p.0655 怠ハ、オコタルト云ヒ、又懈怠、緩怠、怠慢、怠惰或ハ油斷(ユダン)トモ云ヘリ、常ニ勤勞セズシテ、事業等ヲ遲滯スルヲ謂フナリ、
p.0655 怠〈音殆 オコタル〉 懈〈古隘反オコタル〉 〈或ヲコタル〉
p.0655 懈〈オコタル 夙夜匪レ懈〉 慢 怠 惰〈已上同亦作レ隋嬾也、對惰、〉
p.0655 怠慢
p.0655 緩怠
p.0655 懈怠 懈緩 懈倦 懈退 懈嬾
p.0655 緩怠(クワンタイ)
p.0655 怠(ヲコタル) 慢(同) 懈(亅) 怠慢(タイマン) 怠隋(タイダ) 緩怠(クワンタイ)
p.0655 懈怠(ケタイ)
p.0655 おこたる 怠慢をいふ、起垂め義、興起感發なきの意あるべし、緩もよめり、疾の少しく愈るをも、心ちおこたるなど見えたり、
p.0655 油斷(○○)
p.0655 油斷(ユタン)〈俗謂二怠慢一爲二油斷一、出二 槃經一、〉 弓斷(同)〈事見二北越軍談一〉
p.0655 ゑぼしおり 〈大名〉いそげ、ゑい、〈六〉はあ、〈大名〉もどつたか、〈六〉いやまだ御まへを、さりもしませぬ、〈大名〉ゆだんのさせまひといふ事ぢや、
p.0656 爾大長谷王子、〈○雄略〉當時童男、卽聞二此事一〈○安康暴崩〉以、慷慨忿怒、乃到二其兄黑日子王之許一曰、人取二天皇一、爲二那何一、然其黑日子王、不レ驚而有二怠緩之心一、於レ是大長谷王詈二其兄一、言下一爲二天皇一、一爲二兄弟一、何無二恃心一、聞レ殺二其兄一、不レ驚而怠乎上、卽握二其衿一控出、拔レ刀打殺、亦到二其兄白日子王一而、吿狀如レ前、緩亦如二黑日子王一、卽握二其衿一以引率來、到二小治田一、掘レ穴而隨レ立埋者、至二埋レ腰時一、兩目走拔而死、
p.0656 八年七月己丑朔、大派王謂二豐浦大臣一〈○蘇我蝦夷〉曰、群卿及百寮、朝參已懈、自今以後、卯始朝之、已後退之、因以レ鐘爲レ節、然大臣不レ從、
p.0656 大化二年三月辛巳、詔二東國朝集使等一曰、〈○中略〉其巨勢德禰臣所レ犯者、於一百姓中一毎戸朮索、仍悔二還物一、而不二盡與一、復取二田部之馬一、〈○中略〉其紀麻利耆施臣所レ犯者、使二人於朝倉君井上君二人之所一、而牽二來其馬一視之、復使二朝倉君作一レ刀、復得二朝倉君之弓布一、復以二國造所レ送兵代之物不明一、還レ主妄傳二國造一、復於二所レ任之國一被二他偷一レ刀、復於二倭國一被二他偸一レ刀、是其紀臣、其介三輪君大口、河邊臣百依等過也、〈○中略〉以レ此觀之、紀麻利耆拖臣、巨勢德禰臣穗積咋臣、汝等三人所二怠拙一也、念斯違レ詔、豈不二勞情一、〈○下略〉
p.0656 あつとしの少將は、男子佐理大貳、よのてかきの上手、〈○中略〉御心ばへぞ懈怠し、すこし如泥人とも聞えつべくおはせし、故中關白殿東三條つくらせ給ひて、御障子にうたゑどもかゝせ給ひし色紙形を、この大貳にかけとのたまはするを、いたく人さはがしからぬほどにまいりて、かゝれなばよかりぬべかりけるに、關白殿わたらせ給ひて、上達部、殿上人など、さるべき人々あまた參りつどひてのちに、日たかくまたれたてまつりて、まいり給へりければ、すこしこつなくおぼしめさるれど、さりとてあるべき事ならねば、かきてまかりいで給ふに、女のさうぞくかづけさせ給ふを、さしてもありぬべくおぼさるれど、すつべき事ならねば、そこらの人の 中をわけいでられけるなん、なをけだいの失錯なりける、のどかなるけさ、とくもうちまいりて、かゝれたらましかば、かゝらましやはとぞ、見る人もおもひ、みづからもおぼしたりける、むげのそのみちのなべてのげらうなどにこそ、かうやうなる事はせさせ給はめと、殿をもそしり申人ありけり、
p.0657 氏淸〈○山名〉ヲ御退治有ベキトテ、樣々ノ御内談共有リケルヲ、奧州傳へ聞キ給テ思ハレケルハ、事未定ザルサキニ、朝敵ト成テハ叶ベカラズ、暫ク謀リ事共ノ定ラン程、先日ノ科ヲ謝セン爲ニ、緩怠ノ儀ヲ存ゼズ、短慮ノ狀コソ不思儀ナレ、其詞云、所詮諸方ノ讒訴ナリ、一向御免ヲ蒙バ、畏リ存ベキ由、再三歎申サレケレバ、御返事ニハ不儀繁多ナリト云ヘドモ、先日ノ病ト稱シテ、宇治へ成申ナガラ、參ゼズシテ還御成シ、緩怠常ノ篇ニ絶タリ、然トイヘドモ、去難ク歎申上バ、虚病ヲ構ザル由ヲ、吿文ヲ書、進上申、サレバ御免アルベキ由、仰下サレケレバ、京都ハ御由斷有リケル庭ニ、同〈○明德二年〉十二月十九日暮程ニ、丹後ノ國ヨリ古山十郎滿藤ガ代官、早馬ヲ立申ケルハ、山名ノ播磨守コソ、當國ノ寺社本所領ヲ、京方ノ御代官ヲ追出シ、去十七日ヨリ、自國他國ノ大勢共馳寄テ、ヒタスラ合戰ノ用意ノミナラズ、京都へ責上ルベキ企現形シ候、御心得候ベキ由ヲゾ申タリケル、
p.0657 天正八年八月十二日、信長公、京より宇治之橋を御覽、御舟に而直に大坂へ御成、爰にて佐久間右衞門かたへ御折檻之條、御自筆にて被二仰遣一趣、
覺
一父子五グ年在城之内に、善惡之働無レ之段、世間之不審無二餘儀一、我々も思あたり、言葉にも難レ述事、
一此心持之推量、大坂大敵と存、武篇にも不レ構、調儀調略道にも不二立入一、たゞ居城之取出を丈夫にかまへ、幾年も送候へば、彼相手長袖之事候間、行々ハ信長以二威光一可レ退候條、去て加二遠慮一候歟、但 武者道之儀、可レ爲二各別一、か樣之折節、勝まけを令二分別一、遂二一戰一者、信長ため、且父子ため、諸卒苦勞をも遁之、誠可レ爲二本意一ニ、一篇存詰、分別もなく未練無レ疑事、
一丹波國日向守〈○明智光秀〉働、天下之面目をほどこし候、次羽柴藤吉郎數ケ國無二比類一、然而池田勝三郎小身といひ、程なく花態申付、是又天下之覺を取、以二爰我心を一、發二一廉之働一可レ在之事、
一柴田修理亮、右働聞二及一國一を乍二存知一、天下之取沙汰迷惑に付て、此春至二賀州一一國平均申付事、
一武篇道ふがひなきにおいては、以二屬詫一調略をも仕相、たらはぬ所をば我等にきかせ相濟之處、五ケ年一度も不二申越一の儀由斷曲事之事〈○中略〉
一此上はいつかたの敵をたいらげ、會稽を雪、一度致二歸參一、又は討死する物かの事、
一父子かしらをこそげ、高野の栖を遂、以連々赦免可レ然哉事、
右數年之内、一廉無レ働者、未練子細、今度於二保田一思當候樣、申二付天下一、信長に口答申輩、前代始候條、以レ爰可レ致、當末二ケ條於レ無二請者一、二度天下之赦免、有レ之間敷者也、
天正八年八月日
如レ此御自筆を以て遊し、佐久間右衞門父子かたへ、楠木長安、宮内卿法印、中野又兵衞三人を以て、遠國へ可二退出一趣被二仰出一、取物も不二取敢一、高野山へ被レ上候、爰にも不レ可レ叶レ旨、御諚に付て高野を立出、紀伊州熊野之奧、足に任せて逐電也、然間譜代之下人に見捨られ、かちはだしにて、己と草履を取計にて、見る目も哀成有樣也、
p.0658 東照宮何れの時の軍にや、久世三四郎宣廣、坂部三十郎廣勝、二人を見物に出し給ふ、坂部は勇める色あり、久世は氣色甚惡う見えしかば、側より笑ふ人の有しに、東照宮、坂部は天性の剛の者なり、久世が及ぶべきにあらず、されども久世は人に劣て、生甲斐なしと思ひ定めたる者也、其故に務てはげむゆゑ、心を勞して其けしき顯れて見ゆ、今見よ、久也は坂部よりも敵近 く進み行て見て歸らむ物をと仰ける處に、二人歸り參りたるが、果して御詞の如くなりけり、東照宮坂部は生得の勇を賴みにして懈あり、久世は勵むをもて味ひ深しと、感ぜさせ給ひけり、