改元

〔運歩色葉集〕

〈賀〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0273 改元(ケン)

〔名目抄〕

〈臨時〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0273 改元(カイグヱン)

〔和爾雅〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0273 改元(カイゲン)〈改年號

代始改元

〔安齋隨筆〕

〈前編三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0273 一新帝元年 元年の立やうによりて、治世の年數違ふ事あり、橘嘉樹が説に云、其帝の元年は、即位の年を除き、翌年を元年とするは、一年にして二帝あることを嫌によりて、其年を以て先帝治世の終の數に加へ、翌年より新帝の治世を筭る也、其帝により即位の禮なきもあり、又は二年三年、或は十年餘も後れて即位の禮あるもあり、其は踐祚の年の翌年を元年と立つるなり、又近世明和上皇〈◯後櫻町〉の如き、踐祚の翌年に即位ありて、又其翌年に改元あり、是も亦踐祚の翌年を以て帝の元年とする也、此事は通鑑に見へたるよし、改元考に記されたり、踰年改元と云、定制なし、又云、先帝の舊年號を用ひらるヽ事間々あり、又上皇の如きは、即位の次の年に改元ある故に、改元治世の元年に一年後れたり、去れども一年舊號を用ひらるヽの定とす、九十八代崇光帝も如此、百七代後土御門帝も如此、或は即位の翌日改元あるもあり、一ケ月二ケ月後に改元あるもあり、同く此類は踐祚の年を除きて新帝の元年とするなり、

〔安齋隨筆〕

〈前編十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0273 一踐祚之年無改元 同書〈◯百練抄〉治承四年十二月一日、今日可改元之由、有

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0274 沙汰、然而俄に停止、踐祚之年改元、大同之外無其例、〈踐祚は即位の事ナリ、近世別とスルハ誤ナリ、〉貞丈嘗て聞けり、即位の年に年號改元あれば、其年半は先帝の年號にて、半は今上ノ年號也、是地に二人の王あるがごとくなれば忌む也、其明年より今上ノ元年とする也、明年まで舊年號を用ゆる事ありとも、年改まる故拘らずして其年改元ありと云、

〔類聚名物考〕

〈政事九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0274 改元例勘文 改元に、即位の年と、その明年との先例有、左に記すが如し、
改元例、天子踐祚、以禪讓年先代、踰年即位、古禮也、而我朝當年即位、翌年改元、已爲流例、但禪讓年即位、又非先例、和銅八年九月元明禪位、即日元正即位、改元爲靈龜、養老八年二月元正禪位、即日聖武即位、改元爲神龜、天平勝寶元年四月聖武禪位、同年七月孝謙即位、改元爲天平勝寶、神護景雲四年八月稱徳崩、同年十月光仁即位、十一月改元爲寶龜、徳治三年八月後三條崩、同年親王即位、十月改元爲延慶、又踰年不改元例、天平寶字二年淡路廢帝即位、不改元、仁和三年宇多帝即位、不改元、隔年改爲寛平、延久四年白河帝即位、又不改元、隔年改爲承保等也、即位以前改元例、壽永二年八月後鳥羽受禪、同三年四月改元爲元暦、七月即位、是非常例也、〈右神皇正統紀異本裏書也〉

〔百練抄〕

〈八高倉〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0274 治承四年十二月一日、今日可改元之由、有其沙汰、然而俄停止、踐祚年改元(○○○○○)、大同之外無其例

〔玉海〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0274 治承四年十二月四日壬午申刻、大外記頼業來、酉刻大夫史隆職來、各召簾前、仰雜事、〈頼業退下之後召隆職〉共云、去月晦日於院殿上、被關東亂逆事之間、左大臣被申可改元之由、因之忽其沙汰出來、今月一日申刻、今夕可改元定之由宣下、而官外記相共改元可猶豫之由奏聞、〈外記申云、踐祚明年被(○○○○○)改元(○○)、恒例也(○○○)、當年改元之例、平城之初、大同是也、彼爲不吉、何况天慶將門亂之時無改元、彼已爲吉例、又二日可追討使云々、改年號之翌日、被凶事、其理可然哉云々者、下官申云、改元者、兼日仰儒士、召勘文議定、而當日申刻初宣下、未斯卒爾之儀、加之二日可追討使官符、凡改元之後政始以前、難此之事、就中於旁不物議者歟云々、〉仍爲行隆奉行、被合禪門、禪門申云、素可改元之由、全不計申、唯左大臣被此旨之由承許也、左右難定申、但如承者、官外記申

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0275 牒、其理可然云々、仍忽然而停止了、

〔柱史抄〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0275 改元事 代始無恩赦、但承和、天祿、二代有此事

〔元秘別録〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0275 安和三年三月廿五日(圓融院)〈丙申〉改元、爲天祿代始、詔赦賑給、代始例希有也、

〔改元部類記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0275 經頼記長和六年四月廿一日己丑、大外記文義參入、被仰云、改元之時、多有免物、而御即位之後初改元之度有免物哉、先例可勘申者、文義申云、多最初改元無免物、但天祿度有免物、又々可勘申者、 廿二日庚寅、參内、文義令最初改元無免物之由、〈元慶度有免物、是依國之奏瑞物歟、又天祿度有免物、此外見代々例、更無免物云々、〉

〔行類抄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0275 代始改元例〈注寛平以後〉
寛平〈宇多四月廿四日〉 昌泰〈醍醐八月十六日〉 承平〈朱雀四月十六日〉 天暦〈村上四月廿七日〉 安和〈冷泉八月十三日〉 天祿〈圓融三月廿五日〉 寛和〈花山四月十四日〉 永延〈一條四月五日〉 長和〈三條十二月廿五日〉 寛仁〈後一條四月廿三日〉 長暦〈後朱雀四月廿一日〉 永承〈後冷泉四月十四日〉 延久〈後三條四月十三日〉 承保〈白川八月廿三日〉 寛治〈堀川四月一日〉 天仁〈鳥羽八月三日〉 天治〈崇徳四月三日〉 康治〈近衞四月十八日〉 保元〈後白河四月廿七日〉 平治〈二條四月廿日〉 仁安〈六條八月廿七日〉 嘉應〈高倉八月八日〉 養和〈安徳七月十四日〉 元暦〈後鳥羽四月十六日〉 正治〈土御門四月八日〉 建暦〈順徳四月十三日〉 貞應〈後堀川四月十三日〉 天福〈四條四月十三日〉 寛元〈後嵯峨二月廿六日〉 寶治〈後深草三月十八日〉 文應〈龜山四月十三日〉 建治〈後宇多四月廿五日〉 正應〈伏見八月廿八日〉 正安〈後伏見四月十一日〉 乾元〈後二條十一月廿一日〉 延慶〈花園十月九日〉 元應〈後醍醐四月廿八日〉 正慶〈光嚴四月廿八日〉 暦應〈光明八月廿八日〉 觀應〈崇光正月廿七日〉 文和〈後光嚴九月廿四日〉 永和〈後圓融二月廿一日〉 至徳〈後小松二月廿七日〉 正長〈稱光但代末四月廿七日〉 永享〈後花園九月五日〉

祥瑞改元

〔日本書紀〕

〈二十五孝徳〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0275 白雉元年二月戊寅、穴戸國司草壁連醜經獻白雉、〈◯中略〉 甲申詔曰、四方諸國郡等、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0276天委付之故、朕摠臨而御㝢、今我親神祖之所知、穴戸國中有此嘉瑞、所以大赦天下、改元白雉
◯按ズルニ、祥瑞ニ由リテ改元セシ例ハ、此他ニ朱鳥、大寶、慶雲、和銅、靈龜、養老、神龜、天平、天平感寶、天平寶字、神護景雲、天應、嘉祥、齊衡、天安等アリ、

災異改元

〔行類抄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0276 老人星改元例
延喜〈◯中略〉
  天變改元例
康保 天延 天元 永祚〈彗星〉 正暦 長徳 寛弘 長久 天喜 治暦〈三合〉 永長 承徳 長治 嘉承〈彗星〉 天永〈同上〉 永久 元久 保延 久安〈彗星〉 久壽 永暦 永萬 承安 治承〈三合〉 壽永 文治 建久 建保 承久〈三合〉 元仁 貞永 文暦 嘉禎 暦仁 延應 仁治 建長 永仁 嘉元 徳治 正和 嘉暦
  地震改元例
天慶 康保 天延 貞元 永祚 寛弘 長久 永長 承徳 康和 文治 建保 貞永 嘉禎 仁治 正元 永仁 文保
  炎旱改元例
天徳 永觀 長保 長元 寛徳 治暦 嘉元
  風災改元例
正暦 仁平 貞永 正中
  水災改元例
延長 天徳 長保 保延 仁平 貞永 正中
  火災改元例

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0277 應和 貞元 永觀 康平 治承 正嘉
  兵革改元例
永久 永暦 壽永
  疾疫改元例
延長 長徳 長元 寛徳 康和 永久 長承 保延 壽永 嘉祿 正元 弘安 應長 嘉暦 元徳
  疱瘡改元例
承暦 嘉保 大治 應保 長寛 安元 建永 承元 安貞 康元 康永
  飢饉改元例
壽永 正元
  怪異改元例
天徳 永久 長承 寛喜
  御愼改元例
天元〈陽五〉 保安〈暦運〉 久壽〈同〉 永萬 承安〈太一〉 建久〈厄運〉

〔園太暦〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0277 延文四年八月廿六日、自内裏御書、依炎旱改元哉否、〈◯中略〉追勘依旱魃改元例、
延長元年(醍醐)〈延喜廿三年閏四廿一日、旱魃疾疫、〉 永觀元年(圓融)〈天元六年二月十六日、旱魃内裏火事、〉 長元元年(後一條)〈萬壽五年七月廿五日、疾疫炎旱、〉 寛徳元年(後朱雀)〈長久五十一廿四、炎旱疾疫、〉 治暦元年(後冷泉)〈康平八八十二、旱魃三合御愼、〉 承暦元年(白川)〈承保四十一十七、疱瘡旱魃、〉 天承元年(崇徳)〈大治六正廿九、炎旱洪水天變、〉

革命改元

〔本朝改元考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0277 嘉〈◯山崎闇齋〉按、革命勘文、蔀首有法二焉、一神武天皇元年、此至當之法也、一黄帝十九年、此無稽之言也、且勘文有本朝奚取法異邦之議、尤爲格論矣、或謂用易卦金革之義、猶之可也、或謂用

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0278 問三合爲一レ治、此勘文所道、而三合不于辛酉也、

〔昆陽漫録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0278 改元
改元記に、三善清行論革命議状、清行請改元議状、革命勘文等をのせ、辛酉の歳に改元あることを説きて、西土にても辛酉に改元ありしことを載す、其文左の如し、昌泰四年三月重奏云、革命之歳宜年號、其奏在別、朝廷信納、乃改元爲延喜、無幾唐人盧知遠來云、辛酉之年正月十六日、大唐有劉庸均之亂、宮中候屍數千人、數日乃定、改年爲天福、即知天地災祥之會、出卦象之中、猶四時代謝、日月出入、皆有定期也、敦書按ずるに、天福は五代石晋の年號にして、辛酉の歳にあらず、其上延喜は唐の昭宗の大復にあたれば、改元記年號を書き誤るとみえたり、

〔紫芝園漫筆〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0278 余生延寶八年庚申、明年辛酉、改元天和、其四年甲子、改元貞享、貞享之後五改元、曰元祿、寶永、正徳、享保、元文也、元文之六年辛酉、又改元寛保、其四年甲子又改元延享、聞之、曰日本博士家、謂(○)辛酉年(○○○)爲(○)革命(○○)、甲子年爲(○○○○)革令(○○)、皆必改元、自前世是、東涯秉燭談曰、嘗於搢紳家一條藤公兼良三革説、其中三善清行易説、而載漢鄭玄唐王肇等説甚詳、大意本周易革卦義曰、詩緯唯慶災、曰戊午革運、辛酉革命、甲子革政、又易緯曰、辛酉爲革命、甲子爲革令、蓋革卦有湯武革命之言、而鐵緯家因造此妄説曰、純按、孝徳天皇即位元年乙巳號大化、此日本年號之始也、六年庚戌改元白雉、齊明天智並無年號、天武即位元年壬申號白鳳、十五年丙戌改元朱鳥、持統無年號、文武即位初亦無年號、五年辛丑改元大寶、其四年甲辰改元慶雲、自是之後不復有一レ年號、凡自神武皇極年號、亦無改元、孝徳之後、齊明天智持統又無年號、亦無改元、文武以後毎世數改元、然辛酉甲子未必改元、元正養老五年辛酉不改元、八年甲子聖武即位改元神龜、光仁寶龜十二年辛酉、改元天應、桓武延暦三年不改元、仁明承和八年辛酉、十一年甲子、皆不改元、醍醐昌泰四年辛酉、改元延喜、其四年村上天徳五年辛酉、改元應和、其四年甲子、改元康保、自是以下毎辛酉甲子輙改元、唯正親町永祿四年辛酉、七年甲

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0279 子、後水尾元和七年辛酉不改元、莫其故、以此觀之、博士家革命革令之説、蓋起於村上時也、或曰、神武開國、以辛酉天皇之位、故後世亦必以辛酉改元、甲子干支之首、故亦必改元、未然否

〔茅窻漫録〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0279 革命紀元
此邦辛酉甲子の歳運に當るときは、必紀元すといふ事、兼良公の三革説にも見えたれど、何れの御世よりいひ出だしヽことにか、日本紀に神武帝辛酉年春正月、天皇即帝位、故に辛酉の年必紀元すといふは、其理當れり、甲子に必改元すといふは、いかなる義にか、詩緯推度災に、戊午革運、辛酉革命、甲子革政といふに據るにや、されども年號定まりて遙か以後にいひ出だしヽ事ならむ、大化以前の異年號も、始終定かならざれど、欽明帝の明要と、推古帝の願轉、齊明帝の白鳳とのみ、辛酉に紀元ありしと見ゆ、甲子の紀元は未見えず、年號定紀の大寶も、辛丑の年に紀元ありて、辛酉は改元なし、聖武帝の辛酉甲子とは改元ありて、桓武帝の甲子と、仁明帝の辛酉は改元なし、醍醐帝の辛酉は、改元ありて甲子はなし、村上帝の辛酉應和、甲子康保より、後柏原帝の文龜永正まで、五百四十三年のあいだ、辛酉甲子ともに皆改元ありて、正親町帝の辛酉甲子はともに改元なし、後水尾帝の甲子は改元ありて辛酉はなし、靈元帝の天和貞享より、當今にいたるまで改元あり、然らば辛酉甲子は、必改元すといふ定法とも見えず、帝王編年紀云、延喜二十三年、昌泰四年七月十五日改元、依辛酉革命老人星也、孔隺經御修法記云、土御門天皇建仁元年二月廿一日壬寅、修孔雀經法于閑院辛酉厄、〈建仁元年は辛酉〉此等の記を考ふるに、神武帝御即位の辛酉を必定法則とし、紀元すとも見えず、老人星辛酉厄などいふは、緯書佛氏等のいふ説にて、人君體元以居正、元年を稱する大法にあらず、勿論辛酉甲子の改元は、漢人定法なき事なり、緯書の類はとらず、王俊川曰、緯書多以三字名、〈中略〉皆異端邪術之流、假託聖經以售邪誣之説、其書今雖存、而類書引用尚多、終惑後學、〈見瑯琊代酔〉王者の大義法則を取るの書にあらず、改元立號は國家第一の大義にて、劉炫曰、唯

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0280 王者然後改元立號、〈見左傳疏〉漢人紀元の法に傚はヾ、緯書佛氏等、異端冥妄の説取るに足らざるなり、

〔年年隨筆〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0280 辛酉は革命とて、いみじうあしかる年とぞ、何事のあらむとすらむ、ゆヽしき事也、それも運によりてあたらぬこともありとぞ、諸道の勘文をめさるといふ、ことし〈◯享和元年〉はあたれりやあたらずや、きかまほし、寺々にも仰事ありて、御祈どもありときくはいみじう尊し、其みす法の名、金門鳥敏、々々々々とは、カノトノトリノトシといふ事なりとぞ、まことにやあらん、はかなたち戲にちかくて、御法の尊くめでたかるべきには打あはぬこヽちす、例なれば改元あるべし、寛政といふ年號、政の字はじめて用られつるに、十三までつヾきて、造内裏以下よき事のかぎりなりつれば、めでたき例にぞなるべき、辛酉の改元は、延喜の度をはじめとす(○○○○○○○○○○)、清行の宰相の勘奏によられたる也、さるは易緯に、辛酉爲革命、甲子爲革令とありて、鄭玄が説に、天道不遠、三五而變、六甲爲一元、四六二六交相乘、七玄有三變、三七相乘、廿一元爲一蔀、合千三百廿年とあるによりて、神武天皇元年を一蔀の首として、齊明天皇六年庚申まで千三百廿年、天智天皇即位の年〈齊明天皇八年〉の辛酉を第二の蔀首として、昌泰三年まで二百四十年、四六相乘の數みちて、延喜元年は大變革命の運なりとぞ、もし此説によらば、今年〈◯享和元年〉は第四の四六よりは六十年おくれ、第三の蔀首よりは百八十年さきだちて、大變の運にはあたらぬにやあらむ、諸道の勘答はいかヾあらん、いぶかしきことなり、さてかの善家の革命勘文に、明年辛酉、當帝王革命之期、君臣剋賊之運云々、又北野の右大臣とておはしましヽに書たてまつりて、明年辛酉、運當變革、二月建卯動干戈、遭凶衝禍、雖誰是、引弩射市、當薄命云云、伏冀知其止足、察其榮分、擅風情於烟霞、藏山智於丘壑、後世仰視不亦可乎、努々力々、勿鄙言とあり、やがてその辛酉の正月に、北野の御事をあしざまに申せるものありて、左遷し玉へるは、まことに掌をさすがごとく、あさましきまでなむ、神武天皇元年を辛酉とさだめたるがうきたる

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0281 うへに、鄭註などもうきたる事のやうにて、何のしるしかはあらむとおもひあなづらるヽ事なるに、かうまさしくいひあてたるは、まことにいみじき博士なりけり、

〔大江俊矩記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0281 寛政十三年〈◯享和元年〉正月十四日辛卯、自葉室頭辨迴文兩通、〈◯中略〉來月五日、革命改元定、出御、可早參候也、 正月七日、花押、〈◯中略〉辛酉革命、甲子革令之節者、條事定爲別日、早參兩日也、仍參陣、上卿以下所役諸司并調進物、及早參四五位職事、皆兩度下行被宛行、拜受有之也、

〔元秘抄〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0281事改元例〈◯中略〉 依辛酉
延喜〈今年老人星見〉 應和 治安 永保 建仁 弘長 元亨

〔行類抄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0281 革命改元例
延喜 天慶 應和 治安 永保 建仁 弘長 元亨 永徳 嘉吉
◯按ズルニ、天慶ハ革命改元ニ非ズ、而シテ革命ニヨリテ改元セシ例ハ、此他尚ホ永保ノ後ニ永治アリ、永徳ト同年ニ南朝ニハ弘和アリ、嘉吉ノ後ニ文龜、天和、寛保、享和、文久等アリキ、

〔革暦勘文〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0281革命議書〈清行 昌泰二年〉
  預論革命議
臣清行言、天道玄遠、聖人所以罕言、暦數幽微、緯候以之爲誕、由是學之者若迂遠、傳之者似憑虚、端賜歎其難一レ聞、君山疑其妄作、然而神經怪牒、雖藏於蟫蠧之奧、易象爻變、猶照爛於韋竹之編、故敢以榮爝仰添烏暉、臣某死罪々々、臣竊依易説而案之、明年二月、當帝王革命之期、君臣相剋賊之運、凡厥四六二六之數、七元三變之候、推之漢國、則上自黄帝下至李唐、曾无毫釐之失、考之本朝、則而上自神武天皇、而下至于天智天皇、亦無分銖之違、然則明年事變、豈不意乎、伏惟陛下、誠雖守文之聖主、旣當創草之期數、故即位之始、遇朔旦冬至之慶、改元之後、頻呈壽星見極之祥、長星垂舊之祥、衆瑞表新之應、天數改運、人情樂推、旣昭彰於視聽之間、何遑説於占候之術、但變革之際、必用干戈、蕩定之

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0282 中非誅斬、何者帝王革命、此周易革卦之變也、案、革卦離下兌上也、離爲火兌爲金、金雖從革之性、非火則不變、故金火合體、上下相害、戕蕩之理已窮、君臣之位初定、國之不祥、無於此、伏望聖鑒豫廻神慮、勅上厲群臣、戒嚴警衞、仁恩塞其邪計、矜莊抑其異圖青眼於近侍、推赤心於群雄、則封豕之徒、自然革面、食椹之美、終成好音、撥亂之時、垂其衣裳、即戎之運、鳴其環珮、豈不美哉、臣聞機祥難辨、靈易迷、獻其丹疑、雖飮於白虎之槽、驗其玉英、恐責於黄龍之瑞、清行誠恐誠惶頓首謹言、
  昌泰三年十一月廿一日 從五位上行文章博士兼伊勢權介三善宿禰清行

〔本朝文粹〕

〈七書〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0282菅右相府〈◯道眞〉書
     善相公
清行頓首謹言、交淺語深者妄也、居今語來者誕也、妄誕之責、誠所甘心、伏冀尊閤特降寛容、某昔遊學之次、偸習術數、天道革命之運、君臣剋賊之期、緯候之家、創論於前、開元之經、詳説於下、推其年紀、猶如掌、斯乃尊閤之所照、愚儒何言、但離朱之明、不睫上之塵、仲尼之智、不篋中之物、聊以管穴、伏添槖籥、伏見明年辛酉、運當變革、二月建卯、將干戈、遭凶衝禍、雖誰、是引弩射市、亦當薄命、天數幽微、縱難推察、人間云爲、誠足知亮、伏惟尊閤挺翰林、超昇槐位、朝之寵榮、道之光華、吉備公外無復與一レ美、伏冀知其止足、察其榮分、擅風情於煙霞、藏山智於丘壑、後生仰視、不亦美乎、努力努力、勿鄙言、某頓首謹言、
   昌泰三年十月十一日     文章博士三善朝臣清行

〔革命勘文〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0282 文章博士三善宿禰清行謹言
 請元應天道之状
   合證據四條
一今年當大變革命年
易緯云、辛酉爲革命、甲子爲革令、鄭玄曰、天道不遠、三五而反、六甲爲一元、四六二六交相乘、七元有

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0283、三七相乘、廿一元爲一蔀、合千三百廿年、 春秋緯云、天道不遠、三五而反、宋均註云、三五、王者改代之際會也、能於此源、自新如初、則道无窮也、 詩緯云、十周參聚、氣生神明、戊午革運、辛酉革命、甲子革令、注云、天道卅六歳而周也、十周名曰王命大節、一冬一夏、凡三百六十歳一畢無餘節、三推終則復始、更定綱紀、必有聖人、改世統理者如此、十周名曰大剛、則乃三期會聚、乃生神明、神明乃聖人改世者也、周文王戊午年、决虞芮訟、辛酉年、青龍銜圖出河、甲子歳、赤雀銜丹書、而聖武伐紂、戊午日軍渡孟津、辛酉日作泰誓、甲子日入商郊
謹案、易緯、以辛酉蔀首、詩緯以戊午蔀首、依主上以戊午年昌泰元年、其年又有朔旦冬至、故論者或以爲應戊午受命之年、然而本朝自神武天皇以來、皆以辛酉一蔀大變之首、此事在未出之前天道自然符契、然則雖兩説、猶可易緯也、又詩緯以十周三百六十年大變、易緯以四六大變、二説雖殊、年數亦同、
今依緯説、勘合和漢舊記、神倭磐余彦天皇、從筑紫日向宮、親帥船師東征、誅滅諸賊、初營帝宅於畝火山東南地橿原宮、辛酉春正月即位、是爲元年、〈當於周釐王三年、齊桓公始覇主、會諸侯於鄄、事見史記表、〉四年甲子春二月、詔曰、諸虜已平、海内無事、可以郊祀、即位靈畤於鳥見山中、其處號曰上小野榛原、下小野榛原云、〈是年周惠王即位元年、齊桓公帥諸侯蔡、蔡潰、遂伐楚、至召陵、責苞茅、此即桓公兵車第一之會也、〉
謹案日本紀、神武天皇、此本朝人皇之首也、然則此辛酉、可一蔀革命之首、又本朝立畤下詔之初、又在同天皇四年甲子之年、宜革令之證、〈◯中略〉
今年辛酉〈昌泰四年也〉
謹按、自天智天皇即位辛酉之年、至于去年庚申合二百卌年、此所謂四六相乘之數已畢、今年辛酉、當於大變革命之年也、又天智天皇以來、二百卌年之内、小變六甲、凡三度也、自天智天皇即位辛酉、至于日本根子高瑞淨足姫天皇〈◯元正〉養老五年辛酉合六十年、其年五月、日本根子高瑞淨

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0284 足姫太上天皇崩、然猶文武天皇不改元、至于七年甲子、初改元爲神龜元年、其後六十年、天應元年辛酉夏四月、白壁天皇不豫也、桓武天皇天應元年四月三日受禪、同日即位、十二月廿日太上天皇崩、其後承和八年辛酉無異事、但自承和七年庚申淳和太上天皇崩、九年壬戌嵯峨太上天皇崩、又廢皇太子、以文徳天皇皇太子、其後六十年、至于今年辛酉也、但唐暦以後、無唐家之史書、仍不合近代之事變、〈清行〉去年以來、陳明年當革命之年、至于今年、徴驗已發、初有知、天道有信、聖運有期而已、
一去年秋彗星見事
謹案漢晋天文志、皆云彗體無光、傳日光光、故夕見則東指、晨見則西指、皆隨日光而指之、此除舊布新之象也、
一去年秋以來老人星見事
謹案顧野王符瑞圖云、老人星也、直孤星北地有一大星、〈晋灼曰也〉是爲老人星、見則治平主壽、常以秋分之南郊、〈見春秋元命苞〉春秋運斗樞曰、機星得和平合、萬民壽、則老人星臨國、〈宋均曰、斗徳應於人者也、〉文耀鈞曰、老人星見則主安、不見則兵起、熊氏瑞應圖曰、王者承天得理則臨國、晋武帝時老人星見、太史令孟雄以言、元帝大興三年、老人星見、四年又見、今如此文者、老人星、聖主長壽、萬民安和之瑞也、而今先有舊之象、後有福壽之瑞、首尾相待、事驗易知、
一高野天皇改天平寶字九年、爲天平神護元年之例、
謹案國史、高野天皇天平寶字九年、誅逆臣藤原仲麿、即改元、爲天平神護、然則非唯天道之符運、又有先代之恒典也、當今之事、豈不舊貫乎、
臣伏以、聖人與二儀其徳、與五行其序、故天道不疾而速、聖人雖靜而不之、天道不遠而反、聖人雖動不之、况君之得臣、臣之遇君者、皆此天授、曾非人事、義會風雲、契同魚水、故周文之遇呂尚

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0285 兆出玄龜、漢祖之用張良、神馮黄石、方今天時、開革命之運、玄象垂推始之符、聖主動其神機、賢臣决其廣勝、論此冥會、理如自然若更存謙退、必成稽疑、欝此改元之制、抑彼創統之談、則恐天意還致咎徴、伏望、因循三五之運、咸會四六之變、遠踐大祖神武之遺蹤、近襲中宗天智之基業、當此更始、期彼中興、建元號於鳳暦、施作解於雷聲、〈清行〉機祥難辨、靈憲易迷、獻其丹款、雖飮於白虎之槽、驗其玉英、恐責於黄龍之瑞、清行〈臣〉誠恐誠惶頓首謹言、
  昌泰四年二月廿二日    從五位上行文章博士兼伊勢權介三善宿禰清行上

革令改元

〔鵞峯文集〕

〈四十七論〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0285 甲子會紀
村上天皇康保元年甲子〈至四年丁卯、今按、辛酉改元始於延喜、甲子改元始(○○○○○)於康保(○○○)、◯中略〉
正親町帝永祿七年甲子〈不改元、至十二年己巳、〉

〔元秘抄〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0285事改元例〈◯中略〉 依甲子
萬壽 應徳 天養 元久 文永

〔行類抄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0285 革令改元例
康保 萬壽 應徳 天養 元久 文永 至徳 文安
◯按ズルニ、革令改元ノ例ハ、此他尚ホ文永ノ次ニ正中アリ、至徳ト同年ニ南朝ニハ元中アリ、文安ノ後ニ永正、寛永、貞享、延享、文化、元治等アリキ、

改元式

〔鹽尻〕

〈三十三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0285 年號改元の式、戰國擾亂の時、故實の家名記多く亡て、〈賢按、是元龜應仁の亂後、〉古法陵夷し、元和の頃までは異朝の年號を取用ひて、勘文の御沙汰もなかりしにや、寛永以來舊にかへりしも、大平のすがた也、〈元和改元の時まで、地下の學者も庭上に參りしが、故ありて今はさる事なしとかや、〉
◯按ズルニ、應仁以後、異朝ノ年號ヲ用ヰシコト、唯元和アルノミナリ、此説誤レリ、

〔光臺一覽〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0285 抑年號と申は、天子即位は則元年として、往古は無年號處、中古年號始まりしより以

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0286 來如斯、春秋胡氏傳曰、即位之一年、必稱元年者、明人君之用云々、亦曰、成位乎其中、則與天地參、故體元者、人君之職也云々、易曰、徳之首曰元云々、御年號、即位、改元には無赦、臨時之改元には赦必有之也、臨時之改元は、御所方關東凶事而已續くか、五穀不熟、萬民疫疾か、上下厄難に依て、天子の不徳と一人の御身に引受させ給ひ、御位を改らるヽ御心にて、年號を被改故、改元と申也、元は畢竟天子の御身之上也、然れば下々として、改元あらば不宜など、假初にも申べき事にあらず、可謹可恐なり、扨菅家年號被撰出法は、六十四文字、本字は近代増字二十四字、上下に顚倒して字を雙也、書經魯論之熟字に符合させ被書出事也、改元に付て、上卿、職事、奉行之役三人、撰者方之陳答人五六人、難問人五六人被仰付、尤菅家出入之儒門之被官、其外町宅之庸儒も入込候て骨折事也、假令ば、
   寛和 享和 正徳
難問人の云く、享之字上に有事何ケ度、和之字下に有事何ケ度、和漢兩朝嘉例凶例申立て難ず、夫を唯佳例のみの多きを申立て陳答する也、左右大臣、大中納言判じて、衆義判の後、奏聞を經られ候、凡三ツ斗書被成候、其砌は改元難陳之次第とて、撰者、出處、難問、陳答、批判迄、一册に書立、堂上堂下にて賞見仕事也、又大意事極り、關東へも被伺候、禁中にて是と究りても、關東より彼と申來り候へば、替候事も候、中御門院御即位改元被仰付候刻、御書通御座候、
一翰致啓達候、今般年號改元ニ付、菅家任例選出之候別紙書付之内、寛和之號可然御内慮ニ候、依之左右丞中〈江〉も勅問有之候處、同意之趣勅答之御事候、右之趣宜言上候、恐々謹言、
    月日失念     重條〈庭田前大納言殿〉 保春
     土屋相模守殿 秋元但馬守殿 大久保加賀守殿 井上河内守殿 阿部豐後守殿
斯被仰遣候處、從關東御返書到來せり、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0287 貴翰致拜見候、今般年號改元ニ付、菅家任例選出之候別紙書付之内、寛和之號可然叡慮之旨、左右相丞中〈江茂〉勅問有之候處、勅答同意之趣、于具達上聞候處、正徳之號可然思召候、右之通遂奏聞、宜御沙汰候、恐惶謹言、
     阿部豐後守〈正喬〉 井上河内守 大久保加賀守 秋元但馬守 土屋相模守〈諱書判〉
   高野大納言殿 庭田前大納言殿
斯御奉書御返事ニテ、御沙汰替りて正徳之年號被仰付候、文昭院様御代也、

〔僞年號考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0287 凡年號は、朝廷の命ずる者にして、武將の預る處にあらず、然れ共當時國柄武家に在を以て、朝廷これを武家に議して、後天下に行はる、故に實は朝家の定むる所といへども、天下に行ふものは、武家の令に出るを以て、鎌倉これを奉ぜざるに至る也、正長二年改めて永享とす、鎌倉これを用ひず、正長の號を行ふ事三年にして、後に永享に從ふ、〈神明鏡に出たり〉

〔折たく柴の記〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0287 我朝の今に至りて、天子の號令、四海の内に行はるヽ所は、獨年號の一事のみにこそおはしますなれ、異朝の書にも、其事を論ぜし事も見えたり、古より此かた、我朝改元の例は、代始め、又は革命、革令、三合、天變、地妖、水旱、疾疫、兵革、飢饉等の事によれり、武家の代となりしより後も、武家の御事によりて此事ありし例はいまだ聞ず、其中一二の疑ふべきことあるをもて、或は又其事ありなど申べきにや、その事又辨ぜざる事を得べからず、建久十年正月十三日、前右大將頼朝薨じ給ひ、此年四月十一日改元ありて正治と號す、是は土御門院御代始によれる也、建保二年正月廿七日、右大臣實朝弑せられ給ひ、此年四月十三日改元ありて承久と號す、是三合并天變地妖によれるなり、貞治六年十二月七日、寶篋院義詮薨じ給ひ、明年二月廿七日改元應安と號し、長享三年三月廿六日常徳院義尚薨じ給ひ、此年八月廿日改元延徳と號す、是は兵革天變の事

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0288 によれるなり、此外應永三十五年正月十一日、勝定院義持薨じ給ひ、此年二月九日に改元正長と號す、是稱光院御代始によれり、是より先應永十五年正月六日、鹿苑院義滿薨じ給ひ、同三十二年二月十七日、長徳院義量薨じ給ひしかど、改元ありしにもあらず、又嘉吉三年七月廿一日、慶雲院義勝薨じ給ひ、四年二月五日改元文安と號す、是兵革によれり、是より先嘉吉元年六月廿四日、普光院義教弑せられ給ひしかど、改元有しにはあらず、是ら其疑ふべき所なれど、武家の御事によらざる事旣にかくのごとし、然るを今前代の御事によりて、正徳の號を改めらるべき由を以て仰られんに、もし上の人々是等の例によりて議し申さるヽ事ありなんに、いかにや侍ふべき、たとひ又それらの事に及ばずして、仰らるヽ所によられて、改元の事おはしますとも、天下後代有識の君子議し申事あらんには、當時補佐の人々の瑕瑾におはしますまじきにもあらず、是等の間よく〳〵後議定に過べからずと申たりければ、詮房朝臣いかにやはかられたりけん、此事もまた行はれずぞなりける、

〔西宮記〕

〈臨時一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0288年號
 京内詔書出後、不覆奏之、御即位後明年改年號、仁和天皇崩三年改元、
大臣奉勅、仰文章博士、令申年號奏聞、勘定之後、仰内記、令詔書、奏草及清書、賜御畫日中務、中務度案於太政官、太政官連署、大納言覆奏畢、下施行官符、康保年號、以舊勘申年號之、
延長年號、博士所進字不快、有勅以文選白雉詩文改、〈閏月改之、延喜元年八月廿九日、改元之由告神明、〉

〔江家次第〕

〈十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0288 改元事
大臣參陣奉仰、〈或於里第之實資例、〉仰式部大輔文章博士等、令申年號字、〈召陣可仰之、近例或令外記傳仰、〉可改元日、大臣參陣定申、〈先仰外記、令諸卿、〉著外座膝突、外記進勘文、先乍陣座、令藏人奏勘文等、次蒙定申之仰、諸卿共定申、次令大辨讀一レ之、定兩三之、〈付藏人奏〉重被此中可何年號哉由、勘文留御所、又令

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0289、〈或依諸儒所進不一レ快、自御所給、延長、天暦、康保等例也、〉次被詔書、〈仰詞中、被其例、代初無赦、自餘多有赦之例、代々不同、〉大臣召内記其由、〈若無内記者、令儒者之辨作一レ之、先奏其由、辨副笏進之、上卿入外記筥奏、〉次奏草、〈入外記筥、殿上辨作時、令外記内覽、〉次奏清書、〈黄紙〉奏下後、可見御畫日有無、次令外記召中務輔若丞之、〈乍筥給之歟、若丞不候者、令外記傳給録、希有例也、〉次被吉書、〈先官方、次藏人方、〉
詔書覆奏以前、京官用新年號、諸國者官符後用之、其施行官符、給京官二通者、不詔書、給諸國八枚者、謄詔書
勘申年號事
 〻〻
 其書曰〻〻
 〻〻其書曰〻〻
右依宣旨勘申如
                官兼官姓朝臣名
 菅家者註年月日位等
 餘人者如江家儀
若有赦之時
非常赦者、大臣召撿非違使佐以下一人、仰詔書施行以前可見徒、佐召撿非違使等、相分向左右獄、佐或帶胡籙、乘馬立於獄門、召出囚等、仰之看督長作法、佐仰云、依其事、〈若其變〉殊以免給、各罷還本貫、重犯不奉仕、爲公御財御調物備進〈禮、〉看督長曰、乎々〈止、〉囚等稱唯、佐仰曰、早http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001df53.gif 取〈禮、〉常赦者、別當奉之、令道志勘申可赦之輩後免之、
詔云

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0290 其改〻〻何年〻〻元年、宣政、〈宇文巳日〉廣運、〈軍走〉隆化、〈降死〉大象、〈大人象〉大業、〈大苦末〉元享、〈二月七日〉天正、〈天一止〉元始、〈不吉〉天漢、〈漢字宜水〉治暦又因件例

〔禁秘御抄〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0290 一改元
代始改元、即位次年定事也、其外依大事改元、職事、官外記等承之、兩文章博士式部大輔、又可然儒卿、少々擇申、諸卿於陣定申、職事奏事由、重可定申仰、或有論言、定以前職事奏勘文、有御覽返給、年號字内可然年號無之時、舊勘文被下常事也、寛治度被院、近代毎度如斯、嘉保自上被定歟、年號定之後、主上於朝餉書給、其儀無別事、高檀紙書年號字、〈一枚也〉其後萬人可書也、承暦元年也、〈不月日、唯年號バカリ也、元年字書也、〉次主上著御引直衣、〈張袴〉出御晝御座、有吉書、官方、〈辨〉藏人方、〈頭〉自南間之、主上取之置御前、復座後披覽之、置御座前、〈文下向御方大臣〉給之如例吉書、一切奏書時、出御清凉殿、而近代略儀皆於朝餉之、於改元吉書者、可必出御也、延久元年、依夜於朝餉之、希代例也、承保元年、出御中殿、又大内記作詔書、先草、次清書、改元後必有赦也、

〔柱史抄〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0290 改元事
公卿議奏了、改其年其元年之由被定、上卿召内記、仰其年例詔書之由、草清書、〈有御畫〉内覽奏下之後、召中務輔之、代始無恩赦、但承和天祿二代有此事、自餘有常赦、隨休徴變異、被其年例、或有賑恤、或免調庸、清凉記云、踐祚明年、有改元事、年内改元非禮、誤也、〈已下虫損〉

〔元秘別録〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0290 新儀式云、踐祚明年有改元事、〈年内改元非禮、誤也、〉預先大臣奉仰、召文章博士二人、令申年號字、奏聞、勅定下給、又大臣令内記作詔書、先奏其草、次獻清書、御畫日畢、下所司、納言覆奏之事、皆同他詔書、〈或詔末曰赦免〉又或據嘉瑞、或以變動、一代之間再有改元、其儀亦進之、此詔相加赦免、或賑之、

〔改元格〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0290 明和九年十一月十六日條事定(○○○)次第

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0291 上卿著仗座、諸卿次第著陣、次上卿令官人敷膝突、次以官人外記、問諸卿參否、次令官人召寄文書、次諸卿見下文書、次上卿令參議讀申、次上卿仰定申之由於最末參議、次逆上定申、次上卿仰參議硯、次上卿仰參議定文、書訖讀申、次參議加定文於本解上卿、次上卿披見定文、次上卿令官人仰參筥之由於外記、次以官人職事、奏聞、畢返給、次以官人辨下文書、次以官人外記空筥、次參議令硯、
  改元定(○○○)次第
先職事下年號勘文、上卿結申、職事仰仰詞、次諸卿見下勘文、次上卿仰參議之、次上卿仰定申之由於最末參議、次諸卿定申、此間取傳勘文進上卿、次上卿以官人職事奏聞、此便返上勘文、次職事歸來、仰一同可定申之由、次上卿令諸卿議定、〈此間召留職事〉議定畢奏聞、次職事歸來、仰其年其元年、并詔書恩赦等事、次上卿以官人大内記、仰詔書之趣、次内記持參詔書草、入筥、上卿披見、次上卿以官人職事奏聞、畢返給、仰清書之由、次上卿以官人内記、仰清書之由、次内記持參清書、入筥、上卿披見、次上卿就弓場代、職事奏聞、畢返給、次上卿復仗座、内記置筥退入、次上卿以官人外記、問中務輔參否召之由、次中務輔參膝突、賜詔書、次上卿以官人内記、令空筥、次上卿以官人外記、問靫負佐參否、仰召之由、次靫負佐參膝突、上卿仰赦事、次辨覽吉書、上卿披見、奏聞畢返給、上卿結申、辨仰仰詞、次内記持參請書、入筥、上卿披見、次上卿就弓場代、職事奏聞、畢返給、次上卿復仗座、内記置筥退入、次上卿以官人外記、問中務輔參否、仰召之由、次中務輔參膝突、賜詔書、次上卿以官人内記、令空筥、次上卿以官人外記、問靫負佐參否、仰召之由、次靫負佐參膝突、上卿仰赦事、次辨覽吉書、上卿披見、奏聞畢返給、上卿結申、辨仰仰詞、次上卿下吉書、辨結申、次職事下吉書、上卿結申、職事仰仰詞、次上卿以官人辨下之、辨結申、次諸卿退出、

〔視聽草〕

〈七集七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0291 寛政改元之難陳翼略

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0292 改元之大略
凡改元ニ五様アリ、所謂辛酉ノ歳、甲子ノ年、御即位ノ翌年、祥瑞、災異等ナリ、〈辛酉ハ神武天皇ノ御即位ノ年ナリ、俗ニ是ヲ革命ト云フ、甲子ハ干支ノ首ニシテ、共ニ其ヱトニアタルヲ、俗ニ革令ト云、〉御即位ノ年ニハ改元ナク、翌年ニ改元アル事ハ、是ヲ踰年改元ト名ヅク、其年ヲ踰テ改元アル事ハ、即位アル年ハ先帝ノ御世ノ中ナルユヘ、先帝ノ年序ヲ滿シメ奉ラルヽノ義ニテ、翌年改元アルコトナリ、〈和漢共ニ其儀同ジ〉今度ノ改元ハ、去年〈申年ナリ〉正月晦日ノ大火〈京都〉ニ因テ改元ナレバ、是災異ノ議ナリ、然シテ改元ノ式ハ、古來ヨリノ制度ヲ守ラルヽ事ナリ、〈近代元和ノ年號ニ改ラルヽ時ハ、亂世ノ始テ治リシ年ナル故、唐ノ年號字ヲ借リ用ヒテ、其式大凡ナリシコトノ由、其後寛永改元ヨリ舊式ノ如ク也ト云ヘリ、〉其式ノ事ハ江家ノ次等ニ委ク、近クハ其度々々ノ次第書ニ委クアレ共、式ノ次第ハ事永ク、殊更田舍ニテ手安ク見得ガタキニ仍リテ、今苟初ニ其趣キヲ注シテ、大概ノ次第ヲ知ラシムルナリ、先改元アルベキトノ儀定リテ後、菅家ノ衆五家ヘ宣下アリテ、年號文字ヲ作進奏上セラル、大抵一家ヨリ五號ヅヽノ作進ナリ、五家ハ今、高辻、五條、東坊城、唐橋、桑原ナリ、是菅家ハ代々儒家タルガ故也、〈外ニ清岡新家アリ〉年號ノ文字ハ、古來ヨリ五十九字ニ定リテ、其餘ノ文字ハ新字トテ容易ニハ用ヒラレザル事也、〈今度ノ寛政ノ政ノ字、是即新字タリ、〉然シテ今年ヨリ六十字ト成ル也、右勘進ノ後、公卿僉議アリテ、數多ノ號ノ中用ヒラルベキト定リタルヲ、七八號十號計モ撰ミスグリテ、夫ヲ又難陳トテ、陣ノ座ニテ衆議ノ批判アル事、別册ニ寫シタルノ文、即チ今度ノ難陳ナリ、右難陳ノ對問ノ上ニテ、改元ノ上卿、〈乃今度右大臣也、近衞家也、〉二號或ハ三號、衆議ノ宜キヲ以テ奏聞アレバ、其上ニテ一號ヲ可トシテ、宣下ノ詔書ヲ以テ定制セラルヽ由ナリ、此餘ノ作法事數多ナル由、一々筆紙ニ及ビガタシ、唯其大抵ヲ述ルナリ、〈口傳アリ〉今度ノ上卿ハ、近衞右大臣殿、其餘難陳ノ文ニ見ユルガ如シ、〈公卿夫々今略之〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0293 改元定メノ月日ハ、正月廿五日ナリ、當日ヨリ公家ニテハ新號ヲ用ヒラル、武家並庶民ニ至ルマデ、悉クハ於江戸仰出サルヽノ日限以來新年號ヲ用ユルコト也、遠國ハ又江戸ヨリ承ル事ユヘ、時日又オソキ由也、已ニ京都ノ武家町家共ニ江戸ヨリ遲シ、

〔殿居囊〕

〈武家年中行事拾遺〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0293 年號改元出仕之節、ふくさ麻、御法事濟一同ふくさ麻、

〔官中秘策〕

〈二十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0293 改元之事
一前晩、明幾日何時御用之儀有之候間、登城可仕旨、御老中御連名御切紙來、御請使者遣之、當日刻限より已前登城、〈常服半襠〉年號改元之旨令仰渡之、

〔視聽草〕

〈六集二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0293 文政十三年十月日、京都より申來、來ル十二月十日年號改元、即日恩赦被行之由被仰出、〈◯中略〉御座之間御上段(十二月十六日)、公方様、内府様御著座、御服紗小袖、御麻上下、年號之書付二包、御硯蓋ニ載之、加賀守越前守脇差不帶持出之、御上段〈江〉上り、公方様内府様〈江〉差上之退去、御前被御覽、此節年寄共、備前守、越前守一同出座、御目見御意有之、御祝儀申上之退去、過田沼玄蕃頭御目見申上之、畢而若年寄中永井肥前守、森川内膳正御目見、御祝儀申上之
奉書紙
三ツ折
 年號
天保
 

〔寶暦集成絲綸録〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0293 延享元子年二月廿九日
一病氣又は幼少ニ而、今日出仕無之萬石以上之面々〈江〉年號改元之儀、先例之通、老中宅〈江〉使者可差越之候、在國在所之面々は、承次第飛札可差越候事、〈◯中略〉
右之趣可相達

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0294   二月
延享元子年二月
一年號延享〈與〉改元被仰出候間、此旨町中不殘可相觸候、以上、
  二月

〔寶暦集成絲綸録〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0294 寶暦元未年十一月三日
一病氣又者幼少ニ而、出仕無之萬石以上之面々〈江〉、年號改元之儀、先例之通、老中宅〈江〉使者可差越候、在國在所之面々者、承次第飛札可差越事、〈◯中略〉
右之趣可相達
  十一月
寶暦元未年十一月
年號寶暦〈與〉改元被仰出候間、此旨町中不殘可相觸候、以上、
  十一月

年號勘者宣下

〔本朝世紀〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0294 康治元年四月一日甲子、今日有進年號宣旨、〈顯豐卿可勘申之由、同被仰下、但不宣旨、〉
 左大臣宣、奉勅、仰文章博士藤原永範朝臣、宜進年號字者、
   永治二年三月廿八日     大炊頭兼大外記助教中原朝臣師安
二日乙丑、少外記安俊向權中納言實光卿亭、申進年號字之由

〔編御記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0294 建保
建暦三年十二月二日、頭辨宗行朝臣消息云、
 來六日、可改元、可進年號字者、依天氣上啓如件、
   十二月二日     右大辨宗行〈奉〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0295  謹上 式部權大輔殿
請文云
 來六日、可改元、可進年號之由、謹所請如件、
   十二月二日     式部權大輔爲長請文
三日、召使持來宣旨、予一人也、仍取留宣旨畢、

〔拾芥記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0295 文明十九年七月四日、來十八日、就改元、内々今日被勘文、勘者、在治卿、在永卿、長直卿、在數、和長等也、依妖災火災改元云々、
  年號事
寛祐 禮記曰——
萬和 文選曰——
康樂 崔寔政論曰——
                    從三位菅原長直
  状云
年號勘文、先可召之由、依仰進之候、恐々謹言、
  正月四日
                    長直
    頭左大辨殿
                    從三位菅原朝臣長直
左大臣宣、奉勅、宜件卿撰進年號字者、
  文明十九年七月十六日

〔改元格〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0295 明和九年十月廿四日勘者宣下次第

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0296 刻限奉行職事來著障子上坐、家司出逢職事事由、次主人令客亭給、以家司職事、次職事參進仰仰詞退出、此間外記參入、家司申其由於主人、主人仰召之由、次外記參進、次主人仰年號勘者事、外記稱唯退出、次主人令簾中給、
  明和九年十月廿四日宣旨
文章博士菅原益長朝臣、同菅原輝忠朝臣、式部大輔菅原朝臣、右大辨菅原朝臣、大學頭菅原朝臣爲弘等、擇申年號字
                    藏人頭左 辨藤原光祖朝臣
式部大輔菅原在家朝臣、内大臣宣、奉勅、宜件人撰進年號字者、
  明和九年十月廿四日     大外記兼掃部頭造酒正中原朝臣師資奉
右大辨菅原世長朝臣、内大臣宣、奉勅、宜件人撰進年號字者、
  明和九年十月廿四日     大外記兼 師資奉
文章博士益長朝臣、菅原輝忠朝臣、内大臣宣、奉勅、宜件等人撰進年號字者、
  明和九年十月廿四日
     大外記
大學頭菅原爲弘朝臣、内大臣宣、奉勅、宜件人撰進年號字者、
  明和九年十月廿四日     大外記
    上卿内大臣輝良公
    傳奏油小路大納言隆前卿
    奉行烏丸頭左大辨光祖朝臣
    家司梅小路兵部權少輔定福朝臣

難陳

〔改元物語〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0296 ツラ〳〵本朝ノ古ヲタヅヌルニ、大化大寶ヨリ以來、改元ノ例久シ、或ハ嘉瑞ニヨリ、或

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0297 ハ凶災ニヨリ、其趣品々也、即位ノ年ニハ改元アルコト例也、或ハ先年ノ年號ヲ用ヒテ、年ヲ歴テ改元ノ例モアリ、中古ヨリ菅家江家ノ紀傳道ノ輩、年號ノ字ヲ勘進ス、其引用ル書三十部バカリヲ限リテ、古書ニ非レバ用ヒズ、數多勘進スル中ヲ、陣ノ坐ニテ難陳ノ問答アリテ議定セルトナン承ル、

〔本朝改元考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0297 宋眞宗時、楊大年擬豐亨字、上曰子不一レ了不用、淳熙本作純字、時人有言、此字必改、言未旣而改、蓋純字有屯字旁、慶元時先擬隆平、某云向來改隆興、時有人議破、以爲隆字近降字、今旣説破則不用、語類載此、而無判斷之言、余謂此皆閑議論也、亨字天徳之名、純字文王之徳之純、謂之非美字而可乎、隆是降之反、豈以字似而廢之哉、仁宗即位改元天聖、時太后臨朝稱制、議者謂、撰號者取天字於文爲二人、以爲二人聖者太后爾改元明道、又以爲明字日月並也、與二人旨同、見歸田録、其撰者果爲容悦乎、不然則議者之誣也、徽宗即位、改元建中靖國、或謂建中與徳宗同、不佳、謝上蔡云、恐亦不一播、後下獄、見語類、楊方震曰、史稱上蔡坐口語、繫詔獄、廢爲民、其即建中年號之説乎、宋之年號、同於衰世及垂亡之小邦者、往々有之、如前之乾徳後之建中是也、然乾徳不驗、而建中則驗、是又在乎徳之厚薄、而不乎䜟之有無、上蔡之論、特因徽宗而知之也、楊氏此論得之矣、〈玉海所載離合之䜟、重複之嫌、皆以楊論推斷一レ之、〉本朝撰號、大略見園太暦、不人名、不異國年號也、但其文字出處、不據、或有之、如建安似嶮難音之嫌、何可之也、

〔鹽尻〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0297 凡年號の定の日は、京師地下の學者禁庭へ參りて、とかく唱へなどして議し奉りしとかや、天和改元の日、庭上にして天火の音に呼し故、貞享已來は地下の者を禁止せさせ給ふ、

〔翁草〕

〈百六十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0297 滑稽は道に非ずして、而も道なる物と云り、和國にては和音の通ずる處をもて吉凶をのづから顯はるヽ也、改元の時諸卿の難陳は、字義に寄計也、冀くば誹諧に長ぜしものを難陳に召加へられなば、此難は有べからず、誹諧則滑稽也、旣に軍陳には和音の響をもはら用らる

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0298 る事にて、御當家國初にも、桂の里の桂姫、美濃の大柿をはじめ、いさヽかの言葉に吉凶をはからるヽ例不勝計

〔茅窻漫録〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0298 和漢異年號
此邦改元ある時に、難陳といふ事あり、年號文字の義理出據などを吟味し、善惡是非を難じ陳ぶといふ、其時易經の語を引くには、書名をいはず、或文に曰と書くは故實にて、變易變化を忌み嫌ふなりと、然るに近歳にも化字を用ひて紀元ありしは、いかなる事にや、
◯按ズルニ、易經ヲ引クニ、書名ヲ或文曰ト書スルコト、他ニ證據ナシ、各家ノ勘文ニハ皆周易ト書シ、書名ヲ忌マザルガ如シ、

〔改元部類〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0298 權記、寛弘九年十二月廿五日戊子、今日以後四箇日物忌也、然而依外記度々誡參内、左大臣參入被年號事、大臣及中宮大夫、右大將、尹左兵衞督、修理源相公被參、頭中將下文章博士宣義通直等勘申年號一枚、太初、政和等也、定申云、件字共非優、但勘申之中、長和頗宜歟、抑勘本文便年號字、然而自太初政和頗宜也、僉議同之、被奏宣下、大臣召大内記爲清、被詔書可作由、此間余〈◯藤原行成〉退出、太初(○○)、漢武帝年號、此年十一月朔旦冬至也、今年有朔旦、彼年戊子、今年又戊子、依彼例勘申也、前秦西秦共有此號、南凉又有之、件年號前秦九年、即爲姚興滅、西秦廿一年、年歴雖久、僞主代無殊事、非庶幾、南凉三年歴甚少、又武帝之時、非亂代、其例可因准、然而彼年柏梁臺災、庶幾彼年之例、亦甚無爲、紀云、太初元年、〈應劭曰、初用夏正八、正月爲歳首、故改年爲太初、〉十一月甲子朔旦冬至、乙酉柏梁臺災、夏五月正暦、八、正月爲歳首云々、二年春正月戊申、丞相石慶薨、十二月御史大夫寛卒、又後漢質帝、太初元年六月、爲梁冀殺、政和(○○)、禮記文云々、有毛詩關睢篇序云々、然而政字、秦始皇名、可之、唐家本朝以政字年號之事、唯有後周宣政一年、不用歟、

〔水左記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0298 承暦五年二月十日、被年號勘文三通、〈一通左大辨實政卿勘申嘉徳、一通有綱朝臣元徳、一通行家朝臣〈文章博士〉永保、永長、應徳、〉人々令

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0299 云、永保應徳之間、可勘定者、仰云、永長蓋令撰申哉、人々申云、永長(○○)字、對馬音似笛名、仍不之歟、仰云、可永保者、内府召大内記敦基改元詔書之由、又有赦令賑給事、是皆准治安元年例也云云、事了人々退出、事雖多不委記

〔中右記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0299 長治元年二月十日、今夜依改元定云々、左府兼日奉仰、下知儒者等撰申、奏聞後有僉議也、次第見下文、申上承安長治、此二間可勅定申上了、付頭辨件旨、勘文同進上之、重仰云、件二年號中、重可申上者、左衞門督以下承安可宜、左内府被申云、長治可宜、又仰云、可長治、是依天變也、但依正暦詔書云々、 今度年號勘文之中ニ、天祐(○○)或儒者撰申之條、甚奇恠也、天祐ハ、唐末景宗時年號也、先例唐年號雖用、末之世、亡帝之時年號未用、而撰申之條、可用心、爲後代記置也、

〔中右記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0299 天仁元年八月三日庚辰、今夕可改元也、頭爲房朝臣、下年號勘文於左大臣、可定申之由、所仰下也、〈件勘文三通、儒家太宰帥卿大江匡房、文章博士在良、敦光撰申也、籠懸紙一紙、結申被下、江帥書檀紙、依公卿歟、〉此間公卿、多被參著、三四人著端座、一々見哉、左大辨讀上勘文、〈江帥勘文有年號六、先例不三也、頗多如何、〉一々可申上由、左府被發語、藤宰相〈顯〉申云、天仁承安可用、左大辨、〈重〉天永元徳、右宰相中將、〈顯〉同左大辨治部卿、〈天永元徳〉下官〈◯藤原宗忠〉申云、帥卿所撰申、元徳承安可宜歟、皇后宮權大夫、〈顯〉源中納言、〈國〉別當、〈能〉右衞門督、〈雅〉藤大納言、〈經〉右大將、〈家〉民部卿、内大臣以下皆被同、下官定申、爰左大臣被定申云、帥卿年號之内、正治天仁之間可用也、議了付頭爲房朝臣、以詞被奏、〈年號之定、以詞被申例也、〉勘文同被返奏了、經數刻歸來、〈參院云々〉仰云、左大臣被定申、二年號之内、重猶可撰申、人々多可正治之由被定申、予申云、此年號、共不心得也、正治(○○)反音詞也、頗有忌諱音也、天仁(○○)音、又通天人也、年號或漢音、或倭音、共所讀也、天人頗不心、共不心得之中、被正治如何、人々多被予詞、左大臣命云、天人多樂之境也、不忌歟、予申云、天上與人間、猶以不心得由執申、左府強不難之由、重被奏問、此間更漏漸閑、雨脚殊甚、頭爲房歸來、仰云、可天仁之由、可

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0300者、左大臣召大内記敦光仰下、則詔書草進之、付頭被内覽、〈殿下御于御前歟〉早可清書之由被仰下、召大内記、被清書之由、則清書持參左大臣、又付爲房奏聞、〈乍仗座奏也〉御畫了返給、召中務丞下給、〈乍笘給之〉

〔中右記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0300 保安元年四月十日庚辰、頭辨以改元勘文、下内府、内府取一通結申給、仰云、定申セ、次給予披見之所、勘文二通式部大輔兼文章博士在良朝臣、撰申長仁、天治、保安、文章博士敦光朝臣、撰申天治、慶延、長壽、今度二人勘申、籠懸紙一通、不結申、及三通時結申也在良朝臣、儒宗兼文章博士也、仍今度二通也、予見了、傳次人、次第見下、此間掌燈、左大辨讀上勘文、發語云、長仁、保安可宜、其後人々多互申上、多ハ天治也、予可保安、慶延之由申上、内府申給云、天治慶延者、頭辨申人々議趣、返上勘文、被院、頃而歸來云、人々申旨不同也、又多申上於重可定申者、左大辨、右兵衞督、侍從中納言、予可保安也、別當治部卿、内大臣、天治者、又被此旨也、他年號被沙汰、予申云、長壽(○○)ハ、唐則天后時年號、纔一兩年也、唐年號、先々雖用、年紀久、或明年時年號也、於長壽者不久、又女帝年號也、仍不用歟、天治(○○)ハ、又音同天智天皇號也、長仁(○○)ハ、近代散樂法師名也、天下上下、衆人頗嘲哢歟、左大辨、散樂法師名、更不沙汰、誠是興言也、何如、此事可沙汰哉、内大臣示給云、於年號者、世間云、人妖言、尤可避事也、於年號者、萬人甘心可宜歟、仍散樂法師名被避、何事之有哉、頭辨來仰云、依御愼改元、以元永三年、爲保安元年、依天喜例、可詔書者、内府召藏人辨實光、可詔書仰下也、

〔長秋記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0300 大治六年正月廿九日改元定也、今日兩院自法金剛院還御、然而實能長實兩卿外、皆可改元定之由、所仰下也、未刻束帶參院、頭辨談云、改元勘文事、右大臣奉行也、〈◯中略〉勘文今日可下申也、大内記〈宗光〉依病不參、仍無詔之人、前例文章博士儒者辨取候、而近日中辨中無儒者、文章博士例也、仍又被例處、有大辨候例、仍召右大辨實光也、次諸内府束帶被出取出勘文案評定、敦光朝臣詣、令勘文等、人々付和名、〈◯中略〉吏部云、寧成兩字非舊號、字多用舊字也、予〈◯源師時〉云、於無難之字

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0301舊字何事矣、若字盡後、以何可年號哉、吏部云、尤可然、此後共參内、其間申云、天壽(○○)、天祐(○○)、隋唐末年號云々、就中於天壽、大治度有博陸御難用、仍不撰定、泰和和字度々有世大事、頗可事憚歟、安寧(○○)寧字音通佞字、雖聲別定世人通詞歟、是等中、天承、天受、可指難歟、相共入敷政門陣内、〈◯中略〉頭辨顯頼、下勘文三通、大臣開一文結申、顯頼仰云、令撰申與、大臣微稱後卷文辨退、一々見勘文了、授次人、次第見下、至左大辨一見了依大臣命讀擧、其後次第定申、大辨申云、某々等勘申年號中、天承、天受間、可用歟、予申云、天承、永受、右衞門督同左大辨、別當天承、安寧、堀川中納言天承、引合兩文而雖勘申、其外無指難、可用歟、天壽、隋末宇文和之所立年號也、天祐、唐末亡時年號也、用漢朝年號、是雖常事、於憚者、不用也、件兩號已相當亡國時、尤有憚歟、天受(○○)、永受(○○)、受字下作又字也、年號以一號長年料也、而又作頗似後事也、〈別當云、受字下作或文字、〉慶成(○○)、成字有戈作、前々被忌、如此皆有其憚、民部卿天承、治部卿天承、慶成、中宮大夫天承吉、於泰和和字長可停止由、故院所仰也、勘先例多當不吉事、不用歟、内大臣天承、大臣召顯頼人々申旨、先申關白、次參院、良久不歸、予依所勞暫起座、及子刻頭辨歸院、此間下官復坐、頭辨仰云、天承一同撰申、但件文、上下已事異、雖兼兩勿一事時、其理可然、於天承上下二字雖相連、奉天承親是上下已異也者、可然之由、不存給、重可量申、又定申年號等中、可一定、天受、又作尤被難、其故慶字有反作、仍天慶以後不用、正字有一止、難者付字如此有難歟、但暫不其難、諸卿申云、天承(○○)上下文雖別、共是吉事也、有何難哉、雖定他年號等、尚天承可宜歟、顯頼退奏事由、歸出又仰云、改大治六年天承元年、〈依天變改元、〉赦令詔書事等、依急退出見、抑改元定故實定申兩三、依重仰申一、最前不是非、次尋時所善惡也、而最前難申又定申唯一、是乖故實歟、又成字、戈作難如何、土御門殿難成字也、戈與面相兼可憚也、而於成字面作、有何難哉、但大兄御事也、可口、戈作難事、後日尋申中納言、答云、唐書ハ、依已戈歳字通用載字也者、雖面作相具、尚可憚歟云々、是強難也、

〔台記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0302 康治元年四月廿八日辛卯、今日有改元云々、康治(○○)案之、康治反飢、若治勞音反忌、又穀梁傳昭廿一年云、大饑、傳云、一穀不升謂之嗛、二穀不升謂之饑、三穀不升謂之饉、四穀不升謂之康、〈康虚〉五穀不升謂之大侵、今案康治二字、皆從水、然則以水災、可飢饉之象也、後日以此事、問新大納言公能、答云、參入卿相更不此事、在官宜使能、今卿士、皆以經史、國家滅亡豈不宜哉、久壽元年十月廿七日丙午、光頼朝臣來下年號勘文、仰曰、可定申者、 廿八日丁未、今日改元、巳刻許、頭光頼朝臣來曰、法皇密詔曰、有思食、今度不治字者、疑大治四年、白河院崩故歟、〈◯中略〉余及兩長著陣、于時秉燭、仰官人勘文即進之、〈本前驅所持也〉余已下依次見之、此間成通參入加著、右大辨〈朝隆〉讀勘文了、自下定申、〈余徳進、徳祚、宗輔應暦、天保、宗能承寶、平治、成通、公教天壽、兼長、師長、朝隆平治、經宗天壽、天保、公通承寶、天保、資信延祚、〉了招頭辨之、歸來曰、重可擇定者、余難曰、天壽(○○)者、隋宇文化及之年號也、〈右大辨又申之〉承(○)者止也、寶(○)者寶位也、止寶位其忌、應暦(○○)者、勘文云、聖皇應暦數云々、似在位年限滿、朝臣曰、何言年限滿乎、言聖主應暦數者應暦數上レ天下也、余難曰、是彌有忌、似新帝、又天保(○○)者一大人唯十、是漢朝舊難也、〈右大辨亦申之〉平治(○○)者、勘文云、禹平治天下云々、是治洪水也、不洪水、師長披曰、延嘉者、禹治洪水得之玄珪之銘也、〈見尚書并初學記、詳引尚書、〉以准此了無其忌、〈所申其理可然〉宗能難曰、徳(○)字不用之由、白河院被定仰了、祚(○)字新帝即位稱踐祚、非其忌、〈今按、祚字難不審〉師長難曰、延祚(○○)者、爲庾亮所一レ殺人字也、朝隆難曰、承寶(○○)者、銘也、〈見勘文〉齊早亡不久、可忌歟、余曰、雖人事、所引文吉者何有其忌乎、殷紂時詩無其忌歟、朝隆復曰、承保者我朝舊年號也、保寶者爲同字之由、見左傳正義、同年號兩度被用如何、令光頼朝臣奏此等趣、〈各難申間、光頼朝臣依余命居聞之、〉即光頼朝臣持來舊年號勘文五通、〈◯中略〉諸卿見之了、皆曰、久壽無殊難、但經宗曰、嘉祿可宜、余曰、久壽(○○)者反音柩、有怖歟、諸卿曰、舊年號不必避反音之忌、即令光頼奏此由、〈◯中略〉光頼奏聞後、參鳥羽鳴鐘後光頼歸參、〈◯中略〉余著陣、光頼來曰、改仁平四年久壽元年、〈◯下略〉

〔改元部類記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0302 爲親卿記、保元四年四月廿日甲辰、今日有改元定、入夜予參内、内府以下卿相數輩參著、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0303 自畫有評定云々、淳仁(○○)字、有宜之由被申人々云々、而前中納言朝隆卿已訓讀通醍醐天皇御諱之旨被難申、平治字可宜之由被執申、依諸卿被之云々、但或人云、天皇御諱、隔七代之後、雖正字憚、况年號字、不訓、更不其憚云々、又於平治字者、當時會釋云、本文旁有難云々、

〔改元部類記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0303 顯時卿記、永暦元年正月十日己丑、早旦召使告來云、今日可改元定、〈◯中略〉定畢之後、召藏人辨、人々定申之旨可奏聞、〈各令申聞〉成頼還出仰云、永暦久承之間、相議一同可定申、左府〈◯藤原伊通〉被色予、左衞門督且告其由、予申云、久承(○○)、久者久壽、承者嘉承、尤可憚歟、大理申云、此難皆所存也、但非代初何事候乎、今三相公閉口、左衞門督、久承之難非其謂歟之趣也、藤源納言無音、新大納言久承之難、可吹毛、有本文之難者非其限、至于承字者、嘉承之後、有天承、有長承、更不其憚歟、内府、久承已其難出來、加之雖戲言、世俗之詞可窮少也、〈人心定早歟〉至于承寶(○○)者、大寶以後、瑞物之外不寶字歟、大喜(○○)又如何、予又重申云、大同之大字可憚歟、〈嵯峨弘仁元年事〉又至于承一字者、強不其難、仍且可申承安(○○)也、且依兵革改元、承安之條、人心和平之故也、至于久承者、云久云承、共依其憚難申也、別當申云、大喜法花經之文也、左府被仰云、經文被年號之條如何、左衞門督被申云、寶字者王位也、必不瑞物歟、隨又勘申如齊書文者、子孫承寶、然者繼帝爲所擇也、新大納言被申云、大喜在平治之度擇申、爲錫杖文之由、其難所出來也、左府然者可永暦(○○)歟由、被合内府、坐籍遠隔、其返答詳不聞、左府被答云、可永暦歟、〈◯中略〉其後成頼還出、著膝突仰云、改平治二年永暦元年

〔改元部類記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0303 長方卿記、永萬二年八月廿七日、次予進奧座年號勘文、上卿被示曰、仁安(○○)有難乎、新納言曰、天安代末年號也、〈又被治安、然而非代末申人々被之、依又被申、〉依之申弘治(○○)也、上卿曰、如仁字昔難來、至安字天安難、又有難否被尋、新大納言無殊被申事、予參上申此趣、殿下被難曰、安字止訓也、仁止如何、弘治(○○)又有難哉、可尋者、予又出仗座仰曰、弘治有難哉者、上卿被申云、弘字隨弓、又弘仁有兵革事、新藤

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0304 納言宰相中將曰、弘仁、寛弘、共有事可難者、新大納言無難陳之旨、予執申此趣、殿下被仰曰、弘字難、隨弓、次字治也、然者何事之有哉如何、但依衆議仁安詔書仰者、〈◯下略〉

〔改元部類記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0304 角金安元三年八月四日天晴、今日有改元事、依秉燭著束帶陣、左府(經宗)以下著陣、左大辨、〈弘保〉新宰相中將、〈實宗〉堀川宰相〈頼定〉等、取條、〈實宗弘保、仁治、頼定養和、能文、〉實守卿、〈仁寶〉予〈(藤原家通)弘保、治和、〉實綱、〈弘保〉雅頼卿同左大辨、左兵衞督同右大辨、別當忠親、〈養和〉藤大納言實國、〈弘保〉三條大納言實房、〈養和、治承、〉中宮大夫相議被弘保、〈就多人定申〉仁寶、〈實定卿執申故相具云々〉博陸不參内給、依左少辨參松殿申之、歸參申云、弘保(○○)者、隨弓作、其字不快、仁寶(○○)者、上仁字、近例不快、下寶字者、漢家連々不快、本朝又不用、及二百歳、若有故廢也、仁治、治承、共雖難、此兩字中可申者、人々議定曰、仁治(○○)者、上仁字、近仁平仁安、共不快、治又平治不快、至于治承(○○)者、上治字三水、下承字又隨水篇、連々有水損之聞、而隨水邊也云々、召左少辨、又被此由、宣定、隆季、實國、實守卿退出、兼光歸出示申云、兩字雖尤可一レ然、仁治上仁、雖強不一レ憚、萬治(○○)字、平治亂、其例不快、於治承者、水篇多由尤可然、然而永承(○○)之字、隨水篇今度依火災改、多隨水篇、何事有哉、可然之由相議、上卿被奏、兼光歸來仰云、改安元三年治承元年、大極殿火災之上、天變頻聞方々由可詔書、依康平例詔書者、依大極殿火災、改天喜康平

〔拾芥記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0304 一改元事
八月〈◯延徳元年〉廿三日、予當番、於親王御方、侍從大納言被年號雜談、延徳者反無形云々、又天保ノ字難ハ、一大人唯十ト難ト云々、又慶ノ字庶心反ト難ト云々、如此字難多端云々、

〔改元格〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0304 明和九年十一月十六日改元定次第〈◯中略〉申詞〈◯中略〉
天明 難、左衞門督、天明之號、天字在上、其例多トイヘドモ、明字在下、文明之外無之候歟、且有古難、如何候ハン、 陳、日野中納言、左衞門督藤原朝臣被難、天明號、明字在下例、文明之外無之、シカレドモ文明年序久歟、天字在上號、天長、天暦、爲聖代之嘉號、可擧用哉、 重陳、左大辨宰相、天明號權中

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0305 納言藤原朝臣被陳申趣有其故、今度此號雖擧申、然佳號也、被採用何事候哉、 内大臣、天明號尤可也、先被他號候ヘ、
嘉徳 難、右大將、嘉徳號ノ事、後漢嘉徳殿火不快候、且徳字舊難多候、難今用歟、 陳、廣橋中納言、被難之旨其故アル歟、雖然大寶旣爲漢家不快之殿名、况處名殿名相通、于年號憚之由先達記之、且徳字雖舊難、徳字在下之號、及數度之上者、嘉徳之號可巨難歟、何取漢家之先蹤、捨本朝之佳例哉、宜群議、 重陳、宰相中將、陳言之趣雖然、嘉字在上十度、徳字在下十三度、共年序不久、且此號治暦度始而勘進、後凡二十餘度出現候歟、江中納言匡房卿有難申旨、雖大寶延暦等例、強而不庶幾候、 重陳、橋本中納言、重被難之趣非據、雖然於年序之多少者、強不先例之旨、明和度既陳申候歟、且此號字義就中神妙ノ間、勘者不之、度々出現不此號之規摸歟、江帥之難事舊候、元賢毎陳申ノ上者、此微瑕何足白璧之價乎、猶宜群議
文長 難、廣橋中納言、文長之號、度々雖勘進、先輩旣有難申旨、各有其謂歟、况年號者用疊字本意之由、見自他之記文、旁此號不庶幾候、 陳、左衞門督、文長ノ號被難申旨非其謂、但非疊字用例〈茂〉不少、且此號音響モ優美候、可擧用候歟、 重陳、西園寺大納言、陳答、雖然文長者文永訓相同、文永者年暦雖十箇年餘嘉例、且此號舊難最多、旁不庶幾候、可如何哉、
建正 難、左大辨宰相、建正號雖引文相違、建永度俊卿初勘出字也、然貞治度曩祖忠光種々難申之間、更不申愚存、其上正之字在下ノ例、大略不宜候、他號ノ中可用哉、 陳、左衞門督、被難趣無餘義候歟、但正字在下、永正、天正、年序旣久、被此號何事哉、猶宜群議、 重陳、宰相中將、建正之難一旦雖然、左衞門督陳答ノ趣有其謂歟、引文施法于官府、而建其正云々、尤可擧用候哉、 内大臣、建正號聊有存旨、可閣候、
萬保 難、橋本中納言、萬保號、萬字被上之例、萬壽萬治之外無之候、且萬者舞之名、象武王以萬人

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0306天下、此條又如何候、旁不庶幾候、 陳、西園寺大納言、萬保之號、被難之旨有其謂、但萬字在上之例雖少、保字在上之例及十一箇度、且萬字爲舞名之事、旣以樂名用、永和以後度々也、然上者此號無巨難歟、

〔視聽草〕

〈七集七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0306 年號字難陳〈◯中略〉 難     公迪卿
享和號、享字古與亨烹通、故韓信傳有獵犳亨之之文矣、而後醍醐天皇辛酉、始用元亨之號、是歳大旱、厥後金革不止、永享雖代始、且經紀長祅災數現、享祿貞享等、交不祥、且夫穀果傳曰、諸侯不享覲、和字、爾雅曰、徒吹謂之和、又孫子兵法有交和之文、享和交和聲相近、至長和、年中祝融爲祟二度、養和最不吉也、因這思之、凡不以庶幾之號乎、然非敢黜陟、宜在群議
 陳     俊資卿
享字、古與亨烹相通、誠然、享和字有周禮内甕割享煎和之文、因享熟和齋之義亦宜候〈波牟、〉元號用享字佳例、古來有之、近享保、延享、明證候、和字我邦之通稱、不崇敬、被難之條逐一雖不及論候歟、長和養和雖不吉之由、元和明和共盛時、又延寶辛酉年改天和、旁以可珍重之、號、且按、引文今度改元旨趣適當、最可擧用候乎、
 重陳     胤定卿
享和之號、中宮權大夫藤原朝臣被難申旨趣、雖其謂、近者享保年序久、又明和海内無事、太上皇殊近世稀〈奈留〉被寶算畢、加以如權中納言源朝臣陳答引文珍重候、且按漢書禮樂志曰、薦之郊廟、則鬼神享之、朝廷則群臣和、可泰平之美號、被擧用然候歟、
 重難     頼熙卿
享和號、權中納言源朝臣、同藤原朝臣等陳答、誠盡其理、雖然舊難之號歟、且享和字、和漢有離合讖、仍被之可然候〈波牟〉哉、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0307  陳     實光卿
享和之陳答、頗雖謷々、離合讖強無憚歟、亨享相通、享者嘉之會也、大享以養聖贒、五官致貢曰亨、協和萬邦、禮之用和爲貴、律和聲皆所經典、况於本邦美號字乎、邇尋芳躅、天和、享保、明和也、亦順天運人和之文意、可優美、仍所擧申、宜上裁乎、
 重陳     前秀卿
離合讖重被難之條、難默止、權中納言源朝臣、權中納言藤原朝臣、參議左近衞中將藤原朝臣等被陳申旨趣、誠當其理歟、就中享保、明和之盛時在邇、左氏傳曰、享以訓恭儉、宴示慈惠、且享者獻也、和者順也、聖徳徧于八荒、遠夷來享、民俗益協和、不復吉乎、其可美號、被擧用他議歟、
 判     忠良公
享和之號、殊優美候、且人々多被擧申、旁可採用候、嘉永亦佳號也、以享和嘉永之兩號、令奏聞候〈波牟、〉
享和嘉永殊〈爾〉宜候、兩號之間可叡旨、奏聞、

〔如蘭社話〕

〈十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0307 明治年號難陳     大城戸宗重
改元の事は、漢ノ文帝の神仙を信ぜられしに權輿し、武帝の奇を好ませられしに成りし者ながら、また世の進化の一證なるべし、されど漢武帝、唐高宗の如き、一世に十二三の改元あり、我朝にても、二條天皇の御在位七年間に五回の改元あらせられ、四條天皇は十年間に六回の改元あらせられしなどは、いと煩しき限りなり、明太祖は英斷にも始めて一世一號と定められ、今の覺羅氏も此制に倣はれたり、そは外國の事にて兎まれ角まれ、我が昭代の初、斷然舊式に據らせ給はず、御一世一元と仰出されしは、賢き御世の一大美事ならずや、畢竟國家の治亂盛衰は、年號の如何に在ずして、施政の得失如何にあるのみ、此頃享保二十一年御改元定の難陳を見しに、唐橋大内

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0308 記〈在秀朝臣〉の撰進中に、明治の號を加へたり、當時西園寺大納言、〈公晃卿〉高辻式部大輔〈總長卿〉の陳辨もありしかど、坊城中納言、〈俊將卿〉清閑寺右大辨〈秀定卿〉の論難に依て、終に元文とぞ改元せられたりき、今明治の昭代となりて、いと珍敷き事に思はるヽまヽ、此に其の全文を掲げて、文義は取り様、治亂は爲し様にあるの一例となさむとす、嗚呼百五十年前に排斥せられし明治の號も、今日斯く時を得たるを視れば、獨人のみ幸不幸あるにあらず、文字も亦遇不遇あるか、
明治   唐橋大内記
周易曰、聖人南面而聽、天下嚮明而治、
難   清閑寺右大辨
明治號、代始被治字凡七八度、各年序不久、可如何候哉、
〈按に、御代始に治字を用られしは、崇徳天皇の天治は二年、近衞天皇の康治は二年、二條天皇の平治は一年、後堀河天皇の寛治は七年、土御門天皇の正治は三年、後深草天皇の寶治は二年、後宇多天皇の建治は三年なり、〉
陳   西園寺大納言
明治號、被難之趣有其謂、然此二字其義用甚大矣、夫明明徳于天下者、聖王之所以治天下也、故禮曰、明照四海、而不微少、又云、參於天下、並於鬼神、以治政也、尤宜號、可採用候乎、猶可群議
二難   坊城中納言
明治之號、所陳之其義固盡、菲才不難也、然析字言之、則明字爲日月、治字從台水、台星名也、水旣逼日月星辰、則有洪水滔天之象、平時尚恐其不一レ叶、况於龍飛之始乎、
二陳   式部權大輔
明治號、析字被難之趣、離合之讖、尤有其謂、然明字爲日月、按、周易大人者與天地其徳、與日月其時、此文可嘉徴、如治字從台水之難者、天治號可水逼天文星辰也、亦在龍飛之始、而無決水之事

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0309古驗今、強無其難歟、可採用哉、猶可上宣
◯按ズルニ、改元難陳ノ事ハ實ニ繁冗ヲ極ム、故ニ多ク省略ニ從フ、其詳細ヲ知ラント欲セバ、宜シク改元部類記ヲ看ルベシ、

〔元秘抄〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0309用年號〈今按、此已後於用者、加合點畢、〉
天受〈孟子、朝綱一、行盛一、〉 天保〈毛詩、輔正一、敦基一、行盛一、茂明一、〉 天祐〈周易、毛詩、春秋繁露、爲政一、正家一、有元一、〉 天成〈周易、左傳、尚書、實範一、有綱一、敦基一、〉 天祚〈後漢書、實政一、匡房一、〉 天和〈後漢書、成季一、禮記、行氏一、〉 天惠〈文選、永範一、匡房一、〉 天明〈孝經、敦光二、永範二、長光二、〉 天壽〈尚書、敦光一、長光一、〉 天隆〈後漢、敦光一、〉 天文〈老子、俊經一、〉 天統〈論語疏、資長一、〉 天同〈周易、永範一、〉 天寧〈文選、永範一、〉 和平〈周易、輔正一、〉 和寧〈成季一、〉 和萬〈尚書、茂明、敦周、資高、〉 承天〈周易、後漢書、禮記、明衡一、成季一、顯業一、〉 承寧〈漢書、左傳、永範一、〉 承祿〈魏志、長光、〉 承寶〈齊書、義忠一、永範一、〉 承慶〈晋書、實光二、〉 安寧〈史記、有元一、〉 安治〈漢書、匡房二、〉 威徳〈周易、擧周三、〉 咸寧〈尚書、周易、輔正一、〉 康徳〈尚書、定茂一、〉 康寧〈史記、漢書、成季一、〉 康安〈漢書、長成、在輔、唐記、在嗣、毛詩正義、在輔、毛詩、家嗣、〉 康正〈維城典、宗業、良頼、在淳、行光、〉 治徳(徳治出)〈淮南子、實政三、〉 治平〈春秋元命苞、資業一、〉 治昌〈大禮、有綱一、〉 治和〈淮南子、敦宗二、敦光一、光範一、〉 治萬〈尚書、在高、〉 成徳〈孔子家語、荀子、資業二、正家一、國成一、〉 成和〈莊子、實茂一、〉 嘉徳〈左傳、史記、實政三、成季一、〉 嘉福〈毛詩、漢書、敦宗一、光範一、永範一、〉 嘉康〈尚書〉 正徳〈尚書、成季一、〉 正長〈貞觀政要、親經、經業、在淳、毛詩、在嗣、行光、〉 弘徳〈周易、成季二、〉 弘保〈晋書、顯業一、永範二、俊經四、敦周、〉 弘治〈北齊書、永範二、〉 建徳〈文選、有元一、〉 建正〈史記、親經二、〉 建〈史記、資實、〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0310 建天〈史記〉 建萬〈貞觀政要、爲長、長成、周易、家高、〉 齊徳〈文選、敦光一、〉 齊恭〈文選、實茂一、〉 顯嘉〈符瑞圖、光範、〉 顯應〈後漢書、光輔、〉 顯徳〈尚書、忠貞、〉 元弘(元弘出畢)〈孝親〉 元初〈晋書、親經、〉 徳延(延徳出畢)〈尚書、長光一、〉 徳安〈茂明二、敦周一、〉 徳祚〈漢書、茂明二、〉 徳久〈文選、敦周一、〉 徳元〈尚書、爲長、〉 徳仁〈禮記、兼光、〉 徳齊〈文選、範光、〉 徳和〈左傳、在輔、〉 慶延(延慶出了)〈後漢書、敦光、〉 慶成〈文選、行盛、有元一、〉 永受〈儀禮、成季一、俊盛一、〉 永貞〈周易、匡房、有元一、〉 永世〈漢書、長光、〉 永命〈尚書、範兼〉 永壽(壽永出畢)〈晋書、敦光、〉 永寶〈後漢書、宗業、〉 大應〈史記、擧周一、俊經四、〉 大慶〈毛詩、成季、〉 大喜〈後漢書、顯業、白虎通、俊經、〉 大承〈尚書、齊書、永範、敦周一、〉 大弘〈擧周〉 大平〈毛詩、成季、〉 長育〈毛詩、爲政一、〉 長養〈漢武内傳、成光一、五行大義、資名二、〉 長觀〈光範一〉 長壽〈後漢書、敦光、〉 延世〈尚書、北齊書、輔正一、永範一、〉 延政〈擧周〉 延祚〈後漢書、擧周一、匡房一、顯業、長光一、〉 延壽〈後漢書、文選、齊周三、正家一、義明一、俊經一、〉 延祥〈義忠一〉 平泰〈老子、資業一、〉 平章〈尚書、國成一、〉 平康(康平出畢)〈史記、尚書、禮記、輔定、永範、〉 平和〈尚書、行盛、〉 政善〈擧周一〉 政和〈禮記、典言資業一、實綱一、有綱一、敦國一、資長一、匡房一、〉 政平〈符瑞、後漢書、家經一、〉 政治〈尚書、孟子、敦光一、行盛一、行光一、〉 養壽〈史記、文選、後漢書、實政一、成季一、敦光二、長光一、〉 養治〈史記、實光一、長光一、敦周一、資長、〉 養元〈漢書、成光、〉 仁寶〈孝經、光範一、〉 仁保〈孟子、永範一、〉 仁成〈淮南子、宗業、〉 保寧〈後魏孝登高文、有元一、〉 保貞〈帝王秘録、永範一、〉 壽長〈晋書、長光、敦周、〉 壽考〈毛詩、時登〉 應暦(暦應出畢上下)〈宋書志、永範一、俊憲一、敦周一、〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0311 應仁〈維城典、永範一、在登、〉 久承(承久出畢上下)〈東觀記、爲光五、〉 久長〈呉史、光範一、高嗣一、在成一、〉 乾徳〈俊一〉 乾綱〈維時〉 能成〈周易、輔正一、〉 能安〈尚書、輔正、〉 休和〈左傳、輔正一、〉 玄通〈通直一〉 義同〈長衝雲憲云、家經一、〉 恒久〈周易、輔正一、行盛一、〉 貞久〈周易、敦光三、成光一、〉 貞嘉〈文選〉 寛祐〈禮記、正家二、長成、〉 寛惠〈後漢書、兼光、〉 泰和〈楊子法言、擧周、〉 萬安〈呉志、後漢書、茂明、〉 萬祥〈文選〉 老壽〈後漢書、茂明、〉 淳仁〈文選、俊憲一、〉 淳徳〈史記、有元、〉 盛徳〈周易、擧周、〉 喜康〈尚書、俊經一、〉 喜元〈貞觀政要、光範、〉 繼天〈擧周〉 福應〈老子疏、光範、〉 禎祥〈後漢書、兼光、〉 文昭〈御註孝經、資實、〉 文承〈文選、爲長、〉
〈本云〉以上長成抄ス、猶漏脱號多之、
 後嵯峨院以後、載勘文用年號、
貞吉〈周易、爲長、〉 貞正〈唐暦、兼資、尚書、敦繼、易正義、藤範、〉 祿永〈後漢書、淳高、尚書、光兼、〉 祿長(長祿出畢)〈尚書、光兼歟、〈本不詳〉〉 永康(康永出畢)〈尚書、光兼、家倫、〉 永寧〈史記傳、俊光、〉 康承〈長短經、光兼二、〉 康暦〈唐書、公良、在登、〉 康萬〈毛詩、光兼、〉 康豐〈毛詩、經業二、〉 正建〈晋書、經範、〉 正保〈尚書、信房二、〉 正萬〈尚書、光兼、〉 正弘〈周易註疏、淳範二、〉 正永〈後漢書、在正、在淳、〉 元延〈晋書、經範二、茂範二、明範、淳範二、〉 元寧〈東觀漢記、淳高、〉 元萬〈周易、信房、〉 元觀〈白虎通、茂範、〉 寛正〈史記、淳高在常二、在嗣、〉 寛安〈毛詩、淳高、信房、高長、同正義、在輔、藤範、〉 寛久〈會要、在嗣、〉 寛應(本云、應字爲度歟、此事不審、)〈後周書、在淳、〉 天聰〈晋書、淳高二、〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0312 天觀〈尚書正義、經範、明範、家高、文選、在兼二、〉 天符〈文選、在嗣、〉 天貞〈老子經、資名二、〉 天嘉〈博物志、在輔、〉 天休〈晋書、在登、〉 天建〈尚書、藤範、〉 文仁〈春秋緯、經範、淮南子同、山海經、在匡二、在成、〉 文安〈晋書、經光、兼仲、兼綱、長綱、尚書、信房、行光、〉 文元〈隋書、在章二、在淳、〉 文嘉〈文選五注、在章、〉 文弘〈晋書、在嗣、在兼三、家高、唐書、在登、〉 文久〈梁書、長輔、〉 文齋〈尚書、敦繼、〉 文觀〈周易義廣會、俊光三、〉 文明〈周易、家倫、〉 應元(元應出了)〈周易、淳高三、良頼、〉 應久〈尚書注疏、在嗣、〉 應承〈後漢書、長輔、〉 應寛〈周易正義、茂範、〉 應萬〈文選、家高、〉 應仁 嘉惠〈管子、信盛、漢書、在登、〉 嘉萬〈宋書、在章、〉 嘉觀〈史記、俊光、〉 嘉慶〈毛詩、敦經二、家倫、在盛、在登、禮記疏、〉 大安〈漢書、公良、〉 大保〈尚書、公良、〉大嘉〈藝文類聚、貞觀政要、在公二、〉 大長〈周易注疏、在兼、〉 長仁〈貞觀政要、公良、〉 長祿〈韓非子、長成二、〉 長祥〈修文殿御覽、資宣二、俊光二、〉 長永(永長出了)〈藝文類聚、在嗣、〉 長應(應長出了)〈史記、在嗣、在輔、〉 長寧〈晋書、淳範、〉 長養〈五行大義、資名二、〉 長正(正長出了)〈周易注疏、在輔、〉 長康〈金樓子、在輔、〉 延元(南方)〈梁書、公良、長成、高長、〉 延嘉〈援神契、長成、晋書、經光三、瑞應圖、高長、〉 延文〈漢書、資宣、大宋實録、淳範二、〉 建承〈魏志、經範、金樓子、高嗣、〉 建明〈晋書、信房、後漢書、光兼、文選、長成三、〉 建萬〈貞觀政要、長成、周易、家高、〉 建祿〈唐書、良頼、〉 建平〈漢書、在公、在輔、〉 建文〈唐書、明範、淳範二、在登、〉 建嘉〈晋書、淳範、〉 建安〈漢書、在輔、〉 建聖〈後漢書、在輔、〉 建福〈毛詩正義、藤範、〉 建貞〈通典、藤範、〉 治建(建治出畢)〈周禮、經光、在公、〉 仁應(應仁出了上下)〈北齊書、經光三、兼仲、在登、〉 仁豐〈貞觀政要、在章、〉 仁永(永仁出了)〈藝文類聚、在章、在匡、〉 仁長〈晏子春秋、在嗣二、〉 仁正〈貞觀政要、在輔、〉 仁興〈漢書、在兼二、俊光、〉 仁化〈隋書傳、列子俊光、〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0313 仁養〈漢書、行氏、〉 觀仁〈尚書、公良、莊子、氏種、〉 萬長〈修文殿御覽、公良、長輔、〉 萬應〈同上、在嗣、〉 萬寧〈周易、行氏、〉 安延〈禮記、信房、〉 安寛〈春秋正義、淳範、〉 安長〈五行大義、在兼、〉 保祐〈孝經述義、長成、〉 保徳〈鹽鐵論、兼倫、〉 昭長〈宋書、光兼二、兼倫、〉 寧永〈尚書、光兼、〉 寧長〈尚長、五行大義、在輔、在嗣、〉 慶長〈毛詩注疏、高長、在輔二、俊光、毛詩、在嗣、在兼、〉 慶安〈周易注疏、在輔二、〉 慶仁〈後漢書傳、家高、〉 咸保〈桓子新論、高長、漢書、種範、〉 徳保〈尚書、在公、〉 徳永(永徳出了)〈尚書、在公、在輔、〉 徳弘〈帝範、在嗣、〉 暦久〈後漢書、長守、〉 暦觀〈後漢書、茂範、〉 暦萬〈後漢書、在公、在輔、〉 暦長〈後漢書、在輔、〉 遐長〈貞觀政要、資宣、〉 和元〈唐書、長成、尚書、在兼、〉 養仁〈隋書、兼仲二、〉 齊萬〈尚書、敦經、〉 齊治〈禮記正義、俊光、〉 弘元(元弘出了)〈後漢書、在嗣二、家高、在淳、〉 弘建〈晋書、淳範二、〉 乾嘉〈藝文類聚、在兼、〉 明長〈禮記、敦繼、〉 久應〈會要、俊光、〉 久化〈隋書傳、俊光、〉 祥和〈修文殿御覽、在登、〉 雍和〈史記、在淳、〉 寶安〈後漢書、在成、〉 寶仁〈文選、兼繼、〉 至正〈禮記、勝光、〉 至安〈貞觀政要、綱光、〉

〔鹽尻〕

〈二十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0313 一近世の年號、古へ勘文に出て被行ざりし號多し、今其一二を抄す、
天和 貞治改元の時、文章博士在成考の内にあり、又延元の改元の時、式部大輔長員の考、貞和改元に、文章博士宗範の考、觀應改元に、式部大輔長員の考の内等に出し、
慶長 元弘改元の時、文章博士在淳の考、正慶の改元に文章博士在成の考等に出たり、
慶安 正慶改元の時、正三位在登考の内に出たり、
右の外に、猶近年の年號を昔も書出されしが、難ありて止みぬるを、再び勘文を奉りて、天下の

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0314 號となりしも多かり、年號さへ時に用ひられずして、又期ありて被行けるあり、人の世の擧止めらるとも其期有る事にこそ、

吉書奏

〔中右記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0314 永長元年十二月十七日癸酉、今日大乘會始也、〈但無歌舞也〉申時許左大臣被仗坐、〈◯中略〉秉燭之程、左大辨被參入、以藏人辨時範年號勘文、〈◯中略〉是依天延例行者、彼時有天變地震也、〈◯中略〉今夜可吉書、予〈◯藤原宗忠〉先參御直廬覽吉書、〈美作國年料米解文、指笏用文杖、◯下略〉

〔改元部類記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0314 中右記、康和元年八月廿八日戊戌、今日可改元也、〈◯中略〉仰云用康和字、〈◯中略〉左少辨時範先覽吉書於左大臣、〈美濃國年料米〉主上御出晝御座、左少辨奏件年料米解文、歸出陣左大臣、〈返給下史云々◯下略〉

〔中右記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0314 永久六年〈◯元永元年〉四月三日乙卯、申時許外記來云、今日俄可改元定、必可參仕由、頭辨所仰下也者、〈◯中略〉頭辨來仰云、〈◯註略〉改元可元永也、〈◯中略〉欲吉書、而御物忌間、上臈職事一人不籠如何、殿下所仰之故也、〈◯中略〉仍被相尋之處、輕御物忌也、仍被破了、右中辨雅兼朝臣、申年料米解文於内大臣、〈加賀國〉見了返給、
保安元年四月十日庚辰、頭辨以改元勘文〈件勘文、今朝先被奏云々、〉下内府云々、〈◯中略〉頭辨來仰云、依御愼改元、以元永三年保安元年、〈◯中略〉則持參詔書草、〈書紙屋紙〉召内記筥、〈少内記廣兼召儲也〉入草付頭辨、内覽返給、〈◯中略〉内大臣任宣命趣囚人等之由示給別當、別當起坐仰撿非違使等、仍不佐、書黄紙筥進、〈又不内覽由被仰〉又進弓場頭辨奏、御畫日了返給、復本座外記、被中務輔、外記申云、輔近代不召儲、丞國高也、可召由被仰、中務丞參膝突給詔書、〈乍筥給〉次頭辨申官吉書、是加賀國年料米解文也、内府被奏由、頭辨内覽奏聞、〈殿下御殿上、主上出御晝御座、〉出仗坐下申、内府則返下給、頭出床子、下史歟、又頭中將宗輔、又下吉書、〈臨時公用〉召左中辨爲隆朝臣下給、人々退出、于時及夜半、〈◯下略〉

改元詔書

〔西宮記〕

〈臨時二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0314 詔書事 改元、改錢并赦令等之類也、但臨時大事爲詔、尋常小事爲勅也、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0315 上卿奉勅、仰内記詔書、即令内記、就御所奏聞、〈今案、先以草案奏歟、〉御畫日畢、著本座、召中務輔若丞陣膝突之、畢省寫一通外記、外記連書、大臣以下署所印署訖、大納言覆奏、〈外記進文、大納言奏於東階下、付内侍等之儀如常、〉御可訖返給、大納言至階下、取奏状外記、還著本座、外記於陣前小庭、候上卿氣色、稱唯持退畢、或外記持退於膝突、上卿取以開見御可之有無畢、返給外記、外記持退畢、但内記不參之時、以博士辨詔書畢、上卿奏云、内記不參、以辨某仕詔書者、勅許之後、仰辨令作、辨以草案筥、取副笏上卿、上卿召外記、筥入之奏聞、詔勅下所司之後、有誤之時、更召返如下儀奏聞改直又下給之云々、

〔北山抄〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0315 詔書事〈改元、改錢并赦令等類也、臨時大事爲詔、尋常小事爲勅、〉
上卿奉勅仰内記之、即令内記、就御所奏、返給、令清書之、〈用黄紙〉又參上令奏聞、御畫日、〈月字已上内記書之、一日、二日、是御畫也、見令總記、〉畢還著本座、召中輔之、〈乍内記所筥之、見貞信公延喜十四年二月十五日御記、輔若不參給丞、丞已上不參者、召録令外記傳給之、希有例也、〉省寫一通外記、參議已上署畢、大納言覆奏、〈外記進之、大納言披見返給、外記退立、上卿起座至軒廊西一間、取之付内侍、舊例、先入筥覽之、次挿文杖持候、近代乍文杖之、若大納言不參者、中納言奏之、或大臣奏云々、中納言又不參時例也、内侍不候之時、進御所、付藏人奏聞、〉御可畢、〈覆奏詞奧、可一字、自年號頗寄奧書之、〉返給、大納言至階下、取奏給外記、〈於本所之、外記立第二間南頭、上卿取笏退歸、〉還著本座、外記持候膝著、上卿取之、見御可之有無、〈舊例、外記退出後、更入筥覽之、而近代如此、下畢後若有誤、可改正者、召返奏聞、如下時儀、改畢奏聞下給、又如初云々、若有誤見者可奏也、若有落字、令事由、召詔書作者書加、无殊儀、見天慶五年正月五日私記、〉

〔續日本紀〕

〈三十七桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0315 延暦元年八月己巳、詔曰、殷周以前、未年號、至于漢武始稱建元、自玆厥後、歴代因循、是以繼體之君、受禪之主、莫祚開元錫瑞改一レ號、朕以寡徳、纂承洪基、託于王公之上、君臨寰宇、旣經歳月、未新號、今者宗社降靈、幽顯介福、年穀豐稔、徴祥仍臻、思與萬國、嘉此休祚、宜天應二年延暦元年、其天下有位、及伊勢大神宮禰宜、大物忌、内人、諸社禰宜祝、并内外文武官把笏者、賜爵一級、但正六位上者、廻授一子、其外正六位者不此限

〔都氏文集〕

〈四詔書〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0315年號

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0316 詔、朕聞、善政之報、靈貺不違、洪化之符、神輸必至、朕以寡薄、辱奉丕基、徳未天、惠非物、而去正月、即位之日、但馬國獲白雉一、二月十日、尾張國言、木連理、閏二月二十一日、備後國貢白鹿一、或體誤曉月、羽毛映於丹墀、或幹凌寒霜、枝柯被於青鄣皆應符改色、感祥變容、豈人事乎、蓋天意也、當是上玄錫祉、下民蒙一レ恩、今若仰而不宣、謂朕孱昧、思海内此休徴、亦夫因瑞建元、非故實、嗣位紀號、旣有前聞、況今柘燧改烟、葭灰正氣、風物和暖、卉木繁滋、宜佳辰以開寶運、其改貞觀十九年元慶元年、自今日昧爽以前、大辟以下罪無輕重、已發露、未發露、已結正、未結正、繫囚見徒、悉皆原放、但犯八虐、故殺、謀殺、強竊二盜、私鑄錢、常赦所免者、不赦例、又内外文武官、主典已上賜爵一級、亓正六位上者、廻授一子、五位已上子孫、年廿已上者、敍當蔭之階、僧尼滿位已上、加位一階、亓大法師位已上者、廻授弟子、夫以九州雲接、百郡星連、天降禎祥、地有處所、宜尾張、但馬、備後等三國百姓、當年徭役十日、就中瑞所正出、特須優矜、亓http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/0000000181ec.gif 葦田郡、勿今年之調、春部及養父郡、並免當年之庸、亓接得神物者、多治比部橘、但馬公得繼等、敍正六位上、賜物准例、看著珍木者、僧道能、到岸等、授位二階、並賜物准例、庶使鴻休罔極、流遠近而普霑、鳳暦無疆、配乾坤而彌久、主者施行、元慶元年三月六日、

〔改元部類〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0316 外記日記云、承平八年五月廿二日戊辰、〈◯中略〉詔、朕夙膺慈睠、虔奉叡圖、萬姓爲心、荷責之憂自切、四海在念、負重之懼彌深、履薄馭朽、九載于玆、而保章司暦、去春奏以厄運(○○)之期、坤徳失宜、今夏驚其地動(○○)之異、靜思彼咎、實疾于懷、方今訪遺風於西漢、畏(○)驚誡(○○)而開(○○)元(○)、撿舊跡於先朝、忌革命而改號、是則修徳勝災、與物更始之意也、可承平八年天慶元年、大赦天下、今日昧爽以前大辟以下、罪無輕重、已發覺、未發覺、已結正、未結正、及犯八虐者、皆悉赦除、又一度竊盜計贓三端已下者、同放免、但強竊二盜、故殺、謀殺、私鑄錢者、不此限、又承平三年以往、調庸未進在民身者同亦免除、若與善之非忘、何轉禍之可疑、宣布遐邇、俾朕意焉、主者施行、

〔革命勘文〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0316 元應三年、大外記中原朝臣師緒勘例、應和元年例、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0317 同五年〈辛酉〉二月十六日庚辰、左大臣以下參入、有改元之事、詔文云、忝居握符之名、未馭俗之道、況比年災異荐臻、此歳辛酉革命之符已呈、懍々乎如奔而無一レ轡、方今緬撿蚩篇、遠尋鳥策、上古帝王、南面稱孤者、畏警誡而建元、或警咎徴而改號、是則修徳却禍、與物更始之義也、改其天徳五年應和元年、〈◯下略〉

〔本朝文粹〕

〈二詔〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0317 改元詔  慶保胤
詔、唐堯之馭民也、敬雖時而未號、漢武之撫俗也、初以建元而爲名、自爾以來、或遇休祥以開元、或依災變以革暦、朕以庸虚、猥守神器、愼日是幾多日、計年唯十五年、天之未忘、屡呈妖恠而相誡、徳之是薄、雖兢惕而不消、去年黍稷之遇炎旱矣、民戸殆無天、宮室之爲灰燼焉、皇居唯有地欲修、又作百姓之費、將廢素非一人之居、惻隱于懷、寤寐難忍、方今上玄之譴便如是、中丹之謝欲奈何、宜正朔以易率土之聽、施徳政以解圜扉之寃、其改天元六年永觀元年、大赦天下、今日昧爽已前、大辟已下罪無輕重、已發覺、未發覺、已結正、未結正、咸皆赦除之、又一度竊盜、計贓三端已下、同始赦免、但犯八虐、故殺、謀殺、私鑄錢、強竊二盜、常赦所免者、不赦限、又老人及僧尼百歳以上、給穀四斛、九十以上三斛、八十以上二斛、七十已上一斛、庶幾攘餘殃於未萌、期弊俗於有截、布告遐邇、令朕意、主者施行、
  永觀元年四月十五日

〔言成卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0317 慶應元年四月七日改元定〈(中略)改元治二年慶應元〉 十三日、去九日加名詔書寫、宗岡玄蕃少允所望人々連名、雜掌當廻達之由、自廣幡傳、寫取梅溪〈江〉被傳達了、
詔、感禎祥而建元聖人常制、依咎徴以改號王者恒規、朕庸昧承運膺萬國之貢珍、瑞應未呈値外夷之窺一レ邊、加以去年秋七月、防長凶徒卒犯禁闕、銃炮餘火忽灰輦下、海内殆將扇動、庶民不安居、朕之不徳、民其何辜、方今顧思天下形勢、如素卵之累殼、似玄燕之巣幕、戰々兢々不裁、宜從先蹤以施新元、蓋與物更始之義也、其改元治二年慶應元年、大赦天下、今日昧爽以前、大辟以下罪無

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0318 輕重、已發覺、未發覺、已結正、未結正、咸皆赦除、但犯八虐、故殺、謀殺、私鑄錢、強竊二盜、常赦所免者、不此限、又復天下今年半徭、老人及僧尼年百歳以上給穀四斛、九十以上三斛、八十以上二斛、七十以上一斛、庶幾被徳風于四極、致太平于萬邦、普告遐邇、俾朕意、主者施行、
  慶應元年四月七日
               二品行中務卿臣
               正五位下守中務大輔臣卜部朝臣教久宣
               正五位上行中務少輔臣藤原朝臣資生〈奉行〉

〔太政官日誌〕

〈八十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0318 九月八日御布告寫
今般御即位御大禮被濟、先例之通被爲改年號候、就而ハ是迄吉凶之象兆ニ隨ヒ、屡改號有之候得共、自今御一代一號ニ被定候、依之改慶應四年明治元年旨、被仰出候事、
  九月
 改元詔
詔、體太乙而登位、膺景命以改元、洵聖代之典型、而萬世之標準也、朕雖否徳、幸頼祖宗之靈、祗承鴻緒、躬親萬機之政、乃改元欲海内億兆更始一新、其改慶應四年明治元年、自今以後、革易舊制、一世一元以爲(○○○○○○)永式(○○)、主者施行、
  明治元年九月八日

〔如蘭社話〕

〈二十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0318 御即位新式〈并建元論〉     宮埼幸麻呂
御一世一元の制を定められしは、廟堂の大議に決せし者なるべけれど、また學者の意見をも採用せられしは疑なき事なり、餘さきに加藤櫻老翁が、當時其すぢの人に出したる意見書を見し事あり、そは水戸藤田一正翁の建元論を引きて、いたく一世數號の不可なるよしを辨へ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0319 られたる者なりき、これら必參考の一とはなりし者なるべし、其建元論は、早く寛政三年辛亥〈一正翁年十八〉になれる者にて、其文左の如し、
建元惡乎始、始於漢武、然則非古聖人之制歟、曰其法固始乎漢武、而其義則未嘗不一レ於先王之意也、古者天子有四海、諸侯有一國、王公即位、各紀元年、愼其始也、毎歳天子頒朔、諸侯奉而行之、謂之王正月、大一統也、雖然各國紀元、彼此不一、則是曷若夫年號之建、通于天下而一統爲最大也哉、秦廢封建、海内混一、而漢猶有諸侯王、當時紀年、上書天子大一統之年、而下書諸侯王自有國之年、譬如魯孝王刻石曰五鳳二年魯三十四年是已、何必王正月云乎哉、故年號之行、通於天下、雖位假號者、無復容其僞矣、此非漢武之智、能過聖人、而先王之制不後世也、凡天下之事、必粗於始而精於終、略於先而詳於後、其勢然也、宋儒胡氏以爲、元原於一、而後世紛々、別建年號、失其義矣、而朱氏譏其説高而不一レ事情、廼曰、如今中興以來、七箇元年、若無年號、則契券能無欺弊者乎、可當矣、然則年號旣建矣、元亦可屡改乎、曰不然、元之爲言首也、人君即位、旣已紀元、豈可復改乎、而其復改者、戰國之末造也、餘習所存延及漢氏、文景中元後元、再三改元、至武帝年號、則其改亦屡矣、雖始之意、而亦能得一統之義、夫復何咎、後世妄庸之主、踵而行之、一世數元、可濫也已、雖然唐宋之君、傳世二十、歴年三百而止、則一帝數號、猶尚可紀也、夫皇朝自孝徳帝肇建大化之號、至今六十有餘世、一千有餘歳、其間或以祥瑞年、因災異號者、殆過二百、皇統之隆傳之無窮、而與天地終始、則自今以往、一帝數號、其可紀邪、革之象曰、先王以治暦明時、而讖緯家因有革命革令之文、自延喜中博士清行首唱此説、辛酉甲子必爲改元、蓋治暦明時、有變革隨時之義、故取其象云爾、革命乃湯武順天應人之事、非於萬古一姓之邦、而讖緯誕妄、又何足言哉、且夫祥瑞不恃也、災異固可畏也、能知其不一レ恃、則何必名年、能知其可一レ畏、則修徳以勝之而已、亦何必改元、明氏之建國也、累世相承、於即位之踰年元、終身不易、其於

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0320 統愼始之義、可謂兩得之矣、謝肇淛稱其卓越千古、非虚論也、嚮者所謂粗略於始先、而精詳於終後、不其然乎、雖先王之制、而亦能本於先王之意、則雖百世遵行可也、
明治元年を距ること七十八年、旣に此論を立られしは卓見と謂ふべし、よりて此に附記す、

〔菅家文草〕

〈四詩〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0320改元詔書絶句
明王欲變舊風煙、詔出龍樓海壖、爲向樵夫漁父祝、寛平兩字幾千年、

年號勘者

〔光臺一覽〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0320 抑又菅家(○○)と申は、道眞公的々の御苗裔として、今に文筆を家業とせらるヽ事也、高辻、五條、東坊城、唐橋、清岡、桑原、 四軒は本家等同にて、清岡桑原は庶流也、〈◯中略〉又年號之事も此家より選出事に候、

〔譚海〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0320 年號の文字は文章の博士より撰進する也、菅家江家かわる〴〵撰びて奉る也、其年の年號行るヽ間は、年號料とて、公儀よりその家へ別祿を百名ヅヽ賜る事なり、
◯按ズルニ、此ニ菅家江家互ニ年號ヲ勘進スル如ク云ヘレド、必シモ然ラズ、後世ハ獨リ菅原ノ一流ノミ勘進シテ、他家ハ殆ド之ニ與ラズ、又年號料ノコトモ他ニ所見ナジ、甚ダ疑フベシ、

〔江吏部集〕

〈中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0320 長保寛弘之間、天下幸甚、老儒不傾感、聊述所懷
長保初年開后房、寛弘頻歳誕親王、二之年號臣所獻、仰望江家(○○)父子昌、〈謹撿舊事、延喜年號、紀中納言所獻、其子淑光、頻歴顯要卿相、天暦年號、江中納言所獻、其子齊光、頻歴顯要卿相、長保寛弘之政、擬延喜天暦、江家因斯所憑居多、〉

〔親長卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0320 文明十九年四月廿五日、勘者事、翰林一人之間、今一人可加別勘文、唐橋前中納言、日野前中納言、〈量光〉菅宰相、〈在永〉高辻三位長直等、可御點歟之由申了、 廿日、今日改元定也、〈◯中略〉抑今度勘者事、日野前中納言〈量光〉御點也、雖然在國、〈因幡國〉近日依國中亂逆、通路等不叶之間、可罷上候事不叶之由、以便宜申上之由、父一品〈資綱卿〉申之、近代年號勘文日野一流(○○○○)不(○)進(○)勘文(○○)、今度不參、無念之至歟、各以此所存、雖何様之儀、可召上之處、處于外之條、且口惜、且未練之至也、菅原五人(○○○○)不(○)交(○)

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0321 他人(○○)之條(○○)、是始歟(○○○)、可勘見事也、

〔宗建卿記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0321 享保廿一年二月廿二日、於省中改元定、勘者仗議、公卿等被定云々、今度勘者被清二位、以主上上皇思召之由、於(○)清家(○○)年號勘進希代之例(○○○○○○○○)云々、 廿八日、武傳參洞、兩人言上年號勘者被清二位之事、 四月廿八日、改元定、

年號勘文

〔元秘抄〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0321 年號勘文書様 菅家書様〈本ニハ當家書様ト有之、雖然予如此書寫之、前後ニ皆當家ト書ハ菅家事也、〉
勘申
年號事
天保
毛詩云、天保下報上、君能下下以成其政、臣能歸美以報其上、天保定爾、亦孔之固、注云、保安也、天之定汝亦固也、
皆安
尚書云、官職有序、衆政惟和、萬國皆安、所爲至治也、
平康
周書云、畯民用章、國家平康、注云、賢臣顯用、國家平康、
能成
周易云、日月得天而能久照、四時變化而能久成、聖人久其道而天下化成、又云、能成天下之務、能通天下之志、注云、各得其所一レ桓、故皆能久長也、
和平
周書云、聖人感人心而天下和平、
右依 宣旨勘申如

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0322 永祚二年三月十三日     正四位下行式部權大輔菅原朝臣輔正
天徳五年二月十六日改元、〈應和〉應和四年七月十日改元、〈康保〉此兩度文章博士文時勘申之由、雖所見、勘文之體不注載之間不分明、仍此相公勘文注載之、長徳四年二月二十日改元、〈長保〉參議三品之時、御勘文書様、更無相違、此後菅家之輩勘文書様如此、但長元十年四月十九日改元、〈長暦〉菅原忠貞〈于時從四位上兵部權大輔文章博士〉勘文、右状不宣旨之三字、右勘申如件、如此載之、如何、又承徳三年八月廿七日改元、〈康和〉菅原在良〈于時從四位下文章博士〉勘文、勘申年號事、別行不之、一行書之〈如他家書様〉如此、但此以後度々年號勘文如然不書、別行書年號事三字、〈如菅家書様〉承徳三年書様不然歟、若又古勘文本等傳書之誤歟、將又天喜六年七月日改元、〈康平〉菅原定義勘文、或本勘申年號事、一行書之、雖然他本等不然、如普通二行書之、但本書誤之條無疑歟、在高卿二品之後勘文、書様無相違、至參議二品之時、於書様者不相違、納言之後書様無先例、尤可斟酌歟、
  他家書様〈菅家作之抄也、仍非菅原ハ他家之由載之了、自餘准之、〉
勘申年號事
天受
 孟子曰々々
治安
 漢書文帝紀曰々々
右依 宣旨勘申如
            右大辨大江朝臣朝綱
勘申年號事
成徳

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0323  荀子々々
政和
 禮記曰々々
平泰
 老子曰々々
右依 宣旨勘申如
            式部大輔兼播磨守藤原朝臣資業
 勘申年號事
承天
 周易曰々々
應徳
 典言符命曰々々
右依 宣旨勘申如
            大學頭兼文章博士東宮學士藤原朝臣明衡
菅家之外、他家々勘文書様、皆悉此定、更無相違、勘申年號事、一行書之、不年號月日并位等官、〈有兼官者書之〉姓尸名許載之、至參議之時無相違、納言後書改之、但萬壽五年七月廿五日改元、〈長元〉善滋爲政〈于時文章博士河内守〉勘文、名字下書勘申之兩字、此外如此之事不見及、長元十年四月廿一日改元、〈長暦〉藤義忠〈于時大學頭大和守〉不勘申之字、初行書年號兩字、不事字、又不右状、 大治六年正月廿六日改元、〈天承〉文章博士江有元勘文載年號月日位等、乞返勘文年號等進上云々、
江亭被大外記許書状

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0324獻之勘文、只暫可返遣候、遣因幡權守之許書之處、書加年號月日候云々、无先例云々、可書改候也、失錯候也、大治六年正月廿七日、從四位上行文章博士兼讃岐介大江朝臣有元、此例少候也、菅家、定義、在良、如此所書進候也、不指南候歟、不月日之時、不位候也、令云改即可進覽多謹言、文章博士有元、
大治六年六月廿八日、夜半江亭被來、安寧者天皇之號也、早可止也、直止安寧之勘文、被元勘文畢、
  納言以後書様
勘申年號事
嘉保
 史記曰々々
承安
 論衡曰々々
右依 宣旨勘申如
            權中納言大江朝臣匡房
寛治八年十二月 日改元、〈嘉保〉匡房卿納言之後、初度勘文如此、書様與日來相違歟、但或一本不端勘申并右状、雖同常體、諸本如此、仍乍不審注載之、
年號事
政和
 毛詩云々々
永長

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0325  後漢書云々々
            權中納言大江朝臣匡房
嘉保三年十二月 日改元、〈永長〉書様如此、此後康治五年、〈于時太宰權帥〉長治三年、嘉承三年、天仁三年等勘文皆此定也、又保延七年、康治三年等實光卿勘文、并仁安四年資長卿勘文等皆以如此、此以後之人人更無相違、前官之後前權中納言藤原朝臣〈某〉納言後進年號、紀納言例也、彼時書様別於非參議歟之由、諸本注付寛治八年匡房卿勘文奧、雖然彼納言勘文無所見歟、抑菅家者納言以後勘文書様、依先規、頗不審也、尤可斟酌歟、但聊廻愚案、准他家例勘申二字并右状、奧可年號月日位官姓尸名歟、於年號位等者、菅家皆書習之故也、但至納言者、尚廻思慮相計歟、

〔拾芥記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0325 一改元事
八月〈◯長享三年〉十四日町來、有改元之沙汰、雜談云、寶仁之引文、以珍寶仁義トアリ、其ヲ以珍寶仁義トカク、故實也、爲ノ字ヲ書時ハ爲仁(○○)〈◯土御門〉ツヾク也、故作字トナス、又引文云、君子體于仁ト云ハ、本文ハ于字不入、雖然體仁(○○)〈◯近衞〉御名字之間、于字ヲ入テ書事故實也、改元可廿一日云々、然者先被内勘文、長直卿以爲長卿參議之時例、年號字四勘進之、雖然無然字之間、後又依仰、年號字二被進云々、廿一日丁未改元延徳、〈菅宰相撰進之

年號引文

〔元秘抄〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0325 年號引文
 論語(ロンコ)〈在良始出〉 孝經(キヤウキヤウ)〈永範〉 禮記(ライキ)〈資業〉 毛詩(モウシ)〈輔正〉 尚書(シヤウシヨ)〈輔正〉 周易(シユヤク)〈同〉 左傳(サデン)〈同〉 論語疏(シヨ)〈資長〉 孝經援神契(エンシンケイ)〈光範〉 儀禮(キライ)〈成季〉 尚書傳(デン)〈實綱〉 尚書正義〈明衡〉 禮記正義〈定親〉 周易注疏(チユウソ)〈永範〉 詩緯(シノイ)〈敦宗〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0326 易緯(ノイ)〈敦光〉 尚書堯典〈國成〉 毛詩章〈敦季〉 尚書孔安國傳〈敦光〉 周禮〈永範〉 史記〈擧周〉 漢書〈朝綱〉 後漢書〈擧周〉 漢書禮樂志(レイカクシ)〈在良〉 東觀漢記(クワンカンキ)〈長光〉 晋(シン)書〈定親〉 宋(ソウ)書〈在良〉 宋書志(シ)〈永範〉 齊書(セイジヨ)〈義忠〉 北齊書(ホクサイシヨ)〈永範〉 魏志(ギシ)〈長光〉 隋(ズイ)書〈永範〉 呉(ゴ)志〈永範〉 後(ゴ)魏孝文帝登高文〈有元〉 魏文典論〈實光〉 新(ク舊)唐書〈敦周〉 孟子〈朝綱〉 荀子(ジユンシ)〈資業〉 老子〈同〉 抱朴子(ハウハクシ)〈定親〉 淮南子(ヱナンジ)〈實政〉 管子(クワンシ)〈永範〉 孔子(クシ)〈同〉 孟子解義(ノゲギ)〈永範〉 莊子〈實義〉 揚子法(ハウ)言〈敦光〉 顏氏〈永範〉 大公六韜(リクタウ)〈爲政〉 維城典訓(イセイテンキン)〈家經〉 符瑞圖(フズイト)〈同〉 張衡靈憲〈同〉 春秋元(ゲン)命苞(ハウ)〈資業〉 孔子家語(ケゴ)〈同〉 崔寔政論(サイシヨクセイロン)〈定親〉 呂氏春秋〈正家〉 白虎通(コツウ)〈實綱〉 典言(テンゲン)〈行家〉 論衡(ロンカウ)〈匡房〉 博物志(ハクブツシ)〈成季〉 文選〈匡房〉 典言符命(テンゲンフメイ)〈明衡〉 河圖挺佐輔(カトテイサホ)〈敦光〉 春秋繁露〈有光〉 漢武内傳(カンブナイデン)〈成光〉 河圖〈長光〉 帝王秘録〈永範〉 長短經〈光範〉 龍魚河圖〈俊經〉 貞觀政要〈光範〉 御注孝經〈爲長〉 修文殿御覽〈經範〉 宋韻(ソウイン)〈經範〉

年號文字

〔有職書〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0326 一元號上下字〈文明改元之後撰〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0327  大〈上三下〉 寶〈上三下一〉 慶〈上一下五〉 雲〈上下一〉 和〈上一下十一〉 銅〈上下一〉 靈〈上一下〉 龜〈上下二〉 養〈上二下一〉 老〈上下一〉 神〈上一下〉 天〈上十五下〉 平〈上一下五〉 應〈上七下十〉 延〈上八下三〉 暦〈上二下十一〉 同〈上下一〉 弘〈上三下二〉 仁〈上四下八〉 長〈上十下六〉 承〈上六下四〉 嘉〈上七下一〉 祥〈上下一〉 壽〈上一下三〉 齊〈上一下〉 衡〈上下一〉 安〈上三下十〉 貞〈上五下一〉 觀〈上一下二〉 元〈上八下十一〉 寛〈上八下一〉 昌〈上一下〉 泰〈上下一〉 喜〈上下三〉 徳〈上一下十〉 康〈上十下〉 保〈上五下四〉 祿〈上下三〉 永〈上十二下五〉 祚〈上下一〉 正〈上十下三〉 治〈上三下十四〉 萬〈上一下一〉 久〈上二下五〉 文〈上八下一〉 建〈上八下〉 福〈上下一〉 禎〈上下一〉 乾〈上一下〉 中〈上下一〉 武〈上一下一〉 至〈上一下〉 明〈上一下一〉 享〈上一下一〉 吉〈上下一〉 化〈上下〉

〔元號同字類聚抄〕

〈附記〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0327 本朝歴代元號之字(載廣運會)
 大化(孝徳天皇)、白雉、朱雀、白鳳、朱鳥、以上不稱來、文武御宇自大寶嘉吉、六十字也、加化字六十一字
大 寶 慶 雲 和 銅 靈 龜 養 老 神 天 平 勝 字 景 護 同 弘 仁 長 承 嘉 祥 壽 齊 衡 安 貞 觀 元 寛 昌 泰 延 喜 暦 徳 應 康 保 祿 永 祚 正 治 萬 久 文 建 福 禎 乾 享 中 武 至 明 吉 享

〔光臺一覽〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0327 扨菅家年號を被選出法は、六十四文字(○○○○○)、本字は近代増字二十四字(○○○○○○)、上下に顚倒して字を雙也、書經魯論之熟字に符合させ被書出事也、
 (頭書)六十四字
吉、白、神、乾、康、保、永、寛、和、延、應、承、觀、護、雉、鳳、雲、至、萬、徳、元、仁、弘、祿、喜、文、明、勝、朱、字、鳥、正、禎、嘉、大、享、亨、壽、養、録、同、銅、靈、齊、慶、建、長、治、寶、天、暦、安、貞、福、衝、老、泰、化、祥、武、平、久、祚、景、
 増字廿四字
豐、中、奧、光、運、興、國、咸、孝、清、通、聖、熙、隆、顯、紹、淳、曜、靖、開、昭、寧、祐、宣、

〔年號辨〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0327 去る年之冬、某〈◯新井君美〉在洛の日、前攝政殿下〈◯近衞家熙〉と本朝年號の事を論じ申ける事の候

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0328 ひしに、某申す、我朝の今天子の號令天下に行われ候事は、ひとり年號の一事のみにて、異朝までも、末代迄も傳へ聞ゆべき所に、近き比ほひの年號、大きに古に及ばざる様に覺へ候、是は取用ひらるヽ字の、餘り其數すくなく候によりて、〈僅六十餘字歟〉しかるべき號の得がたきが致す所と存候へば、いかにも用ひらるべき御事の候もの哉と申候ひしに、されば今も新字勘進の事勿論也といへども、新字におゐては不祥の例あるよしを難じ申すに付て、陳ずるに其詞なきが故なりと答仰られき、

〔松屋筆記〕

〈百十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0328 改元年號の文字
戸田茂睡が職原口訣大事に、改元年號の事、年號の文字定りて六十餘あり、然れば上を下に下を上におきかへ、一字に六十餘の文字をかへ〳〵して、六六三萬六千にても、又三十六萬とも、三十六億萬歳にても、數定ればつくる期あり、盡ると云はよからぬ事也、それによりて改元の時、勘文をはじめて上る人、文字一字を定りたる年號の文字の中へ入る也、天和年號あらたまる時、唐橋殿愼の字を入られし也、唐橋殿又貞享の年號を勘らるとも、一人一字の作法なれば、はや文字をば入られざる也、貞享の年號余人勘らるれば、又文字入也、然れば一字の文字にても、上におき下におきすれば、定り六十字に合せても、百廿の年號あり、是にて濱の眞砂はよみつくすとも、年號の文字の盡る事なき子細あり云々、

〔中右記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0328 天仁元年八月三日庚辰、今夕可改元也、頭爲房朝臣下年號勘文於左大臣、可定申之由所仰下也、〈◯中略〉藤宰相〈顯〉申云、天仁(○○)、承安可用、〈◯中略〉予申云、此年號共不心行也、正治ハ返音詞也、頗有忌諱音也、天仁ハ音又通天人也、年號或漢音(○○○)、或倭音(○○○)、共所讀也、天人頗不得心、共不心行之中、被正治如何、人々多被予詞

〔安齋隨筆〕

〈後編十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0328 一本朝ノ年號、俗ノ唱ル所ハ呉漢兩音を交て、一定格無之、名目抄などにも見

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0329 へず、年號ノよみやう(○○○○○○○)、訓解を記したる書有之候哉、本朝年號の事、先年滋野井殿へ窺申處、凡て呉音に唱る事に候へ共、呉音にて連聲のあしく、聞ニうるさき唱は、漢音にも唱る也、文明慶(ミヤウケウ)長と唱べきを、俗にはブンメイ、ケイ長と云ふはあしヽ、乍然難陳の度々音義の惡きは一難を得る事に候へども、先はジユク、ヒヤウ、ナン等ノ音ノあるハ、勘例に省く事之由、又大化は大http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f00006504fb.gif と濁音ニ可唱事ニ候ヘ共、往昔より大化トスミ來り候類も在之候由、此外いろ〳〵の口話御座候キ、年號ノ儀ハ、別に考運會トカ申書御座候由、〈文章家にて秘書ノ由、滋野井家にも御藏本無之由承申候、〉

〔秋齋間語〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0329 慶の字(○○○)年號に用ればケウとよむべき由、されば天慶もてんけうとて、慶長をけうちやうとよむ人あり、榮花物語月宴卷に、てんけい九年と書たり、板本の書たがへるにやと、類本をあつめ校合するに皆おなじ、

〔松屋筆記〕

〈六十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0329 勘文、并年號の訓法、及唐音對馬讀、
同條〈◯革暦勘文革命仗議記〉に、〈◯中略〉建仁難諱、年號用對馬音、御諱用唐音、非深難歟、〈愚按、仁字已同、和漢之音、差別無其詮歟、然而不復言、〉兩箇之間、付輕可計用云々、按に、對馬讀は尼法明、百濟より傳來せる訓法にて、呉音也、法明は、山階寺維摩會興行の尼也、年號の訓法は、漢呉音付輕可計用よし此文にて知べし、

〔類聚名物考〕

〈政事九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0329 年號字訓を用ひし例 年號の字は、すべて漢の制に習ひて立られしものなれば、音讀にして訓を用ゐず(○○○○○○○○○○)、しかるに天武天皇の御宇、日本紀に、朱鳥を此云阿訶美苫利と有を始とせり、さて此後は又かヽる例なくして、又音讀にせし事也、然るに中古の比より、假名書歌の序などいふものに、又紀號を訓讀にせし事あり、是は天下にわかつてかくとなへよとの仰方有にはあらず、唯その假名書のさまによりて、やわらかに訓讀にせしものなり、さればとて後世にみだりに訓讀にはすまじきもの、されども假名書には、又さ書たりとて僻事ともいふまじきな

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0330 り、唯假名書のうへにのみの事と思ふべきにや、廿一代和歌集の序にも、藤原俊成卿の書れし千載集の序に始めて出たり、その前には見えず、

〔千載和歌集〕

〈序〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0330 わが君世を知ろしめしてたもち始め給ふと名けし年(○○○○○○○○○○○○)〈◯保元〉より、もヽしきのふるき跡をば、むらさきの庭、玉のうてな、千年久しかるべきみぎりとみがき置き給ひ、〈◯下略〉

〔元號字抄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0330 一暦字(○○)以歴字(○○)之引文、被年號之、〈暦與歴同之故也〉 永暦 後漢書曰、馳淳化於黎元、永歴代而太平、續漢書律暦志曰、黄帝造歴、歴與暦同作、依之毎度歴字之時、引加此文也、

〔安齋隨筆〕

〈前編三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0330 一年號亨享字(○○○) 亨享の字紛れて書誤ることあり、元亨は、周易に云、其徳剛健、而文明應于天、是以元亨〈文章博士資朝考之〉と云文より出たれば亨の字也、享には非ず、永享は後漢書に云、能立魏々之功、傳于子孫、永享無窮祚と云文より出たれば、享の字也、享徳は、尚書に云、世々享徳、萬邦作式と云文より出たれば、是れも享の字也、亨にはあらず、皆考證の文に據て正せば書誤なし、考證は貝原好古が國朝年號譜に見たり、

〔徳川禁令考〕

〈八年號改元〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0330 萬延改元、文字之儀に付達、〈萬延元年四月十二日〉 御勘定奉行〈江〉
   覺
此度改元被仰出候萬延之文字、重き事之外、萬万之文字(○○○○○)、いづれの方認候而も不苦旨、向々〈江〉相達候間、向後御切米御扶持方、并御貸附金請取手形等〈江〉も、万延と相認候向も可之候間、差支無之様可取計候事、

〔茅窗漫録〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0330 革命紀元〈◯中略〉 文字を用ふるも、一字より四字まで、古例法則あり、方日升曰、案紀元云、以一字元者、始於漢文帝後元年、景帝中元年、以二字元者、始漢武帝建元元年、以三字元者、始於梁武帝中大通元年、以四字元者、始於漢哀帝大初元將元年、今詳號紀一レ元、當於文景、非武帝也、〈見韻會擧要小補〉此邦異年號に、兄弟和、倭黄繩、白鳳雉の三字あり、又天平感寶、天平寶字、天平神護、神

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0331 護景雲の四字あり、いづれも漢土の例に傚ひたるにや、文字の美惡義理などは、勿論吟味講究して、古人の論辨したるを考索し、紀元あるべき事と覺ゆ、漢土にて改元の誤を論じたるは、明の燧和仲が千百年眼〈卷十二〉に、國家以改元重、然歴世無窮、美名有限、遂有前後相複之嫌、〈中略〉又當詳稽國運、如宋改治平、而説者謂火徳不水、則我朝土徳不水、犯之者有損元氣之嫌、又當國姓、如周高祖姓字文改元宣政、當時以爲文亡日是也、又當忌國號、如唐禧宗改元廣明、而當時以爲唐去其口、而著黄家日月、後果爲黄巣上レ簒是也、大率離合之懺、深微難逃、最宜熟察、桓玄改元大亨、議者以爲、一人二月了、果二月乘輿反正于江陵、梁豫章王揀武陵王紀、皆改元天正、説者謂二年一年止といへり、其他齊後主緯は龍化と改元し、隋煬帝は大業と改元し、未齊顯祖は天保と改元し、宋徽宗は宣和と改元し、欽宗は靖康と改元し、各皆其徴を載せたり、又正の字はたヾしき字義なれど、一止を合せて正とすれば、正始、正隆、正平、正暦、正法の類、皆古徴にあらずといへり、正の字も用ひどころによるべし、此邦改元ある毎に難陳といふ事あるは、專らに此等の事を是非せむが爲なるべし、

〔東大寺正倉院文書〕

〈四十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0331 藥師經料紙充(裏書)
道守豐足 十四張〈◯中略〉 右、依造寺次官佐伯宿禰、天感(○○)元年五月卅日宣奉寫
◯按ズルニ、天感ハ、天平感寶ヲ略書セルナリ、

〔續修東大寺正倉院文書〕

〈四十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0331 花嚴經斷紙合八千九百九十張〈麻紙三千一百卌張〉
治田石麿充一千六百張〈既楡紙◯中略〉 已上五人充遺九百九十張〈麻紙百八十張〉 感寶(○○)元年潤五月七日、秦東人、
◯按ズルニ、感寶ハ、天平感寶ヲ略書セルナリ、

〔續修東大寺正倉院文書〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0331 天平感元年六月十五日充(裏書/○○○        )、墨半廷、筆一、 二年七月五日、筆一、墨半廷〈已上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0332 〈筆墨各一返上七月廿一日〉
◯按ズルニ、天平感ハ、天平感寶ヲ略書セルナリ、

〔東大寺正倉院文書〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0332 海龍王經(裏書) 史生廿六人 雜使卌五人 食飯廿九人 以前、食口并返上飯等、注顯如件、以解、 勝寶(○○)二年四月一日、加茂書手、
◯按ズルニ、勝寶ハ、天平勝寶ヲ略書セルナリ、

〔續修東大寺正倉院文書〕

〈二十〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0332 秦家主解 申請暇日事
合參箇日 以廿一日參 過一日 右、以今月十六日夜、私蘆((廬))物所盜、爲求請暇、仍注事状謹以申、天平寶(○○○)四年九月十七日、史生下道福麻呂、
◯按ズルニ、天平寶ハ、天平寶字ヲ略書セルナリ、

〔續修東大寺正倉院文書〕

〈四十六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0332 大浦誠恐誠惶謹啓 應上物事 右、前蒙恩澤、延期已訖、然爲件物因播使、今以消息且到來、〈◯中略〉然忽有障、故不自參、伏且煉灼、頓首頓首、謹状、 寶字(○○)二年九月四日、大津大浦状、 謹上 東大寺貴人〈殿人〉
◯按ズルニ、寶字ハ、天平寶字ヲ略書セルナリ、

〔續修東大寺正倉院文書〕

〈十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0332 謹解 申不參送事 比者、身沈疹病、不動轉、唯恐勤不療治、露命難保、仍今注病状申送、謹解、 天寶字(○○○)二年十月十日付榮道
◯按ズルニ、天寶字ハ、天平寶字ヲ略書セルナリ、

〔東大寺正倉院文書〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0332 牒 東大寺司所 合可奉寫經卌卷 十一面經卅卷 孔雀王呪經一部 右從來月六日以前可寫畢、故牒、 字(○)七年六月卅日 法師道鏡
◯按ズルニ、字ハ、天平寶字ノ略書ナリ、

〔逸年號考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0332 寛七年〈鍍金寶塔銘〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0333 寶塔銘に、奉納三十幡神、武州國圓藏坊也、尾州住人吉左衞門作、寛七年六月吉日〈信濃國岩村田所堀出、塔銘中有銅像一、〉とみえたる、寶壽と寛との年號、他に考る所なし、穗積氏云、此年號考ふる所なし、寛http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f0000631063.gif 年と七の字雙鈎に彫たり、銅に彫たるに脱字あるべくも思はれず、又寛の字の上に置たる年號にて、七年までつヾきたるは、寛平、寛弘、寛正、寛永、寛文なり、下に寛字を置たる年號にて、七年までつヾきたるはなし、此物、寛平、寛弘、寛治の古物にはあらず、近く寛永寛文の物にもあらず、若くは寛正七年丙戌の時の物にてもあらんか、考べき所なしと云り、左もありなん、古へ年號の字を略書する例あり、

〔眠雲札記〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0333 年號單稱(○○○○)
近載以翰墨事藝林者、或衒奇競新、熒惑人眼、動自稱名手、可歎也、予嘗觀某書牘、末題單係年號、若弘化稱化、嘉永稱永之類、如是殆若國朝正朔然、且不出典、謣襲蹈前人、施施自得、夫四海率土、靡皇澤、而單係年號、其忘我之罪、不於死矣、按、連珠詩格于濟徳夫序、紀年號歳在徳酉、蓋謂元大徳歳在丁酉也、〈◯中略〉于氏事蹟雖傳記無一レ載、而推思徳酉字、其嫌胡元正朔者、不辨而明白、今世衒奇之人、妄傚顰、不亦過乎、

〔一話一言〕

〈十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0333 徳酉
五山の僧徒年を紀するに、年號の一字をきりて十二支を書く事多し、横川が京華集に、應仁元年丁亥を仁亥(○○)と紀し、萬里の帳中香の序に、延徳三年辛亥を延亥(○○)と紀せるが如し、これ聯珠詩格の序〈番易默齋〉に、大徳元年丁酉を紀して徳酉とあるにならへるなるべし、

〔海録〕

〈十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0333 年號と支干を一字づヽかけること、五山僧などに多かり、信長記〈卷十四九ウ〉作物記〈相國寺惟高撰〉に、永祿元戊午を永午とかけり、また松花堂所藏品圖の中、明岩正因墨蹟にも、文明八丙申を文申とも記せり、これら一時かヽることはやれるなるべし、そのよる所をおもふに、この頃聯珠詩格

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0334 を、律膸蒲室などヽ併せて甚だ賞翫せしをりなれば、かの詩格の蒙齋が序に、年號支干一字づヽ用ひしこと見ゆるをもて、一時雷同して效顰せしにや、唐土にも蒙齋が序よりふるくは所見なし、

〔松屋筆記〕

〈六十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0334 甲子を用て年號を不
碧湖雜記〈一卷、古今説海、説略部雜記家三十二卷中に收む〉に、五臣注文選謂、陶淵明詩、自晋義煕以後、皆題甲子、後世因仍其説、〈◯中略〉按に、近來の文人年號を記せず、甲子のみを書を雅事とす、原淵明が所爲に習へるものなれど、御代の名を忌嫌て、天子に臣とならざるに似たり、學者心すべきわざぞ、

〔折たく柴の記〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0334 此程又信篤、蜀都雜抄、秘笈、千百年眼等三部の書をひきて、年號に正の字を用ふるは不祥の事なり、早く改元の事あるべき由をしるして、老中の人々にまゐらす、詮房朝臣我思ふ所を問れしかば、當時我言用ひらるべきものにあらず、されど問ひ給はんに、答ふまじきにもあらねば、しるしまゐらせし事どもあり、其大要は、近世大明の人、年號之事を論じて、正の字(○○○)を用ひし代々不祥の事あり、凡そ文に臨みて忌べき字なりなど申す事、信篤が引きし所の外の書にも見え侍れど、皆是君子の論にはあらず、天下の治亂、人壽の長短のごとき、或は天運にかヽり、或は人事によれり、いかんぞ年號の字によりて祥と不祥と有べき、魏の齊王芳、高貴卿公、梁の武陵王、金の煬王哀、元の順帝のごときは、皆その不徳によりたまひしなり、たとひ其年號は正の字用ひられずとも、是等の人主其國を失ひ、其身を滅し給ふ事なかるべしや、大明の世に至ては、正統正徳の代々の事、皆其徳のいたり給はぬと、其政のよからざるとによれり、年號の字の罪にはあらず、孟子無歳とのたまひし所、よく〳〵心得給ふべきもの也、天下の治亂、人壽の長短等、年號の字によらざることどもを論じ辨むには、其説殊に長くして、誠に無用之辨言の費なるべし、唯誰にも聞しめして、心得わかち給ふに、たやすき證一ツを擧て申べき也、凡そ人の幼といひ、弱

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0335 といひ、壯といひ、強といひ、艾といひ、耆といひ、老といひ、耄といふ、其稱同じからねど、唯その年の積れるにて、異なる人にはあらず、又生れて三月にして其名つき、二十にして冠して字つき、五十にして伯仲叔季を稱するごとき、その稱する所同じからねど、其命ずる所は異なるにあらず、かの年月日時といふものも、其稱同じからねど、時を積て日となり、日を積て月となり、月を積て歳となる事、譬へば幼弱、壯強、艾耆、老耄などいふ事の同じからねど、異なる人にはあらざるが如し、さらば年の號あるは、猶月の名あるが如くにして、又これ人の三月の名、二十の字、五十の字ある事の如し、もし歳の號に正の字を用ひん事の不祥ならんには、月の名に正の字用ひんもまた不祥ならまし、然るに古聖人の世よりして、今の世にいたる迄、毎年の一月を正月と名づけて、孔子春秋の法にも、四始と申て、正月をもて歳の始とは申す也、正の字誠に不祥ならんには、古の代より此方毎年に不祥の月を以て始とするなれば、夫より此方一年として不祥ならぬ歳といふは有まじき事也、是等は餘りに近き事にして、いはゆる睫を見ざるの論と申べしや、若年號には正の字不祥にして、月の名には正の字祥たるべき理あらんには、尋ねきかまほしき事なり、君子動而世爲天下道、行而世爲天下法、言而爲天下則とも、又不命、無以爲君子也とも承れば、かヽる不通の論など、君子の人の可申所とも覺えず、また我朝之年號に、正の字を用ひられし事、凡十六度、不祥の事のみありとも見えず、もし武家の代となりし後、正慶に鎌倉滅び、天正に足利殿滅び給ひしなども申す事もあるべきにや、平高時入道滅びしは、實に正慶二年五月なり、されど其祖相摸守時政より此かた、九世の間、正治、正嘉、正應、正安、正和、正中等の號、すでに七度を經たり、其家彼時に滅びずして此時に滅びしは、年號の字によれりとはみえず、これそのみづからとれる禍にぞあるべき、足利殿の滅び給ひしは、實に元龜四年七月三日、義昭出奔の御事によれり、これらの事によりて、此月廿八日に改元ありて天正とは號したりき、等持院殿よりこのかた、十三世の間、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0336 正長、康正、寛正、文正、永正等の號、五度に及びしかど、その程に滅び給ひしにはあらず、すべて本朝の年號始りしより此かた、其代々の事を細かに論じて、其事彼事不祥なりなど申さば、何れの字にか不祥の事のなからざらむ、其故は、改元といふ事、和漢ともに、多くは天變、地妖、水旱、疾疫等によらざるはあらず、されば古より年號に用ひしほどの字一字として、不祥の事に逢ふ事なかりしといふものはあらず、若必不祥の事、年號の字の致す所ならん事を患へば、古の代の時の如く年號といふものヽなからんにはしくまじきにや、されど和漢ともに、年號といふものなかりし古の時にも、天下の治亂、人壽の長短、世として是なきにもあらず、某意多禮亞、喝蘭他亞等之人に逢ひて、當時蠻國の事ども具に聞しに、年號を用る國々わづかに二三に過ず、其餘は皆年號といふ事はなくして、天地開闢より、幾千幾百幾十年など申す也、されど二十餘年の先より、西洋歐羅巴の國々、多くは其君死して、それが世繼の事によりて亂し國すくなからず、こぞの冬、是年のはるも、多く戰ひ死せしなど申す也、是らは又いかなる事のたヽりぬるによりてかくはあるにや、さらば年號なしとも、天運のおとろへ、人事の失ふ所あれば、亂れ亡びざる事を得難しとは見へたり、又異朝代々に同じ年號を用ひし事、彼は興り是は亡びしも又少なからず、たとへば永樂の號は、初め五代の時に張遇賢といひし蠻賊、中天大國王など稱して、其元を永樂とせしが、ほどなく亡びぬ、其後宋の代に及て、方臘と云ひしが、帝を稱して永樂の號を用ひしに、わづかに八月にして亡びぬ、其後又大明の太宗即位の後、永樂の號を用ひられしに、廿六年の寶祚を目出度し給ひき、是等の類悉くにかぞふるにいとまあらず、また本朝の號、異朝と同じきいくらもあり、たとへば建武の號は、後漢の光武、漢室を中興し給ひて、三十一年迄おわしましき、後醍醐院是を用給ひしかども、二年にも及ばずして天下亂ぬ、天暦は村上天皇の號にして、本朝の目出度代のためしには申傳へし所なれども、元の文宗の時、此號を用ひられしに、わづかに五年にして崩ぜられ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0337 き、これらの類も又かぞふるにいとまあらず、凡和漢古今の事を併考ふるに、天下の治亂、人壽の長短、年號の字にかヽはらざること如此、

〔鹽尻〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0337 一謝肇淛曰、自古以(○)正(○)爲(○)號(○)、多(○)不(○)利(○)也(○)、如梁正平天正、元至正之類、爲其文一而止也と云々、按ずるに、是拘れる説か、夫正は君也、長也、定也、平也、是也、又邪の反にしてたヾしきを云、何の止りと云事かある、一而止、拆字の附會也、正の古文が㱏なる、是をも一而止といふべきやと云ひしに、或人曰、吾子が言も又一偏の義か、つら〳〵思ふに、我國文武帝の大寶已來、年號正の字を命ぜしは、一條院正暦を始とす、彼帝花山の淫風を繼ぎ、惰弱上古にもためしなかりし故、執柄家恣に天下を左右せし、是よりぞ王家の威衰へ、權下に移りし、其後は土御門院正治、其元年に頼朝薨じ、同御宇に頼家横死し、帝も又讓位の後西狩し給へり、後深草院正嘉二年暴風洪水、流疫打續き、伏見院正應元年大地震、其三年淺原八郞南殿を犯して自害せし、花園院正和四年鎌倉大火の災、後醍醐帝正中元年地妖數々ありて、帝外國へ遷らせましませし、光嚴院正慶、空しく廢帝の號となれり、後村上院正平、立かへる皇運もましまさず、南山に終らせ給ふ、稱光院正長は、凶に依り一年にして停ぬ、後花園院康正寛正の如き、天變〈兩日及三日現ぜし事毎度〉疫癘巷に滿て、中々あさましき世也、後柏原院永正元年天下飢饉、前代未聞の凶事なりき、その他三笠山の神木、故なくして數株枯れ、彗星顯れて、太神宮池魚ノ災ありし、山崩れ、海溢れ、〈永正七年八月廿日洪涛、遠州今切入海となる、〉或は武臣〈細川政元〉害せられ、將軍家東に奔り給ひし、正親町院天正に、京師寇火災しげく、其十三年信長弑せられ給ふ、又大風、洪水、地震、疫病、よからぬ事多かりし、此等の凶事、それならぬ年號の時も毎々に有りしかども、謝氏が言によつて史を見れば、さる事多し、近頃後光明院正保、さしも凶變なかりしかど、明主援兵を請ひ、世間さわがしく、且在位の内崩御の御事、近き世聞へ給はず、〈◯中略〉今の正徳改元の後、壽經院〈◯壽經院一本作女院〉崩御、京極の宮打續薨ぜさせまします、大樹の御幼君〈虎吉君〉も過し冬御早世ありし、ことし

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0338 夏新上西門院崩御ありし、且去年及び此秋も諸州大風、洪水、庶民溺死千を以て數ふ、かヽる事につけても、正の字のためし思ひ出侍りしに、神無月十四日幕下薨ぜさせ給ひし、嗚呼賢哲の君にて渡らせましましければ、天下のおしみ奉る事いふばかりなし、因て云、宋の眞宗の豐亨を、楊大年が爲に不可といひ用ひざりしとかや、其外純煕隆平之號義を論じ、天聖明道の字を賀せし、歸田録等に見へたり、我國正保の時、京童の口吟に、正保は正しき人口木哉といへりし、延寶改號の時、内々は明和と號せらるべきなど議せられ、勘文を草して啓せしに、法皇〈後水尾院〉聞しめして、九年あらば如何と仰事ありて、停しとかや、〈めいわくとしと聞ゆる叡慮とかや〉倭漢古へより、年號の文字評議有る事にや、
按(賢)、年號之事、近年紀傳明法の博士難陳有といへども、明和九之、後水尾帝の遺勅にもとりて、九年に當りて江戸大火、八月大風、南鐐銀通用して、天下の金氣失て、白氣の陰氣強行はれたる世とはなりたる也、是に依て安永と改たれども、江戸大火、洪水、疫癘流行、諸國山やけ出し、又天明と改れども、此盡る節は如何成行事哉覽と、京童の口吟にあり、打續淺間山燒出し、大水飢饉打續、六年は將軍御他界、執事家に難あり、此上は五穀豐饒を祈のみ、

雜載

〔本朝改元考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0338 本朝自大寶今延寶、年號凡二百有六、同號者未之有也、其改元月日、博求具書之、日之與支干異者、自大寶天平寶字儀鳳暦、自天平神護貞觀大衍暦、元慶以來以宣明暦、考而正之、以貽我後人、〈◯下略〉

〔元秘抄〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0338 和漢同年號例
朱雀(天武)〈渤海〉 大寶(文武)〈僞位梁簡帝年號、二、〉 景雲(文武)〈唐睿宗年號、二、〉 神龜(聖武)〈後魏孝明帝、二、〉 天平(聖武)〈僞東魏年號〉 大同(平城)〈僞位梁武帝年號、十一、〉 承和(仁明)〈僞北小凉年號〉 仁壽(文徳)〈隋文帝年號、四、〉 天安(文徳)〈雜號後魏献文帝年號〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0339 貞觀(清和)〈唐太宗年號、廿三、〉 延喜(醍醐)〈漢桓帝年號、九、〉 承平(朱雀)〈唐徳宗年號、廿一イ後魏南安王余年號、〉 天徳(村上)〈雜號〉 天祿(圓融)〈契丹年號〉 貞元〈唐徳宗年號、廿、〉 天元(圓融)〈唐徳(肅イ)宗〉 天暦(村上)〈渤海唐王〉 仁安(六條)〈渤海唐肅宗イ〉 天福(四條)〈晋高祖(五代)年號、八、〉 正元(後深草)〈魏高貴卿公、二、〉 乾元(後二條)〈唐肅宗、二、〉 建武(後醍醐)〈後魏光武、晋惠帝、晋元帝、齊明帝、〉 永和(後圓融)〈後漢順帝、晋穆公、〉 至徳(後小松)〈陳後主—唐肅宗—〉 文明(當今)〈慕容忠梁簡文唐武后〉

〔台記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0339 天養元年六月廿三日癸卯、今日有列見及直物事、〈◯中略〉召師安〈重服〉令勘文、披見之、書曰、永治二年、余問云、可康治元年、書永治二年如何、師安應聲對云、春秋之義可康治元年、而依本朝之例永治二年、余歎美曰、此事見定公元年、臨老忽發此言、儒哉々々、左大辨顯業(頼イ)承曰、爲明經博士宜矣、

〔羅山文集〕

〈二十七説〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0339 元年説(○○○)
元年者何、君之始年也、曷爲不之一年、而謂之元年、元者善之長也、所謂仁也、仁也者人心也、人君之心善、則政令正、政令正則朝廷清、朝廷清則百官善、百官善則上下明、上下明則國家善、國家善則天下莫於善、故君子大仁、昔者人君、以此心正朔于天下、天下奉而行之、是以謂之元年正月、而不之一年一月、唐虞曰歳曰載、夏亦曰歳、商曰祀、周曰年、一也、

〔年年隨筆〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0339 元年は初年といふ事なり、一帝一元なる事いふもさら也、されど元は善之長なりとて、初年を元年といふか、もとより吉祥の名をもとめたるなれば、一帝幾千元なりとも、祥瑞怪異に元を改て、延壽消殃のはかり事あらんは、あるべき世のことわり也、それを惑なりといはヾ、元年も初年とぞいふべき、こは年の名號にて、後世よりあがれる代をいふに、分別しやすく、記臆しやすく、便ありていとめでたし、此事から國にて、漢文帝よりはじまれり、かの帝即位十六年四月に、方士新垣平、使人持玉杯、詣闕獻之、剗曰、人主延壽、又言、候日再中、居頃之、日却復、於是始更以十七

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0340元年と通鑑にみえたり、十七年をふたゝび元年となしヽは、傾きし日の再午時にかへりしにかたどれる也、さて景帝は三元、武帝は十一元、三元は即位元年中元年後元年といふ、中後とは後よりいふ稱にて、その時は三ツともに同じ元年二年なれば、事に臨みてまぎらはしかりけむ、武帝にいたりては、しば〳〵の改元なるに、名字なくては紛はしき故、建元、元光、元朔、元狩などやうに、年の名號を設けし也、いづれも吉祥をまねき、凶災を避るわざにて、和漢これをうけつぐ事なり、明世祖より、かの國は一帝一元なり、から書よむ輩、これをいみじき事にほめのヽしる、されどこれはいとしもなし、一帝一元がめでたくば、某皇帝初年二年にて事たれり、年號は何の料ぞや、漢文の惑をさとりて、漢武の蹤をふむ、をこ事なり、何のほむる事かはあらん、

〔秋齋間語〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0340 年號の下の字元の字なれば、元年と書事まぎらはし、それゆへにや元史二百八に、世祖之至元一年と書たるはおもしろし、

〔梅園日記〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0340 至元一
鹽尻に、下に元の字ある年號の歳をば、一年と書べきにや、元史二百八に、世祖の至元一年とあり、〈秋齋閑語にも亦此説あり〉按ずるに、元史是より前百三十一〈亦黒迷失傳〉にも、至元一年、入備宿衞、九年世祖命使海外羅孛國と見えたり、されども卷五世祖至元元年紀には、八月丁巳、改中統五年至元元年とあり、必一年と書べきならば、爰にこそ記すべきを、さらぬにて鹽尻の説はうけがたきを知るべし、〈世祖紀の外にも、至元元年の文、諸志諸表諸列傳中に多く出たり、〉又八十七〈百官志二〉に、至大一年始置諸物庫とあれば、一年と書も、至元に拘りたるにはあらざるをしるべし、
    ◯

逸年號

〔二中歴〕

〈二年代〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0340 年始五百六十九年、内卅九年無號、不支干、其間結繩刻木以成政、
繼體五年〈元丁酉〉 善記四年〈元壬寅、同三年發護成始文、善記以前、武烈即位、〉 正和五年〈元丙午〉 教到五年〈元辛亥、舞遊始、〉 僧聽五

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0341 年〈元丙辰〉 明要十一年〈元辛酉、文書始出來、結繩刻木止畢、〉 貴樂二年〈元壬申〉 法清四年〈元甲戌、法文ニ唐渡僧善知傳、〉 兄弟六年〈戊寅〉 藏和五年〈己卯、此年老人死、〉 師安一年〈甲申〉 和僧五年〈乙酉、此年法師始成、〉 金光六年〈庚寅〉 賢稱五年〈丙申〉 鏡當四年〈辛丑、新羅人來、從筑紫播磨之、〉 勝照四年〈乙巳〉 端政五年〈己酉、自唐法華經始渡、〉 告貴七年〈甲寅〉 願轉四年〈辛酉〉 光元六年〈乙丑〉 定居七年〈辛未、法文五十具從唐渡、〉 倭京五年〈戊寅二年、難波天王寺聖徳造、〉 仁王十二年〈癸未、自唐仁王經渡、仁王會始、〉 僧要五年〈乙未、自唐一切經三千餘卷渡、〉 命長七年〈庚子〉 常色五年〈丁未〉 白雉九年〈壬子、國々最勝會始行之、〉 白鳳廿三年〈辛酉、對馬銀採、觀世音寺東院造、〉 朱雀二年〈甲申、兵亂海賊始起、又安居始行、〉 朱鳥九年〈丙戌、仟陌町段始、又歌始、〉 大化六年〈乙未、覽初要集云、皇極天皇四年爲大化元年、〉
已上百八十四年、年號、卅一代不年號、唯有人傳言、自大寶始立年號而已、

〔如是院年代記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0341 〈丁亥〉第二十七代繼體〈◯中略〉 〈壬寅〉十六善記元〈或曰、繼體天皇自十六年始テ年號在之云云、分者朱ニテ書之、年數相違之處在之、不審、◯中略〉 〈丙午〉二十正和元〈太子立、年六十一、◯中略〉 〈辛亥〉廿五教到元〈始作暦、二月帝崩、◯中略〉 〈丙辰〉第二十九代宣化、僧聽元、〈◯中略〉 〈丁巳〉二 〈戊午〉三 〈己未〉四〈二月十日天皇崩〉 〈庚申〉第三十代欽明〈◯中略〉 〈辛酉〉二明要元〈◯中略〉 〈壬申〉十三貴樂元〈◯中略〉 〈甲戌〉十五法清元〈◯中略〉 〈戊寅〉十九兄弟元 〈己卯〉二十藏知元〈◯中略〉 〈甲申〉〈廿五師安元〉 〈乙酉〉廿六知僧元〈◯中略〉 〈庚寅〉卅一金光元〈◯中略〉 〈壬辰〉第三十一代敏達〈◯中略〉 〈丙申〉五賢稱元〈◯中略〉 〈辛丑〉十鏡常元〈◯中略〉 〈乙巳〉十四勝照元〈◯中略〉 〈戊申〉第三十三代崇峻〈◯中略〉 〈己酉〉二端政元〈◯中略〉 〈癸丑〉第三十四代推古〈◯中略〉 〈甲寅〉二吉貴元〈◯中略〉 〈辛酉〉九願轉元〈◯中略〉 〈乙丑〉十三光充〈◯中略〉 〈辛未〉十九定居元〈◯中略〉 〈戊寅〉廿六和景繩元〈◯中略〉 〈己丑〉第三十五代舒明聖徳元〈◯中略〉 〈乙未〉七僧要元〈◯中略〉 〈庚子〉十二命長元〈◯中略〉 〈乙巳〉第三十七代孝徳〈◯中略〉 〈丁未〉三常色元〈◯中略〉 〈庚戌〉六〈白雉元年 二月長門國獻白雉、改元白雉、◯中略〉 〈乙卯〉第三十八代齊明〈◯中略〉 〈辛酉〉七白鳳元〈◯中略〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0342 〈壬申〉第四十代天武〈(中略)即位之年壬申、改元朱雀、〉 〈癸酉〉二〈改元白鳳◯中略〉 〈甲申〉十三〈十二年〉朱雀元〈◯中略〉 〈丙戌〉十五大化元〈和州獻赤雉、因玆改朱鳥、◯中略〉 〈丁亥〉第四十一代持統〈◯中略〉 〈壬辰〉六大長元〈◯下略〉

〔海東諸國記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0342 天皇代序〈◯中略〉
繼體天皇、〈◯中略〉元年丁亥、十六年壬寅、始建年號善化、五年丙午改元正和、六年辛亥改元發倒、二月沒、在位二十五年、壽八十二、安閑天皇〈◯中略〉自繼體沒後、二年無主、至是即位、元年甲寅、〈用發倒〉在位二年、壽七十、
宣化天皇、〈◯中略〉元年丙辰改元僧聽、在位四年、壽七十三、
欽明天皇、〈◯中略〉元年庚申、明年辛酉改元同要、〈◯中略〉十二年壬申改元貴樂、佛教始來、三年甲戌改元結清、〈◯中略〉五年戊寅改元兄弟、二年己卯改元藏和、六年甲申改元師安、二年乙酉改元和僧、六年庚寅改元金光、在位三十二年、壽五十、
敏達天皇、〈◯中略〉元年壬辰、〈用金光〉五年丙申改元賢接、〈◯中略〉六年辛丑改元鏡當、〈◯中略〉五年乙巳改元勝照、在位十四年、壽五十、
用明天皇、〈◯中略〉元年丙午、〈用勝照◯中略〉在位二年、壽五十、
崇峻天皇、〈◯中略〉元年戊申、明年己酉改元端政、在位五年、壽七十二、
推古天皇、〈◯中略〉元年癸丑、明年甲寅改元從貴、〈◯中略〉八年辛酉改元煩轉、〈◯中略〉五年乙丑改元光元、七年辛未改元定居、〈◯中略〉八年戊寅改元倭京、〈◯中略〉六年癸未改元仁王、〈◯中略〉在位三十六年、壽七十三、
舒明天皇、〈◯中略〉元年己丑改元聖徳、〈◯中略〉七年乙未改元僧要、〈◯中略〉六年庚子改元命長、在位十三年、壽四十五、
皇極天皇、〈◯中略〉元年壬寅、〈用命長〉在位三年、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0343 孝徳天皇、〈◯中略〉元年乙巳〈用命長〉三年丁未改元常色、〈◯中略〉六年壬子改元白雉、在位十年、壽二十九、
齊明天皇、〈皇極重祚〉元年乙卯、〈用白雉◯中略〉七年辛酉改元白鳳、〈◯中略〉在位七年、壽六十八、
天智天皇、〈◯中略〉元年壬戌、〈用白鳳◯中略〉在位十年、
天武天皇、〈◯中略〉元年壬申、〈用白鳳◯中略〉十三年甲申改元朱雀、三年丙戌改元朱鳥、〈◯中略〉在位十五年、
持統天皇、〈◯中略〉元年丁亥、〈用朱鳥◯中略〉九年乙未改元大和、〈◯中略〉在位十年、
文武天皇、〈◯中略〉元年丁酉、明年戊戌改元大長、〈◯中略〉四年辛丑改元大寶、〈◯下略〉

〔清白士集〕

〈十二元號略一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0343 同要、日本欽明天皇、〈一名天國排開廣庭天皇、國王以王爲姓、梁大同八年立、在位三十二年、改元八、朱彝尊跋海東諸國紀云、日本東鑑、即吾妻鏡、往時亡友鍾廣漢、撰歴代建元考、獲東鑑喜劇、著之于録、然東鑑止紀其國八十七年事、晩得朝鮮人申叔舟海東諸國紀、此邦君長授受改元、由周至于明初、珠連繩貫、因取以補廣漢遺書、玉繩購二書、數十年不得、竹垞翁所補、又無從訪求、祗據宋史日本僧奝然年代紀、及廣漢書説、知日本元號之闕漏尚多矣、同要或云同安、◯中略〉
從貴、日本女主推古天皇、〈隋開皇間立、在位三十六年、改元六、◯中略〉
師安、日本欽明天皇、〈◯中略〉 倭京、日本女主推古天皇、〈◯中略〉 朱鳥、日本天武天皇大海人、〈唐咸享三年立、在位十五年、改元二、〉 仁至、日本女主推古天皇、〈◯中略〉 端政、五年、日本崇峻天皇、〈隋開皇間立◯中略〉 賢接、日本敏達天皇、〈陳太建間立、在位十四年、改元三、敏達一作達海、◯中略〉 和僧、日本欽明天皇、〈◯中略〉 藏和、日本欽明天皇、 光元、日本女主推古天皇、 常邑、日本孝徳天皇、〈唐永徽元年立、在位十年、改元二、◯中略〉 兄弟、日本欽明天皇、〈◯中略〉 僧聽、日本宣化天皇、〈梁大同四年立、在位四年、〉 僧要、日本舒明天皇田村、〈唐貞觀初立、在位十三年、改元三、◯中略〉 金光、日本欽明天皇、

〔清白士集〕

〈十三元號略二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0343 善化、日本繼體天皇、〈梁天監十年立、在位二十五年、改元三、◯中略〉 頌轉、日本女主推古天皇、〈◯中略〉 貴樂、日本欽明天皇、〈◯中略〉 鏡當、日本敏達天皇、 命長、日本舒明天皇田村、〈◯中略〉 勝照、日本敏達天皇、 定居、日本女主推古天皇、〈◯中略〉 發口、〈◯發口恐教到誤〉日本繼體天皇、 結清、〈◯結恐法誤〉日本欽明天皇、〈◯中略〉 白鳳、日本女主齊明天皇、〈一名天豐財重日足姫天皇、即皇極天皇復位、前在位三年、唐貞觀十六年立、後在位七年、唐永徽六年立、〉

〔清白士集〕

〈十四元號略三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0343 朱雀 日本天武天皇大海人〈◯中略〉 太和、日本女主持總天皇、〈東鑑作持統、唐武后垂拱三年〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0344 〈立、在位十年卒、〉 正和、日本繼體天皇、〈梁天監時〉 聖徳、日本舒明天皇田村、

〔和漢年契〕

〈凡例〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0344 一我邦年號、孝徳帝之時大化爲始、見于正史、後世無異議、故此書亦沿之、而不敢違矣、然予又嘗撿舊記、大化之前猶有年號、蓋昉於孝靈帝之時、其後或斷、或不斷、以接大化也、竊疑、是當時苟且所爲、而未徧布告天下邪、史編何無徴也、且其年號、往々奇僻難据信、而百世之下、又不斷其無也、因今且並擧、以告好古之士左、
〈孝靈帝之時〉列滴
〈應神帝之時〉璽至
〈繼體帝之時〉善記〈四年終〉正和〈五年終〉定和〈七年終〉常色〈八年終〉教知〈五年終、一作教到、又曰殷到、◯按自四年五年、係安閑帝之時、〉
〈宣和帝之時〉僧聽〈四年終〉
〈欽明帝之時〉師安〈一年終〉大長〈三年終〉法清〈四年終、一作靖、〉兄弟和〈一年終、一作兄弟、〉明要〈三年終、或云十一年、〉藏知〈一年終、知一作和、〉知僧〈一年終、或云七年、〉貴樂〈十八年終、或云二年、〉金光〈六年終、或云四年、〉
〈敏達帝之時〉賢輔〈五年終、輔一作棲、又作博、〉鏡常〈四年終、一作鍾、〉照勝〈四年終、一作勝照、〉
〈用明帝之時〉和重〈二年終〉
〈崇峻帝之時〉端政〈五年終〉
〈推古帝之時〉告貴〈十年終、按一説推古元年爲喜樂、二年爲端正、三年爲始哭、自四年十年法興、是四年號、通計十年而終、與告貴年數正相符、則十年之間、蓋與告貴互相行也耳、始哭一作始大、〉願轉〈四年終〉光元〈六年終、一作弘元、又曰光充、〉和京〈五年終、一作和景縄、按和京元年又爲定居元年、定居七年終、和京五年終、則仁王元年、即爲定居六年、蓋是三年號亦互相行也耳、〉仁王〈六年終〉節中〈五年終〉
〈舒明帝之時〉聖聽〈三年終、一作聖徳、〉僧安〈五年終、一作僧要、〉明長〈五年終、一作命長、又曰長命、按自三年五年、係皇極帝之時、〉 右大化以前年號
〈天智帝之時〉中元〈四年終、按戊辰爲元年、〉
〈天武帝之時〉果安〈按、不年數、〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0345 〈持統帝之時〉大和〈按、不年數、〉
〈文武帝之時〉大長〈按、戊戌爲元年、〉 右大化以後年號、然多不年數、後之君子請補正之

〔茅窻漫録〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0345 和漢異年號
和邦の年號、大化前後に異年號ある事、藤貞幹が逸號年表に多く載せ、高昶が和漢年契凡例にも並べ擧げたれど、國の正史に見えざれば、紀年の始末、文字の異同ありて、皆後世より臆斷するもの、いづれも確説とはいひがたし、故に如是院年代記、繼體帝十六年善記注に、或曰繼體天皇自十六年、始めて年號在之云々、分者朱にて書之、年數相違之處在之不審とあり、漢土の異年號も、建元以前にあるもの、大率相同じ、紀年の始末臆斷し難し、諸書に載する所、その異同を擧ぐる事左のごとし、
  和邦異年號
列滴〈孝靈帝之時、紀元始終未詳、〉 璽至〈應神帝之時、紀元始終未詳、一説神功皇后攝政四十年庚申、魏齊王正治元年、贈倭王印、璽至年號據此、〉 嘉紀〈武烈帝即位元年己卯、紀元四年終、同五年改元、是字下一字磨滅未詳、歴年四年、後無紀、〉 善化〈繼體帝十六年壬寅、紀元五年終、以上三號見古代年號、海東諸國記云、繼體帝十六年壬寅、始建年號善化、五年丙午改元、春秋暦略、年代記、皇代記、並皆四年終、如是院年代記、善化作善記、四年終、〉 正和〈繼體帝二十年丙午改元、五年終、年代記、皇代記、春秋暦略、海東諸國記皆同、皇代記作正治、古代年號二十一年丁未改元、四年終、如是院年代記正和元太子立、年六十一、〉 教到〈繼體帝二十五年辛亥改元、五年終、古代年號、春秋暦略、年代記、皇代記、古本水鏡、活字水鏡皆同、續教訓抄云、安閑帝教到六年丙辰、海東諸國記作發到、〉 寶元〈安閑帝二年乙卯、紀元五年後無紀、見西林寺佛光後銘、如是院年代記無寶元號、〉 僧聽〈宣化帝即位丙辰年紀元、四年後無紀、春秋暦略、年代記、皇代記、海東諸國記、如是院年代記皆同、古代年號、水鏡二本至五年、〉 明要〈欽明帝二年辛酉紀元、十二年終、春秋暦略、年代記、皇代記皆同、皇代記作明安、古代年號九年改元、得字下一字磨滅未詳、海東諸國記作同要、〉 貴樂〈欽明帝十三年壬申改元、二年終、年代記、皇代記、春秋暦略、如是院皆同、古代年號三年終、〉 法靖〈欽明帝十五年甲戌改元、年代記、皇代記、皆同、春秋暦略、如是院年代記作法清、海東諸國記作結清、古代年號十六年乙亥改元、〉 兄弟〈欽明帝十九年戊寅改元、一年終、古代年號、皇代記、春秋暦略、諸國記、如是院皆同、一本作兄弟和、〉 藏和〈欽明帝二十年己卯改元、五年終、年代記、皇代記、春秋暦略、諸國記皆同、古代年號二十一年改元、如是院作藏和、〉 師安〈欽明帝二十五年甲申改元、一年終、年代記、皇代記、峯相記、春秋暦略、諸國記、如是院皆同、古代年號一年後、〉 知僧〈欽明帝二十六年乙酉改元、五年終、年代、皇代記、暦略、如是院皆同、古代年號二十七年改元、諸國記作和僧、〉 金光〈欽明帝三十一年庚寅改元、六年終、年代、皇代記、古〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0346 〈代年號、暦略、如是院、平家物語、源平盛衰記、諸國記皆同、〉 賢稱〈敏達帝五年丙申紀元、五年終、年代、皇代記、暦略、如是院、水鏡二本皆同、古代年號作賢棲、海東諸國記作賢接、一本作賢輔、又一本作賢博、〉 鏡常〈敏達帝十年辛丑攺元、四年終、水鏡二本、古代年號、年代、皇代記、如是院皆相同、海東諸國記作鏡當、一本作鏡照、〉 勝照〈敏達帝十四年乙巳改元、四年終、年代記、諸國記、如是院皆相同、古代年號二年終、古本水鏡勝照作勝烈、〉 和重〈用明帝二年丁未紀元、二年終、見古代年號、〉 端政〈崇峻帝二年己酉紀元、五年終、皇代記、春秋暦略、水鏡二本、古代年號、諸國記皆同、年代記、平家物語、源平盛衰記皆作端正、如是院年代記作端改、古代年號端正爲推古帝二年改元、〉 喜樂〈推古帝即位元年癸丑紀元、一年終、見古代年號、〉 告貴〈推古帝二年甲寅改元、七年終、年代、皇代記、春秋暦略皆同、諸國記告貴作從貴、一本作告言、如是院記二年改元、作告貴、〉 始哭〈推古帝三年乙卯改元、一年終、見古代年號、〉 法興〈推古帝四年丙辰改元、五年終、見古代年號、釋日本紀引伊豫風土記云、法興元年十月歳在丙辰、見道後湯碑、一本作六年非、六年辛酉改元願轉、蓋元字以六字體似誤、一説此年法興寺落成、故改元法興、〉 願轉〈推古帝九年辛酉改元、四年終、古代年號、年代、皇代、暦略、如是院皆同、諸國記作煩轉、〉 光元〈推古帝十三年乙丑改元、六年終、古代年號、諸國記皆同、皇代記光元作弘元、暦略、如是院並作光充、按此年四月造丈六佛像、故爲號、〉 定居〈推古帝十九年辛未改元、七年終、年代、皇代、暦略、諸國記、如是院皆同、水鏡二本六年後不見、神明鏡二年後不見、聖徳太子拾遺記定居作定光、〉 見聖〈推古帝二十一年癸酉改元、五年終、見古代年號、〉 倭京〈推古帝二十六年戊寅改元、五年終、古代年號、諸國記皆同、水鏡二本作和京、六年終、一本作委京、如是院作和景繩、〉 景繩〈推古帝二十六年戊寅改元、五年終、年代、皇代、暦略皆同、神明鏡二年後不見、皇代記一本作和黄繩、按此年年中改元、諸書所載不同、〉 法興元世〈推古帝二十九年辛巳改元、其終未詳、見法隆寺釋迦佛光後銘、和漢三才圖會信州善光寺條云、法興元世一年辛巳十二月五日、源平盛衰記云、法興元世二十一年壬子、按此年皇太子薨、是與法興同、浮屠之所稱也、〉 仁王〈推古帝三十一年癸未改元、六年終、年代、皇代、暦略、諸國記皆同、水鏡二本三十二年改元、五年終、〉 節中〈推古帝三十一年癸未改元、一年終、見古代年號、按此年改元仁王、又改元節中、是與上倭景繩同、未孰是、〉 聖徳〈舒明帝即位元年己丑紀元、六年終、年代、皇代、暦略、諸國記皆同、古代年號作聖聽、三年改元、〉 僧要〈舒明帝四年壬辰改元、五年終、見古代年號、諸國記、如是院並七年乙未改元、五年終、〉 僧安〈舒明帝七年乙未改元、五年終、年代、皇代、暦略、諸國記皆同、按僧要以字體似、一是必有誤、未孰是、〉 命長〈舒明帝十二年庚子改元、水鏡二本、三年後不見、諸國記七年後改元、古代年號九年丁酉改元、五年後不見、一本作明長、一作長命、〉 今長〈改元同上、七年終、年代、皇代、暦略所載皆同、按命今字體相似、一是傳寫誤、〉
  以上年號係大化以前、如是院年代記、孝徳帝朝無大化之號
常色〈孝徳帝三年丁未改元、五年終、年代、皇代、暦略、諸國記所載皆同、〉 中元〈天智帝即位元年壬戌紀元、四年後不見、古代年號所載、〉 果安〈天武帝十五年丙戌改元、四年終、見古代年號、〉 大和〈持統帝四年庚寅紀元、七年後不見、見古代年號、〉 大長〈持統帝六年壬辰改元、九年終、年代、皇代、暦略、如是院皆同、海東諸國記、延暦中解文所載、並皆係文武帝丁酉年、而四年終、〉
  白雉、白鳳、朱雀、朱鳥之號、始末未詳、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0347 白雉〈日本紀、孝徳帝六年二月庚午朔戊寅、穴戸國司草壁連醜經獻白雉、此年爲白雉元年、如是院年代記亦係六年庚戌、改元白雉、水鏡二本、年代、皇代、暦略、諸國記皆以孝徳帝八年壬子改元、如是院年代記八年無改元、舊唐書以孝徳大化乙巳年改元、〉
白鳳〈水鏡二本、年代、皇代、暦略、諸國記、如是院皆以齊明帝七年辛酉白鳳元年、大織冠公傳以孝徳帝五年己酉改元、如是院以六年庚戌改元、引二月長門國獻白雉、愚管抄、良醞年中行事並皆以天武帝即位壬申白鳳、〉 白鳳雉〈水鏡二本、天武帝二年癸酉二月廿七日即位、改元白鳳雉、如是院癸酉二改元白鳳、二月皇后立、〉 朱雀〈水鏡二本、天武帝即位元年八月改元朱雀、如是院以天武帝十三年甲申朱雀元、那須國造碑、海東諸國記並皆相同、而朱雀爲朱鳥、〉 朱鳥〈日本紀、天武帝朱鳥元年秋七月己亥朔戊午、改元曰朱鳥元年、如是院、天武帝十五年、大化元、和州獻赤雉、因玆改朱鳥、日本靈異記天武帝十五年丙戌、改元朱鳥、七年後不見、海東諸國記改元同上、歴世九年改元、〉
  以上年號係大化以後、如是院年代記天武帝十五年爲大化元、〈◯中略〉
因て考るに、此邦大化前後の頃までは、年號紀元の事は甚疎略にして、制法もたヽず、年數の長短も正しく記載せざりしと見ゆ、故に諸書に載たるも、彼此異同ありて、いづれを證據となし難し、續日本紀に、神龜元年十月朔日、詔曰、白鳳以來、朱雀以前、年代玄遠、尋問難明とは是なり、文字の美惡是非は勿論、その頃は佛道興隆の初なれば、名目多くは佛家より出たると見ゆ、孝徳帝の御世、蘇我入鹿天誅に伏し、暴虐夷滅せらるヽ後、教化大に行はれ、人々に制をなすの始を示さむとて、大化の號を紀元し給ふ、日本紀略に、弘仁詔、朱鳥以前未年號之目、難波御宇始顯大化之稱とは是なり、海東諸國記に、繼體帝十六年壬寅、始建年號善化、五年丙午改元とあり、此帝の七年に、五經博士を置たまへば、文字の義理も定て吟味ありつらむ、然るに善化を以て紀元の始とし、又孝徳帝の御世大化を以て紀元の始とし給ひ、二ツの化字五年にして同じく改元なりしも、燧和仲が言しごとく、大率離合之讖、深微難逃とは是ならん、〈◯中略〉又孝徳帝の御世より、天下の政事多く改り、專に漢土の法則に傚ひ給ふ故に、古代の年號は皆刋り去て、大化と紀元し給ふと見ゆ、されどもこれより定式となり、末代に連綿せざるなり、又朱雀白鳳などの號、一時の瑞を紀したるは、諸書載る所、始末おなじからず、日本紀に載ざるゆゑ、年號の數に入ざるなり、日本紀に、大化五年

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0348 二月庚午朔戊寅、〈戊寅は九日〉穴戸國司草壁連醜經獻白雉、改元白雉の號見え、〈今日本紀に、改元白雉とあるも、後世文人の稱する所、定式となしがたし、其譯は、續日本紀に、白鳳以來朱雀以前といひ、古語拾遺に、難波長柄豐前朝白鳳四年とあれば、白鳳と書たるにや、水鏡、正統記、寶基本紀、元亨釋書の類證據となし難し、又如是院年代に、天武帝十五年丙戌を大化元とし、和州獻赤雉、因玆改朱鳥とあれども、日本紀に此事なし、〉天武帝十五年朱鳥の號あれども、年號改元の規則とせず、本朝改元考云、本朝文武天皇創建大寶之號、嚮此雖孝徳天皇之大化白雉、天武天皇之朱鳥、而紀一時之瑞、未定式、故源親房正統記、以大寶年號之始、〈本朝改元考は山崎闇齋の著なり〉源爲憲が口遊〈天祿元年冬十二月記〉年代門に、今案、自大寶元年今年、總二百七十年、昔大寶以往有年號曰大化、白雉、白鳳、朱鳥、凡至白雉合九載、其後齊明天智二帝雖天下、專無號、轉更至天武治一レ天、歳號朱鳥、其後持統一帝無年號、亦文武御天歳號大寶、從此以來永以不絶也とあり、此即ち吾國金貨の始發する日にて、文武帝五年三月廿一日、大寶紀元の號、本朝紀年の權輿、萬世不易の定法としるべし、漢土にも武帝建元を紀年の始とすれど、文帝の後元と、景帝の中元後元は、史官追書の名として、改元定式の年數に入ざる事、改元考に見えたり、〈◯中略〉
和漢の異年號、諸書に見えたるもの、大率かくのごとし、紀年の始末しれざるは、いづれも臆斷しがたし、此外に彼土には、年號同名數多あり、陳繼儒が偃曝談餘に、漢の建元より明の正徳に至るまで、凡一百餘名を載たり、其中大半は僭號多し、此邦は皇統一姓にて、ありがたき事なり、〈繼體帝の正和と、花園帝の正和と同名なれど、大化以前の年號は正史に載ざれば、證據となし難し、〉いづれにも、年號は國家第一の重事たるべき事と思はる、

〔襲國僞僭考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0348 繼體天皇十六年、武王年を建て善記といふ、是九州年號(○○○○)のはじめなり、
年號 けだし善記より大長にいたりて、およそ一百七十七年、其間年號連綿たり、麗氣記私抄、また海東諸國記などにもこれを載せ、今伊豫國の温泉銘にも用ひ、如是院年代記にも朱書して出せり、しかれども諸書載るところ異同多し、今あはせしるして參考に備ふること左のご

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0349 とし、
善記 襲の元年、繼體天皇十六年壬寅、梁普通三年にあたる、海東諸國記善化に作る、如是院年代記に、或曰、繼體天皇自十六年始年號在之云々分者朱ニテ書之、年數相違之處在之不審とあり、一説曰、繼體帝之時、善記四年終、
正和 繼體天皇二十年丙午、正和元年とす、孔方不知品に、正和通寶あり、けだし襲人の鑄るものなり、桂林漫録にのせたる、下野國河内郡なる正和元年建立の鐵塔婆は、花園天皇の正和元年壬子のものなり、混ずべからず、一説曰、正和五年終、
殷到 繼體天皇二十五年辛亥、殷到元年とす、海東諸國記發例に作り、如是院年代記教到に作る、同書に、教到元始作暦とあるも、また襲人のしわざなるべし、一説に、正和と殷到との間に、定和常色の二年號あり、いはく定和七年終、常色八年終、教知五年終、一説作教到、又曰殷到、按自四年五年、係安閑帝之時、
僧聽 宣化天皇元年丙辰、僧聽元年と改む、一説曰、宣化帝之時、僧聽四年終、欽明天皇元年、かれが僧聽五年、襲の人衆を率て歸附す、欽明紀曰、元年三月蝦夷隼人並率衆歸附、
明要 欽明天皇二年辛酉、明要元年とす、海東諸國記同要に作る、一説曰、欽明帝之時、師安一年終、大長三年終、法清四年終、清一作靖、兄弟和一年終、一作兄弟、明要三年終、或云、十二年、藏知一年終、知一作和、知僧一年終、或云七年、
貴樂 欽明十三年壬申、貴樂元年とす、一説曰、貴樂十八年終、或云二年、
法清 欽明十五年甲戌、法清元年とす、海東諸國記結清に作る、
兄弟 欽明十九年戊寅、兄弟元年とす、
藏和 欽明二十年己卯、藏和元年とす、如是院年代記に藏知に作る、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0350 師安 欽明二十五年甲申、師安元年とす、
知僧 欽明二十六年乙酉、知僧元年とす、海東諸國記に和僧に作る、
金光 欽明三十一年庚寅、金光元年とす、一説曰、金光六年終、或云四年、實敏達帝二年、豐後人眞名野長者道場を内山に起立し、號して蓮城精舍といふ、はじめ長者金三萬兩を天臺山に寄て福根とす、南嶽慧思大師、緬に長者が徳ある事を知り、すなはち弟子蓮城を遣はし、赤檀千手眼瑠璃藥師佛像を齎し來らしむ、長者深くこれを信じ、蓮城精舍を起し、また深田の地に就て、祗陀、療病、施藥、安養、快樂の五院を創め、名けて滿月寺といふ、皆城をもて開基とす、事は豐鐘善鳴録に見えて、豐後國志にもこれを引たり、内山は好古小録硯石品に、内山石、豐後上材難獲といへる處なり、
賢棲 敏達天皇五年丙申、賢棲元年とす、海東諸國記棲を接に作る、如是院年代記に稱に作る、一説曰、敏達帝之時、賢輔五年終、輔一作棲、又作博、
鏡常 敏達十年辛丑、鏡常元年とす、海東諸國記常を當に作る、一説曰、鏡常四年終、鏡一作鐘、今按ずるに鏡常是なり、
勝照 敏達十四年乙巳、勝照元年とす、一説曰、照勝四年終、一曰作勝照、又曰、用明帝之時、和重二年終、
端政 崇峻天皇二年甲寅、端政元年とす、如是院年代記端改に作る、一説曰、崇峻帝之時、端政五年終、
吉貴 推古天皇二年甲寅、吉貴元年とす、海東諸國記從貴に作る、一説告貴に作る、いはく推古帝之時、告貴十年終、又曰、按一説、推古元年爲喜樂、二年爲端正、三年爲始哭、一作始大、自四年十年、爲法興、是四年號通計十年、而終與告貴年數正相符、則十年之間、蓋與告貴互相行也耳、いま按ず

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0351 るに、伊豫風土記に、湯郡云々、天皇等於湯幸行降坐五度也云々、以上宮聖徳皇子一度、及侍高麗惠慈、葛城王等也、于時立湯岡側碑文、其立碑文處、謂伊社邇波之岡、記曰、法興六年十月歳在丙辰云々と見えたり、丙辰は推古天皇の四年にして、すなはち法興寺の成し年なり、この年を法興六年とすれば、その元年は崇峻天皇の四年辛亥なり、しかるに今記する處とあはず、疑ふべし、
願轉 推古七年辛酉、願轉元年とす、海東諸國記煩轉に作る、一説曰、願轉四年終、
光元 推古十三年乙丑、光元元年とす、如是院年代記光充に作る、一説曰、光元六年終、一作弘元、又曰光充
定居 推古十九年辛未、定居元年とす、今按ずるに、寶永五年板靈符縁起集説といふものに、我朝推古女帝〈人王三十四代〉ノ御宇ニ、百濟國定居元〈辛未〉年、聖明王第三ノ御子琳聖太子、我朝ニ渡リ玉ヒテ、此法ヲモツハラ弘メ玉フ、其後儒佛神トモニ執行シケルト〈舊記ニ見タリ〉とあり、此舊記といへるは、何れの書なる事さだかならざれども、さる事しるせるふみありと聞えたるに、旣に九州年號を百濟年號と誤りたり、
倭京 推古二十六年戊寅、倭京元年とす、此年號海東諸國記には見えたり、麗氣記には見えず如是院年代記には和京繩につくれり、一説曰、和京五年終、一作和景繩、又曰、按和京元年、爲定居元年、定居七年終、和京五年終、則仁王元年、則爲定居六年、蓋是三年號、又互相行也耳、
仁王 推古三十一年癸未、仁王元年とす、一説には、仁王の次に節中といふ年號あり、いはく仁王六年終、節中五年終、
聖聽 舒明天皇元年己丑、聖聽元年とす、如是院年代記に聖徳に作る、一説曰、舒明帝之時、聖聽三年終、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0352 僧要 舒明七年乙未、僧要元年とす、一説曰、僧安五年終、
命長 舒明十二年庚子、命長元年とす、一説曰、明長五年終、一作命長、又曰長命、又曰、按自三年五年、係皇極帝之時、右大化以前年號、
常色 孝徳天皇三年丁未、常色元年とす、これを一説には繼體帝之時の年號とす、前に見えたり、
白雉 孝徳六年庚戌、白雉元年とす、齊明天皇元、かれが白雉六年、その人衆を率て内屬す、 齊明紀曰、元年、是歳蝦夷隼人率衆内屬、詣闕朝獻、
朱雀 天武天皇元年壬申、朱雀元年とす、一説には白雉朱雀の二年號をしるさずして、ことに中元果安の二年號をしるしていはく、天智帝之時、中元四年終、又曰、按戊辰爲元年、天武帝之時果安、又曰、按不年數
大和 持統天皇九年乙未、大和元年とす、此年號麗氣記には見えず、海東諸國記にはのせたり、孔方不知品に大和通寶あり、これこの大和年中に鑄たるにてもあるべし、一説曰、持統帝之時大和、又曰不年數
大長 文武天皇二年戊戌、大長元年とす、一説曰、文武帝之時大長、又曰、按戊戌爲元年、右大化以後年號、九州年號こヽに終る、今本文に引所は、九州年號と題したる古寫本によるものなり、
今按ずるに、文武天皇の大寶以前の年號は、九州年號とまがへるものあらんもしるべからず、よくよく考ふべきことなり、今試に論ぜば、朝廷にて年號を立たまへる事は、孝徳天皇の大化元年を始とし、その六年白鳳と改元、これより天武天皇の元年まで白鳳を用ひ給ひ、天武天皇の元年朱鳥と改元、これより文武天皇五年まで朱鳥を用ひ給ひ、文武天皇五年大寶と改元ありしなりけんを、大寶以前の年號は、きはやかならざりしが故に、書紀を撰び給ひし御時にも、旣に此事さだかならずして、孝徳の御世の白鳳をば、九州年號の白雉にまがへ給ひ、白鳳を朱鳥と改元あり

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0353 し天武帝の元年を、還て白鳳元年としるし給ひ、朱鳥と改元ありしは、帝の末年の御事としるし給へる者なるべし、しかれば朝廷の白鳳元年は、九州年號の白雉元年にあたり、朝廷の朱鳥元年は、九州年號の朱雀元年にあたるなり、もししからば、九州年號の白雉朱雀は、朝廷の白鳳朱鳥を擬して唱へたる者といふべし、續日本紀に、白鳳以來、朱雀以前とある朱雀は、朱鳥の誤にや、日本紀略、嵯峨天皇大同五年九月丙辰詔曰、朱鳥以前未年號之目、難波之御宇始顯大化之稱とも見えたり、かくて孝徳の御世の白雉は白鳳なるべき證は、古語拾遺に、難波長柄豐前朝、白鳳四年と見え、大職冠公傳に、天萬豐日天皇、已厭萬機、登遐白雲、皇祖母尊俯從物願、再應寶暦、悉以庶務皇太子、又白鳳十四年皇太子攝政などあるにて推べし、豐前朝とは孝徳帝の御事なり、天萬豐日はすなはち帝の御諱なり、皇祖母尊とは齊明帝の御事、皇太子は天智帝なり、元亨釋書などにも白鳳十二年、白鳳十四年などヽしるせり、また神皇正統紀に、文武天皇即位五年辛丑より始めて年號あり、大寶といふ、是より先に孝徳の御代に、大化、白雉、天智の御時、白鳳、天武の御代に朱雀、朱鳥など云號ありしかど、大寶より後にぞたえぬ事にはなりぬる、依て大寶を年號の初とするなりと見えたり、これに天智の御時白鳳としるせるも、一ツの證とすべし、さて如是院年代記には、孝徳天皇元年に、大化と年號たて給ひし事見えず、六年の下の細書に、白雉元年二月、長門國獻白雉、改元白雉と見え、天武天皇の下の細書に、即位之年壬申改元、朱雀二年の下の細書に改元白鳳、十三年の下に朱雀元と朱書し、十五年の下に大化元と朱書し、細書に和州獻赤雉、因玆改朱鳥と見え、持統天皇六年の下に、大長元と朱書し、文武天皇大寶元年よりぞ年號を大書して、細書に三月二十一日改元、年號始於此、此歳對馬島貢金、由是三月二十一日甲午改元大寶とあり、これらによりておもふに、朝廷にてまさしく年號を建給ひたるは、この大寶ぞ始にて、是より以前の年號は、九州年號とたがひにまがひたるなるべし、白鳳と白雉と、朱鳥と朱雀と義相近く、大化と大和と音

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0354 相同じきをもおもふべし、

〔鹽尻〕

〈十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0354 一繼體天皇、日本年號を善記と云、是始と云々〈書に繼體帝即位十六年を、善紀元年とす、〉以下略之、二十餘之年號あり、正史に見へず、夫我國年號の始は、孝徳帝元年を大化と號し給ひ、其六年を白雉と改む、白鳳は天武即位の元年壬申より乙酉迄十四年、丙戌は朱雀の元年也、持統は年號を立給はず、文武の即位五年辛丑、大寶と號せられし後、綿々として改元有りといふ、有難き事共也、

〔春湊浪話〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0354 往古年號
年號は、孝徳帝御時、大化白雉の號を置れたる、日本紀に見えし始なり、しかるに伊豫國の湯碑文を上宮太子の建給ふに、法興六年十月歳次丙辰としるさせ給ふ、此碑は今廢れたれど、其文は伊豫風土記を引て釋日本紀にみえたれば、法興の年號有し事明也、考るに丙辰の年は、推古天皇の四年なり、此法興の號、源平盛衰記にもみえたり、又欽明天皇の御時、金光の年號、推古天皇の御時、端政の年號等も、平家物語にみえたり、猶後世の書なれども、東山殿の同朋相阿彌が著す君臺觀にも、聖徳六年戊巳としるす、又江州あぶら火の明神の社記にも證明四年と書たりといふにや、海東諸國記に、敏達天皇元年壬辰に金光を用ひ、崇峻天皇二年己酉に端政を用ひ、舒明天皇元年己丑に聖徳を用られしといふとみえたり、法興と證明といふ號は其書にみえず、是等の年號ふるく記し置き、異國にても書たれば、往古大化白雉より先に年號有し成べし、聖徳太子と申奉る事、御諱名なりとも、御謚號なりとも記せしものあれども、其世の年の名をとりて稱し奉るにやあるべき、其後白鳳と朱雀といふ年號、ふるき文に多く見え、水鏡には、天武天皇の大友皇子を亡し給ふ年の年號朱雀元年にて、明年白鳳と改元有しなり、神皇正統記には、天智の御時白鳳、天武御代に朱雀朱鳥などいふ號有しと見え、又古語拾遺には、難波豐前の朝白鳳四年といふ事も有、是は孝徳天皇の朝の御事なり、此二ツの年號、諸記にしるす所如此に齟齬ある上に、正史に見へ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0355 ず改元考にも出されず、此二ツの號とるべき名にあらずと思ふに、聖武天皇神龜五年十月に、治部省より奏言せし詔報のなかに、白鳳以來、朱雀以前、年代其遠、尋問難明、亦所司記注、多有粗略といふ事、續日本紀にみへたれば、日本紀にみへずとて、此年號朝廷に一向廢せられし號にもあらざるか、今是を審にせんに外に所見なし、按るに、朱雀白鳳の年號は、天武天皇難をさけて吉野にこもらせ給ひ、それより二年の後、癸酉のとし淨御原の宮に即位し給ひし間に、大津の宮にて大友皇子の立給ひし年號なる故に、舍人親王の日本紀に除て書せ給はざりしや、上に引し聖武天皇の治部省へ詔報ありし詞も、大津宮の大友皇子の御時の事なれば、何事も明に知がたきとあることにて、大津宮の二ツの年號を出されざる事なるべし、亦天平感寶といふは、天平廿年四月に改元有し號なれども、間もなく同年七月に天平勝寶と改元ありし故に、國史にはみえたれども、年代記等にはみえず、世の人のしらぬ年號なり、

〔逸號年表〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0355 續日本紀、神龜元年朔日詔曰、白鳳以來、朱雀以前、年代玄遠、尋問難明、而朱雀白鳳二號、日本紀皆不載、其他水鏡諸書所載紀號、國史亦無所見、倶未其故也、〈◯下略〉

〔逸號年表補考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0355 善紀(○○)、大屯(○○)、
萬葉緯一卷ニ、史籍不往古年號、今所記以本瀬三之自筆之、傳聞、南都古寺間有記、此年號書矣、トアリテ、異年號ヲ集メタルモノアリ、大凡年契ニイヘル如シ、繼體天皇十六年ヲ善紀元年トシテ、文武天皇四年ヲ大屯九年トスル迄、凡百七十九年ノ間ヲ記セリ、此年號所出ノ書ヲイハズ、證トシガタケレバ寫シトヾメズ、

〔逸年號考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0355 藤原貞幹が逸號年表を得て之を見るに、二十四部の書を引きて、正史にもれたる紀號ある由を云り、故かヽる異しき年號もありけるにやと、猶疑はしかりけるを、伴信友が同書の補考に、五十一部の書を引證してあなるに驚かされて、やヽさきの疑ひもはれたれど、猶

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0356 あかずまに彼此と書見る因に、其異年號の見あたりたるどもを書集め置て、さて考ふるに、列滴以下の號ども、多くは中古以來僧徒の、人の國へゆきヽおほくありし頃より、皇國の古へに、紀號なきを厭ぬ事に思ひて、造出たるならん、其文字づかひもいと拙く、佛家の語を用ひたるにて知るべし、神社寺院の縁起佛像などに彫付たるも、大かた同じ心ばえなり、然るを韓人の海東諸國記にかけるは、もとより正しき紀號と心得て記せるにや、

〔茅窻漫録〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0356 和漢異年號
證明(○○)〈詹詹云、江州油火明神の社記に、證明四年と云書付あり、此暦號何代なることを知らず、此年號右社の鰐口にもあり、按ずるに兼延が名法要集に、大織冠曰、吾唯一神道者、以天地書籍、以日月證明、此語を兼倶が神代抄に皇太子の語といへば、法興聖徳などとおなじく、推古舒明兩帝の御時なるべし、油火明神は、江州甲賀郡にあり、〉

〔逸號年表補考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0356 證明四年 近江國油日村明神縁起、コハ上ニ擧タル勝照ノ誤リカ、

〔釋日本紀〕

〈十四述義〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0356 伊豫國風土記曰、〈◯中略〉立湯〈◯道後〉岡側碑文記云、法興(○○)六年十月歳在丙辰、我法王大王、與惠總法師及葛城臣、逍遙夷與村、正觀神井、歎世妙驗、欲意、聊作碑文一首、〈◯下略〉

〔上宮聖徳法王帝説〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0356 法興元(○○○)世一年、歳次辛巳、十二月鬼前大后崩、〈◯中略〉
右法隆寺金堂坐釋迦佛光後銘文如件〈今私云、是正面中臺佛云云、〉
釋曰、法興元世一年、此能不知也、但案帝記云、少治田天皇之世、東宮厩戸豐聰耳命、大臣宗我馬子宿禰、共平章而建立三寶、始興大寺、故曰法興元世也、此即銘云、法興元世一年也、後見人若可年號、此不然也、然則言一年字、其意難見、然所見者聖王母穴太部王薨逝辛巳年者、即少治田天皇御世、故即指其年、故云一年、其無異趣

〔古京遺文〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0356 釋迦佛造像記
辛巳、推古天皇二十九年、〈◯中略〉鬼前太后、斥穴太部間人女王、是厩戸皇子之妣、

〔尚古年表〕

〈推古〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0356 忠友〈◯穗井田〉曰、法隆寺釋迦光後銘ニ法興元卅一年亗次辛巳トアルヲ、貞幹小録ニ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0357 元世一年ト讀シハ誤也、丗ハ卅ニテ、世ニハ非ズ、同背後銘ノ中ニ、世間又即世トモアリテ、世ノ字ト別也、崇峻帝ノ辛亥ヲ法興元年トシ、此辛巳ヲ卅一年トスルコト論ナシ、道後湯碑ニ推古帝ノ丙辰ヲ、法興六年ト記シタルヲモ合考ベシ、蓋シ元世一年ノ元字ハ、衍文トモ云ベシ、
◯按ズルニ、法興元ハ、又ハ法興トモ云ヒシナルベシ、釋日本紀ニ引ケル伊豫ノ道後ノ碑ニ、法興六年十月歳在丙辰トアルガ如シ、法興元トハ、法興寺ノ創立ヲモテ元年トシタルモノナラン、日本書紀ニ、崇峻天皇元年、壞飛鳥衣縫造祖樹葉家、始作法興寺トアルハ、建テ始メタルヲイヘルニテ、建テ訖リテ後ニ寺ノ名ヲ法興ト名ケ、即チ其年ヲ元年トセシモノナルベシ、法興寺ハ即チ元興寺ナリ、三字ヲ年號トスルハ、王莽ノ始建國、梁武帝ノ中大通、中大同ノ例ノ如ク、又元ノ字ヲ年號ニ著クルハ、漢ノ武帝ノ建元、後元、光武帝ノ中元ナドノ例ナリ、

〔壒囊抄〕

〈十二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0357 三如來トハ何
如來未ダ伊那郡善光ガ家ニ御座時ニ、推古天皇御宇、淨土ノ業、自餘ノ教法ニ勝ルヽ故ニ、聖徳太子、欽明、用明、并ニ守屋與力ノ逆罪ヲ濟ハン爲ニ、八人ノ大臣ト共ニ時衆ト成テ、清凉殿ニシテ常行三昧ノ念佛、七日七夜稱名アリテ、功徳ノ有无ヲ此善光寺ノ如來ニ尋申サレケル、〈◯中略〉第二度ニハ、調子丸ヲ御使トシテ御消息アリ、其詞云、 大慈大悲本誓願 愍念衆生一子 是故方便從西方 誕生片州正法〈◯中略〉 法興元(○○○)世一年〈辛巳〉十二月十五日、厩戸勝鬘上ト遊シケル、世間ニ流布シテ、庿中廿句ノ文ト云是也、〈◯中略〉第三度ノ御使ニハ、甲斐ノ黒木調子丸二人也、黒駒ニ乘リ、調子ハ究駄ニ乘ル、其時ノ御消息ニハ、 州域化縁度脱了 平等一子衆生界〈◯中略〉 口稱誓願報持功 豈是固持不護念 法興元丗二歳〈壬午〉八月十三日、厩戸勝鬘上ト遊バシテ、御表書ニハ、進上本師如來御寶前ト侍リテ、班鳩厩戸上ト云々、

〔源平盛衰記〕

〈三十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0357 重衡關東下向附長光寺事

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0358 抑長光寺ト云ハ、武作寺ノ事也、〈◯中略〉法興元世二十一年壬子二月十八日、太子〈◯聖徳〉ト妃〈◯高橋〉ト相共ニ、彼寺ニ御幸シテ、〈◯下略〉

〔長等の山風附録〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0358 源平盛衰記なる、近江國長光寺の縁起を語れる文に、〈◯中略〉此は、そのかみ彼寺の縁起文によりて記せりと聞ゆるに、其法興元世廿一年壬子といへるは、今己が考たる説に合ひがたし、其はまづ、法興元世といへる世字の論は、しばらく除て、廿一年壬子とある干支年次によりて、推し撿るに、聖徳太子のおはしましける、御世の壬子は、崇峻天皇の五年にて、かの速見の湯の碑文の、法興二年に當れば、廿一年と云へるに合はず、かの佛光後の銘を、法興元世の一年とせむにも、其廿一年は、舒明天皇の十三年辛丑に當りて、干支も合はざるが上に、聖徳太子薨給ひて、廿年の後なれば、是も合はず、すべて件の縁起の趣、古書どもに見えたる事實にも、さらに合はず、有べくもあらぬ事どもにて、いと妄浪なるを思へば、旣く其寺の僧徒が造言にて、彼善光寺如來に賜ひたる、聖徳太子の文の類にて、かの佛光後の銘を、法興元世と讀なれたる説によりて、干支年次をだに考ずして、謾りに造言せるものなりけり、かくて其年號〈◯法興〉は、次の推古天皇の御世かけて、厩戸皇子の攝政のほどまで用ひ給へるを、いはゆる法興元卅一年に、皇子薨給ひて、後おのづから廢みぬるなるべし、但し此年號も、後の例のごとき重事として、天下に遵用ひさせ給へるにはあらで、一時の嘉號の如くなりけるが上に、もはら馬子などが申し行ひたる事なるべければ、是も史には除かれたるなるべし、然はあれど、是ぞ年號と稱ふものヽ創には有るべき、

〔續日本紀〕

〈九聖武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0358 神龜元年十月丁亥朔、治部省奏言、勘撿京及諸國僧尼名籍、或入道元由、披陳不明、或名存綱帳、還落官籍、或形貌誌黶、旣不相當、總一千一百二十二人、准量格式、合公驗、不處分、伏聽天裁、詔報曰、白鳳(○○)以來、朱雀(○○)以前、年代玄遠、尋問難明、亦所司記注、多有粗略、一定見名、仍給公驗

〔享祿本類聚三代格〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0359 太政官謹奏
 請出元興寺攝大乘論門徒一依常例持興福寺
右得皇后宮職解偁始興之本、從白鳳年(○○○)于淡海天朝、内大臣割取家財、爲講説資、伏願永世萬代勿斷絶、〈◯中略〉今具事状、伏聽天裁、謹以申聞、謹奏、奉勅依奏、
  天平九年三月十日

〔古語拾遺〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0359難波長柄豐前朝(○○○○○○○)〈◯孝徳〉白鳳四年(○○○○)、以小華下諱齋部首作賀斯、拜神官頭

〔長等の山風附録〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0359 此事孝徳紀に見えず、廣成宿禰の家傳にぞありけむ、本朝月令、年中行事秘抄、公事根元等にも、此文をひかれたり、然るに古語拾遺一本に、白鳳を白雉と作るがあるは、後人の書紀に據りて、私に改めたるものなり、其一本を除ては數本悉白鳳とあるが上に、月令等の古書に、引載たるにも、白鳳とあり、又西宮記〈◯中略〉十月宰相行列の條に、菅簦(オホガサ)云々、白鳳制云、三品已上聽菅簦云々と記されたり、この白鳳も孝徳の御世なるべし、

〔逸年號考刪餘〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0359 古語拾遺ニ、至于難波長柄豐前朝〈◯孝徳〉白鳳四年トミエタルヲ、齊延本ト、天文本ニハ白雉トアリ、加賀本類聚三代格、天平九年三月十日ノ文ニ、興福寺ノ事ヲ始興之本、從白鳳年于淡海天朝云々トアルハ、孝徳帝ノ年號ヲ云ルナルベシ、

〔藤原家傳〕

〈鎌足〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0359 白鳳五年秋八月、詔曰、尚道任賢、先王彜則、裒功報徳、聖人格言、其大錦冠内臣中臣連、功侔建内宿禰、位未民之望、超拜紫冠、増封八千戸、俄而天萬豐日天皇〈◯孝徳〉已厭萬機遐白雲
◯按ズルニ、之ニ據レバ、白鳳ハ即チ白雉ナリ、ソハ孝徳天皇ノ崩御ハ、日本書紀ニ據ルニ、白雉五年甲寅ノ十月ニテ、此書ニ鎌足公ガ紫冠ニ超拜セラレシトイフ八月ニ甚ダ近ケレバナリ、サレバ俄而トハ云フナリ、是ニテ白鳳ハ白雉ノ一名ナリト定ムベシ、白雉ヲ白鳳ト云ヘルハ、雉ノ文采ノ鳳凰ニ似タルヨリ云フナリ、漢土ニテモ鸞峙鳳翔ナドモ云ヒ、雉ヲ鳳凰ナリト云

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0360 ヒテ欺キシト云フ話モアリ、白雉ヲ獲シニヨリテ白鳳ト改元セシヨシハ、諸書ニ多ク見エテ、白鳳ノ年號ノ白雉ニ由レリト云フハ、古キ傳ナルベシ、又按ズルニ、白雉ハ日本書紀ニテハ、五年ニテ終リタレド、藤原家傳ニテハ、白鳳十二年、十三年、十四年ナドモアリ、サレドソノ事實ドモヲ日本書紀ニ合ハセ、白鳳ヲ白雉トシテ數フル時ハ、十二年ハ十一年ノ誤、十三年ハ十二年ノ誤、十四年ハ十三年ノ誤ナリ、

〔神皇正統記〕

〈文武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0360 天智の御時白鳳(○○○○○○○)
 ◯按ズルニ、和漢合符、天智帝ノ壬戌ノ年ヲ以テ白鳳二年トス、本朝皇代記之ニ同ジ、

〔湯土問答〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0360 答、大化、白雉、朱鳥ハ日本紀ニ出、大寶ハ續日本紀ニ出候ヘバ、マガフベクモ非ズ、白鳳朱雀ノ二ノ年號ハ、水鏡、神皇正統記ニ見エ候ヘドモ、甚イブカシク候、又古語拾遺難波豐前朝ニ、白鳳四年ト記セシハ、白雉ノ字誤ナルベシ、此ノ御時ニ此號其餘更所見ナキコトニ候、大同五年九月十九日改元之時詔ニモ、朱鳥〈◯朱鳥、日本後紀、日本紀略並作飛鳥、〉以前未年號之目、難波御宇始顯大化之稱ト、日本紀略ニモ見エテ、朱鳥ノ前ニ續キタル朱雀白鳳ノ號不見候ヘバ、此二號ヲ稱スルコト誤ナルコト分明ニ候、故ニ此二ノ號、水鏡、正統記トモニ齟齬セシコト多シ、白鳳ノ號天智ノ御時ノ年號(○○○○○○○○○○○○)トモ注シ、又天武ノ初朱雀(○○○○○○)トシ、其明年白鳳(○○○○)ト改元、白鳳十五年朱鳥ト改元(○○○○○○○○○○)セシ由記セリ、如此ナラバ日本紀ノ年序ヨリ一年延ビテ、尤支干モ不相叶候、是其二ツ也、水鏡ニ天武元年八月ニ、野上宮ヘ筑紫ヨリ赤キ雀ヲ奉リシ故ニ、年號ヲ朱雀ト改ラレシ由記セリ、此元年御軍ハテヽ、大友ノ御首ヲ野上ノ宮ヘ奉リタルコト七月廿七日ナリ、未ダ御世何レトモ不定、又定シヨリト見レバ、八月ニテハ日數ノ間アルマジキ也、是其三ツ也、是等ニテ又兩書ノ誤猶分明ナリ、然ルニ世ニ此二ノ號ヲ稱スルコトヲ考ルニ、此朱雀白鳳ノ號ハ、大友皇子大津ノ宮ニ帝ノ如クニテマシマセシ中ニ稱セラレシ年號ナルヲ、世ニ云傳ヘシニヤ可有、

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0361 サレドモ舍人親王ハ天武ノ皇子ナレバ、此二號ノ稱ヲイミ給テ、小注ニモ注シ給ハザリシナルベシ、此白鳳ノ號、水鏡ノ説ニヨラバ、舍人親王誕生マシマセシハ則白鳳五年ニ當レバ、記シモラシ給フベキコトニモ非ズ、何レニ考テモ、此二號ハ取ルマジキモノニゾ、

〔扶桑略記〕

〈五天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0361 元年壬申(○○)八月、天皇幸野上宮、立年號朱雀元年(○○○○)、太宰府獻三足赤雀、仍爲年號

〔帝王編年記〕

〈十天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0361 朱雀一年〈信濃國獻赤鳥、仍爲瑞改元、〉

〔皇年代略記〕

〈天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0361 朱雀元〈元年壬申、信乃國獻朱鳥、爲瑞改元、〉

〔愚管抄〕

〈一皇帝年代記〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0361 天武 十五年〈元年壬申◯中略〉 朱雀(○○)一年〈元年壬申(○○○○)〉 白鳳(○○)十三年〈元年(○○)、壬申(○○)、支干同前、年内改元歟(○○○○○)、〉

〔源平盛衰記〕

〈二十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0361 顯眞一萬部法華經事
同〈◯壽永元年五月〉廿七日ニ、改元ノ定アリ、改養和二年壽永元年、法皇ノ御氣色ニ依テ被行ケリ、是ハ或人夢想ノ告アリケル故トゾ聞エケル、延喜ニ公忠ノ夢想ニ依テ忽ニ改元アリキ、例ナキニ非、今上去々年即位、其年大嘗會有ベキ處ニ、福原ニ臨幸ノ間、新都其禮難備アリケレバ、延引シケリ、去年ハ又諒闇也ケレバ被行ズ、今年被遂行ベキニ、大嘗會以前兩度ノ改元其例審ナラズト、沙汰有ケルニ、天智天皇十年ニ崩ジ給シニ、天武天皇固辭シテ即位シ給ハズ、大伴皇子ノ亂アリテ、次年ノ天武元年(○○○○)七月ニ、彼皇子ヲ被誅キ、同八月(○○)ニ、太宰府ヨリ三足ノ赤雀ヲ獻ズ、仍テ年號トス、朱雀(○○)是也ト、左大臣經宗被申ケリ、大外記頼業ハ白雉ヲ改テ白鳳トシテ(○○○○○○○○○○)、十一月ニ大嘗會ヲ被行キト申ケレバ、忽ニ改元アリケルトカヤ、

〔長等の山風附録〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0361 頼業眞人の、白雉を改て云々といへるは、上に擧たる如く、二年癸酉三月に、白雉を獻れる瑞によりて、すなはち白雉と改元ありけるを、其年更、白鳳と改られたる由の傳のありけるなるべし、〈◯下略〉
◯按ズルニ、上文引ク所ノ愚管抄、及ビ次下引ク源平盛衰記ニ據ル時ハ、一年ニ再ビ改元アリ

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0362 シハ、壬申歳ナリシガ如シ、記シテ疑ヲ存ス、

〔一代要記〕

〈天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0362 白鳳元年壬申(○○○○○○)三月、備後國進白雉、仍改爲白鳳
◯按ズルニ、一代要記以下、壬申ノ歳ヲ以テ白鳳元年ト爲ス説ナリ、

〔皇代記〕

〈天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0362 白鳳十三年、元年壬申、備後國獻白雉、仍爲瑞改元、

〔二十二社註式〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0362 日吉社〈◯中略〉 山家最要略記、日吉七社降臨垂跡時代事、扶桑明月集云、〈◯中略〉第四十代天武天皇即位白鳳元年、〈壬申〉近江國滋賀郡垂跡、

〔源平盛衰記〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0362 三井寺僉議附淨見原天皇事
宮〈◯天武〉名乘テ憑マントオボシテ、丸ハ淨見原ノ宮也、深ク汝ヲ憑ト宣ヘバ、長者畏テ聟ニ取奉テ、隱シ置奉ル、〈◯中略〉其後長者、東夷ヲ催テ、白鳳元年壬午、始テ不破關ヲ置テ、美濃國ニテ軍構シ給ヘリ、〈◯中略〉宮都ニ上給ヒ、即位給ニケリ、天武天皇トハ是也、〈◯下略〉
◯按ズルニ、壬午ハ、上文引ク一代要記、皇代記、二十二社註式等ニ據ルニ、壬申ノ誤ナラン、日本紀ニ據ルニ、天武帝ノ壬申ハ、即位元年ニシテ、壬午ハ、十一年ニ當レリ、

〔二十二社註式〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0362 香椎宮〈◯中略〉 第四十代天武天皇白鳳二年〈癸酉〉二月八日、高良託宣、譽田天皇御宇、爲晨昏武略之健將

〔袋草子〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0362 大嘗會歌次第 大嘗會、天武天皇御宇白鳳二年癸酉十一月始之、但歌不見、

〔二十二社註式〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0362 丹生社〈◯中略〉 人皇四十代天武天皇白鳳四年〈乙亥〉御垂跡

〔扶桑略記〕

〈五天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0362 二年癸酉(○○○○)三月、備後國進白雉、仍改爲白鳳元年(○○○○)、白鳳合至十四年
◯按ズルニ、扶桑略記以下、癸酉ノ歳ヲ以テ白鳳元年ト爲ス説ナリ、

〔水鏡〕

〈中天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0362 其年の八月に、御門は野上の宮に移り給たりしに、つくしより足三ありし雀の赤を奉りしかば、年號を朱雀元年と申侍りし、其明年〈◯二年癸酉〉の三月に、備後國より白雉を奉りたりしに

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0363 は、朱雀と云し年號を白鳳とぞかへられにし、

〔一代要記〕

〈天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0363 癸酉歳太宰府獻三足赤雀、仍改元朱雀、即白鳳元年也、

〔東寺王代記〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0363 天武天皇壬申、元年建朱雀號、二年(○○)〈◯癸酉〉帝即位、改(○)朱雀(○○)號(○)白鳳(○○)

〔吾妻鏡〕

〈七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0363 文治三年十二月七日甲戌、天武天皇御宇二〈◯二恐一誤〉年八月、帝遷坐野上宮給之時、自鎭西三足赤色之雀、仍改元爲朱雀元年(○○○○)、明年三月自備後國白雉、又改(○)朱雀二年(○○○○)爲(○)白雉元年(○○○○)、同十五年自大和國赤雉之間、改年號朱鳥元年

〔年中行事秘抄〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0363 伊勢齋宮事
天武天皇白鳳元年四月十四日、以大來目皇女、獻伊勢神宮、依合戰願也、
◯按ズルニ、日本書紀ニハ、此事ヲ天武天皇二年癸酉ニ係ケタリ、

〔和漢合符〕

〈天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0363 二〈癸酉(○○)〉十三(○○)〈或以是年白鳳元年(○○○○)、備後國獻白龜、因此改元、〉
◯按ズルニ、二トアルハ即位二年、十三トアルハ白鳳十三年ナラン、

〔長等の山風附録〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0363 一代要記に、箕面寺縁起を引て、癸酉歳大宰府獻三足赤雀、仍改元朱雀、即白鳳元年也といへるは、癸酉を朱雀の元年とし、其年また白鳳と改られたる趣なり、大宰府獻三足雀ことは、上に擧たる如く、壬申年の事なるを、癸酉の年として、其年内に再白鳳と改られたる由にて、上に考定たる年立に合せては、朱雀の改元は、一年後れ、白鳳の改號は、一年前だちたり、紹運録に、天武天皇を白鳳二年に即位と記し、元正天皇を白鳳十年辛巳降誕と記し、文武天皇を白鳳十二年癸未降誕と記したる白鳳を、書紀、また亨年(ミトシ)等によりて推考るに、これも要記と同じ年立干支に合へり、案ふに、こは下に論ふ如く、壬申年大友天皇の御世に坐ませるほどは、白鳳の年號を用ひ給ひ、其年の内に、天武天皇の御世となりて、朱雀と改給ひ、二年癸酉に、又白鳳を用ひ給へるを、然は混へたるにて、その年立に據りて記せる傳なるべし、此餘に、白鳳元

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0364 年を壬申に係て記せる書多し、〈◯下略〉

〔帝王編年記〕

〈十天武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0364 白鳳十四年(○○○)〈備後國獻白雉、仍爲瑞改元、〉

〔古今著聞集〕

〈二釋教〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0364 當麻の寺は、〈◯中略〉天武天皇の御宇白鳳十四年に、高麗國の惠觀僧正を導師として供養をとげらる、

〔百練抄〕

〈八高倉〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0364 承安二年閏十二月、近日諸國稱改元之由、公家被誡仰、〈其號泰平(○○)元年云々〉

〔寶簡集〕

〈十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0364 僧鑁阿謹
寄進 手印〈◯鑁阿〉
 金剛峯寺鎭守天野宮八講理趣三昧并神事等用途米事〈◯中略〉
  和勝(○○)元年六月廿五日 手印〈◯鑁阿〉
     僧鑁阿
 ◯按ズルニ、高野春秋ニハ和勝元年ヲ以テ建久元年ト爲セリ、

〔法隆寺文書〕

〈九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0364 佛之時如
 迎雲(○○)元年正月廿四日、伽羅陀山寺別當法眼和尚位地藏請文、
 建久元年庚戌十二月廿一日、爲無上菩提書了、
抑地藏菩薩者、以彌陀之勅宣已爲證文、末代衆生者、地藏之請文可券契歟、仍爲後日沙汰、所書寫也、厭穢土淨刹之輩、各書取一本、琰魔廳對決之時、可證文也、但率爾之案、文體難備、志之所之、纔述旨趣、令人披見、人必可彌陀地藏空號也、
  正治元年七月六日書寫了

〔逸號年表補考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0364 天靖(○○)元年 上島氏下島氏古系圖牒、北朝嘉吉三年癸亥ナリ、〈信按、嘉吉ハ南北和議四十餘年ノ後ナリ、若クハ南朝奉仕ノ餘衆ノ私號カ、〉大日本史、嘉吉三年九月、前大納言藤原有光等、稱兵入禁中、取神璽寶劍、擁王子萬壽寺僧金藏主、〈私云、後龜山天皇ノ王子ナリ、〉據延暦寺、金藏主有光敗死、〈◯中略〉天靖ハ決メテ嘉吉三年、金藏主ヲ擁

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0365 シタル年號ナルベシ、上島下島氏ハ、當時金藏主ヲ擁シタル徒衆ナラン、

〔妙法寺記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0365 延徳元〈庚戌〉 京ニ王崩御トテ福徳(○○)二〈庚戌〉年ト年號ヲ改ル也、殊ノ外ニ大飢饉而、其年ノ内ニ米ハ七十、大豆六十、粟ハ更ニ無シ、牛馬渇死ル事大半ニ越タリ、人民飢死コト無限、

〔昆陽漫録〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0365 福徳
相州鎌倉鶴岡八幡の座不冷所〈鎌倉志云、座不冷所ハ回廊ノ東方にあり、天下安全の御祈願所にて、十二坊輪番に一晝夜づヽ佛經を談誦するゆゑ、座不冷行法と名づく、或云く、十二坊一時づヽ勤むるなり、〉の著到の軸に、福徳二年正月一日と彫りてあり、其文左のごとし、同所光明寺にも、祈祷の額の裏に、福徳の年號ありて、後土御門院の勅筆と云ふ、
 聖觀音供
 不動供
  福徳二年正月一日
我國福徳の年號なけれども、後土御門院の勅筆と云ふは、福徳の年號しばらく用ひられ、改元ありたれども、應仁兵亂の時ゆゑ、史官失して書せざるにや、

〔僞年號考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0365 按に、常陸國赤濱村妙法寺過去帳に、延徳二年庚戌の傍に書して云く、福徳元、又同三年辛亥の傍に福徳二と注せり、陸奧國河沼郡塔寺村八幡宮長帳に、文明十九年丁未の次、延徳四年壬子の前に、福徳二年辛亥とかヽげて、其下の注に、貞和二年丙戌年より福徳二年辛亥年に至て一百四十七年也とあり、依て延徳三年辛亥より送算するに、貞和二年丙戌に至て、實に百四十六年也、然れば長帳の算數一年をあやまるといへども、二年辛亥とするもの妙法寺過去帳に合する時は別に論なし、下總國平賀村本土寺過去帳に、妙本入道福徳二辛亥八月十七日とあり、新編鎌倉志に、光明寺に祈祷の二字を題せる額あり、其裏に福徳二年辛亥九月吉日とある由を記せり、これ等の跡書を合せ考れば、延徳二年庚戌に、始めて福徳の號を設けし事ありしは明也、一説

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0366 に、辛亥を福徳元とするものあり、蜷川氏所藏年代記に、延徳二庚戌の次、明應壬子の前に、福徳辛亥とかヽげたり、又本土寺過去帳にも、妙生尼福徳元辛亥二月朔日、匝嵯道高禪門福徳元辛亥九月十七日、同鏡林徳福徳元辛亥八月十八日、禪師阿日應福徳元辛亥十一月廿四日とあり、この二書辛亥を元年としたれ共、この年代記は年を追て記せしものにて、改元の年迄は前の年號に從ひ、翌年の所に改元の號をかヽげし例あれば、こヽも其類にてありけんも知られず、又過去帳も月相齟齬して、前に載たる所は庚戌元年とし、こヽに引たる所は辛亥元年に作りたれば、二説の内何れか誤なる事は論なし、さらば諸書にかなへる庚戌元年を以て是とすべし、又一説に、壬子を元年とするものあり、本土寺過去帳に、差姓入道福徳四乙卯年七月十二日とあり、乙卯は明應四年也、この乙卯より送算するに、元年壬子にあたれり、然れどもこの過去帳齟齬多く、且他書に於て元年壬子に作るものなければ、其誤たる事明なり、又思ふに、明應四年に至りて、たま〳〵福徳の號を用ゆべき事有けんに、其年迄連續して用ひざる號なれば、明應の四年をとりて福徳四乙卯と記せるものにてもあるべし、妙法寺過去帳に福徳二あり、又關東の俗諺に、僥倖を得たるを福徳の三年めと云ひ、本土寺過去帳に、妙泉福徳三十二月四日、妙正福徳四年正月六日とありて、五年以後の號をうけたるもの見へず、これを以て考れば、福徳の號四年行はれたる事明也、さらば延徳二年庚戌に始まり、明應二癸丑に止まりしと見へたり、

〔僞年號考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0366 應永中上杉禪秀の亂ありてより、關東穩ならず、旣にして京鎌倉の二將相合はざるに及で、幕府の令する所鎌倉これを奉ぜず、年號は天下の大義、然れども或はこれを拒て用る事無に至る、其甚しきに及で、俗間に僞年號と稱する者出るに至る、所謂延徳中に福徳(○○)の號なり、凡て〈◯て下恐脱五字〉年を經たり、永正中に彌勒(○○)の號あり、凡て二年を經たり、享祿中に更に彌勒の號あり、天文中に命祿(○○)の號あり、凡て三年を經たり、蓋當時兵革相つぎ、蒼生安住する事能はず、爰を以て歳

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0367 運を變ぜんが爲に、僧家漫に福徳、彌勒、命祿等の號を設けしを、頑民年號の重事なるをしらざる故に、猥に流傳せしもの也、武家の記録に是號を用ひし事なきは、士大夫以上に及ばざりし事亦以て見るべし、是號豆相等に限る、この故に今に至て、これを關東の僞年號と稱すと云、

〔逸年號考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0367 福徳元年庚戌〈常陸赤濱妙法寺過去帳〉
甲斐妙法寺記、延徳元年の下に、〈元年に係けたるは誤にて、下の福徳二とあると、互に文字の錯亂したる也、この元を二とし、下の二を元に作るべし、〉京に王崩御とて〈王崩御は足利將軍義政の薨を誤りしとみゆ〉福徳二〈庚戌〉年と年號を改る也、〈二の元なること、下文に明かなり、◯中略〉
福徳二年辛亥〈鎌倉光明寺額裏書、新編鎌倉志、鶴岡八幡宮座不冷所著到軸、赤濱妙法寺過去帳、〉
鎌倉光明寺額裏書に、後土御門院宸筆福徳二年亥九月吉日、また鎌倉鶴岡八幡座不冷所著到軸書に、福徳二年正月一日とあり、〈◯中略〉さてこの庚戌は延徳二年庚戌、辛亥は延徳三年辛亥にあたれる事、妙法寺過去帳、延徳二三年の旁書に、福徳元福徳二とあるにて明らかなり、

〔會津雜事考〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0367 承安元年辛卯
 耶麻郡新宮神器銘曰
 大勸進僧 淨尊證一
會津 地頭代 左兵衞少尉藤原知盛
 小守宮預所代右兵衞少尉平 國村
新宮 彌勒(○○)元辛卯二月二十一日
〈伏〉案、人王三十七代孝徳帝之時、始自暦號以降、終無彌勒者、且自暦號後大歳在辛卯者、四十代自天武帝朱鳥五年辛卯、迄慶安四年辛卯、凡十餘回、其中當暦元年者、六十代朱雀院承平與兹歳、徒兩回耳、然彌勒者可兹歳乎如何者、於去年庚寅、九月櫻梅桃李皆華也、量下愚之輩、相謂可彌勒出世之先兆也、幸今歳帝者改一元、故爲俗戲彌勒元年、然以神器謹、後鑑如此記乎、細於書法

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0368 味、不近世之人所爲、疑是當時當有職之人乎、然治邦國官、所謂上古有下司庄官、無地頭者、文治始頼朝自日本國中總地頭後、庄園置地頭云、未承安之頃、地頭之稱有無
  同神器曰
大勸進僧淨尊 横三郞 壬生廣末
會津新宮
 彌勒(○○)元年辛卯二月廿二日
右横三郞云者未詳、然不近世稱名、且盛衰記、此邊武士有横新大夫者、若彼宗族乎、二件事跡、雖詳、書法不近世者、故記備好事士參校云、

〔逸年號考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0368 彌勒元年〈陸奧國耶麻郡新宮神器銘〉
越後の穗積保が云、彌勒元年辛卯を以て承安元年の辛卯なるべしと云は、承安二年民間訛言して、泰平の年號を唱へたるも同じ事にて、此時平相國入道權を專らにして朝廷を蔑にし、人民背きて彌勒の出世を願ひ、或泰平の時を思ひ、民間に流言して、平氏の亡べき先兆と云て、然るべけれども、承安の頃には地頭の號なければ、此年の辛卯にては决てあるべからず、鎌倉時代の辛卯の年にして、寛喜三年の辛卯か、正暦四年の辛卯か、正平六年の辛卯ならんか定がたし、もし正平の辛卯なれば、當時天下大に亂れて、南北兩年號並行はれたる故に、かヽる異年號も出來たるならん歟と云り、されど地頭の稱は、河内國小松寺縁起、保延五年奉賀帳寄附名簿に、交野郡領家代蓮覺房、高宮郷地頭代宗時、田原郷地頭代僧道印、寺村郷地頭代蓮信、同郷下司代信教、田原郷公文代教智、鷹山郷下司代西信、甲賀郷目代定信云々とあるは、文治より四十六年前にして、承安二年より三十三年以前に係れり、〈◯下略〉

〔妙法寺記〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0368 永正四〈丁卯〉 彌勒二年〈丁卯〉

〔逸年號考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0369 彌勒二年丁卯〈下總國野田里土中所堀出尼妙心墓碑銘、近江國石山寺順禮版、甲斐妙法寺記、〉
順禮版に、甲州巨摩郡布施庄小池圖書助、西國卅三所順禮聖山旨、彌勒二年丁卯六月吉日〈此札は銅の板に彫付たるものにして、石山密藏院僧正摹搨して所賜なり、此外に明應天文年中の札若干枚ありとぞ、〉とあり、穗積保云、前條に記せる彌勒元年辛卯と、此二年丁卯と支干相違したれば、同時にてはあるべからず、文安四年の丁卯か、永祿十年の丁卯なるべし、圖書助と云名民間にはあるべからず、もしくは吉野の朝廷に仕奉し人の流浪なしたるか、又は足利の季世は天下大に亂れて、官家の人々諸國に縁を求め流客となり玉ひし事多くありければ、若くは京家の人の甲斐國に住したるならんか、永祿十年の丁卯ならば、武田家の侍の中に小池主計助〈山縣衆〉小池玄蕃など云人あり、〈甲陽軍鑑にみえたり〉此氏族の中にて隱遁したる人にもあらんか、或人云、關東邊の古刹過去帳に、彌勒の年號ありと云ふ、寺號詳ならず、追て尋糺すべし、參河萬歳の詞に、彌勒十年酉の年と云事を歌ふと聞り、これらも何ぞ據あるべし、後考を俟と云り、

〔僞年號考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0369 常陸國六段田村六地藏寺惠範が諸草心車鈔卷二の篇、是に於田野不動院玉幡之供卷と題せる願文の末に、彌勒(○○)二年二月六日とあり、永正三年十一月の願文、同五年三月の諷誦文、同四年八月の願文等を載たり、因て永正中にこの號ありしをしれり、さて永正の何年にこの號ありしと考るに、本土寺過去帳に、日富彌勒元丙寅十一月とあり、丙寅は永正三年也、さらば是年始めてこの號ありて、四年丁卯まで彌勒の號ありしと見へたり、一説に、丁卯元年に作るものあり、本土寺過去帳に、妙春彌勒元丁卯十一月とあり、自相齟齬せり、恐らくは是にあらず、こヽの元丁卯は二丁卯の誤と見えたり、鹿島の社家禰宜が家にも、彌勒の號を用ひたる神符ありし由なれど、近年燒失せしと言へり、又今の世に萬歳丸が、美祿十年辰の歳と言へる事をうたへるは、陰陽者流の説に出たる物にて、こヽの彌勒と音同じけれども、其義は同じからず、會津舊事雜考に、耶

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0370 麻郡新宮の神符の銘二ッを載す、其一に、會津新宮大勸進僧淨尊證一、地頭代左兵衞少尉荻原知成、〈◯成、本書作盛、〉小寺宮預所代右兵衞少尉平國村、彌勒元辛卯二月二十二日とあり、其二に、大勸進僧淨尊、横三郞、壬生廣末、會津新宮、彌勒元辛卯二月廿二日とありて、辛卯は享祿四年也、永正中彌勒の號ありしを、こヽに至りて更にその號を用ひしものと見ゆれど、この度は廣く行はれざりしにや、他書に於て見る所なし、

〔僞年號考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0370 蜷川氏所藏年代記に、天文九庚子の頭書に、庚子命祿(○○)元年に成、又壬寅歸天文十一年とあり、これによれば天文九年始めて命祿の號ありて、十年を命祿二年として、十一年には其號を止めしと見へたり、本土寺過去帳に、妙了命祿二正月廿一日とあり、以上の三號皆關東僞間の用ひし所にて、もと佛家より出たり、故に其號多くは佛寺の記録器財に存せり、鹿島の神符に彌勒の號ありしと云へるも、この神宮中古より兩部となりて、神宮寺以下社僧多くあれば也、塔寺村八幡長帳も社僧の記せしものなれば、福徳の號を載たり、蜷川年代記も、もと前に引證するもの皆僧家のもの也、

〔海録〕

〈十五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0370 ある人、和州にて新撰字鏡の古寫本を見たりしに、〈◯中略〉その末に、法隆寺一切經と楷書にてかきし印説ありといへり、またおなじ人の古寫經の零本を得たりしに、その奧に、
 論第一卷同學抄〈破我數論〉 〈倶生分別勝論〉
  永福(○○)〈丁酉〉七月三日於法隆寺東院花薗院書寫
                          執事 沙門 快堂
                             傳  快辨
この僞年號、いづれの頃にや未詳、その紙質字體等を見るに、鎌倉末足利比のものとも見ゆるよしなり、

〔紀伊國名所圖會〕

〈三編二伊都郡〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0371 地藏寺〈西福寺に隣る、寺内に古き石燈籠の柱基を納む、(中略)其銘眞中に光明眞言講中建立と書し、左右に大道(○○)元年七月吉日と書す、長は一尺八寸ばかり、廻は一尺七寸ばかりあり、〉
傳へいふ、大道は大同と同音の字を用ひたるにて、此石は弘法大師漢土より歸朝のとき建し所なり云々、今按るに、隣寺の石燈籠の正平の銘と較ぶるに、字體石質稍新しければ、決して千有餘年の物にあらず、此頃友人の筆記を閲するに、異年號を載たる中に、越後國蒲原郡佐所村の吏民某の先祖石井彦七に賜ひし文書に、大道二年八月二日源吉次〈草名〉とある由を載す、此碑即其前年なれば、大同にあらざる事益明なり、彼二年の文書は元弘建武の後の物といへり、是によりて按るに、兩朝御和睦の後嘉吉年間、南朝の遺民義有王を擁して兵を本國に移し比、私に建る所にして、彼天靖などいふ年號の類ならんか、猶後なるか、明證なしといへども、南朝に奉仕せし人の子孫等、前朝の微運を憤りて、當時の年號を用ふる事を快とせずして、私に建たる號なるべし、今偶北越南紀に此年號を記せる物の存する事奇といふべし、

〔古今金工便覽〕

〈下〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0371 信家〈増田明珍、出雲守紀宗介十七代、左近將監、永正、享祿、大永、弘治、天文、上州白井住、又甲州府中住、大隅守覺意入道武田晴信侯ノ諏訪法性ノ兜ヲ作ル、コノ安家ト云、後ニ晴信ノ一字ヲ賜リテ信家ト銘ス、◯中略〉
  寶壽(○○)二年〈甲午〉正月日                明珍信家〈花押〉
◯按ズルニ、甲午ハ天文三年ニ當レリ、

〔逸年號考〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0371 寶壽二年〈鍍金寶塔銘〉
寶塔銘に、奉納大乘妙典六十六部、雲州之住周慶、寶壽(○○)二年今月今日、〈この寶塔、天明二年壬寅三月十一日、信濃國佐久郡上畑村にて堀出す所なるが、同時に、天文廿年今月今日、信州住人順慶と銘ある經筒を堀出せり、其内に、陶にて三寸ばかりの甲冑を著たる人形、石帶一曲玉の類あり、〉とあるを以て考ふるに、この天文廿年を、出雲國にて寶壽二年と云る事ありしにもやあらん、

〔續雨夜友〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0371 年號改元以前紛敷年號市中賣歩行候聞書

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0372 去ル文政十三寅年十二月十六日、天保與改元有之候御觸有之候已後、右年號國中取用罷在候處、其頃年號之儀ニ付、種々風説も有之候得共、天保與申文字世界ニ應じ候哉、今辰年迄十五年相續キ、右年數之内凶年も有之候得共、天保十〈亥〉年より諸國豐熟ニ相成、殊更世上通用之金銀も保字金銀通用之儀被仰出、又は天保通寶當百錢も新規御吹立被仰付候程ニ而、天保與申年號者世界ニ應じ候哉之由、尤京都者御代被替候由取沙汰有之候故、當夏中より年號改元可之旨、市中專ラ申觸シ候得共、何之御沙汰も無之、旣ニ來ル巳年新暦も天保十六年與御免有之、新暦開板ニ而賣出し候、然ル處當辰十二月ニ相成、彌年號改元有之趣市中へ流申觸し候、右虚ニ乘じ、何者之存付ニ候哉、同月四日五日之頃、日本橋邊、傳馬町邊、其外辻々ニ而名住所不知もの兩三人宛申合、夜分無挑灯ニ而、改まつた年號が四文與申立賣致候處、市中之者何と相成候哉與買候處、改政(○○)之由爲見候ニ付、全如何之贋物僞筆ニ付、貰ひ張置候、文字さへもよみ兼候小紙ニ有之者、改政(クワイセイ)にも可之哉、迚も御觸無之内者正字ニ候共可用儀ニ無之處、太切之年號取拵もの賣歩行候と申者、不屆なる者之由風説有之候、乍然餘リ之事故歟、其節御捕ニ相成候様子も不承候、此上如何可之哉與、其頃之風評書留候處、十二月十三日弘化與改元有之旨御觸ニ而、年號彌治定致候、右御觸書出候夜も、早く承候もの之思ひ付ニ而、弘化與認申小紙、端々ニ而未ダ行屆不申場所賣候由、是以不埒成由申候を承候、

〔嘉永明治年間録〕

〈十七〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0372 慶應四年五月二十四日、奧羽ニ於テ改元ノ説、
年號延壽(○○)と改元ありしとの風聞盛なりと雖も、未だ確證を得ず、

〔清白士集〕

〈十三元號略二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0372 治象(○○) 日本〈未何主、癸辛雜識謂、楊和王墳菴中藏日本僧度牒、有此號、〉
◯按ズルニ、治象ノ次ニ治承ヲ擧ゲ、日本高倉院天皇ト註シタレドモ、我國ニ治象ノ年號アルヲ聞カザレバ、治象ハ治承ノ誤ニシテ同號ナルベシ、

〔清白士集〕

〈十三元號略二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0373 永鎭(○○) 日本〈未何主、明正徳七年、日本入貢、南京禮部司務陳瑞甫問其年號、乃是永鎭八年、其改元當弘治十八年、〉
◯按ズルニ、明ノ弘治十八年ハ、我ガ永正二年ニ當レリ、

〔清白士集〕

〈十三元號略二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0373 永保 永久 永萬 永然(○○) 日本〈四號、未何主當宋何代、〉
◯按ズルニ、永保ハ白河天皇ノ時ノ年號、永久ハ鳥羽天皇ノ時ノ年號、永萬ハ二條天皇ノ時ノ年號、唯永然ノ號ノミ、我國嘗テ聞カザル所ナリ、


Last-modified: 2019-03-15 (金) 09:48:59 (390d)