p.0587 菓子ハ、クワシト云フ、原ト草木ノ果實ヲ用イテ、從食ト爲シヽモノニシテ、桃、栗、梨、柿、柚、柑、橘瓜等ノ類ヲ謂フ、後ニ唐菓子ニ對シテ之ヲ木菓子ト云フ、又水菓子ノ稱アリ、唐菓子トハ支那ノ製ニ傚ヒタルモノニテ、梅枝、桃枝、餲餬、桂心、黏臍、饠饆、 子、圑喜ヲ八種ノ唐菓子ト云ヒ、其他餅腅、餢飳、糫餅、結果、捻頭、索餅、粉熟等アリ、是等ノ菓子ハ概ネ糯粉、小麥粉、大豆、小豆等ノ類ヲ以ヲ以テ製シ、酢、醬、鹽、胡麻等ヲ加ヘ、又ハ甘葛汁ヲ加ヘタリ、餅腅ハ餅中ニ裏ムニ、鵝鴨等ノ子、并ニ雜菜ヲ煮合セテ截リタルモノニシテ、餢飳ハ油ニテ煎タル餅ナリ、而シテ結果索餅等ハ形状ヲ以テ名トセリ、 後世、沙糖ヲ外國ヨリ傳ヘシ以來、菓子ノ製爲メニ一變シ、一トシテ沙糖ヲ用イザルハ無キニ至レリ、即チ當時ノ菓子ニハ、餅菓子、蒸菓子、練菓子、干菓子、南蠻菓子等ノ別アリテ、餅菓子ハ、餅製ノ諸菓子ヲ謂ヒ、蒸菓子ハ、饅頭求肥ノ類ヲ謂ヒ、練菓子ハ、羊羹、外郞餅ノ類ヲ謂ヒ、干菓子ハ、煎餅、落雁、白雪糕等ノ類ヲ謂ヒ、南蠻菓子ハ、カステイラ、カルメイラ、有平糖、金米糖等ノ類ヲ謂フナリ、
p.0587 菓子(クハシ)
p.0587 菓子 しまひこ〈菓子名也〉 このみ かぐのみ〈とこよの國より持來、垂仁天皇取遺、天皇崩後持來、〉
p.0588 中頃の名に隨へば、蒸菓子はみな點心に屬し、干菓子は茶子といふべけれど、そのかみはさにあらず、なべてくだものといへり、
p.0588 果子 按環餅捻頭之輩、皆呼曰二果子一、言雙二於桃李杏柑之右一也、説郛市肆記亦以二糖餅之屬一入二果子部一、則同意而已、凡製二下品果子一者、用レ麪稍腐熟而造レ之、且用二檰實灰汁一煎爲レ膏、少許和二麪中一〈其味微辛温有二小毒一〉也、否則熬レ之而不二脹大一也、用二黑沙糖一、或用二膠飴一代二沙糖一、皆計二利用一然爾、雖二上果子一皆糯麪熬成、故乾レ咽多食則瀉、其味甘爲二疳病之基一、小兒及病人不レ宜、況於二賤果子一乎、
p.0588 一菓子の事は、いにしへ菓子といふは、今のむし菓子干菓子の類をいふにはあらず、多はくだ物を菓子と云也、栗、柿、梨子、橘、柑子じゆくし、木練柿(コネリガキ)、などの類、又はいも、くわゐ、かうたけ、椎たけの類を煮しめ、又は干鱧をやき、又鮑、さゞゐなどを煮て、きそくをさしたる類を、茶菓子にする也、もち、まんぢうの類をば、點心といふ、やうかん、べつかんのるいをばかんと云、菓子とは不レ言なり、
p.0588 果子 説文曰、果木實也、俗从レ艸者誤、〈類書纂要曰、説文曰、在レ木曰レ果、在レ地曰レ蓏、有レ核曰レ果、無レ核曰レ蓏、植生曰レ果、蔓生曰レ蓏、木實曰レ果、草食曰レ蓏、〉周必大高宗幸二張府一節次略、香圓、眞柑、石榴、橙子、鵞梨、乳梨、榠楂、花木瓜、謂二之八果一、荔枝、圓眼、香蓮、榧子、榛子、松子、銀杏、梨肉、棗圈、蓮子肉、林檎旋、謂二之乾果子一、此其正名也、後世粉麪飴糖、爲二果花禽魚之形一者、亦通稱二果子一、或从二食旁一、又从二米邊一、市肆紀所レ載、可二以見一已、其品目多端、不レ暇二枚擧一、束晢所レ謂或名生二于里巷一、或法出二于殊俗一、如二劒業、案成、宜利少、望口消一、後世莫レ曉レ爲二何物一也、況在二此方一劑龢殊レ法、而俚俗復味二於字法一、所レ命多失二其義一、大抵漢人造二甜食一、用二粉麪黍秫、紅菉諸豆、飴糖、香油、酥蜜、及諸般香料一、加以二葱肉之味一、在二此方一、粉麪黍秫、紅菉諸豆、飴糖雞卵之外、加以二椒桂薑蘇、胡麻芥子之類一耳、如二羊肝糕一、以二紅豆白糖一成レ劑、牛皮糖以二糯粉 糖滷一爲レ餅、無レ有下用二葱肉一者上也、且古者無二沙糖一、唯用二酥油飴餳一調龢、後世甜食無下不レ用二沙糖一者上、故古今名同而實異者、十八九、龢名鈔、江家次第、拾芥鈔諸書所レ載甜食品、今人多不レ能二辨識一、
p.0589 今世以二沙糖一製二米粉葛粉等之物一、總稱二之菓子一、菓者木實、本果字、漢書作レ菓古者榛、核、棗、栗、桃、李、橘、柑、櫻、桃之類、稱二之菓子一耳、後世因以爲二甘味之通稱一、然於レ義不レ通、
p.0589 古へ菓子は木の實の外には、からくだものとて、漢土の寒具の類を學びて造れるもの種々あり、寒食は冬至より百五日を、三月の節とす、即晴明なり、漢土は舊例にて、此日火を焚ざれば、前日より種々の菓子を調へ置て食ふなり、あたゝかなる食ものなければ、これを寒食と云ふ、寒具はその備への食物なり、本草和名に、沙糖を載たれども、藥劑に備るまでにて、漢土より渡れるはいと希なるべし、和名抄に、是を載ざるにても知べし、然らば菓子などに用る事あるべからず、
p.0589 菓子 古ハ桃、柿、梨、栗、柑子、橘ノ類ノ、凡テ菓實ヲ菓子ト云コト勿論也、 今世ハ右ノ菓實ノ類ヲ、京坂ニテ和訓ヲ以テクダモノト云、江戸ニテハ水グワシト云也、是干菓子、蒸菓子等ノ製アリテ、此類ヲ唯ニ菓子トノミ云コトニナリシニヨリ、對レ之テ菓實ノ類ハミヅ菓子ト云也、
p.0589 菓子の心得の事 一菓子といふは、砂糖にて製たるものにあらず、菓子はくだ物也、四季の木實草實をいふ、料理の終りに出すは、料理の厚味魚鳥を食し、食熱をさますため也、料理にかゝはりたるにはあらず、後に工夫ありて作れる也、砂糖は冷なる物なれば、惡き物にあらず、宜といへども、さりながら木の實草の實を盛合出すが宜し、此理を捨べからず、茶請は砂糖にて作りたる品宜し、茶の味ひには 宜もの第一也、仍て茶菓子とは獻立には書ず、茶請と書事也、
p.0590 仁治二年十二月一日甲寅、酒宴經營之間、或用二風流菓子一、或衝重外居等、畫圖爲レ事、御所中之外、向後一切可レ停二止如レ此外過分式一之由、被レ觸二仰諸家一、
p.0590 先月三日料理茶屋、菓子屋共之内、新製之品致二工夫一、賣買致候哉之者之分、北御番所〈江〉被二召出一、厚御敎諭有レ之候處、大店菓子屋共儀者、御主意相守、手數相掛候新製等者、致間敷哉ニ而、御呼出無レ之處、心得違之者も有レ之哉、手を込メ候品致二賣買一候も有レ之趣、御沙汰有レ之候由ニ而、本町壹丁目鈴木越後事淸五郎外廿壹人、館市右衞門殿〈江〉被二相呼一、心得方御尋有レ之、別紙之通返答書、并拙者共より添書差出候處、右御答書北御番所〈江〉差上被レ置候旨被二申渡一候、末々菓子屋共ニ至リ、不同無レ之樣、組々名主より通達いたし可レ置旨、市右衞門殿被二申渡一候間、御組合重立候菓子屋共者勿論、小前菓子屋共裏家住居分共、不レ洩樣得ト御申渡置被レ成候、此段御達申候、以上、 丑〈○天保十二年〉十二月十一日 鷲 雄左衞門〈○以下七名略〉 以二書付一奉二申上一候 一本町壹丁目家持淸五郎、京都住宅ニ付、店支配人善藏外廿一人、私共商賣體之義ニ付、今般御調有レ之候ニ付、左ニ御答奉二申上一候、 一當六月中、厚御主意之趣被二仰出一候内、私共商賣體ニ而、高價之品向後製方仕間敷段、御觸之通一同申合奉レ畏御請仕候、尤被二仰出一候已前蒸菓子類之内、大サ目方等ニも寄候得共、蒸菓子壹ツニ付、貳三分nan五分位迄、製方出來仕候、且又羊羹類壹棹ニ付、三匁四匁餘迄者製方仕來候處、格別之御主意ニ付、相止罷在候處、當十一月三日、北御番所〈江〉菓子屋共之内、并料理屋被二召出一、厚御敎諭有レ之私、共一同難レ有仕合奉レ存候、然ル上者、已來厚御主意不レ洩樣一同申合、見世賣饅頭薄皮之類、小壹ツニ付銀五厘、大壹ツニ付壹分限、蒸菓子並壹ツニ付銀五厘、上壹ツニ付壹分nan壹分五 厘迄、並羊羹壹棹ニ付銀壹匁、煉羊羹之類、壹棹ニ付銀貳匁迄ニ相極、高直之品者、製方一切仕間敷候旨、私共一同申合仕、御尋ニ付此段申上候、以上、 天保十二丑年十二月三日 〈菓子屋〉貳拾壹人連印 市内取締掛 名主衆中 下ゲ札此趣市中取締掛名主限ニ而、菓子屋共申立之通爲二相心得一、一兩月相試、直下ゲ并目方大小等不相當之義も無レ之候はゞ、其節一同行屆候旨を以、此書面相添可二申立一候、 十二月八日、御附札を以被二仰渡一候、 乍レ憚以二書付一奉二申上一候、 一當夏厚御主意之趣被二仰渡一、尚又當十月御觸有レ之候、不益ニ手間掛候、高直之菓子類料理等、向後無月ニ候、是迄拵來候共相止可レ申旨奉レ畏候、其上先月三日、北御番所nan菓子屋共之内、并料理屋被二召出一、厚御敎示有レ之候、私共難レ有奉二承伏一、其後ハ不益ニ手間掛候、高直之菓子類製方不レ仕候、 一然ル處、私共心得方厚御尋ニ付、尚又今般申合、八重ニ手間掛、直段ニ可レ拘儀不レ仕候、 譬ば琥珀饅頭と唱、小豆餡、金玉糖ニ而包候者、通例之製方ニ有レ之候處、右ヲ紅餡、百合餡等ニ仕、八重ニ手數相掛候製方、已來決而不レ仕候、 一金とん類、是迄求肥種ニ而製方仕候ヲ、已來養生餅ニ而製方可レ仕候、 右次第ニ都而心掛申合仕、此段御答申上候、以上、 天保十二丑年十二月三日 〈菓子屋〉貳拾貳人連印 館御役所 下ゲ札 此菓種寒晒之粉を惡拔砂糖ニ而煉製候は、求肥種有レ之餅米ヲ生砂糖ニ而製候者、養生餅ニ而、右求肥種nanは、直段手間共下直ニ相當申候、 今般享保寬政度御主意被二仰出一御座候ニ付、先月三日、料理茶屋菓子屋共之内、新製之品賣買仕候者共、北御番所江被二召出一、厚御敎諭有レ之、一同難レ有奉レ存候、然ル處、大店菓子屋共儀者、御趣意相守手數相掛、新製等仕間敷哉ニ而、御呼出無レ之處、心得違之者有レ之哉、大店菓子屋共之内、手を込候品致二賣買一候も有レ之趣ニ付、右心得方御尋ニ御座候間、取調候處、先達而御主意被二仰出一有レ之、其後料理茶屋、菓子屋共〈江〉厚御敎諭御座候ニ付、一同相辨罷在、被二仰渡一已前、蒸菓子壹ッニ付銀二三分nan五分位、羊羹壹棹ニ付銀壹匁nan三四匁位之品者賣買仕候得共、御主意被二仰出一後、蒸菓子壹ツニ付銀五厘より壹分五厘迄、羊羹壹棹ニ付壹匁より貳匁を限り賣不レ仕、猶此上申合、銘々召仕共〈江〉も嚴敷申付置、手を込候高價之品、賣買仕間敷旨、別紙之通申立候、依レ之此段申上候、以上、 但菓子折賣錢之内、木品相撰候も御座候得共、御主意被二仰出一後、仕入等決而不レ仕旨申立候、 十二月三日 安針町 名主 雄左衞門〈○以下七人略〉
p.0592 御札之旨委細承候、大齋之體、心事難二申盡一候、抑調菜人等事、無二可レ然仁一候之際、粗任二愚才一令二注進一候、〈○中略〉菓子者、抽柑、柑子、橘、熟瓜、澤茄子等、可レ隨二時景物一也、〈○中略〉時以後菓子者、生栗、搗栗、串柿、熟柿、干棗、花梨子、枝椎、菱、田鳥子、覆盆子、百合草、零陵子、隨二御目愛一可レ用レ之、
p.0592 菓子者可レ爲二荔枝龍眼生栗一候也、夏者唐瓜、大和瓜、白瓜、杏、梅、李、桃、水茄子、芡菱也、
p.0592 菓子者、靑梅、黄梅、枇杷、楊梅、瓜、茄、覆盆子、岩棠子(イハナシ)、桃、杏、棗、李、林檎、石榴梨、柰(カラナシ)、柿、椑(ホシガキ/コネリ)、栗、推、金柑蜜柑、橙橘、鬼橘、柑子、鬼柑子、雲州橘等、
p.0592 凡供二神御一雜物者、大膳職所レ備〈○中略〉橘子筥十合、〈別納二十蔭一〉搗栗子筥五合、〈別納二一斗一〉扁栗子 筥五合〈別廿籠不レ開〉干柿筥二合、〈別納二五十連一〉梨子筥五合、〈別納二一斗一〉煠(ユチ)栗子筥六合、〈別納二一斗一〉削栗子筥二合、〈別納二二斗一〉熟柿筥三合、〈別納二一斗一〉柚筥二合、〈別納二三顆一○下略〉
p.0593 凡中男一人輸作物、〈○中略〉平栗子四升、搗栗子七升、〈○中略〉 丹波國〈○中略〉 中男作物、〈○中略〉平栗子、搗栗子、〈○中略〉 美作國〈○中略〉 中男作物、〈○中略〉搗栗子、 備中國〈○中略〉 中男作物、〈○中略〉搗栗子、
p.0593 造二雜物一法 平栗子料、生栗子一石得二一斗二升五合一、 諸國貢進菓子 山城國〈郁子四擔、葍子一擔、覆盆子一棒、楊梅子三擔、平栗子十石、〉大和國〈葍子一擔、楊梅子二擔、榛子、〉河内國〈葍子一擔、覆盆子一棒、楊梅子一擔、椎子一擔、花橘子一擔、蓮根五百六十節、木蓮子、〉攝津國〈葍子二擔、覆盆子四擔、楊梅子四擔、花橘子二擔、〉和泉國楊梅子一擔伊賀國〈甘葛煎一斗〉伊勢國〈椎子二擔〉遠江國〈甘葛煎二斗、甘子四擔、〉駿河國〈甘葛煎二斗、甘子七擔、〉伊豆國〈甘葛煎二斗〉甲斐國〈靑梨子五擔〉相模國〈橘子十擔、甘子、〉近江國〈郁子二輿籠〉出羽國〈甘葛煎二斗〉越前國〈甘葛煎一斗、署預二擔、署預子二棒、椎子、〉加賀國〈甘葛煎〉能登國〈甘葛煎〉越中國〈甘葛煎一斗〉越後國〈甘葛煎一斗〉丹波國〈甘葛煎六升、甘栗子二棒、搗栗二石一斗、平栗子、椎子、菱子二棒、〉丹後國〈甘葛煎一斗〉但馬國〈搗栗子七斗、甘葛煎、〉因幡國〈甘栗煎一斗、平栗子五斗、椎子一擔、梨子二擔、柑子干棗、〉出雲國〈甘葛煎二斗〉播磨國〈椎子一擔、搗栗子、〉美作國〈搗栗子七斗、甘葛煎、〉備前國〈甘葛煎〉備中國〈甘葛煎一斗、諸成、〉紀伊國〈甘葛煎七升〉阿波國〈柑子二輿籠、數四百顆、甘葛煎一斗五升、〉大宰府〈甘葛煎七斗、但木蓮子者、筑前國部内諸山及壹岐等島所レ出之中擇二好味者一年中貢、〉 右依二前件一、〈其數臨時增減〉隨レ到撿收附二内膳司一、但甘葛煎直進二藏人所一、
p.0593 大饗 尊者〈○中略〉 木菓〈梨、棗、柑、獼猴桃、○中略〉 納言以下〈○中略〉 木菓〈梨、棗、柑、○中略〉 辨少納言〈○中略〉 木菓〈梨、棗、○中略〉 外記史〈○中略〉 木菓〈梨、柑、○中略〉 史生 中純物六坏〈餅、伏莵、鉤、大柑、小柑、串柿、○中略〉 五菓 柑、橘、栗、柿、梨、〈一云李(東)、杏(西)、桃(南)、栗(北)、棗(中央)、一云松子、棗、石留、橘、栢、〈近代用之〉〉
p.0594 干菓子 松實 栢實 柘榴 干棗 或有下供二五菓一之例上、相二加搔栗一坏一、或用二時菓子一、 木菓子〈號二時菓子一〉 栗 橘 杏 李 柑子 桃 獮猴桃 柿等用レ之 時美菓四坏供レ之、御移徒五菓陰陽寮注申、李〈東方〉杏〈西方〉棗〈中央〉桃〈西方〉栗〈北方〉若無レ之者、宜レ用二時美菓一云々、〈○中略〉 干菓子 松實 栢實 柘榴 干棗 松子五葉子ト云、イリテカハムキテモル、栢子コレモイリテモル、柘榴カハムキテモル、干棗熟シタル棗ヲカハムキテ、ムシテホス、アマツラヲヌルト云々、イクタビモホスタビニコノ定ニスベシ、栗搔栗ニテモルベシ、 〈裹書〉松ノミナキ時、シロキサヽゲヲモル、栢ナキ時、粉餅ノヤウニツクリテ、サクツライレクシテイリテ、カタナニテウヘヲコソゲテモル、棗ナキ時、クシガキヲモル、
p.0594 調膳樣事 菓子 高盛程成〈○中略〉 大柑子 袋脱(ムイ)テ聊付レ皮盛レ之甚非也、全分皮ヲ脱、厚方ヲ外ニテ可レ盛也、 小柑子 半破ニシテ仰ザマニ盛也 不レ破不レ脱只不レ變二其體一盛レ之、春柑子類を爲レ上之由、兒女子申、全不レ知レ之、只隨二其色一便宜居レ之歟、 棗 獼猴桃(コクハ/シラクチ) 共不レ脱盛レ之、コクハ晴菓子必可レ盛レ之、 梨子 柘榴 栗 柿 署預(ヤマノイモ) 野老(トコロ) 已上皆脱盛レ之 梨子ハ乍レ付レ莖ムキテ切重テ可レ盛歟、但大ナルハ不レ可レ叶、大饗ニハムキテ不レ切、莖ヲ上ニシテ盛居レ之、取レ莖テ捧持テ食レ之也、 生栗脱レ之、搗栗、平栗非二其限一事也、 署預ハ、短切テ所々ヲユガメテ可レ盛、 串柿ハ取二實ヲ一可レ盛、淡柿(アハシガキ)ハムキテ仰ザマニ可二盛入一、交菓子之外以二薄樣等一不レ裹レ之、 油物 尤可レ有レ之、菊花之體ナル物、并枝等ニツクルハ不レ盛レ之歟、 興米 杤(トチ) 興米必可レ盛、切樣共不レ知二其本體一、可レ有二人心一歟、 甘栗籠 交菓子之外不レ用レ之 山女(アケヒ) 晴菓子ニハ不レ見、内々事歟、食時皮ヲ切棄テ羞レ之不レ惡、但稱レ似レ虫不レ切人在レ之、 居笥立二薄樣一時、調二菓子一儀只同事、〈全不レ可レ違〉 二種菓子時、大小甘子各二合殊不レ然事歟、 交菓子笥甘栗籠事必然也
p.0596 元日 御節供事 殿下御料〈朱器○中略〉 菓子八坏 四坏 柘榴 棗 栢 松 四坏 甘子 橘 梨 栗 北政所御料〈栗栖野樣器○中略〉 時菓子八坏〈同前〉 十五日 粥御節供事 殿下御料十二本〈○中略〉 御菓子二前 一折敷 松 栢 棗 柘榴 一折敷 栗 甘子 橘 獼猴桃
p.0596 康平三年七月十七日癸卯、申刻納言殿下〈○藤原師實〉令二參内一給、〈○中略〉入レ夜出二御里亭一、主人先入レ自二東門一、〈○中略〉諸卿以下列二立中庭一、〈○中略〉公卿以下座定之後、立二机公卿座前一、赤木机各一脚、〈○注略〉次居二菓子肴物等一、菓子二坏、〈梨栗〉干物二坏、〈干鳥、蒸蚫、○下略〉
p.0596 保延二年十二月日、内大臣殿〈○藤原賴長〉廂大饗差圖、 菓子八種〈○中略〉 大柑子〈乍レ丸廻盛〉 小柑子〈同前〉 橘〈同前〉 栗〈乍レ皮廻盛〉 串柿〈乍レ串重テ母寄〈天〉切、八寸引渡盛レ之、〉
p.0596 一同十一日御評定始、〈○中略〉式ノ御肴ニテ御酒三獻參、〈○中略〉御菓子栗柑子二色、御手懸ニ置テ參、少モ致二油斷一ハ越度有也、上古ニモ御菓子ノ栗ヲ落ト、諸亭ノ記録ニシルサレタ ル人有、依二斟酌一名字ヲバ不レ記、御茶ハ不レ參、菓子ノ膳ヲバ各持テ御座ヲ被二罷立一也、
p.0597 濃州の岐阜に不動院とて眞言宗の老僧あり、正月の菓子に、國の名物なる枝柿三ッすゑて出し、其分にて毎年時宜調ぬるを、おどけ者よく見知て、あまりにしはきはたらきをよく見、例の菓子出ける時、あら珍しや賞翫申さんと、一ッならず二ッ迄くひけり、院主は苦々敷事におもはれ、あのていならばみなくはれん、さらば愚僧も相伴仕らふと、とりてくはれける心の内ぞをかしき、
p.0597 一ある人ちやぐわしに、みつかんと、杏仁と、くろまめを出して、うたよめとありければ、 題はみつかんにたえたる御所望のうたをあんずるみはくろふまめ
p.0597 文化七年十一月十八日己巳、自二臈一昨夜〈○豊明節會〉之木菓子三種〈大棗、干柿、搔栗、〉内膳司令二入魂一申受候間、令二頂戴一頒贈給了、
p.0597 水菓子は五六寸位の皿へ盛、臺へ載、〈○中略〉 但眞桑瓜は皮を六ッ半に剥、土用前土用中は竪に四ッに切、種の所を能鋤取、橫に二ッ三ッに切、土用過は輪切にして種の所を能鋤取、又二ッ程に切て盛、いづれも小皿へ鹽を少し計添る、西瓜は皮を剥、長臺寸位宛に切て、小皿に砂糖を添る、但砂糖なくば添ずともよし、 桃は皮を剥、竪に四ッに割、種を取て盛る、 梨はじくの付たる方を、先一切小口切にして、朶(じく)の際迄皮を剥、朶とも二ッ歟四ッに割、又大なる方は皮を剥、四ッ五ッ程に小口切にして盛、右の朶付を盛添る、多く出す時は肉計扮(そい)で盛、右の通朶付を盛添るもよし、 林檎は皮を剥、肉計扮て盛、又皮計剥、小刀を添て出すもよし、 柿は皮を剥、竪に二ッに割しんを取、丸き方へ橫竪に二ッ宛、井桁に庖丁目入て盛る、 蜜柑は皮のまゝ、竪に三ッにわりて盛る、 九年母は蜜柑同樣にても、又は皮の儘竪に二ッに切、それを橫に二ッ三ッに切て盛もよし、葡萄は一房を三ッ四ッ程に切て盛る、
p.0598 歡喜團 楊氏漢語抄云、歡喜團〈(中略)今案俗説梅枝、桃枝、餲餬、桂心、黏臍、饆饠、 子、團喜、謂二之八種唐菓子一、〉
p.0598 梅枝 桃枝 餲餬 桂心 黏臍 饆饠 鎚子 團喜〈謂二之八種唐菓子一〉
p.0598 大饗 尊者 唐菓〈餲餬、桂心、黏臍、饆饠、○中略〉 納言以下 唐菓〈餲餬、桂心、饆饠、○中略〉 辨少納言 唐菓〈餲餬、桂心、○中略〉 外記史 唐菓〈餲餬、桂心、○中略〉 史生 中純物六坏、〈餅、伏莵、餉、大柑、小柑、串柿、○中略〉 餛飩〈○中略〉 八種唐菓 梅、桃、餲、桂、黏、饆、 、團、 謂、梅枝、桃枝、餲餬、桂心、黏臍、饆饠、 子、團喜
p.0598 元日 御節供事 殿下御料〈朱器○中略〉 唐菓八坏 梅枝 桃枝 餲餬 桂心 黏臍 饆饠 子 團喜〈○中略〉 北政所御料〈栗栖野樣器○中略〉 唐菓子八坏〈靑四坏赤四坏〉
p.0598 餻〈○中略〉 通雅によるに、環餅捻頭饆饠餺飩等の如き、かしこにては詳ならざりしと見えたり、我國には、猶今も是等のものゝ遺制はある也、我〈○新井君美〉むかし御厨子所より、公にまいらせしものどもを見る事をも得たりき、それが中に、俗間にも其製のなをのこれるもあるなり、團喜は俗にダンゴといふものゝ形の如く、餡といふものをもて裹める也、粘臍は俗にヘソといふものゝ形是也、餲餬はもとこれ蝎といふ蟲の形の如くなるをいひけり俗にサヽモチ といふものゝ中に、其形なるものある也、饆饠はヒラ也、俗に花瓣といふものゝ形に似て、 子は俗に芋の子などいふものの如くなる也、是等の事共しるしぬるは煩しけれど、異朝にしては、既に其名もさだかならぬもの、我朝には猶ありしまゝに、其制の遺りぬるは、いとめづらかに覺しが故也、
p.0599 東海平子文〈名維章稱二篠崎金吾一〉朝野雜記に云、上世ノ干菓子四品アリ、其形左ノ如シ、〈○圖略〉右四品上世ノ干菓子ナリ、此外ニ更ニ無レ之、濱島内膳傳ヘテ其圖ヲ藏ム、津村總左衞門予ニ傳フ、菓子ノ菓草冠アルハ訛ナリ、果子ト書クベシ、按ずるに、説文曰、果木實也、俗从レ艸者誤とあり、果子はもと木實なれども、すべての寒具を乾菓子といふ、源順和名鈔に、餛飩、〈四聲字苑、餛、飩、餅、剉レ肉麪裹煮レ之、〉餲餅、〈四聲字苑名二剪麪一、作二蝎蟲形一俗云二餲餬一、〉あり、又歡喜團の下に、一名團喜俗以二梅枝、桃枝、餲團、桂心、黏臍、饆饠、 子、團喜一、謂二之八種唐果子一とみえたれば、餲籠、桂心、渾沌の三は唐より傳へ、加久繩は此方の製なるべし、今の果子に加久繩の形したるを、俗にねぢがねといふにも、古今の語の雅俗をしるべし、近世都下乾果子の 製造、年々に奇巧を競ふ事甚しきにつけても、上世の質朴を思ふべし、況や上世にわたらざる砂糖といふもの、世に行はれてよりこのかた、天下の果子の味一變せるをや、
p.0599 唐菓子 梅子〈枝〉 桃子〈枝〉 餲餬 桂心 黏臍 饆饠 子 團喜 是謂八種唐菓子 又靑〈縹綠〉赤〈蘇芳〉黄色等用レ之、或濃食用レ之、近代以二一色一一折敷居レ之、梅子桂花等可レ供レ之、〈○中略〉 八種唐菓子 バイシ(梅子) タウシ(桃子) ケイシン(桂心) テンセイ(黏臍) ヒラ(饆饠) ダンキ(團喜) ツイシ( 子) カンコ(餲餬) 或説云、モチイケナキ米ヲシロメテ、コニツキフルヒテ、シトギノヤウニシトネテ、ヲシヒラメテ、ユヲサラ〳〵トワカシテ、湯ニウクホドユデヽ、又ウスニイレテ、メデタクツキアハセテ、ト リイダシテ、ヌノヲヌラシテ、ソレニツヽミテ、ヌノヽカタハシヲアケテ、サマサズシテスコシヅヽトリテ、何ニモツクル也、異説云、ユヅルトキ、ナマ大豆ノコヲヨクツキフルヒテ、コノコネタルコニウチハフリテ、ヨク〳〵ツキマゼテ、マメノコニシヲヲスコシ入テツキアハスベシ、サテ何ニモツクルベシ、マメノコヲツキマズル事ハ、サムレドモヤハラカニテツクリヨキ也、又説云、小麥ノコヲグスベシ、イロノクロクアカク、マダラニテヨキ也、ツクリテノチハ、ヨキアブラヲコクセンジテ入ベシ、秘説云、アヲナノハヲマヲノケテ、アブラニ入レバ、火ノツキテモユルガキユル也、又ダンキハマロクツクリテ、ユデヽアマヅラヲヌリテマイラス、粉ニテモマイラス、 マガリ(糫餅) フト(伏兎、餢飳、或 、) ギヨギヨウ(魚形) カクナハ(結果〈カクノフハ〉) コントン(餛飩) フンジユク(粉熟) サクヘイ(索餅) バウタウ(餺飩、或 、) イモガユ(署預粥) 或説云、粉熟餅餤、〈スルヤウ、モチイノホシ飯ノコ、〉サヽゲ、〈カハムキテスベシ〉クシガキ、ホシナツメ、〈サネトリテ〉ゴマ、〈イリテ〉カチグリ、イリマメ、ウツクシクツキフルヒテ、アマヅラニテアハセテ、マロキスミノヤウニマロメテ、アツサノホド一寸バカリ、長サ四寸バカリニスル也、サテゴマノアブラノウハズミヲモテ、ヨクセムジテイルベシ、又説、ヲホキナル栗ノセイニツクリテ、キヌノフクロノクチ一寸バカリ、長四五寸ナルヲヌヒテ、コレヲ入テヨクユデヽ、トリアゲテマメノコヲウヘニカケテ、アマヅラヲヌリテ、薄樣ニツヽミテ、ヲリビツニ五バカリ、或ハ三バカリヲイレテ、ツチタカツキニスヘテマイラスベシ、サテメストキハ、チマキキルヤウニキリテマイラス、タヾ竹ノツヽヲキリテツヽミタルヤウ也、薄樣ニテツヽムベシ、或云、七種ノモノヲ合シテ、ウヘノ皮ニハ、小麥ヲコニシテ、ヲシヒラメテウハカハニハスル也、ウスキヤウニマキテ、切テマイラス、 御前物ノ唐菓子ヲバ、コメノ粉ヲシトギニシテ、ユデヽレムギニテウスクヲシヒラメテ、ナガサ 八分バカリ、ヒロサ二分バカリニ、モトヲホソキヤウニキリテ、フトキカタヲ四ニキリカケテ、中ノ二ヲサキヲトリアハセテ、ソクヒヲ靑モ赤クモシテ、サキニツケテ、粉ノアラモトヽイフガ、コマカナルヲトリテ、ハナニソメテ、アブラニアハセテホシテ、ベチ〳〵ニナリタルヲ、ソノソクヒノサキニツケテ、ウヘニ三十三許モルベシ、シナヲクベシ、ハタヲバモリモノヽタケニキリテ、ソクヒヲスリテアラレヲヌリテ、メグリニタテヽ、ウヘヲバハリフタギテ、同色ノノリバカリヲヌリテ、ソノ上ニナラベモル也、桃枝、梅枝、桂心歟、
p.0601 踐祚大嘗祭儀下 大嘗會某所牒興福元興兩寺〈毎レ寺有レ牒〉 應レ送下向二會所一淨女四人上事〈各四人〉 牒爲レ造二小齋并齋場唐菓物一、依レ例所レ請如レ件、寺宜察レ之、其日以前送向不レ可二遲廻一、
p.0601 皇太子加二元服一事 坊司等參上撤二御厨子倚子等一、〈但威儀御菓子御厨子不レ撤也〉立二皇太子臺盤一、〈有二帽額毯代等一〉預供二菓子一、〈唐菓子、木菓子、各四盛也、〉
p.0601 元日宴會 立二朱臺盤五脚一辨二備饗饌一、〈(中略)其饌物者以二七〈○七一本作五〉寸朱漆盤一〈○盤一本作埦〉盛二菓子一、毎二四尺臺盤一六坏、八尺臺盤十二坏、其菓〈○菓下一本有子字〉加久繩〈一坏〉餲餬黏臍合〈(合一本作各)一坏〉大柑子〈一坏〉甘粟〈一坏〉干柿〈一坏〉椿餅〈一坏〉或依二當時所一レ在、其南北以二土器一居二腹赤切并鹽箸等一○中略〉 内膳入レ自二月華門一供二御膳一、〈○註略〉 供二八盤一〈毎レ物有二蓋擎、子酢一、酒、鹽醬餛飩、索餅、餲餬、桂心、進物所於二西階一受二御盤一、〉 諸臣諸仗共立〈八盤供畢居〉 進物所於二西階一受二御盤一 供二次次膳一〈自二西階一供レ之〉 子 黏臍 饆饠 團喜 次給二臣下餛飩〈大膳大夫率二内竪一役二送之一〉 次御箸下〈鳴レ箸給〉 臣下隨下レ箸〈可レ搢レ笏、近代倚二臺盤一○註略〉 次供二蚫御羹(アツモノ)、〈銀器便撤二索餅一〉 次供二御飯一〈便撤二餛飩一〉
p.0601 仁平二年正月廿六日壬戌、今日於二東三條一再行二大饗一、〈○藤原賴長任大臣〉 廿七日癸亥、尊者兩座前、〈左大臣雖レ不レ來備レ饌〉各立二朱漆三尺臺盤二脚一、〈○中略〉臺盤外第一並二居餲餬一〈十重〉桂心〈十一重〉黏臍〈不定〉饆饠〈不定、此並、盤廣六寸七分、此四 種唐菓、内藏寮調レ之、納言之下史已上座唐菓亦同、〉
p.0602 文化十四年正月七日辛亥、白馬節會○中略次供二晴御膳二盤一○註略一盤 四種 酢酒、鹽、醬、 第二盤 唐菓子 粉熟 同汁 索餅 餲餬 桂心○中略次供二腋御前一盤一、○註略此盤第三盤也、 子 黏臍 饆饠 團喜
p.0602 餅腅 楊氏漢語抄云、裹二餅中一納煮合二鵝鴨等子并雜菜一而方截、一名餅腅〈玉篇、腅、達濫反、肴也、〉
p.0602 按避暑録話、唐御膳以二紅綾餅餤一爲レ重、唐摭言、宣宗賜二韋湨孫宏銀餅餤一、食レ之甚美、皆乳酪膏腴之所レ爲、杜陽雜編載二同昌公主之葬一云、上賜二酒一百斛餅腅三十駱駝一、各徑濶二尺、飼二役夫一也、六書故、今人以二薄餅一卷レ肉、切而薦レ之曰レ餤、
p.0602 餅腅〈ヘイタン裹餅中納煮合鵞鴨等子并雜菜也〉
p.0602 定考 上卿已下著二朝所一、〈○中略〉三獻之後居二粉熟飯一、〈近年二獻居二粉熟一、三獻居レ飯、○中略〉數巡後居二餅餤一、
p.0602 餅饘事 列(家)見定考後朝官厨家獻二餅饘一、〈入二折櫃一、居二土高坏一、〉是殿上料也、依レ爲二後懸一歟、專非二供御料一、而不レ知二案内一之藏人獻二大盤所一、或奏二事由一云々、而今多宛二供御一、此事如何、可レ隨二末代之例一歟、
p.0602 頭辨〈○藤原行成〉の御もとよりとて、とのもづかさ、ゑなどやうなる物を、しろきしきしにつつみて、梅の花のいみじく咲たるにつけて、もてきたる、ゑにやあらんと、急ぎ取いれて見れば、へいだんといふ物を二つならべてつゝみたる成けり、そへたるたて文に、けもんのやうにかきて、進上へいだん一つゝみ、例によりて進上如レ件、少納言殿にとて、月日かきて、みまなのなりゆき、〈○下略〉
p.0602 保元三年二月十一日壬寅、依二式日一有二列見一事、巳刻參二官廳一、〈○中略〉此間權辨下官〈○平信範〉以下向二朝 所一、蹔著二饌座一、令レ居二餅餤粉熟等一、且食所休息也、〈○下略〉
p.0603 餢飳 蔣魴切韻云、餢飳〈部斗二音、字亦作二 一、和名布止、俗云伏兎、〉油煎餅名也、
p.0603 按玉篇 餅也、齊民要術作二餢 一載二其造法一頗詳、然不レ言二油煎一不下與二蔣氏所一レ云同上、程瑤田曰、餢 、蓋皆餺飥之轉聲、
p.0603 餢 〈起麪如二上法一〉 盤水中浸レ劑於二漆盤背上水一作者、省レ脂亦得二十日輭一、然久停則堅、乾劑於二腕上一手挽作勿レ著、勃入レ脂浮出即急飜、以レ杖周正レ之、但任二其起一勿レ刺、令レ穿熟乃出レ之、一面白、一面赤、輪縁亦赤、輭而可レ愛、久停亦不レ堅、若待レ熟始飜、杖刺作レ孔者洩二其澗氣一、堅破不レ好、法須二甕盛一、濕レ布蓋レ口、則常有二潤澤一甚佳、任レ意所レ便、滑而且美、
p.0603 〈フト亦作二 一油煮餅也〉 餢飳 龍舌 伏兎〈已上同俗用レ之〉
p.0603 御札之旨、大齊之體、心事難二申盡一候、抑調菜人等事、無二可レ然仁一候之際、粗任二愚才一令二注進一候、〈○中略〉伏兎(○○)、曲、煎餅、燒餅、粢、興米、索麪糒等、爲二客料一可レ被二用意一、御時已前、可レ被二調置一候、
p.0603 御齋會加供解文 左大臣家 奉レ送八省御齋會加供事 合〈○中略〉 菓子 伏兎(○○) 鈎 餅 栗 柿 大柑子 小柑子 橘〈○中略〉 右奉送如レ件 大治二年正月日 案主肥後掾中原盛尚
p.0603 保延二年十二月日、内大臣殿〈○藤原賴長〉廂大饗差圖、 菓子八種〈○中略〉 伏兎〈廿四、枚、各長八寸、弘二寸六分、厚一寸、三並八重、〉 鈎〈卅二枚、各長八寸、弘四寸、太五分、二並十六重、〉
p.0604 餌〈如志反、去、餅也、食也、万我利餅、〉 饌飴〈同、與之反、平、糖也、䬲也、万加利、〉
p.0604 糫餅 文選云、膏糫、糫粔籹、〈糫音還、粔籹見二下文一、〉楊氏漢語抄云、糫餅、〈形如二藤葛一者也、和名萬加利、〉
p.0604 所レ引文原書無レ載、按廣韻糫字注云、膏糫、糫粔籹、則疑源君引二唐韻一、誤爲二文選一也、又按廣韻以二粔籹一釋二膏糫一、齊民要術云、膏環一名粔籹、孫子蓋本レ之、源君以爲二二物一恐誤、○中略新撰字鏡、飴訓二萬加利一、餌萬我利、餅万加利、又見二拾遺集物名歌及土佐日記一、其形曲如レ環、故名、又按齊民要術有二膏環一、用二秫稻米屑一、水蜜溲レ之、強澤如二湯餅麵一、手搦團、可二長八寸許一、屈令二兩頭相就一、膏油煮レ之、又有二細環餅一、注云環餅一名寒具、須二以レ蜜調レ水溲一レ麵、若無レ蜜煮レ棗取レ汁、牛羊脂膏亦得、用二牛羊乳一亦好、令二餅美脆一、則膏環糫餅不レ同、然劉禹錫寒具詩云、纖手搓成玉數尋、碧油煎出嫩黄深、林洪山家淸供云、寒具捻頭也、以二糯粉一和レ麪、麻油煎成、然則以二蜜若牛羊脂乳一溲レ麪、或以レ蜜和二米麪一、麻油煎成、並可レ稱二寒具一故源君合爲レ一也、
p.0604 膏環〈一名粔籹〉 用二秫稻米屑一水蜜溲レ之、強澤如二湯餅麵一、手搦團可二長八寸許一、〈屈令二兩頭相就一、膏油煮レ之、〉
p.0604 但馬國天平九年正税帳 正月十四日、讀經供養料充稻伍拾貳束玖把、〈○中略〉 餅〈○加筆、阿米良、〉肆拾枚料米捌升〈升別得二五枚一〉充稻壹束陸把
p.0604 十六日、〈○承平五年二月〉けふのようさりつかた、京へのぼるついでに見れば、山さきのこひつのゑも、まがりのほらのかたもかはらざりけり、うるひとの心をぞしらぬとぞいふなる、
p.0604 まがり 霞わけいまかりかへる物ならば秋くるまでは戀やわたらん
p.0605 結果 楊氏漢語抄云、結果、〈形如二結緖一、此間亦有レ之、今按和名加久乃阿和、〉
p.0605 按古今集長歌云、加久奈和爾亂思天、今俗有二蜘蛛手加久奈和之語一、江家次第訛作二加久繩一、假字用格誤、本居春庭據二江次第一、以二源君作一レ和爲レ誤、非亦甚、
p.0605 捻頭 楊氏漢語抄云、捻頭、〈無木加太、捻音奴協反、一云麥子、〉
p.0605 正字通寒具一名環餅、劉賓客佳話、以二寒具一爲二捻頭一、雲溪友議、載下李白新題二仙娥驛一詩上云、商山食店太悠々、陳黯 饠古 頭、按葛洪肘後方有二捻頭湯一、錢乙小兒直訣有二捻頭散一、蓋用二是物一也、李時珍曰、捻頭捻二其頭一也、麥子之名未レ聞、
p.0605 凡供二神御一雜物者、大膳職所レ備、〈○中略〉勾餅筥五合、〈○中略〉捻頭筥五合、〈(中略)已上六種別納二六枚一、〉
p.0605 淡路國天平十年正税帳 正月十四日、讀經貳部、〈金光明經四卷、最勝王經十卷、〉供養雜用料充稻參拾肆束玖把捌分、〈○中略〉 麥形參拾貳枚料米陸升肆合〈升別五枚〉充稻壹束貳把捌分〈以二二把一得二一升一〉
p.0605 索餅 釋名云、蝎餅、髓餅、金餅、索餅、〈和名无岐奈和、大膳式云、手束索餅多都加、〉皆隨レ形而名レ之、
p.0605 齊民要術作二髓餅一法、以二髓脂一密合和レ麵、厚四五分、廣六七寸、便著二胡餅罏中一令レ熟、勿レ令二反覆一、餅肥美可レ經レ久、
p.0605 索餅 〈さいぺい さくべう さうめい 聰敏〉 索餅 今の索麵とは異也、形は京にて云白糸、美濃邊にてしんこといふ類なり、江戸にてよりみづといふ、細長くしてねぢりたる物也、嘉祥の御菓子の中に有、膳部家の説も異なる事なきと、高橋若狹守いへり、 大膳式のは、米粉、小麥粉、二品をもて作るやうに見ゆ、索餅手束索餅とて二樣有、新粉のさくへい といふ意歟、
p.0606 東市庄解 申買進上索餅事 合壹仟貳伯懸〈太〉 直壹伯捌拾漆文〈一丈充六懸〉 右依二政所符一買取進上如レ件、以解、 天平寶字二年七月十七日 呉原伊美吉飯成 大石阿古万呂
p.0606 仁王經齋會供養料 僧一口別、〈○中略〉糖三合六勺、〈(中略)索餅料三勺、○中略〉小豆一合六勺、〈(中略)汁物并索餅料各三勺、○中略〉酢一合四勺、〈(中略)索餅料一勺○中略〉醬三合、〈(中略)索餅料二勺、○中略〉鹽九合八勺八撮、〈(中略)索餅料六勺○中略〉生薑一合九勺五撮〈(中略)索餅料一勺○中略〉胡桃子卅一顆〈(中略)索餅料六顆〉
p.0606 年料 索餅料小麥卅石、〈御并中宮料各十五斛〉粉米九斛、〈同料各四斛五斗〉紀伊鹽二斛七斗、絹并薄絁篩各卅二口、〈別四尺〉曝レ麥調布單二條、〈別三尺〉承塵帳四條、〈別二丈一尺、三年一請、〉裹レ麵布十六條、〈別五尺〉水瓺瓺布四條、〈別五尺〉席折薦各六枚、韓櫃四合、明櫃折櫃麁筥壺各四合、缶洗盤各四口、瓫堝各十六口、水麻笥八口、匏十六柄、槽二隻、其四枚、臼一腰、杵二枚、別脚案四脚、中取案四脚、刀子四枚、籮四口、乾二索餅一籠十六口〈長三尺廣二尺〉鍬二口、竹一百五十株、褠十條〈別五尺〉襅十條、〈別六尺〉頭巾廿條、〈別三尺〉薪日卅斤、〈仕丁所レ採〉 右從二十一月一日一、迄二來年十月卅日一、供御料、女孺率二女丁一向二内膳司一與レ司料理、日別供レ但韲内膳儲備、 手束索餅料、小麥十七斛七斗、〈御并中宮各八石八斗五升〉粉米五石三斗一升、紀伊鹽八斗九升、醬味醬各一斛四斗二升六合、酢七斗一升二合、薪日別卅斤、〈請二主計寮一〉 右起二三月一日一、盡二八月卅日一、供御料、其雜器通二用上條一、同手束索餅料、小麥十七斛七斗、〈御并中宮料日供五升、所レ餘臨時用レ之、〉粉米五斛一升、紀伊鹽八斗八升五合、醬一斛五升一合、未醬一斛五斗三升一合、酢五斗四升、薪卅斤、〈請直〉 右起二九月一日一、盡二來年二月卅日一、供御料如レ前、
p.0607 治承四年七月七日丁巳、節供如レ常、〈○中略〉嫁娶之後三年、不レ取二入索餅於家中一云々、
p.0607 索餅 (○○○)〈○中略〉 右五十一 東市〈○中略〉 索餅 〈○中略〉 右卅三 西市
p.0607 粉熟 辨色立成云、粉粥、〈以レ米爲レ之、今案粉粥即粉熟也、〉
p.0607 粉熟〈フンズク以レ米爲レ之〉 粉粥 粉 〈已上同〉
p.0607 ふずくとは粉熟也、稻、腅麥、大豆、小麥、胡麻、此五穀を五色にかたどりて、粉にして餅になして、ゆでゝ甘葛かけてこねあはせて、ほそき竹の筒をして、その中に堅くをし入て、しばしをきて突出して、其勢雙六の調度のごとくまなぶべし、五穀は式たりといへども、五色をそなへたるあひだ、色々をみせんとおもふには、靑色にははゝこの草餅、若は米の粉をうつし、花をときて染てかたむべし、黄なる色には粟を色こき苅安にても支子にても、そめてかたむべし、赤き色には小豆、白き色には米、黑き色には胡麻たるべし、衝重に土器をすへて、靑黄赤白黑と、かみより次第に、たかさ三四寸がほどすゑひろにもるべし、其中に銀もしは瑠璃のごときなどに、甘葛に麝香をすこしすりて入くはふべし、又此五種を、めしに隨てあまづらをそへて、一二づゝなどとりわけてまいらする事あり、
p.0607 造二粉熟一料 白米四石、大角豆一石八斗、漉レ粉薄絹袋水篩各二口、〈袋各長六尺、篩各一尺五寸、〉干レ粉暴布帳一條、〈長三丈〉 二水瓶一暴布一條、〈長四尺〉擧レ粉暴布袋二口、〈各長六尺〉水瓶麻笥一口、酒槽一隻、由加二口、杓一柄、席二枚、簀二枚、薪日別 卅斤、 右起二三月一日一盡二八月卅日一供レ之、
p.0608 内膳司造二供御粉熟一料、席二枚、簀二枚、三年一充、
p.0608 列見 史申二裝束畢由一、〈立二石階東壇下西壇上一〉穩座〈先撤二宴座一敷二穩座一、不レ撤二史座一便爲二近邊諸司座一、件座豫立レ机居二肴物一、件座有二粉熟一无レ飯、〉上卿已下著二穩座一、〈○註略〉辨少納言著座、〈○註略〉三獻畢、〈居二粉熟餅餤一〉
p.0608 元日 御節供事 殿下御料〈朱器○中略〉 粉熟〈在二小角豆汁一〉
p.0608 康平四年十二月廿日己亥、有二太政大臣召事一、〈自二去十八日一、御二東三條殿一、〉未刻殿下〈○藤原賴道〉令レ參給、〈○中略〉出二御里亭一、〈東門〉左大臣以下於二南庭一有拜禮一、〈左近少將俊明取二御沓一〉此間秉燭、各以著座、次立二尊者已下机一居二肴物一、〈○中略〉二獻〈二位中將祐家卿〉居二粉熟一、
p.0608 北のおとゞより、まら人の御さかな、おほみきまいらせ給、それにうちつぎて、ふずく(○○○)まいり、をものなどまいらせ、〈○中略〉
p.0608 御うぶやしなひ、〈○中略〉五日の夜〈○中略〉宮のおまへにも、せんかうのおしき、たかつきどもにて、ふずく(○○○)まいらせ給へり、
p.0608 餛飩 四聲字苑云、餛飩〈渾屯二音、上亦作レ餫見二唐韻一、〉餅剉レ肉麵裹煮レ之、
p.0608 方言、餅謂二之飥一、或謂二之餛一、或謂二之餛一、玄應音義引二廣雅一云、餛飩餅也、齊民要術有二水引、餛飩法一、北戸録引作二渾屯一、云字苑作二餫飩一顔之推曰、今之餛飩、形如二偃月一、天下通食也、按正字通、今餛飩即餃餌別名、俗屑二米麪一爲レ末、空中裹レ餡、類二彈丸一、凡形大小不レ一、籠烝啖レ之、食物志曰、餛飩或 作二餫飩渾飩一、象二其圜形一、然則餛飩本作二溷屯一、溷通作レ混、後從レ食、作二餛飩一也、正字通又云、凡米麵食物、坎二其中一、實以二雜味一曰レ餡、
p.0609 節會〈○元日〉 供膳〈○註略〉供二太子膳一、〈○註略〉給二臣下一、〈大膳大夫内豎等居二餛飩一、聞二天皇御箸音一、臣下嘗レ之、〉
p.0609 餺飥〈 字附〉 楊氏漢語抄云、餺飥〈博託二音、字亦作二 一、見二玉篇一、〉 麵方切名也、四聲字苑云、 〈古旱反、上聲之重、〉摩二展衣一也、
p.0609 按五代史李茂貞傳、唐韓渥金鑾密記、作二不托一(○○)、資暇録云、不托言舊未レ有二刀機一之時、皆掌托烹レ之、刀機既有、乃云二不托一、今俗字有二餺飥一、猗覺寮雜記云、五代史李茂貞傳、朕與二宮人一、一日食レ粥、一日食二不托一、不托俗語、當レ作二餺飥字一、
p.0609 水引餺飥法 細絹篩レ麵以成二調肉臛汁一、待レ冷溲レ之、水引、挼如二著大一一尺一斷、盤中盛レ水、浸宜四以レ手臨乙鐺上甲、挼令三薄如二韮葉一逐レ沸煮、 餺飥挼如二大指許一、二寸一斷、著二水盆中一、浸宜三以レ手向二盆旁一、挼使二極薄一、皆急火逐沸熟煮、非二直光白可一レ愛、亦自滑美殊レ常、
p.0609 餺飥博託二音(ハクタク)、亦作二 麵方切名一也、〉
p.0609 しばしさふらふべきを、時のほどにもなり侍ぬべければと、まかり申て出るを、しばしほぞちはうたう(○○○○)まいらせんなどとゞむるを、いみじういそげば、〈○下略〉
p.0609 寬弘二年三月廿二日庚午、酉刻許觀音院僧正被レ過、良久淸談、自二今夜一限二七箇日一令レ修二不動息災法一、〈新圖繪一万不動尊〉件僧八人、依三今年可二重愼一、餺飥(○○)、椿餅、粽等、送二僧正房一、
p.0609 天永二年二月十二日乙巳、巳刻右大將以下諸卿九人來二宿所一、予〈○藤原忠實〉出二賓筵一、〈○中略〉此間且供二 餺飥一(○○)、諸大夫等傳取居レ之、抑依二忌月一止二音樂并童舞等一、然而餺飥女列二立庭前之屋中一供レ之也、
p.0610 仁平元年八月十日丁丑、秉燭後、出レ自二南門一、參二詣社頭一、〈○藤原賴長春日詣〉行列如レ前、 十一日戊寅、予束帶、〈○中略〉武賴歸來、申二諸事皆具由一、〈○中略〉上達部車以レ次西渡、〈主人車同レ之、雜色、各隨二車後一群行、〉次舞人上レ馬〈自レ東上レ西〉皆畢以レ次馳レ之、〈自レ西馳レ東〉畢舞人經二前庭一渡レ橋〈中橋也〉著座、陪從同著座、〈不レ渡二前庭一〉妓女十二人打二餺飥一(○○)〈先伶人奏二酣醉樂一〈用左樂器〉妓女隨レ樂打レ之、其屋六間、毎レ間二人列二居之一、須三豫置二拍子於長押一、未レ知二其由一、元時取二大拍子一侍二砌下一打レ之、○中略〉先レ是寺家職掌人左近將曹狛行則已下〈將曹府生袍襖袴、無官者冠襖袴、〉出レ自二樂屋一、渡二餺飥屋前一入レ自二鹿苑寺大門一、羞二菓子一之後捧二餺飥一、〈用二折敷高坏一餺飥一本、其汁小豆盛兩三逆、又盛二汁瓶子一副レ之〉出二同大門一、〈自レ此妓女不レ打伶人止レ樂、〉就二黑木屋階下一進レ之、所司於二簀子一迎取、羞二參議已上一、〈主人已下所司直供レ之、已講得業不レ役レ之、〉隨二資信朝臣氣色一下レ箸、次給二祿妓女一、〈各白單重一領、散位政業、(中略)散位藤原經憲執レ之、渡二中橋一就二餺飥舎一給レ之、自二本路一退歸、〉
p.0610 餲餅 四聲字苑云、餲〈音與レ蝎同、俗云餲餬今案餬寄レ食也、爲二餅名一未レ詳、〉餅名二煎麵一作二蝎虫形一也、
p.0610 厨事類記、加无古即是、餬寄食也、見二説文一、按説文又云、饘糜也、宋謂二之餬一爾雅釋言、餬饘也、廣韻餬糜也、左傳正義、餬是饘鬻別名、然則非三特訓二寄食一也、〈○中略〉按廣韻餲餅名、音與レ蝎同、即此字、蓋作爲二蝎形一、故名二蝎餅一、後從レ食、從二蝎省一作二餲字一、北堂書抄引二通俗文一云、寒具謂二之餲一、遂與二饐餲字一混同、蝎餅又見二釋名一、上條已引レ之、
p.0610 黏臍 辨色立成云、黏臍、〈油餅名也、黏作似二人 臍一也、上女廉反、下音齊、〉
p.0610 厨事類記、天无世伊、即是、
p.0610 饆饠 唐韻云、饆饠〈畢羅二音、字亦作二 一、俗云比知良、〉
p.0610 饆饠又作二饆饠一、見二集韻一、 字未レ見二出典一、厨事類記比良即是、〈○中略〉資暇録云、畢羅者、蕃中畢氏羅氏好食二此味一、今字從レ食非也、正字通饆饠、餅屬、用レ麪爲レ之、中有レ餡、
p.0610 饆饠 〈ひちら〉 糯米の粉にて作る、薄平にして煎餅の形の如くして、燒たる物のよし、膳部家にいひ傳ふる所也、 大さの徑大概一寸七八分ばかり有といへり、
p.0611 子 唐韻云、 〈都回反、與レ堆同、此間音都以之、〉 子也、
p.0611 廣韻作二餅也一、玉篇、蜀人呼二蒸餅一爲レ 、集韻、 丸餅也、唐崔令欽敎坊記云、蘇五奴曰、但多與二我錢一、喫二 子一亦醉、不レ煩レ酒也、通鑑陳紀云、周世宗明敏有二識量一、晉公護憚レ之、使下膳部中大夫李安寘二毒於糖 一而進レ之、胡三省曰、 丸餅也、 子、今城市間元宵所レ賣焦 、即其物、村瀨氏曰、酉陽雜俎有二籠上牢丸湯中牢丸一、即糖 也、正字通云、屑二米麪一、搏如二彈丸一、煮蒸噉レ之、曰二牢丸一、今俗呼爲二須須梨團子一是也、
p.0611 歡喜團 楊氏漢語抄云、歡喜團、〈以二品甘物一爲レ之〉
p.0611 按不空罥索經云、加二持秔米、菉豆、蒸餅、乾蓮華末、白芥子、酥蜜、石蜜一、作二歡喜團一、涅槃經云、酥麪、蜜薑、胡椒、蓽茂、蒲萄、胡桃、石榴、桵子、如レ是和合、名二歡喜丸一、亦是、歡喜團又見二加那鉢底陀羅尼經、大使呪法經、大聖天毗那耶迦法、陀羅尼集經等書一、團喜、厨事類記太无幾即是、
p.0611 享保十八年三月七日ヨリ至二十七日一一所ニ記レ之、 滋井入道殿ノ御談ニ、今セウデンノ祭ニ、油揚ノ餅ニ何ヤカヤツヽミテ、供物ニスルヲ歡喜團ト云ヘリ、コレハ職方ニアル菓子ナリ、定メテ職方ノ物ヲトリテ、アノ方ニ用ルナルベシト仰セラレシニ、仰ニ〈○近衞家熙〉イヤトヨ、アレハ天竺ヨリコレアルコト也、先日モ噂アリシ、卒悉伽羅經ノ中ニクハシクミヘタリ、則チ歡喜團ト云製モクハシクミヘタリ、
p.0611 一まんぢう、やうかんの類を、古はかんと云、今は餅菓子(○○○)と云、
p.0611 餅 餡餅今世二種アリ、一種ハ餅ヲ皮トシ、小豆餡ニ砂糖ヲ加ヘ肉トシタル也、一種ハ餅ヲ中ニ餡ヲ以テ包ミタルモノアリ、俗ニ餡コロ餅ト云也、餡衣モチノ略ナルベシ、餡餅ハ餅ヲ皮餡ヲ中ニ包 ムヲ本トスルナルベシ、今江戸ノ俗ハ是ヲ餅菓子(○○○)ト云、外面ヲ餡包ニスルヲ餡餅(○○)ト云、二種トモニ精粗種々無レ限也、
p.0612 享保十一年霜月七日、大德寺孤峯庵ヘ御成、〈○中略〉 千宗佐同宗因初テ御目見ヘ仰付ラル、宗佐炭仕リ、宗因御薄茶立ル、御蒸菓子(○○○○)等出、
p.0612 一或時晝頃より能役者共へ、囃子被二仰付一、執事中を始め御手廻りの面々へ迄、勝手次第見物に出べしとの事也、然るに執事何某御近習目付を以て申上ぐるは、今日御囃子物見に仲間の者共罷出は、餅菓子(○○○)被レ遣可レ然旨窺ひければ、甚御立腹○山内豊常有て、仰けるは、此時節自身さへ左樣の自由は、おもひも寄らず、筋なき事ないひそ、又もてなしなくて快からずば、向後見物無用也、此方より見物賴にあらずと仰也、〈○下略〉
p.0612 一天明三年三月の事也、世子顯孝公の御室に松平土佐守豊雍の御娘采姫君を御縁約あり、始て土州御招請の時、表御座敷御祝の御饗應も、既に闌に及たれば、追付御勝手御座處に移らせ給ふべし、御勝手御饗應の物數如何、滯も無やと、御膳番の蓼沼友四郎御膳部の番持を呼て、尋けるより、夫々御獻立に向て調へたれば、御勝手御座付の始に、供し參らする御餅菓子(○○○○)、御用意落になりたり、御臺所役人の申出に、御獻立表をもて御菓子やへ可二申付一を、何としたる事にや、取まぎれて申付ざれば、御臺所の不調法に止ると云、御膳部の申出に、縱令御臺所の間違あればとて、御獻立表は全く御膳部の大事なれば、疾と其品しらべにも可レ及を斯迄の間違に至らせしは、畢竟の處は、御膳部の不調法に止ると云、此時友四郎差圖して、指懸り今と云今、不調法の申出しは先々よすべし、早々多人數を出し、近町の菓子屋共へ觸渡し、餅菓子の品々取上よ、其内を撰ばゞ其相應もあるべしと、爰に於て數人を出して呼しかば、各ありあふ餅菓子持て、數軒の菓子屋馳集る、然共御念に御念被レ入て、其品珍しき菓子組なれば、〈安永十年三月、御老中招請し給ひし時、干菓子組をもて御下知の菓子組也、〉元 來出來合の菓子に可レ有にもあらず、止事なくして、彼と是を取合たれば、品こそ惡けれ、先は可也にも御間のかけぬ事にはなりぬ、かゝりしまゝに、友四郎卒と公○上杉治憲御呼立參らせ、しか〳〵の間違あり、差懸り止事なければ、是々の品を組合てと言上せしに、其菓子組立書をつら〳〵見給ひて、扨も〳〵其人共のする事は各別のもの也、前に差圖せし菓子組にくらべては、又雲泥懸隔に能なりと、ひたすらに譽給ひし程に、夫々nan不調法を訟たれ共、御叱にも及ばで濟し、
p.0613 餻 公任餅 珠光餅 椿餅 柚餅 外郎餅 醒井 毬餅 鶉餅 胡麻餅 山椒餅 杼餅 寒燒餅〈京丸山端の寮などより製し出す、世に丸山かるやきと稱す、〉琥珀餅 紅梅あられ
p.0613 桔梗屋菓子銘 天和三癸亥年十二月十九日、桔梗屋菓子銘、 京御菓子司本町一丁目北頰 桔梗屋河内大掾〈○中略〉 御茶ぐはし丸むしもの(○○○○○)類 一梅花餅 一うす雪餅 一椿餅 一御所御門さ餅 一おらんだもち 一あこや餅 一御所あん餅 一うづらもち 一うづらやき 一鹽がま餅 一霜ふり餅 一なすびもち 一白なすび餅 一なんきん餅 一山吹餅 一ききやうもち 一さくらもち 一西王母餅 一かせん餅 一色紙もち 一つまみ羊羹 一花羊羹 一枝柿もち 一みつかん餅 一淺ぢもち 一女郎花もち 一品川もち 一時雨もち 一小倉もち 一みそめ餅 一白ぎく餅 一もろこし餅 一あんこかし 一烏丸餅 一ごまもち 一きんとん餅 一この手がしは 一玉子餅 一かうばい餅 一撫子もち 一玉の井餅 一いかう餅 一爪かくし 一金玉もち 一ありま餅 一和國もち 一富士霞 一糸すゝき 一和歌のもと 一定家もち 一東山餅 一ね覺もち 一村雨もち 一遠州もち 御茶ぐはし御月むし物(○○○○○)類 一明ぼの餅 一九重もち 一花車もち 一さゞれ餅 一澤部もち 一龍田もち 一山路もち 一薄紅葉 一いせ櫻 一かよふもち 一朝日山餅 一牛房餅 一墨ながし 一吉野もち 一なんばん餅 一新南蠻餅 一玉すだれ 一墨形 一あやめもち 一藤の花餅 一おぼろ餅 一錦餅 一白藤もち 一みはなもち 一藤ばかま 一橫雲餅 一御所山椒餅 一ふわもち 一くじら餅 一綠まき餅 一よねの花 一千鳥もち 一さらしな餅 一千代ね餅 一幾夜もち 一瀧波もち 一さゞれ石餅 一まされ餅 一雪もち 一御所雪餅 一やうぜい餅 一夕なみ餅 一雲月もち 一浮船もち 右御菓子物京都御所方ヘ上ゲ申候、
p.0614 本町紅谷志津摩家菓子譜 蒸菓子類 一琥珀餅 十ニ付 代七匁五分 一求肥饅頭 同 代三匁 〈紅白〉一千年飴 同 代五匁 一宇治の里 同 代三匁五分 一紅伊勢櫻 同 代五匁 〈紅白ニテ〉一南京櫻 代五匁 一水鳥玉餅 代貳匁五分 一白鳥玉餅 代貳匁 一朝日餅 代 一朝路餅 壹斤 代七匁 一養生餅 壹斤 代七匁 一雪餅 壹箱 代六匁 一輕羹 壹箱 代六匁 一山椒餅 代五匁 一外口 同 代五匁 一白紙餅 同 代五匁 一室の梅 十 代壹匁五分 一求肥飴 壹斤 代五匁 一紅梅餅 壹本ニ付 代三匁五分 一割水梅 同 代三匁五分 一源氏卷 同 代三匁五分 一木賊餅 同 代三匁 一愛敬卷 同 代三匁五分 一若菜卷 同 代三匁 一吉野卷 同 代四匁 一水浮麩 十 代貳匁五分 一黄白浮麩 十 代貳匁 一秋の山 十 代三匁五分 一花橘 同 代三匁五分 〈黄白〉一玉子もち 同 代貳匁 一伊賀餅 同 代壹匁 一茶山花 同 代三匁五分 一喜瀨綿 同 代三匁五分 一薯蕷饅頭 同 代〈紅六匁白五匁〉 一猩々餅 同 代五匁 一谷つゝ路 同 代五匁 一老松 同 代五匁 一友白髪 同 代五匁 一紅巾頭 同 代六匁 一京鹿子 同 代五匁 一水鹿子 同 代六匁 一朝日饅頭 同 代五匁 一朝日餅 同 代六匁 一山吹饅頭 同 代三匁五分 一曾口餅 同 代三匁五分 一鼈甲餅 同 代貳匁 一葛餅 同 代貳匁 一水仙卷 壹本ニ付 代貳匁五分 一美貝香 十 代六匁 一茶巾餅 同 代五匁 一椿餅 同 代貳匁五分 一寒椿 同 代四匁 一時雨餅 同 代五匁 一水山吹 同 代三匁五分 一薩摩牡丹 同 代三匁五分 一大德寺巾頭 同 代五匁 一九重巾頭 同 代壹匁 一達摩餅 同 代五匁 一腹太餅 同 代五匁 一梅の雪 同 代壹匁 一松の雪 同 代七匁 一黄見友 同 代七匁 一餡ころ 同 代壹匁 一佐賀饅頭 同 代貳匁 一草饅頭 同 代貳匁 一見飛燒 同 代三匁 一大通燒 同 代貳匁五分 一舟燒 同 代壹匁 一小倉野 同 代五匁 一駿河の里 同 代三匁五分 一常磐木 同 代三匁 一高尾餅 同 代四匁 一求肥牡丹 同 代五匁 一三世の里 同 代貳匁五分 一桔梗餅 同 代五匁 一市後餅 同 代壹匁五分 一櫻羊羹 同 代壹匁 一柚餅 壹斤ニ付 代拾匁 一西玉翁 同 代拾匁 一加勢板 同 代拾匁 一西瓜香 同 代拾匁 一琥珀糖 同 代拾匁 一朝鮮飴 同 代拾匁 一養命糖 同 代七匁 一水羊羹 壹箱ニ付 代拾貳匁 一二色羹 同 代拾匁 一金玉糖 壹斤ニ付 代拾匁 一瀧田羹 壹箱二付 代拾匁 一栗羹 同 代八匁 一命長羹 同 代八匁 一晒科羹 同 代六匁 一鳴戸羹 同 代八匁 一二月羹 同 代七匁 一薯蕷羹 代七匁 一煉羊羹 同 代六匁 一紅きぬ田卷 十 代壹匁 一白きぬ田卷 十 代五匁 一鶏卵饅頭 十 代五匁 〈道妙寺〉一牡丹餅 十 代五匁 一羊羹 壹箱 代五匁〈○中略〉 庚午四月十五日 〈本町〉紅谷志津摩 右之通御座候得共、御蒸菓子之儀は、多は出來合は無二御座一候、〈○中略〉尤前日に被二仰付一候はゞ出來仕候、以上、
p.0617 椿餅 つばいもち つばきもち〈俗〉 雪を出事、難波家記、承元二年十一月八日記云、葉形餅與二花橘菜一にて雪を土器に入て、甘葛を霰地の瓶子に入、以二薄樣一裹レ口被二副置一之、各推興爭取云々、 松下拾葉書、鞠の庭にて酒ある時に、雪を硯のふたに入て、春の初なんどには取出す事もあり、一鞠場へ可レ出物之事、あまのりたゝみつばいもち、是は椿の葉につくりてのするもち也、云々、胤相云、椿餅の造法は、當時大膳職にてのは、河海抄若菜卷などに出たると少し違有レ之候歟、凡而造菓 の法、砂糖甘葛の違めより、古法ならず相聞え候、かざり樣分量等習居申候、 椿の葉に木の病とて、葉化して丸く餅の如く腫るゝ物あり、是を椿餅と云、小兒とりて喰ふ、甚味甘し、京にて見たり、思ふに是より習ひて椿餅を製して、その葉に付ると思はる、此事椿のみにあらず、さつきにも躑躅餅とて出來る、葉化して丸く形餅の如し、是も喰ふにその味しぶくあましと云、五陪子の形の如し、 鞠の庭に奉る椿餅の事、一舊記ニ云、干飯を粉にして丁子を粉にして、すこしくはへて甘葛にてかためて、椿の葉二枚を合せてつゝみて、上をうすやうの紙を、ほそき壹分計ニきりたるにて、帶にして結びてたるゝ也、公世二位申さるゝは、近衞關白殿より尋られたりしに、作りてまいらせき、それこそやうはあれ、人是をしらずと云、 近代の法、干飯少し煎べし、むかしは砂糖なし、今時は砂糖を入て珍重なるべし、からしもすこし加へてたるもあり、又枝に片はをつけて片葉をば、おほへるものあり、二葉三葉枝につくる事も有、あまづらの代には、氷砂糖をねりて粉をかためむす也、葉につゝむことはむして後なり、
p.0618 調膳樣事 葉餅 常不レ見、但晴時菓子用レ之、尤可下盛二椿葉一用上レ之、雞冠木(カヘデノキノ)葉ヲ用ハ不二打任一事也、
p.0618 ひめ宮はまだちひさくおはするが、あてにそびやかなる御かたちの、御ぐしたけに、すこしあまりたり、かゝる程に、大殿の御方より、ひわりごみきつばいもちゐなど奉り給へり、
p.0618 宮もゐなをり給て、御物語し給ふ、つぎ〳〵の殿上人は、すのこにわらうだめして、わざとなく、つばいもちゐなし、かうじやうのものどもさま〴〵にはこのふた共に、とりまぜ つゝあるを、わかき人々そぼれとりくふ、さるべきかうものばかりして、御かはらけまいる、
p.0619 つばゐもちゐなしかうじやうの物ども 椿餅〈椿の葉に入たるもちひなりと云云、椿の葉に合て、もちゐのこにあまづらをかけて、つゝみたるものを、鞠の所にて食する也、〉
p.0619 猿が馬場 柏餅こゝの名物なり、あづきをつゝみし餅、うらおもて柏葉にてつつみたる物也、
p.0619 柏餅 端午の日に柏の葉に餅を包みて、互に贈るわざは、江戸のみにて他の國にはきこえぬ風俗にして、しかも又ふるき世よりのならはしにもあらざるにや、ものに見えたることなし、德元が俳諧初學抄に、五月の季に見えず、かゝれば寬永の頃より後のことか、寬文年間のものとおもはるゝ酒餅論といふ冊子に、彌生は雛のあそびとて、よもぎの餅や、端午にはちまきのもちや、柏餅水無月はじめの氷餅、嘉祥の餅云々といふことあり、延寶八年の印本不ト作の俳諧向之岡に、柏餅の句あり、 餅なりけふ世人はをみがく王がしは 兼豐 押ならべ兩葉が間やかしはもち 水巴 延寶九年の印本言水作の俳諧、東日記に、 端午の御祝儀として柏木の森冬枯れそむ 盲月 井樓の山や梢の四方のかしはもち 兼豐 これらの句によりておもふに、この頃よりあまねく節物となりけんもしるべからず、さて予過ぎし文化のころ、西遊せしをりから、豐前の中津にて、端午の日にあひたりしが、菝葜の葉に餅をつゝみて家ごとにもこしらへ、餅あき人も賣れるを見たり、名をば何といふにか問はざりし、案 ずるに地錦抄に、菝葜は荊の類なり、葉丸く柿の葉のちひさき如くにて、葉中に三の筋あり、冬葉落ちて春出づ、秋あかく實あり、俗にサンキライとも又はサルトリバラとも、いふ非なり、さるとりばらは葉の形、槐の葉のごとく、花色本うこん、花の長さ一尺ばかりにて、針大きくありて、各別の物なり、又の名をかめいばらともいふなり、近ごろ武州秩父の山中へまかりしに、農家客ある度に、小麥の粉を水に練り丸くちぎりて、此ばらの葉を兩めんよりあて、柏餅のごとくして、はうろくに燒きてもちとなし、饗應しぬ、葉をとれば餅に三條の紋見えてあいらし、猶しほらしくこしらへなさば、いかにいみじき物ならんとおぼえしまゝに、家の女あるじに、是はこの所の名物にや、此葉を用ふるも子細ありやなど問ひ侍るに、聲高に打ちわらひて、何條事の候はん、是を龜甲餅といふ、此葉をかめいばらと云ふ、葉の形龜の甲に似て、また齡を延ぶる大事の藥にも入るといへば、食して無毒といひ傳ふと答ふ、さればこそいさゝかの人のこと葉も捨てがたしとは、かゝることにや、田舎人のいひすてに殊勝なる事もこそあれと、おもひ出づれば、實にや菝葜は、屠蘇の一味なれば、長壽の縁にもなるべしやといふに併せおもへば、西國の俗のみにはあらぬか、ある册子に、大隅の片里にといひて、五月五日とて、松火あかしくなどゝあるところに、女は柏の葉にて黑米の餅を包みけるは、これなん上がたに、見しまこもの粽のかはりなるべきとあるなど見えたるにても、江戸のみのことゝも、思ひがたく、もとより木の葉はすべてかしはといふこと、いにしへの詞なれば、いづれの木の葉にもあれ、餅つゝみたらんは、かしは餅ととなへんも難なかるべし、
p.0620 龜屋柏葉餅〈外神田旅籠町御成道〉 寶生門外暖簾龜、萬歳千秋柏葉粢(カシハモチ)、形小色白何足レ賞、喰來第一味噌宜、
p.0620 近年隅田川長命寺の内にて、櫻の葉を貯へ置て、櫻餅とて、柏餅のやうに葛粉にて 作る、はじめは粳米にて製りしが、やがてかくかへたり、
p.0621 長命寺櫻餅〈向島〉 幟高長命寺邊家、下戸爭買三月頃、此節業平吾妻遊、不レ吟二都鳥一吟二櫻餅一、
p.0621 餅 附録〈○中略〉粳米粉餅〈(中略)有二志牟古、佐佐餅之名一、志牟古者、如二花樣一如二蝶形一如二芋形一、而無レ數也、(中略)有下以二生艾汁一而染者上、其色香可レ愛レ之、〉
p.0621 餌 一種形作二笹葉一者名二笹餅一、如二鳥卵一者名二卵餅一、皆裹レ餡、或以二梔子汁一染二黄色一、以二紅花汁蘇芳汁一染二紅色一、近頃作二數品形色一、
p.0621 さゝ餅 うるの米上白にして、よくこにはたき、三段にこをとる也、一番はざつとはたき、先ふるひ、そのこはのけ申候、二番めによくはたき、こまかにふるひ候、扨水にてこね、ちいさく玉にして、なべに入、にる、ふきあがりて、又しづむまでゆで候、あげ候て、うすにてよくつきて、色々にちぎる、黄にはくちなし、靑はゑもぎの汁入よし、靑大豆のこ口傳在レ之、柚の葉、
p.0621 珠光餅(シユクワウモチ)〈今世茶會所レ用、蓋珠光南都稱名寺僧也、嗜二茶式一立レ花善レ畫、東山殿有二恩遇一使二之還俗一、住二洛醒井邊一云々、〉
p.0621 あこや餅 利久翁百會の茶の菓子に出せり、今云いたゞきといふ物、伊勢の國にては、今もあこや餅といふよし、黑露いへり、今案に、あこや貝に似たればいふにや、
p.0621 一そのころ世に大坂やきのむさうもち(○○○○○○○○○○)といふくわしはやりければ、ある人それをふるまひて、これにうたよめと有ければ、 名にしおもふ大坂燒のむさうもち人にしひられて喰よしもがな
p.0621 餅 附録〈○中略〉粳米粉餅〈(中略)有二燒餅(○○)者一、以二煮赤豆泥一爲レ餡、平團而裹レ之、釜上燒レ之、印二花紋樣一、此非二上饌一、民間之賞也、此三餅有下以二生艾汁一而染者上、其色香可レ愛之、〉
p.0622 燒餅師(やきもちし) 大和大路五條の角にあつてこれをあひす、其外所々にあり、
p.0622 祇園物語に、あたりなるやきもちひ(○○○○○)と申もの、一ッまいるべくもや候云々、老人ひとつとりて、手の内したゝかにおぼえ、よく見れば、中にはあづきをつゝみ、上にうすやうほど餅をはりつけたり、是ならば小豆とてこそ賣べけれ、餅と名をつけていつはれる事こそ、けいはくなれ、おあしひとつにかゆる物だに、かゝるいつはり多ければ、まして外の事よろづ輕薄ならぬはなし云々有て、下文に鶉やき(○○○)はうす皮の十字のたぐひならん、あまりにけいはくなるによりて、翁の涙ながし感ぜられ候も理りなりといへり、鷹筑波集、音たかきよくにやふけるうづら餅○○○○、洛陽集、二口屋御狩ぞいそぐ鶉餅、かゝる句もあれば、よき菓子屋にも作れりとみゆ、〈○中略〉さて件の鶉燒とは、その鳥の丸くふくらかなれば、准へて名づけたる歟、後世はらぶと(○○○○)ゝいふ餅是なり、皮うすくして、餡は赤小豆に鹽の入て、砂糖けなく、唯大に作りたるものなり、大ふく餅(○○○○)ともいふ、後其形を小く作り、餡もこし粉に砂糖を加へたるを、專ら大福餅と呼、はらぶと餅は近頃迄もありしが今は絶たり、
p.0622 牛房餅(○○○) ごばうをよくゆにしてたゝき、すりばちにてすりをき、さてもち米六分、うる四分のこにさたうをくはへ、牛房と一つにすりあはせ候、沙糖過候へばしろくなり申候、さてよきころに丸め、ゆにをしてごまの油にてあげ申候、その後さたうとせんじ、そのなかへいれ、に申て出し候、ごばうさたうのかげんにまるめ候時の口傳在レ之〈○中略〉 杉原もち(○○○○)は めぐりともいふ、杉原をこまかにむしり、山のいもの葉をゆでゝ、すぢくきをとり、扨餅米六、うる四分のこをこね、ゆにして三色一度によくつきあはせ候、是は六月土用に、大臣の參物にても小臣もよし、 枸杞餅(○○○) くこをゆで、よくつき、そのしるをしぼりとりて、もちうる四六のこをこね、ゆにしてよくつき申候、又直にも入申候也、 五加餅(うごき /○○○)も くこ同前なり〈○中略〉 御所樣餅(○○○○) 南部殿傳、うるの米四分、もち六分、よくこにして、山のいもをおろしこね候て、ちいさくひらめにとり、みそ汁にてよくに候て、餅ばかりもり、沙糖をせんじかけ出し候也、さたう一升に水四分入せんじよし、
p.0623 雪餅は うるの米一升、もち三合をよくこにして、水にてにてしめし、せいろうに布をしき、米のこをふるひ入て、よくむし候間へ、串柿、栗かやなども入候、黄にいたし候は、くちなしの汁にてこをしめし候、〈○中略〉 近衞樣雪餅 白朮〈二兩〉茯苓〈一兩〉山藥〈二兩〉蓮肉〈二兩〉よくいにん〈二兩〉右よくこにして、うるの米四分、もち六分の粉に合すり、さたう八兩、右何もよくかきあはせ、つねのごとく布をしき、むし候てきり出し候也、無二比類一也、
p.0623 寬政の末まで此所〈○人形町〉に、あらし音八と云役者の家にて、鹿子餅を賣ける、見世先に四尺ばかりの坊主小僧の人形、袖なし羽織を著し、茶臺の上へ竹の皮包を持たるを立置たり、餅買人の來る時、此人形おのれと持出るぜんまいからくり有し也、
p.0623 一きんとんと云は、粟の粉にてちいさく團子の樣にして、其中へ沙糖を入たる物也、條々聞書、亥の子の箇條に、御なりきりとて、きんとんの樣なるもち參候とあり、〈亥の子の餅、昔は碁石の如くする也、其丸みの大さきんとんほどあるなり、〉酌并記の一本に云、人の前にてきんとんくふこと、れうじにくへば、中なる砂糖出て、顏へかゝる物なり、其用心してくふべき也とあり、 〈きんとんは、粟の餅の粉にて作る、色黄なるゆへに金團と云也、又すいとんとも云、夏は水にひたすゆへなり、〉
p.0624 きんとん きんとう 考ふるに、是は江家次第に餛飩、今の世にもこんとんといふ物なるべし、混渾とかけり、鳥の卵の如くにてあれば、日本紀の神代紀の卷の初に、まろがれたる事、鳥の玉子の如しと有によりて、名付しなるべし、きんとんは、その意あきらかならず、今のこんとんは、うきふ餅の如きあんを入たる丸き餅を、味噌汁にて煮たる物也、今京都邊にてきんとんとも、きんとうとも云餅あり、江戸のあん餅の事也、
p.0624 紫きんとん(○○○○○) 是も求肥を切りて、中の種にして、上餡にて餡ころの樣にくるみ、其上へ又上餡を裏漉にして、そぼろにかけるなり、紅餡白餡色々あり、何れも右の通り同じ製し方なり、
p.0624 慶長八年五月十三、未明に赴二尊勝院一、〈○中略〉朝之會席、〈○中略〉菓子金飩(○○)、茶請笋、
p.0624 享保十六年十一月廿二日、御茶、〈○中略〉御會席、〈○中略〉御菓子〈大德寺キントン(○○○○○○○)、アタヽメテ、コフタケムキクリ、〉
p.0624 算木餅(サンギモチ)
p.0624 算木餅、鹽尻に伊勢宇治邊は年禮の客來れば、先折敷にさんぎちやかとて、二寸ばかり割たる木二三枚、ばらにて結びたるを置、田作かうじなどをまじへ、これを年始の饗とし、次に芋がしら三ツ椀に入て寶珠といふ、これをすゑわたし、小紙一帖を以て引出物とす、家の貧富により、紙の大小多少ありといへり、〈○註略〉さんぎちやかとは、算木茶果なるべし、伊勢ばかりの風俗にはあらぬにや、花摘集、元祿三年七月十七日、算木餅を文字にかさぬる灯呂哉、〈東順〉是は其角が父の發句なり、灯籠の組子をいふなり、もと茶果も漢土に其製あり、祝允明猥談、江西俗、儉果榼作數格唯中一味、或果或菜可レ食、餘悉充以二彫木一、謂二之子孫果合一、めづらしきやうなれど、今正月の蓬萊などの果子ども、食ふ者なきやうになりしは、算木餅もおなじかるべし、
p.0625 金龍山餅(○○○○)〈淺草寺境内〉 金龍山畔金龍餅、餅白餡甘黄粉新、日々觀音參詣客、掛レ腰頻食幾多人、
p.0625 萬文加增餅(○○○)〈赤坂御門内〉 賣初一種加增餅、新製品多客自喧、赤坂町々幾千戸、流行唯是萬文家、
p.0625 牛脾餹(ギウヒアメ)〈俗作二求肥一、蓋牛脾支那祭祀所レ用者、今制据レ焉、〉
p.0625 饗糖吹糖纏糖 今人糯粉糖滷、龢劑成レ餅者曰二牛皮一、當二是屈大均所レ謂牛皮糖一、
p.0625 求肥糖(ぎうひたう)〈牛脾餅〉 按牛脾羊肝共華人所二賞美一者、本朝嘗不レ食二畜肉一忌レ之換二求肥字一矣、造法葛粉蕨粉〈各一升〉玉沙糖〈一斤〉拌匀用二糯米一〈二升〉漬レ水磨レ之爲二濃泔一、投二三味末一以二文火一煎レ之、以二木篦一徐煉半日許、成二七分一時入二濕飴一、〈二斤半〉再煉爲二半分一即成、撒二麪於板盤一攤レ之、待レ冷三日許、切如二墨形一而糝レ麪盛レ器、最爲二上品一、軟甘美、 又法用二糯粉〈一升〉玉沙糖一〈一斤〉用レ水〈六升〉煎去レ埃煉二糯粉一、凡成二六分一時、入二濕飴一〈二斤半〉再煉レ之成、其餘如二前法一、是乃中品也、雖二甘美一稍硬、
p.0625 丸屋求肥 寬永の頃、上使出雲の大守、京都にて求肥飴を召れ、江戸へ御歸府あつて、此菓子を尋させられしに、そのころいまだ江戸に求肥を製する者なし、それゆへ京都におゐて、求肥飴を丹煉したるものをめさるに、中島淨雲といふ者、江戸へ來て製し上る、よつて其頃は扶持方四季施等を拜領す、今神田鍛冶町丸屋播磨其裔なり、是江戸にて、求肥を造るはじめ也、よつて求肥屋と云、
p.0625 江府名物并近國近在土産 丸屋求肥 神田かぢ町壹丁め 丸屋播磨 寬永のころ中島淨雲と云人、京都nan來り、はじめて求肥飴を弘む、江戸にて求肥飴の根元とす、此故に今も求肥屋とよぶ、〈○中略〉 求肥飴〈一流無類〉 橫山町三丁め 寶來や伊織
p.0626 饅頭(マンチウ/○○)
p.0626 饅頭(マンヂウ)
p.0626 女房ことは 一まんぢう まん(○○)
p.0626 まんぢう 饅頭の音なり、頭をちうとよむは、火頭をこぢう、塔頭をたつちうといふが如し、ぢう反づなり、職人歌合に、砂糖饅頭さいまんぢうと見えたり、さいは菜なるべし、唐饅頭あり、賀饅頭あり、又饅頭皮兒とも見えたり、米まんぢうあり、葛まんぢうあり、
p.0626 饅頭名義未レ審、〈○中略〉我方呼レ頭爲レ柔、頭未レ有二柔音一、蓋呉音之訛耳、
p.0626 饅頭 事物紀原に、蜀の諸葛亮が孟獲を征しゝ時に、蠻神を祭らんとするに、蠻俗は人の頭を以て祭るならはしなりといふものありしかど、もちひずして羊と豕との肉を、麵に包みて人の頭にかたどりて祭れりとぞ、それより饅頭ははじまりけるよしをいへり、同話録にも此説あり、七修類藳には、もと蠻頭なるを饅頭と訛れりとすと、委しく 苑日渉に記せり、按ずるに、此事又誠齋雜記、演義三國志、古今事物考などにも出て、誰もしれる故事なり、されども誤なり、いかにとなれば、初學記に、盧諶祭法曰、春祠用二曼頭、餳餅、 餅、牢丸一、荀子四時列饌傳曰、春祠有二曼頭餅一〈以上初學記〉と、あるを見るに、三國の時蠻神を祭らんとて、造りそめたるものを、さしつぎの晉の祭に、〈盧諶は晉人なり、晉書に傳あり、〉そなへん事はあるまじくおもはる、又按に漢の劉熙が釋名に 也、 炙細密之肉、和以二薑椒鹽 鼓一、已乃以レ肉衘二裏其表一而炙レ之也と見えたり、是つゝむに肉と麵とかはり、熟せしむるに炙と蒸とのたがひはあれども、其製はまたく饅頭なり、されば此もの、諸葛氏より前にある事も亦明なり、蠻神を祭るに始らざれば、人の頭にかたどりて、饅頭と名づけたりといひしも、ひがことなること論なし、今名義を考ふるに、曼は を覆ふ義ならん、明の趙宦光が設文長箋に幔幕也、曼有二覆義一故从レ曼とあり、頭は宴會などの時、最初に出せる物の名にや、麺類を最初に出せる證は、宋の王闢之が澠水燕談録云、士大夫筵饌、率以二䬪飥一、或在二水飯之前一、予近預二河中府蒲左丞會一、初坐、即食二罨生䬪飥一、予驚問レ之、蒲笑曰、世謂二䬪飥一爲二頭食一、宜レ爲二群品之先一可レ知矣、意其唐末五代亂離之際、失二其次序一、〈また明の胡侍が眞珠船に、今人宴終必薦二粉羹一(ウントン)、其來頗遠、遯齋間覽云、太祖内宴先令レ進レ粉、故名二頭食一、後人宴終方薦二此味一蓋失二其次一耳、〉これ麵を頭食といへり、〈淸の王棠が知新録に、近世點心亦名曰二頭腦一とあるも、麪類よりうつれるにや、〉或人云、上に引る初學記の文に據れば、饅頭は專ら祭にのみ用ひて、宴席の食物ならねば、頭食の類とはいふまじくや、答ていはく、藝文類聚の束晢が餅賦に、若夫三春之初、陰陽交際、寒氣既濟、温不レ至レ熱、于レ時享宴則曼頭宜レ設とあるにて、宴席にも用ひたるを知べし、 附識す、知不足齋本游宦紀聞に、黄長睿云、饅頭當レ用二 字一、見二束晢餅賦一とあり、盧文弨が跋に、此語を引て、今攷二束賦中一自作二曼字一、即字書中亦無レ と云り、按ずるに、廣韻上平聲二十六桓部 字の注に、饅頭餅也とあり、其下に饅字の注に俗とあり、 は正字、饅は俗字なり、
p.0627 饅頭 小説云、昔諸葛武侯之征二孟獲一也、人曰蠻地多二邪術一、須下禱二於神一假二陰兵一一以助上レ之、然蠻俗必殺レ人以二其首一祭レ之、神則嚮レ之、爲レ出レ兵也、武侯不レ從、因雜二用羊豕之肉一以包レ之、以レ麪像二人頭一以祠、神亦嚮焉、而爲レ出レ兵、後人由レ此爲二饅頭一、至二晉饅諶祭法一、春祠用二饅頭一、始列二於祭祀之品一、而束晢餅賦亦有二其説一、則饅頭疑自二武侯一始也、
p.0627 饅頭も職人盡に、てうさいの詞に、さたう饅頭さいまんぢうと有り、又饅頭賣が歌 に、賣つくすたいたう餅やまんぢうの聲ほのかなる夕月夜哉と、饅頭二度出たり、おもふに調菜のかたは、むねと菜饅頭を作る料理果子にて、常の饅頭とは異なるべし、食物本草、餛飩の製やうをいひたるをみるに、菜饅頭のやうなり、東鑑に十字とあるものは饅頭なり、晉書、何曾、性奢豪、務在二華侈一云々、蒸餅上不レ坼二作十字一不レ食、これを奢れる故事にいへり、こゝには榮曜に餅の皮をむくともいへり、今おぼろまんぢうといふは、上の皮をむきたるなり、是等は物の數ならず、えもいはれぬ美食、費を顧みざるもの枚擧しがたし、是を何とかいはむ、十字は蒸て坼たるをいふ、職人盡の繪に、饅頭の頭に朱點あり、是もと點にはあらじ、十字なるべし、〈高野山の或院に宿りしが、饅頭の頭に、紅にて印をおしたるを出せり、是も其遺風か、〉萩原隨筆に、智恩院の御忌法事に、衆僧へ引饅頭面に紅粉を點ずる、これ十字引の遺風なりと云と有り、坼たる状を畫るもいとおかしきわざなり、昔し饅頭は賞翫したる物なり、貞順條々聞書に、折の内にていち上りたるは、まんぢうの折にて候と有にても知るべし、堀河百首題狂歌、松まんぢうのかざりにさせる枝みれば遠きあこやの松は物かは、〈あこやは、今いふしんこ團子の小きなり、〉古畫に饅頭屋の體をかきたるに、手桶に草木の枝をさして、看板のやうにあるは、かいしきに用る故なり、〈食物は何によらず、むかしはみな然り、重箱などには四隅にいだしたり、〉
p.0628 一十字(○○)と云は餅のこと也、東鑑に賜二十字一、又供二十字一、又食二十字一などゝあるは、何も餅の異名也、昔晉朝に何曾と云人、字は頴孝と云、此人親に孝行にて行儀正しき人なりしが、奢侈者にて衣服諸道具飮食、皆花麗を盡せり、蒸餅を食するに、蒸餅の上に拆て、十字を作ざれば、食ざりしと也、此故事を以て、餅を十字と云也、拆て十字を作とは、餅の上に小刀めを十文字に入て、くひよき樣にしたゝめたるをいふ也、右何曾がことは晉書第十三卷めにみえたり、蒙求にもみえたり、
p.0628 性奢豪、務在二華侈一、帷帳車服窮極綺麗厨膳滋味過二於王者一、毎二燕見一不レ食二太官所一レ設、帝輒 命取二其食一、蒸餅上不レ坼二作十字一不レ食、食日萬錢猶曰無二下レ箸處一、人以二小紙一爲レ書者勅記室勿レ報、劉毅等數劾二奏曾侈 無一レ度、帝以二其重臣一一無レ所レ問、
p.0629 まんぢう 本草蒸餅の附方には、饅頭餅とも書り、蒸餅とおなじ物なれども、中に餡を入るゝを饅頭といふ、餡はもと獸肉また蔬菜などをいるゝもの也、こゝには肉を用ひしことは聞えざれども、菜をば包みたることはありと見えて、七十一番職人盡に、さたうまんぢうさいまんぢうといふことあり、さたうまんぢうはよの常の饅頭なるべし、〈○中略〉饅頭のもとの形を考ふるに、かの職人盡の繪に書たるは、今の腰だかまんぢうに似たり、そも圓く作りたるものなるべけれど、蒸籠に入て蒸す故に、下は平になる理なり、これを形圓からむとおもふは、墳を土饅頭といひ、 麻(ケイマ)の實を檾(ケイ)饅頭、薜荔の實を木饅頭といへるをもてなり、
p.0629 五十七番 右 てうさい〈○歌一首略〉 いかにせむこしきにむせる饅頭の思ひふくれて人の戀しき
p.0629 目録 一吉野饅頭 一旭饅頭 一中華饅頭 一朧饅頭 一腰高饅頭 一薯蕷饅頭一水蟾饅頭 一山吹饅頭 一葛饅頭
p.0629 桔梗屋菓子銘 天和三癸亥年十二月十九日、桔梗屋菓子銘、 京御菓子司本町一丁目北頰 桔梗屋河内大掾〈○中略〉 御所まんぢう品々
一唐まんぢう 一さがのまんぢう 一おぼろまんぢう 一氷まんぢう一ちごまんぢう
p.0631 饅頭を菓子に出してあれば、これは小豆ばかり入れて位高し、我等ごとき者のたまはるは、ありがたきとていたゞく、又砂糖饅頭は近來の出來物(○○○○○○○○○○○)、なにの系圖もなし、よのつねの者はうまさのまゝ、奔走に思ふといひてくすみたり、其方はなにとしてそのわかちをば立てられたるぞ、かくれもない滿仲の舞に、貞純の親王の御子をば六孫王と申し、六孫王の御子をば、たゞのまんじゆうと申し奉ると、
p.0631 嘉永二年印行、古風ト流布トヲ相撲番附ニ擬スル、其流布ノ方大關以下左ノ如シ、〈○中略〉蕎麥饅頭(○○○○)〈ソバハ非カ、饅頭ノ皮ヲ薯蕷ヲ以テ製ス、故ニ京坂ニハジヤウヨ饅頭ト云、〉
p.0631 饅頭 今ノ饅頭、表ハ小麥粉ヲ皮トシ中ニ小豆餡ヲ納ル、小豆ハ皮ヲ去リ砂糖ヲ加フ、砂糖ニ白黑ノ二品アリ、白ヲ白餡ト云ヒ、黑ヲクロアント云フ、〈○中略〉 昔ハ諸國トモニ菜饅頭(○○○)廢シ、其後ハ鹽饅頭(○○○)ト云テ、小豆餡ニ鹽ヲ加ヘタリ、小豆モ皮ヲ去ザル者多シ、今モ江戸ノ江戸橋等ニ賣レ之店アリ、鄙人食レ之ノミ、近世ハ鄙トイヘドモ皆專ラ砂糖饅頭(○○○○)也、文化以來漸々如レ此也、〈○中略〉 蕎麥饅頭(○○○○)ハ、江戸近年ノ製ナルベシ、ソバ粉ヲ以テ皮トシ、舶來霜糖ヲ以テ小豆餡ヲ製シ精製也、形小ニテ貴價也、〈○圖略〉 薯蕷饅頭(○○○○)、ジヤウヨマンヂウト云、京坂近年ノ製ナルベシ、餡同前上製也、山ノイモヲ以テ皮トス、以上二品ハ茶客專用スル所ナレドモ、奢侈ノ時ナル故ニ凡ノ時ニモ食レ之、 朧饅頭(○○○)、始メ製スル時皮ニ厚クシ、蒸テ後薄ク表皮ヲムキサレバ、皮ハダ羅紗ノ如クニナル、是ヲ オボロ万十ト云フ、江戸ニハ製レ之コト甚ダ稀也、
p.0632 慶長八年六月十七日、松木上臈鮎卅三、茶酒瓶遣候禮ニ、又此方ヘ薄皮饅(○○○)二百被レ贈候、
p.0632 吉野饅頭(○○○○) 皮は薄くとも厚くもなるなり、ほどよく平めになして、小麥のとり粉にてあつかひ、上餡を包み、又八重成餡胡麻餡等を包み、簀の上へとるなり、
p.0632 元文四年四月十三日、九日御近習御一統御獻上之御菓子并折臺、廿八割御一方樣之分壹匁六分三厘七毛五宛ニ而、山科家御モヨホシ、 三十匁 大まんぢう(○○○○○)貳百、二匁貳分五厘、金紅長水引九わ、三十二匁貳分五厘、杉重一重物下臺共代十三匁六分、
p.0632 山城 饅頭 大和 饅頭
p.0632 饅頭 古建仁寺、第二世龍山禪師入レ宋、于レ時中華人林和靖末裔林淨因執二弟子禮一、斯人於二中華一製二造饅頭一、元順宗至正元年、龍山歸二本朝一日、林淨因相從來、在二本朝一改二氏鹽瀨一(○○)、始住二南都一製レ之、其形状片團、是稱二奈良饅頭一(○○○○)、是本朝饅頭之始也、於二中華一始レ自二諸葛孔明一、曾鹽瀨淨因有二數子一、其内一人爲レ僧從二龍山一、則建仁寺中兩足院祖無等以倫是也、故到レ今鹽瀨一家悉爲二兩足院之檀越一、以倫弟某於二北京一造レ之、今烏丸鹽瀨(○○○○)之祖也、一説淨因晩年歸二中華一云、又一條虎屋(○○○○)饅頭祖三官亦中華投化人也、如今製レ之家所々有レ之、松屋(○○)、龜屋(○○)、二口屋(○○○)、寶來屋(○○○)等、互爭競造二饅頭一、外皮貴二精白一、内杏(アン)重二甘美一、凡饅頭并餅、納二砂糖并赤小豆粉於其内一、蒸而食レ之、其所二包裹一之物如二杏之仁一、故稱レ杏或作レ餌、此外羊羹月羹外郎餅高麗仙袂類、亦此等家之製造也、
p.0632 饅頭(まんぢう)〈餛飩、胡餅、十字見二于東鑑一、萬牟知宇、○中略〉 饅頭者洛建仁寺〈第二世僧〉龍山禪師入レ宋、光明帝暦應四年歸朝、〈元順宗皇帝、至正元年也、〉有二林淨因者一、在二彼地一爲レ友、因 同入朝止二住南都二條一、以レ造二饅頭一爲レ業、改二林氏一號二鹽瀨一(○○)、此饅頭之始也、今造法用二醴酒一溲レ麪裹レ餡盛二焙籠一煖則肥脹再蒸レ之成、其醴糯一升煮レ飯、別麴二合用二水一升五合一洗去レ米用二花汁一、盛レ桶投二飯於中一一宿成、去レ糟用レ汁溲レ麪、 唐僧用二黑胡麻一〈熬研〉塗二饅頭一、黄蘗派羹饅麪佛事用レ之、
p.0633 一饅頭屋の鹽瀨は、元來菊屋と云もの也、昔は饅頭の煉汁は、小麥の甘酒にて製せし也、或時鹽瀨が家來、餘の菓子に蒸申餅米を、夜る取違て甘酒に作りけるを、無二是非一夫にて饅頭をしければ、色白く風味能出來はやり、是を外にても見習、後には方々にても、餅米の甘酒にしける、其後鹽瀨が家來砂糖に鹽を加へてしたてけるに、風味すぐれて鹽瀨が饅頭とて、はやり出て今に斷絶なし、右麁忽に入ける鹽の分量を覺て、毎度加へける、此鹽かげんを秘して、世に知らせずと語りける、
p.0633 饅頭 今世世人口碑ニ傳フ所、饅頭ノ始メハ林和靖ノ裔林淨因ト云モノ、〈○中略〉南都ニ住シ、姓ヲ鹽瀨ト改メ、饅頭ヲ製シ賣ル、是皇國饅頭ノ始メ也、延寶中食類ニ名アル物ヲ云ル書ニ、鹽瀨ノ饅頭ヲ載タリ、又元祿江戸名物ニモ、茅場町鹽瀨山城守饅頭トアリ、是實ニ林氏ノ裔歟未レ詳、今世江戸靈岸島ニ鹽瀨山城ノ大掾藤原忠次ト云アリ、林氏鹽瀨云々ト暖簾ニ記セリ、一家二姓ニ似タリ、又同ノレンニ大日本第一本御饅頭家ト題セリ、然レドモ今世ハ當戸ノ制ヲ賞セズ、却テ他戸諸店ニ名アル者多シ、〈○中略〉 京師是ニ名アル者未レ聞レ之、追書スベシ、 大坂ハ高麗橋通三丁目虎屋(○○)大和大掾藤原伊織ナル者、諸國ニ名アリテ頗ル巨店也、饅頭出島白 ザタウ製一ツ價五錢也、虎屋饅頭ト稱シ、大坂モ諸所此店アリト雖ドモ、虎屋製ニ非レバ客ニ饗シ、或ハ贈物等ニハ他製ヲ用フルコトヲ耻ズル也、 文政中、城西大手筋ト云處ニ、此店ヲ開キ東雲堂(○○○)ト號シ、饅頭大ニテ價十文精製也、是ハ大手マンヂウ(○○○○○○)ト稱シ、人ニモ贈リ客ニモ呈シ行レシガ、虎屋ノ盛ナルニ及バズ、天保末ニ亡ブ、菓子モ製セシ也、 又江戸ハ何レノ菓子屋ニモ專ラ饅頭ヲ製ス、大坂ハ虎屋ノミ菓子ト饅頭ヲ賣ル、其他ハ專ラ菓子屋ト饅頭屋ハ別戸ニ賣ルコトヽス、其製ハ專ラ三錢也、往々二錢ノ物モアリ、トモニ黑餡也、又上巳ノ節ハ一文饅頭ヲ賣ル店アリ、 因云、虎屋饅頭切手ト云手券ハ、饅頭十ヲ一紙トス、百員ヲ贈ルニハ切手十枚ヲ以テス、江戸ハ定數無レ之、數ノ外ハ印行シ、饅頭ノ數等ハ筆ニテ書加ル也、多クハ饅頭切手ヲ用ヒズ、菓子切手也、大坂モ虎屋ノ外ハ切手アル店ハ無レ之、 又京坂ハ饅頭ヲ竹皮ニ包ム、江戸ハ紙袋ニ納ル、音物ニモ京坂折詰稀トス、江戸ハ折詰多シ、 江戸饅頭店數戸アリトイヘドモ、各大概四文ヲ常トス、
p.0634 饅頭屋 かやば町 鹽瀨山城守 日本橋南一丁目 同 ふきや町 ゑびすや 淺草駒形 ほていや 同所 ゑびすや
p.0634 江府名物并近國近在土産 鹽瀨饅頭 〈日本第一饅頭の根元〉日本橋通壹丁め鹽瀨山城〈○中略〉 鳥飼饅頭 本町壹丁目 鳥飼和泉 東武市中の製にては、此家を最上とす、 桔梗屋饅頭 本町壹丁目 桔梗や河内 壺屋饅頭 元飯田町 壺や六兵衞 猿屋饅頭 淺草駒かた 子持眞さるや
p.0635 鳥飼和泉饅頭〈本町三丁目〉 鳥飼和泉無二鳥飼一、饅頭日々注文多、唯歡皮薄餡尤好、荷出蒸籠日幾荷、 鹽瀨饅頭〈南傳馬町四丁目〉 傳馬町頭鹽瀨店、饅頭元祖製尤新、毎朝蒸立皮如レ解、爭買世間下戸人、
p.0635 金龍山米饅頭(○○○○○○) 或説に江戸の名物米饅頭の根元は、淺草聖天金龍山の麓鶴屋なり、慶安の此、此家の娘におよねといへるあり、此女始てこれを製す、およねがまんぢうといへり、此説うたがはし、左に摸し出す圖のごとく、〈○圖略〉延寶の頃までは辻賣なり、米をよねといふ、米まんぢうと云も、米のまんぢうと云義にて、女の名によりてよびたるにはあらざるべし、常のまんぢうは麪(こむぎのこ)にてつくれば也、紫の一本〈天和二年〉に、聖天町にてよねまんぢうを商ふ、根本は鶴屋といふ菓子屋也、 根本はふもとの鶴やうみぬらんよねまんぢうはたまごなりけり 遺佚 かゝればはやく天和の比は、居店にて賣たるならん、江戸鹿子〈貞享四年印本〉米饅頭屋淺草金龍山ふもと也同所鶴屋とあり、江戸咄〈先板は故鄕歸江戸咄と題す、後增補元祿七年の本あり、〉卷の五に、眞土山云々、爰の山の麓のよねまんぢうは江戸中にかくれなき名物也云々、ひとゝせはやり小うたに、金龍山で同道しよ、も どりがひもじかよねまんぢうとうたふたり云々、〈當時よねまんぢうのおこなはれたるを見るべし、〉 〈享保の比の板、江戸八景の繪本に、金龍山聖天に二王門ありて、ひめぢ屋といふ、よねまんぢうの店あり、近き世までも其なごりありしなるべし、○圖略〉 江戸鹿子、眞土山の條に、坂の登口、又聖天町の門前も左右ともに茶屋なり、此麓屋伊勢家の饅頭は名物なりとて、よねまんぢうとよぶ云々とあれば、伊勢家といへるもありしならん、
p.0636 人の相伴する事 一點心の時參樣、〈○中略〉まんぢうのくひやう、一取てをしわりて、なからをば殘たるまんぢうの上にをきながらくふべし、さて殘たるをもくひたくばくふべし、くるしからず候、年寄たる人は、丸ながらもくふべし、又も二もくふべし、又作善の時は、僧達はさばの心にて、ちとちぎりて右のさらに取置候、いづれも點心同前に候、〈○中略〉又いにしへは椀に、まんぢう四入候樣に覺候、三ならべてわんニ入、ひとつ上に置たると覺候、定て覺違にて可レ有候、〈○中略〉 まんぢうのこきり物、二色一色にても不レ苦候、此こを汁へ可レ入、但入候はぬも不レ苦候、若き人などは、入候はぬも能候、年寄はかうのものなどを、さいのやうに、まんぢうにくひそへたるも能候、若人はめゆ〳〵有べからず、〈○中略〉 一饅頭はめし椀に入て、しる椀をふたにし候、ふたのしるわんにて、汁を可レ請、さてこを可レ入、若人などはしるをすはぬも能候、こをも不レ入共なり、年寄は入て能候、さてむぎのすはり候時、きうじの人盆を揃て出て、まんぢうをうつし候、其めし椀に麥の汁をうくる也、まんぢうの汁の入たる汁わんをば、配膳の人取也、〈○中略〉 一同時〈○一獻の時〉饅頭のすはり樣、そへ肴あるべし、 くひやう、こを先汁へ入べし、又入候はぬもくるしからず、若人などは何となく入らぬが能候、汁をもすひ候はぬも不レ苦候、年寄は何としたるもくるしからず、先まんぢうを一取てをしわりて、 なからをば殘のまんぢうのうへに置てくふべし、又殘をもくひたくばくふべし、丸ながらくふもくるしからず候、年寄などは二もくひ候、いにしへはまんぢう出候へば、料紙を引たるとて候、是は殘をつゝみて、懷中せよとの心也、今はさやうの事なし、今も年寄たる人などは、殘をとりて懷へ入られ候、
p.0637 一饅頭をたべ候時、あんこぼれ候時、右の人さしゆびにて砂糖を押付て受用候が能候、是故實にて候、
p.0637 一舊記にまんぢうのすさい、むしむぎのすさいなど云ふ事あり、古はまんぢうにても、何にてもさいをそへて出したる也、そのさいは醋にひたしたる物ゆへ、さいをすさいといふ也、醋はむねをすかす物故、すさいをそへて出す也、尺素往來に點心の菜は不レ要レ多矣、生籮蔔(ダイコン)、鷄冠苔(トサカノリ)、冬瓜、藕根(ハスノネ)、蘘荷、酸蕗等の内、三種計可レ設レ之、菜與二點心一匹レ數事は、號二元弘樣一、當世の物笑也と云々、點心とはまんぢうもち、むしむぎなどの類をすべて云也、そのすさいになる、大こん、とさかのりとうぐは、はすの根、みやうが、ふきなどに醋をかけて出すを云也、菜を點心ほどに多くもりて出すをば、元弘年中の風儀とてわらひ物にしたる也、三種計少出すべしと也、一又まんぢうの粉切物(コキリ)といふ事あり、ことはまんぢうくふ時汁へ入る紛也、山椒のこ、肉桂の粉こしやうのこなどの類也、からしなども粉なり、きり物とは是も汁へ入るきざみ物也、柚の皮、みかんの皮、しその葉、たでの葉、みやうがの子などの類を、こまかに切りたる物故、きり物と云也、昔はまんぢうに、たれみその汁を添て出したる也、さうめん、むし麥、やうかんの類にも、汁をそゆる也、粉、きり物もあり、又すり物と云も、粉之事、すりてこにするなり、
p.0637 本式饅頭といふ事有、并ニ三麪三羹の事饅頭、索麪、薯麪、まんぢうは汁を添へて喰、薯麪はかけて喰ふ、索麪はつけて喰ふ、羊羹、鼈羹、臚腸羹、製は文字の通り也、右をの〳〵喰やうあり、 まんぢう振廻傳有、三人より多くは不レ成也、客につくと饗利饌出す、つるし柿、赤鰯、つるし柿なくば白豆腐也、鰯なくば梅干也箸にて鰯一口喰、是は麪毒を消すゆへ、其箸にてすぐに柿を喰也、鰯柿に靑葉をしく、膳に箸なし、右の汁は吸計なり、是を引とすぐに本膳を出す也、
p.0638 一永正十五年三月十七日、畠山式部少輔順光亭へ御成、〈○足利義稙、中略、〉 獻立〈○中略〉 五獻 まんぢう 御そへ物〈ひばり〉
p.0638 天文九年十月廿八日、佐方より内々以二書状一尋承候、まんぢうの御ひやし汁るの事、常のてんしんのごとく、御ひさげに御ひやしるをつぎ候て參り候哉のよし承レ之也、仍返札に申候、更さやうに御ひさげにつきて參り候に不レ及候、常のてんしんのごとくには無二御座一候、たゞまんぢうに御ひやしるをすゑそへ申され候までにて候よし申レ之也、
p.0638 京にて大佛の餅饅頭(○○○○○○)流行し、こゝかしこにて商ふうちに、四條畷にこの饅頭を鬻げる、近江上味といふものあり、或時店先へ乞食來りて、饅頭を十ばかり賣りて給はれといふに、主人いで來て、非人には商ひせずと云ふ、乞食のいへるは、我等とても同じ人なり、錢をもて買ふに、商ひものをいかで賣らざるか、この理を聞くべしとて詈りけれども、主人は聊挨拶もなくて居たりけるが、詈ることのあまりにはげしければ、主人みせ先へいでゝ、さらばその譯申し聞すべし、下に居れとて、乞食にむかひ、汝等ごとき乞食に賣らぬといへる、その子細は、乞食となりて、かやうの菓子を食はんとおもふ不所存いはんかたなし、無益なれども耳あればきゝおくべしと、乞食がゝぶりたる手拭取り捨て、我あきなへる饅頭は尋常の製にはあらず、殊に上品に造りて、高貴の方へも奉る菓子なり、左あらば乞食などの分際にて、食ふべき品にはあらざるなり、汝もしわが家の菓子を食ひたく思はゞ、人なみ〳〵のものとなりて後に、求めに來るべし、汝諸人の あはれみを蒙り、わづかに露命をつなぐ身を以て、錢あればとて、上菓子を食ふことのあるべきや、世をおそれざる不屆の族なり、とく〳〵行くべきなり、須臾も店先を塞ぐべからずと、いたく叱りて追立てければ、かの乞食は頭をかゝへて、何處ともなく逃げ失せぬ、
p.0639 十八番 左 まむぢう賣(○○○○○) うり盡すたいたう餅やまんぢうの聲ほのか成夕月夜哉 思ひわび千度悔いてもまんぢうの殘るべきなを猶つゝむ哉
p.0639 煉御菓子目録 一蒸羊かん 〈一棹ニ付〉代一匁五分 一外良もち 〈一棹ニ付〉 代二匁 一杓杞かん 〈同〉 代二匁二分五厘 一薯蕷かん 〈同〉 代二匁五分 一さらさかん 〈同〉 代三匁 一春雨かん 〈同〉 代二匁五分 一朝日羹 〈同〉 代四匁 一大和錦 〈同〉 代五匁 一鼈甲かん 〈同〉 代三匁 一長命羮 〈同〉 代一匁八分 一田子の浦 〈同〉 代二匁五分 一千鳥羮 〈同〉 代二匁五分 一八重成かん 〈同〉 代二匁 一相生羮 〈同〉 代二匁五分 一紅杢目かん 〈同〉 代三匁 一しのゝめ羮 〈同〉 代三匁 一名月かん 〈同〉 代五匁 一紅羊羹 〈同〉 代三匁 一星ようかん 〈同〉 代二匁 一山椒餅 〈同〉 代一匁五分 一琉球羮 〈同〉 代一匁五分 一金玉糖 〈同〉 代三匁 一小倉かん 〈同〉 代二匁 一わさびかん 〈同〉 代二匁五分 一柚もち 〈同〉 代三匁五分 一ごまかん 〈同〉 代二匁 一こはくかん 〈同〉 代一匁二分 一百合羮 〈同〉 代二匁 一煉羊かん 〈同〉 代一匁八分 一浪花羮 〈同〉 代九分 一棹まんぢう 〈同〉 代一匁二分 一紅梅もち 〈壹本ニ付〉代二匁五分 一的紅梅 〈壹本ニ付〉代一匁五分 一水仙卷 〈同〉 代二匁五分 一くずめん 〈同〉 代四匁より 一くず切 〈同〉 代五匁より 一加津うを 〈同〉 代五匁より 一かすていら 〈壹斤ニ付〉代六匁〈○中略〉 〈本鄕四丁目日影町〉藤村屋忠次郎
p.0640 羊羹(ヤウカン)〈本字羊肝、是志那所レ用二祭祀一者、今制据レ此、〉
p.0640 饗糖吹糖纒糖 赤豆去レ皮、龢二糖滷一、煎煉成レ餅者曰二羊肝一、金門歳節記、有二羊肝餅一、未レ審二果是物否一、今來甜食之製日巧、名件甚繁、雪花酥、琥珀糖之類不レ可二擧數一矣、
p.0640 今の羊羹は昔の法に非ず、明人は豆沙糕といふとなり、宋書毛脩之傳、脩之嘗爲二羊羹一、以薦二虜尚書一云々あるものは、羊肉のあつものなり、菓子の羊羹は羊肝糕なり、求肥ももと牛皮糖なると同じ、獸を不潔とする故、これらの字を書改めしならめど、羊字をかへざるはいかゞ、又羮は糕と同音なる故、糕といふべきものをも、誤りて羮とかけり、
p.0640 羊羹(やうかん)〈羊肝餅、俗爲二羊羹一、〉 按羊羹餅造法、煮二赤豆一去レ皮絞レ水用レ粉和二麪粉一、以二沙糖煎汁一溲レ之蒸レ甑、要二色黑一者用二玉沙糖一、或入二鍋底炭一也、賞二味甘美一曰二羊羹一乎、玉燭寶典有二羊肝餅之名一、即此類也、裹二竹籜一(カハ)饋レ之、如二夏月經レ日者一殕(カビ)生、凡小豆易レ饐不レ鮮者不レ可レ食、
p.0640 目録 一本羊羹 一白本羊羹 一三段羊羹 一紅羊羹 一靑羊羹 一玉ノ井羊羹 一八重成羮 一胡麻羮 一百合羮 一薯蕷羮 一栗羊羹 一鶯羮
p.0641 本町紅谷志津摩家菓子譜 羊羹類增書 一菊水羮 壹箱ニ付 代拾匁 一日の出羮 同 代拾匁 一琉球羮 同 代六匁 一あられ羮 同 代七匁 一琥珀かん 同 代六匁 一鼈甲羮 同 代七匁 一三豆羮 同 代六匁 一吹寄羮 同 代拾匁 一吉野羮 代拾匁 一蕨羮 代八匁 一梅がへ羮 代八匁 一松がへ羮 代八匁 一水羊羹 代六匁 一大坂羮 代六匁 一枸杞羮 代七匁 一百合羮 代七匁 庚午四月十五日 〈本町〉紅谷志津摩
p.0641 蒸羊羹(○○○) 赤小豆 一升 唐雪白砂糖 八百目 小麥御膳粉 七十目 久助葛 廿匁 多少とも右の割合を以て、砂糖を煮詰めて、其中へ煮あげたる小豆の漉粉を、少しづゝ入れてよく煉りあはせ、火をおろして、分量の小麥の粉葛ともに岡まぜにして能く煉りて、蒸籠の中へ布をしいて入れ、上を平にして一時程蒸すなり、若し上の方に泡立つ事あらば、薄き板のやうなる物を拵へ置き、それにてかきおとして、又少し蒸すべし、むしあがりて箱の蓋やうなる物へあげ、 布をとりてさましてから棹に切るなり、〈○中略〉 煉羊羹(○○○) 白大角豆 四百目 唐三盆砂糖 九百目 白角天 二本半 是も前にしるす如く、分量次第にて、唐三盆を煮詰めて、大角豆の漉粉を追々入れて煉るなり、尤も角天は、其以前より水六合餘入れて煮崩し置き、煉りあがりたる時、水囊にて餡の中へ漉し込みて、滿遍なく煉りまぜ、船へ厚紙にて文庫を拵へて、其中へ流すなり、煉物類一棹と唱ふるは、長さ六寸に幅一寸一船にて、十二棹に切るなり、製して流し入る箱を、菓子屋の通言にて船といふ、今は煉羊羹を製せざる所もなく、常の羊羹は、あれども無きが如く、煉をのみ好み給ふ樣には成りたり、文化の初、僕〈○郡司燕子〉が深川佐賀町に店を開きし頃は、何處にも種類なく、一日に煉羊羹のみ八百棹千棹の商内在りしも、手製の煉羊羹中興權輿の功に寄る物なり、當時に至るまで、日に增し家業繁昌なして、御得意の御蔭を蒙る事、よろこばしからずや、〈○中略〉 金玉糖(○○○) 唐三盆砂糖 八百五十目 白角天 二本半 是もまづ、砂糖を煎じ詰めて、角天を右の通りに煮崩し置き、砂糖の程よくつまりたる所へ、水囊にて角天を漉し込みて、よくかきまはして、塗物の器へ流して、さますべし、
p.0642 菓子の變格 菓子追々奢侈にうつり、寬政の始大久保主水の菓子杜氏のはて、喜太郎といひし者、日本橋の新道の小家の表は格子作りにて、夫婦に丁稚の召仕一人のくらしにて、自ら上菓子少しばかりづつ造りて賣りけるに、煉羊羹といふ物を製しはじめけるに、今のやうにさゝ折といふものもなければ、口に奢る者、重箱を持たせて取りにやるに、けふは賣れ切れたりとて空しく歸る、さらば あすとて、煉羊羹のために、招きたる客をかへす程の稱美としたるに、今は諸國にもある中に、日光なるは江戸にまされり、僅に六十年の變化、素の侈りし事、菓子に於ても此の如し、
p.0643 嘉永二年印行、古風ト流布トヲ相撲番附ニ擬スル、其流布ノ方大關以下左ノ如シ、〈○中略〉煉羊羹(○○○)○中略古風方ニ曰〈○中略〉蒸羊羹(○○○)〈煉羊羹ヨリハ下品也、價凡半也、〉
p.0643 羊羹 羊羹ノ古製小豆一升砂糖准レ之、小麥粉五勺、鍋墨少々加ヘユルク煉リ合セ、蒸籠ニ掛ケ、サマシテ後ニ細長ク四角ニ切ル、色黑シ云々、古製ハ此ゴトク甚粗製也、今製ノ蒸羊羹ノ類ニテ、古ノ砂糖羊羹(○○○○)也、〈○中略〉 今製煉羊羹(○○○)赤小豆一升ヲ煮テ、アクヲ取リ去ルコト三四回、其後皮ヲ去リ漉粉トナシ、唐雪白砂糖七百目、是モ煮テアクヲ去リ、乾天二本半ヲ煮テ漉レ之、煮詰製スヲ煉羊羹ト云、同粗製ノモノ同製、唯白砂糖三百目ヲ用フ、江戸ニテ近年是亦行レ號テ浪華羮(○○○)ト云、蓋彼地ニ始メ製スニ非ズ、唯猥リニ號レ之ノミ、右ノ煉羊羹浪華羮トモニ、赤小豆ヲ專トスレドモ、或ハ白大角豆或ハ八重成ヲ以テ製スモアリ、八重成ハ大坂ニ無レ之歟、又蒸羊羹(○○○)モ行ル、煉蒸及ビ浪華羮トモニ長六寸厚ト幅格一寸ヲ一棹トス、蓋家ニヨリ幅ヲ廣ク薄クスルモアレドモ、大略同量也、煉羊羹一棹價銀二匁、浪華羮、蒸羊羹、各一棹價銀一匁、三都トモニ同價也、又京坂ハ上製トイヘドモ籜包ヲ專トシ、折ヲ用フコト甚稀トス、蓋籜ヲ卷テ羮ノ左右ニソヘ、其上ヲ包ミテ幅二寸餘トス、江戸ハ稀ニ籜包アレドモ、單ニ包ミテ廣クセズ、音物ニハ折入ヲ專トスルナリ、折入籜包トモニ一棹二三棹入アリ、京坂同レ之、
p.0643 薩摩羊寒(○○○○) 一さつまいもの皮をさり、井籠にてよくむし、摺鉢にてすり、すいのうのうらよりこして、是につ ねのようかん少し、砂糖、うどんのこ、葛の粉すり合せ、又むすべし、これ又ようかんせいほうの通に、一夜すて置べし
p.0644 元文二年五月十二日 白羊羹(○○○) 拾棹 代三拾五匁 臺代七匁 合四十二匁 右者去九日禁裏樣爲レ窺二御機嫌一、御一統御獻上候、則三十五方樣へ割、御一方樣一匁二分宛ニ而御座候、 五月十二日 〈裏松家〉鳥内一學
p.0644 鈴木越後羊羹〈本町一丁目〉 江戸誰知越後名、本町入口土藏宏、當時處々多二新製一、依レ舊羊羹天下鳴、 船橋屋煉羊羹〈深川佐賀町〉 本家久住深川岸、菓子羊羹天下橫、縱有二同名同店在一、船橋文字自然明、
p.0644 外郎餅〈稱二宇伊良宇一〉 按外郎餅即羊羹之屬、外郎相州小田原人名、製二透項香丸一賣鳴レ名、竟呼爲二藥名一、黑色香美、此餅色以二稍似一名、造法粳〈八合〉糯〈一合半〉葛〈半合〉共一升、細末別黑沙糖〈一斤半〉以二水七合一略煎、去レ渣取二精汁一以煉レ之如レ膏而蒸レ之、候三湯氣起二於甑一、盛二煉膏一蒸レ之則成、以レ絲切レ之、
p.0644 寒具 ヒグハシ類ノ總名ナリ 寒食ハ冬至ヨリ百五日ヲ云、即淸明ニ當ル、三月ノ節ナリ、此日舊例ニテ終日煙ヲアゲズ、故ニ前日ヨリ食物ヲ調ヘヲキ、數品ノ果子類ヲ製ス、故ニ釋名ノ名ハ同物ニ非ズ、是ヲ總ジテ寒具ト云、寒食ノ具ト云義ナリ、
p.0644 干菓子 菓子は今云水菓子の事也、よつて菓子の字を用、往古は今砂糖を以製する菓子なし、桃、柿、柑類等を用ひたり、傳云、干菓子は、本草に出たる所の白雪糕にもとづき製レ之、中古あるへい糖、こんぺい糖の類を渡す、これに傚て數品の干菓子を製すと也、堂上の御菓子は、一條の虎屋近江、二口屋能登製レ之、御用の御菓子は銀町大久保主水製レ之、
p.0645 環餅 本朝人多不レ嗜二油煎一、故以二沙糖汁一溲レ麪、而作二花實之形一熬レ之、以代二果子一、因名二乾果子一、其熬鍋之蓋、亦以二鍋淺匾一、盛二炭火於蓋鍋一熬レ之、但不レ入レ鹽、此爲二和漢之異一耳、
p.0645 干菓子之部 一唐落雁 一御所落雁 一麥落雁 一白雪糕 一藥白雪糕 一松葉 一松風 一卷絹 一二見浦 一花蕨 一櫻玉 一伊達曲 一輕燒 一唐棗 一卯ノ花 一落葉燒 一水ノ月 一寒紅梅 一笹の友 一村時雨 一玉兎 一小倉山 一蟻通 一霜柱
p.0645 桔梗屋菓子銘 天和三癸亥年十二月十九日、桔梗屋菓子銘、 京御菓子司本町一丁目北頰 桔梗屋河内大掾 御菓子品々 一さゞれ石 一長命糖 一千年糖 一せう長壽 一人丸 一人參糖 一幾夜の友 一夜の梅 一まつ風 一ねざめ 一から衣 一梅りん 一雪あられ 一しらたま 一から糸 一さゞなみ 一くれなみ糖 一水たま 一すいしかん 一かるめいら 一さくら糖 一源氏糖 一紅梅糖 一琉球糖 一なんばんあめ 一あるへい糖 一にしきあめ 一しのぶ 一だるまかくし 一雪中の立花 一かすていら 一ちどり 一はくせつかう 一くわんひ 一月日 一しゞら糖 一ねざゝ 一きりん 一ごまぼうる 一小ざくら 一こりん 一こんぺい糖 一げんじあめ 一朝日やき 一さとうがや 一かうらい煎餅 一あさぢあめ 一南京あめ 一ちんぴ糖 一ふゞき 一ゆきの花 一さんりん 一小みどり 一はるてい 一みどり 一花ほうる 一ふじのみ 一丸ほうる 一あふひ 一かるやき 一小らくがん 一さんもち 一りんもち 一花のつゆ 一ぎうひあめ 一かせいた
p.0646 本町紅谷志津摩菓子譜 干菓子類 一輕命羅 壹斤ニ付 代拾四匁 一紅梅糖 同 代拾貳匁 一淸海糖 同 代拾貳匁 一靑柳糖 同 代拾貳匁 一瀧田糖 同 代拾貳匁 一金糸糖 同 代拾貳匁 一錦糖 同 代拾貳匁 一翁糖 同 代拾貳匁 一九重糖 同 代拾貳匁 一紫雲糖 同 代拾貳匁 一東雲糖 同 代拾貳匁 一小原木糖 同 代拾貳匁 一小櫻糖 同 代拾貳匁 一築羽根 同 代拾貳匁 一水葉糖 同 代拾貳匁 一茶巾糖 同 代拾貳匁 一龍眼糖 同 代拾貳匁 一常陸帶 同 代拾貳匁 一世り水 同 代拾貳匁 一萬代結 同 代拾貳匁 一源氏糖 同 代拾貳匁 一早蕨 同 代拾貳匁 一千代結 同 代拾貳匁 一水庭砂香 同 代拾貳匁 一白庭砂香 同 代八匁 一雲米香 同 代拾匁 一寒水梅 同 代拾貳匁 一雪こかし 同 代拾匁 一岩石 同 代拾匁 一初岩 同 代八匁 一濱千鳥 同 代六匁 一松葉 同 代六匁 一稻露 同 代八匁 一初昔 同 代八匁 一鶉艸 同 代八匁 一達摩隱 同 代八匁 一東錦 同 代拾匁 一東鹿子 同 代拾匁 一京鹿子 同 代拾貳匁 一宇治橋 同 代拾匁 一鹽釜香 同 代五匁 一佐野の雪 同 代六匁 一大米糖 同 代拾四匁 一金平糖 同 代拾貳匁 一生姜糖 同 代拾貳匁 一柚花香 同 代拾八匁 一築羽根 同 代拾貳匁 一水葉糖 同 代拾貳匁 一小櫻糖 同 代拾貳匁 一八重氷 同 代拾六匁 一桂梅 同 代拾匁 一宮城野 同 代拾六匁 一源氏松 同 代拾匁 一朝日香 同 代貳拾匁 一牡丹香 同 代貳拾匁 一小原木糖 同 代拾貳匁 一源氏くるみ 同 代拾匁 一古生林 同 代拾六匁 一古生糖 同 代拾貳匁 一こぼれ梅 同 代拾匁 一紅吹よせ 同 代拾匁 一廿日の月 同 代拾匁 一初櫻 同 代拾匁 一〈大中小〉みどり 同 代八匁 一澤の月 同 代六匁 一養老糖 同 代六匁 一〈大中〉雪綠 同 代八匁 一若竹 同 代八匁 一浪の花 壹枚ニ付 代五厘ヅヽ 一最中の月 代〈紅貳分五リ白貳分〉 一南京おこし 壹斤 代五匁〈○中略〉 庚午四月十五日 〈本町〉紅谷志津摩
p.0648 粔籹 文選注云、粔籹〈巨女二音、和名於古之古女、〉以レ蜜和レ米煎作也、
p.0648 按〈○中略〉源君所レ見本脱二麪字一、故以爲二於古之古女一誤矣、又按説文、餳飴和レ 者也、又云、 、熬レ稻粻 也、謂乾二煎 米一使二張皇一、謂二之 一、以レ 和レ飴者、謂二之餳一、又北戸録注引二證俗音一云、今江南呼下 飯已煎レ米以レ糖餅レ之者上爲二粰 一、廣雅粰 也、急就篇注、 之言散也、熬二稻米飯一使二發散一也、王念孫曰、粰 之言浮流、分散之貌也、則於古之古米、宜二以レ餳充一レ之、如下方言凡飴謂二之餳一、又云、餳謂二之餦 一、郭璞曰、即乾飴也、楚辭王逸注云、餦 餳也上、皆渾二言之一許愼析二言之一也、
p.0648 粔籹(ヲコシゴメ)〈楚辭註、以レ蜜和二米麪一熬煎作レ之、〉 興米(同)〈和俗所レ用〉
p.0649 凡供二神御一雜物者、大膳職所レ備、〈○中略〉粰 筥五合、已上六種、別納二六枚一、
p.0649 寒具〈綱目〉 釋名、〈○中略〉 、〈時珍曰、(中略) 易二消散一也、服虔通俗名謂二之餲一、張楫廣雅謂二之粰 一、楚辭謂二之粔籹一、雜字解詁謂二之膏環一、〉
p.0649 興(ヲコシ)米 室町四條南松本町所レ有爲レ宜、近世二口屋、并虎屋之製亦佳、其製法熬レ米以二滑飴一粘二固之一、或長或圓造レ之、是自二粘固之中一挽二興之一謂也、
p.0649 粔籹(をこしごめ)〈和名於古之古女〉 文選注云、粔籹、蜜和レ米煎作也、 按粔籹造法二以二糯米一蒸レ 、晒乾微炒、膠飴與二米粉一和溲レ米、扭爲レ團食レ之甘脆美、近頃作二大方形一切用、俗謂二之磐粔籹一(イハヲコシ)蓋以二膠飴一代レ蜜也、楚辭云、粔籹蜜餌用二餦 一、〈餦 餳也〉觀レ此則中華亦以レ餳代レ蜜矣、
p.0649 おこし米 よくいにんをよくほし引わり、米のごとくにしてきつね色にいり、さてさたうに水をくはへふかせ、にえ候時、かさにすこしづゝさたうをとりわけ、よくいをすこしづゝ入まぜ、盆にあけ候へば、かたまり候がよきかげんなり、いくたびにもかさにとりわけつかまつりてよし、道明寺にてもいたし候、
p.0649 此年間〈○安永〉記事 安永十年俳人提亭の撰たる、種おろしと云句集に載る所の、其時代のはやり物商物目録左に略記す、〈○中略〉御所おこし、〈御くら前玉屋〉
p.0649 粔籹 オコシゴメ古來ヨリ有レ之、和名抄ニ粔籹以レ蜜和レ米、或曰粔籹ハ餅米ヲ煮テ水飴ニテコネカタメ、竹筒等ニ搗籠メ、押出シ製ス云々、今世ハ粳米ヲ蒸シテ日ニ晒シ、干イヽトナシテ後、水飴ト砂糖ヲ以テ煉レ之、筥ニ納レサマシ、拍子木ノ形ニ截ル、今俗右ノホシイヽノマヽナルヲ田舎オコシト 云也、江戸ニテノ名也、江戸ニハ此製多シ、又大坂道頓堀二ツ井戸邊ニ、津ノ國屋淸兵衞ト云者、享和文化比ヨリ賣レ之、始メハ小行ナリシガ、今ハ近國西國ニ其名高ク繁昌シテ今ニ存ス、當家ノ製ハ、粳ヲ蒸テ干飯トナシ、コレヲヒキテ小米糒トナシ、飴ト琉球黑砂糖ノ上品ヲ撰ミ、又出島糖ヲ加ヘ製ス、故ニ堅キコト石ノ如シ、號ケテ粟ノ岩於古志ト云、太サ方五六分許、長四寸許、一價四文也、近年京坂ノ粔籹皆必ラズ是ヲ摸製スル也、江戸ニモ近年摸製シテ賣ル店アレドモ行ハレズ、
p.0650 岩起賣 粔籹ノ一種也、粔籹オコシゴメト訓ズ、故ニ假字シテ起ト云、岩ハ剛堅ヲ云ナリ、大坂道頓堀二井戸西ニ津ノ國屋淸兵衞、專ラ製レ之賣テ今世名物トナリ、冬月毎日所用ノ黑糖大約二三百斤、黑糖ヲ用フルコト概海内一トス、製レ之場粗造酒ニ似タリ、人夫數人ヲ以テ製レ之、京以西諸國ニ漕ス、始メ極テ貧民製レ之漸富、當主僅二世、又他店ニテ贋二製之一者甚多シ、トモニ津淸ニ擬テ、筥ニ梅鉢ノ記號ヲ描ケリ、價眞僞トモニ小形二文半、大形四文ニ賣ル、傳賣者ニハ價ヲ減ジ賣ル也、傳賣者甚多ク、陌上ヲ賣ハ皆傳賣ノミ、因曰傳賣俗ニ受賣ト云、
p.0650 法性寺殿〈○藤原忠通〉元三に皇嘉門院へまいらせ給ひけるに、御くだ物をまいらせられたりけるに、をこしごめれをとらせ給ひて、まいるよしして、御口のほどにあてゝにぎりくだかせ給ひたりければ、御上のきぬのうへに、はら〳〵とちりかゝりけるを打はらはせ給たりける、いみじくなん侍ける、
p.0650 落雁(ラクガン)〈食菓〉
p.0650 らくがん 落雁とかけり、炒米糕なりといへり、されど明朝に軟落甘といふ軟を略せしなりと、朱子談綺に見えたり、
p.0650 らくがん 落雁 今らくがんと云菓子有、もと近江八景の平砂の落雁より出し名なり、白き碎米に黑胡麻を村々とかけ入たり、そのさま雁に似たれば也、形は昔は洲濱のさまなりしが、今は種々の形出來たり、かゝるものといへども、その初は故由有しが、後はとりうしなへる事多く、その名同じくして物異に變るもの也、
p.0651 環餅
p.0651 麥落雁(○○○) 唐三盆砂糖 百目 新挽麥粉 五十目 極上微塵粉 十匁 右砂糖の中へ、水を少し加へてよく交ぜ、其中へ麥粉を和して、後にてみぢん粉を入れ、手にてよくもみ、幾度もかへして、好みの形に押すべし、 尤も麥の粉は、煎りたて、挽きたてをよしとするものゆゑ、手前にて挽きて、直に製すれば、風味一しほよし、
p.0651 白雪糕(ハクセツカウ)
p.0651 白雪糕はくせつかう 仙臺にて、さんぎぐはしと云、
p.0651 白雪糕(はくせつこう) 回春云、白雪糕造法、大米〈一升〉糯米〈一升〉山藥〈炒〉蓮肉〈去心〉芡實〈各四兩細末〉入二白砂糖一、〈一斤半〉攪令レ匀蒸熟、任レ意食レ之、 扶二元氣一健二脾胃一、但内傷並虚勞泄瀉者、宜二當レ飯食一レ之、 按市肆販白雪糕用二米粉藥末沙糖一、溲レ之乾熬、則不レ異二於 之製一、不レ如二本方一、用者可二以斟酌一、
p.0652 名産白雪糕(はくせつこ)〈上切町河内屋喜平治の製する所にして、興(おこし)米の一種、尤上品なり、是を津島興米といふ、また府下押切町の美濃屋三右衞門が家にて製するを、三右衞門おこしと稱して名産とす、又熱田にて製するものを宮粔と稱す、古渡の川口屋にて製する所など、皆宮おこし也、藤原明衡が新猿樂記に、諸國土産をいへる條に、尾張粔と記して、當國の産物その古き事しるべし、鹽尻に粔倭俗呼二起米一(オコシト)也、淸人所レ謂歡喜團也、其製宜レ考二帝京景物略一、熱田之市賣レ之、謂二之宮起米一と見え、又契沖が和字正鑑抄にも、粔籹、令起米などいふ名目あれば、すべておこしは當國名産の一品といふべし、〉
p.0652 菓子 愚考、白雪糕ハ三都トモ、今モ往々有レ之、菓子店ニテ製レ之賣ル、又大坂鱣谷吉野五運ト云者、三臟圓ト云フ煉藥ヲ賣ル巨店也、當戸ニテ藥白雪糕ト云ヲ兼製シ賣ル、東武本町店ニテモ兼二賣之一也、
p.0652 菓子今世越州高田ニテ越ノ雪(○○○)ト號クル干菓子ヲ製シ賣ル、江戸ニモ往々贈レ之者アリ、又江戸ニテモ諸所菓子屋專ラ是ヲ摸製ス、白雪糕ノ精美ナルモノ也、粉細カニシテ口中ニ納ルレバ、舌上ニ消ルコト雪ノ如ク、又唐糖ヲ用ヒテ味モ甚美也、其他似レ之ル製種々數ベカラズ、
p.0652 煎餅 楊氏漢語抄云、煎餅〈此間云如レ字〉以レ油熬二小麥麵一之名也、
p.0652 文昌雜録、唐歳時節物、人日則有二煎餅一、唐六典膳部職、有二節日食料一、注、正月七日、三月三日煎餅、亦謂レ此也、〈○中略〉按鏊俗云二煎餅盤一、見二金器中一、即造二是物一之器、
p.0652 煎餅(センヘイ)
p.0652 煎餅(センベイ)
p.0652 煎餅 せんべい 出羽秋田にて、をへらまきと云、
p.0652 煎餅 六條製レ之、故謂二六條煎餅一、或稱二仙袂一、又斯邊醒井之人家所レ製片餅、亦此類、而倣二近江國醒井之製一者也、然煎餅經レ火、故其外麤面膨脹、而似二鬼形面一、故或謂二鬼煎餅一、片餅不レ歴レ火、故燒而食レ之、輕燒、氷雪燒、雪燒等雜品、近世所々製レ之、
p.0653 煎餅(せんべい) 〈凡溲レ麪作曰レ餅、焙レ之成故名レ之、〉 按煎餅造法、用二糖蜜一溲レ麪、不レ柔不レ硬、而盛レ甑蒸レ之搏也、如二李大一而以二竹管一熨レ之、薄扁徑四寸許晒乾、毎一枚以二鐵皿範一從二兩面一焙レ之、稍乾時取出卷レ端、状似二蓮嫩葉一、呼曰二卷煎餅一、 一種 用二半熟糯米一和二生豆粉一、以二膠飴一溲レ之、搏如二雀卵一、而用二竹管一熨レ之甚薄、日乾炙レ之則大擴脹起、味脆美、〈然爲二下品一〉
p.0653 雍州府志に云、煎餅は六條にて製する故、六條せんべいといふ、また其邊醒井にて製する片餅も同じ類にて、近江國醒井にて作るものに傚ひたるなり、煎餅は火を經る故、面鬼面のごとく膨脹たり、故に鬼煎餅と呼、片餅は火をあてずして、買求る人くふべき時燒なり、輕燒氷燒雪燒等くさ〴〵、近世處々にて製すといへり、醒井餅は名物なり、望一后千句、更行ば目もさめが井の冷やかに宵につきたるもちひなるらし、〈○中略〉錦繡緞、六條の鹽や詠めん花ぐもり、〈其角〉煎餅簀に干す雪の春草、〈沽蓬〉むかしの煎餅は、鐵の模にて燒やうの巧みなることなし、尤草子おさるゝ物の内に、せんべいは竹の筒におさるといへば、筒に入て拔て截たりとみゆ、其燒ところを人倫訓蒙圖彙にかきたり、火鉢を助炭の内に置、火筋にて餅をはさみて燒なり、やきたる處蝦蟆の背のごとく、疣瘠出來るにより、鬼煎餅と呼、其碩が賢女心粧に、泉州高須の事をいふ處、所の名物鬼煎餅を賣る云々、其繪をみるに餅入たる籃と、助炭とを一荷にして負たり、いづくにも此やうにして、賣ありきしが、篗絨輪に、勇角がいろは五十韻に、世わたりを疝氣がさせず煎餅賣といふ句あり、この頃上野の山下にて、沙糖入のかき餅を火筯のごとき物の先を、二ツに割かけたるに、餅を插み燒て賣ものをみたり、これ往昔の製に似たり、又鹽せんべいといふもの、むかしの煎餅にて、〈沙糖ハ入るゝも入らぬも有べし〉廢れて後近在には稀に見えしを、この頃は江戸にも流行て、本所柳島邊にて多く作り、所々の辻にてだぐわしと同く賣、また神佛の縁日にも持出て賣、この故にや近ごろは 罌栗(ケシ)燒といふものすくなくなれり、醒が井餅も、近ごろ江戸にて、五色かき餅などゝて有しが、售ざるにやなくなりぬ、寬永發句帳に、〈圭琢〉さかり過て色やさめが井もちつゝじ雪燒、氷燒は輕やきの白色なるをいふなるべし、江戸名物鑑に、〈寬永ごろより、明和の初めなり、〉木葉せんべい、歌せんべい、〈百人一首歌かるたの形なり〉又茗荷屋の輕燒き、皆にくへと誓願たてし輕燒のてんと身帶のぼるめうがやゝ〈はやりし物と見えたり、〉其外吉原卷煎餅、淺草餅など出たり、菓子屋は上野山下の金澤のみなり、
p.0654 鬼煎餅 海會寺前、鬼煎餅ト云事ハ、或人ノ被レ仰シハ、伊勢物語ニ、鬼一口ト云縁ヲ取テ、小ヲ云ト也シニ、近年ハ鬼ト云ハ無二散氣一物ト心得テ、殊ニ大ニ拵テ、鬼ト云名ニ合スルト見ヘテ燒誤リ、詩人ハ煎餅ヲ仙袂ト書リ、
p.0654 槿煎餅 北八丁堀同心町 藤屋淸左衞門 めり安煎餅 下谷池のはた 葛煎餅 本庄馬場
p.0654 此年間〈○延享〉記事 延享二年の春、江戸の流行物を集めたる句集あり、時津風と題す、〈○中略〉其内を撰て目次のみを左にしるす、〈○中略〉竹村煎餅、〈○中略〉木葉煎餅、
p.0654 此年間〈○安永〉記事 安永十年、俳人提亭の撰たる、種おろしと云句集に載る所の、其時代のはやり物商物目録左に略記す、〈○中略〉煎餅、〈てりふり町翁、吉原きぬた、やげん堀羽衣、〉
p.0654 うすゆきせんべい おわり町壹丁目 いせや治郎兵衞 右燒かげん、炭火をおこし、風のあたり不レ申候樣に、ふろなどにかけて燒候へば、能のび申候、燒ばしを火にてあたゝめ、せんべいをはさみ、手のうちにて、燒ばしをくる〳〵と廻し候へばよくのび、御なぐさみニ被レ遊候やうニ仕候、
p.0655 卷せんべい 〈赤坂一ツ木町〉中島屋總兵衞 高砂せんべい 〈神田三川町新道〉高砂屋半右衞 葛せんべい 〈同新道〉熊谷長門〈○中略〉 味そせんべい 〈糀町貝坂〉山田屋伊兵衞
p.0655 翁屋翁煎餅〈照降町角〉 砂糖上品味尤輕、進物年中客自榮、縱有二結構干菓子一、如レ此煎餅少二江城一、
p.0655 鈴木兵庫菊一煎餅〈麴町三丁目大通〉 兵庫麴町三丁目、誂來煎餅客紛々、古今唯製朝顏形、燒倣二風流菊一紋一、
p.0655 山城 煎餅 和泉 海會寺鬼煎餅 近江 煎餅 加賀 煎餅
p.0655 薄脱(センベイ) 是亦所レ出二松鳥一絶品也、以二秔粉一而爲レ餌、和二豆粉一而爲レ團、推レ之如レ麵、其薄如レ紙、經已七寸餘、其色靑黄、味亦甘美、他所傚レ之不レ成、
p.0655 煎餅師(せんべいし) 六條にあつて名物なり
p.0655 干菓子の松風(○○)は初京都より制し出し、或御方へ御銘を乞奉りしに、御覽有て、まつ風と號給ふ、其心は表に火の剛焦し跡、泡立し跡、けしをふりなどし、いろ〳〵の斐(あや)あれど、うらは絖(ぬめ)りとして摸樣なし、うら寂敷と、義によりて松風とはなづけ給へりとかや、
p.0655 松風といふ菓子を、五山の僧侶は犬皮(けんひ)と唱ふ、牛皮(ぎうひ)にむかへたるの名なるべし、犬の字を忌て、今は研皮に作る、ある人いはく、見肥の字にかへなばよけんと、
p.0655 輕燒 一上々餅白米擣にしてあらひ、寒水に廿日ほど漬て餅につき、太白砂糖入れて又よく擣、搔餅の やうになして、銅鍋にて松風のやうに燒なり、
p.0656 此年間〈○安永〉記事 安永十年、俳人提亭の撰たる、種おろしと云句集に載る所の、其時代のはやり物商物目録左に略記す、〈○中略〉輕燒、〈誓願寺前茗荷屋〉
p.0656 花かるやき 〈麴町三丁目よこ町〉桔梗屋太兵衞 けし入かる燒 〈神田紺屋町〉山しろ屋
p.0656 紅梅燒(○○○)看板〈○圖略〉 看板亘二尺餘、木制紙ハリ白粉ヌリ、縁リ及ビ勾形ハ丹ニテ描ク、櫻花形ト二ツ掛タルモ多シ、弘化嘉永ノ比ヨリ江戸小市ニテ賣レ之、其前モ有レ之歟未レ知レ之、紅梅燒ハ小麥粉ニ砂糖ヲ和シ扁平ニシ、梅形或櫻形ニ押シ拔キ、平鐵鍋上ニ燒タル一種ノ麁菓子也、當時ニ至リ所々賣レ之テ一時流行ス、其形亘二寸許リ、價大略二錢、或ハ形ヲ異ニシ、香餅燒等ノ文字ヲ用フルモアリ、精製ニハ米粉ニテ製スルニ至ル、
p.0656 小麥〈訓二古牟岐一〉 集解、〈○中略〉本邦近時有二南蠻菓子一、十之八九用レ麪、和二砂糖、飴餹、丁子、肉桂之類一、以作二乾果一、其種多品、本是蠻國之傳流乎、凡中華韓國蠻夷之人、常好食二麪果一、以爲二平日之賞翫一、本邦之人不二常嗜一レ之、
p.0656 環餅 按環餅(ケンヒ/○○)〈今云介牟比〉捻頭(ボウル/○○)〈今云保宇留〉 (ラクガン)〈今云落雁〉一類異品、而寒具乃總名也、倭如レ稱二之乾菓子一矣、又呼曰二南蠻菓子一、蓋其異品者、中古傳二製於蠻人一、保宇留、波留天伊等之名、皆蠻語也、
p.0656 南蠻菓子はぼうる(○○○)の類なるべし、萬治年間振賣の物の内にあり、〈○註略〉伊呂三絃に、揚屋に行、三ツ取合のなんばん菓子を、一人に一斤あてにあらし云々、凡菓子何にても沙糖のす り蜜を、衣にかくるをてんふらと云、蠻語なるべし、小麥の粉をねりて、魚物などにつけて油あげにするをも云は、其形同じければなり、
p.0657 山城 南蠻菓子
p.0657 慶長十三年正月十二日庚子、半天連年頭御禮トシテ被レ參候、〈○中略〉一御樽壹丁〈并〉南蠻菓子一折進上、通詞シモン、
p.0657 凡例 或問、ばてれんは日本之宗旨に對しては、何程あしき事に候や、答曰、宗旨に對しあしき事はさて置ぬ、日本之大敵にて候也、〈○中略〉所の吏務へ捧物を夥しくかよはせ〈○中略〉若一町之所へ見物などに、件の人來りたりしかば、〈○中略〉下戸には、かすていら(○○○○○)、ぼうる(○○○)、かるめひら(○○○○○)、あるへい糖(○○○○○)、こんへい糖(○○○○○)などをもてなし、我宗門に引入る事、尤もふかゝりし也、
p.0657 〈神田三河町三丁目新道〉かしはや半藏 並かすていら(○○○○○) 〈一斤ニ付〉代四匁八分 上同 五匁八分 上々同 六匁八分 大極上五三かすていら 十匁 丸ほうる(○○○○) 五匁八分〈○中略〉 豆金米糖(○○○○) 五匁六分 花ぼうる(○○○○) 三匁 胡麻ぼうる(○○○○○) 二匁八分〈○下略〉
p.0657 加須底羅(かすていら/○○○○)〈以西巴爾亞、保留止賀留、加須底羅、同國之異名南蠻也、造法出二於此一故名、〉 按加須底羅造法淨麪〈一升〉白沙糖〈二升〉用二鷄卵八箇肉汁一、溲和以二銅鍋一、炭火熬令二黄色一、用二竹針一爲二窠孔一、使三火氣透二於中一、取出切用、最爲二上品一、
p.0657 享保十年十二月五日晝、深諦殿御茶ニ召サル、〈○中略〉 菓子〈カステラノムシカエシ、シイタケノニシメ、〉
p.0658 夫カステイラは、其原阿蘭陀將來の佳品なり、予が先祖幸ひにこれを得て、常に茶菓酒肴として、是を嗜むに、不測に無病壯健となりしかば、紅毛人に懇にその秘方を乞求て製し、日日に是を用ゆるに、五臟を調和して、虚損を補理するの功あり、よつて老て衰へず、終に百餘歳の天壽を保つ、其功驗一々枚擧するにいとまあらず、故に時の人所望日々に多くて、その名遠近に聞えしかば、夫より世上に同名の類品を製すること夥し、しかれども其本方は、他に知るべきにあらざれば、予が家傳の製品とは、格別の違隔あり、遮莫は、四方の君子先ツ試用て、他製と等しからざるを、知り給へかしと云、 御用ひやう御茶菓子のみにあらず 寒氣の節は、ふたものに入、沸湯さして御用ひ、 暑氣の節は、右に同じく、冷泉にひたして御用ひ、 酒肴には、右に同しく、大根おろし山葵の類にて御用ひ、 其外煮物のさし込、料理ものゝ取合、酒の二日醉によし、 旅行にたづさへて、水のかはりによし、御進物箱入品々御座候、 外に極製花ホウル御座候、御試のうへ、御用奉二希上一候、 長崎直傳 〈京油小路通三條上ル二丁目東北角〉萬屋五兵衞製
p.0658 浮石糖(かるめいら/○○○) 〈加留女以良、蠻語也、〉 按、浮石糖多來二於交趾一、最佳美也、今造法氷沙糖〈一斤〉以二銅鍋一水〈四合〉煎、取二鷄卵一箇一去レ 、以二白汁一投レ之、則沙糖塵浮起、扱二去其塵一、爲二沙糖蜜一、〈溲二諸果子糖蜜一用レ之〉冷定則糖汁凝如レ飴、兩人對牽レ之、潔白如レ餳筋起、切レ之曲直任レ心、 人參糖 即浮石糖未レ成如レ飴時、和二紅花黄汁一、冷定長二三寸形色略似二人參一、又似二琥珀一最佳品、
p.0659 菓子 有平(○○)、金平(○○)トモニ昔ハ舶來セシナルベシ、近世舶來無レ之、有平ハ諸國ニ諸店ニテ製レ之、白糖一種ヲ煮、煉リテ白或紅黄萌木等ヲ加ヘ、種々ノ形ヲ摸造スル也、 有平種々ノ形アル中ニ膝(ヒザ)ト號クルモノ古クヨリ專用ナリシガ、近年漸ク廢ス、〈○中略〉又有平ハ專ラ種々ノ形ヲ手造リニスルモノ多シ、然ルニ近年京坂ニテ鎔製スルモノアリ、白砂糖ヲ煉リ鎔形ニ入テ燒キ、而後ニ筆刷毛等ニテ彩ヲ施シ、鯉、鮒、ウド、竹ノ子、蓮根、其他種々ヲ製ス、眞物ノ如シ、號ケテ金花糖ト云、嘉永ニ至リ、江戸ニモ傳ヘ製ス、
p.0659 あるへいたう(○○○○○○) 上々氷沙糖一返洗捨、沙糖壹升に水二升入、さたうのとけ申程せんじ、絹にてこし、其後せんじつめ、さじにてすこしすくひ、水にひやし、うすくのばし、ばり〳〵とおれ申時、平銅なべにくるみの油をぬり、其中へうつし鍋ごしに水にひやし、手に付申さぬ程にさまし、其後成程引のばし〳〵候へば、しろくなり申候をちいさく切、いろ〳〵に作るなり、
p.0659 糖花(こんぺいたう/○○) 〈渾平餹、〈俗稱、〉附小鈴糖、〉 按糖花造法用二大白沙糖一、〈如二前法一以レ卵製〉入レ麪〈少許〉略煎如レ膏、別以二銅鍋一熬二胡麻一、中徐入二件糖膏一、則胡麻毎一粒被レ衣、亦奇也、〈火レ之文武宜レ得二其中一〉以レ指搏レ之、所レ粘二著於鍋一之糖屑刮取、粗末令レ如二米屑一略轉レ之、復次入二糖膏一而搏爲二團丸一、則生二細肬 (イボ〳〵)〈俗呼レ之曰レ足〉似二石龍芮子一而潔白也、長崎人最能レ之、京師坂陽亦作レ之、稍劣矣、 一種有二小鈴糖者一、似二糖花一而中空、味稍劣矣、
p.0659 菓子〈○中略〉 金平糖或ハ金米糖ト書ク、砂糖ニ小麥葛ヲ交ヘ煉リ、芥子ヲ種トシテ銅鍋ヲ以漸クニ大トシ製ス、大略一人一日拾斤ヲ製スヲ常トス、精粗アリ大小アリ、大阪ノミニテ製レ之シガ、文政以來江戸 ニ一二戸製レ之店ヲ開キ、近年ハ諸所ニ在レ之、圓ニシテ外面委ク角アリ、角ヲイラト云也、
p.0660 廻り遠きは時計細工 こまかに心を付てみしに、是は南京より渡せし菓子、金餅糖の仕掛、色々せんさくすれ共、終に成がたく、唐目壹斤銀五匁づゝにして調へけるに、近年下直なる事、長崎にて女の手業に仕出し、今は上方にも是をならひて弘りける、初の程は都の菓子屋さま〴〵心を碎きしに、胡麻壹粒を種として、此ごとくなれる事をしらざりき、是をそも〳〵知惠づきしは、長崎に纔なる町人、二年あまり心をつくし、唐人に尋しに、更に覺えたる人あらずして、氣をなやませける、律義なる他國にも、よき事は深く秘すとみへたり、〈○中略〉此金餅糖も種のなきにや、胡麻より砂糖をかけて、次第にまろめければ、第一胡麻の仕掛に大事あらんと、思案しすまし、まづ胡麻を砂糖にて煎じ、幾日もほし、乾て後煮鍋へ蒔てぬくもりのゆくにしたがひ、ごまより砂糖を吹出し、自から金餅糖となりぬ、胡麻壹升を種にして金餅糖貳百斤になりける、壹斤四分にて出來し物、五匁に賣ける程に、年もかさねぬ内に、是にて貳百貫目を仕出しぬ、
p.0660 文政七年十二月三日辛酉、虎屋近江掾nan大形金米糖壹斤六分持參調置、〈壹斤代拾壹匁也、十七匁六分直二拂遣了、〉
p.0660 饗煎(ギヤウセン/アマムマヒ)〈本名饗餹、時珍云以二白餹一煎化、摸二印人物獅象之形一者爲二饗餹一、後漢書所レ謂猊餹是矢、〉
p.0660 饗糖吹糖纏糖 饗糖、即今之阿屢閉糖(アルヘイトウ)、成二花果禽魚之形一者、其紅白間道者、曰二間道糖一、成二條子一者曰二糖通一、空二其心一者曰二吹糖一、曰二繭糖一、曰二窠絲糖一、曰二乳糖一、皆阿屢閉糖之類也、實心者曰二糖粒一、曰二糖瓜一、即今之谷吽閉糖(コンヘイトウ)之類也以レ糖纏二榧、茶胡桃、紫蘇穗、橙(クネンホ)、橘(ミカン)皮之類一者曰二糖纏一、所レ謂茶纏糖、胡桃纏糖是也、或謂二之龍纏菓子一、〈○下略〉
p.0660 桔梗屋菓子銘 御所御くハしこんぶ品々 一花こんぶ 一かつらこんぶ 一きざみこんぶ
p.0661 初熟麥(アヲザシ/○○○)
p.0661 三條の宮におはします比、五日のさうぶのこしなどもちてまいり、〈○中略〉あをざし(○○○○)といふものを、人のもてきたるを、靑きうすやうを艶なるすゞりのふたにしきて、これまぜこしにさふらへばとてまいらせたれば、 皆人は花やてふやといそぐ日もわがこゝろをば君ぞしりけると、紙のはしを引やりて、かゝせ給へるもいとめでたし、
p.0661 靑麥にて調したる菓子也、
p.0661 芭蕉發句説叢、靑ざしや草餅の穗に出つらん、句解云、靑ざしは麥を煎て調したる菓子なり、上﨟もきこしめすにや、枕草子靑ざしと云物を、人のもてくるを云々、二夜問答に云、此句意は麥の穗のわかきをすりて、すこしくものを作る故に、それがほと成て出つらんと云意なるべし、時節の觀想なり、夏山雜談に、靑ざしと云ものは靑麥にて製したる菓子なり、古へは高貴もめされたる物なり、今民間に用る靑ざしもこれなるにや、
p.0661 洲濱(スハマ/○○)〈又云豆飴〉
p.0661 洲濱飴 或謂二豆飴一(マメアメ)、麥芽大豆細末煉レ之、作二三角竿形一、然以二竹籜一包二裹之一、食去一竹籜一薄截レ之、其状似二海濱洲一、故今專謂二洲濱一、所々製レ之、然四條南室町松本町所レ製爲レ佳、
p.0661 (まめあめ)〈音鬱、俗云豆飴又云捻飴粼音鄰、水淸石見之貌、訓二須波末一〉 按字彙云、飴和レ豆曰レ 、造法大豆〈炒〉爲レ粉、用二濕飴一溲レ之如二繩形一、或挾レ竹縛固切レ之、如二粼形一者名二須波末一、
p.0661 洲濱所 室町綾小路下ル町 〈松本町〉井筒屋定好 右同町 洲濱屋仁兵衞
p.0662 武者小路殿歟烏丸殿歟忘れたり、御門弟の某新製の菓子、けぬが上(○○○○)と云るを捧ければ賞し給て、其家の雜掌なる人の、取敢ずよめる由して下し給ふ、 心ざしあつき氷のけぬが上に積りて深き雪もめづらし、假初の戲も優艶也けり、其菓子は氷砂糖に衣を掛し製也、銘も誰が名付しやらんいとおかしげに聞ゆ、
p.0662 ぢゝらとふ(○○○○○) 花町 かまくらや
p.0662 ちゝら糖 鱗形〈延寶六年刻、江戸住雪紫撰、〉に曰、俳諧といつぱ、世話をもとゝして、新しき句合を尋て、一句をはな〴〵と仕立るより外の習なしといへり、扨はござんなり、それ程の事なれば、おさ〳〵人におとるまじものをと高くおもひて、彼者とつれだち、さる席に出るに江戸橋の風痰を吹〈キ〉きる、といふ前句の吟聲を聞、不斗思ひよりしかば、是は此度長崎nan下るちゞらとうと付侍れる、尤名所をならべ、あきのふ所よりもよく侍れど、ちゞらたう此ほど仕出しあたらし過候と、もどされたりとあれば、ちゞら糖は痰切(○○)といふ物の類歟、國町の沙汰〈延寶二年寫本〉に、日本橋第一番商、砂やがちりめん饅頭、糀町の助三ふのやき、兩國橋のちゞらとう、芝のさんぐわんあめ云々、〈注二〉ちゞらとうは風味甚甘美なり、風邪を去り氣を散じ、諸病に宜しとて、今專賞翫とあれば、延寶中よりおこなわれし菓子なれど、今は絶たる歟、
p.0662 松翠(まつのみどり/○○) 〈附衣榧達摩隱〉 按松翠溲レ麪作レ之、状頗如二地黄一、而糝二沙糖一爲レ衣微焙、形似二松翠一、故名レ之、 一種 用レ榧去レ穀、以二沙糖一爲レ衣者名二衣榧一(○○)、又用二乳柑一、去レ瓤、切片、以二沙糖一爲レ衣者、名二達摩隱一(○○○)、由二九年面壁之 義一、凡山椒生姜橘皮之類、皆准二此製一作レ之不レ遑レ記、
p.0663 竹村最中(○○)月〈吉原中ノ町〉 色白最中一片月、卷來煎餅品尤嘉、暑寒年玉又時候、茶屋攜行得意家、
p.0663 麩燒(○○) 所々製レ之、其法小麥粉合レ水、淡濃適レ宜、而以レ匙斟レ之、盛二片鑊子一火燒レ之、則隨二鑊形一而爲二片團一、以レ刀起レ之、其外面如二浮漚一、而其内柔脆、塗二味噌於其表一、卷レ之食レ之、倭俗未醬謂二味噌一、麩燒其粉細末、其色潔白者、是稱二沈燒一、民間二月八日彼岸中、逢二親族忌日一、則召二親戚朋友一供二菓實一給二團餅一、又饗二麩燒一、是稱二茶子一、是以レ茶表レ父、以レ菓表レ子之謂也、卷二麩燒一之状似二經卷一、當二斯時一也、食レ之謂レ讀二經幾卷一、或燒レ之點二罌粟子於其上一、以レ刀細截而食レ之亦可也、
p.0663 麩の燒とは、物の名とも聞えぬ呼やうなり、おもふに燒麩といふ物あるから、まがはぬやうにいひたるにても有べし、むかしは兩度の彼岸の内、佛事には是を作りしとぞ、小麥の粉を水に解、やきなべの上にてうすくのべて、燒たる片面に味噌をぬり卷て用、これ上にみえたるけん皮やきなり、池田正式が狂歌合に、朝顏の花めづらしきふのやきもひなたに置ばねぐさくぞなる、嘉多言〈四〉女の詞に、麩の燒を朝顏といへるは、火にてあぶり侍れば、しぼむによて朝がほの花の、日にしほるゝ故に、名付そめしといへるは如何、花車なるやうにて、さもしき注なるべし、只人のつくろはぬ朝の顏のやうなるとの心なるべしといへるは、燒たる面のきよらならぬなり、懷子集、明なば顏のみつちや見えましといふ句に、〈一齒〉玉くしげふたをして置麩のやきに、又鷄の空音と共に經よみてといふ句、〈弘永〉世に逢坂の關のふのやき、雍州府志に、麩のやきの卷たる形は、經卷に似たる故に、これを食ふに經幾卷を讀といふとあり、是によりて經讀といふに麩の燒を付たるなり、寶倉にも卷作麩燒稱二御經一とみえたり、江戸にて助總といふは、總鹿子に麩の燒麴町十一町目助總と出、その家今にあり、〈十六五年前迄は、いと下品なる物なりしが、近頃は世の風につれて、これもいとよく製して、昔の風味〉 〈にあらず、〉雍州府志に燒餅は米の粉に煉餡を包み、やき鍋にて燒たる、その形をもて銀鏢(○○)とも云と有り、今のどら燒は又金鏢(○○)やきともいふ、これ麩の燒と銀鏢と取まぜて、作りたるものなりどらとは形金鼓(コング)に似たる故、鉦(ドラ)と名づけしは、形大きなるをいひしが、今は形小くなりて金鏢と呼なり、同じ物なれども、四方を燒たるを餡を常のよりはよくして、みめよりと名付しは、淺草の馬道に始て出たり、享和のころにや、予が先入なども知りたる者の思ひ付なりし、そは程なく無なりしかども、其名うせず、所々にこれを作る、 米の粉の燒餅、江戸總鹿子增補に、深川萬年町雁金燒(○○○)とあり、是今にあれども當時ははやらぬものなり、燒鍋に遠雁の模あるにて燒たるなり、〈米の粉、なまの粉なる故、火よくは通らず、〉今其製は殊なれども、橫雲(○○)といふは麩のやきなり、きぬた卷(○○○○)といふ類、助總より出たるものなり、〈其もとは、是も麩の燒なり、〉
p.0664 嘉永二年印行、古風ト流布トヲ相撲番附ニ擬スル、〈○中略〉靑物町ノ切山椒(○○○)〈菓子工茗荷屋長門ノ店ニ細キ餅ノ屬ヲウル、○中略〉古風方ニ曰、〈○中略〉金鍔燒(○○○)〈麥粉ニ餡ヲイレヤク也、〉
p.0664 燒餅 以二粳米粉一爲二小片團一、其内盛二赤小豆并砂糖一、片鑊上燒過、以二其形之相似一、或謂二銀鐔一(○○)、淸水坂之製是爲レ始、近世京極淸淨華院前店製レ之、然不レ及二渡邊道和之製造一、
p.0664 東海道名所記島原の條、門の内より半町あまり南へさがる、右の方は茶屋なり、うんどん、そば切、やき豆腐、其外百一口(○○○)の菓子あり、百一とは數の多きをいふ、釋氏要覽道具部、百一物大概之辭也、薩婆多論云、百物各可レ蓄レ一也、今江戸にて澤庵漬の間に、鹽干の茄子を入て漬るを、百一づけといふも、唯數の多く入るをいふなり、冬瓜の花の百一は、むだ花の多きをいふ、百一口の菓子は、小きをいふなるべし、今いふ南京らくがん(○○○○○○○○○)などにや、
p.0664 あかだ(○○○)店〈當所の名物也、米團子を木槵(むくろ)子の大サに作り、油にてあげたる菓子なり、其色赤ければ赤團子なるを、今略してあかだといふ、或説に、阿加陀は丸藥の梵語なるを、こゝの賣藥の家にうりし丸藥の、其形似たるをもて、後世菓子の名に轉ぜしなどいへるは、全く附會なるべし、〉
p.0665 長崎柚餅子(○○○○○) めつた町 淺草本鳥越 ふいご燒(○○○○) 淺草文殊院前 ゑびすや
p.0665 壽おぼろ燒(○○○○○) 〈飯田町片町〉金田屋〈○中略〉 音羽燒(○○○) 〈音羽町九丁目〉若狹屋吉兵衞〈○中略〉 助總麩の燒(○○○○○) 〈麴町三丁目〉橘屋佐兵衞〈○中略〉 小麥燒(○○○) 〈牛込神樂坂〉伏 見 屋〈○中略〉 粟の鳴門燒(○○○○○) 〈富澤町南側〉和泉屋求馬〈○中略〉 金つばやき(○○○○○) 〈久松町〉花澤屋近江 玉の井燒(○○○○) 〈本鄕三丁目〉玉の井伊兵衞 白川燒(○○○) 〈柳原新ばし〉鶴屋柳黛子〈○下略〉
p.0665 今のよき菓子どもは、大かた昔〈正德五年〉なかりしものなり、〈○中略〉唯駄菓子(○○○)はかはらず、それも今は品數許多にて枚擧に遑あらず、よからぬものを駄といふは、乘馬ならね駄馬より云にや、
p.0665 安永六年丙申、日光御社參の時、道中にてみし駄菓子に五荷棒(○○○)といふものあり、其頃駄菓子に達磨糖(○○○)といふものに似て、一口の味ふべきものにあらず、三間梁の飴と、よき對なりと思ひしが、今度庚辰、ある友のもとより、武州忍(おし)領北秩父の邊の菓子とて、五かぼうといふものを贈りしを見しに、むかしみしよりは、形大にして、其質もまたおこし米を、もてつくりたり、其形は野鄙なれど、四十年のむかしに、くらぶれば味ふべし、其頃千壽より先には、干菓子なし、駄菓子の中にも粟燒(○○)といふものなど丹綠靑もて彩れり、今は左にてはあるまじ、 昔駄菓子達磨糖、安永道中滿二日光一、秩父長傳二五荷棒一、大飴猶唱二三間梁一、 三十棒は今の上菓子、紅屋越後や船橋などは五十棒々々々、
p.0665 沙糖漬菓子(○○○○○) 按 蜜柑、佛手柑、天門冬、生薑、冬瓜之類、皆漬二沙糖一以爲二菓子一、然爲下越二數月一不上レ敗、一夜漬二石灰水一而洒淨 藏二沙糖一、或有下以二石灰少許一摻撒者上、如二病人一、宜レ勘二辨之一、
p.0666 松平豊後守齊宣〈○薩摩鹿兒島〉 時獻上〈暑中〉沙糖漬天門冬 細川越中守齊茲〈○肥後熊本〉 時獻上〈二月〉砂糖漬梅銀杏〈五月〉砂糖漬天門冬 松平主計頭忠馮〈○肥前島原〉 時獻上〈在著之節長崎見廻相濟候上〉砂糖漬 松平駿河守親賢〈○豐後杵築〉 時獻上〈十月〉砂糖漬梅、
p.0666 諸糕第五 糖飣(サトフヅケ)モ製スベシ、佛手柑、生姜ヲ始トシテ、黄精、天門冬甘露兒(チヨロギ)、天王寺蕪菁、橘子(ミカン)、金 、蓮根、百合、南瓜(カボチヤ)、蕃南瓜(トウナス)、零餘(ムカゴ)子、刀豆、甘薯、土 兒(ホドイモ)、秋茄子、萍蓬根(カフホネノネ)、竹筍、烏芋(クロクハヒ)、木慈姑(クハイ)等ノ類、皆沙糖漬(○○○)トナスニ宜シ、
p.0666 菓子 〈○中略〉 右五十一 東市〈○中略〉 菓子 〈○中略〉 右卅三 西市
p.0666 菓子師 諸の乾菓子、羊羹、饅頭の類、饂飩、蕎麥切これをなす、主領して國名をつくあり、二口能登、虎や近江、其外多し、
p.0666 菓子店 京坂ハ看板定ル形無レ之、所レ欲ノ品名等板ニ書テ釣レ之、唯暖簾ハ他店ト異制也、家號及ビ其他ヲ記スモノハ、白木綿ニ墨書シ、間ハ紺無地木綿ヲ以テ交ヘ縫合スルト圖ノ如シ、〈○圖略〉 江戸菓子店必ズ此招牌ヲ路上ニ出ス〈○圖略〉京坂無レ之、菓子蒸籠ノ形也、周リ靑漆中朱也、文字黑漆ニテカク、飾積物ニ用フ蒸籠、此臺ヲ除キシト同形ニテ大也招牌ハ小形也、 江戸菓子店暖簾モ他店ト同形ヲ專トスル也、蓋昔ハ某大掾藤原某等受領ヲ先途トシ、受領ノ店ハ賣ルコトモ多カリシガ、近世此店ニ粗製多キヲ以テ、近來開店ノモノハ受領ヲ專トセズ、某堂某亭某園ナドヽ風流ノ號ヲ用ヒ、又暖簾ヲモ帆用ノ廣木綿ヲ白ノ儘ニテ粉引トナシ、某堂ナドト墨書スル者多ク、蓋名アル書家ニ乞テ書レ之等ノ者多シ、
p.0667 菓子賣麁菓子賣、製藥ウリ等數種無レ窮、又毎時異扮ヲナス者際限ナシ、故ニ是ヲ圖スルコト能ハズ、或ハ女扮シ又ハ唐扮シ、又ハ小兒ニ扮スノ類也、是皆矢師ト云賈人ノ所レ爲也、
p.0667 江戸の上製菓子屋に京都御菓子と印せる所多くして、京大坂は長崎御菓子と印せば、長崎にてはまた京都菓子と云、
p.0667 同〈○禁裏〉御茶菓子所 下立賣室町西〈江〉入町 大黑屋肥後大掾 菓子所 室町今出川角 二口屋能登掾 一條烏丸西〈江〉入町 虎屋近江掾 本町通三條上〈ル〉町 龜屋淸永〈○中略〉 右之外數名有略レ之
p.0667 菓子屋 御堂前 鯛や山城 同町東は 鯛や貞當 同瓦町 飯田和泉 舟町 岡島丹後 伏見町 二口や能登 谷町一丁目ならや次郎兵衞 雜菓子 南久寶寺町 四軒町 千歳や吉右衞門 高麗橋 菊屋越前
p.0667 御菓子師 〈白かね町二丁めかし〉大久保主水 〈いゝだ町坂下〉長谷川織江 〈大久保主水地面内〉宇津宮内匠 〈橫山町三丁メ〉鯉屋山城
p.0667 大久主水由緒 長崎表の砂糖直買被二仰付一候御由緒、可二申上一旨被二仰渡一、則左ニ奉二申上一候、 大久保左衞門五郎忠茂五男 〈本國三河生國三河〉 大久保藤五郎忠行 權現樣へ奉仕、三州上和田ニ一家一所ニ罷在候、永祿六癸亥年十月、一向宗蜂起之砌、一家不レ殘上和田ニ引籠、御忠節仕候、同十一月廿六日、賊等岡崎ヲ欲レ攻、大久保一家駈合相戰、此節藤五郎當二鐵炮一腰ニ疵、平愈已後腰不自由ニ罷在候得共、知行三百石被二下置一、三州上和田ニ罷在候、權現樣駿河江御下向被レ爲レ遊候節罷出、江戸御入國之節被二召連一候、於二江戸ニ一水之手見立候樣ニ被二仰付一、小石川水道見立候ニ付、爲二御褒美一主水ト申名被二下置一候、御菓子御用之義ハ、藤五郎常ニ餅拵候事好き申候而、於二三河一切々餅御用被二仰付一、候ニ付御菓子拵上候奉行相勤罷在候、夫nan御菓子自分宅ニ而拵上、年始之御禮御菓子獻上、獨禮申上、御紋付時服拜領仕候、慶長十九年正月五日、江戸於二御城一、權現樣御膳召上候節、御獻上ニ、始而主水菓子ト名乘申候、此御吉例今以相殘申候、右主水義、百五十八年已前巳年病死仕候、跡御菓子御用之所、主水實子無二御座一候付、後家日室ニ被二仰付一、台德院樣〈○德川秀忠〉御代、大猷院樣御代〈○德川家光〉迄、尼ニ而御菓子差上申候、其砌主水御菓子御用絶不レ申候樣ニと被二仰出一、藤五郎十右衞門養子仕、主水と相改御用相勤申候、其節右之御由緒を以、於二長崎表一御砂糖直買被二仰付一、年々奉二請取一候、 右之通御座候以上 午五月 〈本國三河生國武藏〉 長谷川茂左衞門 乍レ恐權現樣御入國之砌、飯田町眞草原ニ而御座候處、田安臺江被レ爲レ成、先祖長谷川茂左衞門被二召出一、御直ニ御尋之上、御上意ニ而、當所之名主役被レ爲二仰付一、御杖之御先ニ而地面拜領仕、其後年頭父子共奉二御目見一、扇子獻上仕候、元來茂左衞門儀、菓子職仕居候ニ付、主水方御用故障之節ハ、御菓子 被レ爲二仰付一奉二差上一候處、貞享四卯年、主水同樣ニ御膳御菓子御用被二仰付一奉二差上一候、右御由緒を以於二長崎一御砂糖直買被二仰付一、年々奉二請取一候、以上、 五月 虎屋織江
p.0669 菓子所 本飯田町 虎屋 ふきや町 ゑびすや九兵衞〈○以下廿六軒略〉 京下り菓子屋 本町一丁目 桔梗屋和泉掾 同町 同 土佐掾 山下町 すわまや 新橋南一丁目 松屋山城
p.0669 此年間〈○安永〉記事 安永十年俳人提亭の撰たる、種おろしと云句集に、載る所の其時代のはやり物商物、目録左に略記す、菓子屋、〈下谷廣小路金澤、本町鈴木越後、同鳥飼、本鄕ましや、飯田町とらや、泉町とらや、飯田町壺屋〉
p.0669 越後屋播磨菓子〈石町〉 新製流行播磨掾、詰來菓子艶二於花一、人々携至知何家、定是權門取次家、
p.0669 水菓子や 瀨戸物町 南鍋町 京橋北貳丁目廣小路 四谷しほ町 神田すた町
p.0669 御水菓子屋 〈かんだすだ町〉三河屋五郞兵衞
p.0669 大膳職 大夫一人、〈掌下○中略雜餅、食料、率二膳部一以供中其事上、○中略〉主菓餅二人、〈掌三菓子造二雜餅等一、〉
p.0670 元正受二群臣朝賀一式 會 皇帝受二群臣賀一、訖遷二御豐樂殿一饗二宴侍臣一、〈○中略〉所司預辨供二皇帝皇后御饌皇太子饌一、〈謂二菓子雜餅等一、○中略〉及升レ殿不レ升レ殿者饌、〈並肴菓子等〉
p.0670 菓餅所火雷神一座〈○下略〉
p.0670 年料 絹小篩九十五口、〈(中略)菓餅所十三口、○中略〉中取案廿四脚〈(中略)四脚雜菓子櫃料、○中略〉切案十六脚、〈(中略)二脚料二理雜菓子一料○中略〉大槽八隻、〈(中略)一隻洗二雜菓子一料、○中略〉筥廿合、〈(中略)四合納二菓子一料、○中略〉案十脚、〈四脚料二理雜菓子一料、〉
p.0670 仁王經齋會供養料 僧一口別菓菜料米六合二勺、〈熬菓料四合、○中略〉糯糒三合五勺、〈菓餅料二合、○中略〉糯糒粟糒各一合、〈並菓餅料〉糖三合六勺、〈菓餅料二合○中略〉黑大豆一合五勺、〈菓餅料一合、好物料五勺、〉小豆一合六勺、〈菓餅料二勺○中略〉荏子七勺、〈菓餅料〉胡麻子一合五勺、〈菓餅料一合○中略〉味醬四合五撮、〈(中略)菓餅菓三勺〉鹽九合八勺八撮、〈(中略)菓餅料一合○中略〉搗栗子五勺、〈菓餅料〉生栗子三合五勺、〈菓餅料二合○中略〉薯蕷三根半、〈根長一尺、徑一寸、菓餅料二根、○中略、〉梨子桃子各二顆、柑子柚子各一顆、橘子三房〈已上菓餅料〉
p.0670 春日神四座祭 祭神料〈○中略〉 雜菓子二斗、橘子一斗、〈○下略〉
p.0670 七寺七月十五日盂蘭盆料菜三石二斗、〈寺別四斗五升七合〉 菓子二石四斗三升、〈寺別三斗四升七合〉凡擇二菓子一并暴二雜穀一帷料庸布四段、三年一請、 供奉雜菜 日別一斗、〈○中略〉雜菓子五升、〈○中略〉中宮准レ此、其東宮雜菜五升、韲料二升、雜菓子三升、
p.0670 公方樣諸家へ御成の事 一御菓子のこと、七種ふち高にすはるべし、それを又御四方にすへて參候、瓜などの時は、御茶わんに入てそへても參候、御相伴衆の御菓子も、七種ふち高にすはり候、又公方樣にての、内々の御菓子には、いりこ、まる蚫、はむなども參候、其時は御箸すはり候歟、又御やうしのさきは左なるべし、
p.0671 菓子は、菓子鉢歟銘々盆の類ならば、紙を敷に不レ及、形面白く美き菓子を見計ひ、上にして體よく盛、八寸歟盆に載、高坏歟八寸通盆ならば、奉書歟粘入歟、若有合さずば岩城半紙の類なりと、二枚重にして敷、右の通菓子を盛、杉楊枝を壹前頭を揃へ、八寸にても盆にても縁へ掛て、客人の前迄持出、先自分の脇に置、煙草盆火鉢を少しつゝ左右へ開かせ、客人の正面膝より五六寸前へ出すべし、 但杉楊枝なくば白箸にてもよし、
p.0671 夫御成〈○豐臣秀吉〉之儀被二相定一候付而、爲二其御同意一、都鄙之珍物被二相調一畢、〈○中略〉 七ノ御膳、〈○中略〉御菓子十二種、 やうかん、椎茸、薄皮、くずいり、薯蕷、結びこんぶ、姫くるみ、花おこし、つりがき、きんかん、みかん、松こんぶ以上、 御相伴〈○中略〉菓子九種、羊羹、薄皮、薯蕷、姫胡桃、椎茸、釣がぎ、みかん、結びこんぶ、おこし、以上、 諸大夫衆、〈○中略〉御菓子七種、 やうかん、薄皮、つり柿、椎茸、山の芋、みかん、結びのし、 御能之時樂屋〈○中略〉御菓子五種 薄皮、山のいも、やうかん、つり柿、花おこし、
p.0671 一細川三齋ハ中古の茶の菓者也、茶菓子に能登の鯖刺の頭(○○○○○○○)を切て、折敷に椎の葉を敷て夫にのせ、箸を添て被レ出けり、鯖の頭の鹽出し切樣に口傳有、 一椎の葉二つ計に切て、夫を添て面々に被レ出ける、其葉にてすくひ喰ふ、無類の茶菓子也、
p.0671 饅頭 京坂市民先祖年忌佛事ノ時引菓子(○○○○○○○)、粗ナルハ虎屋ノ五文饅頭十ヲ許リ、美ヲナス者此朧饅頭ヲ用フ、價二分許ノ大形上製ニテ白赤黄等ヲ交ルモアリ、多クハ白ト黄ノミ也、杉赤ミノ柾目板ヲ敷キ、其上ニ此饅頭七ツ、或ハ十許ヲ置キ、杉原紙ニテ包レ之也、蓋巨戸ハ折詰等ニスルモアレドモ、多クハ紙包ミ也、 因云江戸ニテハ佛事等ノ引菓子ニハ、下圖〈○圖略〉ノ如クナル杉折ニ、煉羊羹半棹、蒸菓子一、有平糖製一、價三匁五分、或四匁許リヲ麁トス、美ナルモノハ、煉羊羹半棹、白煉羊羹半棹、蒸菓子二色各一、有平製一ヲ入ル、價五六匁也、〈○中略〉 文化六年刊本馬琴作ノ夢想兵衞ト云ル戯述ニ、佛事ノコトヲ云ル條ニ、引物ノ菓子ハ一分饅頭三ツ、米饅頭二ツ大落雁一ツ、花ボロ一ツ、一人七分ニシテ云々、上包ノ糊入紙紅白ノ水引云云ト云ヘルコトアリ、四十年前ニハ江戸ニテモ紙包ニテ折ヲ用ヒズ、菓子モ麁製ニテ一人分銀七分許ノ物ヲ用ヒシ也、
p.0672 七色菓子(○○○○)、今は甲子に大黑へ供ふれども、もと庚申に供へしなり、洛陽集、庚申夜自悅が句、一説に七色賣や呼子鳥とあり、昔はこれを賣者來れり、一錢にて七色を具す、難波鑑などに圖あり、野葡萄の實は熟するとき、五色さま〴〵に染む故、京師の小兒これを庚申の七色といふも、彼菓子色々あるにたとふるなり、又思ふに今もある十色菓子とて、飴にて作りたるものも、七色より思ひよれるなるべし、
p.0672 茶おけ 俗言の轉訛はこゝろづかで、そのまゝに唱へ來こと多し、口取の菓子(○○○○○)を茶おけといふは茶うけの訛なり、甘ものをくひて後茶を飮ば、その味ことによろしければ、茶のうけに食よしの名なり、能の狂言の詞には茶うけといへり、螢隨筆に茶うけの口をきよめよといふも見えたり、
p.0673 古き菓子どものかたかけるは貞幹が集古圖卷十九、果子圖(○○○)二十七種出たり、又近き頃、本多氏の君高橋家濱島家に傳ける、古き果子の形三十八種を、土をもて模し造り、それに添られたる考を搏桑果と名付て、塵泥といふ書の中に收められたり、
p.0673 延寶二年、道久下人彦作が書ける國町の沙汰に云、木挽町山村が芝居にて、〈○中略〉棧敷もそこ〳〵終日の慰にとてさげ重、せいろうの、色ことに艶なるに、鹽瀨まんぢうさゝ粽(○○○○○○○○○)、金龍山の千代がせしよね饅頭(○○○○)、淺草木の下おこし米(○○○○○○○)は、〈木の下おこし米は、勢州山田の者、來りてこしらへるなり、則木の下のものなる故名付く、〉白山の彦左衞門がべらばう燒○○○○○、〈べらばう燒は、ふのやきにして、ごまをかけ其色くろし、〉八丁堀の松尾せんべい(○○○○○○)、日本橋第一番高砂屋がちりめんまんぢう(○○○○○○○○)、麴町の助三ふのやき(○○○○)、兩國橋のちゞらたう(○○○○○)、〈ちゞらたうは、風味甚甘美なり、風邪をさり、氣を散じ諸病に宜しとて、今專ら賞翫す、〉芝のさんぐわんあめ(○○○○○○○)、大佛大師堂の源五兵衞餅(○○○○○)、〈源五兵衞餅、おまんかたみにせしとて、江地の下俗賞翫す、その色黄にして丸し、おしゆん殊の外好物なり、〉武藏の名物とりとゝのへ、さん敷に忍び入り、終日あく氣色もなきは、櫻姫となりし類之助を露のゆかりの玉かづら、心にかけて思ひ染めしなるべし、 按、延寶の比の江戸の名物こゝに盡くせり、此頃いまだ兩國橋の幾代もち(○○○○)、金龍山の淺草餅、本鄕笹屋のごまどうらん(○○○○○○)、鎗倉がし豐島屋の大田樂(○○○○○○○)、市谷左内阪の粟燒(○○)などはなしと見えたり、今にのこれるは、麴町の助總ふのやきばかりなり、洞房語園にふのやきの事みえしは、ふるき事なり、
p.0673 和漢三才圖會に載たる果子どもは、はるてい、まがり、ぼうる、〈みな花ぼうるの類なり、〉すはま、まめ飴人參糖、あるへい糖、〈毬のやうにふくらしたると、今いふだてまげも有り、〉かるめいら、〈今の製とは殊なり、すあめのやうに引たり、〉唐松、あはび、〈今大黑に供ふる七色菓子は、もと庚申の菓子なり此類にみどりといふあり、夷曲集に、ときはなる松のみどりも春くへば、今ひとしほの菓子のあぢはひと見ゆ、〉衣榧、〈源子かやとも云なり、〉松の綠、〈上に出たり〉逹摩隱、〈此も同類に今も有り〉ちまき、まんぢう、らくがん、白雪餻、粔籹餳(ヲコシコメアメ)、羊羹、外郞餅、求肥、加須底羅、糖花小鈴、〈糖花の小者とあれば、これ今の金米糖なり、然らば糖花とあるは、今の太平糖なるべし、後に小鈴といひしものは、霰餅に衣かけたるなり、名は同くて製かはれ〉 〈るにや、今は是なし、〉煎餅、〈鬼煎餅なり〉松風、〈松風とはうらさみしきの義なりとぞ、裏の方白くして紋なければなり、〉美作米饅頭、大福餅、〈はらぶとなり〉金鐔、たんきり飴、打ツ切り、豆板、大捻等なり、今のよき菓子どもは、大かたに昔、〈正德五年〉なかりしものなり、求肥も元牛皮なるべけれど、いやしく聞ゆる故、文字をかへしなるべし、羊羹などをかへざるはいかにぞや、
p.0674 淸田擔叟 儋叟性不レ好レ酒、平生嗜二糖菓一吃レ之、故儋叟之門、無二載レ酒問レ字之人一、皆以二糖菓一而贈二投之一、至二晩年一以二食レ糖之多一、果得二痰塞之病一焉、
p.0674 大酒大食之會 文化十四年丁丑三月廿三日、兩國柳橋萬屋八郞兵衞方にて、大酒大食の會興行、連中の内稀人の分書拔、〈○中略〉 菓子組 一饅頭五十 一羊肝七掉 一薄川餅三十 一茶十九はい 〈神田〉丸屋勘右衞門〈五十六〉 一まんぢう三十 一鶯餅八十 一松風せんべい三十枚 〈八町堀〉伊豫屋淸兵衞〈六十五〉 一澤庵の香の物丸のまゝ五十 一米まんぢう五十 一鹿の子餅百 一茶五盃 〈麴町〉佐野屋彦四郞〈二十八〉 一まんぢう三十 一小らくがん貳升程 〈千住〉百姓武八〈三十七〉 一ようかん三棹 一茶十七盃 一今坂もち三十 一煎餅貳百枚 一梅干壹壺 一茶十七盃 〈丸山片町〉安逹屋新八〈四十五〉