http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1387 臺灣ハ、一ニタカサゴト稱シ、琉球ノ西南ニ在リ、面積凡ソ二千三百十一方里、其地勢ハ、南北ニ長ク、東西ニ狹ク、山脈ハ國ノ中央ヨリ、稍々東ニ偏シテ、縱ニ南北ニ走リ、南部ニ於テ特ニ高峻ヲ極メ、其東面ハ急激ノ傾斜ヲ以テ海ニ入リ、其西面ハ陂陀タル邱陵ヲ成シ、遂ニ平野ト爲ル、北部ハ之ニ反シ、數多ノ秀峯相錯雜シテ起伏スルヲ見ル、 本島原ト蠻夷ノ居ル所、支那人ハ荒服ヲ以テ之ヲ待チ、皇朝亦之ヲ聲外ニ委ス、足利幕府ノ季世、我國人黨ヲ作テ、支那沿海ヲ剽掠スルモノアリ、竊ニ本島ニ據リテ根基ト爲ス、是ヲ我國人ガ其土ヲ占有シタルノ始ト爲ス、後和蘭人來リテ本島ヲ我國人ニ假リ、遂ニ己ガ有ト http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1388 爲ス、既ニシテ明朝ノ亡ブルヤ、鄭成功明祚ヲ恢復センコトヲ謀リテ、臺灣ニ據ル、我貞享年中、成功ノ孫奏舍ノ時ニ至リ、遂ニ清ニ降ル、是ニ於テ清國始メテ官ヲ置テ本島ヲ治セシガ明治二十七八年戰役ヲ經テ本島全ク我版圖ニ歸セリ、

名稱

〔革夷通商考〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1388 大寃(タイワン)、又三名有、臺灣、東寧、或ハタカサゴトモ云フ、 此國根本ノ名ハ、タカサゴ也、日本ノ人高砂ノ文字ヲ假用ユ、或ハ大寃、臺灣ト書、此ハ唐人ノ名ケタル也、國姓爺居住已後ハ、國號ヲ東寧ト改ム、此島中華之京都ヨリ南ニ當レルニ、東寧ト號スル事、國姓爺生國日本ナル故ニ、生國ヲ慕ノ心ニヤト云、

〔萬國夢物語〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1388 海ヲ踰テ東大寃(タイワン)ノ島ニ到ル、此國三ツノ名有、臺灣(ソルモサ)、東寧(タカサゴ)、大寃也、

〔野史〕

〈二百八十九外國〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1388 臺灣、〈臺灣鄭氏紀事、萬國新話、續萬國新話讀爲曾以母伎、〉大寃、〈唐土歴代沿革、國舊章録、〉東番、〈紀事引明史、東西洋考、〉或臺灣、〈紀事引郡國利病書〉東寧、〈續萬國新話〉塔伽、〈沿革圖伽作曷〉沙古、〈紀事沿革圖〉 鄭氏紀事引明史曰、萬暦季年、紅毛蕃泊舟、於是因事耕鑿設闤闠稱臺灣焉、川口長孺按、蕃人呼臺灣蒲流茂邪、則臺灣非紅毛所一レ名也、蓋明人舊呼爲東番或土番、故知台灣臺灣皆一音之轉耳、非別有意義也、

〔臺灣形勢一斑〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1388 名稱 臺灣ハ、往古支那ニ於テ、東蕃ト呼來リシ地ニシテ、宋代ニハ昆舍那ト呼ビ、蠻民ノ住スル島嶼トシ、明代ニ至リテ、支那人之ニ往來シ、外國ト密商スルニ及ビ、北港或ハペキ〈アン〉デト云ヒ、古代日本航海者ノ高砂〈培加沙古(タカサコ)トモ書ナリ〉ト云ヒ、支那人ノ臺灣ト云フハ同ジク安平港ノ、仍島嶼ニシテ、未ダ本島ト連續セザリシ時ノ名ニシテ、全島ノ名ニ非ザリシナリ、西洋人ノ本島ヲフ〈オル〉モサ〈美島ノ意〉ト呼ブハ葡萄牙人ノ名ケタルヨリ始マレリ、臺灣ヲ全島ノ名トセシハ、康熙二十二年、〈◯我天和三年〉全島始テ清朝ニ屬スルノ時ニアリ、

〔長崎港草〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1389 日本人異國漂流雜記 寛文ノ初メ、長崎稻佐村ノ浦人二人、小舟ニ乘テ五島ヘ行ントテ、沖灘ニテ逆風ニ吹流サレ、大宛(○○)ニ漂ヒ著ス、折節長崎渡海ノ唐船ニ送ラレ歸リヌ、

位置/地勢

〔華夷通商考〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1389 大寃〈◯中略〉 道程、日本ヨリ海上六百四十里、厦門ヨリ百里南也、島ノ長サ日本ノ百二十里アリ、五月已後ノ南風ヲ候テ來ル也、

〔萬國夢物語〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1389 海ヲ踰テ東大寃(タイワン)ノ島ニ到ル、〈◯中略〉方角、支那ノ東南海中ニ在テ、琉球國ヨリ西、日本九州ヨリ西南、厦門ヨリ百里許東ノ海中ナリ、島ノ長サ凡百四五十里也、五月後ノ南風ヲ候フテ船來ル也、〈◯中略〉北極出地廿二三度許、夏至ノ前後ニハ、影南ニサス、日本ヨリ海上六百四五十里許也、

〔臺灣紀略〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1389 形勢 臺灣、爲海中孤島、地在東隅、形以彎弓、中爲臺灣市、市以外皆海、由上而北、至淡水鷄籠城界、與福建相近其東則大琉球也、離灣稍遠、由下而南、至加洛堂郞橋止、其西則小琉球也、與東港相對、由中而入、一望平原三十餘里、層巒聳翠、樹木蓊茂、即臺灣澚之所也、而澚外復有沙提、名爲崑身、自大崑身七崑身止、起伏相生、状如龍蛇、復有北線尾、鹿耳門、爲臺灣之門戸、大線頭海翁窟爲臺城之外障、舡之往來由鹿耳、今設官盤騐

〔臺灣形勢一斑〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1389 地位 本島ハ支那海上ノ一大島ニシテ、東北ニハ琉球ヲ控ヘ、西南ニハ南支那ノ福州ニ對シテ黄海ノ南ヲ扼シ、南方ハ遙カニフイリッピン諸島ト相對ス、 經緯度 

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1390 本島ハ北緯二十一度五十四分三ヨリ、二十五度十八分五ニ至リ、東經百二十度七分五ヨリ、百二十二度十五分ニ至ル、澎湖島ハ更ニ西ニ離レ、其西端ノ半坪島、及高島ノ二島ハ、東經百十九度二十分ニ位ス、 地勢 本島ノ地勢ハ、南北ニ長ク、東西ニ狹ク、中央ヨリ稍東ニ偏シテ、略南北ノ方向ニ走レル一條ノ山嶺アリ、此山脈ハ本島ノ中部ヨリ南部ニ著シク、九千尺ヨリ一万尺以上ノ峯巒ニシテ、之ヨリ東ハ急激ノ傾斜ヲ以テ海ニ入リ、西ハ陂陀タル邱陵ヲナシテ平野ニ沒セリ、北部ハ之ニ反シ、山嶽ノ位置此ノ如ク整然タラズシテ、數多ノ秀峯錯雜シテ起伏シ、且邱陵多シ、 面積 凡二千三百十一方里八六〈九州本島ヨリ小ナルコト四十二方里◯中略〉

氣候

〔華夷通商考〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1390 大寃〈◯中略〉 四季、四五月ノ比ハ大キニ熱セリ、二八月ノ比ハ日本ノ六七月時分ノ如シ、此國ノ十一月十二月ノ比ハ、日本ノ八九月比ニ同ジ、雪霜降コトナキ國也、一年ニ二度ヅヽ田作スル所也、

道路

〔臺灣形勢一斑〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1390 道路 本島ノ道路ハ、大路ト稱スルモノ三アリト稱ス、其一ハ台北ヨリ彰化、嘉義ヲ經テ、台南及鳳山ニ至リ、其一ハ鳳山ヨリ東港ヲ經テ台東ニ至リ、其一ハ台北ヨリ基隆ヲ經テ、蛤仔灘及蘇澳ニ至ルモノトス、其他路線固ヨリ少ナカラズト雖、皆狹隘ニシテ不完全ヲ極メ、或ハ隴頭ヲ歩シ、河川ニハ概ネ橋梁ナクシテ、洪水汎濫ノ際ハ、數日通行ヲ遮斷スルコトアリ、僅カニ人ノ行旅ヲ許スト雖、貨物ノ運搬ニ差支フルコト甚シク、交通ノ點ヨリ觀察セバ、殆ンド道路ナシト云フモ過言ニアラズ、故ニ本島ノ經營ヲ圖ランニハ、改メテ之ガ開鑿ヲ爲シ、以テ交通ノ便ヲ開カザルベカラ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1391 ズ、

建置沿革

〔華夷通商考〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1391 大寃(タイワン)〈◯中略〉 島國也、此所古ハ主ナキ島ナリシニ、何ノ時ヨリカ、阿蘭陀人日本ヘ渡海ノ便リニ、此島ヲ押領シテ、城廓ヲ構ヘ住シテ、日本其外國々ヘ此所ヨリ渡海セシヲ、日本寛文元年ノ比、國姓爺厦門ヨリ此島ヲ責落シ、ヲランダ人ヲ追拂、國中ヲ治メ、城廓ヲ改メ築キ居住セリ、其子ノ錦舍モ、父ノ遺跡ヲ續ギ、一國ヲ治テ、明朝ノ代再與センコトヲ謀テ、終ニ清朝ニ隨ザリシニ、其子奏舍、日本貞享元年ニ至リテ、清朝ニ降參シテ、國ヲ退キ渡シテ、其身ハ王號ヲ蒙リ、北京ニ居住ス、今此島モ清朝ヨリ守護ヲ置テ仕置スル也、

〔琉球國事略〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1391 異朝の書に見えし琉球國の事 同〈◯明萬暦〉四十四年五月、尚寧其通事蔡廛をして、日本の戰艦五百餘、雞籠、淡水を脅し取りて、閩廣を犯さんとする事を奏す、 元和二年の事也、日本の戰艦鷄籠、淡水を攻取りしといふ事心得られず、鷄籠は一ツには東蕃といふ、今の大清の諸羅縣の北にあり、すなはちこれ臺灣の地なり、淡水洋は呂宋の地に近し、按ずるに、大明萬暦年中に、泉州の人鄭芝龍といふもの、本朝に來りて肥前國松浦郡平戸にとどまり、其後に長崎にうつり住す、平戸老一官といひしはこれなり、ついに我國をさりて、海盜のために推されて、賊首となり、熹宗天啓六年十二月、閩中に入て漳浦の白鎭に據る、これ本朝寛永三年の事也、懷宗崇禎元年九月に、大明に降て終に福建の海防使となさる、これ本朝寛永五年の事なり、初め芝龍我國を去り、塔伽沙古にゆき、居る事一年にして、船よそひして安海にゆくといふ、おもふに日本戰艦雞籠、淡水を脅取といふ事は、鄭芝龍が事をいふ歟、又按ずるに、芝龍大明に降て、海盜を平らげし功によりて、後に太子大師に拜せらる、其子鄭成功は、肥前國

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1392 松浦郡の人、寛永七年の秋、我國をさりて安浦にゆきて、其父にしたがひ、永暦の天子の時、思明州に鎭して延平王に封ぜられ、國姓爺といはれしはこれ也、其後寛文元年塔伽沙古の地を併せて東寧國とあらたむ、すなはち今の臺灣これなり、

〔長崎夜話草〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1392 塔伽沙谷(たかさご)之事〈并〉國姓爺物語 塔伽沙谷(たかさご)は、唐土東南の海中に在島國にて、本は國主もなく、〈◯中略〉いつの比よりか紅毛人住居して、平戸へ渡海の便りとす、則名を臺灣と改め、城墎を築て住居せり、しかるに寛文元辛丑の年、國姓爺福州泉州の軍援兵なふして利を失ひ、臺灣に責入、紅毛を追落し、城墎を押取て住居とす、是より紅毛は咬【G口・留】吧(じゃがたら)に落行て住居す、されば此國姓爺は、父を名は鄭芝龍と云、一官老と稱して、福州の者なりしが、明朝變亂の時に及んで、海島の賊船をかたらひ、韃靼に不屬して呉三桂に通路し、海邊の所々徒黨多しといへ共、味方士卒少きゆへ、急に福建道を討したがへる事あたはず、海島にかくれ居て、時を待て謀略をめぐらし、又は商舶に乘て數々日本の五島、平戸、長崎の間に往來して年を經たり、其比平戸に妻ありて、男子一人産り、又長崎にも妾ありて、男子一人あり、其身はしば〳〵福州へ渡海して、軍旅怠る事なく、屬徒漸く多勢に成て、終に泉州漳州を責取、福建道を始め、福州城を築て居城とし、勢ひ漸く盛にして、十五省を并呑せり、此時に到りて平戸なる妻子をむかふ、其船長崎に入津し、此旨關東へ注進ありて、公けの旨により、平戸の男子十七歳なりしを長崎に送られ、長崎より歸帆す、其母は此時に行ず、後に又行しとかや、此男子後に鄭成功といひ、國姓爺と號せしは是なり、又五島一官といふ者あり、芝龍が舊友にして五島に住居し、領主の寵愛に依て年を送りぬ、其一男子を鄭成功平戸に留め置て友とす、既に鄭成功日本の御免を得て、福州に到るに臨て、五島一官が子をhttp://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001f84b.gif (いさな)ひ住んことをねがひ訟ふ、公けも御憐愍ありて、其心に任すべしとの御事にて、一官が子鄭成功と同じく出船す、則福州城内に入て、鄭成功と一所に

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1393 在て、晝夜坐臥を同ふして遊ぶ事三年、城外四邊の名跡所々見めぐり、近き程南京西湖(せいこ)等にあそばしめんといひて、さま〴〵日ごとの馳走美を盡せりといへども、唯日本をなつかしとおもふ心しきりなりければ、強て暇を乞しに、さま〴〵留められしかど、老親に事よせて終に長崎へかへりぬ、此おのこ日本風俗にあらため、清川氏久右衞門と號し、元祿年中まで存命(なからへ)居て、福建道所所の物語、國姓爺城中のありさま、男女の風俗、四季折節の儀式、城内正朔元三に門戸に松竹を飾り立る事、日本のごとく祝(ことぶ)きしたぐひ、鄭成功日本故郷を慕ふの意深かりしと見えたり、是より今に福閩(ふくみん)の間、正月門松立る所多しと聞傳ふ、偖鄭成功が別腹の弟も長崎にありしを、福州よりむかへもせずして、長崎に居住せしが、後に國姓爺日本へ便船ありて、援兵を乞し時、おのれ行ん事を願ふといへども、公けの許しなくて、つゐに不行、援兵も又ゆるしなくしてむなしく便船は歸され、本朝へ珍貨の音物共も、受給はずしてかへされぬ、此時國姓爺は福建道を平均し、南京淅江(せつかう)までしたがへ、北京の帝都に責上り、北京城を責て、既に勝利を得べかりしが、韃旦の勢は日々に數そひ、味方には援兵なくして、終に敗軍し、福州へ引かへしぬ、呉三桂も雲南貴州の遠境に在て、援兵を出す事あたはず、日本の援兵も叶はねば、都て福州城をも韃旦に責破られ、鄭成功は泉州城へ落行ぬ、此時日本平戸よりむかへし鄭成功の母は、我日本を去て爰に來れるも、子孫の榮華を見んとおもひてなり、今老て此難にあふ事、何の面目在て又爰を去ていづくに往事をせんやといひて、城の樓に登りて自害しつヽ、下なる大河に落入てこそ死にけれ、日本女人のありさまかくの如くなれば、男子の武勇、おしはかりぬと、韃旦の軍勢みな舌をまきけるとかや、國姓爺はしばらく漳州泉州に在しが、かねて覺悟したりければ、厦門といふ島に一城を築て居住す、此島漳州泉州の地を去事甚近く、要害無雙の城地にて、万國への運湊便りよき所なれば、漳州泉州等まで、靼旦責破りしかども、此厦門を責る事不叶、一島みな國姓爺の領とぞ成にける、厦門は凡

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1394 そ其廻り日本の三十里にあまりたる島にて、たかさごに近きゆへ、たかさごを責取て、二島を領地とし、時を待て福建道をも再領し、大明の世を再興せんとおもふ志し深かりければ、厦門の名を改め、思明州と號せしは、明朝を思ふの意なり、又壹灣の名をあらため、東寧(とうねい)と稱せしも、日本を忘れず、故郷を祝きし意とかや、國姓爺智謀無雙の軍將たりし事、長崎人の明清鬪記に委し、眼前見聞し事なれど、これもいまはむかしと成て、知人もなければ、おもひ出るあらましとて、老たるが語りしをしるし侍りぬ、國姓爺は日本寛文六年の比、東寧にて終りぬ、其子錦舍(きんしや)遺跡を續て、なを東寧を治め持て、清朝にしたがはずして在しが、是も死して、其子奏舍(そうしや)なを相續して在しかども、中々父祖には似もせぬ器量にて、十五省に味方なく、呉三桂も死して、遺族もちり〴〵なれば、心ぼそくやおもひけん、清朝に降參し、東寧を開きて北京に到りて、東海王に封ぜられ、廣大の宅地を賜はり、今にありやなしや、飛鳥川の淵瀬は、もろこしもおなじ世のながれにて、常なきを常とす、豈おもはざらんや、

〔臺灣紀略〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1394 沿革 先是北線尾日本番、來此搭寮商、盜賊出沒于其間、爲沿海之患、後紅毛、及荷蘭種、由咖【G口・留】吧來、假其地于日本、遂奄爲己有、築平安赤嵌二城、倚夾板舡爲援戰、而各社士酋聽其約束、設市于安平鎭城外、與商賈貿易、至壬辰年、土民郭懷一反、西王氏召土番、擒之戮子、赤嵌城民被土番讐殺、漸以消索、蓋至此歸紅毛、已三十餘年矣、辛丑年、僞鄭成功敗自長江歸、漂泊無所、土人匂之往、乃發大小船千餘號、遣何斌港由鹿耳門入、潮水忽添數尺、紅毛戰敗、逃入鎭城、堅閉不出鄭兵沿山圍之累月、柴蔬不入、又乏外援、紅毛突圍遁歸、成功因改臺灣僞東都、設一府二縣、僞立府尹及天與萬年二縣、壬寅年五月、成功卒、提督馬信立其胞弟鄭世襲、改號護理、癸卯年、成功之子鄭經、自厦門來、與世襲國、世襲兵屈退歸、經遂嗣位、後經至厦、委翁天祐爲轉運使國政、于是興市肆廟宇、新街

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1395 横街皆其首建也、癸卯年、厦門敗經由銅山灣、改東都東寧省、前後招納内地兵民眷口、以實之、甲寅、經兵入漳泉、委陣永華諮護參軍、留守國政、丁巳年、兵潰、經守厦門、復令劉國軒攻開海澄縣、旋爲大兵恢復、鄭兵潰去十有八九、遣劉國軒、調殘兵澎湖、派殷戸糧、抽壯民兵、致民心離散士卒喪氣、辛酉年、經預立其庶子鄭欽監國、退間于洲、子尾築游觀之地、峻宇雕墻、茂林嘉卉、極島中之華麗、不政務、嬉遊爲樂、未幾經卒、衆憚欽之嚴、迫之縊死、欽妻陳氏、即永華之女、亦登臺自縊、遂立鄭克塽主、年幼、政出多門、福建總督姚啓聖偵知之、密請南征先行、秘劉興傳爲霖約爲内應、事泄爲霖被戮、僞續順公沈瑞、亦以讒誅、〈瑞妻鄭氏、僞禮官鄭斌之女、亦自盡、〉 朝廷允姚總督之奏、命靖海將軍侯施琅提督、與總督姚啓聖、巡撫呉與祚之、康煕二十二年癸亥六月十四日、大師由銅山開駕、十五日、兵入八罩灣、十六日、進澎湖竟大戰日、勝負未決、十七日、舟停八罩灣、十八日、進取虎井桶盤嶼之、〈◯中略〉七月初三日、將軍飛章奏捷、八月初二日、揚旗入灣、文武官僚薙髮迎師、兵不刃、臺灣已歸我版圖矣、〈◯中略〉 建置 大師底定臺灣、設分巡道一員、領一府三縣、臺灣縣居中、轄四坊十五里九街六郷、南爲鳳山縣、自臺灣府起至沙碼碕頭止、共五百三十里、轄六里十四郷二十餘社、過沙碼碕頭山之背呂宋開洋處、其餘則土番負固、稀到城市、今土官加老師統之、北爲諸羅縣、自臺灣府起至雞籠城止、共五千三百三十里、轄四里十四郷四大社、人衆力役尤多、其餘二十四社、至雞籠城而界盡、過此則無路可一レ行、亦無灣可一レ泊、用小艇渉海、猶有十日之程、至直脚宣前面、則人跡不到矣、

〔臺灣府志〕

〈二建置沿革〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1395 臺灣府、古荒服地先是未中國版圖、明宣徳間、太監王三保、〈通志作鄭和〉舟下西洋、因風泊此、嘉靖四十二年、流宼林道乾擾亂邊海、都督兪大猷征之、追及澎湖、道乾遁入臺、大猷偵知港道、紆廻不敢進逼、留偏師澎、時哨鹿耳門外、道乾以臺非久居所、遂恣殺土番、取膏血舟、從

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1396 平鎭二鯤身隙間去占城、〈占城屬廣南、今尚有道乾遺種〉道乾既遁、澎之駐師、亦罷因設巡檢之、既以海天遙阻裁棄天啓元年、漢人顏思齋、爲東洋國甲螺、〈東洋即今日本、甲螺即頭目之類、〉引倭屯于臺、鄭芝龍附之、尋棄去、久之荷蘭紅毛舟、遭颶風此、愛其地居于土番、不可、乃紿之曰、得一牛皮地足矣、多金不惜、遂許之、紅毛剪牛皮縷、周圍圈匝、已數十丈、因築臺灣城〈即安平鎭城〉居之、已復築赤嵌城、〈即紅毛樓〉與相望、設市於城外、而漳泉之商賈集焉、 國朝順治六年庚寅、甲螺郭懷一謀、遂紅毛、事覺被戮、辛丑、鄭芝龍子成功、自江南敗、其勢日蹙、孤軍厦門適甲螺何斌負債逃厦、誘成功臺地、舟至鹿耳門、水忽漲數丈、時大霧駢進、而入紅毛不虞、鄭舟猝至、意天假、手于鄭、以式廓我朔無外之疆域也、荷蘭歸一王、以死拒戰、成功告之、曰、此地先人故物、今珍寳聽而載歸地仍還我、一王知敵、乃率紅毛遁去、成功遂入據之改臺灣安平鎭、赤嵌爲承天府、總名東都、設縣二、曰天興、曰萬年、成功死、子經嗣、改東都東寧、二縣爲二州、設安撫司三、南北路澎湖各一、興市廛、教耕種、漸近中國風土矣、辛酉、經死、子克塽嗣、 康煕二十一年、福建總督姚啓聖、深知虚實、用間諜、陰散其黨、約傳爲霖内應、垂成事洩、爲霖遇害、啓聖仰遵廟算、定策平臺、二十二年、靖海將軍侯施琅統舟師進征、六月、由銅山直抵澎湖八罩澚、取虎井桶盤與、戒軍士妄殺軍士、若水鹹島岸突湧甘泉遂無渇患、一戰而澎湖平、克塽震懾天威、遂籍府庫、納地歸誠、二十三年、廷議設府一臺灣、屬福建、布政使司領縣三附郭曰壹灣、外二縣曰鳳山諸羅、雍正元年、巡察呉達禮黄叔璥摺奏割諸羅虎尾溪以北設縣一、奉旨兪允賜名曰彰化、今領縣四、

〔臺灣府志〕

〈二十藝文〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1396 東寧十詠 高拱乾〈◯中略〉 其二 曉來吹角徹蒼茫、鹿耳門邊幾戰場、流毒猶傳日本國、偏安空比夜郞王、〈臺地先爲(○○○○)倭奴所(○○○)一レ踞(○)、旋歸荷蘭、後屬鄭氏、〉樓船將

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1397 帥懸金印、郡縣官僚闢草堂、使者莫嫌風土惡、番兒到處繞車旁

〔外國通信事略〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1397 塔伽沙古(タカサゴ) 寛永四年十一月に、此國の理伽といふもの參拜の儀あり、これよりさき參拜の例ありしやいまだ詳ならず、

物産

〔外國通信事略〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1397 中華并外國土産 東寧 〈塔伽沙古といふ、今臺灣とも申す、日本より六百四十里程、〉 此國より商舶來る 土宜 白砂糖 氷砂糖 黒砂糖 鹿皮 山馬皮 樟皮

〔華夷通商考〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1397 大寃 土産 白砂糖 鹿皮 山馬 樟皮 木綿 西瓜 右之類、唐船ニ積テ來ル也、是ヲ大寃出シノ舟ト云也、

〔臺灣紀略〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1397 物産 鳥之屬、有鴉、鷺鸂鶒鴛鴦、杜鵑、斑鳩、瓦雀、鶺鴒等類、鴻鴈、燕、鶯有、而希見、鵲與鷓鴣、則其所絶無者、 山無虎、但有豹、亦不人、故鹿麕獐麂之屬、成群徧野、莫之害、野牛最蕃滋、設柵欄之、有典牧之官、董其數、農夫乏牛者、禀命于官而取之、至老而無一レ力、則縱之去、 澤中有大龜、時游水濱、人取而食之、 果之美者、様爲最、状如猪腎、味甘冽可荔枝、越宿即爛、故難遠地、次莫波羅密梨、仔芨王梨、芭蕉子、石榴、橘、柚、椰檳榔、甘馬弼等類、各方共産、荔枝龍眼則間有之、 花莫四季錦邊蓮、而蘭桂梅桃拒霜刺桐之類次之、所少特牡丹耳、内山樹木之大者、多洪荒時物人至不其名、 竹有大如斗、高數十尋者、 地多藤、盤旋里餘、可椗索及縛茅屋、 磺産于上淡水、土人取之、以易

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1398 鹽米芬布、 鹽出于洲仔尾淡水兩處、 泥http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001e8ff.gif 鳥魚出于坑仔口打狗港、 蟳蝦出于蚊港、蚶螯蠔螺海濱倶産、

風俗

〔華夷通商考〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1398 大寃〈◯中略〉 此島ノ人ハ、甚卑シウシテ、常ニ衣服ヲ不著、山中ノ獵師常ニホコヲ持テ鹿ヲ追ヒ、其肉ヲ生ニテ食シ、其皮ヲ賣テ酒食ニ代ルナリ、身甚輕ク、走ルコト鹿ニモマサレリ、山中ニ計居ル故ニ山童ト號ス、海邊ノ漁人猶以賤也、尤詞モ曾テ不通、根本ハ文字モ無之國ナリシガ、國姓爺以來は、漁人獵師之外ハ、唐人多ク居住スル故、中華ノ風儀ヲ習タルモノ多キ也、◯

澎湖島

〔南島志〕

〈上世系〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1398 宋史流求國列傳曰、國在泉州之東、有(○)海島(○○)、曰(○)彭湖(○○)、烟火相望、淳煕間、國之酋豪嘗率數百輩、猝至泉之水澚圍頭等村、肆行殺掠、喜鐵器及匙筋、人閉戸則免、但刓其門圈而去、擲以匙筋則愼拾之、見鐵騎則爭刓其申、駢首就戮而非悔、臨敵用標鎗、繫繩十餘丈爲操縱、蓋惜其鐵棄也、不舟揖、唯縛竹爲筏、急則群舁之、則泅水而遁、按流求去澎湖五百里、豈是烟火相望之地哉、而海路險惡、舟揖之制、非其堅厚則不渉矣、且其喜鐵器、縛竹爲筏、皆是巴旦之俗、其國亦去澎湖甚相遠、蓋宋人謬認之言耳、

〔臺灣紀略〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1398 附澎湖 澎湖舊屬同安縣、明季因地居海中、人民散處催科所不上レ及、乃議棄之、後内地苦徭役、往々逃于其中、而同安漳州之民爲最多、及紅毛入臺灣、并其地之、而鄭成功父子復相繼據險、恃此爲臺灣門戸、環繞有三十六嶼、大者曰媽祖嶼、等處澚門口有兩砲臺、次者曰西嶼頭、等處各嶼、唯西嶼稍高、餘皆平坦、自厦門澎湖、有水如黛色、深不測、爲舟行之中道、順風僅七更半、〈◯中略〉但澎湖初無水田可一レ種、人或採捕爲生、或治圃以自給、今幸大師底定貿易輻輳、漸成樂土、營將外復設一巡檢之、


Last-modified: 2019-03-15 (金) 09:48:56 (387d)