p.0495 麪ハ、麥末ナリ、麪ヲ以テ製スルモノニ數種アリ、中ニ於テ饂飩ハ、ウンドン又ハウドント云フ、麪ヲ溲シテ團ト爲シ、拗捧ヲ用イテ之ヲ展ベ、切リテ細條ト爲シ、煮テ之ヲ食フ、但シ索麪ノ如ク 乾シタルヲ干饂飩ト稱ス、索麪ハ、サウメント云フ、鹽ヲ以テ麪ニ和シ、油ヲ入レ攪匀シテ細條ト爲シ 乾シタルモノニシテ、食スルニ臨ミ、或ハ煮或ハ茹デヽ之ヲ用イルナリ、蕎麥切ハ、ソバキリト云フ、或ハ單ニソバト云フ、蕎麥ノ粉ニテ、製スルモノニシテ、ソノ製法饂飩ニ同ジ、 麩ハ、小麥ノ屑皮ヲ水中ニ入レ、鹽ヲ加ヘ、手ニテ揉ミ餅ト爲シ、更ニ手或ハ脚ニテ踏揉シテ滓ヲ去リ、水ニ浸シテ作ル、又ハ麪粉ヲ以テ作ルナリ、
p.0495 麵類
p.0495 麪類(メンルイ)
p.0495 麵 説文云、麵〈莫甸反、去聲之輕、和名無岐乃古、〉麥 也、 〈音末〉米麥細屑也、
p.0495 麵麪〈上俗下正〉
p.0495 湯餅 魏晉之代、世尚食二湯餅一今索餅是也、語林有三魏文帝與二何晏熱湯餅一即是、其物出二於漢魏之間一也、 不托 束晢餅賦曰、朝事之籩煮レ麥爲レ麵、則麵之名蓋自レ此而出也、魏世食二湯餅一、晉以來有二不托之號一、意不托之作縁二湯餅一而務レ簡矣、今訛爲二䬪飩一、亦直曰レ麵也、
p.0496 小麥 麪 集解即麥粉也、本邦麥粉不レ用二舂杵一、惟初磨レ礱飛レ羅以爲レ麪、亦是、俗稱二温飩粉一、其磨レ之三四次、飛レ羅者爲二上麪一、磨レ之五六次以下爲二下麪一、事詳二于温飩素麪條下一、本邦近時有二南蠻菓子一、十之八九用レ麪和二砂糖飴 丁子肉桂之類一以作二乾果一、其種多品、本是蠻國之傳流乎、凡中華韓國蠻夷之人、常好食二麪果一、以爲二平日之賞翫一、本邦之人不二常嗜一レ之、
p.0496 一三羹、三麵ともに、初羹、初麵に生飯にとる時は、羹に作花、饅頭に龜足抔さす也、
p.0496 三羹三麵の事 一日本にては、三麪は專ら用ゆれ共、三羹は中華の沙汰なり、〈○中略〉三麪は、汁まんぢう、うんめん、ちよくめん、是を三麪といふ也、
p.0496 餛飩 四聲字苑云、餛飩、〈渾屯二音、上亦作レ 、見二唐韻一、〉餅剉内レ麵、裹煮之、
p.0496 饂飩(ウンドン)
p.0496 饂飩(ウントン)
p.0496 餛飩(ウドン)
p.0496 餛飩(ウンドン)唐韻 温飩(同)〈和俗所レ用〉
p.0496 魚取鳥の物わすれ うどん(○○○)
p.0496 一饂飩又温飩とも云、小麥の粉にて團子の如く作る也、中にはあんを入て煮たる物なり、混沌と云はぐる〳〵とめぐりて、何方にも端のなき事を云詞なり、丸めたる形くる〳〵 として、端なき故混沌といふ詞を以て、名付たるなり、食物なる故、偏の三水を改て食偏に文字を書なり、あつく煮て食する故、温の字を付て温飩とも云なり、是もそふめんなどの如くに、ふち高の折敷に入、湯を入てその折敷をくみ重ねて出す也、汁并に粉醋さい抔をそへて出す事、さうめんまんぢうなどの如し、今の世に温どんと云物は切麪也、古のうんどんにはあらず、〈切むぎ尺素往來にみえたり、〉
p.0497 温飩、庭訓首書に、貞丈云、〈○中略〉卷懷食鏡に、啓益按救荒野譜云、以レ水和レ麪作レ皮包二菜肉糖蜜等饀一、湯炊煮熟、象二混沌不レ止之義一、今俗多用レ之祀レ先云々、按ずるに、混沌後に食偏に書かへたるなり、煮て熱湯に漬して進る故、此方にては一名を温飩ともいひしなり、今世温飩は名の取違へなり、それは温麵にてあつむぎといふものなりといへり、鷄卵うどんといふは、麪に砂糖を饀に包みたるものなり、これらをおもふに、其もと餛飩なりしことしらる、名の取ちがへにもあらず、物の變じたるなり、むかしは温飩にかならず梅干を添て食たり、懷子集、うどんものぶる繒筵のうへ〈一齒〉梅干のすいさんながらまじはりて、宗因千句、梅干くふた眞似は其儘膳くだり扨もうどんやこほすらん、料理物語、うどん胡椒梅とあり、
p.0497 うどん 粉いかほどうち申候共、鹽かげん夏はしほ一升ニ水三升入、冬は五升入て、その鹽水にてかげんよきほどにこね、うすにてよくつかせて、玉よきころにいかにもうつくしく、ひゞきめなきやうによく丸め候てひつに入、布をしめしふたにして、風のひかぬやうにしてをき、一づゝ取出し、うちてよし、ゆでかげんはくひ候て見申候、汁はにぬき、又たれみそよし、胡椒、梅、
p.0497 温飩(○○)〈俗訓二宇止牟一〉附冷麥(○○) 集解、温飩、冷麥、倶用レ麪造レ之、其法頭白麪最好者用二鹽水一攪匀和溲、以レ手揉合、作二平團餅子一、令二粘堅一、而以二 拗棒一頻拗攤、作二厚紙樣一、別撒二麪粉一、不レ令レ粘二著于拗棒一、卷而捍レ之至レ如二厚紙之輕薄一、疊レ之者三四重、從レ端細切而作二筋條一、長一二尺許、熱湯煮熟、以二極軟不一レ斷爲レ好、或熱湯中和二好酒一盞梅干一箇一而煮熟、則極軟不レ斷、取出洗淨、復浸二熱湯一、用二未醬水垂汁堅魚汁胡椒粉或蘿蔔汁等一、而乘レ温食レ之、温飩作二餛飩一者非也、源順和名餛飩者、餅剉二内麪一煮、然則別類乎、冷麥亦如下造二温飩一法上、而極細切レ之如レ緖、故俗稱二切麥一、煮熟取出洗淨、浸二冷水一令レ如レ氷而食レ之、食レ之亦用二温飩之諸汁一、特加二芥子泥一爲レ佳、大抵温飩宜二天寒時一、冷麥宜二天熱時一、然任二人意一不レ分二寒温一食レ之、亦有二一種一、有、乾温飩(○○○)者一、拗而後細切 乾、用時煮熟而食、又如二絰帶一而乾、此稱二絰革(ヒボカハ/○○)一、二麪倶華之絰帶麪之類也乎、
p.0498 温飩(うどん)〈湯餅餺飩〉 不托 唐曰二不托一、宋曰二餺飩一、凡以レ麪爲レ食煮レ之者、皆謂二湯餅一、 按温飩乃湯餅之俗稱也、造法用二鹽水一溲レ麪爲二一團一、以二小棒一按二擴之一、再卷一于棒一頻 (ウツ)レ之數反、則如レ革而疊、切レ之五寸許如レ紐、投二熱湯一煮レ之、〈酒少加レ之愈隹〉用二醬油汁一乘レ熱食レ之、故稱二温飩一、〈温飥之義乎、飥與レ飩字似故爾、〉甚細而煮レ之似二索餅一者名二切麥一、〈切麥繩之略乎〉夏月投二冷水一食、勝二於素麪一、 一種有二絰革温飩者一、如二前法一剉成 乾、臨二用時一煮食レ之、容易而良、近頃出二平素麪一、與レ此似焉、
p.0498 斬麪(キリムギ)
p.0498 女房ことば 一きりむぎ きりぞろ(○○○○)
p.0498 切麥 これも鹽かげんうちやう、何もうどん同前、汁はにぬき、又たれみそに、からし、たで、柚、
p.0498 切麥の方 一右うどんの仕やう同前也、切樣とひやし申候分ちがひ申候、うどんより細に切申候、
天文十三年六月六日癸酉、烏丸加州知行分代官事、淨一房ニ可二申談一候間、可二同道一之由被二同道一之由被レ申候間、八時分令二同道一罷向、切麵にて一盞了、
p.0499 麥きりは 大麥の粉也、うちやうはきり麥のごとくうちて、みじかくきりて、汁うはをきは、そばきりのごとくしてよし、
p.0499 冷麪(ヒヤムギ/レイメン)
p.0499 冷麪(ヒヤムギ)
p.0499 女房ことば 一ひやむぎ つめたいぞろ(○○○○○○)
p.0499 浴後者雖レ不レ珍、干飯、凉麵(○○)之間、可レ隨二御好一也、
p.0499 長祿二年四月十八日、東岳和尚來、留レ之薦二冷麵一、因傳灯録有二引水之語一、五灯會元改レ引爲レ麵、太平廣記麵部、有二引水語一、則不二必作一レ麵乎云々、
p.0499 一大永二年、祇園會爲二御見物一御成之時、從上平御一獻ニ付而次第、 獻立 一式三三獻參〈○中略〉 二獻 ひや麥 御そへ物〈なまとり〉
p.0499 天文十一年六月廿六日乙巳、細川殿小的あそばされニ貴殿へ御出也、大夫殿射手衆廿人被レ召二具之一、先湯漬まいる、的終冷麥まいる、
p.0499 饂飩の看版〈芋川○中略〉 又按るに一代男二の卷に、前に摸したる畫を載たる條、二川といふ所に旅寐して云々ありて、芋川といふ里に、若松昔の馴染ありて、人の住あらしたる笹葺をつゞり、所の名物ひら温飩を手馴 てといふ事見え、此冊子より前、東海道名所記〈萬治元年作〉四の卷にも、池鯉鮒より鳴海まで云々の條に、伊も川うどんそば切あり、道中第一の鹽梅よき所なりとあれば、今平温飩をひもかは(○○○○)といふは、芋川の誤りなるべし、其さまの似たるをいはゞ、革紐とこそいはめ、紐革とはいふべからず、されどひもかはと、あやまりしも又ふるし、〈誰袖の海にも芋川の事あり〉 富士石〈延寶七〉 ひもかは温飩捨水碎く氷かな 調川 題は春氷なり、當時はやくひもかはといへり、今も諸國の海道には、彼幣めきたる看板ありとぞ、又温飩の粉をねりて、熨ざるほどの形を僞たるなるべし、鏡餅の勢したる物を、臺に載たる看板、田舍にはありと聞り、
p.0500 旅の出來心 芋川といふ里に若松昔の馴染ありて、住みあらしたる笹葺をつゞりて、所の名物とて、平饂飩を手馴れて、往來の駒留めて、袖打拂ふ雪かと見ればなどとうたひ懸けて、火を燒く片手にも、音じめの糸をはなさず、浮々とおとろひ、
p.0500 名和干温飩(○○○○○)〈同村(名和)の名産也、凡當郡の小麥粉精密にして、最上の極品なれば、大野岩屋橫須賀佐布里等の諸邑、みな索麪を製して名産とす近年こゝにて干温飩を精製し、諸國へ夥しく運送す、其製甚淸淨潔白にして、形状風味共に勝れたり、〉
p.0500 干うんどん 叶(下谷佐久間町)屋辰右衞門〈○下略〉
p.0500 行德乾温淘
p.0500 雲麵(○○) 乾饂飩(○○○) 雲麵出二于刈田郡白石一、乾饂飩出二于南部及仙臺城市一、 謝三東奧友人遺二白石雲麪一 物茂卿 誰探王女洗頭盆、中有二千絲白髪存一、不レ知仙人憂二底事一、將レ憂相送到二蘐園一、
p.0501 饂飩 所々在レ之、其内中御門通丸屋、并長濱屋一條虎屋二口屋之所レ造爲レ宜、蕎麥麵亦然、油小路下立賣南日野屋、湯煮二饂飩一、雖レ歴二數十町一不レ令云、饂飩切麥蕎麥麵是謂レ打、以レ棒打成爲レ片細截レ之謂也、凡京師水至淸、故其色潔白、凡造釀之物、非二他郷之所一レ及也、
p.0501 饂飩は蕎麥に引替、大によろし、其色も雪白にして味ひ甘美なり、夫故市中にも温飩店は多く、いづれの店物にても皆よろし、予〈○久須義祐雋〉は蕎麥はそも〳〵嗜好なれ共、温飩は素より好まず、されども當地のうどんは、江戸に比すれば、格別よろしき故、蕎麥に替て不斷食することなり、
p.0501 近江 日野餛飩
p.0501 饂飩〈そば粉〉 神明前 淨雲 淺草 ひやうたんや
p.0501 松平久五郞武厚〈○上野館林〉 時獻上〈暑中〉温飩粉 水野日向守勝剛〈○下總結城〉 時獻上〈暑中〉温飩粉
p.0501 温飩 發明、温飩雖レ生二于温麪一而煉二鹽水一勞二拗棒一切レ之煮レ之、温毒減消、氣亦平和、然其温尚殘、故多食則氣閉痰塞、生レ熱動レ積、此以二麥芽山査蘿蔔汁之類一而可二能消一也、冷麥亦雖レ生二于温麪一、而煉二鹽水一勞二拗棒一切レ之煮レ之、温毒減消、復投二冷水一、彌除二温毒一、然暫似レ凉、復入二人之肚腹一遇レ熱發レ温、故多食則閉塞熱鬱、此亦以二前藥一而可二能消一也、彼南蠻乾果者、麪未レ歴二數回之調和一而用レ之、故其熱不レ可レ減、則不レ可二多食一レ之矣、凡麥粉者凉無レ毒、或曰麪有二熱毒一則甚哉、縱雖レ有二磨中石末在一レ内、而有二變レ凉至レ熱之理一乎、剩至二飛レ羅數次一則性平易、然則曰二性温一爲レ當、亦是以レ意可レ斟二酌之一、
p.0501 椀飯同御節并所々御出之事 一椀飯御祝三獻進物如二例式一〈○中略〉 五獻目にむぎ(○○)參べし〈○中略〉 文明十三年十二月廿六日 御評定
p.0502 慶長九年五月廿日、松浦法印來談、朝飡薦レ之、午時うどん薦レ之、
p.0502 一或所にて温飩を小豆にて煮て出せしを、一座の人々こは珍らしと云けるを、其中に有職者ありけるが、特に賞美して、此仕形は尤古代の風俗也、大貳ノ三位が、狭衣に、ほそじほつとうを參らせけると有、ほそじは熟爪ほつとうは是也と被レ申き、
p.0502 人の相伴する事 一温飩も點心にて候へ共、殿中にても私にても、、急度したる一獻に見及候はず候、内々の參會には常に出候、又一獻の時は、點心數にはいらぬと申説候、さも候歟、獻數に入たるやうに覺候、猶可レ尋候、
p.0502 一うんどんまんぢうの汁に入る、山椒のこ、胡椒之粉などを、古は粉と云し也、今は藥味とも、加藥とも云、又昔はかうとも云し也、
p.0502 近頃まで、市の温飩に、胡椒の粉をつゝみておこせしが、今はなし、
p.0502 温飩蕎麥屋 今世京坂ノ温飩屋繁昌ノ地ニテ、大略四五町或ハ五七町ニ一戸ナルベシ、所ニヨリ十餘町一戸ニ當ルモアリ、 アン平 右ニ同ク加レ之、葛醬油ヲカケル也、 鷄卵 温飩ノ卵トジ也 ヲダマキ シツポクト同キ品ヲ加ヘ、雞卵ヲ入レ蒸シタル也、
p.0503 温飩の看版(○○○○○)〈芋川〉 昔は温飩おこなはれて、温飩のかたはらに、蕎麥きりを賣、今は蕎麥きり盛になりて、其傍に温飩を賣、けんどん屋といふは、寬文中よりあれども、蕎麥屋といふは、近く享保の頃までも無、悉温飩屋にて、看板に額あるひは櫛形したる板へ、細くきりたる紙をつけたるを出しゝが、今江戸には絶たり、寬政の初までは、干温飩の看板に、櫛形の板に靑き紙にて、縁などをとりたるを軒へ掛たるが、たま〳〵ありし歟〈○圖略〉 桃の實〈元祿六年〉 打かまねくか温飩屋の幣 〈撰者〉冗峯 吉原はわざともほどく茶筅髮 嵐雪 とあれば、吉原の温飩屋にも、此看板のありしなるべし、
p.0503 索麵(サウメン)
p.0503 索麵(サウメン)
p.0503 索麵(サウメン)
p.0503 索麪(サウメン)
p.0504 素餅〈牟岐奈波、今俗云左宇米无(○○○○)、〉
p.0504 索麪(サウメン)
p.0504 さうめん 索麵の音轉也、又索にその音あり、索餅も同じ七月七日に索麵を用るは、十節記に、是日食二索麵一、其年中無二瘧病一といふに据る也、〈○中略〉醬もて煮たるを煮麵と稱す、にうめん(○○○○)とよぶは、音を引たる也、
p.0504 索麵(○○)者熱蒸、截麵者冷濯、不レ可レ過二此等一候、
p.0504 内裏仙洞ニハ、一切ノ食物ニ異名ヲ付テ被レ召事也、一向不二存知一者、當座ニ迷惑スベキ者哉、〈○中略〉 索麪ハホソモノ(○○○○)、〈○中略〉如レ此異名ヲ被レ付、近比ハ將軍家ニモ女房達皆異名ヲ申スト云々、
p.0504 女房ことば 一さうめん ぞろ(○○)
p.0504 煤拂陰陽頭勘文に隨ひて、日時を定めらる、〈○中略〉さうぢの事終りて、本殿に還御、常の御所にて御盃參る、あつもの(○○)、ぞろ(○○)〳〵、かうじやうの物三獻あり、女中もあつもの、ぞろ〳〵例のをしきひとつにすゑてたぶ、
p.0504 温飩 附録、素麪、〈俗訓二會宇米牟一、即素麪也、索如二索繩之索一、今本邦改二作素字一、素如二緇素之素一、言二其色白一、然則雖レ誤レ之而無レ害耳、其造法先用二好麪一和二鹽水一、入レ油攪匀和捜、搓作二細條一展レ之、次第作レ絲、一二樣長短麁細一、攤二盆中一、候二稍乾一上二竹桁一、復搓展曝乾、以二乾折一爲レ度、收二藏匱中一、用時久煮去二油鹽一而食、食汁如二温飩冷麥之汁一、或洗淨煮レ水除二鹽油一、用二未醬汁及醬油汁一而煮食、此俗稱二入麪一、倶和二蘿蔔汁一而食、則味美毒消、今時七月七日必喫二素麪一、上下爲レ例、家々餽贈、或爲二星祭供乞巧奠供一、諸州出レ之、就レ中備之豐原、奥之三春貢二獻之一、其細白如レ絲之美、惟以二不レ用レ油而製者一爲二上品一、二荒山中造者肥大如二温飩一、亦太隹、僧家亦賞二美之一、〉
p.0504 索餅(さふめん)〈素麪和俗、和名牟岐奈和、〉 本綱溲レ麪爲レ之、有二熱餅索餅湯胡餅酥餅之屬一、皆隨レ形命レ名也、語林云、有三魏文帝與二何晏熱湯餅一、即是索餅也、始二於漢魏之間一也、十節記云、七月七日食二索餅一何、昔高辛氏少子七月七日去、其靈無二一足一成二鬼神一、於レ人致二瘧病一、其靈常食二麥餅一、故當二死日一祭レ之、又食レ之則令三人無二瘧病一矣、〈○中略〉 按索餅俗云素麪也、造法用レ麪和二鹽水一溲レ之、和レ油乘レ滑作二細條一捵二引之一如レ絲、掛レ竹乾レ之、〈其竹所レ持木桁名レ機〉用時煮レ之去レ沫、其沫乃油氣也、沫盡爲レ佳、醮レ汁食レ之如二温飩一、再入二未醬或醬油一煮食、稱二之入麪一、共入二研莱菔一乃辛味佳、而莱菔能去二麪毒一也、本朝七月七日餽レ之、毎家食レ之、出二於備州三原奧州三春一者、細白美也、豫州阿州亦不レ劣、和州三輪自レ古雖二名物一不レ佳、攝州大坂最多造レ之送二于四方一、 平素麪(ヒラソフメン/○○○) 不レ用レ油用レ鹽難レ爲二細絲一、帶レ匾似二紐革温飩一而美、自二和州一多出、用時少時漬レ水、出二鹽氣一、煮レ之則甚柔佳、
p.0505 葛素麵 まづくずをすこし水にてとき、わかしめしのとりゆほどのかんにして、おけにうつしさまし、それにて粉をこね申候、かげんはひきあげおとしみるに、いとになり、きれぬほどがよし、はやくおつるもきるゝもあしく候、とをし申、上戸はゆびのはいるほどにあげ候、おやわんよし、ふときほそきは上戸の高下により候、なべの湯をよくにやして吉、そうめんにへ、色かはり候はバ、すいのうにてすくひとり、水に入ひやし、よくもみあらひ候、水をさい〳〵かへ候へば、いよいよしろく見事になる也、汁はきりむぎどうぜん、芳野葛ならではなり申さず候、色々口傳在レ之、
p.0505 葛素麵の方 一水三合程の中へ葛を盃に半分ほど入能とき、鍋へ入、弱き火ニかけ、箸ニてそろ〳〵ふりたて一沫煮申候へば、葛の色かはりねばり出來申候、其時あげ人はだニさまし、それをこね汁ニいたし、葛をこね申候かげんは、手の内ニこねて、葛を一盃入下へながし見申候に、素麵のごとく 能つゞき落申候、柄杓の底に穴を五分あまりほどに、丸ク三ツあけ、其中へ右のこね申候葛を入鍋に湯を能たゝせ、その中へ落申し、鍋の下をゆだんなくたき申候、湯ぬるく成候へば、そうめんきれ申候、鍋の内にそうめんたまり候はゞ、せんぐりに取上、其儘に水に入レ申候、
p.0506 山芋餺飩〈百合麪〉 秋田稻庭麪舗製二薯蕷麪(○○○)及百合麪(○○○)一、極精良、他州所レ不レ及也、薯蕷麪即山芋餺飩、一名玉延索餅、月令廣義載二山芋餺飩法一曰、煮熟去レ皮擂爛、以二細布一紐去レ滓龢レ麪、豆粉爲レ 捍切、粗細任レ意、初煮二十沸如レ鐵、至二百沸一軟滑、汁食レ之、山家淸供有二玉延索餅法一、曰、山藥名二薯預一、奏楚間名二玉延一、陳簡齋有下玉延取二香色味一以爲中三絶上、陸放翁亦有レ云、久綠二多病一錬二雲液一、近爲二長齋一進二玉延一、此于二杭都一多見、而名二佛手藥一者、其味尤佳也、淸供又有二百合麪法一曰、春秋仲月采レ根暴乾擣篩、龢レ麪作二湯餅一、最益二氣血一、又見二遵生八牋一、
p.0506 じよよめんは 山のいもをこまかにおろし、もち米の粉六分、うる米四分をこまかにはたき、山のいもにてよきころにこね、玉をちいさくして、きりむぎうち申ごとくにうち候、ゆでかげんは、にえうきあがる、時吉、是も汁は切麥同前、
p.0506 薯蕷麪の方 一粳上白はたき粉にし、絹ぶるひにてふるひ申候、扨山の芋の皮を去、能々すりて右の粉をうどんのかげんより和にこね申候、そば切のごとく成供、切麥のごとく成とも切申候、扨鍋ニ湯をたて、其内へ鹽を茶二三ふくほど入かき廻し、右の薯蕷麪を入、うき上ル程煮て、其儘取上、水へ入三返ほど水をかへ洗申候、あたゝめとく其後湯をさし候、尤鍋のふたを取候てゆで申候、先上ゲ候て、水に入不レ申候へば切レ申候、世間に、餅米、卵、うどんのこなどまぜ申候、それは惡敷候也、
p.0506 索餅(サクヘイ)
p.0506 索餅(ムギナハ)
p.0507 寺別當許麥繩成レ虵語第廿二 今昔寺ノ別當ニト云フ僧有ケリ、形チ僧也ト云ヘドモ、心邪見ニシテ、明暮ハ諸ノ京中ノ人ヲ集メテ、遊ビ戯レテ酒ヲ呑ミ、魚類ヲ食シテ、聊モ佛事ヲ營ザリケリ、常ニ遊女傀儡ヲ集メテ、歌ヒ嘲ケルヲ以テ役トス、然レバ恣ニ寺ノ物ヲ欺用シテ、夢許モ此レヲ怖ルヽ心无カリケル、而ル間夏此麥繩多ク出來ケルヲ、客人共多ク集テ食ケルニ、食殘シタリケルヲ、少シ此レ置タラム舊麥ハ、藥ナド云ヌレバト云テ、大ナル折櫃一合ニ入テ、前ナル間木ニ指上テ置テケリ、其ノ後要无カリケレバ、其ノ麥入レタル折櫃ヲ取リ下シテ見ル事モ无カリケル、而ル間亦ノ年ノ夏比ニ成テ、別當彼ノ麥ノ折櫃ヲ不意ニ急ギ見テ、彼レハ去年置シ麥繩ゾカシ、定メテ損ジヌラムト云テ、取下サセテ折櫃ノ蓋ヲ開テ見レバ、折櫃ノ内ニ麥ハ无クテ、小キ虵蟠テ有リ、開クル者思ヒ不レ懸ヌ事ニテ棄テツ、ヤガテ別當ノ前ニテ開ケレバ、別當モ亦他ノ人々モ少々見ケリ、佛物ナレバ此ク有ル也ケリト云テ、折櫃ノ蓋ヲ覆テ河ニ流シテケリ、其レモ現ノ虵ニテヤハ有ケム、唯然見エケルニコソハ思フニ增シテ誦經ノ物、金鼓ノ米ナドコソ、思ヒ被レ遣レ、然レバ佛物ハ量无ク罪重キ物也ケリ、正シク其ノ寺ノ僧ノ語ケルヲ、聞繼テ此ク語リ傳ヘタルトヤ、
p.0507 七月七日むぎなはの、房中にたるまじきよし、申けるを聞てよめる、 法眼長眞 いかなれば世にはおほかるむぎなはの一房にだにたらぬなるらん
p.0507 碁子(キシ)麵
p.0507 碁子麪(キシメン)
p.0507 棊子麪(キシメン)
p.0507 點心者〈○中略〉饅頭、索麪、棊子麵、卷餅、温餅
p.0508 棊子麪 貞〈○伊勢貞丈〉云、棊子はごいし也、小麥粉を水にて固くねりて、板の上にて薄く伸し平めて、細き竹筒の切口の内の肉を削り去り、皮の方をうすくなるやうに、刅の如くして、其筒にて右の伸したる麪を押し切れば、棊石の如くに切るゝ也、それを煮て、煎豆の粉を衣に掛くるなり、今も薩州などには其製あり、是歟、
p.0508 切麵粥〈一名棊子麵〉 〈盧貨反〉麵〈蘇貨反〉粥法 剛溲麵、揉令レ熟大作レ劑、挼レ餅麤細如二小指大一、重縈二於乾麵中一、更挼如二麤著大一截斷、切作二方棊一、簸去レ勃、甑裏蒸レ之、氣餾勃盡、下二著陰地淨席上一、薄攤令レ冷、挼散勿レ令二相黏一、袋擧置、須二即湯煮別作一レ臛、澆堅而不レ泥、冬天一作得二十日一、
p.0508 米心棊子 頭麪以二凉水一入レ鹽和成レ劑、棒拗過捍至レ溥、切作二細棊子一以二密篩一隔過、再用レ刀切千百次、再隔過、麁者再切、細者有二麋末一却簸去、如レ下湯煮熟、連レ湯起入二凉水盆内一、攪轉撈起控乾、麻汁加二碎肉糟薑米醬瓜米黄瓜米香菜等一、
p.0508 きし麵 うどんのこ鹽なしにこね、常のごとくふみて薄く打、はゞ五分ほどの短冊にきり、汁にてかげんするなり、打粉多くつかへば汁ねばる、打粉少くして汁多く仕懸るがよし、汁酒しやうゆをくわへ、少しあまく仕懸る、尤かつを大がきにして入べし、温飩を打込煮上て置、ねぎ二寸計に切、たくさんに入、煮て後右のうどんを入てもちゆ、鰹もみこみ打たるも、おもしろきなり、
p.0508 水華(スイクワ)麵
p.0508 水花麪(スイクワメン)
p.0508 胡蝶(コテウ)麵 散索麵(サンサクメン) 冷陶(タウ)麵
p.0508 艾葉麵(アイヨフメン)
p.0509 蒸麵(ムシムギ)
p.0509 蒸麪(ムシムギ)
p.0509 食物之式法の事 一點心之時のむしむぎのきざみ物の事、其内に靑き物あるべし、それはからしの葉也、是はわんの中へはさみ入て喰事、おかしき事也、むぎの油をとらんが爲也、入てやがてはさみ出し、前の所に置て喰也、
p.0509 人の相伴する事 一點心の時參樣、〈○中略〉むしむぎはあけざまにわんへ入られ候、〈○中略〉 むしむぎのこきり物、右しゐたけ、左あをみ、中六てうすさい、まんぢうのすさい、前むしむぎのすさい、さきたるべし、すさいはくはぬがよし、又まんぢうのすさい右、むしむぎのすさい左に並て置共云、又たうじすさいも、こもちやわんのさらに入候と云、むしむぎのこきり物、さんせう左、しやうが右、あんにん中、むぎのすはる時、此さらを左へのけて、むぎをすへべし、まんぢうのこ、此さらをし左にをくと云説有、猶可レ尋、汁へこを入候程に、はし持ながらまんぢうをわり候、左の手なるを置、右の手なるを左へとりてくふべし、こをこぼさぬやうにわるべし、〈○中略〉 一饅頭のなき時、むしむぎの參樣、出家方にはそへ肴はなし、さうけいに引かへ候、〈○圖略〉 一一獻の時むしむぎ參樣、そへ肴あるべし、〈○中略〉 一同時ぬるひやむぎ參樣、但殿中にては見及ばず候、
p.0509 一あつむぎ集養の事、先さかなに取替られ候時、さかなのはしをおさめ候事、前のごとし、いづれも御膳參りたる時、すさいをとり、我左の膳のすみにをく、又左の手にて膳の右のさきのすさいを取て、膳の左のさきにをく、其後右の手にて中のすさいを取て、我前右 のすみにをくなり、又はしを取て膳にすみかけておきあつか物參り候へば、右の手にてわんを取、左の手に取渡し、右の手をそへて、あつか物をうけ、右の手にて麥棜を膳の右のさきのすみに押よせ、汁わんを膳の中に置て、こせう紙を右の手にて取て、こせうを汁に入、膳の下座のかたの下にをく、足付なれば足付の下へ押いるゝ、其後はしを取こせうをかきまぜ、わんには手もかけずして、あつむぎを入、又わんを持あげてくう也、麥おしきのむぎみなに成候へば、右の手にはし取なをし、麥棜を取て前の方にもをく、前の方せばく候へば、膳のさきにならべてもをく也、麥棜の下一ツになりたる時、さいしん參りたる時、いま喰たるおしきをば、さいしんあけたる人取てかへり候、今度は又膳の左のさきのもりこを、汁に入てかきまぜ、麥を入てくう也、扨又肴參り候へば、膳を下座へ押くだし、はしをおさめ候、いづれもさかな參り候て、はしを取て右の手にて肴の汁を取、左右の手にて取汁をすふ也、扨汁のみをくいて、又汁をすふて皿をば膳にをくべく候、其時かならずさしみあるべし、くい候はゞ、さしみをす鹽にひたしてくふなり、たとひくはず候共、さしみをす鹽につけてをく也、扨はしを又以前のやうに膳に、すみかけてをき、御酒の事前のごとし、又さかな取時は、はしをおさめ候也、
p.0510 山城 大德寺蒸素麪 武藏 久我素麪 越前 丸岡素麪 能登 和島素麪備前 岡山素麪 長門 長府素麪 伊豫 松山素麪
p.0510 索麵 諸國之名産雖レ有二數品一、洛陽舟橋、并堺町二條北麵家之製造、非二他邦之所一レ及、是稱二地索麵一因二京師土地之造釀一也、
p.0510 索麵所 堺町夷川之角 井筒屋播磨大掾 烏丸松原上〈ル〉町 山形屋仁右衞門
p.0511 大和三輪索麵 名物なり、細きこと糸のごとく、白きこと雪のごとし、ゆでゝふとらず、餘國より出るそうめんの及ぶ所にあらず、又阿波より出るもの名産なり、三輪そうめんにおとらず、それ三輪は大己貴のみことの神社有、御神體は山にて鳥居ばかりにて社はなし、參詣の人おほきゆへ、三輪の町繁昌也、旅人をとむるはたごやにも、名物なりとてそうもんにてもてなす也、
p.0511 土産 索麪〈同上(犬山製造)其細如レ絲、諸國出者皆不レ如レ之也、〉
p.0511 土産 索麪〈出二刈安賀村一、往年宮地村獻二索麪於熱田神廟一、今宮地村不二復製一レ之、疑其民移二刈安賀一、猶傳二其製一、其地與二刈安賀一接レ近故也、〉
p.0511 土産 佐布里索麪〈出二佐布里村一、毎年上供、其餘大野岩屋橫須賀等出レ之、其製細條潔白勝二于他邑一、皆以爲二方物一、惟佐布里上供故壇二其名一、〉
p.0511 川越索麪
p.0511 籠索麵 湯島天神前
p.0511 晒平麵 美濃(糀町六丁目北側)屋金助 ゆでよふの事 ゆでゆ澤山にして、ゆたち候處ヘ入レ、二ふきゆで、水の中へとりよろしく候、
p.0511 紀伊中納言治寶卿 時獻上〈七月〉索麪 松平筑前守 隆〈○筑前福岡〉 時獻上〈六月〉博多索麪(○○○○) 毛利甲斐匡房〈○長門府中〉 時獻上〈六月〉長府索麪(○○○○) 松平下總守忠功〈○伊勢桑名〉 時獻上〈六月〉白子索麪(○○○○) 秋田信濃守倩季〈○陸奥三春〉 時獻上〈暑中〉三春索麪(○○○○) 植村出羽守家長〈○大和高取〉 時獻上〈七月〉三輪索麪(○○○○) 大岡丹後守忠烈〈○武藏岩槻〉 時獻上〈六月中〉岩槻索麪(○○○○) 片桐主膳正差貞彰〈○大和小泉〉 時獻上〈寒中〉平索麪(○○○)
p.0512 卅七番 右 索麵賣(○○○) てうさいのこしきの上のあつむぎのむしあげせとの月渡るみゆる 我戀は建仁寺なるさうめむの心ふとくもおもひよるかな
p.0512 素麵師 伊與、大和の三輪、其名高し、京にするを地そうめんといふ、
p.0512 一素麵を給候時も、汁をば吸候はず候、又温飩の時も同前に候、又羹の時も汁をば不レ吸候也、
p.0512 にうめん(○○○○) まづ素麵をみじかくきりゆで候て、さらりとあらひあげをき、たれみそにだしくはへふかせ入候、小な、ねぶか、なすびなど入てよし、うすみそにても仕立、胡椒さんせうのこ、
p.0512 一九日〈○天正十三年三月〉大坂ノ幸藏主貝塚ヘ下向、〈○中略〉夜ニ入北御方ヘ被レ參、下ノ御屋敷ニテサウメン御酒謠ナドアリ、
p.0512 謝三德島荒川生惠二白髮麪(○○○)一歌 君不レ見鳥有二白頭翁一、藥有二白頭翁一、媚二春雨一舞二春風一、那知麪條欺二白髮一、線々作レ團與レ雪同、僊里麪人製二新樣一、三輪豫章叵レ爭レ工、金母帽邊光相射、玉女盆中影不レ空、白髮之號雖二則老一、風流可レ入二少年叢一、嗟々半死蛻巖翁、誰憐滿顚如二霜蓬一、上不レ爲二經レ世濟レ民之良弼一、下不レ爲二搴レ旗斬レ關之英雄一、昇平天地覆載久、百年甘化二蠧紙蟲一、伏生蒲輪今已矣、悔不三儈牛隱二牆東一、白髮麪、白髮麪、感二君惠餽一訴二寸衷一、近日鶯花徧二千里一、行樂不三敢哭二途窮一、
p.0512 蕎麥麪(ソバキリ)〈本草綱目〉 河漏(同)〈王禎農書、蕎麥作二湯餅一謂二之河漏一、〉
p.0513 女房ことば 一そば あをい(○○○)
p.0513 河漏〈黑皃〉 蕎麥此云二蘇泊(ソバ)一、作レ麪縷切者云二蘇泊幾利(ソバキリ)一、即蕎麥麪一、一名河漏、一名河洛、是也、團入レ湯者云二蘇泊禰利(ソバネリ)一、即黑皃也、松岡元達食療正要、以二黑皃一爲二會波幾利一、以二河漏一爲二會波禰利一者誤矣、〈○中略〉農政全書引二王 農書一曰、蕎麥赤莖鳥粒、種レ之則易レ爲二工力一、收レ之則不レ妨二農時一、晩熟故也、霜降收則恐二其子粒焦落一、乃用二推鐮一穫レ之、北方山後諸郡多種、治去二皮殻一、磨而爲レ麪、焦作二煎餅一、配レ蒜而食、或作二湯餅一、謂二之河漏一、滑細如レ粉、亞二于麥麪一、風俗所レ向、供爲二常食一、然中土南方農家亦種、但晩收磨食、溲作二餅餌一、以補二麪食一、飽而有レ力、實農家居冬之日饌也、煕按皇明文範、高啓胡應炎傳曰、應炎截二紙縷一置二盂中一、若二湯餅状一者、以レ筯引示レ之曰、吾食甚足可レ見麪縷切者謂二之湯餅一、今謂下作二湯餅一者上爲二河漏一、則知河漏是蕎麪縷切者、所レ謂蘇泊幾利也、其溲作二餅餌一者、即黑皃、所レ謂蘇泊幾利也、言鯖曰、山東以二蕎麥一作レ麪食、曰二河洛一、即河漏也、池北偶談曰、盧氏雜説、明皇射レ鹿、取レ血煎レ酪賜二哥舒翰及安祿山一、謂二之熱洛河一、祿山帳下健皃、名二曳洛河一、恐因二字音相近一、而傳二會其説一、今 魯間、以二蕎麥一作レ麪食、名二河洛一、俚名亦有レ所レ本、煕按、河漏亦可三稱爲二餺飥一、陸游詩、 熟山儈分二餺飥一、船來溪友餉二薪樗一、宋史禮志曰、太宗景祐三年、禮官宗正請、毎歳秋季月、嘗レ豆嘗二蕎麥一、明會典、光祿寺奉先殿薦新品物、十一月有二蕎麥麪一、當二是河漏一也、黑皃亦呼爲二蕎麥麪一、
p.0513 蕎麥切 中古二百年以前の書、もろ〳〵の食物を詳に記せるにも、そば切の事見えず、こゝろ以見れば、近世起る事也、もろこし河漏津と云、船著の湊の名物、茶店に多これを造る、よつて河漏と云、是日本のそば切の事也、江府のそば切の盛美には、諸國ともに及がたし、
p.0513 蕎麥〈訓二會波一、曰久呂無木、〉 集解、蕎四方有レ之、東北最多而佳、西南少而不レ佳、夏土用後下レ種、八九月收レ之、早收者號二新蕎麥一、信州及野之上州有二三四月下レ種、六七月收レ之者一以爲レ珍、野之下州佐野日光足利等處、武總常之地雖二多出レ之而佳一、尚不レ及二信州之産一也、性最恐二霜雪一、故信州以北諸州之産亦不レ爲レ佳、其苗高二三尺、赤莖綠葉、類二蔦葉一而小、開二小白花一繁密如レ雪、結レ實纍々有二三稜一、初綠老作二黑色一、杵レ之去レ殻磨レ之爲レ麪、飛レ羅極細、而用二熱湯或水一、煉作二平團餅子一令二粘堅一、以二拗捧一頻拗、別撒二麪粉一不レ令レ粘二著于拗捧一、卷而捍レ之、至二極薄一而放攤、疊レ之者三四重、從レ端細切作二細筋條一、投二沸湯一而煮、久煮則硬、少煮則軟、隨レ意取出、或洗二冷水一、或洗二温湯一、此號二蕎麥切一、滌淨漉レ水、而食レ之用レ汁、其汁用二味噌水垂汁一升好酒五合一拌匂、煮二乾鰹細片四五十錢者一半時許、不レ宜二慢火一宜二緩火一、煎熟以二鹽溜漿油一而調二和之一、以二再温一爲レ要、別用二蘿蔔汁花鰹山葵橘皮番椒紫苔燒味噌梅干等物一、和二蕎切及汁一而食、蘿蔔汁以二辛辣一爲レ勝、古來未レ聞レ賞二蕎麪一者、近代製レ之、今擧レ世上下美二賞之一、東北之人專造レ之競誇、西南之人造レ之不レ佳、惟京師近年造レ之稍美、然麪不レ好、蘿蔔亦不レ辣、故不レ似二江東之盛美一也、或用レ麪入二沸湯一、緩火煉熟如レ飴、和レ汁而食、此號二蕎掻(ソバカキ)一、而劣レ似二蕎麪一、李時珍所レ謂作二湯餅一謂二之河漏一亦此類乎、或呼二蕎麥切之煮湯一、稱二蕎麥湯一、而言喫二蕎切一後不レ飮二此湯一必被二中傷一、若雖二多食飽脹一、飮二此湯一則無レ害、然未レ試レ之、復用二蕎麪一撒二熱湯一拌匀、徐々飮レ之、而言能禦レ寒、然蕎性微寒、無二禦レ寒之理一、惟熱湯燠レ身之故矣
p.0514 蕎麥切(そばきり)〈蕎麥詳二于穀類下一、河漏蕎麥粥餅、〉 按用二蕎麥麪一煉作レ餅以レ棒拗レ之、或卷或擴、令レ如レ革卷二疊之一、細切投二沸湯一略煮レ之洗淨、用二醬油汁一食レ之、和二山葵莱菔等葷辛物一可也、 一種用二蕎麥麪一煉熟爲レ餅、以二醬油汁一食レ之、呼曰二蕎麥粥一、此本綱所レ謂河漏是乎、
p.0514 蕎麥ハ冷物ユヘ、脾胃虚弱ノ人ニ宜シカラ子バ、大小二麥ト一樣ニ常食ニ充ツベキ物ニ非ズ、シカシ土ノ肥瘠ヲ論ゼズ、一候七十五日ニシテ實熟シ凶荒ノ備ニハ甚便宜ナル故ニ、 〈天工開物云、蕎麥實非二麥類一、然以二其爲レ粉療一レ饑、傳レ名爲レ麥、則麥レ之而已、〉續日本書紀ニ、養老六年七月戊子、詔曰、今夏無レ雨苗稼不レ登、宜下令二天下國司一、勸二課百姓一、種二樹晩禾蕎麥及大小麥一、藏置儲積、以備中年荒上、又續日本後紀ニ承和六年正月七日、令二畿内國司一、勸二種蕎麥一、以下其所レ生土地不上レ論二沃瘠一、收獲只在二秋中一、稻梁之外足レ爲レ食也ナドアリテ、先王天下ノ國司ヲシテ百姓ニ勸種セシメ給ヘバ、其後トテモ諸國ニテ蕎麥ヲ種テ、凶荒ニ備ヘ、二麥ノ助トナセシカド、其頃ハ蕎麥搔餅、又ハ蕎麥燒餅ニ作シメ、食料ニ充シニテ、今ノ蕎麥切ナドヤフノ物ハナカリシニ、鹽尻ニ、そば切は甲州にて天目山へ參詣多かりし時、所の民參詣の諸人に食を賣けるに、米麥すくなかりしゆへ、そばをねりてはたごとせし、其後うどんを學びて、今のそば切とはなりしト、アルニテ見レバ、最初ハ蕎麥搔餅或ハ蕎麥燒餅ニ製シテ、旅籠トセシガ、後ニハ温飩ニナラヒテ、湯餅ト作セシトナリ、西土ニテモ農政全書ニ、王楨ガ農書ヲ引テ曰ク、北方山後諸郡多種、治去二皮殻一、磨而爲レ麪、焦作二煎餅一、配レ蒜而食、和名鈔或作二湯餅一、謂二之河漏一、滑細如レ粉、亞二于麥麪一トイフ、焦作二煎餅、配レ蒜食レ之ハ、コレ蕎麥燒餅ナリ、或作二湯餅一謂二之河漏一ハ、コレ温飩ニナラヒテ湯ニ入レテ、コレヲ烹ルモノニシテ、即チ喬麥切ナリ、但シ温飩ノ如キハ湯餅ト作シメ食フベケレド、蕎麥ハ湯ニ入テ烹レバ、切々ニナリテ片ヲナスベカラズ、因テ思フ當時二八蕎麥ト云テ、蕎麥粉二分、温飩粉八分、八分ト二分トノ調合ニスルハ、温飩粉ヲ多クシテ切レザルヤフニセシニヤアラン、〈今ノ人二八トイフハ、價ノコトニテ、今蕎麥一膳ヲ十六文ニ賣ルユヘニ、二八十六文ノ義ト心得ルハ誤ナリ、其頃ハ未ダ諸品下直ユヘ、蕎麥ノ價モ十六文ニテハアルマジ、還魂紙料ニ、寬文八年ノ頃、江戸ノ流行物ヲ集メシ短歌ヲ載テ、八文もりのけんどんや、又かる口男に〈貞享元年頃印本〉一杯六文かけねなし、むしそば切、鹿の子ばなしに、〈元祿三年印本〉蒸籠むしそば切一膳七文トアルニテモ、當時蕎麥一膳ノ價十六文ニアラザルヲ知ルベシ、〉カク二八ノ調合ニテハ、温飩ニ近ク、蕎麥タル詮ナケレバトテ、新ニ蒸蕎麥トイフモノヲ工夫ス、其製法ハ蕎麥粉ヲ冷水ニテヨク溲(コチ)合セ、麪棒ニテ按 ゲ、フタヽビ棒ニ捲テ、連ニ打ツコト數遍、熨シテ、薄片トナルヲ、剉シテ線トナシ、沸湯ニ入テ煠上ゲ、冷水ニテ洗ヒ、フタヽビ蒸籠ニ入レ、蒸シテ露氣ナカラシメ、煎和ノ醬油ヲ以テ、大根ノ絞汁、山葵、海苔等 ヲ配シテ食フ、西土ノ河漏ハイカヾ製スルヤ、此方ノ蒸麥トハ、同ジカラザルヤフニ思ハル、此方ニテハ温飩ニ蕎麥切モ、モト菓子ニ屬シテ、菓子屋ニテハ船切重詰ニシテ賣リシユヘニ、菓子屋ノ杜氏ハ必ラズ蕎麥ヲ打ツ筈ノモノナリ、今ニコレヲ以テ杜氏ノ巧拙ヲ試ルハ、昔ノ餘風ノ存セルナルヨシ聞及ベリ、
p.0516 蕎麥きり めしのとりゆにてこね候て吉、又はぬる湯にても、又とうふをすり、水にてこね申事もあり、玉をちいさうしてよし、ゆでゝ湯すくなきはあしく候、にへ候てから、いがきにてすくひ、ぬるゆの中へいれ、さらりとあらひ、さていかきに入、にへゆをかけ、ふたをしてさめぬやうに、又水けのなきやうにして出してよし、汁はうどん同前、其上大こんの汁くはへ吉、はながつほおろしあさつきの類、又からしわさびもくはへよし、
p.0516 蕎麥切の方 一蕎麥の粉能々吟じ、扨こね申候、いかにも能にえ候湯を、少右の粉におとし、はら〳〵仕候程にこね合、其後水にて能かんにこね候、打樣はつねのごとくにしてゆで申候、能ゆだり申候時、桶ニ水を入さつと洗、笊(いかき)へあげ申候、扨桶に右のゆで湯にても、又白湯にても入、右のそば切入レ、笊を直ニ上に置、又上から能にえ湯をかけ申候、初入候湯と、のちに上からかけ申候湯とのゆげにてむし申候、ぬめりのき乾出申候時よく御ざ候、 同蕎麥切秘傳の方 一そばの粉常のごとくねり、玉に丸め、厚さ五分程にひらめ、打粉に小糠をふるひ遣候へば、手につき不レ申、のびよく候、扨常のごとくゆで申候、湯の内にて小糠の分はすきと落、小糠の匂少もなく候、總而打粉にて湯ねばり申候故、そば切出來候へども、何返も洗不レ申候へばあしく候が、小糠打粉に仕候へば、少も湯ねばり不レ申候故、そば切二三返すゝぎ候へば、すきと仕候故のび不レ申候、 そば切ゆでゝ久持樣 一そば切ゆで申時、其ゆで湯一荷ほどの中へ、さたう少、くるみ五ツ入、常のごとくゆで、扨上ゲ申候、ぬる湯にて洗、笊へあげ、水をかけ、扨物に入置、少も損じ不レ申候、給(たべ)候時湯をかけ、つねのごとくたべ申候、仕立に少もちがひ申さず候、
p.0517 慳貪〈○中略〉 蒸蕎麥切(○○○○)、かる口男、〈貞享元年頃印本〉飢をたすくる旅籠町、弓手も馬手もそば切屋、おはひりあれや殿さまたち、一杯六文かけねなし、むしそば切の根本と、聲々によばはれども云々、〈下に觀音のことあり、淺草はたご町なるべし、〉といふ事見え、又西鶴一代女〈貞享三年印本〉五の卷、蓮葉女のことをいふ條に、女ながら美食好、鶴屋の饅頭、川口屋のむしそば、小濱屋の藥酒、椀屋の蒲鉾、樗木筋の仕出辨當、〈これは大坂のことをいふなり、辨當屋のこと、下に見えたり、〉鹿子ばなし、〈元祿三年印本〉淺草觀音寺内にて能ありけるとき、中間一人諏訪町あたりにて、蒸籠むしそば切、一膳七文とよびけるとき、〈○中略〉といふ話あり、貞享元祿の比は、蒸たるを好る人多かりしなるべし、今蕎麥切を盛器に蒸籠を用ふる事あるは此餘波歟、
p.0517 蕎麥練 そばこ常のそばねりのごとく、鍋にて堅くねりて、其上へ水一はい入てたく是はそばのあくけをとる爲也、ゆをすて其のち練なをすべし、杓子にてねるはあしゝ、女竹きせるのらうほどに切練るべし、是にてはなべにもつかずよき也、膳を出すに、さゆあつくわかしわんに入、右のそば練玉子ほど宛取、湯に浮けて出す、こうとうはつねのそば切のごとし、汁はかつを水出して、その後醬油をくわへ、加減するなり、水出しおほくては、しるうすくなる也、よく〳〵心得べし、
p.0517 此内藏助〈○戸田重之〉其後火消役ヲ勤メケル時、火ノ見番同心ニ、毎夜蕎麥ガキ(○○○○)ヲ拵ヘ喰ハセテ、寒氣ヲ防ガセケル、
p.0518 武藏(○○) 根深蕎切 信濃(○○) 蕎切〈當國nan始ルト云〉
p.0518 江府名物(○○○○)并近國近在土産 道光庵蕎麥切 淺草稱往庵塔頭道光庵住侶生得そば切を嗜常に食す、此ゆへに人の問來るあれば、取あえず蕎麥切を出してもてなせしが、いつとなく世に名高く、京師丸山の茶屋のごとし、歎息すべし、 瓢箪やそば切 かうじ町四丁め 佐右衞門(へうたんや) 雜司谷蕎麥切(舟切の名物) ざうしがや門前〈ニ〉あり、中にも社地の東之方茶屋町をはなれて、籔の中に一軒ああるを名物とす、 笊蕎麥 深川洲崎 伊せや伊兵衞 小さき笊に入て出す故、笊そばと云、色白くいさぎよし、
p.0518 道光庵 淺草稱往院寺中道光庵は、河漏の名所なりしに、天明の頃、本寺よりいたく禁制して門に石碑をたつ、
不許蕎麥〈院内製之而亂當院之淸規故〉入院内裏ニ 欲求寂滅樂當學沙門法 稱往院住持みづからから臼をふみて みだゝのむ心からうす西へむけふたゝびごとにみなをとなへて 殊に笑ふべきことなり
p.0518 松平玄蕃頭忠福〈○上野小幡〉 時獻上挽拔蕎麥(○○○○) 内藤銀次郞賴以〈○信濃高遠〉 時獻上〈暑中〉信州寒晒蕎麥(○○○○)
p.0519 輕口男といふ草子、淺草旅籠町の處、弓手も馬手もそば切屋、一杯六文かけねなし、むしそば切の根本と、聲々に呼、〈鹿子ばなしに、諏訪町あたりにて、蒸籠むしそば切一膳七文とよびける、其繪をみるに、棚のうへに、大平の椀にもりて并べたり、輕口男は、貞享中の草子、またこれは元祿三年の草子にて、其間程近けれど價異なり、又寬文八年のころの物といふ、流行物の短歌には、八文もりのけんどんやとあれば、前後あはず、さま〴〵にてありしにや、○中略〉延享二年草子、賢女心籹、しだらく女をいふ處、集せんだし廿四文のそば切、小半酒を小宿のかゝまじりに呑てしまひ、醉にまかせて、うどんやのけんどん箱を枕にして晝寐、これにても其價知べし、
p.0519 むし蕎麥の價 古き板本のはなし本に、江戸すゞめといふあり其中に、 けんどんは時の間の虫 淺草くわんおん寺内にのふありけるに、さぶらひとも見へず、中間らしきもの一人通り、すは町のあたりにて、せいろふむしそば切壹膳七文とよびける時に、此男腹もすきければ、よらばやと思ひ、こしを見れば、錢わずか十四五文ならでなし、ことの外くたびれひだるくはなる、まづよらばやと思ひ、のれんの中に入よりはやくぜんを出す、すきはらなれば口あたりのよきまゝに、四ぜんまでくひけり、そば切の代は貳十八文、こしには錢十四五文ならではなし、いかゞせんと思ひけるが、しあんしてていしゆをよび、酒やあるととふ、いかにも御ざ候といふ、其儀ならば二十四文計がの出し申されよといへば、そのまゝ持て來る、それをのみて後に一ぜんのそば切半分くい殘し、そばにやすでといふむし有けるを、わんの中に入、ふたをしてていしゆをよびいひけるは、此あたりにはやすでといふ虫おほく有やととふ、ていしゆ聞て、なるほど大分御ざりますといふ、かのものいふ樣、あれはことの外くさきものにて、どくなりといへば、ていしゆなるほど くさきものにて御座るといふ、其時かのものさやう成どく、そば切に入、人にくはせてよきかと、さま〴〵ねだり、代物壹文も置まじきといふ、其時ていしゆさやうのわやは外にて申されよ、此あたりにては無用といふ、かのものいよ〳〵はらをたていかりければ、ていしゆがいわく、其方には表のかんばんを、何とみられ候や、むしそば切と書付たり、むしはありてもくるしからずといへば、此男こまりてへんとうなし、ていしゆがいふ、此へんたうし給はゞ、代物壹錢も取まじといふ、かのものいふやう、そのぎならば我等をば、あぶらむしにし給へとて歸りしとぞ、
p.0520 蕎麥温飩引下ゲ直段書上 一蕎麥大蒸籠壹ツニ付錢四拾八文賣之所、當五月中引下ゲ錢四拾四文、此度引下ゲ錢四拾文賣、但錢八文引下ゲ申候、 一挽拔盛蕎麥壹ツニ付錢拾六文賣之所、當五月中引下ゲ錢拾四文、此度引下ゲ錢拾三文賣、但錢三文引下ゲ申候、 一並盛蕎麥壹ツニ付錢拾貳文賣之所、此度引下ゲ錢拾壹文賣、但温飩之儀者、右ニ准ジ引下ゲ申候、 右之通、當五月中引下ゲ直段申上置候樣、錢相場御定相成候ニ付、猶又書面之通爲二引下ゲ一申候、依レ之此段申上候、以上、 諸色掛り 麻布永坂町 寅八月 名主 次郞左衞門
p.0520 温飩蕎麥屋 從來二八後ニ二十四文ノ物ヲ商フヲ駄蕎麥ト云、〈○中略〉江戸慶應以來增價蕎麥温飩トモニ二十 四錢トナリ、霰以下准レ之テ價ヲ增ス、 〈御膳〉大蒸籠 代四十八文一そば 代十六文一〈あんかけうどん〉 代十六文一あられ 代二十四文一天ふら 代卅二文一花まき 代廿四文一しつほく 代廿四文一玉子とじ 代三十二文一上酒 一合(代)四十文壁ノ張紙及格子掛行燈〈○行燈圖略〉上ノ如シ、 アラレ バカト云貝ノ柱ヲ、ソバノ上ニ加フヲ云、 天フラ 芝海老ノ油アゲ三四ヲ加フ 花卷 淺草海苔ヲアブリテ揉ミ加フ シツホク 京坂ト同ジ 玉子トジ 雞卵トジ也 又鴨南蠻ト云アリ、鴨肉ト葱ヲ加フ、冬ヲ專トス、 又親子南蠻ト云ハ、鴨肉ヲ加ヘシ雞卵トジ也、蓋鴨肉トイヘドモ、多クハ雁ナドヲ用フルモノ也、〈○中略〉 慶應年中再會〈○蕎麥商〉ノ後、官ニ請テ十六文ヲ二十文トス、他准レ之テ價ヲ增ス、
p.0521 蕎麥屋 そばうんどんは、寬永以後元祿の初迄は、皆菓子屋にて拵へたり、尤商ふ家も稀にて、下人など常に喰ふ事は少かりしなり、元祿の末に艸子に、二八の看板初て見えたれば、漸此頃よりそばうんどん商ふ家とては、別に出來たるなり、
p.0521 昔は温飩を專らにして、蕎麥はかたはらなり、近時までもそばやをうどん屋と稱へしなり、
p.0521 麵類賣 饂飩蕎麥切を一膳切にさだめ、夜に入てになひありく、其外麵類は慳貪と號して、一膳の代五分切に是をあきなふ、大佛門前をはじめ、所々にあり、
p.0522 たま〳〵そば切屋あれども、二八などゝいふやうなる、らちのあいたる事なし、もちろんうんどん桶なし、
p.0522 鶴人、さやうさ此地では蕎麥屋で料理を兼たり、茶漬を賣たり、または餅を賣たりしやす、江戸のやうに蕎麥屋は、そばばかりといふ見世は、あまり澤山厶りやせん、
p.0522 京攝にて饂飩蕎麥を商ふ家は、饂飩の方を題とするにや、うんどんやと云ふ、東都は蕎麥を題とする故、悉くそばやと云也、扨加役ものにても唱へ大に違ひ、ノツペイ、シツポク抔とはとなへず、てんぶらそば、鴨南蠻、霰、花卷、など呼て數種有、それを只誂らへれば皆蕎麥題なり、うんどん好まば、饂飩にて南蠻とか、てんぶらとか誂らへぬ時は、蕎麥やと云ば、皆そばにすることなり、蕎麥に二種有り、カケモリも有り、カケはぶつかけ、モリは小靑樓に入て、猪口にだしをつぎ出すなり、
p.0522 蕎麥屋の皿もり丼となり、箸のふときは蕎麥屋の樣なりと譬しも、いつしか細き杉箸を用ひ、天麩羅蕎麥に霰そば、皆近來の仕出しにて、萬物奢より工夫して、品の强弱にかゝはらず、唯目をよろこばす事計りにて、費のみ出來る也、食物も無益の事ばかり精製して、其本品の味を失ひしを、賞美する事笑ふべし、
p.0522 温飩蕎麥屋 今世京坂ノ温飩屋〈○中略〉器十六文ノウドンソバトモニ平皿ニ盛ル、常ノ肴皿ノ麁ナル物也、シツポク以下ハ或ハ平ニ盛ル椀也、小田卷ハ大茶碗ニ盛ル、ムス故也、〈○中略〉 江戸ハ二八ノ蕎麥ニモ皿ヲ用ヒズ、下圖〈○圖略〉ノ如キ外面朱ヌリ内黑ナリ、底橫木二本アリテ竹簀ヲシキ、其上ニソバヲ盛ル、是ヲ盛リト云、盛ソバノ下略也、ダシ汁カケタルヲ上略シテ掛ト云、カケハ丼鉢ニ盛ル、天プラ、花卷、シツポク、アラレ、ナンバン等皆丼鉢ニ盛ル、
p.0523 見頓屋 堺町 市川屋 中橋大か町 きりや 同提重 堀江町 若なや 本町 新橋出雲町 手打そば切 鈴木町橫町 丹波屋與作
p.0523 寶暦五亥八月廿五日、見世開駒形へ正直ソバ(○○○○)出ミセヲ立、是ハ享保ノ末ヨリ、馬道ニテ正直仁左衞門ト云ソバヤ本店名代ナリ、
p.0523 御そば所 〈糀町元四丁目〉瓢箪屋 らんめん 〈木挽町六丁目河岸〉蕎花殿 同 〈神田明神前〉島屋三藏 同〈舟切重詰品々〉 〈日本橋室丁一丁目〉綱島庄兵衞 同 〈筋違橋外廣小路〉龜屋 手打生蕎麥 〈麻布谷丁〉上總屋 同 〈筋違橋外〉東屋〈○下七軒略〉 同〈折詰品々〉 〈本所みどり丁一丁目〉東翁庵〈○下十六軒略〉 せいろふそば 〈糀町五丁目〉山田屋 おかぐらそば 〈田所丁よこ丁〉御神樂平兵衞 船きり 〈下谷山崎丁入口〉濱名屋 まことそば 〈牛天神下すは丁〉大黑屋 相生そば 〈深川中丁〉松坂屋 豐年そば 〈深川中丁〉稻葉屋 千歳そば 〈神田明神前〉松屋 この花 〈昌平橋外〉遠州屋 〈にしきさらしな〉 〈市谷田丁一丁目〉よしだ屋 かんたん 〈下谷七軒町〉伊勢屋 麵縁干そば切 〈靑山善光寺門前〉桔梗屋善兵衞〈○中略〉 深代寺そば粉 〈堀江丁一丁目〉升屋 同 〈糀町けだもの店〉上總屋勘太郞 同 〈四ツ谷坂丁〉伊勢屋茂吉衞門〈○中略〉 千鳥そば 〈久松丁〉土屋 川しなそば 〈瀬戸物丁〉川しな屋
p.0524 〈根本元祖〉御用御麵類所 〈麴町四丁目〉瓢箪屋佐右衞門 〈東叡山御用〉御膳生蕎麥 〈上野仁王門前町 無極庵〉河内屋瀨平 〈淺草御殿御用〉極製生蕎麥船切所 〈淺草西仲町〉松桂庵嘉右衞門〈○中略〉 〈御膳〉小倉生蕎麥所 〈下谷御成道東叡山黑門町〉龜屋平兵衞 〈御膳極製〉礒浪蕎麥所 〈須田町仲坂稻荷下裏〉東玉庵淸次郞 〈御膳〉手打武藏野蕎麥 〈神田鍜冶町一丁目〉武藏野與兵衞 〈信州寢覺〉生蕎麥所 〈日本橋坂本町河岸〉雪窻庵文吉 〈てうち〉浦しまそば 〈浅草茅町二丁目〉うらしま彌八 〈御膳極製〉梅園生蕎麥 〈御藏前天王町〉梅園五兵衞 〈御膳手打〉生蕎麥 〈芝三田有馬樣前〉まつや定吉 〈御膳〉信州更科蕎麥所 〈麻布永坂高いなりまへ〉布屋太兵衞
p.0524 明月堂蕎麥 明月堂中新蕎麥、蒔畫重箱注文忙、盛來白髮三千丈、挽拔無レ交似レ個長、 翁蕎麥〈深川熊井町〉 白髮素線其號翁、下戸上戸得意同、從敎世間蕎麥衆、一椀喰得急爲レ通、 薪屋蕎麥〈吾妻橋川端〉 薪屋無レ薪又無レ炭、坐鋪二階大川濱、唯今淺草爲二名物一、歳々年々蕎麥新、 瓢箪屋蕎麥〈麴町四丁目〉 温飩蕎麥瓢箪屋、名字十三町内聞、代々諸家多出入、注文日々客成レ群、 無極庵蕎麥〈池ノ端廣小路〉 池砌樓高無極庵、近來出店在二于南一、太平一碗新蕎麥、開レ蓋自然香氣含、
p.0525 蕎麥の記〈日野本鄕里正佐藤彦右衞門に出てあふ〉 それ蕎麥はもと麥の類にはあらねど、食料にあつる故に麥といふ事、加古川ならぬ本草綱目にみえたり、されば手うち(○○○)のめでたき、天河屋の手なみを見せし事、忠臣藏に詳なり、もろこしにては一名を烏麥といひ、そば切を河漏麪といふは、河漏津にあるゆへなりと、片便の説なり、詩經に爾を視るに荍のごとしといひ、白樂天が蕎花白如レ雪といひしも、やがてみよ棒くらはせんの花の事なり、大坂の砂場そば(○○○○○○○)は、みせの廣きのみにして、木曾の寐覺(○○○○○)は醬油にことをかきたり、一谷のあつもりそば(○○○○○○○○○)は、熊谷ぶつかけ、平山の平じゐもおかし、大江戸のいにしへ、元祿より上つかたは、見頓蕎麥(○○○○)は淺草にのみありて、むしそば(○○○○)の價七文なりときゝしが、今は本町一丁目駿河町にもまぢかくありて、御膳百文、二八(○○)、二六(○○)、船きり(○○○)、らん切(○○○)、いも切(○○○)、卓袱(○○)、大名けんどん(○○○○○○)はいさしらず、うば玉の夜たかそば(○○○○○)、風鈴(○○)に至るまで、何れかみうとのたねにあらざる、高砂の翁そば(○○○○○○)、鎌倉河岸の東向庵(○○○○○○○○)、福山の蕎麥(○○○○○)は三階に上る、みの屋のそば(○○○○○○)は敷初に賑ふ、洲崎のざるそば(○○○○○○○)は深川にきこえ、深大寺そば(○○○○○)は近在に名高し、淺草のまきやそば(○○○○○○○○)も、大川橋の玄關構にしかず、正直そば(○○○○)の味は、念佛そば(○○○○)の有がたきにいづれ、池の端の無極庵(○○○○○○○)に、周茂叔が蓮をながめ、日暮のとねりやに若殿の駒を繋ぐ、その駒で思ひ出せし瓢箪屋(○○○)は、麴町の名家なれど、四國町のさる家(○○○○○○○)には及ばざるべし、道光庵(○○○)も名のみ殘りて、稱往院の禁制の、蕎麥門内に入る事をゆるさずもおかしく、小石川のそばきり稻荷(○○○○○○)も、茗荷屋の茗荷とともにわすれはてぬ、
p.0525 寬文ノ頃ケンドン温飩盛ニ行ハレシユヘ、蕎麥モ温飩ニナラヒテ、ケンドンニセシナリ、ケンドントハ俗ニ生質温和ニシテ、財利ニコセツカザル者ヲ、オントウトイフ、オントウト、ウンドンノ音ノ近キヲ以テ、此ウンドンハウンドンナラデ、ケンドンナリトイフ意ニテ、一杯盛切ニシテカハリヲ出サズ、給使モセザルヨリ、ケンドントハイヒシ、コレヲ便利ナリトテ賞翫シ、 下々ノ者トリハヤシ、盛ニ、行ハレシヨリ、温飩屋蕎麥屋ナドイフモノ逐々ニ出來ヌ、
p.0526 喧鈍 寬文二年、寅の秋中より吉原にはじめて出來たる名なり、往來の人を呼聲喧しく、局女郞よりはるかにおとりて鈍に見ゆるとて、喧鈍と書たり、其頃江戸町二丁目に仁左衞門といふものは、温鈍を拵へ、そば切を仕込て、銀目五分づゝに賣はじめ、契情の下直になぞらへて、けんどんそばと名付しより、世間に廣まるなり、
p.0526 慳貪 江府瀨戸物町信濃屋といふもの、始てこれをたくむ、そのゝち所々にはやりて、さかい町市川屋、堀江町若菜屋、本町布袋屋、大鋸(おが)町桐屋など、名をあらそふ中に、鈴木町丹波屋與作といふものぞ、名高かりし也、これをけんどんと號るは、獨味(どくみ)をして人にあたへざるの心、又給仕もいらず、あいさつするにあらねば、そのさま慳貪なる心、又無造作にして儉約にかなひたりとて、儉飩と書と云説此よろし、
p.0526 慳貪 因果經といふ和讃に云、人のものをばほしがるをけんといふなり、人に物をしがるものをどんといふ、けんどんぐちとは、こゝぞかし、こゝに説ところ、大むね法華經に見えたる慳貪の意に當れりとぞ、今の俗瞋恚の强事にいふは誤りにて、慳貪は悋こと也、されば蕎麥切にもあれ、飯にもあれ、盛切て出し、かはりをもすゝめざるをけんどんといふなり、〈飯慳貪のことは、すゑに見えたり、〉むかし〳〵物語に曰、寬文辰年〈四年なり〉けんどん蕎麥切といふ物出來て下々買喰、貴人には喰者なし云々、是けんどんの初なるべし、又寬文八年の比、江戸の流行物を集し短歌有、 當世はやりもの 肥前本ぶし やりがんな 人くひ馬に 源五兵衞 けいあんや き船道行 三谷うた 河崎いなり 大明神 鎌倉道心 日參や 古作ぼとけに おんすゝめ いつも絶せぬ 觀世音 三谷へ通ふは 駄賃馬 八文もりの(○○○○○) けんどんや(○○○○○) 淺草町は よね饅頭 〈以下江戸順禮の條に抄出〉 一時の戯文幸に存て、百五十餘年の昔を見るがごとし、〈肥前節のこと、きぶね道行のこと二編にいふべし、〉又酒餅論に、さてめんるゐの長せんぎ、のび〳〵にして、うどんけなり、そばきりたてられ、いかゞせん、さうめんだうなることはいや、敵きり麥こそおもしろけれとて、けんどんさうにぞ見えにけるとあり、此草紙の畫風を見れば、萬治の比の物のやうに思はるれど、前にいふごとく、むかし〳〵物語に、寬文四年けんどん蕎麥切といふ物出來とあれば、酒餅論も寬文中の印本なるべし、むかし〳〵物語に記されしことは、大むね不レ違、〈○中略〉 提重と江戸鹿子にあるは、一名を大名慳貪といふ、麁惡なる蒔繪をし、又靑貝にていさゝか粧ひたるもあり、正德の比までも流行て、其器は今に存、好事の人茶箪笥等に用ひて、人の知るところなれば、圖を摸さず、〈○中略〉
p.0527 慳貪は唯俗に覺えたるやさしみなき意にて、一椀づゝ盛たるを、食ふ人の心にまかせて勸もせざるゆゑなり、〈呉服屋の現金安賣始りて、何くれの物みな其定になれり、大かた同時なるべし、〉其呼聲にも一杯六文かけねなし、現金かけねなしといふこと、其頃のはやりなり、外に持運ぶに、膳を入る箱はけんどん箱なるを、やがてけんどんとばかりいひ、其箱の蓋の如きを、けんどんぶたといふ、大名けんどん(○○○○○○)といふは、一代男、女郞ども食好みする處、なま貝のふくらいりを、川口屋の帆かけ舟の重箱に一杯と、思ひ〳〵に好まるゝこそおかしけれ、〈一代女に、川口屋の蒸そばとある、其重箱なり、〉帆かけ舟は、諸大名の舟を五色の漆にて、繪にかきたるなり、〈西國の大名難波にて艤して出たつ故、その船ども相印を見習へり、〉大名けんどんの名はこゝに起る、今も此器殘れるもの有て、好事のもの茶箱に用、小く長き形の筥なり、蒔繪は帆かけ舟のみにあ らず、種々の模樣有、又一種の箱あり、大にして四角なり、内にへだて有て、幅の狹き方に汁つぎの箱、辛み色々入、貞享の江戸鹿子に、提重とあるはこれらをいふ、後に忍びけんどん(○○○○○○)ともいへり、もと此筥どもは、うどんをも入たり、うどんは桶にて持運びしが、後には件の箱になりたれども、猶桶をも用ひしにや、俳諧三疋猿、これほどの廣き住居に榾のかけ、どちへもつかずうどん一桶温故集來山が句、春雨やもらぬ家にもうどん桶、寛寬政の末迄も、箱に盛て賣しが、箱は今絶たり、後のうどん箱には、蓋なく模樣なども繪かず、〈家の印などは付たるもあり〉そのかみの箱、大名けんどんとはいへど、麤末なる漆繪なり、靑貝(ミヂン)など蒔たるも有、江戸名物鑑、大名けんどん新そばや、二本道具の汁辛味、又忍けんどん籔入や二階へ二膳しのぶ山、
p.0528 西川〈權〉淸左衞門話〈○中略〉 傳通院前藥種屋升屋與左衞門談、昔し我らが地面に米津屋長左衞門とて、そばや有けるが、大名けんどん(○○○○○○)とて、箱に源氏やうの繪をいだし商ひける、大ひに時行しとなん、今雁がね屋住ゐたる所なり、其頃大名けんどんとて、大ひにもてはやしけると、かしこは白壁町に屬して、升屋の地面也、めづらしき事故、筆ついでにしるし上候、
p.0528 衣食住記に、享保の頃温飩蕎麥切菓子屋へ誂へ、船切にしてとりよせたり、其後麴町へうたんやなどいふ、けんどんや出來、蕎麥切ゆでゝ、紅から塗の桶に入、汁を德利に入て添來る、其後享保半頃神田邊にて、二八即座けんどんといふ看板を出す、〈かゝればそばをも、うどん桶に入たり、二八そば(○○○○)といふこと、此時始なるべし、〉 又云、夜鷹そば切(○○○○○)、其後手打そば切(○○○○○)、大平盛、寶暦の頃、風鈴蕎麥切(○○○○○)品々出るとあれば、風鈴そばと夜鷹蕎麥とは、殊なりとみゆ、思ふに今も御菜籠にて夜そば賣が有、初め夜鷹そばといひしは、このやうの荷にてありしなるべし、狂詩諺解に、風鈴そば夜たかそばと似て非なるものなり、太平に もり上おきありといへり、これ上に大平盛とあるも、今のしつぽくなること知べし、〈唯大平にもりしは、むかしより然り、〉銅脈が太平樂府、温飩蕎麪焚レ火行とあれば、京師もおなじころ、夜そば賣出しとみゆ、
p.0529 温飩蕎麥屋 今世江戸ノ蕎麥屋大略毎町一戸アリ、不繁昌ノ地ニテモ四五町一戸也、從來二八後ニ二十四文ノ物ヲ商フヲ駄蕎麥ト云(○○○○○○○○○○○○○○○○○○○)、駄ハ總テ粗ヲ云フ俗語也、駄ニモ行燈等ニハ手打ト記セドモ、實ハ手打ト云ハ、別ニ精製ヲ商フ店アリ、眞ノ手打蕎麥屋ニハ二八ノ駄ソバハウラズ(○○○○○○○○○○○○○○○○○○○)、〈○中略〉万延元年蕎麥高價ノコトニ係リ、江戸府内蕎麥店會合ス、其戸數三千七百六十三店、蓋夜商俗ニ云ヨタカソバヤハ除レ之、
p.0529 蕎麥屋 江戸ハ蕎麥ヲ專トシ、温ドンヲ兼賣ル、蓋擔賈ヲ京坂ニテ夜啼温飩ト云、江戸ニテハ夜鷹蕎麥ト云、夜タカハ土妓ノ名、彼徒專ラ食レ之ニ據ル、又江戸夜蕎麥ウリノ屋體ニハ必ズ一ツ風鈴ヲ釣ル、京坂モ天保以來釣レ之者アリ、
p.0529 寬永十九〈午〉年五月 一當年は、温飩、切麥、蕎麥切、素麪、饅頭等賣買仕間敷事、〈○中略〉 右之趣、面々御法度之所、此外にも被二存寄一候之義は、世間くつろぎ之爲に候間、可二申付一候、 五月
p.0529 貞享三寅年十一月 一温飩蕎麥切其外何ニ不レ寄、火を持歩行商賣仕候儀、一切無用ニ可レ仕候、居ながらの煮賣燒賣ハ不レ苦候、然共火之元隨分念を入レ可レ申候、若相背火を持歩行商賣仕候バ、當人ハ不レ及レ申、家主迄 急度可二申付一者也 十一月
p.0530 寬政十一未年四月 一夜蕎麥切は不レ及レ申、火を仕込み夜中持歩行候類は、何に不レ依、前々被二仰出一候通、一切商ひ致間敷候、〈○中略〉 四月
p.0530 一そばきり喰樣の事、舊記に見へず、上﨟名之記に、そばを女の詞にはあふひと云由みへたり、〈そばの葉はあふひの葉に似たる故也〉又そばのかゆを〈そばのかゆとはそばかきのこと歟〉うすゞみと云事も見へたり、〈色うす黑きゆへなり〉然れバそばきりも、古ありし物なれども、表向などへ出ざる物故、喰樣の法式なども記さゞるなるべし、
p.0530 うどん、蕎麥切、七十年以前は、御旗本調て喰事なし、寬文辰年〈○四年〉けんどん蕎麥切(○○○○○○○)といふ物出來て下々買喰、御旗本衆喰人なし、近年は大身歴々にてけんどんを喰ふ、
p.0530 食物江戸より風味の勝りたるものもあれども、また江戸人の口には適し難く、且適ひ難き計にもあらず、風味の劣りしものも少からず、其内蕎麥切は殊にあしく、其色合もあかみを帶て味ひ宜しからず、只他の加入もの多き故にはあらず、眞の生蕎麥にても、一體の性合よろしからざる故、風味劣れるなり、其上製法もよろしからず、旁江戸人の口には適ひ難し、これ蕎麥は土地の性に應ぜざる故なるべし、
p.0530 蕎麥 發明、世所レ謂多食二蕎麥切一則動二風氣一、若食二蕎麥切一而浴レ湯必卒中厥倒、或蕎麥性温、多食發二廱瘍毒一、予意疑レ之、蕎麥性平而微寒降レ氣、寬レ腸消レ滯、則希食レ之、何有二動レ風之理一乎、毎食レ之豈啻動レ風哉、必損二傷腸胃一耳、 若脾胃虚寒之人强食レ之、則大脱二元氣一、不レ待二風氣一而厥倒卒死、剩浴湯漏レ氣、彌至二不起之廢一矣、諸本草倶不レ言二性温一、直指方曰、治二一切腫毒癰疽發背及瘡頭黑凹一、呉瑞曰、治二小兒丹毒赤腫熱瘡一、然則不レ發二癰毒一者可レ知焉、予常試レ之、人既醉飽後餘食不レ耐、惟食二蕎麥切二三碗一則下レ氣推レ食、開レ胃實レ腸、送レ舊迎レ新而可也、或曰、蕎粉能逐レ疝、故爲二治疝第一之藥一、此亦降レ氣、寬レ腸煉レ滯之理、若過食發レ疝者尚可二速治一而已、
p.0531 蕎麥切 多食二蕎麥一、同食二西瓜一、則煩悶有二至レ死者一、但先二西瓜一後二蕎麥一則不レ害、蓋西瓜者、水而速下、故遁二合食之難一矣、蕎粉大黄末二味用能治二便毒腫痛一、此方以爲二家秘一、蓋大瀉下、如二脾胃虚寒者一不レ可レ服、又云、多食二蕎麥一浴レ湯則食傷至レ死、
p.0531 方俗、河漏麵必用二蘿蔔汁一、宋周密癸辛雜識云、今成都麵店中呼二蘿蔔一爲二葖子一、爾雅曰、葖蘿菔也、蓋其性能消レ食、解二麵毒一、然則非レ可三獨用二於蕎麥一也、
p.0531 むかしは、蕎麥振舞の跡には、かならず角きりがくの豆腐を、味噌に煮て出せしが、近頃はなし、豆腐は蕎麥の毒をけすといへり、
p.0531 中柴氏の老人の話に、蕎麥麪を饗さんとて客をうけ、既に蕎麥糸の如く是を大釜に入てゆでさするに、一すぢものこらず、にごり湯ととけて形なし、こはいかにとおどろき水をかへて又ゆでさするに、そば湯と蕩しゆへ、是非なく客方へことはりをたて、飯を出し、翌日よくあらたむるに、其朝荒海布を多くたきたる鍋となり、予〈○多田義俊〉此話を耳にたもち、そのゝち六條の人、したゝかそばきりを過食して、腹こはくいたみ甚し、予醫人ならずといへ共、其席にて見るに忍びず、荒海布をせんじさせて用ひければ、腹痛たちまちに治したり、古人のはじめて藥の能毒を知るもかゝる事なるべし、荒海布そばを消の能は、諸の本草にも見へず、錢を苣葉にまきて嚙はふつ〳〵ときれ、刃物をとうきびのからにて秉(ネタバ)をあはせて切れば、いかなる梅干も核ともに輪 切になる類、各工夫して仕出したるにはあらじ、思ひよらぬ事が始となりたるなるべし、古人のなせし事は、後世のための故事となるも亦その如し、
p.0532 蕎麥切頌 二竹堂 むかしは蕎麥の花の解つくりて、先はその名のひゞきより、そばにそひ寐の花もさかば、色すこし黑からんにもと、あだなる言葉の色にめでしも、今はその花の實をほめて、切といふ字をそへたらんには、あつはれ武士の喰物にして、あま茶の男はかく事も得ざらん、さてこそ先祖ばせをの翁も、我家の俳諧の都にうつらぬは、そば切の汁のあまさにもしるべし、山葵のからみのへつらへるにやとは、俳諧のみにもあらず、蕎麥切のみにもあらず、儒佛一貫の風味をいへるならん、しかも文道の頌をいへば、白紙が文集には、その花を詠じ、李公が本艸には、その實を稱す、されど我朝の歌人達は、大かた都そだちなれば、蕎麥切の歌はなきとやらん、さるを西行の心には、秀衡が馳走のそばの歌を、其世の撰集にえらばれずとて、うらみて道より歸られしとや、これらは莊子などの寓言に似たれど、今の風雅のへつらへる人を云らん、そも〳〵蕎麥切の旗下には、一將を得て万夫の勇ありとや、鎧の袖もさくらさく花鰹(○○)を始として、陳皮(○○)の六郞も、唐辛(○○)の入道も、栗姜(○○)を二手にわけ、本より大根(○○)の下知をまつに、木曾は雪吹の頰をそぐよりもはげしく、伊吹は山おろしの鼻をもぐに殊ならず、しかるを海苔(○○)といふ物の、能登の國には黑のりといひ、伊勢の國には靑のりといひ、其外國々の海苔はあれど、すはといふ時の間にあはねば、ある時もあり、なき時もあるべし、爰に葷(ヒトモジ/○)といふ物は、源氏の品定にも出ながら、梵網の戒經にはきらはれて、あれの是のと名にたちしより、春はあさつきとも、かりきとも、冬はねぎとも、ねぶかとも、四季おり〳〵の名をかふれども、表むきには名をだによばず、かの物はなどいひあへれば、久米の皿山に一城をかまへて、懇望の人にはその香を發す、いはゞ孔明が草盧の名をかくして、その字も艸冠に軍 とはかけり、誠にさばかり群臣をしたがへて、漢の高祖の文武にもおとらねど、我も陸機が頌にならひて、今は蕎麥切の德をほむる也、
p.0533 林恕一名春勝〈○中略〉 續日本紀、養老六年七月、勸二課天下一、種二樹晩禾蕎麥一、繇二是言一、則世啖二蕎麪一也尚矣、意者當時獨給二農食一耳、其上下通用レ之、製殊極二精巧一、以代二珍饌滋味一者、蓋始二于鞬櫜以來一、春齋戲答レ惡二煙酒一文曰、近歳多下嗜二蕎麥麵一者上、盛レ器成レ堆、放飯流歠、張レ口脹レ臉、滿レ腹擁レ喉、更二十餘椀一、果然不レ厭、非二消麵蟲一、則不レ及レ此乎、蓋是田舍野人之食也、然候伯之席、文雅之筵、往往以レ是爲二頓點一、流俗之化、無二奈之何一、煙酒之行、既五十餘年、蕎麵之行、殆三十年、共是雖レ無レ益二於人一、亦無レ害者必矣、
p.0533 謝三坂倉之輔惠二月洲別業蕎麥一 吾聞三五良夜快霽秋、蕎麥花多結レ子稠、物理相感不レ可レ測、脆艸攀レ桂更風流、今年秋光徧二海内一、東邑西村處々收、矧又明月之洲別天地、千畦萬畛玉露浮、野性最嗜蕎絲麪、屈芰曾棗不レ足レ儔、紅篩二蠻椒一點二黲雲一、白擦二蘿蔔一滿二烏甌一、一盌々々又一盌、老餐依然氣食レ牛、欣爾從來同二斯嗜一、秦越人棄腹胥猶、遙念三寒厨乏二供給一、簸二颺新物一煩二惠投一、即今殘臘春風近、幻影迎レ歳添二屋籌一、願駕二蘭舟一臨二墨水一、快哉亭上賦二重遊一、〈月洲村在二墨江西南若干歩一有レ亭名二快哉一、〉
p.0533 廣澤〈○細井〉酒を嗜ずといへども、食品は酒人のごとし、淡泊を好む、敢て膏梁滋味を好まず、然れども松魚のさしみを好みて食し、河漏を常に嗜て喰ふ事絶へず、信州上州の人書を需るものあれば、潤筆必ず蕎麥を以てする故、蕎麥數斗を貯ふ、三日に必一度は河漏を用るなり、鷄卵のふは〳〵などに、燒鹽或は雲丹を以爲二鹽梅一、
p.0533 ある人橘千蔭に標榜(がく)を書てよとこへりしが、日をへて後せうそこして、河漏(そばきり)をおくりければ、千蔭がそのかへしに、 さらしなや、寒さらしなの、名にしおふ、おばすてならぬ、そばきりを、しばらく見ねば、わが心、なぐさめかねつ、きのふしも、寺へまうづる、日なれども、ひるのあつさに、たへかねて、夕さりつがた、いでゆきて、寺にいたれば腹もはや、むなしくなりて、かへさには、人しげからぬ、茶づけやへ、たちもよらんと、おもへども、天王すゞみ、金毘羅の、腕のほりもの、まろはだか、ゐならびをれば、おそろしみ、たちもよられず、衣手の、ひだるき腹を、かゝへつゝ、かへりて見れば、おもほえず、おやつこさまの、ぢい君より、寒さらしな(○○○○○)をぞ、たまはると、きくにこゝろも、うきたちて、やがててうじて、五六はい、たゞ夢のごとかきこみて、くへばくふほど、そのあぢの、世にたぐひなく、おぼえつゝ、やゝ人ここち、つきてのち、御せうそこをひらき見て、かのまがいほの、目鼻をと、のたまふことの、ねもごろさ、それかゝんこと、そばきりを、かきこむよりも、いとやすし、御廬の名の、まがいほの、まがりなりにも、そばきりの、きり〳〵書て、たてまつるべし、
p.0534 桔梗屋於園 安永の頃、東海道藤澤宿に桔梗屋といへる邸家あり、爰に園といへる婢女ありけり、同國一の宮といへる處の農夫の子也、生質蕎麥切をこのみて、食する事おびたゞし、徒然草に見えたる、丹波の栗くひ娘の如くなり、米の飯麥飯などは嫌ひて食ず、唯蕎麥をもつて常の食とす、且蕎麥切を制る事、上手にして奇妙なり、かゝる異物なれば、縁うすくて夫なし、十八歳の春より風と此桔梗屋へ給事(はうこう)に來りけるが、爰に相模の國大山の石尊とて、大己貴の命を祭りたる山あり、六月の始より七月の末までは、參詣の人おびたゞしく、殊に江戸人おほく登山しけるにぞ、道中の邸家も大いに繁昌して賑しかりける、いつしか這園が蕎麥を上手に制る事名高くなりて、江戸人おほく這家にやどり、園に蕎麥を制させて、喰ける事流行けり、園また蕎麥をしひすゝむる事上手にて、客人一椀くひ終るとき、園はるか這方よりまた一椀の蕎麥を投こみける、其蕎麥切あやまた ず、旅人のまへなる椀の中へ落入こと奇妙なり、十人二十人の客にても、蕎麥を强侑るもの、園ただ一人にて、四方八方の客人のひかへたる椀の中へ投いるゝに、一ツとして把外しほかに落る事なく、悉く椀の中に入て、いさゝかも疊の上などへ溢るゝ事なし、よく鍛錬したる者なり、たゞし園にかぎらず、相模の國は、殊に蕎麥を好む風俗にて、いづれの鄕里の女にてもよし、蕎麥きりを客の椀中へなげいるゝ事を上手にす、別て這園は殊に上手にて、然も蕎麥を制るに大いに味ひよろしく、江戸も又他國にまさりて、蕎麥を好ところなれば、這桔梗屋の園が事を聞つたへ、故意たづねて這家にとまり、蕎麥を制せて夕餉の代となし、園が給事にて投こまるゝを面白がりて、おの〳〵競ひて、桔梗屋へやどりけるにぞ、太甚はんじやうして、外々の歇家(やどや)一人も客なきときも、這桔梗屋は五十人六十人も止宿客ありしとぞ、邸家のあるじも這園を家の福鼠と稱して、よろづ心を用ひて、仕ひけり、斯の如く繁昌する事八九年、いつしか這家の妻妬忌する事おこりて、園にいとまをつかはしけり、是より後旅人の宿止も些くなりて、不繁昌となりけるにぞ、再般在鄕をさがして蕎麥を上巧に制し、上手になげ入て給事する女を抱けれども、一向嚮のごとくは流行ざりし、
p.0535 大酒大食の會 文化十四年丁丑三月廿三日、兩國柳橋萬屋八郞兵衞方にて、大酒大食の會興行、連中の内稀人の分書拔、〈○中略〉 蕎麥組〈各二八中平盛尤上そば〉 一五十七盃 〈新吉原〉桐屋總左衞門〈四十二〉 一四十九盃 〈浅草駒形〉鍵屋長介〈四十五〉 一六十三盃 〈池の端仲町〉山口屋吉兵衞〈三十八〉 一三十六盃 〈神田明神下〉肴屋新八〈二十八〉 一四十三盃 〈下谷〉藩中之人〈五十三〉 一八寸重箱にて九盃〈豆腐汁三盃〉 〈小松川〉吉左衞門〈七十七〉
p.0536 鶴人、さやうさそれも厶りヤス、江戸でまた引越に蕎麥を配るのは、どふいふ訣でありヤ正ね、千長、アリヤ訣もなく手輕にいくから、初ツたことで厶りヤ正、万松、さやうさ二八をニツ三十二文で間に合から、全く其訣でありヤスのさ、イヤ蕎麥といへば、此地のそば屋に、おだ卷むしといふ、看板がありやすが、アリヤ何でありやすかね、鶴人、玉子蒸のしつぽこのことでありやす、いろ〳〵な名を書ヤスが、皆な似たやうなもので厶りヤス、
p.0536 宿替引越の節、上方の宿茶とて、附木等を配ることなく、江戸は悉く蕎麥を配ること也、蕎麥やもよく心得て、附合は何軒、大家〈家主〉はどこそこと皆配りて後、其代いくら〳〵と取に來る、誠に無雜作なり、奉公人の新判をもて來る者にも蕎麥にて濟也、こちより親元へ判取にやる、是にも蕎麥也、目出度につけ悲しきに付け、皆そばにて仕來りとはなしけり、是等馴れてはをかしからね共、始の内は獨笑すること也、○
p.0536 麩(フ)
p.0536 麩(フ)
p.0536 麩(フ)
p.0536 ふ 麪筋(○○)をよぶは、麩をもて作るがゆゑ也、
p.0536 小麥屑皮也、〈麩之言、膚也、屑小麥則其及可二飤 一、大麥之皮不レ可二食用一、故無レ名、〉从レ麥夫聲、〈甫無切、五部、〉
p.0536 麩 處々造レ之、然西洞院東四條通河棚之製造爲レ勝、近世糟藏而送二他邦一、其所レ到是稱二 京麩一而專賞レ之、凡釀造物專依二水之善惡一而有二麤惡一者乎、
p.0537 麪筋〈俗稱レ不〉 集解、用レ麩和レ水入二鹽少許一、用レ手揉レ之數回、作二餅子一復揉レ之、或以レ脚躡 取二去滓殻一、而浸二淸水一作二麪筋一、故俗稱レ麩、近世忌二以レ脚躡一而用レ手揉レ之、此供二上饌一之故也、一種有下用二麪粉一而造者上、用二好白麪粉一入二鹽少許一煉レ水爲レ餅、以レ手揉二之水中一者數回、或杵レ之令レ堅而投レ水、則如二舊綿之敗一、復合レ一以レ手揉合作二麪筋一、其水底之遺泥取出曝乾作二漿粉一、凡麥皮之麪筋、麪之麪筋倶佳、用二冷水淸澄者一浸二于漆器一、則肌滑成レ團而美也、食レ之調二酒漿乾鰹汁等一而煮熟、又和二鳥魚羹一、或炙食、或油煎食倶美味、以爲二上饌一、僧家精膳亦最用レ之、京師市上造成者爲二上品一、江都市上亦造以レ之、或家々新造爭レ美亦太佳也、 漿麩(○○)〈訓二之也宇不一〉 集解、即漿粉也、綱目謂二麥粉一也、麪洗觔澄二出漿粉一、今本邦取二麪筋一、而後澄取二水底泥一曝乾作レ粉、即是漿粉也、麩之麪筋者、漿粉少而色不二純白一、味亦不レ佳、麪之麪筋者、漿粉多而色白味佳、此作レ糊作二燒餅一、俗稱二不乃燒一、氣味甘酸、微凉無レ毒、然多食難二消化一、令二人泄瀉一、或和二椒糖未醬一而食、最爲二下品一、糊者用二漿粉一和レ水入レ釜、慢火煉成レ糊、冷則凍結、人毎用レ之接レ紙併レ紙、作二書畫屛障之褙一、褙匠最用レ之、以二經年之腐糊一爲レ珍矣、近代好二瘍科一而治レ人、製二鳥龍膏一取レ効者多、
p.0537 麪(ふ)筋〈俗云不、俗用二麩字一非也、麩小麥屑皮也、〉 本綱麪筋以二麩與一レ麪水中揉洗而成者、古人罕レ知、今爲二素食要物一煮食甚良、〈甘涼〉解レ熱和レ中、勞熱人宜二煮食一レ之、今人多以レ油炒則性熱矣、又生嚼二白麪一成レ筋、可レ粘二禽蟲一也、 按麪筋今多造レ之、用二麪麩一和レ水入二鹽少許一、盛レ桶以レ足踏揉也、數百回取二去麩皮一及成如レ黐硬粘、又有二以レ麪造者一、京師所レ造者最良、凡此物雖レ無レ毒性粘韌、而老人小兒無レ齒者難二噛斷一、然則入二脾胃一消化不レ速、脾胃弱者不レ可レ食、
p.0538 麩師 昆若ともにつくる家もあり、むかしは麩屋町に多住すとかや、
p.0538 江府名物并近國近在土産 常盤麩 芝神明前 越後や五兵衞 さま〴〵の花がた有、足にてふまず、尤上品の麩也、 伊皿子麩 芝いさらご家々にあり 當所古來よりの名物也 縮緬麩 日本橋品川町 ふや三十郞 粟麩 神田町かぢ町二丁目 するがや長兵衞
p.0538 名産麩〈此邊(津島)の町々にて製するを、津島麩と稱して名産とす、他の製に增りて、尤雅味の上品なり、〉
p.0538 水藩の檜山氏が慶安五〈辰〉年四月十五日nan同甘二日まで、〈○註略〉水府の御宮別當なる東叡山中吉祥院が、江戸nan水戸〈江〉下りたりし時分の、賄料請取品直段書付、并入用をしるしたるものを見せたるが、其直段の下直なる事おどろく計也、〈○中略〉 一麩 百四拾五 代壹文九匁三分
p.0538 車力賃麩類煮豆直段引下ゲ方書上 一雪輪麩蒸相良麩 〈是迄壹本ニ付賣直段錢六拾貳文引下ゲ錢五拾九文〉 一丸麩簾麩 〈同壹本ニ付賣直段錢拾五文引下ゲ同拾八文〉 一相良麩 〈同壹本ニ付賣直段錢四拾文引下ゲ同三拾八文〉 一結麩つと麩 〈是迄賣直段拾二付錢貳拾文引下ゲ錢拾九文〉 一大縮緬麩蛤麩小角麩俵麩粟麩唐黍麩 〈是迄賣直段拾ニ付錢五拾文引下ゲ同四拾八文○中略〉 右者此度錢相場引上り候ニ付、前書之通引下ゲ方取調奉レ伺候、御聞濟之上、組々一統總逹可レ仕候、此段申上候、以上、 寅八月十三日 〈諸色掛十番組麻布谷町〉名主 太一郞印 〈靑山久保町〉同 佐太郞印