノ趣、西洋家ニ似タリ、〈○中略〉
p.1019 近古の醫書多しといへども、 啓廸集( ○○○) より盛なるはなし、天正二年、廣頌二天下一流二永久一の旨を蒙る、他の醫書、此盛擧ある事を聞かず、醫たるもの必讀むべし、是先帝の掟をかしこみ奉るなり、此書は月湖が全九集に本づきて作られしなり、
p.1019 啓廸集題辭〈○中略〉
本朝亦醫匠之名レ世者光二于圀史一、無二世無一レ之、就レ中丹家嚮二三位一者、生而得二醫髓一矣、飛二英聲一、騰二茂實一、時々造二詣于艮岳中堂醫王善逝一、而得二隔レ屏牽レ絲之脈路一、奇哉、爰有二當塗之聞人一、世爲二京華人一也、諱道三、字一溪、蚤歳發レ憤遊方、不レ遠二千里一、鱗二于杖一、 二于鞋一、而直入二野州足利一、而渉二獵五典三墳及丁林曰之書一、維時武州有二導道練師者一、中年從二國信使一而南遊、遍二歴闔國諸醫之門一、而擇二其尤一、探二其頤一而歸、公于以師レ之學習、研 レ精覃レ思、而究二其蘊奧一、雨二往風 于野武二州之間一、前後更二十有八之葛裘一而旋レ洛、 徠、醫療有レ驗、活二瀕九之病一、予熟㠯、公不レ縁二藥樹一、不レ禱二藥師一、洞二視病人胸宇一、而自然得二於心一、應二於手一、公之於レ醫、可レ謂レ勤矣、可レ謂レ勞、可レ謂レ成矣、公遂提二醫家秘要一、以撰編者八卷、目曰二啓廸集一、蓋本下于旁求二俊彦一啓二廸後人一之語上者歟、俊彦謂レ誰、決不二外求一、一溪其人也、事逹二禁中一、以歴二叡觀一、華袞非レ榮榮莫レ焉、〈○中略〉
天正萬年之二歳歳舍甲戌仲冬初吉
大明再渡專使前圓覺策彦拙叟周良書二于北等持東方丈一
p.1020 此書者、僕在二關左一之日、偏州下邑之者不レ知二養生之道一、不幸而致二夭橫一、故受憐之心最深、仍撿二延壽之數一悎聚二樞要之語一、名レ之以二 延壽撮要一( ○○○○) 、爲レ便二見聞一、以二倭字一書レ之、旋洛之後、此一卷忝 歴二叡覽一( ○○○) 、何幸加レ焉、伏希廣頒二華夷一、普授二士民一、人々長保二仙壽一、規祝不レ淺也、謹以記二歳月一云レ爾、
慶長己亥立夏之節 法印玄朔〈○今大路〉
p.1020 頃日大君〈○德川吉宗〉命云、彼天祿石渠之書者、以爲二巨家之備一矣、至レ若下邊鄙窮巷乏二醫藥一者上、小民之所レ患、而仁綱之所レ漏也、台意不レ能レ无二遺感一、是誠可レ忍乎、忍レ之可レ謂レ仁乎、於レ是辱命二醫員林良適丹羽正伯一、點二撿官庫群籍一、探二羅捷方單方一、撰二其至要一、品味亦四五許、方法不レ過二八九一、蓋患家蠢々蚩々之徒所レ易二合和一、而果夫有二明效一者也、録以二國字一、日就月將、研二編摩之志一、顯二纂述之功一、縷分脈剖、繕寫甫畢、都爲二漆策一、時敎二臣親顯披閲一、參互索搜、則博而不レ繁、詳而有レ要、眞格物之通籍、黎元之秘録也、目之曰二 普救類方一( ○○○○) 、情状實當矣、〈○中略〉以述二台旨之萬一一、謹爲二之序一〈○中略〉
享保己酉〈○十四年〉之五月 從五位下典藥頭式部大輔橘朝臣親顯謹識
p.1020 醫書をも、常に御覽あり、 聖惠方( ○○○) 、 和劑局方( ○○○○) 、 東醫寶鑑( ○○○○) 、 外臺秘要( ○○○○) などは、常に御座右に置れて、御勘考あり、また醫員等著述せし書をも獻ぜしめて、御覽じ玉ひ、諸國僻境に堙沒したるをも購り求めて、あまた册府に收めしめ玉へり、その頃遠國の貧民等がために、侍醫 に命じて備急の奇方どもあまた書あつめられ、 普救類方( ○○○○) となづけて、世上に梓行せしめらる、
p.1021 先考濟庵翁〈名惟諧、字子德、通稱惇篤、〉曰、本邦享元以還、長沙之學大闢、戸著家述爲レ不レ讓二漢土一、然吉益爲則一切武斷、矯レ枉過レ直、其子猷務皇二張之一、亦不レ免二蛇足一、齊必簡恢博緻密、一章動至二數百言一、而未レ能レ盡二其底蘊一、門人淺野徽、拾二其唾餘一、可レ謂二狗尾續貂一矣、内藤希哲條分縷折頗多二濬發一、雖レ未レ免二排割之習一、亦芟二除葛藤一、開二別逕一者也、中西惟忠、注釋顯明、期二于實用一、川越正淑、依レ樣胡盧、碎殘極矣、山田正珍博引旁證、一掃二從前固陋之習一、其長在レ博、其短亦在二於嗜一レ博也、至二於桂山茞庭二氏一、學術湛精、尤得二解經之體一、而學者漸向二正路一矣、
p.1021 欲レ集二生徒一
京攝醫師、頗有二才學一者、業差行則擧下其所二經驗一之診候治方六七上、以二國字一屬レ文爲二册子一、及使三子弟輩謄二寫之一以廣レ傳、而其書至二治法之緊要一、則曰、此治方非下游二吾門一者上則不レ授、此診候非二口授一則難レ傳、而秘惜不レ載、故讀レ之唯足レ見レ誇二於其伎一、而無レ益三於治二疾病一矣、予科二其意一、未三始有二博施濟レ衆之心一、而不レ過下特欲中示二其書於人一、集二生徒一以潤上レ屋耳、譬下諸賣藥鋪之欲レ售レ藥、列二擧其奇效一、以榜二通衢一、乞二人之枉顧一者上、噫其志之卑賤、類皆如レ此矣、夫素問有下歃レ血及藏二靈蘭室一等之語上、雖レ然秘而不レ傳之謂也哉、且古今醫書、汗牛充棟、未レ見レ有下於二診候治法一不レ入二其門一則不二敢傳一之事上也、然則得レ不レ謂レ非二賣藥鋪之類一哉、
p.1021 典藥頭雅忠ガ夢ニ、七八歳バカリナル小童、寢殿ニハシリ遊テ云樣、先祖康賴ネンゴロニ祈シ心ザシニコタヘテ、 文書( ○○) ヲマモリテ、二三代アヒハナレヌニ、コノホド火事アランズルニ、ツヽシムベシトミテ、廿日バカリアリテ、家ヤケニケリ、サレドモ文書一卷モヤカズトゾ、昔ハ諸道ニカク守宮神タチソヒケレバ、シルシモ冥加モアリケルニコソ、
p.1021 唐土の醫書( ○○○○○) 、斯邦に入りしは、 千金方( ○○○) を初とすと養生訓に見ゆ、今延喜式を見るに、千金方の行はれし事しるべし、屠蘇を初として、民間に流布する藥膏盲に灸する事、萬能膏の原方等、 皆千金方に出たり、
p.1022 素問( ○○) 、 靈樞( ○○) 、文尤淺陋、亦非二兩漢文一、蓋兩晉之間、陰陽醫之所レ作、疑葛洪之輩、設二黄帝岐伯雷公等之名一、以寓言焉者耳、
p.1022 東垣十書( ○○○○) ハ、不レ殘東垣ノ作ニ御座候哉、如何、答曰、不レ然、東垣流道統ノ十書ト云心也、東垣ハ宋人、丹溪ハ元人、〈予先年明謝在杭家藏ノ元板小形本多紀桂山先生ヘ賣、先生格別珍玩本ナリ、〉
脈訣〈虚散人述〉 局方發揮〈丹溪〉 格致餘論〈丹溪〉 外科精義〈德之〉 脾胃論〈東垣〉 辨惑論〈東垣〉 此事難知〈東垣〉 蘭室秘藏〈東垣〉 湯液本艸〈海藏王進レ之〉 渧回集〈魏博王安道〉
本ハ活板有、古板、新板ノ三種ナリ、
p.1022 内外傷辨惑論三卷〈○中略〉 金李果撰、果字明之、自號二東垣老人一、
p.1022 復二宗梅諄一書
向辱賜レ書、即當レ作レ答、于レ時俗事紛冗失二敬於左右一、多罪多罪、今又賜レ書、驚以開レ緘、因知二貴兄近状無一レ恙、多幸多幸、夫醫道難レ獲也、不レ可下以二言語一而論上、在二點而知一レ之爾、且夫生死者、人之大節也、生既成レ變則死、我若昏二惑生死一乎、則不レ能レ爲二其治一也、苟欲レ不レ昏二惑生死一、在三篤信二死生有レ命之義一、能審二此二者一而徴二之於己一則獲焉、若有二少未一レ決二於此一、則難乎其成レ之也、醫道難レ獲、於レ是乎可レ知已、蓋 傷寒論( ○○○) 雖レ云二仲景之作一、雖レ云二疾醫之道一、後人儳入居レ半矣、大倉公以降、天下滔々皆陰陽醫也、不レ知二疾醫之道一也、故其所二儳入一者失二古意一甚矣、名二傷寒論一、或以二六經一分レ篇、或一病之上、冠以二六經之名一、或并病合病、或痙濕暍篇、陰陽易篇、霍亂篇、是皆非二疾醫之言一也、況於二其辨脈平脈傷寒例一乎、況於二其辨レ不レ可レ發レ汗諸篇一乎、此皆儳入不レ可レ取者也、今欲レ學二疾醫一乎、扁鵲所レ謂視二病之所在一、而診三病應二見于大表一、能知二萬病唯一毒一已、今般辱賜二貴國名産一、調味嘗レ之、敢不レ拜二大惠一、它俟二嗣音一、
p.1022 仲景書
仲景書、有二 傷寒雜病論( ○○○○○) 、 金匱要略玉函經一( ○○○○○○○) 、共論二傷寒及雜病一、甚詳悉焉然如二要略玉函一僞撰已、先生辨レ之、故不レ贅也、雖三傷寒雜病論獨出二于仲景一、然叔和撰二次之一、加以二己説一、方劑亦雜出、失二本色一者往往有レ之、且世遐時移、謬誤錯亂、非二復叔和之舊一、不レ可レ不レ擇也、後之註家、皆爲二牽強附會一、不レ可レ從也、故先生之敎、其理鑿者、其説迂者、一切不レ取レ之、所三以求二其本色一也、學者宜レ審焉、
p.1023 傷寒雜病論( ○○○○○) 、 金匱要略方論( ○○○○○○) の二書は、其原本一にして、今存る傷寒論は、傷寒雜病論の雜病篇を佚せるもの、金匱要略方論は、その傷寒篇を佚せる物なるが、古今億兆の醫人、その方法に從事して、醫藥の祖典と尊奉するに、其撰者を張機字仲景と傳へ來つれど、史籍にその傳なき事を誰も甚く遺憾に思へるに、此頃その人を考得たり、其はまづ晉書列傳なる、葛洪字稚川の傳に、洪尤好二神仙導養之法一、從祖玄、呉時學レ道得レ仙、號曰二葛仙公一、以二其煉丹秘術一授二弟子鄭隱一、洪就レ隱學、悉得二其法一焉、後以師二事南海太守上黨鮑玄一、玄亦内學、逆占二將來一、見レ洪深重レ之、以レ女妻レ洪、洪傳二玄業一、兼綜二練醫術一、凡所二著撰一皆精二覈是非一、而才章富贍云々と見え、〈葛稚川の號を抱朴子と稱へり、是をもて其著せる子書の、内篇外篇を抱朴子と名けたり、今〉〈この考中に、其子書と稱するもの、卽その抱朴子を云へり、〉下に其著撰の目を擧たる中に、金匱藥方百卷、肘後要急方四卷とあり、〈○中略〉然るに雜應卷に戴覇とあるを、肘後方には仲景と有り、今此を考ふるに、雜應卷に華陀といふ姓名にて記せるを、肘後方序には、元化と云ふ字を書たるに準へ思ふに、仲景といふも、戴覇と云へる人の字とこそ聞えたれ、〈そは同じ稚川翁の文にして、かく相違ある事は、殊に深く心を止めて考ふべき事なり、華陀が字を元化と云しことは、史傳に見えて、人あまねく知れり、〉また稚川翁の本傳に、金匱藥方とあるを、雜應卷また肘後方序に玉函方とあり、然れば稚川翁の撰べる百卷の方書は、かく二名を稱し、また二名を合せて、 金匱玉函方( ○○○○○) とも稱して、其金匱てふ名は、戴覇字仲景が方書の古名を用たると聞えたり、〈そは雜應卷に、戴覇が金匱と云ひ、肘後序には、仲景金匱とあるにて論なし、〉斯て其方書は、全書今傳はらず、今存る 金匱玉函要略( ○○○○○○) といふ書は、其金匱玉函方を、晉末に出たる、王叔和が要略せる書なり、〈そは其書の始に、晉太醫令王叔和集と有にて所レ知たり、王叔和は稚川翁より後の人なること、下に委しく論ふを見べし、〉然 るに其要略せる本すら久しく湮沒して、世に知る人無りしを、再び世に顯れたるは、趙宋の世になむ有ける、
p.1024 或人告て云く、或人この仲景考を見て、此は近く出たる 金匱要略輯義( ○○○○○○) といふ書に既に論じ置たる事なるを、篤胤が始めて考へ出たる如く云るは、腹ぐろなる事なりとて謗れり、いかに其輯義を見たまひつやと言ふに、己大きに驚き、その書かつて見たること無ればこそ、年ごろ此事にも心を止めて、かく考へ定めつるを、思ひきや既に同じ心に考へ定たりつる人の有むとは、早く其書を求め讀てこそと答へて、やがて其書を求め得て讀見るに、余が考へとは甚く異なり、唯その綜槩の條に、仲景金匱玉函、究二其目之所一レ繇、晉書葛洪傳云、洪著二金匱藥方百卷一、據二肘後方及抱朴子一、自云、所レ撰百卷、名曰二玉函方一、則二者必是一書、由レ之觀レ之、金匱玉函、原是葛洪所レ命レ書、即唐人尊二宗仲景一者、遂取而爲二之標題一、以二珍秘不レ出之故一、著録失二其目一歟、林億金匱玉函經疏云、縁三仲景有二金匱録一、故以二金匱玉函一名、取二寶而藏之義一也、案仲景金匱、他書無二其目一、唯宋本及愈橋本、趙開美本、林序後有二一小序一云、仲景金匱録云々、僅出二于此一、予每疑レ之、然宋本已載レ之、則此必唐末作二要略一者所レ撰、其文原二于肘後方序及抱朴子一、味二其旨趣一、汎濫不經、亦是道流之筆耳と云ふ説と、彼の小序の所に、徐本刪レ之爲レ是、と云ふ語の有のみにて、余が考へと、同日に語るべき論に非ず、〈○中略〉殊にその要略せる時代を、唐末と云へるは、更に據なき説なり、彼小序は、稚川翁の文なれば、固より道流の筆なるに論なけれど、味二其旨趣一汎濫不經なりとて、徐鎔が本に刪れるを是と爲られしは、輯義の撰者も、いまだ醫藥の道の、玄家に出たる事をば悟り得られざるが故なれば、論ふかぎりに非ずかし、然は有れど、金匱傷寒論ありし以來、和漢古今に、千萬づの醫學者の中に、肘後方序、抱朴子などを取出て論へるは一人も有し事を聞ず、然るに今唯この輯義のみ、此議あるは、いと希しき事識にぞ有ける、
p.1025 注能毒益母草の條に、唐より渡りたる 濟陰方( ○○○) といふ文あり、濟陰方も、月湖の作なり、延寶八年の國刻あり、往年田澤仲舒が、 全九集( ○○○) を校せし時、予其書に序して、月湖は本邦の人にして、錢塘に流寓したるといひしを、あからさまに錢塘月湖とあれば、邦人なりといふは、うけがたしといふ人あり、予全九集の文章、唐山人にあらざる句法を示し、今又濟陰方の序と、治驗とを、茲に擧て、唐山人の文にあらざるをしらしむ、月湖元來邦人なれども、著述は唐土にて印刻なりし故、唐より渡りたる濟陰方と、一溪師のいはれしなるべし、足利の代禪徒の海外におもむきし者多し、月湖も其頃の人なれば、遠く明國に遊び、醫もて彼地に行はれしなり、
p.1025 天平寶字元年十一月癸未、勅曰、如聞頃年、諸國博士醫師、多非二其才一、託請特レ選、非二唯損一レ政亦无レ益レ民、自今以後不レ得二更然一、其須レ講レ經生者、〈○中略〉醫生者大素、甲乙、脈經、本草、針生者素問、針經、明堂、脈決、〈○中略〉並應二任用一被レ任之後、所レ給公廨一年之分必應レ令レ送二本受業師一、
p.1025 大素、〈唐書藝文志、黄帝内經大素三十卷〉、甲乙、〈醫疾令義解、甲乙經十二卷、唐志同、〉脈經、〈醫疾令義解、脈經二卷、唐志黄帝流注脈經一卷云々、〉本草、〈醫疾令義解、新修本草廿卷、延暦六年、五月紀云、典藥寮言、蘇敬注新修本草與二陶隱居集註本草一相撿、增二一百餘條一、亦今採二用草藥一、既合二敬説一、請行二用之一、式部式、凡醫生皆讀二蘇敬新修本草一、唐志神農本草三卷、雷公集撰神農本草四卷、陶弘景集註神農本草七卷、張鼎本草二十卷、目録一卷、蘇敬新修本草二十一卷、〉
p.1025 凡應レ讀二醫經一者、 大素經( ○○○) 限二四百六十日、 新修本草( ○○○○) 三百十日、 小品( ○○) 三百十日、 明堂( ○○) 二百日、 八十一難經( ○○○○○) 六十日一、其博士准二大學博士一、給二酒食并燈油賞錢一、
凡大素經准二大經一、新修本草准二中經一、小品、明堂、八十一難經並准二小經一、
p.1025 秦
善秀〈○中略〉
宗巴〈○中略〉
同〈○天正〉十二年の春、馬氏が注する所の素問經を講ず、これより以前、本朝にいまだ此書を講 ずる人あらず、其席に陪する輩、數百人あり、〈○下略〉
p.1026 印板〈○中略〉
醫家にては、大永の 醫書大全( ○○○○) を始とす、其跋曰、吾邦以二儒釋書一鏤板者、往々有焉、然未三曾及二醫方一、惠民之澤、人皆爲レ鮮、近世醫書大全、自二大明一來、固醫家至寶也、所レ憾其本稍少、欲レ見而未レ見者多矣、泉南阿佐井野宗瑞捨レ財刊行、彼明本有二三寫之誤一、令下就二諸家一考二本方一以正中斤兩上、雖二一毫髮一私不二增損一、蓋宗瑞之志不レ爲レ利而在レ救二濟天下人一、偉哉陰德之報、永及二子孫一矣、大永八年戊子七月吉日、幻雲壽桂誌とあり、此書の印本、今存する者少からず、
p.1026 阿佐井宗瑞
宗瑞泉南人也、氏阿佐井、曾嗜二醫術一、其志在レ濟レ人、於レ茲使下剖劂氏刊中明本之 醫書大全上( ○○○○)、偏爲レ敎下世人熟中覽之上也、請二跋於東山釋月舟一、載在二幻雲藁一、
p.1026 享保十五戌年三月
一 東醫寶鑑( ○○○○) と申醫書二十五册、先生板行被二仰付一候、此度直段引下ゲ、上本一部ニ付七拾八匁、次本
一部ニ付六十匁ニ賣渡候筈候間、望之者は可二相調一候、此段町中〈江〉可二觸知一者也、
三月
p.1026 增廣太平和局方、十二册、
按ニ、享保十五年十二月、前典藥頭橘親顯ガ序ニ、自二古昔一齎二來于本邦一幾希矣云々、國家尚慮二其事之未一レ備、切存二惠民之餘德一、命二臣親顯等一加二校訂一之事云々、粤索二捜日光久能神庫之秘本一、乃官私之諸本、殆得二十有餘部一云々、輯校苟完、謹以奉レ進レ之、重使三臣親顯爲二之序一云々ト云々、又參考局方、並諸家奉進目次ニ、日光山神庫一部、久能山神庫一部、官庫一部、以上三部、增註和劑局方、朝鮮刻本也トミユ、其他マタ明初ノ刻本ヲ引ケリ、今大路家譜ニ、式部大輔親顯、享保八年八月、久能山の御宮 神庫に收藏せし和劑局方を、親顯所持の本と校合を命ぜられ、御淸書之事なれば、帝鑑之間にて、壹人校合す、同十四年十二月、和劑局方の號を奉りしにより、〈守重云、和劑局方の號を奉りしと云は誤なり、〉時服三を賜ふと見ゆ、〈荻生揔右衞門茂卿家譜ニ、享保十二年十二月八日、和劑局方之儀御尋之趣、兵庫頭殿被二申渡一、宋版之書物之趣申上候トアリ、明主ノ此書ニ睠々シ玉フ所以ノモ〉〈ノイタレリト謂フベシ、〉再按ニ、其久能山神庫ニ在トコロノ御本ハ、究メテ神君ノ御前本ナルベキカ、其證ハ延壽和方彙函エ八ノ字御方ヲ載セテ云、專治二男婦氣血兩虚、精神短少、脾胃不足一、傳曰、斯方者、和劑局方無比山藥圓也、〈按ニ諸虚不足門ニ、無比山藥圓十二味ヲノス、〉東照宮、平素服二餌之一、蓄二藏於藥笥第八層之中一、是以侍御宮人稱二八之字藥一、自レ是流傳以世人通號二八之字一云々、〈此事、又續録駿府御文庫本醫林集要ノ下ニ出ス、考フベシ、〉是八之字御方、此書ヨリ出タルト云説モアレバ、此御本亦御撿閲ノ事有シナルベシ、予又嘗テ是ヲ前ノ駿府町奉行某ニ聞ケリ、久能神庫ニ神君御親筆御書入アル醫書アリ、又御製藥ノ御道具アリト、和方彙函ニモ、神君雛丸東照宮袖下ノ藥アリ、均シク是醫書御撿討ヨリ出デ、本草網目ヲ江戸へ進ゼラレシノ類、〈續録ニ出ス〉ミナ普救ノ深仁ヨリ致ストコロ、異朝歴代醫書ヲ勅撰セラレシモ、其仁意モト相同シテ、享保醫書ノ官刻モ、能神意ヲ纘述シ玉フト云フベキナリ、
p.1027 題言
一榛齋先生嚮ニ遠西名醫著ス所ノ人身内景ノ書數部ヲ譯定シ、集メ成シテ全部三十卷トシ、 遠西醫範( ○○○○)ト名ク、其中ヨリ全身諸物ノ名、及ビ官能ノ綱領ヲ述ベ、別ニ一卷トシテ、篇首ニ冠シ、醫範提綱ト名ク、凡ソ門ニ入リ業ヲ受クル者ニハ、先始ニ提綱ヲ授テ、内景ノ梗概ヲ示シ、又其問ヲ起シ、益ヲ請ヲ待テ、餘義ヲ演ベ、要旨ヲ發シ、諄々トシテ誨テ倦ズ、漸ク人身ノ機關ニ通ジテ、一切ノ方技術モ、皆此ヨリ出ルト云ノ大略ヲ喩ラシム既ニ大義ニ通ズレバ、次第ニ誘導シテ、本篇醫範ノ精説ヲ講ジ、竟ニ天造ノ實際ヲ窺ヒ、精微ノ壺奥ニ遡リテ、治療ノ機柄ヲ握ラシム、俊〈○宇田川榛齋門人諏訪俊〉幸ニ敎ヲ門下ニ受ケ、親ク其節ヲ聞キ、コレヲ刀圭ニ試ム、今ニシテ和蘭ノ醫 法ニ於テハ、少シモ疑ヒナキコトヲ得タリ、蓋シ其法皆實驗ノ事蹟ニ本ヒテ、毫モ矯誣ノ鑿説ナシ、故ニ其精詳ナルコト、造花ノ秘頣ヲ探リ、萬物ノ究理ニ渉ルト雖モ、實測一軌ニシテ、虚轍ヲ設ケザレバ、條理井然トシテ、望洋ノ惑ヒナク、簡易捷徑ニ説キ示スヲ以テ、見ルニ隨テ解シ、聞クニ隨テ曉リ、群類ニ觸テ意匠長ジ、奮圈ヲ脱シテ活眼ヲ開ク、是ヲ以テ、駑才俊ガ如キモ、思ヲ費サズ、力ヲ勞セズシテ、結構ノ徑庭ヲ窺ヒ、年月ノ久キヲ積ズシテ、頗ル此道ノ概略ニ通ズルコトヲ得タリ、〈○下略〉
p.1028 弘化四年丁未、〈二五〇七、一八四七、〉緖方洪庵亦病學通論ヲ譯述シテ、病因病證ヲ説ク、 病理書ノ始( ○○○○○)タリ、
p.1028 醫師( クスシノ) 神〈 大己貴( ヲホアナムチノ) 命 小彦名( スクナヒコナノ) 命〉
p.1028 一書曰、〈○中略〉夫 大己貴命( ○○○○) 與二 少彦名命一( ○○○○)戮レ力一レ心、經二營天下一、復爲二顯見蒼生及畜産一、則定二其療レ病之方一、
p.1028 十三年二月甲子、是日皇太后宴二太子於大殿一、皇太后擧レ觴以壽二于太子一、因以歌曰、 虚能( コノ) 彌企破( ミキハ) 、 和餓彌企那羅儒( ワガミキナラズ) 、 區之能伽彌( クシノカミ) 、 等虚豫珥伊麻輸( トコヨニイマス) 、 伊破多多須( イハタタス) 、 周玖那彌伽未能( スクナミカミノ/○○○○○○) 、 等豫保枳保枳茂苫陪之( トヨホギホギモトヘシ) 、 訶武保枳保枳玖流保之( カムホギホギクルホシ) 、 摩莵利虚辭( マツリコシ) 、 彌企層( ミキゾ) 、 阿佐孺塢齊佐佐( アサズヲセサヽ、) 、
p.1028 醫藥名義〈并醫風變化附本道辨〉
記紀なる神功皇后の御歌に、〈○中略〉 少名御神( ○○○○) は、即醫藥の祖神にませば、言痛く論ふまでもなく、藥神と詔給意にて、取もあへず醫藥と云言の明徴也、是を記傳には、酒の首長と云意也と云、釋紀には、奇神也、私記曰、奇異之義也云々、私記曰、少彦名神是造酒神也、今有二其遺跡一、云といはれたれど、若然らば、式の酒司抔に此御神を祭玉ふべきに、他神を祭られたる物をや、總て何にまれ、其群黨あるうへならでは、首と云がたかるべし、又神等は皆奇なるに、此御神のみ奇と云べか らず、酒は素より造玉ひためれど、其も藥中の一物にこそあれ、打任せて酒造神と爲奉るべき事かは、上件の説等の如にては、久志の神を殊更に歌出し玉ひしは徒事となりぬべし、是は專ら皇太子の御成長を祈給頃なれば、御歌の意は、此酒は我酒に非ず、藥神の物し玉へる藥酒なれば、聞食て御恙なく、常磐に幸坐と齋ひて賀玉ふ也、されば尋常の酒もあれど、藥神の領玉ひて、藥とも成べき御酒ならでは、えあらぬわざ也、
p.1029 祭二神農一
潜居録曰、八月朔、古人以二此日一爲二天醫節一、祭二黄帝岐伯一、本邦醫家以二正月八日一祭二神農一、蓋原二于醫師如來結縁日一、〈慈覺太師修經時、一佛一神日來護レ之、藥師尊、江文大明神、以二八日一現、依爲二結緣日一、〉可レ笑之甚也、大己貴命、少彦名命、爲二本邦醫藥之鼻祖一、而醫家不レ祀二二神一者、蓋由レ無下遺訓及二今日一者上、惜哉其方法之亡、世傳二大同類聚方抄本一、安部眞貞奉レ勅所レ撰云、近浪華木〈○木村蒹葭堂〉孔恭鎸行、内有下稱二神方一者上、古云、盡信レ書不レ如レ無レ書、余於二此篇一亦云、
p.1029 先醫祠堂記〈○中略〉
昔吾先王之馭レ國也、祭祀有レ式、禋享有レ官、不三唯奉二其先宗廟社稷一、而釋尊之禮亦取二之于唐氏一、而先醫之祀闕焉、於レ是、醫而欲レ報二其先一者、茫乎無レ所レ之、情之壞也、皆散而歸二于醫王善逝一、儒者徒以レ非二其鬼一而斥レ之、不レ知下不レ爲二之區處一、則必不上レ能レ不レ歸二于此一焉、雨森良意氏世醫也、家藏二炎帝氏雕像一、漢工所レ刻也、將下控二于官一宇而奉上レ之、且就二城東小野一起二一小堂一而安レ之、有レ樓可二以度一レ書、有レ圃可二以植一レ藥、蓋爲二之兆一也、吾想、凡天下之方劑爲二生民之利一者、不レ可二勝言一、非下古有二聖人者一廣資二衆智一以貽中其神術于後世上、則其孰能與焉、然則推二功于炎帝氏一、而使三天下爲レ醫知二報レ本之所一者、良意氏之仁也、今既爲二之所一矣、吾知二人知レ所レ當レ求而柄レ國之人不一レ能レ不二因而成一レ之也、若夫駕二荒唐謬悠之説一、而加二之堯舜孔子道一、則吾固知二良意之不一レ爲也、因記以贈レ之云、
p.1029 神農祭〈并〉医祖神
此邦の醫者、毎年冬至の日に當れば、神農祭と稱し、赤豆餅、赤豆飯、又は酒肴盛饌の具を調へ、親戚交友を集め、賀宴する事、常例となれり、
p.1030 九御方夫、右近衞醫師和氣明治也、毒藥之道分別、術方之計無レ極、看病療疾之佛也、遺針灸治之神也、知二六腑五臟之胗脈一、探二四百四病之根源一、順レ方治レ病、任レ術療レ疾、擣簁合藥、搗抹㕮咀之上手也、不レ異二於耆婆醫王一、相二同於 神農( ○○)鶣鵲一、彼雪山童子之日日採レ草、蓬萊方士之年年拾レ藥、只聽レ名無レ益乎、
p.1030 人の才能は、文あきらかにして、聖の敎をしれるを第一とす、〈○中略〉次に 醫術( ○○) を習ふべし、身をやしなひ、人をたすけ、忠孝のつとめも、醫にあらずは有べからず、
p.1030 扁鵲六不治
驕恣不レ論レ於レ理一不治也、輕レ身重レ財二不治也、衣食不レ能レ適三不治也、陰陽並臟氣不レ定、四不治也、形羸不レ能レ服レ藥、五不治也、信レ巫不レ信レ醫、六不治也、
p.1030 貴者難
貴者有レ疾尤爲レ難レ 、郭玉對二和帝一言有二四難一焉、見二于後漢書一、余謂、 貴者難レ ( ○○○○) 、其由豈止レ四、衆人儳和而醫令不レ行、婦人執レ事而將息失レ度、藥則先二適口一、而不レ要レ利レ病、方則專二補益一、而忌二疏滌一、並皆其所二以爲一レ難レ 也、且夫君上疊二膝於深宮之中一、氣血抑遏、無レ從二疏通一、寘二身於温柔之鄕一、 喪過レ寸、罔レ省二節制一、五鼎八珍餖二飣于前一、重幌密幃燠二鬱于後一、無二一不一レ爲二疾病之資一矣、其既然矣、以レ是賢君擧下醫知二頤生之道一者上、以任二之獻替一、此謂三之治二未病一也、
p.1030 金峩〈○井上〉有レ病、家人進レ藥、金峩有二難色一不レ嘗、至二病稍重一、家人及子弟苦進レ之、金峩笑曰、漢世之人有レ言、曰有レ病不レ治、常得二中醫一、醫術之難古猶如レ此、況於二後世一乎、我病而不服レ藥、猶勝三於得二當今之上醫一矣、
p.1030 醫道難レ明、醫書難レ讀、素靈難經、先秦古書也、非レ知二古文辭一不レ能レ讀也、臟腑之玄奧、脈理之 精微、病情之難レ得、治法之多端、苟非レ致レ思不レ能レ入二其肯綮一、人命所レ懸、其猶可下以二小技一輕上レ之乎、世之業レ醫者、率不レ讀レ書、其能讀レ書者、多爲二儒者流一而不レ屑レ爲レ醫、嗟夫世之無二良醫一不二亦宜一乎、
p.1031 醫在レ務レ本論〈○中略〉
夫肄レ醫者、初學二素樞難經一 三年( ○○) 、通二其大義一、藏府經脈之微、運氣之變、病邪之因、鍼灸之法、盡二于此一焉、次學二本草一 二年( ○○) 、藥性氣味補瀉温凉、盡二于此一焉、次讀二張長沙、及劉張李朱之書一 二年( ○○) 傷寒、内傷、雜病諸科盡二于此一焉、而更互縯繹、融會貫通、醫之大本可レ知矣、次同友相會、表下出古人醫案切二於今病一者上、各書二一紙一互問下此證名状奈何、此病治方奈何上、默計熟察而詳對レ之、考下其辨レ證處レ治與二古人一合否上、以自求二其所一レ不レ至、日錬月鍛、如レ是 一年( ○○) 、 而後初可レ臨二病家一( ○○○○○○○) 、屢經二效驗一而率得二療術之蹊路一、而後從來所二講習一所二積思一、自然奮發、泛應曲當、探レ頤鉤レ深、辨レ疑解レ紛、無下所レ治而不中適中上、藐藐乎踰二越庸醫之群一、譬如二材木有レ餘大廈乃成、輜重足而三軍易一レ發、其學未レ熟、愼莫三喜施レ藥求二功效一、假令偶中、君子之所レ恥也、不二自修一而治レ人、不レ播レ種而求レ稼、是謂二其本亂而末治者否一矣、易曰、公用射二隼於高墉之上一、獲レ之无レ不レ利、聖人曰、隼者禽也、弓矢者器也、射レ之者人也、君子藏二器於身一待而動、何不レ利之有、後世奔兢之徒、今日見二一二卷方書一、明日稱レ醫施レ藥、不二爲レ渠見一レ誤者幸而已、且夫將二大有一レ爲者、必伸二於久屈之中一、發二於持滿之末一、如二良將之用一レ兵、多類二于是一、王翦攻レ荊、堅レ壁而不二肯戰一、荊兵數挑終不レ出、日休レ士撫二循之一、久而一擧大破レ之、今 學レ醫者厚積十年可二以稱一レ醫( ○○○○○○○○○○○) 矣、蓋氣質之性有二利鈍一、故成レ器有二遲速一、利者不レ得二十年一、鈍者或倍レ之、是故成レ器先後存二乎性一、廣濟二衆病一存二乎精一、爲二天下一所レ重存二乎命一、醫豈易レ道哉、
p.1031 初學治療ノ才ヲ長ゼント思ハヾ、必ズ抄書ノ業ヲ務ベシ、抄書トハ、俗ニ云フヌキガキノ事ナリ、其法、先一小册子ヲ作リ、方彙ノ如ク、各病名ノ部門ヲ分チ定メ、平日之ヲ座右ニ置キ、書見ノ毎度、要語奇方ニ遇ハヾ、俗書抄藥等ノ嫌ヒナク、少シモ治療ノ助ニナルベキ處ハ、悉ク彼ノ册子抄寫スベシ、仙氣ノ方ヲ得バ疝氣門ニ、頭痛ノ要語ニアハヾ頭痛門ニ書入ルベシ、而其出 書ハ、勿論紙ノ丁數ヲモ悉ク書記スベシ、譬ヘバ、氣謂二口鼻中氣息一也、〈東醫寶鑑雜病篇六十丁〉ト記スノ類是ナリ、是他日其全書ヲ見タキ時、捜索ニ便ゼンガタメナリ、其中要論ノ長文ナドハ、ヨキホドニ、上中下ノ文義ヲ通ズルマデニ、截割シテ記スベシ、而册子ノ仕立ハ、隨分トテイネイニ裝修スベシ、裝修嚴ナル時ハ、之ヲ掌上ニアゲテ自它ノ觀美トモナリ、之ヲ高閣ニ束テ、吾ガ心目ヲ悦シメ、自其業モ永ク廢レズ、作者ノ苦心モ永ク傳ル等ノ益アレバナリ、此抄書ノ業、精事久シキニ從テ、册子ノ卷數モ增スナリ、此册子ヲ取テ、治療間暇ノ會ニハ、必ズ亦之ヲ讀ベシ、又治療ノ間ダ難病奇證ニ臨ミ、若シ此ノ册子中ニ於テ、思ヒ中リタル奇方要論アラバ、親シク之ヲ其病人ニ就テ試ミテ、効ヲ奏スル事三人以上ニ及ブ時ハ、是眞ノ經驗トイフ、此經驗ノ事ヲバ、又別ニ國字ニナリトモ、文ニナリトモ記シ置、之ヲ人ニモ傳ヘ、世ニモヒロメテ、人ノ治療ノ助トナスベシ、是ヲ眞ノ濟世ト云フ、凡ソ抄書ノ業ヲ、三年ガ間ダ、怠慢ナク黽勉刻苦テ務ルトキハ、必ズ名手良醫ノ名譽ヲ得ン事、更ニ疑ナシ、其故ハ總テ日課ノ益ヲ得ル事、毎日十條ヅヽニシテモ、一年ノ益ヲ數ルニ三千六百條、三年ヲ通計スレバ、一萬八百條ナリ、一日ノ課業十條ヲ度トセンニハ、甚ダ輕キ事ニテ、讀書ニ耽ル者ハ、朝食ヲ終フル間ニモナルベキ事ナリ、然レドモ人ノ性ニ利鈍アリ、讀書ニ好不好アリ、其外飮食病災世應交義ノ爲ニ、ヨリドコロナク日ヲ空クスル事アリ、彼此ヲ平均テ、其半ヲ減ジ、毎日ノ謂益五箇條ヅヽト見テモ、三年ノ益スル所ヲ通計スルニ、五千四百條ナリ、スベテ和歌ニテモ、詩ニテモ、三千首以上ヲ記誦スルトキハ、必ズ其道ニ通逹セラルト云フ、何ゾヒトリ醫事ノミ然ラザランヤ、予〈○津田玄仙〉三十ノ頃ヨリ、此課業ヲ思ヒ立テヨリ以來、四十八ノ今年マデ、抄出ヲ怠ラズ、卷數既ニ百卷ニモ及ベリ、其ニツイテ、治療ノ手談モ、一年ニ一年ヨリモ大益ヲ得ル事、身ニ覺ヘ心ニ徹シテ知ラルヽナリ、
p.1032 日本國紀事〈○中略〉
敎師マルチニユス氏及ビ其他ノ著書家云ヘラク、日本ノ醫道ハ支那ニ出タリト、醫師ハ病者ニ問フコトナク、唯半時許診脈シテ、脈動ト病ノ經過ニ因テ病源ヲ判ス、此國ニハ藥室アルコトナシ、醫師ノ僕、小サキ葯籠ヲ持チ、之ニ從フ、葯籠ノ中ニハ、十二箇ノ抽斗アリテ、四十四ノ葯囊ヲ容ル、各種ノ草木及ビ乾藥ヲ充實ス、醫師ハ此内ヨリ應用ノ物ヲ調合シ、之ヲ混交シ、病者ノ家ニテ之ヲ煎ズ、又熱病ニ小サキ鋭利ナル金針ヲ病者ノ皮膚ニ六ケ所モ刺入シ、之ヲ療治スルアリ、此法支那ニモアリ、又大病ニハ病者ノ皮膚二十箇所以上モ灸スルコトアリ、小ニシテ燃ヘ易キ乾艾ヲ丸メ、之ニ火ヲ點ズ、燃ヘ了テ灰トナリ、之ヲ除ク時ハ、其燒キシ所黑痕ノ生ズルヲ見ルナリ、
p.1033 千田大圓堂嘗謂曰、方技之士、與二儒者一異矣、身不レ顯者、以二其術拙一也、而以二遇不遇一自諉、可レ笑之甚、人之爲レ疾豈有レ時乎哉、